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カソリックの方に質問

1 :名無しさん@1周年:2001/01/28(日) 13:21
私は最近、カソリックに興味を持ってミサに参加したり教義を勉強して
きました。その中でいくつか疑問に思ったことがあるので質問に解答し
て頂ければ幸いです。

(1)神の元では平等のはずなのになぜヒエラルキーが教徒の間で存在
するのか?

(2)Massには何の意味があるのか?私にはあれがキリストの血肉とは
思えない。

(3)何故賛美歌を歌うのか?私にしてみれば歌を歌う暇があったら
ボランティアにでも勤しんだ方が有効な時間の使い方だと思うのですが。

(4)どうして聖書を神の言葉だと信じられるのか?聖書の中には神に
反した行為を行っていたとの理由で街が焼き払われたり大虐殺が行われ
ていますが、神に反したという理由でこのような行為も正当化されるの
でしょうか?

(5)どうしてConfessすれば罪が許されるのか?犯した罪は一生消え
ることはないと思うのですが?

以上です。

2 :無神論者:2001/01/28(日) 13:27
(1)〜(5)の様な疑問が浮かんだのであれば

カトリックは貴方向きの宗教ではありません

共産主義なんかが向いてると思います

3 :名無しさん:2001/01/28(日) 16:11
どこでも調べられるような基本的な内容だ。。。。
向いてないよ。きっと(笑)。
プロテスタントのほうが向いてるかも

4 :1:2001/01/28(日) 16:53
はぁ、自分でもプロテスタントの方が向いていると自覚しています。
でもどのような脳構造・精神構造の持ち主であれば1でしたような
疑問が解消できるのかが疑問なんですよねー。

5 :名無しさん@1周年:2001/01/28(日) 17:32
簡単に言えば、カトリックの人は盲信者、馬鹿ということだ。

6 :名無しさん@1周年:2001/01/28(日) 18:10
1&5<
若いお方でしょうか?
まだまだ、人間性の構造をご存じないようだ。
私カトリック歴20年。

7 :2:2001/01/28(日) 19:47
失礼しました

絶対的正義を認めない方は共産主義も向いてないですね>1

宗教に合う合わないは、体質ですな



8 :帽子をかぶった通行人:2001/01/28(日) 19:51
カソリック信徒ではありませんが、参考意見として

(1)について
 父なる神の前に、人類はいわば兄弟姉妹であります。
そこでは、兄は兄、弟は弟としての立場があり、同じものではありません。
ポジションが違ったとしても、兄も弟も、父から愛されているのであり、
そこには優劣はありません。和気藹々と一家団欒をなすことができるのです。
弟が長じるにつれ、時には、弟が兄のように、兄が弟のようになす一幕も
あるかも知れません。全ては愛を中心として、一つなのです。
 また、人間の体に例える人もいます。頭は頭の役割をし、手は手、足は足の
役割をしても、一人の人間として調和した行動をとるのです。不平はありません。
教会において、いくつかの役職やヒエラルキーがあるのは
組織論からみても当然のことでしょう。
 問題なのは、その教会が愛を中心とした兄弟姉妹のごとき交わりを
もっているかです。家庭のような暖かき教会・・・開拓時代はそうでも、人数が
多くなり大きな教会ともなれば、責任者は運営のいろいろに忙しくなり、初期の
ころの雰囲気は失われてくるかもしれません。しかし、それを批判するのではなく
むしろ気づいた者が主の良き手足となって、家庭のような暖かき教会を作り上げて
いきたいものです。教会は信徒全体のものなのですから。

9 :1:2001/01/29(月) 04:31
>7
はぁ、体質ですか…

>8
主旨はわかりますが、ならばどうして建前的な階級を残していくのでしょうか?
いずれかの段階において必要無くなるのであれば初めから必要ないのでは?

>6
たしかに私は二十代後半の若造ですが、どのように人間構造を私が把握していない
のか、またあなたはどのように把握していらっしゃるのか具体的に説明してくださ
ると良いのですが…

10 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 10:52
カトリックは、西洋・アメリカ大陸では制度宗教だが、
日本では新興宗教のようなものだからなぁ・・・。

カトリックはシンボルとミステリウムが特徴なので・・・、
もちろん、ご質問への答えはあると思いますけどもね。

私の印象では、感性より理性重視なら、プロテスタント。
理性よりも感性重視ならカトリックってとこですな。

2chですから、あまりちゃんと答える方がいないかも。
もし真剣に解答を求めるなら
他の普通のサイトの掲示板で
質問したほうが効果的ではないでしょうか。

11 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 11:06
(4)を除いて、どれもカトリックの本質にかかわる問題点。
つーことは、ミサに出たり教義を勉強したって言っているが、
結局なにも理解できなかったって、いうことだから、
プロテスタントに行ったほうがいいかも。
ただ(4)はカトリック・プロテスタント問わず、キリスト教の
根幹に関わる問題点だから、(4)にこだわる限り、キリスト教を
受け入れられないだろ。仏教のほうがいいかも。まあ、どの宗教も(
4)みたいな問題点は多かれ少なかれあるから、そうなると
宗教はダメかもな。ただ無神論もいい加減なことをしているから、
無神論もダメかもな。

12 ::2001/01/29(月) 11:11
1.10<
そうですね。こうしたまともな質問は、
http://www.ignatius.gr.jp/cgi/resbbs4.cgi
ここあたりが、真面目に答えてくれるでしょう。
2ちゃんじゃ無理です。老婆心ながら。

13 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 11:24
いやいや、カトリックの諸兄が、1さんの素朴ながらも真理を突いた質問に
真摯に向き合い、自らを誤魔化すことなく、信仰のあり方について見直す
ことがなければ、それこそ大損害だと思います。たとえ、2ちゃんでの
議論だとしてもね。1さんの質問は、皆さんへの問いかけでもある。神様
からじきじきのね。

ちなみに、私はプロテスタントではありません。

14 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 16:16
 なんでカソリック教徒は偶像礼拝を禁じているのに、マリア像を拝むんだ?
石に頭下げてどうする。しかもなんでマリアを拝むんだ?マリアって神様?

15 :1:2001/01/29(月) 16:27
>ALL
みなさまマジレスありがとうございます。実はカソリックを勉強&信仰しようと
思った理由は、以前に原始仏教を勉強していてそのあまりにも現代の生活にそぐ
わない&厭世的な世界観が自分で受け入れられなかったからなのですが、どうも
キリスト教も1の疑問がどうしても頭に沸いてしまい信仰に踏み切れないでいま
す。

しかし神の存在を信じる以上、仏教は信仰できないし、イスラムやユダヤでは
受け入れられない教義がキリスト教よりも多い。やはり私のような批判精神を
捨てられない者には信仰という事は受け入れられないものなのでしょうか?

16 ::2001/01/29(月) 17:05
>1
そういう疑問を持った人も受け入れてるのがカトリックです。
これはけっして、カトリックの宣伝ではありません。
多様のなかの一致がカトリックのおもしろいところですよ。

17 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 17:09
(1)から(5)の1さんの疑問を見ていると、私も1さんはプロテスタントの方が向いていると思いますよ。神様を信じれることが信仰です。教義をたくさん知ることが信仰ではありません。1さんは大丈夫だと思いますよ。


18 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 17:11
まるで勧誘スレ

19 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 17:18
>18
信徒の自作自演。

20 :名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 17:32
カトの聖職者について勉強しても納得できないのだから、
1さんはプロにいったほうがいいかもね。
まあはっきり言って、あまり考えないようなひとがカトには向いている。

21 :名無しさん:2001/01/29(月) 19:08
>なんでカソリック教徒は偶像礼拝を禁じているのに、マリア像を拝むんだ?
>石に頭下げてどうする。しかもなんでマリアを拝むんだ?
誰が拝んでるの?拝んでないよ。イメージでもの語るのやめれ。
拝むときは「十字架崇敬」の聖金曜日、年一回。ま、そんなこといっても
わかんにゃいだろーけど。
>マリアって神様?
そんなの質問する方がおかしいんじゃないの。マリア様が神様なら「キリスト教」
じゃなくて「マリア教」になってるよ。ヴァカめ。

22 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 12:36
マリア教ともいえないんでないかな?
この前テレビで「巡礼」に関するNHKの特番があったけど、
南米の巡礼者達が2〜3週間かけて巡礼の旅を続けて、最後の地に待っていたのは
「聖母マリア」の「絵」だった。巡礼者はその絵に祈りを捧げ、そして泣いていた。
そこにはイエスは描かれていなかった。
 巡礼に参加できない町のところに代わりにやってきったのは、マリア像をかかげた「おみこし」だった。

またローマのカソリック修道院では、礼拝に来ていた信者達が「ペテロ像」の「足」にキスをしていた。

 旧教は地中海の女神信仰を習慣を無理矢理取り入れている感があるのだが、どうか?


23 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 12:57
>>22
その見解は正しい。

24 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 13:12
フランスの地中海に面した村にSaintes Maries de la Mere
(サントマリードラメール)という町があって、一度訪れたことが
ありました。そこには窓がない古い教会があって、そこに祀られてい
るのは黒人のマリア像。なんでも、聖母マリアとマグダラのマリア
と、もう一人の黒人のマリアの三人が舟で流れ着いたのがその町だ
という伝説が残っているのだそうです。

同じ旅行でルルドも見て回ったけど、病人が泉の水を求めて行列を
作る光景は、ちょうど日本の霊場というオカルト色の濃いものでし
た。

私はあまり否定的には見ないのだけど。宗教の原風景とは、こういう
神秘色が濃いものでしょう?むやみに迷信的なものを否定するのが
進歩か、というと、そうではないように思える。山の頂上を高くする
のは大切だけど、裾野も広い方がいいよ。

25 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 13:14
フランスの地中海に面した地方にSaintes Maries de la Mere
(サントマリードラメール)という町があって、一度訪れたことが
ありました。そこには窓がない古い教会があって、そこに祀られてい
るのは黒人のマリア像。なんでも、聖母マリアとマグダラのマリア
と、もう一人の黒人のマリアの三人が舟で流れ着いたのがその町だ
という伝説が残っているのだそうです。

同じ旅行でルルドも見て回ったけど、病人が泉の水を求めて行列を
作る光景は、ちょうど日本の霊場というオカルト色の濃いものでし
た。

私はあまり否定的には見ないのだけど。宗教の原風景とは、こういう
神秘色が濃いものでしょう?むやみに迷信的なものを否定するのが
進歩か、というと、そうではないように思える。山の頂上を高くする
のは大切だけど、裾野も広い方がいいよ。

26 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 13:16
フランスの地中海に面した地方にSaintes Maries de la Mere
(サントマリードラメール)という町があって、一度訪れたことが
ありました。そこには窓がない古い教会があって、そこに祀られてい
るのは黒人のマリア像。なんでも、聖母マリアとマグダラのマリア
と、もう一人の黒人のマリアの三人が舟で流れ着いたのがその町だ
という伝説が残っているのだそうです。

同じ旅行でルルドも見て回ったけど、病人が泉の水を求めて行列を
作る光景は、ちょうど日本の霊場というオカルト色の濃いものでし
た。

私はあまり否定的には見ないのだけど。宗教の原風景とは、こういう
神秘色が濃いものでしょう?むやみに迷信的なものを否定するのが
進歩か、というと、そうではないように思える。何でも一長一短で
しょう。

27 :24:2001/01/30(火) 13:28
がび〜ん。3重カキコになってる〜。なんで〜?

28 :22:2001/01/30(火) 14:09
「迷信的」を否定しているのではなく
「矛盾」に対して疑問を投げかけているんです。否定ではありません。
そういうスレなので。  

29 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 15:49
どんな宗教でも拡張してゆく場合、原住民の宗教や世界観をとりこんで
ゆくものだよ。旧約聖書の世界だって、原住民の宗教は価値観をとりこんで
できあがってる。ヘブライ語だって原住民の言葉だったわけだし、ヤハウェ
だって、もとはヘブライ人の神ではなかった。そんな例はごまんとあるさ。
マリア程度で躓くようでは、宗教に足を突っ込まないほうがいいと思うね。
すべての「矛盾」が解消できなければ受けつけられないというなら、聖書
など読まないほうがいいかも。

30 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 17:36
29<
そう、一歩離れて、宗教の教義を文化史的にみるのも大切だよね。
なんでマリア信仰が生まれたかと言うことを。
頭冷やして考えようね。
おかしい、おかしいというだけじゃ、なにもわかりゃしないさ。

31 :名無しさん@1周年:2001/01/30(火) 18:15
横レスになって悪いんだけど、29さんは、遠まわしに「私は聖書
の言うことを一から百まで信じるようなおめでたい人間ではない」
あるいは「聖書の中で、自分の気にいる部分だけ抜き出して、それ
を信じればよい」と言っておられるようにお見受けします。

極論すれば、あなたは「キリストの教えに全人生を賭けるような、
どっぷりの信仰はやるつもりはない」という風にも見えます。
矛盾をひとつ許すなら、どこからどこまでが矛盾か、という問題が
生じてしまい、最後には何ひとつ信じることができなくなってしまう。

あなたが信じる聖書の土台って何ですか?教皇の見解?あなたの
教区の神父さんの見解?現代聖書学による「史的イエス像」?

32 :ぜひ、救霊を受けて下さい。:2001/01/30(火) 18:57
ぜひ、ぜひ、救霊を受けて下さい。救霊を受けて下さい。

33 :22:2001/01/30(火) 20:10
 いやね、文化史的な話はひっかからないの。
そりゃ調べて勉強すりゃわかるだろうし。それにいたる背景があるのもわかるの。
 でもその矛盾を信者の方はどう解釈しているのかが知りたかっただけ。
21の発言が不思議に思ったのね。だってマリア信仰があるのに、マリアは神でないっていうし。
信仰の対象は「神」だけではないのかな?どう考えているのかな信者の方は?・・・という疑問。
 文化史的な事はどうでもいいの。

34 :29>31:2001/01/30(火) 21:09
おたくカトリック?カトリックでは『神の啓示に関する教義憲章』で聖書解釈の方法
について次のように書かれてある。

“神は、聖書においては、人間を使って人間の様式に従って語ったのであるから(略)
聖書作者の意図を明らかにするには、中でも「文学類型」を考慮しなければならない”

つまりカトリックも、聖書に書かれてあることには、その時代時代の「人間の様式」が
使われていることを認めている。だから当然聖書には表現上「矛盾」があることを
認めている。(「文学類型」については、様式史的研究方法についての解説でも
読んでくれ)

なんだか「神の言葉」を単純に理解しているみたいだけど、聖書における「神の言葉」は
もっと複雑なものだよ。どーでもいいけど、カール=バルトでも勉強してみてくれ。
カトリックでもバルトは高く評価されているのだよ。


35 :30:2001/01/30(火) 21:44
22.33<
>だってマリア信仰があるのに、マリアは神でないっていうし
うん。僕はカトリック長いんだけど、カトリックは、祈る対象が、神だけに限らないんだな。
キリスト教が、イエスを通して神に祈るように、マリアを通してキリストに、そして神に祈るって感じかな。
使徒信条に、「聖徒の交わり」ということばが出てくるんだけど、その聖徒には、マリア・聖人・死者・生者全部が、祈りを通して交流できるって信じているわけ。
それを偶像崇拝っていうふうには、考えていないんだな、僕らは。
よくお葬式とかで、宗派に関係なく、「〜さん!」て死んだ人に向かって呼びかけているでしょ。あれなんか、カトリック的な感じするね。呼びかけはそれ自体で祈り
だもの。それをいちいち偶像崇拝とは言わないでしょ。その辺を理解してもらえないかな?

PS:でも2チャンでこんなふうに真摯に応答できるスレはうれしいです




36 :22:2001/01/30(火) 22:48
なるほど。
なんか少し理解できました。
ありがとうございました。

37 :S-P:2001/01/31(水) 03:08
>22,33,35
 マリアをはじめとする諸聖人や十字架、彫像等に対しては、崇敬(プロスキュネーシス)はしても崇拝(ラィトレイア)はしない。
これは、東方教会とも結局一致した、古典教会の一般的態度です(但し、東方では彫像は用いず聖画像=イコンを用いる)。
 あと、カトリックだと、聖人崇敬及びとりなしの祈りについては、諸聖人の通功という膨大な議論があるので、そちらをよろしければ参照下さい。


38 :37:2001/01/31(水) 03:09
>カトリックでもバルトは高く評価されているのだよ。



39 :37:2001/01/31(水) 03:11
 38はミスりました。
>カトリックでもバルトは高く評価されているのだよ。
 そうそう、某教皇が、彼を高く評価して、バルトの反応。
「それを聞いたときもう少しで教皇無謬説を信じるところだったよ!」



40 :名無しさん@1周年:2001/01/31(水) 13:16
キリスト教では愚像崇拝が禁止されているそうですが
教会に行くとマリア像やキリスト像があります。
偶像ではないのでしょうか。
血を流すマリア像の話も聞いたことがあるのですが。

41 :31:2001/01/31(水) 13:39
>>34

レスをどうもです。私は洗礼を受けていませんが、聖書を愛読する者です。
私も聖書の一言一句を「神の言葉」だとは考えていません。また、現代
聖書学によるテキスト批判を支持する者です。

ただ、どの部分を「人間の様式」と捉えるかは、生身の人間が決めること
ですから、誤謬もあることでしょう。それをドグマとして権威付けるのは
如何かと考えます。また、実際問題として、魂の救済の約束事(天国が
あること、イエスにより贖罪を受けること)については全面的に信じる
のに、イエスが福音書で述べている「倫理規定」については、半分無視する
というように、とかく都合のよい解釈に陥りがちではないでしょうか。

私は「バチカンの嵐」という映画を見たことがあります。その中で、ある
神父さんは、ナチスの非道をバチカンに訴えたにも関わらず、保身のために
それを黙殺するバチカンのえらいさんに業を煮やし、最後はナチスに処刑
される人の身代わりになって、ひとり銃殺を受けます。

イエスの言葉に忠実であったのは、その神父さんであったと思います。
バチカンの態度はイエスに反する行為だった。それを正当化するために、
ご都合主義の「人間の様式」解釈が濫用されているのではないでしょう
か?

個人が好き勝手に聖書を、エゴまるだしで解釈するのは困りものですが、
それを「団体のエゴ」に置き換えても問題は解決しない。いや、むしろ
害があるように思えてなりません。


42 :名無しさん@1周年:2001/01/31(水) 15:28
神を信じて、信徒として生活すること20年もすると、
神の気持ちが分かる、キリストの気持ちが分かるときが来る。
そのときまで、信じ続けること。それが大事だ。

43 :御心:2001/02/01(木) 01:04
このスレの発起人さん、頭ごなしにやろうとするならどんな信仰も信じられないよ。
理屈が合うことは大事だと思うけど何か質問の意味がカトリックやらプロテスタントやら関係ないみたい。
原理的に物事を考えられないなら神秘性を大切にする信仰に習ってみたらどうかな。
上座仏教が狭くて暗いって言うなら広くて明るいものを探したらどう?
伝統が好きなの?哲学が好きなの?よく自分で考えてみて。

44 :名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 07:06
>>43
はあ、そうなんですか。
質問スレがあったので
キリスト教と愚像崇拝について尋ねたのですが
解かる人がいらっしゃらないようでガッカリしました。


45 :名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 12:52
私(誰かわからない?)でよければ、お答えしますよ。ご存じのように、キリスト教は目に見えない創造主を崇めていますので、それ以外は崇める対象ではありません。

キリスト像やマリア像があるのはカトリックですね。プロテスタントは、これを偶像ではないかと批判しています。私はプロテスタントですが、カトリックの人の話を見たり、聞いたりしていると、キリスト像やマリア像自体を信仰の対象にしているのではなく、いつもイエスキリストやマリアを思うための道具として考えているようですね。これは、長い歴史から生まれた結果のようです。つまり、「目に見えるもの」がないと信仰が弱くなるというか、そういう人間の弱さをカバーするための道具みたいですね。

もっとも、聖書に沿って考えれば、信仰の対象は創造主のみで、イエスキリストがその仲保者です。つまり、イエスキリストを通した創造主への信仰が聖書の教えです。これに、議論の余地はありません。しかし、カトリックは長い歴史から来る伝統を捨てられないのだと思います。ちょうど、日本人が日本の伝統を捨てないのと同じようなものだと思いますよ。

46 :名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 13:17
>45

偶像って、結局、神以外の物すべてでしょう?まかり間違えれば、
教皇も教会も聖書も、すべて偶像になりうるわけだ。

マリア像を偶像崇拝する人のことは、皆よってたかって嘲笑する
けど、教皇や教会や聖書を偶像崇拝する連中のことを忘れてや
しないかい?

47 :45:2001/02/01(木) 16:49
いいこと言いますね。賛成です。

48 :名無しさん@ICF:2001/02/01(木) 19:30
キリスト教では愚像崇拝が禁止されているそうですが
教会に行くとマリア像やキリスト像があります。
偶像ではないのでしょうか。
血を流すマリア像の話も聞いたことがあるのですが

49 :名無しさん@ICF:2001/02/01(木) 19:34
<<46 間違いです。

>キリスト教では愚像崇拝が禁止されているそうですが
>教会に行くとマリア像やキリスト像があります。
>偶像ではないのでしょうか。
像は偶像といえますが、それと偶像崇拝のつながりがわかりません。
どうして像があれば偶像崇拝なんですか?拝んでなくても?
プロテスタントにも十字架があることが多いけど@`あれは偶像ではないの?

>血を流すマリア像の話も聞いたことがあるのですが
それは認められていない話ですね.

50 :44:2001/02/01(木) 20:14
>>45
丁寧なレスありがとうございます。
偶像崇拝についてはプロテスタントの方がより厳格なのでしょうか。
わかりやすい説明ありがとうございました。


51 :44:2001/02/01(木) 20:22
>>49
キリスト像が置いてあっても拝んだりしないのですか。
45さんがおっしゃるように道具としての意識が強いのでしょうか。
キリスト像があってもそこに魂が宿っているという感覚は
ないのですか。

>血を流すマリア像の話も聞いたことがあるのですが
>それは認められていない話ですね.
とはどういうことですか。
時々話題を耳にするのですが。


52 :名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 21:45
>キリスト像があってもそこに魂が宿っているという感覚は

天に登ったお人の魂がどうして刻んだ像にあるのですか。誰もそんなことは考えませんよ。

53 :名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 21:58
カトリックとプロテスタントとギリシア正教の
違いについて教えてください

54 :いちご姫:2001/02/02(金) 02:04
>53
 教会史的には、古代教会の中で、ニカェア・コンスタンティノープル、カルケドン両信条を含め、7回の古代全地公会議を(基本的に)承認したのが、カトリックとオーソドクスの源(古カトリックなどともいわれる)。
距離の遠さや、教理、慣習、政治的背景とうから仲が悪くなったローマ総大主教座(ローマ側ではすでに現在の意味での教皇位も主張していた)とその他の東方四総主教座とが、分裂。前者がローマ・カトリック、後者がイースタン・オーソドクス、グリーク・オーソドクスなどと呼ばれるようになる。
後に、ブルジョワ層の地位向上、国民主義、絶対王権の登場などで、伝承を重んじるローマ・カトリックに対して聖書への復帰を唱える<異端的>勢力が弾圧により消滅しなくなり、プロテスタント諸教会として成立(ルター派、カルヴァン派、フス派、アングリカン等)。
その後も、プロテスタントは分裂を繰り返して現在に至る。

 教理上は、カトリックとオーソドクスは近い。相違は、教皇の至上権を認める(カ)か否(オ)か。ニカェア・コンスタンティノープル信条で、聖霊は父と子から出る(カ)か父からでる(オ)か。聖餐に種無しパンをつかう(カ)か発酵パンを使う(オ)か。聖餐の際、一般信徒はパンのみ(カ)かパンとぶどう酒(オ)か。原罪を認め性交渉によるその伝達を信じる(カ)か信じない(オ)か。
聖母の無原罪の宿りを信じる(カ)か信じない(オ)など。但し、聖体拝領上の慣習などは、カトリックは地域的特性や特定の方法を認めている場合も多い。
カトリック・オーソドクスとプロテスタントでは、教会伝承に重要性を認めるか認めない(=聖書主義)(プ)か。聖職者の特殊な聖性を認めるか万人祭司説をとる(プ)か。従って司(主)教、司祭、助祭の三階級が存在する(カ・プ・ア)か否か(ア以外のプロテスタント)。

 礼拝形式は、各国語もしくはラティン語による2部形式のミサ(カ)、各国語による3部形式の聖体礼儀(オ)、さまざまな(原則として各国語の)礼拝(プロテスタント)。
一部のプロテスタントは聖餐式を毎日曜日には行わない。
 オは、礼拝の際起立し、楽器を用いない。などです。



55 :名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 05:37
>「目に見えるもの(マリア像)」がないと信仰が弱くなるというか、
>そういう人間の弱さをカバーするための道具みたいですね。

これは誤解です。

 1980年代にラテンアメリカ各地を数カ月かけて歩いた経験からですが、彫刻や絵画でイエスやマリアを表現して寺院に飾るのは、文盲で字が読めず聖書が理解できない人たちに神の愛や優しさを教える効果が相当にあるようです。何百年か前にその教会を建てた人の社会的弱者に対する愛と救済への熱意を感じました。
 少なくとも偶像崇拝でないことは確かです。なぜなら、その絵が描かれている布なり紙なり木材が「神だ」などと思っている人は誰もいませんから。

ところでこの>>45の人、いかにも最もらしい言い方をしていますが、

>聖書に沿って考えれば、信仰の対象は創造主のみで、イエスキリストがその仲保者です。

つまり「イエスキリストは信仰の対象ではない」と言ってますが、これはキリスト教の基本的な考えとは異なります。やさしく聞き流してあげて下さい。

56 :45:2001/02/02(金) 08:49
45です。

>つまり「イエスキリストは信仰の対象ではない」と言ってます

いつのまにか、勝手に私の書き込みを変えていますね。これが、カトリックの末端信者の方の反応の仕方ですか?

もちろん、イエスキリストを信仰していますが、イエス様自身は創造主を崇めなさいと言われましたが、決してご自分を信仰しろと一度も言われたことはありません。聖書をご確認下さい。それと、「イエスキリストのみ」が仲保者という記述はテモテへの第1の手紙2:5に「はっきり」と書かれています。さらに、マリアさんの神様へのとりなしということは全く聖書には出てきません。

さらに、黙示録22:9に御使いの足元にヨハネがひれ伏そうとすると、御使いはこう言われました、

「そのようなことをしてはいけない。私はあなたやあなたの兄弟である予言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ、神だけを拝しなさい。」

私は聖書に忠実に書いただけですが。神父のいうことを鵜呑みせず、少しは聖書を読まれたらどうですか?



57 :45:2001/02/02(金) 09:04
さらに言うと、なぜ「イエスキリストのみ」が仲保者かというと、十字架でのイエスキリストの処刑により、すべての人の罪の購いがなされたことによって、我々が神の身元に行くことができるからです。これは、カトリックでも同じ教えだと思いましたが。

58 :名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 11:11
> 45
> 聖書に沿って考えれば、信仰の対象は創造主のみで、
> イエスキリストはその仲保者です。

> 56
> もちろん、(私は)イエスキリストを信仰していますが

あんたの方が矛盾してるよ(藁)

59 :名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 11:37
http://horny.about2cum.com/Nunles/pix5.html

60 :名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 11:38
おいおい、アンタ等『偶像崇拝』をちゃんと辞書引いて調べてみろよ。
一般人にはアンタ達の言ってるのは全部それにあてはまってるぜ…
バカらしい(;´Д`)

61 :名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 12:21
>バカらしい(;´Д`)

カトリックの悪口言ってるヤツって
答えに困ると、この一言しかないもんなぁ

バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)
バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)バカらしい(;´Д`)

62 :45:2001/02/02(金) 12:24
>58さん

藁。

それじゃ、細かく説明します。信仰というのは、英語で言えばfaithですよね。この言葉は神様に対するものだけでなく、配偶者や上司や上官にも使える言葉です。これを「信仰」と書いてしまうと、今のように誤解が生まれたんだと思います。

つまり、イエスキリストへの私のfaithは、神の一人子、すべてのクリスチャンの長、そして、崇高な祭司という意味合いで、また創造主への私のfaithは、絶対神への畏敬といえばいいでしょうか。

もちろん、神、イエスキリスト、聖霊が一体であるという三位一体は、受け入れていますが、思いというか、精神がつながっているということではないかと思っています。イエス様ご自身は、創造主のことを父と聖書では言っておられますから。

63 :49:2001/02/02(金) 19:26
>キリスト像が置いてあっても拝んだりしないのですか。
>45さんがおっしゃるように道具としての意識が強いのでしょうか。
そうです。像を利用して祈ったりすることはありますが、像自体が
「霊験あらたか」なわけではないです。
>キリスト像があってもそこに魂が宿っているという感覚はないのですか。
ありませんね。

>>>血を流すマリア像の話も聞いたことがあるのですが
>>それは認められていない話ですね.
>とはどういうことですか。
>時々話題を耳にするのですが
「秋田のマリア像」の話をおっしゃっていると理解しま
したが、違うかも知れませんね。カトリックでは数々の
「奇跡」を認めていますが、「秋田のマリア像」の話は
バチカンでは「奇跡」とは認めていない、ということです。
違うのかな?

64 :名無しさん@1周年:2001/02/03(土) 02:07
エチオピア正教について教えてください

65 :名無しさん@1周年:2001/02/03(土) 02:35
>カトリックの悪口言ってるヤツって
>答えに困ると、この一言しかないもんなぁ

でも聞いてることには絶対答えないよな、そうやって誤魔化してさ(藁
バカらしい(;´Д`)


66 :名無しさん@1周年:2001/02/03(土) 08:36
>>56 >>57 >>62

バカらしい(;´Д`)

67 :名無しさん@1周年:2001/02/03(土) 17:27
>>63
レスありがとうございます。
像自体が霊験あらたかと思っているわけではないのですが
わたしは無意識に手を合わせてしまうだろうな。
なるほど。キリスト教では魂が宿っていないので
拝まないんですね。

血を流すマリア像が日本にあるのは知りませんでした。
海外の話で何箇所かあるみたいですね。
「奇跡」として認められているところもあるのでしょうか。

68 :名無しさん@1周年:2001/02/03(土) 21:11
2chにはカトリックでタチの悪いのがいるからな
他人の揚げ足を取って恥かかせるのがうまいからな
福音派と反福音派の論争ではいつも漁夫の利だからな
でも聖書の教える"愛"とは無縁だよな

69 :いちご姫:2001/02/04(日) 01:27
>60
 辞書の「偶像崇拝」に仮に妥当しようと、クリスティアンにとって議論上は問題ないのしょう。、<神が命じた<<偶像崇拝の禁止>>における<<偶像>>はしかじかを指す>、とそれぞれの教派で考えているのですから。
単に、世における辞書は神の用いられた言葉からはずれがある、ときり返されて終わり。

70 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 03:10
神を愛すると愛がわかる。世の命を捨てること、しかし対象を持つこと。
それは命の源である神に対するもの、それから現実にかかわり合える「人」へ。
これが、宗教の根本。多分間違いない!!

71 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 10:31
>69
つまり、カトリックはカルト集団だということですか?
常識が通用しないっていってるんでしょ?
バカらしい(;´Д`)

72 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 11:48
カトリックのような既成の伝統宗教を
「カルト集団」とは(^^;;;
自分の頭のほうが「カルト」なんじゃないか?
大丈夫か?

73 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 12:10
既成だろうが伝統だろうが常識を認めんというのならカルトだろって
いってるだけだが、>>69読んだ?


74 :ラーメン大好き@名無しさん:2001/02/04(日) 13:09
ちょっとスレ違いかもしれないんですけど、進化論と聖書の矛盾って
自分が思うに神様のやさしさみたいなものとおもっていいんじゃないでしょうか? 2000前
の人に進化論といても混乱するだけだと思うんです。うそも方便って言うじゃないですか(笑)


75 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 16:49
「われわれカトリックは常識を認めませーん」

そんなこと、いつ誰がどこで言ったの?
>73

76 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 17:23
>72@`75
73は辞書の定義が常識だのなんだの言ってる時点で
アブない人にしか見えないですね・・・。
そっとしておいてあげてください。

77 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 17:35
カトリックではマリアを崇拝していないのだから、たとえマリアが
偶像であろうがなかろうが、偶像崇拝は問題とはならない。
宗教は内面の問題だから、外からみて偶像崇拝だとか、どうのこうの
言うのは、大きなお世話。マリアを崇拝しているなんて、馬鹿なこと
言っていると、頭の程度疑われるね。

78 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 19:06
常識について言及する事が『アブない人』にしか見えないというアンタも
かなりやばげに思えるのだが?
それと誰が
>「われわれカトリックは常識を認めませーん」
こんなこと書いたんだ?だからちゃんと読めよ…ったく
どうしてか知らんが、カトリックと名のつくスレッドは必ず自我自賛のスレ
ばかりで少しでも批判が入ると批判自体を罵倒する形で馴れ合うのは
何故なんだ?討論してるスレッドはいつも疑問を投げかけられたまま下に
下がっていくしさ……


79 :名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 19:58
78さん。議論のすり替えが非常に上手ですね。

>>73「既成だろうが伝統だろうが常識を認めんというのならカルトだろ」

とアホなことを言う人がいるので、カトリック側の方が>>75
「カトリックは常識を認めないなどとカトリックの誰が言いましたか」
と質問したのですが、答えがないということです。
カトリック側の誰も、そんな発言をしてないので当然のことですが・・・。

> だからちゃんと読めよ…ったく

そのまま言葉をお返しします。

80 :いちご姫:2001/02/04(日) 23:17
>73 名前:名無しさん@1周年投稿日:2001/02/04(日) 12:10
既成だろうが伝統だろうが常識を認めんというのならカルトだろって

 「常識を認めないものは全てカルトである」という定義が正しいなら、キリスト教国でない日本では、キリスト教は当然カルト。従ってカトリックも当然カルト。同様に、イスラム圏でもないから、ムスリムもカルト。ついでに戦闘的(積極的)無神論者もカルト。
江戸時代には、平等論者も主権在民論者もカルト。・・・・

 でも、<偶像崇拝>についてなら、単語を入れ替えてしまえば問題解決です。例えば「xはこれを禁じる。xとは、神の彫像でなく、キリストの彫像でもなく、・・・・なる、彫像を・・・・なる意図のもとに、尊敬の念を示すのではなく、しかじかの心理状態において拝むこと」など。
そのほうが、翻訳誤差の問題が大幅に解消されて、むしろ良いかもしれない。


81 :いちご姫:2001/02/04(日) 23:21
>77 カトリックではマリアを崇拝していないのだから、たとえマリアが
偶像であろうがなかろうが、偶像崇拝は問題とはならない。

 <崇敬>という別な語が当てられていたとしても、実質的に<崇拝>ではないか、という批判はあり得、その批判の正しさを前提にマリア崇敬を偶像崇拝だ、と批判する路は可能だ、と思うのですが。


82 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 00:08
僕は生まれたときからカトリックで、他教や他宗派のことは良く知りません。
イエス・マリア像の前で祈るのはイエス・マリアを通して神に祈るものとばか
り思ってたけど、違うのかなぁ。

83 :いちご姫:2001/02/05(月) 00:38
>82
<マリアを通して神を>はともかく、<イエスを通して神を>はマズイでしょ。
イエズスさまが神様でなくなってしまいます。
「イエズスの像を通して、イエズスさまに祈る」
「イエズスさまの御名(栄光)を通して神に祈る」
「マリアさまを通してイエズス/神様に祈る」
等々、でしょう。

84 :82:2001/02/05(月) 00:50
>>83 いちご姫さん

んー、イエス=神としていいものですかねぇ。ちょっと疑問です。
すんません、もうちょっと勉強してから書き込みます。
あまり敬虔な信者ではないもので・・・。

85 :78:2001/02/05(月) 00:59
だからさ、>>69読めって。
これに反対意見が出なかったから、
辞書にも載っているような事→世間の常識
という理解でカルトですか?と問うたんだよ。
上の定義が間違ってるとアンタが思ってるなら見解の相違という事だ。
一般人には『崇敬』も『崇拝』も祈りの取次ぎとやらもたいして違いは無い
と言ってるのが理解できないのなら、充分にアンタはカルト的な信者だと
思うんだが?後、宗教と思想をごっちゃにするのは止めてくれ。

86 :いちご姫:2001/02/05(月) 01:54
>78・85さん
 カトリックの名誉のために。
 私は、カトリックではありません。誤解なきよう。

87 :82:2001/02/05(月) 02:08
敬虔ではないのにカルト的っていわれちゃったよ。
やっぱ書き込むんじゃなかったのかな。
少しでも疑問がなくなればと思ったんだけど、
皆さん難しい文章書かれるから。
>>85の意味もいまいちわかんねぇし。
今後はROMに徹します。

88 :いちご姫:2001/02/05(月) 02:25
>85 一般人には『崇敬』も『崇拝』も祈りの取次ぎとやらもたいして違いは無い

 多くの分野で、<一般人>からは大差ないように見えるのに、その領域では重要な差を導くその領域のテクニカル・ターム(やその対)、というものはあるでしょう。
物理の先端の議論を私は理解出来ないし、司法における判決文には、しばしば、評論家などは誤解して批判している、ましてやそれに<一般人>のほとんどは誤解をする、場合もあります。
だから、もしも、大抵の学問分野や、専門領域を形成している共同体はカルトだ、と結論することが妥当でないのなら、85さんの<定義>は過っている、ということでしょう。
それらもカルトだ、というのなら、<一般人>の常識と大きく異なりますね。

89 :82:2001/02/05(月) 03:08
そうか、<一般人>なんて議論が出てきたから混乱したわけだ。
いちご姫さんのおかげで>>85が理解できました。
自分は「カトリック」としての意見が聞きたかったのだから。

90 :いちご姫:2001/02/05(月) 03:49
、彫刻や絵画でイエスやマリアを表現して寺院に飾るのは、文盲で字が読めず聖書が理解できない人たちに神の愛や優しさを教える効果が相当にあるようです

91 :いちご姫:2001/02/05(月) 03:54
>55 彫刻や絵画でイエスやマリアず聖書が理を表現して寺院に飾るのは、文盲で字が読め解できない人たちに神の愛や優しさを教える効果が相当にあるようです

そういう面も少なからず、ローマ・カトリックやイースタン&オリエンタル・オーソドクスにはありましたね。
特に教会堂の内外壁を聖人や罪人、聖書の場面などで装飾するのは、「目で見る聖書」(いまでいえば『ヴィジュアル版 聖書はやわかり』といったところか)という側面が重要視されていました。
ただ、今論争になっている主眼は、そのような装飾にではなく、それらに対する聖職者・信徒の態度なのだ、ということを批判者の批判を浴びないよう、注記してきます。


92 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 07:53
>>73
> 常識を認めんというのならカルトだろ

カトリックは日本の世間一般の社会常識に寛容なほうだと思うよ。
クリスチャンでもっと非妥協的な教派は他にあるんじゃない。

93 :1:2001/02/05(月) 10:09
このスレとっくに消えていたと思ったのですがまだ存在していたのですね。

小生、現在アメリカにて神学と哲学を学んでいます。このスレを経てたのは
論理的に回答できない質問をワザと立てて、質問の答えに対する論理的矛盾
をついて煽ってやろうという不謹慎な動機で立てました。しかしながら小生、
英語で学んでいるために日本のキリスト教用語を知らないのと、色々な人の
真摯な意見が聞けて、小生の不謹慎な動機を恥じると共に色々と参考にさせ
てもらっています。

ちなみに日本では自分の受け入れられない物が宗教と関係があると直ぐに
カルトとか言われますが、元々のカルトの定義は次のようになっています。

(1)入信動機が金銭苦などではなく特定しがたい「生のむなしさ」ということ
(2)現世外の霊的な生活を重視し、現世離脱の志向が強いこと
(3)神秘現象をもたらす心身変容の技法に強い関心を示す事
(4)組織内の共同体的な繋がりよりも個人に価値を置き、救済についての
  自己責任の理論を徹底させている
(5)破局的な終末の意識やそれと関連したメシヤニズムを有する事
(6)信者の多くが若者である事

上の定義から考えるとカソリックはカルトとは言いがたいですね。まあ審判の日
みたいな終末思想は持っていますが…

ところでカルトと言い始めた人、「世間の常識」って何ですか?具体的且論理的
に説明してください。

94 :1:2001/02/05(月) 10:11
あっ、長いレススマソ

95 :1:2001/02/05(月) 10:54
常識とは何ぞやという質問は板違いでしたね。

一つ疑問があるのですが、今私が神学を師事してもらっている先生は
メソディストの教会で洗礼を受けています。先生に聖書のことについ
て質問したところ「あれは宗教文学だから」の一言。学者なのでどう
しても批判的になっていまうと思うのですが、先生のような信仰のあ
り方はFaithに反していると思うのですが、このような信仰のあり方
も「可」なのでしょうか。

96 :部外者:2001/02/05(月) 11:22
>95

もともと、イエスの教えは少数精鋭を対象にしたものです。天国へ到る道は
狭く、滅びに到る道は広い、という言葉がそれを端的に表している。もし、
福音書に書かれているイエスの言葉を忠実に守るとしたら、それは修道院の
ような「清貧ひとすじ」の生活になってしまうでしょう。ところが、教会で
洗礼を受ける人のほとんどが俗人であり、門は広くないと困る。皮肉な言い方
をすれば、教団として採算が合わない。だから、清貧など要らないのだ、と
いう教義を嘘でも作り出さないと、信者が納得しません。

アッシジの聖フランチェスコに対する当時の教皇庁の対応がこれを暗示して
います。教皇たちは、イエスの言葉そのものを実践しようとする、「全き
キリスト者」を目の当たりにして、当惑するばかりだった。日頃から、イエス
の言葉を実践せよ、と説教で言い続けていたにも関わらず。

そこに、教会が抱える「本音と建前」の相克が根付いているのです。イエス
の言動を美談として、祭壇に飾ることをよしとしながら、自分の生活にまで
それが及ぶことを拒否する。Beliefは歓迎だが、Faithはごめんだ、という
心理です。まあ、Faith without obligationみたいなFaithがあれば(そん
なものはあるはずないのですが)、耳を傾けてみてもいいかな、位の軽い気持
ちです。お茶やお花をたしなむ程度の信仰です。

>先生のような信仰のあ り方はFaithに反していると思うのですが、この
>ような信仰のあり方 も「可」なのでしょうか。

逆ですよ。そういうFaith without obligationを率先して広めたのが
教会なんですから。「可」どころじゃなくて、そういう信仰しかないのです。



97 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 11:41
カトリックとはキリスト教世界最大のカルトです。違ったか。

98 :部外者:2001/02/05(月) 13:01
その後の教皇のフランチェスコ派への対応は、次のようなものでした。
(以下、引用)

1323年教皇ヨハネス22世は、改めて「キリストの清貧に関する
フランチェスコ会厳格主義者の誤謬」について勅書を発し、「イエズ
ス・キリストとその使徒たちが共有物さえももたなかったという主張」
をカトリック教理の敵対者とし、異端として有罪の宣言を下した。
教皇はその際、かつてフランチェスコがよりどころにした、イエス自身
の言葉をとらず、聖書の記述のうちに「イエスや使徒たちが何かを
持っていたと書いてあるので」、貧困無所有の教えを誤謬とするという
立場を打ち出したのである。この決定に対して、それまでは聖霊派的
分派の断固たる反対者であった、当時のフランチェスコ会総長チェセナ
のミカエルは、清貧問題をめぐって反教皇の態度をとり、教皇によって
破門されたのであった。
(上田閑照著、「エックハルト」、講談社学術文庫、p.55)

上田氏は東洋宗教の専門家ですし、私もキリスト教徒ではありません
から、言わば「部外者」ですが、その客観的な目から見ても、この
教皇の対応は独断と偏見に満ちた暴挙としか映らない。

99 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 14:02
>「あれは宗教文学だから」の一言
聖書が啓示の書とはいっても、啓示されたものは人の言葉で
表現して伝えなければならないわけだから、
当然人の言葉として表現されたものとして、時代制約的な部分が
あるのは当然でしょう。
ダイヤモンドの原石は薄汚れていますが、輝きを秘めているのと
似た関係だと思います。
だから時代制約的な宗教文学の皮を剥いで、その下に潜む輝きを
取出すことを、その牧師さんはおっしゃりたいのだと思います。



100 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 16:07
幼児洗礼のカトリック者です。

ご自分でもお認めになっていますが、1さんのような知的傾向の人にはカトリックに
限らず一神教は全て、矛盾だらけで論理的整合性を全く欠いた思想体系でしかない、
と考えます。かく言う私自身、仏教(一部の大乗を除く)の方がよほど「学びたい」
という意欲がわきます。1さんはお嫌いのようですけど・・・

1さんの五つの疑問、私が常々疑問に思っている事と全く同じです。さらに言えば、
私には「天地創造」も「永遠の命」も「肉体の復活」も信じることはできません。

けれども、2000年前に全ての人の贖罪のために命を捧げた救い主と呼ばれた人の
子がいたこと、彼が信頼しきっていた存在(神というべきなんでしょう)、この二つ
はやはり否定できないのです。
こんな者でも教会に行けば暖かく迎えてくれる、というのが現代のカトリックの美点
でしょうね。最近は教会が過去に犯してきた過ちについても徐々に謝罪していますし。

レスの趣旨にそぐわないカキコで申し訳ないですが、カルト云々に「ちょっと待って」
と反応してしまいました(笑)


101 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 16:49
矛盾といえば啓示宗教というもの自体、すごく非合理的だと思う。
1さんの挙げているのはカトリックの個別的な問題だけど、
それなら超越的な神を信じること自体を問題にすべきではないの?



102 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 17:28
1さんの「疑問」は、別にカトリックだけの問題じゃなく、世の中全てに
当てはまる疑問だよ。

建て前の上では人は平等であるはずなのに、ヒエラルキーがあるなんて、
どこの社会にもあることだし、ミサや賛美歌合唱が意味がないと言っても、
意味のないようなことが定期的・継続的に行われるのは、宗教に限らず
会社・学校などの集団だって一緒だ。

「1さんはカトリックには向かない」とみんな言ってるけど、
オレに言わせればすべて社会生活・集団生活が向いてないかも。

103 :名無しさん@1周年:2001/02/05(月) 18:43
>102
それは違うと思う。
カトリックに興味を持ってでも矛盾に突き当たった
さてどう考えたらいいでしょうか?
ってことだよ。
100さんみたいな人もいるから色々だろうけど。

104 :いちご姫:2001/02/05(月) 23:26
>102 ミサや賛美歌合唱が意味がないと言っても、意味のないようなことが定期的・継続的に行われるのは、宗教に限らず

 1さんが定式化した形でのミサや賛美歌(聖歌)の無意味さは、ミサ聖祭における実体変化を認められない、という見地に限定されたもの。従って、その限定が解除されれば、有意味であり得るので、社会に良くある無意味な慣行一般とは、無意味さの論じられ方が異なる、と思います。


105 :部外者:2001/02/06(火) 08:50
一言いいかな。

皆んな、宗教をコンビニ弁当みたいに捉えているみたいに見えるよ。最寄の
コンビニへ行くでしょう。その棚にあった奴を適当に選んで、その日の空腹を
しのぐ。

私にとっての宗教とは、自分自身の譲渡証明書にサインをして、神様なり仏様
に手渡すようなもの。気に入る弁当がなければ、足を棒にしてあちこちのコン
ビニに行くし、気に入る弁当が見つかるまで空腹にじっと耐える。自分自身の
「捨て場」なんて、そんなにたくさんないはずだからね。

もうひとこと。カトリックだけじゃなくて、既存の宗教というのは、例外なく
歴史宗教です。カトリックの場合で言えば、上で書いた聖フランチェスコの
清貧精神を闇に葬り、協調者を破門したという歴史事実あってのカトリック
教会で、カトリック教徒になるとは、その行為をも承認するということです。
実際に、破門された者は分派を作りました。あなたがカトリック教徒であると
いうことは、そういった分派よりもカトリック教会の言い分が正しいと認める
こと。魔女裁判も十字軍も皆、認めるということです。認めないのであれば、
異議を申し立てるべきだし、異議を申し立てたら「祈りなさい」と誤魔化される
だけでしょう。執拗に食い下がったら、最後には破門されるだろう。

コンビニになど、真実なんてないよ。ましてや、自分の捨て場所なんてね。

106 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 10:07
>私にとっての宗教とは、自分自身の譲渡証明書にサインをして、神様なり仏様
>に手渡すようなもの。

なんかなあ

どちらの宗教の方ですか?

107 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 10:19
いいたいことはわかるけど、ちょっとねえ。。。。>105
単なる捨て台詞としてしか読めない。

108 :部外者:2001/02/06(火) 10:52
>106

私は仏教と神道とキリスト教の融合を目指して、さすらう者です。
鳥なき里のコウモリですな(笑)。

>107

その通りです。半分は捨て台詞だからな。捨て台詞じゃなきゃ、
カチンとは来ないでしょう?カチンと来なければ茶のみ話で終わって
しまう。その時点で宗教からは離れてしまう。カチンと来て、ムキに
なって突っかかって欲しいものだと願っています。その時点で、
ようやく宗教について語る姿勢ができると思いますね。

109 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 10:59
>108
でもさ。あんまりつまらない話だとゲンナリされるだけだよ。


110 :部外者:2001/02/06(火) 11:13
>109

「つまらない」って、そんな話は百も承知ってこと?

111 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 11:26
>私は仏教と神道とキリスト教の融合を目指して、さすらう者です。
ていうことは、新興宗教を起こそうということですね。
しかしキリスト教にとって、モーゼもイエスも開祖ではないので、
あなたの目指しているものとキリスト教とは、水と油の関係ですね。
いうなれば、科学者から批判されているのと同じような話し。
全然噛み合わない。


112 :部外者:2001/02/06(火) 11:37
>111

これは面白い証言です。では、キリスト教の開祖とは、どなたでしょう?

113 :いちご姫:2001/02/06(火) 12:00
パウロスあたりではないの?
 それとももっと後の人達?
 イェースースでないことは確か。

114 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 12:03
>110
つーか、コンビにと弁当から始める宗教談義なんて興味持てる?


115 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 12:04
>110
つけ足し。例えがなんだかなー。ってこと。

116 :名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 12:09
まあまあ、みんな、マジメにレスしてやろうよ。

さて、部外者さん。宗教とは気に入る弁当を選ぶようなものではありません。

イエスは「あなたがたが私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」
(ヨハネ15:16)と言いました。つまり、人が神に選ばれるのですね。
あなたも選ばれるように、お祈り申し上げます。

117 :部外者:2001/02/06(火) 12:13
>114@`115

うむ、確かにな(ぽりぽり)。

>113

いちご姫さんは、今のキリスト教がパウロあたりが創作したものだ
として、イエス教にはご興味ないのですか?私が融合をめざすキリスト
教とは、どっちかと言うとイエス教に近いのですけど。

というよりか、こういう板で、113のような「明確な」答えをもら
うとは予想していなかったもので、驚くやらうれしいやら(^^;)。

118 :部外者:2001/02/06(火) 12:23
>116

ということは、貴方はもよりのコンビニで洗礼を受けたのではなく、
私のように、「放蕩息子」を実践したのちに、今の信仰に到達され
たのですね。私からもおめでとう、と申し上げたいです。

ただし、ひとつだけ違う点がある。神は人を選ばれるが、無理強い
はなさらない。ご自分よりも、この世の形有るものを尊ぶ人につい
ては、その「偶像崇拝」がやむまで、じっと「時」を待っておられる。
その人が「空っぽ」になった時に、「待ってました」とばかりに
入ってこられるのです。これは、仏教も神道も同じ教えです。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、
兄弟、姉妹、その上自分の命さえもわたしよりたいせつにするなら、
わたしの弟子ではありえない」(ルカ伝14−26)

119 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 07:52
弁当でも美味しければ良いのだよ

120 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 14:35
部外者さん、あなたはかなりわかっている方ですね。

>その「偶像崇拝」がやむまで、じっと「時」を待っておられる。
>その人が「空っぽ」になった時に、「待ってました」とばかりに
>入ってこられるのです。
そうそう。本当にそんな感じです。

私がこの世のあらゆる「偶像崇拝」を突破したとき、
神は私の目の前に「出現」します。


121 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 14:52
まさか自作自演じゃないでしょうね

122 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 14:54
自作自演ではないよ。残念ながらね。

123 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 14:56
以下、コピペです。どう思われますか?

>某カトリック神父が運転する車と接触事故した。
>私は自転車。
>あきらかに白線を越えた相手が悪いのに
>そりゃ歩道を注意せずに走っていた私も私だが、
>神父からは謝罪の言葉がなかった。
>青あざ程度ですんだから、そんな気も無かったのに、その神父は
>「警察にはいかなくて良いでしょう?」と言った。
>怒るより、悲しかった。




124 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 15:01
なんか錯覚しているんじゃないの>123
神父も普通の人間なんだよ。へんなのもいるし、いやなのもいる。
カトリックでは、神父の人格と司祭の聖職性を切り離して考えている。

125 :名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 15:58
>>124
だからあ〜、神父として、を抜きにしても
人間として謝罪するのがふつーなんじゃねえの?
チクられるのが嫌だったんじゃねえかい。即左遷だろ?(藁)


126 :名無しさん@1周年:2001/02/08(木) 00:00
カトリックの悪口も、ついにネタがなくなったってことかな。
ソースもないし、詳細も分からないから、反論のしようもないね。

127 :名無しさん@1周年:2001/02/12(月) 13:39
聖書にはイエスの起こした様々なエピソードが載っています。
西洋人は小さい頃から教会に通うなどして
知らず知らずの内に影響を受けているそうですが、
カソリックのかたにも人気のある
聖書のエピソードがあるのでしょうか。
繰り返し読み直すような
お気に入りの話があったら教えてください。

128 :かとりこ:2001/02/12(月) 16:42
「心の貧しいものは幸いである」に始まる言葉とかね。福音書は何度でも読むよ。
書簡と黙示録は読まないな。99匹と1匹の羊のたとえが好きだ。

フランチェスコの清貧問題ねぇ。
実際、所有をしないことを極端につきつめると、聖書の所有すらできなくなるよな。
その理想が拡大したら、万民みな所有出来ない。ミケーレの厳格派は確か、個人どころか、教団自体が所有してはならないという教えだからね。実際パコミウスというひとだったかがすごい昔にやはり、所有しない事の意義をといたらしいが、農作業の際、修道士達が、師は所有を許さないからこの農具は俺タチのものじゃないから片付ける必要もないだろうと、帰ってしまった。という変なエピソードも残ってる。
托鉢ってのは、なんらを所有する生産者から分けてもらうという構造から成立つなら、生産者は罪深くもらうものは清いというのも一方の罪に頼る構図になりはしないか?
現実問題として極端な清貧思想は難しい問題を産みかねないということだろうね。
フランチェスコは個人活動で清貧を実践しているつもりだったから、自分の修道会が出来てしまったことに実は苦しんでたんじゃないかなぁ?


129 :いちご姫:2001/02/12(月) 23:07
>128
 フランチェスコは晩年には確かにフランチェスコ会が制度化したこと、彼の思うがままに
動かなくなったこと、許容される所有がどんどん拡大されていったことの、何れにも不満で
苦悩していたらしいですね。
 ミケーレの方は、彼自身はひどくラディカルな反所有論者ではなかったようですが、教会
政治の中で、よりラディカル派によらざるを得なかったらしいです。それでも、教団が物品
を所有することは禁じても使用することは認めていたのですから、限界設定はあったのです
ね。
 しかも、清貧は万民に対する規定ではなく、キリストをまねぶ修道士かせいぜい使徒の後
継である教会に限定されるわけですから、「万民みな所有出来ない」とまではいかないでし
ょう。(当時の過激派<異端>を除いては。この語<異端は>価値評価ではなく、非主流・
非伝統的くらいの意味)。

130 :いちご姫:2001/02/12(月) 23:13
>117
 イェースースの思想には学術的興味はあります。但し、資料不足からほとんど到達
不可能だ、との新約聖書学の主流左派に組してはおりますが。
 ちなみに、このみの福音書は『マルコスによる福音』と『トマスによる福音』です。
あ、あと一言、私はクリスチャンですがカトリックではありません。

131 :かとりこ:2001/02/13(火) 02:58
いちご姫>
そうミケーレは可哀相なんだけどね。
当時は教会が異端アレルギーで、ヒステリックな状況だったと思う。
ボゴミール派とかへの親和性が危険視されたんだよね。
ま、封建領主だった教会の終焉の時代だろう。カロリングに見た夢は続かなかったということ。

教団所有の問題は存続したフランチェスコ会も結局はかなり厳格に守ってたみたいだ。1970年代まで金銭は触っちゃいけなかったらしいし。
それで、金銭問題については、第三会の在俗修道の人々に協力してもらってた。神学校も所有物になるから、その神学校は第三会の持ち物としてたらしい。
フランチェスコは勉学する修道士が許せなくて(書物は所有物になるからな)で、勉強してる建物のとこで瓦を投げ捨ててたら、パドバのアントニオに諌められたらしいね。「それは信徒の持ち物で借りているものですよ」とね。
でもこの構造ってちょっとおかしいと思ったりもするな。

清貧は集団になると難しいことに気付いたフランチェスコは追い詰められてラヴェルナの山に篭っちゃったね。気の毒だ。
なんか、イエスとキリスト教団の関係みたいだね。

132 :かとりこ:2001/02/13(火) 03:01
ところで、いちご姫はニーチェの「アンチクリスト」は読んだかい?

133 :部外者:2001/02/13(火) 08:46
>128@`129

フランチェスコや、フランチェスコ派もまた、ある意味でイエスの言葉の意味
を誤解していたのだと思います。イエスが言いたかったことは、金銭などの
形の上の所有のことでなくて、心での所有のことだったのでは?この世の
「偶像崇拝」から脱して、神を「得る」手段として、「心の清貧」を説いた
のでは?

もし、清貧を形の上、一種の「戒律」として頑なに捉えると、たちまち、
パリサイ人の境地に落ちてしまうでしょう。清貧をネタにして、死後の浄福
を神から騙しとろうという外道になってしまう。

とは言うものの、フランチェスコ会を弾圧した当時の教皇庁が、そこまで
悟っていたかと言うと、まさか、と私は思う。それが証拠に、少し後に生ま
れて「心の清貧」を唱えたエックハルトを教会は破門しているからね。

結局、あれは、教会の世俗権を守るための弾圧にすぎなかったんじゃないか?

134 :部外者:2001/02/13(火) 10:58
>130

私は、「Q文書」を禅の語録のような形で使用しています。正確には、学者
によって再構築されたもので、「原典」とは言えませんが、その分、宗教的な
ドグマに毒されずにイエスの原像を追うことができます。

ヨハネ福音書については、後世の創作という説が強くて、あまり重視していな
かったのですが、最近、見直しつつあります。波多野精一氏の指摘(だったと
思います)にあるように、ヨハネ福音書には、イエスの言動を正確に残そうと
いう意図は最初からなく、著者の感得した真理を、イエスの言動を通じて表現
しようとした書物のように思われ、「史的イエス」という観点からの価値は
低いでしょう。しかし、私の目から見ると、著者はパウロやペテロよりも、
むしろ思想の面では、イエスと近い悟りの内容をもっていたように思えてなり
ません。

135 :かとりこ:2001/02/13(火) 12:31
部外者>
フランチェスコの時代の人間の概念はそこまで成熟して考えることが出来た人間は稀有だったんじゃないか?エックハルトはそういう点で、時代が早すぎたかもしれない。世俗にあって神権政治な文字通りの「地上のエルサレム」の方を夢見ていたと思う。どうだろうか?
だから会則やら、なんかというのが問題になったりするだろう。世俗的な視点でしか思考出来なかったのかな?律法主義からの開放、精神的個の自立、自由を説くイエスの真意は理解出来ないだろう。そういうのを悟るような賢い人間はいたかもしれないけど、記録に残る前に諦めさせられたか、まったく理解してもらえなくて変な奴ぐらいに思われてたのかもね。アベラルドウスなんかどうよ?
実のところフランチェスコも会則とか戒律とかそういうものは要らないと思っていたんじゃないかな?もっとシンプルなものを夢見てただけで。最近はフランチェスコの研究も史的イエスのようなアプローチで為されているものがあるようだ。

現代に生きる我々もある種の視点に縛られてるのかもしれない。史的イエスを追いかけようとする構図も実は1つの視点の価値に縛られているのかもよ。そういう自分も無意識に追いかけてしまうけどね。


136 :部外者:2001/02/13(火) 13:27
>135

>史的イエスを追いかけようとする構図も実は1つの視点の価値に
>縛られているのかもよ。

それは言えてるね。つい最近まで、ヨハネ福音書を読む価値なし、
と決めつけていた自分なんかは、そのいい例だと思うよ。

ニーチェの話があったので、ついでにコメント。私は、「ツアラ
トストラ」を読んだ時、これは一級の宗教書だと思った。宗教をやる
限り、ああいう批判的視点は不可欠だと思ったから。あとになって、
ニーチェもまた、エックハルトを評価していたと知って、すごく納得
がいきました。

真理を求める者に、敵味方などない、とつくづく思うよ。もちろん、
正統と異端の区別などない。

137 :かとりこ:2001/02/13(火) 13:43
部外者>
「多元的パースペクティブ」は実際は難しいね。自分がどこに縛られているのか?というのが自分でも良く判らない時もある。判っているのはキリスト教(カトリック)的立場でものみてるなと思う時とか現代の思想価値的な視点で見てるようだと思う時ぐらいかな。縛られてるなと思うよ。
ニーチェですらニーチェ的価値のなかで見ている事に気づいてないんじゃないかと思うときがある。ツアラトゥストラで書いている女性観やキリスト教を論じる時の強者の理論を読むとね。
彼の「知への誠実」の姿勢は好きだけどね。

138 :部外者:2001/02/13(火) 14:36
>137

強いて言うと、「縛られてるぞ」と初めから警告を呼びかけて、
縛られない見方をするように指導するのは仏教、特に禅がそう
ですね。最初にハイデッガーを読み始めた時、これは仏教書かと
表紙をひっくり返して見たくらい(笑)。「本当に見えているのは
実体なのか、それは現象ではないのか」なんていう問いかけは、
ものすごく仏教的です。懐疑の思想、というか。

仏教の場合は、そのまま、何をも「実在」と見ることなく、無限モラ
トリアム(空思想)に堕す、という弊害はあるとしても、キリスト教
がもう少しだけでも「存在」について真面目に考えていたら、こんな
「迷信宗教」にはなっていなかったと思います。

ニーチェの時代のキリスト教会が、弱者を相手に「迷信宗教」を売り
ものにしていたから、ああいう書き方になったのでしょう。そのこと
もあって、彼はまるで無神論者の代名詞みたいにみなされることに
なったけど、彼は20世紀最大の宗教家のひとりだった、というのが
私の見方です。ニーチェが出なかったとしても、一禅者が、当時の
キリスト教会を目撃したら、彼が代わりにツアラトストラを書いてい
たでしょう。

139 :いちご姫:2001/02/14(水) 01:47
>132 かとりこさま
 むかーしページを開いて、でも全く理解できなかった、という記憶だけがある本の一つです。
『アンチクリスト』

>138 部外者さま
 確かに、ハイデガァを仏教的に読む教徒系の方々もいらっしゃいますが。
「本当に見えているのは実体なのか、それは現象ではないのか」なんていう
問いかけは、カント以降の(いやデカルト以降の?)西洋哲学者にとっては
当然な問いでしょう。
 ただ、キリスト教に問題を絞ると、確かに存在論に比して認識論を軽視する
という伝統をギリシャから引きうけ、しかもそのような批判的思考一般を欠い
ているヘブライズムのネを持っているせいか、認知内容についての批判的合理
性は欠いていますね。
 でも、認識が問題にされた時は、一般認識よりより高次な神的働きによる認
識によって認知内容が保証される、という方向に逝ってしまうのがキリスト教
ですから、「もう少しだけでも「存在」について真面目に考えてい」ても、大差
はなかったでしょうね。

140 :部外者:2001/02/14(水) 08:39
>139

>しかもそのような批判的思考一般を欠いているヘブライズムのネを持っている

どうも、その辺にキリスト教の問題の根がありそうですね。確かに、少々
「存在」について真面目に考えても、大差なかったかも。

そうなると、ヘブライズム=奴隷に成り下がったユダヤ人たちのルサンチ
マン、が生み出した宗教的復讐の幻想、という根底の問題にふれることになり、
ニーチェの見方は確かに的確だった、としか言えなくなります。イエスによ
って、ユダヤ人のルサンチマンが、貧者や弱者のルサンチマンにすりかわった
としても。

しかし、イエスの思想はそういう「階級闘争」的な部分にはなかったと私は
思います。教会のやったことは、ルサンチマンを克服して、イエスの本意に
戻ることでなくて、正統・異端論争などでルサンチマンを増産することだけ
だった。

141 :かとりこ:2001/02/14(水) 20:07
おっと、下がってるぞ。age。age。

結局のところプラトンの時代からなにも進歩していないとも言えるな。>西洋思想。
言論(ロゴス)という呪縛自体がその「存在」を不確かなものにしてしまうともいえるかもね。ただ、なんらかのものを明解にしていこうという思考運動の誠実は良いけどね、それが却って本質を求むる時はあだになる。と思えるよ。どうだろう?
「アンチクリスト」はお奨めしとくよ。>いちご姫
まあ、いちご姫さんの考え方なら「がいしゅつ」な思想かな。

142 :部外者:2001/02/15(木) 12:16
>141

>なんらかのものを明解にしていこうという思考運動の誠実は良いけどね、
>それが却って本質を求むる時はあだになる。

うむ。その通りですね。禅の修業中は、禅語録ですら読むことを禁じられるの
だそうです。自分の体験で得た悟りでないと、役に立たない。福音書はイエス
の言行録ではあっても、それは「イエスの教え」の痕跡、裁判で言えば判例に
すぎない。ちょうど、禅語録と同じようなものです。福音書を読むだけでは
イエスの悟りは得られない。判例集をいくら読んでも、「憲法の精神」がわか
らないように。逆に、イエスの悟りさえ得られれば、福音書など何百でも書く
ことができる。

キリスト教でも、普段は聖書を読むことを禁止してみたらどうだろう。少しは
「本質」が見えてくるかもしれない。

143 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 12:55
なんか、1さんの質問からどんどんずれたスレになってるなあ。

144 :部外者:2001/02/15(木) 12:58
>143

そうだろうか?

1さんの質問への答えになっていると思うよ。1さんならそれが
お判りだと思う。

145 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 13:00
日本のカトリック教会はインテリさんが多いの?

146 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 13:02
1さん分かってるの?でてきてよお。

147 :部外者:2001/02/15(木) 13:05
そろそろまとめるべきかもしれない。私の意見は、

(1)ヒエラルキーは不要である。なぜなら、悟りは神学のように
外部からもたらされるものではないから。

(2)Massは単なる迷信者へのサービスです。カトリックは
太っ腹、プロテスタントはケチ、というだけの差。

(3)賛美歌も本質とは全然関係ない。意味がないとは言わないけど。

(4)聖書は単なる語録です。「神の精神」、「イエスの精神」を悟る
時の手がかりになるだけ。

(5)これも、迷信者へのサービスです。あるいは、教会の組織を
拡大するための詐欺商品。

148 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 13:24
仏教もキリスト教も構図は同じ。

インテリ=哲学、宗教学用語を駆使し、
俺達は分かってるもんねー、教義より悟りだよ、と悦に入る。
教会、教団の中で談義に華を咲かせる。しかしその思想が
大衆に伝わることはない。大衆を迷信者、と見下している。

大衆=迷信者。念仏、法華経、ロザリオを一生懸命唱えれば、
家内安全、商売繁盛、天国に行けると信じている。基本的に
本が読めないので論理的思考ができない。自分の立場を安定
させるために他宗教を裁く。無宗教者が宗教団体を嫌うのは
このような大衆の存在ゆえであろう。


149 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 13:33
>>145
上の方は相当なインテリ揃い。東大京大当たり前。教会の神父さんは
中間管理職的な役割。上と一般信徒の間だの調整役。ヒエラルキーと
いっても、一般信徒は結構言いたい放題言っている。




150 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 16:49
ミサが迷信者へのサービス・・・か。
でも、ミサってすごくよいものだと思うがなあ。

151 :部外者:2001/02/15(木) 17:03
私は、別に大衆=迷信者だとして見下しているわけではありません。
ただ、仏教にもキリスト教にも「方便」の教えはあるものですし、
「方便」は「方便」にすぎないのです。

仏教では、般若心経をありがたいお経だとして、写経すれば功徳を
詰める、と説きます。しかし、本当にありがたいのは、その内容なの
で、それを実行してほしいと釈尊は思っていたに違いない(大乗非
仏説の話はおくとして)。だけど、「見欲を捨て、執着を離れなさ
い」という教えが、普通の人には理解できない。「もっと欲しい」と
思う連中ばかりだから。それで、やがて悟ることもあろう、と、
「写経したらものすごく得するんだよ」と「方便」を持ち出してくる。

キリスト教も同じでしょう。イエスに従った人々の多くは、社会の下層
で一生苦しむことが決まっていた人々です。だから、イエスの「すべ
てを捨てて、私に従って来なさい」という命令は、それほど酷には
思えなかった。しかし、商工業が発展し、皆が贅沢になった時代には、
こんなことを言ったら、誰も信者になるものなどいない。だから、
Massや「贖罪」を使って「方便」の教えを説くのですよ。

しかし、本来の釈迦やイエスの教えとは、こういう「方便」を超えた
ところにあるのです。

152 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 17:44


>しかし、本来の釈迦やイエスの教えとは、こういう「方便」を超えた
>ところにあるのです。
そう。しかしそれは大衆には伝わらない。こうした連中が「悟る」こと
など絶対ありえない。歴史を見れば、その「方便」の教えの方が強大になり、
殺し合いに発展してゆく。そのとき、「本来の教え」はまったく無力。
インテリは争いから遠くはなれて嘆くだけだ。

実際、南米の社会の最下層で苦しむ人々に、イエスの本来の「教え」は人気が
ない。彼らが喜ぶのは、「教えを守らぬと地獄に落ちるぞ」という中世ばり
の説教だ。まあこんな奴等だからチャンスがあっても貧乏から抜け出せない
のだな。


153 :名無しさん@1周年:2001/02/15(木) 17:55
148です。
別に部外者さんが見下している、と書いたんじゃないよ。
私が体験したキリスト教会、仏教教団を描写しただけだ。
私は「教え」云々じゃなくて「社会階層問題」強く感じたね。
いろいろな宗教団体を見てきて。

154 :かとりこ:2001/02/15(木) 23:35
宗教の現場の現実を突いてる。>148
宗教の悪しき点をあげればそういう事になるだろう。

ミサは神学を体感する有効な手段だと思う。言葉より、本質を伝える場合もある。
あのようなある種の演劇的要素(晩餐の場の再現)を中心に据えたのは古代から、宗教的儀式が演劇的要素を持つことの伝統と同じなんだろう。それに供儀の儀式を持つのはユダヤ教の伝統にもあるし。

155 :1:2001/02/16(金) 07:34
暫く見なかったら凄い書き込みの量になってますね。感謝です。
これからじっくり読ませてもらいます。

156 :1:2001/02/16(金) 08:01
私もニーチェ・ハイデガーは読みました。ニーチェについての感想はキリスト教
という概念をその思想の根本(ここではアンチテーゼ)としながらも仏教にちか
いのではとの印象を受けました。ハイデガーに関しては完全に神学と関わっている
との印象を受けました。しかし私が今まで勉強してきた印象としてはキリスト教
も仏教も枝葉の部分では違いがあれ、根本的な部分は非常に似通っているとの
印象を持っています。実際私の先生も仏教に非常に関心を持っておられて、先生
も宗教は根本の部分は非常に似通っているとおっしゃっていました。先生は宗教
を山に例えて講義されていました。先生曰、宗教は山のようである。麓(色々
わかれた教義や宗派)に行けば大きく異なるが、頂に行けば違いはなくなるの
だと。ニーチェやハイデガーに対して私も仏教的な印象をうけたのですが、それ
は上の理由に因るのではないかと私は思っています。

>147
面白いです。ただ私の感想としては文字や抽象的な観念を理解する事に困難さを
覚える人達に理解できるように仏教にしてもキリスト教にしてもそれぞれサービス
したと捉えてます。

話の流れを遮断するようであれば無視して今までの話を続けてください。
暫くしたらまた来ます。

157 :部外者:2001/02/16(金) 10:43
>156

最近、カトリック教会と浄土真宗の間に、おもしろい類似性があること
に気がつきました。浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、
悪人も成仏間違いなし、と説きます。また、死後の成仏を願って、
信徒は寺を大切にし、どんどんとお布施が集まるのだそうです。

もともと、仏教の教えとは、我を捨てて、自分の本性が宇宙に偏在す
る「神」と同一であることを悟ることで、死後救われる、というのは
「方便」なわけですが、この教義に感動して我を捨て去り、悟りの
境地に達した「妙好人」と呼ばれる人々が輩出します。彼らの生活
ぶりといったら、自分の畑に馬を入れて、平然と野菜を食わせる狼藉
者に、「向こうの方が大きくて美味いよ」と勧めるほどです。
イエスの「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」を楽々と実行する
ような連中です。これは、「方便」がうまく働いたケースです。

ところが、そういう立派な一般信者が出る一方、寺は裕福なので堕落
しやすく、生臭坊主や、経の意味もろくろく理解しないような素人
坊主も出てきます。だけど、彼らの説教がありがたいわけでなく、
「南無阿弥陀仏」がありがたいのだから、全然支障はなく、ちょうど
カトリックのように、秘蹟を授ける人の人格いかんに関わらず、秘蹟
は有効、という状態になっているのです。

では、親鸞さんは、「妙好人」が輩出することを願っていたのか、それ
とも生臭坊主によって維持される大伽藍と信者達という関係を願って
いたのか、と言えば、答えは明らかでしょう。イエスがカトリック教会
に望んでいるのも同じことだと思います。

158 :虚無に光:2001/02/16(金) 23:45
真宗は観想念仏をもっとやったほうがいいのじゃないですか。
聴聞と唱名だけで突破するのは、難しいと思うのです。
部外者さんは、どう思われますか。

159 :いちご姫:2001/02/17(土) 23:39
>158 死後救われる、というのは 「方便」なわけですが、

 私は真宗及び親鸞については余り知らないですが。
質問です。親鸞や浄土真宗のどちらも、「念仏によって死後救われる」あるいは「念
仏によって、死後不退転の地位を得る(結局最終的には成仏するわけですよね)」と
いうのは、方便なのですか?

160 :名無しさん@1周年:2001/02/17(土) 23:55
>159 虚無に光さま
真宗は観想念仏をもっとやったほうがいいのじゃないですか。
聴聞と唱名だけで突破するのは、難しい

 曹洞宗ではし菅打座で突破します。これは唱名と宗教心理学的機能と
しては同種のものではないでしょうか。従って、それだけでも、十分に
<突破>の為の機能をするのではないでしょうか。
 他方、観想念仏に、それらと重要な機能として異なった点はあるとす
ればどのようなものでしょうか?

 私は、真宗で<突破>できる人が少数なのは、むしろ<覚り>に至れ
る人はごく僅か、という仏教的な修行階梯の経験的事実の一例だ、と思
うのです。

161 :名無しさん@1周年:2001/02/17(土) 23:57
親鸞曰く、

「念仏を唱えたからといって、念仏を唱えたからといって、本当に死後
救われるのかどうか俺にもわからんのじゃ。しかしなぁ。それでもなぁ。
俺は念仏を唱えるのじゃ〜!!これが俺の、これが俺の、生き様じゃ〜!!!」


162 :名無しさん@1周年:2001/02/18(日) 14:50
>>161
いやぁ、親鸞ってよく知らなかったけど、いい奴みたいじゃん。


163 :ウタダヒカル子:2001/02/18(日) 15:57
>>1
神父に聞け

164 :ウタダヒカル子:2001/02/18(日) 16:04
>(3)何故賛美歌を歌うのか?私にしてみれば歌を歌う暇があったら
>ボランティアにでも勤しんだ方が有効な時間の使い方だと思うのですが。

君はカラオケに逝って、友達と楽しんだことがないのか?

1はインテリのようだ。
MassだのConfessだの言われても、解らないし、辞書を引っ張ってきて
調べる気も起きない。

Massと言われても、「マスを掻く」事しか思い浮かばない。

そんな俺を、君は見下すだろう。君はプロテスタント向きだ。



165 :純福音派:2001/02/18(日) 16:07
    ____
   /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴/ ー  ー|
  (6 / u  ◎  つ◎|  <ワカメ〜、締まる〜締まる〜!
  |    ___ノ |
   \  u \_ノ /   ヽノ
    \____/ /⌒゛~~ ̄ ̄\
  /⌒  - - ⌒/  ____|\___\
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\ \|≡∨  ∨| |∴   @ つ@ |
  \⊇  /干\| (6   \___ノ |
    |       | \  u \_ノ ノ <あ〜ん、カトリックの女の子は処女守れてるの?
    ( /⌒v⌒\   \___/
パンパン|     丶/⌒ - - \
    / \    |  |     / |
    /  ノ\__|  |__三_ノ|  |
   /  /パンパン|  |      |  |
  /__/     |  |      |  |
          ⊆ |     | ⊇

166 :部外者:2001/02/19(月) 08:53
>>158@`>>160

「突破」という言葉そのものに「自我臭」が残っていると思うのです。何やら、
修行を積み上げて自分の視点が上がっている感じで。ところが、曹洞宗の開祖
道元によれば、「生まれながらに悟っていることを自覚し、それを日常生活に
証(あかし)する」のが仏教だ、と言う。たとえ、悟りを得るためという高級
な動機であったとしても、その努力がいかに涙ぐましいものであっても、最後
には「阿弥陀仏の御心にお任せする」という、自我を離れた心にならなければ、
絶対に解脱できないと思います。だから、>>161の親鸞さんの言葉は真実を突い
ている。効果を期待する念仏は、自我を拡大するばかりで、涅槃とは逆に進む
のみです。わが身を捨てて、百尺竿上からさらに一歩を進めなければ、道は開け
てこない。

親鸞さんは「たとえ法然上人に騙されて地獄へ落ちても構わない」、阿弥陀如来
は「たとえ一人でも極楽へ入れない人がいるなら、自分は悟りに至らない」、
共に共通の心=自我を捨て、報酬を求めない心、に貫かれています。これぞ、仏教
で最も重要な「菩提心」(大悲心)の実体であると思います。菩提心に目覚めた
時、人はもはや自分の地獄落ちなど気にならなくなり、阿弥陀如来と同じく、利他
の行に奔走することになるのです。

キリスト教では、エックハルトが全く同じ境地に至っています。

167 :部外者:2001/02/19(月) 09:06
ついでに言えば、イエス・キリストが言いたかったことも、仏教で
言う「菩提心」に目覚めよ、という一点であったと思います。神の
言いつけ=戒律に忠実なパリサイ人がなぜ批判されたか、というと、
彼らは神に媚びるために、せっせと善行を積んでいたからです。
本当に「菩提心」から出た善行であるなら、社会的弱者を見捨てて
平気という気持ちにはならなかったでしょう。その偽善性をイエスは
突いた。

後生を願う「ご利益念仏」と、自我を捨て去るための「本物の念仏」
とは、ちょうど、パリサイ人の善行と、イエスの勧めた善行(よき
サマリヤ人や貧者の献金)に対応しています。外面は同じで見分けが
つかないですが、内面は天と地の差ほどに違う。

イエス・キリストの死による贖罪、という概念がもたらされるまで、
イエスの教えと仏教の「菩提心」とは、一点の矛盾もなく一致して
いたのです。

168 :部外者:2001/02/19(月) 09:26
>>159

私は浄土宗でも真宗の信徒でもないので、勝手なことを書くと怒られ
そうですが、まあ、自説ということで(笑)。

>「念仏によって死後救われる」

云々は、方便だと思います。浄土三部経は、大乗仏典に属し、ヨハネ
黙示録と同様に、後世の人の創作です。阿弥陀如来は、菩薩(仏教修行
者)の鑑のような存在で、そういう慈悲心に溢れた人ならば、自分だけ
悟りを開くなどというエゴいことはするまい。きっと、この世の人間
全部を極楽往生された後で、最後に自分が極楽へ入ることだろう、と
想像して書いたのが「四十八誓願」です。

経の成立が新しいからと言って、インチキだ、と言うつもりは私には
なく、仏教の本質=菩提心=自他を超えた自愛、を浮き彫りにした最高
傑作だったと思います。しかし、阿弥陀様という仏を外に拝むだけに
終わるのなら、それはカトリックのMassと同様に、方便のための
方便に終わってしまう。念仏を通じて、阿弥陀如来の心に生き、自分
自らが「小阿弥陀」となって初めて、方便は実を結ぶと思うのです。
キリスト教も同様でしょう。信者ひとりひとりが、「小イエス」になる
ことこそ、イエスが望んでいた唯一のことだったと私は思います。

169 :虚無に光:2001/02/19(月) 14:03
なるほど、よくわかりました<部外者どの。

170 :1:2001/02/19(月) 19:52
>部外者さん
質問なのすが釈迦は瞑想の末悟りを開きました。またインドや周辺の地域では
葬式時に現地の言葉で念仏を唱えているそうです。それは死者に対する弔いと
いう意味よりも、遺族に対してこの先どのように生きて行くべくかを唱えて
いるそうです。ここで疑問なのが鎌倉新仏教を中心に声明を唱えれば極楽浄土
へ行けると言う事が言われ始めました。これは方便だとしても、何故インド周辺
の国の僧のようにその国の言葉で誰でも理解できうるモノに経を書かなかった
のでしょうか。経が理解できる言葉ならば唱えることにも意味があると思うの
ですが?それと釈迦が黙想により悟りを開いたことをかんがえると臨済宗・
曹洞宗の座禅は通じるところがあると思うのですが、どうして念仏を唱えれば
極楽浄土へ行けると説いたのかその根拠を知っていたら教えてください。

171 :引きこもり:2001/02/19(月) 19:57
宗教は言葉で理解する物ではない。
心で理解する物だ。

皆、言葉で理解することしかしない。だから無駄な論争が起こる。

172 :部外者:2001/02/19(月) 20:17
経で、人間の本性が「仏」だということを説いても、実際に自分が
体験しないと納得できないからだと思います。生悟りで自分が仏だ、
と思い込むと、善悪の見境もなく自我の欲望のままにふるまうことに
なり、かえって魔道に落ち込むことになるので、祖師達は敢えてそれを
秘したのでしょう。親鸞さんは「悪人成仏」を説きましたが、それを
悪用して、悪いことをしても平気という外道をも生み出したことも事実
です。同じ危険性は、贖罪を説くキリスト教にもあります。

念仏を唱えれば極楽浄土へ行ける、と初めて唱えたのは法然上人ですが、
彼の修行歴や、彼の書いたものを見ると、どうも禅によって悟りを開いた
らしいと思えるのです。彼が若い時代に修行した天台宗では、護摩法など
と共に座禅の修行がなされていました。親鸞さんのことは知りませんが、
一遍上人は、有名な高僧について修行をし、ちゃんと印可(悟りの証明書)
を得ています。法然、一遍ともに、自分達は成仏というものがいかなるもの
かを知った上で、敢えて「死後の極楽成仏」を説いたのです。

その背景には、民衆のせっぱ詰まった事情があったことでしょう。私の目
には、法然がイエスに、親鸞がパウロに、それぞれ重なって映ります。
法然の時代においては、とにかく「弱者の救済」に徹しなければならな
かった。まさに「病人のためにこそ、私は来た」のでした。

道元さんは、当初は在家にも禅修業の門戸を開放していましたが、後に
彼は出家しか相手にしなくなりました。方便を認めなかったのが道元の
「誠実」、方便を認めてまで民衆を救おうとしたのが法然の「慈悲」、
と言えるかもしれません。法然さんには、仏法を曲げることで自分が
地獄へ落ちる覚悟さえも出来ていたのではないでしょうか。私はそんな
法然さんが大好きです。

173 :いちご姫:2001/02/19(月) 20:27
>172 同じ危険性は、贖罪を説くキリスト教にもあります。

この点に付いては正統派キリスト教の方が旨くクリアしている、と
思います。(特に西方)キリスト教では、贖罪でちゃらにされたのは原
罪のみ。個別に人が(特に受洗後)犯す罪についてついては、(特にカ
トリックでは)それぞれにかたをつけねばならない。その点からすれば、
贖罪は、<不退転>をかなえる弥陀の誓願よりは、種子説・如来蔵を齎し
たものに相当するのではないでしょうか。

174 :部外者:2001/02/20(火) 08:41
>173

>キリスト教では、贖罪でちゃらにされたのは原罪のみ。

これは本当かなあ。カトリックでは特に、懺悔さえすれば赦されるという風潮
があると思いますけど。プロテスタントでも、パウロの言う「人間は自分から
善など何ひとつできない」というのを盾にとって、世界中に行われている不義
を見て見ぬふりでしょう?南アフリカについ最近まであったアパルトヘイトな
んて、反キリストの代表だと思うけど、張本人はほとんどがキリスト教徒だった。
彼らがなしたのは、神には「不義が正されますように」と祈りつつ、正反対
のことをやったわけです。それを正そうと指摘すると、これまた便利な聖句が
あって、たちまち効力を発揮する。「人を裁くな」(笑)。

では、他方の仏教徒が立派だったか、と言うと、疑問どころの騒ぎではありま
せんけどね(笑)。


175 :名無しさん@一周年:2001/02/20(火) 09:27
1 さん、素朴な質問ですけど、どーして「カソリック」と言うの。
私もカトリック教会とは、長いつきあいですが、シスターや神父さまや信者さんが
カソリックと言うのを聞いたことがありません。みんなカトリックって言ってるけど・・・
1さんは、どこの会派ですか?
       
私は、スペイン系、フランス系、カナダ系の教会を経験しています。
みなさん、カトリックと呼んでましたけど。

176 :いちご姫:2001/02/20(火) 12:44
>174
>カトリックでは特に、懺悔さえすれば赦されるという風潮
があると思います

私もそう思います。その告解無しに個々の罪が予め許されてしまってい
て天国ゆきが確定しているわけではない、というところに、親鸞仏教(
の通俗形)と異なり、人間の悪行に対する宗教的規制・チェック機能が
設定されている、というのが173での私の主張です。

>プロテスタントでも、パウロの言う「人間は自分から
善など何ひとつできない」というのを盾にとって、世界中に行われている不義
を見て見ぬふりでしょう?
プロテスタントは、真宗に近い形態ですからね。(かつて、カトリックの宣教
師が日本に来た時、真宗の流行を見て、悪魔は我々より先にこの世界の最果て
までルター的異端を伝えていた!とヴァティカンに報告していたくらい(笑))

>南アフリカについ最近まであったアパルトヘイトな んて、張本人は
ほとんどがキリスト教徒だった。彼らがなしたのは、神には「不義が正
されますように」と祈りつつ、正反対のことをやったわけです。
そうなのですか?私のうろ覚えでは、南アのオランダ系入植者の信じた
現地の改革派では、黒人は神によって呪われた人種であり、彼らを差別
することは神のみ旨に従うキリスト者として正しい行為だ、と主張して
いた、とような気がするのですが。

177 :部外者:2001/02/20(火) 12:59
>176

>その告解無しに個々の罪が予め許されてしまっていて天国ゆきが確定して
>いるわけではない、

なるほど。

>カトリックの宣教師が日本に来た時、真宗の流行を見て、悪魔は我々より
>先にこの世界の最果てまでルター的異端を伝えていた!とヴァティカンに
>報告していたくらい

はははは。天台宗の僧侶も、ルーテル派を見たら、同じことを言ったことで
しょうね。

>南アのオランダ系入植者の信じた現地の改革派

それは知りませんでした。キリスト教にもいろいろあるんですねえ(^^;
仏教には、幸いにもそういう差別は免れましたが、仏教をカン違いしたお殿様
が犬を駕籠に乗せて人間さまに担がせたという醜態を曝した位か。

で、どこが「改革」だったんだろう、といらぬことを考えたりして(笑)



178 :かとりこ:2001/02/22(木) 05:07
どうも勘違いしているようだが、ルネッサンス期ならいざ知らず、現代のカトリック教会で、懺悔すればすべて許されると思っている信者は見た事がない。教会で義務付けられた「懺悔」の場で何を話していいか判らないといったら、日頃ゆっくりと話せない神学についての疑問でも聞いてくれ。と神父に言われた事もある。
が、悔悛という思考運動は禅の働きに似る部分もあり、自己の相対化の訓練として「懺悔」システムを利用するといったところか。ま、こういうのは自分だけで、他の人は知らないがね。

どっちにしても、物事の両側面を見る必要があると思うが。
皆がいう通り、免罪符的な馬鹿げた利用をされたりした時代もあっただろう。未だそう勘違いしてる奴も居るかもしれない。ただ、懺悔システムが、いわば現代のカウンセリング機能をはたしていた良さもある。キリスト教の欠点があるとすれば「原罪」を強調するあまり、心理的に追い詰められ易い構造があるだろう。その緩和策として機能するなら有効となるだろう。

カトリックの場合教会自体は未だ完成されていないという意識(旅する教会)なので時代が変われば神学的な事も変化している。変化しないのは「かたち(ミサや秘蹟の形式)」でその意味する内容は変わっている。ここで話されている内容が現実とかけ離れていることや過去の話なのでどうもピンと来ない。


179 :部外者:2001/02/22(木) 08:37
>178

あなたの立場はよく理解できました。では、あなたはカトリックの「何」を
信じておられるのでしょうか?懺悔システムがカウンセリングとして有効と
いうのは、一種の「方便」ということですよね。しかも、変わらないものは
「かたち」だが、その意味は変わってきているという。昔は、秘蹟を受ければ
罪は赦される、と信じていた。それが変わったということは、もはや秘蹟を
受けてもプレシーボ(偽薬)効果しか得られない、と言われているように思
えます。

>悔悛という思考運動は禅の働きに似る部分もあり、自己の相対化の訓練と
>して「懺悔」システムを利用する

そういうことならば、直接、禅師の元で徹底的に修行すればよいのですよ。
念仏宗の一遍上人は、念仏する際には、仏を心に描いてもだめだ、と徹底した
「無心の念仏」を要求しています。懺悔や祈りで、そういう修行ができるとは
考えられませんね。祈ってはだめだ、祈ってはだめと考えるのもだめだ、と
禅師に命じられたら、皆さんはどうする?

>旅する教会

というのが、「死後の安楽への無料招待券」に騙された、過去2000年にも
渉る、のべ何兆人もの「債権者」の追及から逃れるための逃避行でないこと
を祈りたい。

180 :名無しさん@1周年:2001/02/22(木) 23:38
エックハルトは?
彼は当時、異端にされちゃったけど。
「神は無」っていっていたような気がするんだが。。


181 :いちご姫:2001/02/22(木) 23:50
>キリスト教の欠点があるとすれば「原罪」を強調するあまり、心理
的に追い詰められ易い構造があるだろう。
 概して、特にカルヴィニズムで特にマイナス面が強く出ているそう
ですね。
>懺悔システムが、いわば現代のカウンセリング機能をはたしていた
良さもある。
 告解はおっしゃるとおり、心理的に非常に有効な機能を担っている、
と思います。

182 :名無しさん:2001/02/23(金) 00:52
そういえば、ユングも告解制度を高く評価していたな。

183 :かとりこ:2001/02/23(金) 03:45
>部外者
1番信じているとするなら、そこに集まる人の営みだな。(と、言ってしまうと簡単過ぎてなんだが説明するとなると膨大な文章量になる)まぁ信じようとする人間の営みがね。好きだ。

・「愛」とはなにか?を考える。
・「神」とはなにか?を考える。
そういう思考は、つまり「善」とは、或いは「普遍の真理」とはなにかという事に置換えれば、別に、哲学的命題でも、仏教の「無」「空」について考える事でも別に同じだしかまわないが、単にガキの頃から親しんでいた「思想」だったからに過ぎない。そこから考える事が自分にとって近道だという事。

「禅」とは確かに前提となる存在(観察者を外部に持つ)が違うから思考運動の根本は違うだろうけど、まぁ十字架の聖ヨハネの書でも読んで見るといいかもね。心を空にするとはまた違うアプローチでやってるけど、そうとうなもんだと思うよ。どっちも体験してみるといいと思うがね。180がエックハルトに言及してるけど、自分も神は明解に応答しないようなそんな存在だと思ってる。

まあ、自分の懺悔システムに関する見解は一般的ではないかもしれないが、カトリックや正教の秘蹟を、合理的解釈から見ると面白いもんが見えるかもな。「キリスト教」をイエスの教えから離して、組織的(政治)として評価しみるのもいいかも。福祉的効用とかね。キリスト教というのはもともとが社会生活(共同体)が視座に入ってるし。西洋は「個」の文化だというけど違うと思うよな。

>というのが、「死後の安楽への無料招待券」に騙された、過去2000年にも
>渉る、のべ何兆人もの「債権者」の追及から逃れるための逃避行でないこと
>を祈りたい。

「誰が天の国に入るかなど云々するな」と聖書にもあるからね。死後の安楽なんて考えるのがナンセンス。そんなものはそれこそ神のみぞ知ることだろうよ。

184 :かとりこ:2001/02/23(金) 04:30
ちょっと補足的に。

カトリックは確かに公式な教義(建前)と現実の場での解釈との開きが存在する場合が多い。こうした二面的な部分でうそつきと批判されてもしょうがないだろう。それに、ある側面から見ればここで書かれる多くの批判は当たってると思う。ただこうした現象がなぜ起きるかと云うと基本的に「隣人愛」を実践してるからだと思うね。つまり過去の人間の営みを決定的には否定しない。愛すべき過去として捉えてるのかもしれない。批判はしても存在を否定する事はしない。それで歴史のなかで作られていった変なものを抱えこむから、矛盾があったり、外目から見ると誤解を招くような事柄も抱えこむんだろう。変化する現場の解釈なんかは時代に合った言い訳を考えてる(よーするに詭弁)とも言えるしね。まあそういう間抜けさ加減が好きだけどね。人間はそういう複雑な「完全を目指したいのに間抜けな事をする」存在だと思うし。教会は人間の理想と現実を知悉しているのかもな。

185 :部外者:2001/02/25(日) 16:25
>183@`184

そういう懐の広さがカトリックの特色なのかもしれませんね。歴史的に見ても、
禁酒法とか、人間の本質を無視して、やたらと厳しい、普通の人間が守れない
ような「戒律」を作り上げて、自らが苦しむというケースは圧倒的にプロテス
タントが多いと思います。

>「誰が天の国に入るかなど云々するな」と聖書にもあるからね。死後の安楽
>なんて考えるのがナンセンス。そんなものはそれこそ神のみぞ知ることだろ
>うよ。

その感覚にも温度差があると思うのですよ。それが、「公式な教義(建前)と
現実の場での解釈との開き」の一例なんでしょうけど。死後の安楽に何も期待
しない人が、秘蹟を受けに教会に通うとは思えませんけどね。そこには、明ら
かに「方便」がある。現に、2chのカキコを見ると、そこを全くカン違いし
ているカトリック教徒(自称だけかもしれないが)が何人かいるのは確かです。
問題は、かとりこさんのようにクールな信者ばかりになっても、教会運営が
成り立つかどうかです。これは生活がかかってくる問題だから、厄介です。

>つまり過去の人間の営みを決定的には否定しない。愛すべき過去として捉え
>てるのかもしれない。

これはよいことかもしれませんが、「過去の反省なき肯定」が悪影響を及ぼし
ているのも確かなことです。その実害を受けるのは、迷信に囚われたごく一部
の者だとしても。「教皇にだって間違いはある」という一点を認めるだけで、
何百万人もの心の盲目者が救われると思いますよ、私は。

186 :かとりこ:2001/02/26(月) 02:47
もしかしたらおれはカトリックでも変なのかもしれないけど、回りの信徒はおれと同じぐらいいいかげんな奴が多い。

>死後の安楽に何も期待しない人が、秘蹟を受けに教会に通うとは思えませんけどね。そこには、明ら
>かに「方便」がある。

実はこういう話を教会でしたことがないんだよ。信徒同志でも話さないというか興味ない人が多いようだ。だから実のところ、みんな、なにを考えているのか知らないんだよ。ごめんな。参考にならなくて。

>教会運営が成り立つかどうかです。これは生活がかかってくる問題だから、厄介です。

ごめん。意味が良く判らんな。現世御利益は求めないと思うし、それをネタに信徒を増やしていると思えないが。プロテスタントでもそういう教派は多いと思うよ。でも、意味が違ってたら御免。

|「過去の反省なき肯定」が悪影響を及ぼしているのも確かなことです。その実害を受けるのは、迷信に囚われたごく一部
|の者だとしても。「教皇にだって間違いはある」という一点を認めるだけで、何百万人もの心の盲目者が救われると思いますよ、
|私は。

おれんとこの神父は良く過去の間違いは、あれははっきりと間違いだった。とか、ワルドは異端なんかじゃないとか、宗教改革のことでも、真面目に考えたからこそ起こし得たことで、プロテスタントの人達の方がずっと真面目だよ。と云われたりする。
教皇の無謬の問題かぁ。教皇も人間だから間違いおかすと思うけどな。神父は自分は一介の人間だから間違いを犯す。秘蹟という場では神が神父というツールを通して顕わされるものゆえそれは真理の存在だが、人間としての部分では間違いを犯す存在だと考えてるよ。だからミサという最大の秘蹟は、象徴的な、想像の余地あるかたちになってるんだと思うね。あれだと説教以外は本人の思想が入りこみづらい。
聖霊がいつ如何なるかたちで働きうるのか、教皇はそれを見極める能力のある人間でないと勤まらないと思うね。完全なる滅私の人間じゃないと。まー普通は居ないと思うけどね。

そういやカトリックのきちんとした教義(要理?)って成立はかなり遅いらしいね。宗教改革期以降からまとまり始めたという話を聞いたけど。本当かな?

187 :部外者:2001/02/26(月) 09:03
>186

>だから実のところ、みんな、なにを考えているのか知らないんだよ。
>ごめんな。参考にならなくて。

いえいえ。私ごとき文字通りの「部外者」を相手に、真摯にお付き合いくださ
ったことに心から感謝していますよ。これまで何度かカキコしたけど、途中で
無視されてしまったもので。

>>教会運営が成り立つか

仮にですよ、法然さんの念仏なり、日蓮さんのお題目について「無功徳!!」と
一喝して、それでも信仰を続ける人が何人いるか、と考えたのです。程度の差こ
そあれ、心理的にはキリスト教も例外ではなかろうと思います。

>おれんとこの神父は良く過去の間違いは、あれははっきりと間違いだった。
>とか、ワルドは異端なんかじゃないとか、宗教改革のことでも、真面目に考え
>たからこそ起こし得たことで、プロテスタントの人達の方がずっと真面目だよ。
>と云われたりする。

面白いことに、宗教改革以降に出る「改革派」は、ほとんどがプロテスタント
から出て、たいていはカトリックよりに軌道修正する。ヒルティなどがその好例
です。それは、カトリックが「無条件の贖罪」に対して歯止めを持ち、日常に
イエスの理想を実現することに意義を認めているからだと思います。パウロの
毒が回る前の、「古きよき時代のキリスト教」の面影(仏教で言う菩提心の実践)
をカトリックは残しています。

>聖霊がいつ如何なるかたちで働きうるのか、教皇はそれを見極める能力のある
>人間でないと勤まらないと思うね。完全なる滅私の人間じゃないと。

全く、おっしゃる通りです。


188 :現役信者:2001/02/27(火) 02:23
崇敬と崇拝は全然違います。日本語で似ているだけで、ラテン語では似て非なる
言葉です。君達程度が低すぎる。読んでて滑稽ですよ。もっと勉強して下さい。

189 :名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 03:25
>188
そういういばる態度が皆さんの心をカトリックから引き離す・・・
あなたこそ反省しなさい!皆さんのために祈りなさい!!
しばらくカキコを止めて自分の心に落ち度がないか考えなさい!!!

190 :名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 03:27
188よあなたの文はキリスト者として
ゆるされるべきものか?

191 :名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 03:33
>188
程度が低すぎるなんて、言い過ぎです。
私たちが主イエスの教えに導かれたのは私達の力ではなく
主の導きによるもの、たまたま運がよかっただけのこと。
他の人々に主イエスの愛を分け与えるべきあなたがそんな態度で
許されるわけがないではないか!!猛省すべし!!

192 :薔薇の名前:2001/02/27(火) 08:21
とても面白いスレ。
age

193 :部外者:2001/02/27(火) 17:48
>>188

程度が低いのはその通りと認めますけど、では「崇敬」と「崇拝」とはどのように
違うのか、教えていただけませんか?また、信仰者は自分の信仰がどちらに該当
するものかを見分ける方法とは何でしょうか?

194 :いちご姫:2001/02/27(火) 22:47
 崇拝はその対象自身を神としてあがめ敬う事、崇敬はその対象に神の恩寵が特に
明らかであったりそれを通じて神が映し出されていたり神との密な交わりを持つ者
であったりする対象に尊敬や嘆願やそれに映し出されている神自らへの崇拝の念を
捧げる事だ、と思います。
 ちなみに、崇拝はライトレイア、崇敬はプロスキュネーシスだったと言う記憶が。

195 :部外者:2001/02/28(水) 08:42
>>194

う〜む。キリスト教で言えば、十字架を「対象に」、神様への尊敬や嘆願や崇拝
の念を捧げることが「崇敬」ということになりますね。これに対して、十字架
自体に何か特別な効力があると迷信するのが、「崇拝」にあたるのでしょうね。

理屈はわかったけど、日常生活の祈りが果たして「崇敬」になっているかどう
かって判断は難しいと思います。まず、祈る相手が「誰だ」という問題があり
ます。一番わかりやすいのはイエスの肖像。誰もが自分で作り上げたイエスの
像を持ち、これと対話し、これに祈る。しかし、その像は想像の産物で、イエ
スご自身ではない。それは「崇拝」にあたらないのだろうか。

もうひとつ、Massでふるまわれるパンは、なぜ教会御指定の儀式でなければ効力
がないんだろうか。「崇敬」の対象ということなら、対象は何でもいいはず。
その向こうに神への尊敬や崇拝の念さえあれば。ホスティアだけでなくて、神は
万物に宿っておられるのだから。そう考えていくと、Massは崇拝になっていると
いう気がしてくる。ましてや、Massを受けないと救われない、というのは偶像
崇拝以外の何ものでもないと思う。明らかに「崇拝」の対象、という枠組みを
はみ出しています。

196 :マリア:2001/02/28(水) 17:36
>>195きちんと公教要理だのを学んだキリスト教徒の中で、
像に向かって拝むという習慣はないわね。
三位一体の神に向かって拝しているはずよ。
あたしも以前はというか幼児洗礼のカトリックだったし、
母や母方の祖父母から良く教えられたから、よく分かるわよ。
というか、あたしでさえといった方が正しいかしら?

この以降はどこかにうまく書いたのだけど、
今回うまく書けるかどうかは分からないから許してね。
あたしも長らく教会を離れているから、怪しいから、
もしよければカトリックの方、フォローをしてちょうだい。

まず、ミサは最後の晩餐を記憶し、キリストの十字架の死と復活を
思い起こすもの。そして、新たな信仰生活の糧とするためのもの。
そのために、第一朗読・第二朗読、そして司祭による福音書の朗読、
司祭の説教もその中に含まれているの。

ミサ聖祭の、聖変化の儀式を通じて、聖霊がパンとぶどう酒に降るのよ。
でも、その意味が分からないと、単なるパンとぶどう酒としか思わないわね。
御聖体を受けるためには、まず受ける側のチャンネルが合っていないと
普通のパンを食べるのと同じことになるのよ。
それでは、祭儀の意味がなくなるもの。祭儀=霊的なものを呼ぶ儀式。
カトリックでは、幼児洗礼を受けていても、小学生くらいまでは
御聖体を受けることは出来ないの。

だから、これは崇拝じゃなくて、聖霊を受けて、
正しい信仰生活を送るための手段のひとつと言った方がいいわ。
霊的なことは、あたしのように見えたり聞えたりする事だけでなくて、
このようなことも霊的なことなのよ。

あたしの理解はこんなところだわ。おぼろげな記憶に頼っているので、
ちゃんとした答えになっているかは分からないけど・・・。

197 :いちご姫:2001/02/28(水) 18:13
>Massでふるまわれるパンは、なぜ教会御指定の儀式でなければ効力がないんだろう
か。
 カトリックやオーソドクスの理解では、ミサや聖体礼儀で分かち与えられるパンと
ぶどう酒はそれ自体がクリストスそのもの、なので、崇拝の対象となるはずです。
(カトリックには現に御聖体の崇拝、ってありますよね、確か。)
>その向こうに神への尊敬や崇拝の念さえあれば。
 これは、聖体を神そのものと捉えない立場でしか言えない主張です。しかし、プ
ロテスタントですら、例えば、パウル・ティリッヒは、完全に恣意的なサインと文
化的相対性という意味での恣意性は存在しながらも、その文化・歴史の限りで対象
と特別な関係を持つシンボルを区別し、シンボルであるパンとぶどう酒は(少なく
とも我々の)基督教においては置換不可能だ、と主張しています。この歴史的被規定
性の議論は、歴史を負った存在、歴史的過去に超越論的に規定された存在としての
人、という文化的存在性を良く把握した立場だ、と私は評価しています。
>神は万物に宿っておられるのだから。
 キリスト教の、所謂<正統派>においては、上記引用のような汎神論は排斥され
ます。万物は、あくまで、神の手による被造物です。(なお、私の個人的意見では
キリスト教的被造論よりは、西田的な万有内在神論が正しい、と思います。)



198 :いちご姫:2001/02/28(水) 18:14
>Massを受けないと救われない
 ミサや聖体礼儀の効力は、(1)クリストスにより定められたものであり、従って、
特別な恩寵がそこに注がれる、(2)カトリックにおいては十字架上の犠牲が再現さ
れる、オーソドクスにおいては聖体礼儀全体において神が臨在する、などの、神との
より密な特権的な結びつき、等の理由に基づいているのだ、と思います。それらが
迷信や独断だ、と考えられるならば、ミサや聖体礼儀への特別な態度は偶像崇拝的
である、との批判を感受せねばならないでしょう。
>その像は想像の産物で、イエスご自身ではない。それは「崇拝」にあたらないの
だろうか。
 このような<敬虔な>信者が陥りやすい<偶像崇拝>については、少なからぬ教
派はそれぞれ予防措地を(十分ではないかもしれませんが)施しています。一部の
(私が知る)プロテスタントでは、祈りの内容それ自体が神の御心でなく、あなた
の個人的欲求から出たものでないか注意する様、指導されますし、オーソドクスで
は、そもそもそのようなエゴイスティックな祈りに向かわない様、自由な祈祷それ
自身が戒められています。


199 :名無し:2001/03/01(木) 02:26
わしも質問!!
「地動説」とか「進化論」に対して、今はどういう見解?

200 :名無しさん@1周年:2001/03/01(木) 02:40
>>199
http://pweb.sophia.ac.jp/~f-momose/qaindex.html
↑が参考になると思います。


201 :かとりこ:2001/03/01(木) 12:12
しばらく忙しかったので来れなかったが良い議論が続いているね。
部外者さんには感謝してるよ。

崇敬や崇拝ってのはそれこそ部外者から見たら詭弁としか思えないだろう。
だから批判する人の言うことは当たりだね。実際崇拝的に接してる人間もいるだろうし。

で、宗教という枠で見るとどの宗教も崇拝があるんだよね。現世御利益的な関係や、明解な人格的存在をね持ってる。
ここで面白いのが中国。あそこはいわば純粋理論的な儒教と土着信仰的な、民衆道教があるね。(道教も純粋理論もあるのでこう呼ぶ)。民衆の多くが形而上学だけでは満足出来ないという歴史があるようだ。この辺りは排除しようと思ってもかたちを変えて出てくるね。いったいなんだろうかと思うときがあるよ。

まぁ、カトリック批判する人の理論はいつも同じなんだが、カトリックのなかに多重の存在があるんだよ。いちご姫の紹介するような理論を持ってる奴も居るし、それこそ偶像崇拝的な奴も居るし。なんかね。本来宗教ってのは個人と神の問題だからね、ケースバイケースでこのようであらねばならないということは言えないんじゃないかと思う。ことばで説明しすぎたり、決め付けすぎると破綻があると思うよ。

おれは崇拝でも崇敬でも、秘蹟それ自体に懐疑的でも、何でも良いと思ってるよ。人が其の人生で、辛かったりした時、その意識で救われるんならどっちでもね。おれ自身はどっぷりと現代思想や合理主義に浸かってるから、斜に構えた捉え方しか出来ないけど、他の人は他の人のやり方で神に近づけるならそれで良いだろうと思ってる。聖霊ってのはそういう働きかけ方をするもんだとおもうよ。

202 :ななし:2001/03/01(木) 16:17
いえてるな>201
プロは聖書(言葉)を重視する立場から、カトの秘蹟(行為)を批判するが、
聖書だって、読み方を誤ると偶像になりうるわけだし。
たしかにケース・バイ・ケース。


203 :いちご姫:2001/03/01(木) 20:10
202
 確かに。
カトリックにはPopeがあり
プロテスタントにはpaperがある、
というジョークもありましたしね


204 :保守派:2001/03/02(金) 01:58
そうだからプロテスタントの聖書信仰なんてカトリックの教皇制度より
始末悪いわ。紙の教皇って良く言ったもんね。
私が以前行ってたプロの教会は今思えばファンダメンタリストだったの。
カトリックよりずっと閉鎖的で、おまけに牧師は教皇のようにふるまっていたの。
だから私はカトリックに変わったの。そのせいでか今では超保守的なカトリックよ。

205 :かとりこ:2001/03/02(金) 02:29
>保守派
ふーん。よかったな。ぴったりの場があってな。
で、オプス・ディは好きか?

206 :部外者:2001/03/02(金) 09:33
思わず、「崇拝」と「崇敬」について勉強でき、拾い物でした(笑)。そうです
ねえ。201さんの言われる通り、多重構造なのでしょうね。そして、仮にですが
偶像崇拝者のキリスト教徒が、仏教徒に鞍替えしても、やはり偶像崇拝しかでき
ないと思います。

問題は、仏教寺院では死後の供養と称して偶像崇拝を奨励することが公然と行わ
れていることです。お経をたくさん読んだり、経文で信徒の頭をどつくと、不運
が去るというのは、お経の偶像崇拝です。お釈迦様はそんなことをただの一度も
勧めたことはなかったのに。偶像崇拝で金儲けができるものだから、もう二目と
見られないほど仏教は堕落してしまいました。これに比べたらキリスト教会は
どこも優秀だなあ(嘆)。

207 :薔薇の名前:2001/03/02(金) 09:36
ところで、司祭に女性がなれない(何度もこの点についてはバチカンでも討議があったと聞いてますが)という点について、信者(特に女性)はどう思ってるんですかね?
聖公会では2、3年前くらいに女性の司祭が誕生しましたね。

それから知人のシスターは祈るときの呼びかけに(英語では)「my sisters and brothers」とあえてsistersを先に言いますが、日本語でも「姉妹兄弟たち」と言いかえる人がいるんですか?

フェミニズムとカトリックとは相容れにくいものかも知れないけど、その辺を知りたい。

208 :神父萌え〜:2001/03/02(金) 22:34
ん〜無理に女性も!とかは思わない。
だってたぶんどこの教会でも婦人会は隠然たる勢力を持ってるし。むはははは。
矢面に立たないで殿方を操縦するのが楽しいんだもーん。

209 :かとりこ:2001/03/02(金) 23:18
>部外者
別にどうでも良いと思ってるみたいだな。
そういうことに目くじら立てるような人間があんまり居ないようだが、
フェミだと、見捨てて他所行っちまうのかな?寂しいな。
ま、侍者には御婦人が多いがな。208のいう通り、教会じゃ若い神父を
こき使うおっかないおばはんもいるしな。

まあ、時代もあと100年後にはどうなってるかね。
フェミニズムに関心あるカトリック女性の意見を聞いてみたいね。

210 :でもさー:2001/03/02(金) 23:24
聖公会の中でも賛否両論でモメモメだって聞いたよ>女性司祭
フェミニストはカトなんか来ないではなっからプに行くんじゃないのぉ?

211 :いちご姫:2001/03/02(金) 23:29
 古典教会には、アナロギアの発想が神学に根付いていますからね。
単なる、男性至上主義批判だけでは、女性司祭職の導入を推進するこ
とは、容易ではないでしょうね。
 私は個人的には、司祭であれ主教であれ、女性でなにもイヤではあ
りませんけど。

212 :薔薇の名前:2001/03/03(土) 07:18
>>209
>>210
>>211
何をもってフェミニズムと言うかによるんでしょうけどね。
ただ、前述の通りシスターによってはあえて「Sisters and brothers」と呼びかける人も結構いるし(どこの修道会か言っちゃうのも何なので)、人権問題に深く関わっているシスターもたくさん知ってる。
人権問題を云々するときはフェミニズムの問題を避けて通れないところもあるんで、フェミニストが全部プロテスタントに行っているとは思いませんがね。
聖(教義)と俗(社会活動)とで割り切っちゃってるんでしょうか。

もうひとつ知りたいのが、シスターはわかるとして、マザー・テレサのように「マザー」とつくのはどういう人がいつからこう呼ばれるんですか?

213 :いちご姫:2001/03/03(土) 10:11
>212
 怪しげな知識なので間違っているかもしれませんが。
確か、修道会の院長か会長に就任すると、「マザー」になるのではあ
りませんでしたか?

214 :かとりこ:2001/03/03(土) 12:09
>いちご姫
俺もそう聞いたな。ただ敬称としてマザーを使う人も居るようだ。
イタリアでは年を召したシスターにマードレと呼びかけてるね。
シスターに聞くと、シスターで良いわよ。敬称は要らない。
と言ってるけどね。
>薔薇の名前
カトリックは社会運動方面での団体も沢山あるからな。
そういうのを率いてるシスターは沢山居るね。
かたちを整えるより、実践をとるという感じなんだろうか?

215 :大阪教区:2001/03/04(日) 00:10
>210 そーですよ。それに聖公会は司祭不足から女性司祭を認めただけで、
別にフェミニズムからでは無いと思う。あってもそれを単に理由にしてるだけ。
実態は単なる司祭不足から。カトリックは聖公会の真似をすべきでないと思います。
司祭不足は問題だけれど。それを女性司祭を認めるのとは別問題。
女性司祭を認めないのは別に差別とかそういうのとは違う問題です。

216 :通りすがり:2001/03/04(日) 11:46
カトリックの方って、普段からロザリオを携帯してメダイを胸につけている
人が多いんですか?


217 :日本@名無史さん:2001/03/05(月) 00:58
メダイはペンダントのように首に掛けるので、一度身に付けると
けっこう長くつけています。
ロザリオは教会でも家でも唱えることは少なくなってきているので
引出しの中に置いている人が多いのでは。
私はメダイは首に掛けていますし、ロザリオは指ロザリオをはめて
います。
ただ、信仰が伴っているかは大きな口ではいえませんが
支えにはなっています。

218 :ななし:2001/03/05(月) 01:07
カトリックですが、メダイもロザリオも机の中に入れっぱなし(^^;
なんかああいうものを身につけると、息苦しくなっちゃんだよね。
四六時中監視されていて、悪いこと?させてくれないような感じ?
罪意識みたいなものがムクムクと頭をもたげてきてね。

219 :名無しさんといつまでも一緒:2001/03/05(月) 01:08


ここにたくさん偽善者がいるよ
相談してみれば?

http://www.otera.net/yybbs/yybbs.cgi

220 :ななし信者:2001/03/05(月) 22:19
指ロザリオ便利〜!
帰る道々ロザリオができるぜい!!!
安いし(¥50)!!

221 :名無し:2001/03/05(月) 23:13
>218
身に付けると息苦しい?
ああいう小道具でも、心に与える影響力ってそんなに
強いものなんでしょうかね。
同じような感覚をもっているカトリックの人って
多いのかな。

222 :私も名無し:2001/03/05(月) 23:16
「不思議のメダイ」って一般書店で販売されているけれど、
あれって本物?
「不思議の・・・」というぐらいだから、何か御利益
ありました?

223 :名無しさん@1周年:2001/03/06(火) 05:39
何十年ぶりかに教会に行きました。
すると、誰も白いベールをかぶった信者さんがいなくて、
誰が信者で誰が信者でないのか、全然わからなかったです。
受け付けの人に聞けば、今はかぶらないとか。
病気の人がかぶったりすると聞きました。
ロザリオを持っている人もなかったし、あのベールはどうなったのでしょう。

224 :薔薇の名前:2001/03/06(火) 08:18
>>215
> それを女性司祭を認めるのとは別問題。
> 女性司祭を認めないのは別に差別とかそういうのとは違う問題です。

じゃあどういう問題?

225 :部外者:2001/03/06(火) 09:08
>女性司祭

別にいいんじゃないのかな。カトリックの教義では、司祭の資質に関係なく、
秘蹟は有効なんでしょう?それが女性なら何で駄目になるのかわからない。
サマリヤ人の司祭だっていいじゃない(笑)。

ロザリオも「不思議のメダイ」も、足の悪い人が頼りにする杖のようなもの
でしょう。使うのは結構だけど、最後には捨て去る用意ができていないとね。
その点から言えば、「南無阿弥陀仏」の方が「エコ的」にすぐれている(笑)。

226 :部外者:2001/03/06(火) 11:24
>「不思議のメダイ」

私も数年前、付けていたことがあります。確かに「効果」はありま
したね。海外出張中のことですが、交通機関のゼネストに出くわして、
田舎の無人駅で立ち往生し、危うく野宿をするはめになるところでした。
諦めて立ち去ろうとした瞬間、どこからともなく、人気のない駅を
1台の流しのタクシーが通りかかり、難を逃れることができました。

ただ、そういう「奇跡」みたいなことを期待して所持するべきではな
いと思います。「奇跡」にとらわれると、どうしても「我」が出てきて
ご利益信仰になってしまいます。不思議なことに、そうなるとお陰も
ピタッと止まってしまうようです。

「メダイ」の効力とは、持つことで安心感ができて、取り越し苦労が
なくなる。それで「我」の執着が薄らいで、神に心を開けるようにな
る、ということだと思います。「無我」になれば、神はいくらでも
その人に奇跡をくださります。これは、どのような「いかがわしい」
宗教で信仰をしても、真心がこもっているはじめの内は「お陰」がもら
えるということからもわかります。神様の奇跡は、「期待しない心」に
こそくださるものですから、求めると得られないのです。また、それ
こそが神の御慈悲の現れです。

「メダイ」も、他の秘蹟や洗礼と同様、「我」から離れて神へ心を
開くために使って初めて「有効」だと思います。そういう使い方をして
いる人が多いことを祈っています。

227 :ヴェール:2001/03/06(火) 22:24
長崎の信者さんはかぶり率高いよね。今でも。

228 :かとりこ:2001/03/06(火) 23:49
こないだ不思議のメダイをもらったがな、
別に何もないな。
>>227
長崎は他にも色々と保守的らしいね。


229 :名無し:2001/03/07(水) 00:03
>司祭の資質に関係なく、秘蹟は有効なんでしょう?
>それが女性なら何で駄目になるのかわからない。
いや逆。資質に関係ないから、女性司祭はダメという論理。
カトリックでは秘蹟と教会観が深く結びついているから、
教会観をあらためない限り、女性の叙階は難しいと思う。



230 :薔薇の名前:2001/03/07(水) 07:26
>>229
ごめんね、やっぱりわからん。
なんで資質に関係ないのが女性司祭がダメという論理になるのかわからない。
女性を叙階するのにあらためないといけない教会観の部分ってどんなもの?

建前もだけどホンネも知りたい。

聖公会が女性司祭を認めたときに新聞には(正確かどうかは知らない)、イエスは男性であったので「これは私の血である」なんて言うときに男性でないと真実味がないとかかんとか書いてあった。
ちょっと説得力に欠ける説明だなあとは思ったけどね。

231 : :2001/03/07(水) 07:48
>>230
イエスの弟子が全員男だったってのも関係あるんじゃないの?
よくわからんが。

232 :名無しさん@1周年:2001/03/07(水) 07:53
カトリックだけの話ですが、ローマ法皇は、イエス亡き後の最高指導者
ペトロの後継者と位置付けられ、司教は、12使徒の後継者と位置付けて
います。司祭は、それを補佐する役目です。(一般的には、新約聖書では司教が監督者と訳され、
それを補佐するのは長老と訳されています。)
起源について、プロテスタント教会では全く見解が異なります。法皇がペテロの後継者とは、
全く認めていません。従って、司教司祭についての見解もカトリックとは違います。
           
したがって、イエスの福音や伝道や信仰についての世話には、生涯を独身で捧げる
カトリック教会の聖職者を司祭と呼ぶ、というふうに考えても良いと思います。
司祭の独身制、修道会といったものの存在もあり、現況では、女性司祭は難しいと
思われますが、今後どうなるかはわかりません。
 (キリスト教がよくわかる本・井上洋治からのまとめ)     

233 :部外者:2001/03/07(水) 09:37
>232

ああ、そうか。女性司祭を作ると、男性司祭との「隔離」が問題に
なるわけね。教皇庁でも、便所と個室に男女の別が必要になる。
それとも、今でも区別あるのかな?

あまり詳しくないのですが、イエス没後すぐの教団の一つに、マグダラ
のマリアをイエスの後継者とする団体があったと思います。それとの
対立が2000年後も根強く残っているのかなあ。

234 :いちご姫:2001/03/07(水) 10:39
>233
 マグダラのマリア系教団の存在と女性司祭否定・女性差別との因果関
係は、おそらく逆でしょう。当時の平均的価値観からして女性は劣悪・
被支配者だ、と考えた人々(ペトロスなど)が、マグダラのマリアなど
原始キリスト教団における支配的地位の女性の批判・排除を試みた、と
いう関係だ、と推測します。
 あとね、パウロスの書簡によれば、女性の指導者が異邦人教会にもい
たらしいです。「アンドロニコ、および、ユニアによろしく。この二人
は使徒の任にある人々の間で目立っており」(ロマ16―7)このユニアは
従来男性形ユニアスと訳されて来たもので、希臘語の原文からは男女何
れとも採れるそうですが、当時Ms.ユニアは沢山いたのにMr.ユニアスは
殆どいなかった事からして、この方も女性であると考える方が合理的だ
、という話を聞いた事があります。とすると、使徒の中ですら女性がいた
ということになりますね。


235 :229>230:2001/03/07(水) 14:04
簡単に説明すると、次のようなこと。

カトリックでいう秘蹟は単なる徴ではなく、これによって恵みが伝達される
と考えられている。だから秘蹟執行者である司教(司祭)は特殊な身分であって、
単なる教師のような機能的な役職ではない。そして司教のこの身分は12使徒の
後継者としてキリストに由来するが、12使徒には女性はいなかった。だから、
女性の叙階はダメということ。教書『インテル・インシグオーレス』では、
人間の権利(人格)の問題ではなく、教会論の問題だと指摘している。

第2バチカン公会議によって、カトリックの教会論は大きく変革したんだけど、
この公会議には当然保守派も多く参加していたから、どうしても伝統的教会論
と折衷したような教会論に落ちついてしまっている。だから女性の叙階の問題に
ついてのバチカンの見解も旧弊?に引きずられてしまっているのだと思う。


236 :部外者:2001/03/07(水) 15:19
>235

う〜ん。いっそのこと、イエスがオカマとして現れてくれたら
よかったのに。そんな頭の固い人種が現代に生存しているとはね、
全く。遺伝子操作でなんとかならないのかね(笑)。


237 : :2001/03/07(水) 16:15
>>236
二千年近くも続いてきたんですから
そう急激には変われませんよ。


238 :大阪教区:2001/03/07(水) 23:55
>235 >236 どーしてそんなに女性司祭の誕生を望んでるんですか?
女性司祭を認めないから旧弊だとか保守的とは私は思いませんがね。
他にもそんなことあるでしょう。大峯山とか土俵の上とか、別に良い悪いじゃなく
て単に昔からそうなってるってことですよ。カトリックは聖公会やプロの真似
なんかする必要ありません。女性司祭を認めるならカトリックやめてやる。
それに女性司祭を望んでる女性信徒は少なくて、大部分の女性信徒は女性司祭には
反対らしいですよ。

239 :東京教区:2001/03/08(木) 00:16
私も、女性司祭反対です。やめたくなります。
前、ボーイスカウトで女性がリーダーとして導入された時、
息子をやめさせようと思いました。その時と似た感じです。
学校も稽古ごとも女の先生ばかりで、逞しい男のモデルが
男の子には必要、と考えてボーイに入れたのに、詐欺だと思いました。
 
司教も司祭も、祭壇で12使徒を連想させる男性が、イエスキリストの祭祀を
行うことで、独特の荘厳な雰囲気を生み出しているのに、それを乱す
女性導入は、絶対反対です。

240 :東京教区:2001/03/08(木) 00:25
ついでに、シスターは、結構権力を持っていて、多くのことを仕切っています。
カトリックの学校の校長や、女子修道院長など、多くの聖職としての
ふさわしい場があります。カトリックでは、男性と女性がそうして、
それぞれの能力を発揮して、棲み分けているのに、外野になんで、
文句を言われなくてはいけないのかと思います。
共学も、男子校も、女子校もそれぞれの良さがあるように、どこもかしこも
女子を採用しろ、なんて大きなお世話です。

241 :部外者:2001/03/08(木) 08:31
>239

これはいじわるで突っ込むんじゃないけど、宗教って雰囲気で決まるものなん
ですかね?確かに雰囲気を高めるために、法服とか教会の内装にこだわるのは
必要かもしれないけど、福音書の中に出てくるイエスの姿に忠実に「祈りの場」
を再現するとすれば、大勢の会衆の前にあるのは、わずかなパンと魚だけ、
しかもその会衆の多くは、業病に侵されて見捨てられた人々や、売春婦達だった
のですよ。雰囲気という点では、全く逆効果になっているように思いますね。

私は別に女性司祭が必要とは思っていませんけど、もし、司祭にふさわしい
方が女性だったとした時、単なる教会指導部の意向だけで司祭になれない、
というのは本末転倒だと言いたいのです。ましてや、秘蹟は司祭の人格如何
によらず有効って言っているんですからね。

242 :東京教区:2001/03/08(木) 09:10
>241
そうくるだろうと思ってましたよ。
ほかの信者さんは知りませんが、カトリックは一旦、洗礼を受けたら
原則破門も強制退会もなく、ずっと信者で、極端に言えば、
教会に行かなくても充分、信仰できる宗教ですよ。
教会の無い離島や、刑務所の中でも、深い信仰を持つ気があれば、
信仰生活に何の支障もありません。教会に行ってない信者も多いですよ。
その場で神に祈り、対話することで信仰が成り立ちます。
       
あえて、教会に行くのは、勉強(福音)信仰の再確認(秘蹟)宗教的雰囲気(心を清める)反省(告解)
などでしょう。宗教的雰囲気をバカにしてはいけません。
いわゆる2000年の歴史が凝縮された空間ですから、身も心も引き締まります。
カトリックの信者でない人に、男女差別なんて観点から、それを論じる権利、壊す権利がありますか。

243 :東京教区:2001/03/08(木) 09:41
いっておきますが、イエスの教えがキリスト教になったのは
イエスが死んだあとですよ。死んだ人を祭るから祭壇が出来たんですよ。
例えば貧しい人の中に入って世話をするためには祭壇なんていらない。
それが、信仰生活。イエスは信仰生活の手本を見せてくれていたと思いますね。

244 :部外者:2001/03/08(木) 11:31
>242-243

では、私のように一度も教会に行かない人はどうですか?教会に
行かず、「死んだイエス」を崇拝するのではなく、生活の中に「生きた
イエス」の理想を、少しでも実現したいと考える人は、死後どうなり
ますか?

245 :いちご姫:2001/03/08(木) 14:01
>242 カトリックの信者でない人に、男女差別なんて観点から、それを
論じる権利、壊す権利がありますか。

 あると思うよ。就職差別は十分日本国国民一般が論じ得る課題だもの。
ちなみに無制限なものである思想・信仰の自由は内面に限られ、言論の自
由はそれより制約があり、行動の自由(司祭に誰を選ぶかはこれにはい
る)は更に制約があるもの。


246 :いちご姫:2001/03/08(木) 14:10
追記
 少なくとも論じる権利は確実にある、と思います。言論の自由の制限
は、私人のプライバシーの暴露や名誉毀損、誹謗中傷等にかかわるもの
だから。(特に権益の保護がなされている)公的団体である宗教法人の
その運営方針や思想信条に批判を許さない、としたら、それは自由主義
社会の特性を自己にのみ都合よいように利用する、卑劣な反−自由社会
的存在です。

247 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 16:20
理屈では、いちご姫さんのおっしゃることは全く正しい。
         
しかし、かって男女平等を謳い、世界を巻き込んで始まった「ウーマン・リヴ」運動が、
致命的な失敗をして、衰退した理由、は男女の雇用差別撤廃だということを、ご存知ですか。
   
男女の特性を省みず、同じ権利を主張することによって、女性側に多大な負担と不都合をもたらす
義務が生じてきた、というわけです。いわば、女性が自分で自分の首を絞めることになった
わけですね。我々の世代(団塊の世代)はそれを忘れていないので、男女雇用機会均等法の
成立の時も、慎重にならざる得なかった。
           
男女雇用差別を撤廃しよう、という意見を述べるのは自由だが、本来、その職種に精通した者たちで
慎重に論議されるべきことで、職業特性を無視した社会的圧力には、断じて屈する必要はない。
必ずしも、男女が同じ職種につき、同じ権利と同じ義務を与えらることが、差別が解消したり
自由を得られることではないことを、念頭に置いた上で議論願いたい。

248 :コアラ:2001/03/08(木) 17:04
>244
部外者さんにひと言。もし、それが部外者さんのことだったら、あなたの2CHでの言動は
卑怯としか思えない。「生きたイエス」の理想を実現したいなんて、ちゃんちゃら可笑しい。
だいたいHNからして、何の部外者か知らないけど、自分を安全な場所に置いて
正面から向き合わないという姿勢がありありでしょ。
            
無知なみんなは部外者というHNを安全弁のように感じて騙されてるけど、騙せない人もいるのよ。
「生きたイエス」の理想を生きる「当事者」が、そんな汚い手を使うかなあ。
部外者さんの2CHの楽しみは、他人のレスのほつれにからまること。2CHでは常道。
こんなとこに常駐してること自体、何が「生きたイエス」の理想を生きてるんだか。
わらっちゃいま〜す。社会的に死んでないかい(ワラ

249 :部外者:2001/03/08(木) 17:24
>248

うむ。その批判は半分は当たっていると思うぞ。
ただ、これだけはわかってほしい。私はキリスト者をつまずかせる
ために仮面をかぶってここにカキコしているのではないことを。
皆に気付いてほしいんだよ。自分が万全だと思っている信仰の基盤が、
実は何の根拠もない「幻想」だってことを。

私としては、それこそが「生きたイエス」の理想を生きることだと
本気で信じているんです。これはマジレスだぞ(^^)。

250 :無知な歴史好き:2001/03/08(木) 17:24
何もどの職種にも必ず女性が就かなければならないとか言ってるわけでは
ないだろうに。
同じ権利と義務を与えられる、というか持っているということが差別の解消と
自由を得ることに繋がらないというのはスゴイ主張だと思うけど。

女性が自分の首を自分で締めることになったという考え方自体が
女性差別だと思う。今まで楽させてやったのにってことでしょ?

ウーマン・リブが失敗したのは、男性女性で人間を区別しすぎたからだと
個人的には考えてる。確かに女性に向かない職業ってのもあるけど、それを
こなす事のできる女性だっているし、その職業に適応できない男性だって
存在する。それを女性対男性で括ろうとしたから失敗したんじゃないかな?
まあ、それとは別に持たなければ楽できた部分を背負わなければならなく
なったのが嫌だったってのもあるだろうけどね。

というわけで>>247さんの発言を念頭には置きたくないです。

>>248さん
で、あんたはカトリック信者なの?でそういう書き込みは信者として許される
ものなんですか?ちなみに僕は信者ではないです。

必ずこんな感じでおかしくなるんだよなカトリックのスレはさ。

251 :破綻者:2001/03/08(木) 17:25
他はともかく、242.243に対する244のレスは??????????だよなー


252 :部外者:2001/03/08(木) 17:36
>251

ちょうどよかった。あなたが私に答えてくれ。
私は真剣だぞ。あなたが答えなければ、私を見捨てたことになる。
さあ、どうだ。

253 :横槍者:2001/03/08(木) 17:59
>皆に気付いてほしいんだよ。自分が万全だと思っている信仰の基盤が、
>実は何の根拠もない「幻想」だってことを。
こういうことを言う人ほど頭の中が観念(幻想)で一杯なんだよな。
たぶん社会経験もそんなにないんだろう。
他人に揉まれることを恐れ、受け売りの知識で自己防御してるんだろうね。

254 :部外者:2001/03/08(木) 18:04
なんだ。屁理屈ばかりのハッタリ野郎か。

本当に自分が理解していないから、他人を導けないんだよ。いつまで
教会の指導部の言いなりになっているつもりかな?死んだら、あなた
ひとりだけで「裁き」を受けるんだよ。問うているのが私でなくて
天国の門番だったら、どう答えるのだろう。

結局は、他人の魂の救済など二の次で、本心は自分さえ助かればいい
と思っているエゴイストの集まりらしいな。それがイエスの心に叶う
と思ったら大間違いだぜ。自分が本当に、洗礼がなければ救済はない、
と信じているのなら、真顔で「部外者さんも洗礼を受けなさい」と
諭すだろう。それができないのは、自分でも確信がないからさ。

あなた方の信仰とは、実に「生ぬるい」(ヨハネ黙示録)ものだと
いうことがよくわかったよ。

255 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 18:16
>洗礼がなければ救済はない、と信じているのなら

残念ながらカトリックにそういう教えはない。

↓のスレの>>43-50をみてみたら?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=983708041

256 :部外者:2001/03/08(木) 18:35
>255

読んでみて、かえってがっかりしましたよ。これでは、教会で洗礼
を受ける意義がないではありませんか。

なるほど、カトリック教徒であるからと言って、私の魂を救える人
がひとりもいないという理由がわかりました。

しかし、それが宗教なんだろうか。いや、そういう宗教に皆さんが
本当に満足されているのだろうか。先ほどの一連のスレを解釈する
限り、教皇ですら救われるのは神まかせなんでしょう(46)?地獄へ
おちるかもしれない司祭の説教聞いて、何がありがたいんだろうか。

そんなことより、この世で「天国への確信」を持てない人が、どう
して死後に天国へいけるのかが不思議。「確信」がない限り、死ぬ
まで信仰が揺らぎっぱなしになると思いますけど。「確信」のない
宗教なんて、私には全く理解不能です。

257 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 18:36
私はプロテスタントですが、このスレを楽しく拝見しています。部外者さんの

>教会に行かず、「死んだイエス」を崇拝するのではなく、生活の中に「生きたイエス」の理想を、少しでも実現したいと考える人は、死後どうなりますか?

ですが、考えさせられますね。「福音を広める」って何だろうと思います。イエス様の福音を人々に知らしめることは言うまでもありませんが、イエス様を信じる、信じないの選択はあくまでもその人次第ですよね。

それで、もしその人が福音を聞いてイエス様を信じた場合、教会に行かなくても良しとするのか、あるいは教会に行くことをあくまでも説得するべきなのか、迷いますよね。

部外者さんが自分自身で「イエス様のように生きる」ということを目標にするのはすばらしいことだと思います。しかし、人間というものは弱いですから、つい自分に甘えると思うのです。つまり、肉の思いに負けてしまう。それが普通ですから、少しでも信仰を高めるにはやはり教会に行かれた方がいいのではないでしょうか?

それとイエス様は水と聖霊の洗礼を受けなければ天国に行けないと言われていますから、少なくとも(水の)洗礼を受けるべきだと思います。

258 :部外者:2001/03/08(木) 18:46
>257

最初に私の態度をはっきりしておくのが礼儀だと思いますので。

私は、史的イエスを尊重する立場です。また、史的イエスの言葉は
真実であり、天界の消息を漏らしたものが福音書だと信じています。
ただし、パウロ神学のように、イエスが全人類の罪をあがなうために
十字架に上ったというのは根拠がないと考えています。

>イエス様は水と聖霊の洗礼を受けなければ天国に行けない

どこの聖句かはわかりませんが、現代聖書学から判断してとても
イエスの言葉とは信じがたい。イエスの指示で、弟子が水の洗礼を
受けたという史実は残っていません。

私は、もともと仏教を出発点にして、キリスト教との接点を求めて
さすらう者ですが、洗礼、贖罪など、キリスト教色の濃いものを切り
捨てても、なおかつ残るような真理でなければ、自分の魂を預ける
ような気持ちにはなりません。

悪しからず。



259 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 19:03
257ですが、ヨハネ3:5に明記されています。それほど、自説に執着されるのであれば、特に言うことはありません。

それでは。

260 :かとりこ:2001/03/08(木) 19:16
>部外者
頑張ってるな。史的イエスはおれも好きだがな。

普遍・真理を求める時、人はそれぞれ自らの方法論に合ったも
のを選択して近づこうとするわけだな。部外者にとって歴史事
実的な、或いはロジカルな存在が部外者にとって真実をもたら
すならそれは是だろう。

こうして議論してるとこに水刺すようで悪いんだが、前提となる
「神の無限の力」というものを信仰者はあっさりと自明のごとく
捉える。奇蹟や恩寵は議論するまでも無い自明という前提がある。
つまり議論にならないんだよ。信仰者にとってそこを議論し証明
することは出来ない。で、信仰ってのは論が通用しないものなん
だと思うがな。実証されたものをなぜ信じ、信頼するのか?
ロジカルなもののみをなぜ信じるのか?という議論も出てくるだ
ろうがな。

部外者への神の恩寵は史的イエスなどを通じて、もしかし
たら働いてるのかもよ?

おれも、宗教の場面では、あの世の事なんかどうでも良いし、
生きていることや生きる事について考える方が好きだがな。
イエスの福音の実践な。

ま、あの世とか救いとか、洗礼やら恩寵なんかを信じる事で
その人間が生を乗り越える事が出来るならそれが良い事なん
だと思ってるけどね。

別スレでの書き込みを見てるとね、部外者は「キリスト教」或い
はカトリックに対し、ある種の情熱があるようだな。それがなん
だかよく判らないが、その情熱の根源はいったいなんだろうかと
思ったよ。


261 :部外者:2001/03/08(木) 19:37
>260

私も、カトリック教徒の皆さんにロジックを求めているのではあり
ません。切れば湯気の出るような、鮮血したたる「信仰告白」を
求めているのです。自らを救えないものがどうして他人を救えるで
しょうか。私としては、たとえ迷信でもいいから、「天上天下唯我
独尊」の叫びをここで聞きたかった(嘆息)。それだけで、私は
合掌して、しずしずと引き下がったでしょう。

>部外者は「キリスト教」或いはカトリックに対し、ある種の情熱
>があるようだな。それがなんだかよく判らないが、その情熱の
>根源はいったいなんだろうかと思ったよ。

仏教で言う、菩提心だと思いますよ。私が黙れば、石が叫びだす、
というとキザにすぎますけどね(笑)。とにかく、黙っておれない
のです。259さんは、私との見解の相違を察知して去られたけれども、
私にはあの方の菩提心が痛いほどわかる。だから、合掌して見送り
ました。私を救ってあげようという善意の暖かさがありました。
お互いに真理を求める同志ですもの。敵も味方もないです。

今日は少しやりすぎたという反省も感じるのだけど、私が一番悲しか
ったのは、ここで菩提心に出会えなかったことです。今日の天気の
ように冷たくさびしいスレだった。

262 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 19:59
>>261
カトリックでは一個人がたった一人で救われれば良い、とは思っていません。
カトリック信徒が、神に対する信仰告白をあまり表立ってしないのも、そこに理由があるのではないでしょうか。

「聖徒の交わり」という言葉を御存知ですか?
カトリックにおける人間の救いとは、一個人ごとの救いにあるではなく、そういった交わりのなかである、と考えているのだと思います。

263 :247:2001/03/08(木) 20:01
>250
何もわかってないようだね。

>何もどの職種にも必ず女性が就かなければならないとか言ってるわけでは
>ないだろうに。
    
これは逆だ。どの職種に女性が就いてもかまわないだろう。
ただ、次のことをつきつめて考えていけば、職種によっては、
無理なものも出て来る。ということだ。             

>同じ権利と義務を与えられる、というか持っているということが差別の解消と
>自由を得ることに繋がらないというのはスゴイ主張だと思うけど。
   
個人の主張ではなく、社会では常識的な考えになっていますよ。
例えば、女性は子供を産み育てるために、保護される権利を持たなくてはならない。
男性の権利と同じ権利では、女性が不利になる。体力的、生理的にも
男性と女性は、別の権利条項が必要だということでしょう。
反対に、それを補助する義務を男性側が負担しなくてはならない。
ま、ほかにもいろいろあるんだが。
   
そのような諸々の案件を無視して、男女は同じ権利を持つべきと唱えて
男女雇用差別撤廃を推進したことで、女性の立ち上げたウーマン・リブ運動は
失敗したと言っている。
       
>女性が自分の首を自分で締めることになったという考え方自体が
>女性差別だと思う。今まで楽させてやったのにってことでしょ?
   
男性と同等の権利を要求したことで、男性と同等の義務が生じることに
彼女たちは気がつかなかったんだよ。深夜労働、出産育児は無関係、体力的にも
全て同じ義務を職場から要求されて、女性側の負担が倍増した。

>ウーマン・リブが失敗したのは、男性女性で人間を区別しすぎたからだと
>個人的には考えてる。

確かに、あの運動が始まった理由は、君の言うとおりだ。
失敗した理由は上記のとおりだ。ちなみに私は宗教は持ってない。

264 :かとりこ:2001/03/08(木) 20:01
>部外者
そうか。でも相手してくれた人達はみんな菩提心をもって接して
くれたと思うよ。でも部外者の情熱の方がまさってしまったんだ
ろうね。だから部外者の求めるかたちの菩提心には及ばなかった
のかもな。

おれはカトリックでも不良なんで、血の叫びなんて出来ないし、
斜に構えてる。そんな事が出来るカリスマな人間を見てみたい
とは思う反面、怖いね。よわっちいから。部外者は強いのかもな。
現れるといいな。そんな奴が。

おれは見ての通りヘタレだから、傍観するしかないが、
傍観者の情熱に答えてくれる奴が現れる事を祈ってるよ。
まぁ議論も見たいというおれの欲と期待もある。

265 :部外者:2001/03/08(木) 20:12
>262

そうですが。しかし、「聖徒の交わり」に参加するひとりひとり
には救済の自覚はないのでしょう?それなら、あまり意味はないと
思うのですけど。言葉は悪いけど、傷の舐めあいという感じです。

いろいろとゴタゴタ書いてしまったけど、私の問いかけはひとつな
のです。あなたは、他人に自分の信仰を勧めるときに、「私は救われ
ました(ないしは、救われることは確実です)。だから、あなたも
救われてください」と確信を持って言えるかどうか、です。

確かに、その確信を口にすることは神への冒涜になる、ということ
なのかもしれないけど、「私は神様に救われた」と喜んで飛び回って
いる人を、神様は地獄へ落とすでしょうかね?私は神様ではないので、
単なる推測ですが。その「遠慮」が神と人間の間に大きな壁として
立ちはだかっているように思うのです。

私の考えでは、「私は神様に救われた」と喜んでいる人に、「お前、
悪霊でもついたのか。お前を救うかどうかは神がお決めになるんだ
ぞ」とたしなめる人が居たなら、きっと「たとえ地獄へ行けと神様
に言われてもいいんだ。だって、私は神様に救われたんだから」と
答えるのが、本当の信仰の姿だと思います。

そうならないとしたら、それは神を信じているのではなくて、人間
の造った教えを信じているのです。

266 :コアラ:2001/03/08(木) 20:25
部外者さん、そーいうこと求めてるんだったら、
エホバとか幸福の科学とかWMとかに行って。
熱く熱く信仰を語ってくれる信者さんがいますよ。
エホバの某掲示板なんか、すごいものです。
カトリックにそういう求めても無駄。
自分の信仰心を人目にさらすような宗教じゃのよ。
人目につかないよう、目立たないように善い心を持ち続けることも
カトリックの教えの中にはあるんです。
あなたが、信仰を目で見なきゃ満足できないんだったら、
一生気付かないこともたくさんあるでしょーね。

267 :部外者:2001/03/08(木) 20:26
>264

そうですね。菩提心の表れ方の違いなのかもしれないです。改めて
皆さんの感謝します。

思うに、自分の信仰に蟻の穴ほどでも疑問があれば、つい恐怖を感
じてしまうものだと思います。疑問が一切なくなれば、どんな疑問
をぶつけられても余裕で答えられることでしょう。それを乗り越え
ていくのが信仰の道だと思っています。

お互いの切磋琢磨の場が、他ならぬココなのかもしれません(笑)。

268 :部外者:2001/03/08(木) 20:33
>266

コアラさん、あなたは「熱烈な信仰」と「盲信」の違いについて
考えたことはおありでしょうか?私もこの問題について数ヶ月悩んだ
ことがあります。

具体的にお伺いしますが、「エホバとか幸福の科学とかWM」の信仰
が盲信であることを、あなたはどのように確信されたのですか?
彼らは明らかに「盲信」とわかるのに、信仰を続けているのでしょう
か?

最後に再び、「熱烈な信仰」と「盲信」との違いとは、一体何ですか?

269 :コアラ:2001/03/08(木) 20:41
>「私は救われました(ないしは、救われることは確実です)。だから、あなたも
>救われてください」と確信を持って言えるかどうか、です。
      
それってゴーマンの極地。
自分以外の他人にも、意志はあるし、心もある。
自分の中から湧いてくるものがあってこそ信仰が成就するんであって、
他人に、救ってやるとか、救われた方がいいとか、どうかしてる。
結局その人の心を、全然信じてないってことじゃない。
カトリックの真髄に、どこまでも信じる心があるでしょう。
他人が救われることを信じて待つ。どこまでも信じて待つ。
それって、カトリックでなくても、子供を育てるのと一緒でしょ。
その子自身が育てるものに対しては、親は信じて見守るだけ。
そういうのわからないんだったら、エホバ行って。すごい満足すると思うよ。

270 :かとりこ:2001/03/08(木) 20:45
>部外者
んー。そんなカリスマな人間もたまにいるな。
俺の知る限りは、禅宗の坊さんと神父とシスターに居た。
聖職者レベルだと結構つわものが居るな。

おれは迷いまくるね。余裕がないからおっかない議論も傍観して
る場合が多い。疑問もしょっちゅうだ。
信仰という神と真理と自分の関係に限っていうとエゴイスト的に
自分の範囲しか面倒見れないな。

まぁ隣人に出来る事は日頃の実践的な救いを共有することかな?
辛い人や困ってる人を手伝ったりすることとか、
相談に乗るとか、言語の場じゃない日常的な時のなかでの行い。

271 :名無しさん@1周年:2001/03/08(木) 20:54
>>265
部外者さんは、天国や地獄、救い、という言葉に妙にこだわってますが
カトリック信徒にとって、それらは重要ではないのです。

大事なのは「祈り」によって神のみ旨を知り、それに従うことです。
神が望むことをすることです。
神の導きは、決して一朝一夕に感じられるものではありません。
ひとりひとり、それぞれの長い人生のなかで見つけていくものです。

272 :コアラ:2001/03/08(木) 20:54
>「エホバとか幸福の科学とかWM」の信仰
>が盲信であることを、あなたはどのように確信されたのですか
 
盲信なんて言葉、使ってないよ。
熱烈だとは思うけど。だって、信仰初めて1年やそこらで
あっちこっち伝道するなんて、私にはそんな自信ないよ。
             
もっともっと自分の信仰を確かなことにしなきゃね。
世の中で、みんなの中にいてイエスのように人を愛し、信じられるかを
自分でやってみるっきゃない。そういうこと。

273 :コアラ:2001/03/08(木) 20:56
じゃ、私これから、諭吉が泣いている見るから。バイバイ。

274 :部外者:2001/03/08(木) 21:01
>269

確かに、洗脳を受けて、マニュアル通りにそう言わされていると
すれば、ゴーマンかもしれないですが、もし、本人が本気でそう
信じているのなら、どうでしょうか?

私はもうどうしようもないと思いますよ。そして、神様にもどう
しようもない(笑)。違います?

>270

>まぁ隣人に出来る事は日頃の実践的な救いを共有することかな?
>辛い人や困ってる人を手伝ったりすることとか、
>相談に乗るとか、言語の場じゃない日常的な時のなかでの行い。

それこそが、「王道」につながる行為だと私は確信します。誰もが
わかっていて、誰もが馬鹿にして省みなかった道。あと、そこに
仏教の「無我」が加わると、ぐっと「王道」に近づくのだと思いま
す。エックハルトが開いたアプローチです。

275 :部外者:2001/03/08(木) 21:03
悪友が誘いにきちゃったので、今から大酒くらってきます。
また、次の機会まで、ごきげんよう。


276 :大阪教区:2001/03/09(金) 00:02
>部外者さん あなたは既にもうじゅうぶんカトリックに足をつっこんでるよ。
でも、ちょっと勘違いしてると思うな。確信なんか無くってもカトリックは
全然かまわないよ。カトリックに必要なのは教会でも、洗礼でも、献金でも
聖書でもありません。一応組織としては現実にあるけどね。
カトリックを煎じ詰めれば最後に残るのは、愛と希望だけ。
それだけだと思います。カトリックの初代教皇様の聖ペトロだって、正典となった
今の新約聖書読んだこと無いのちゃうか。史的イエスを無視するわけにいかない
けど、新約聖書は歴史の本では別に無いので、史実ばっかり書いてあるわけじゃ
なし、要するに信仰告白の本なんですよ。だから、マタイの信仰とヨハネの信仰
とパウロの信仰が違っていてバラバラでも全然かまわないでしょ。
同じ教会に行っていても皆が同じ信仰の形じゃありませんよ。私も、かとりこ
さんも、東京教区さんも、それぞれ形が違ってもみんなカトリック。
それでいいのです。カトリックの信者がみんな確信を持っていたりする方が
気持ち悪いですよ。もし、そんなことを望んでいるならプロテスタントの
ファンダメンタリストの教会にでもいったらいいんじゃない。
そんなヒトがウジャウジャいますよ。
もっと気を楽にしてカトリックに来てください。
カトリックはカルトではなく大人だから、入るのも自由出るのも自由で
無理やり入れとか、教会に来たくないヒトを引き止めたりなんかしない。
要するにあなたしだい。来たければ来たらいいし、カトリックがイヤなら
来なけりゃいいんですよ。他人に相談しなくともご自身で決めればいいのでは
ないでしょうか。

277 :ERROR:名前入れてちょ:2001/03/09(金) 00:04
あのー、場違いかもしれませんが。

三浦綾子と三浦沙門(?)て、関係あるの?

278 :名無し:2001/03/09(金) 00:24
あまりゴチャゴチャ理屈を考えているよりは、飛びこんで実践してみる
ほうがいいと思う。部外者さんはカトリック教会に通ってみたことが
あるのだろうか?ミサがどうのとかいうのならば、実体験をしてからに
したほうがいいと思う。書込みからすると、そうでないような感じが
する(違っていたらスミマセン)。外からでは見えないものもあるんだよ。


279 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 00:50
>三浦綾子と三浦沙門(?)て、関係あるの?
沙門じゃなくて朱門だと思いますが、関係ないです。
三浦朱門の奥さんは曾野綾子ですが、曾野綾子と三浦綾子は別人です。
(ちなみに曾野綾子というのはペンネームです)

280 :かとりこ:2001/03/09(金) 01:41
>大阪教区
有り難う。良い事言ってくれるね。
ただおれさ、部外者は「愛の実践・・・・(ってこの言葉はなんか
恥ずかしいな)」については充分認識してるとおもう。
組織とか、ドグマは要らないんじゃないか?
ということを問題にしてるんだと思う。
逆に必要だと言って欲しいみたいにも見えるがな。
(なんか悩んでるのかもしれない)

ま、教会に行くも行かないも、仏教という方法論で辿り付くのも
神と個人的な関係という無教会主義でいくのでも、
部外者と神乃至彼の信じる真理の関係において為されるべき事
だとおもう。俺等の言い方に従えば、召命とはそういうかたち
だと思うしな。

ただ、カトリックのドグマも組織も典礼なんかもそこに
生きている人間が、福音の実践を行う生活のてだすけのた
めにあるんだと思う。だれかが「聖徒の交わり」について
言ってたけど、それは隣人を愛する意識を喚起する言葉で
あると思ってる。

281 :かとりこ:2001/03/09(金) 01:46
>>277
沙門ってそら、仏教の坊さんの事じゃなかったっけ?
>>279
本名はやっぱ三浦綾子かな?

282 :無知な歴史好き:2001/03/09(金) 03:28
誰も何も言わないしスレ違いのような気もするので下げますが、
何もわかってないっすか・・・・

権利と義務は表裏一体です。出産はともかく育児は父親にだって出来るだろう?
そういった仕事を女性のみに旧態依然として押し付けておいて負担が倍増って・・・・

物凄く男尊女卑に感じるのは僕だけなのかな?

283 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 04:29
>282
>男性の権利と同じ権利では、女性が不利になる。体力的、生理的にも
>男性と女性は、別の権利条項が必要だということでしょう。
>反対に、それを補助する義務を男性側が負担しなくてはならない。
     
君の言ってることはこういうことだろう。だからこそ、現在では男性の負担として
「男性にも育児休暇」が出来たということだよ。このことは、ウーマン・リヴ運動は
失敗したが、その反省から長く議論があって生まれてきた法律だよ。
      
君は、現在、男性の育児休暇や女性の出産育児・生理休暇などが認められていることを
知らないのじゃないか。意識の高い職場で励行されているよ。
   
君はどうしても、男性と女性が同じ権利と同じ義務を持たなければ男尊女卑、男女差別と
思えるのかな。男性は瞬発力で女性に勝るが、女性に持久力では劣るなどの
差は認められないのかな。それぞれの特性(資質)の差。
             
誰かが書いていたが「棲み分け」という概念も理解できないのかな。
お互いにどちらが勝るとか劣るという差を「棲み分け」という概念で、どちらにも
自分にない重要な能力を認め、互いにその能力を発揮できる分野で発揮しつつ
共同に生活して行こう、という概念だよ。
     
自然界の生物が、そのように共棲していることから、棲み分けという概念が生まれた。
私は、男女が同じ権利と義務を主張するより、共棲のする方が互いを尊重した
優しい考え方、生きかた、だと思っているがね。

284 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 05:18
>>281
曾野綾子の本名は三浦知寿子です。(旧姓・町田)

285 :部外者:2001/03/09(金) 09:12
>276@`278@`280

みなさま、レスをどうもありがとう。

実は、私は中学高校と6年間、イエズス会系のミッションスクールに行って
いたのです。洗礼は受けませんでしたけど、公教要理には積極的に参加し、
そこで聖書の知識を学びました。しかし、なんと言っても、そこで学んだこ
とで一番感謝しているのは、「奉仕の精神」です。それが灯火になって、
ここ(どこ?という疑問はあるが 笑)まで来れたのだと思います。

しかし、在校中に嫌な出来事がありましてね。同級生の不良グループのひと
りが、今思うと些細なことをして、退学処分になったのです。それを不服と
する全校集会が行われました。私も立ち上がって、校長を前にこう発言した
ものです。「キリストの教えは、罪人を救うのではないのですか。そして、
彼こそが罪人ではありませんか。その彼を退学させるのは、キリストの教え
に反しませんか」と。全く「暖簾に風」でしたけどね。

まあ、退学させて世間的に苦労をさせよう、という風に好意的に取れないこ
ともなかったけど、そういう暖かい心が少しも感じられない、「裁きの場」
になっておりました。今考えても、本人を善導するなら、退学よりもふさわ
しい方法があったと思う。同時期、近くにあったミッション系の女子学生が、
妊娠が発覚したということで、やはり退学処分になった、という話も聞き、
「これでは普通の学校と同じじゃないか。奉仕の精神と逆さまじゃないか」
と大いに疑問がふくらんだものでした。

その6年間にいろいろな信者の方と会いました。人格のすばらしい人も確かに
多かったが、たいていの人は「人を厳しく裁く」タイプでした。そういう性格
を、私を含めた非信者は実にうさんくさいものと感じていました。

という次第で、私はカトリックというコミュニティーには、住所の番地程度
の意味しか認めていません。個人的に尊敬できる人とは、宗派とは無関係に
お付き合いさせていただきたいと思っていますけど。

286 :部外者:2001/03/09(金) 09:28
>>259

うっかり、見落としてRESを忘れておりました。

まず、該当の箇所は
「だれでも水と霊によって生まれなければ」(共同訳)となっていて、
「洗礼」とはありません。もし、本当に「洗礼」のことなら、こんな紛らわし
いことは言われなかったでしょう。

次に、現代聖書学の常識として、ヨハネ福音書には史的イエスとは無関係で、
作者の宗教的悟りをイエス物語の形で表現したものと解するべきです
(波多野精一、八木誠一、など多数)。

私はヨハネ福音書の中身を高く評価する者ですが、史的イエスを発掘する
材料から言えば、がらくた同然だと思います。

287 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 09:30
部外者さん、あなたは、社会のルールと信仰といっしょくたに考えて
おられませんか。社会のルールは、守らねばなりません。
学校の規定に明記されているルールを守る誓約書を親がサインしているはずです。
カトリックの教えが罪に寛容だから、社会的ルールを破っても許されるなら、
殺人を犯しても、裁判を受けることも刑務所へ行く必要もない、ということです。
  
カトリックは、社会で良い人間であることも、第一義としているのでは
ありませんか。悪いことをすれば、人間の社会の法律によって裁かれねばなりません。
カトリックは、そういうことに対して、むしろ厳しいのではないでしょうか。
本人が救いを求めて神に赦しを得ることと、実際の退学などの措置は、別次元のものです。
刑務所でも、神の赦しは得られます。退学処分を受けても受けなくても
赦しは得られます。社会の裁きはどうあれ、本人の心がそれによって
救われたらいいのだと思います。
   
今から教会へ行くので、今度レスできるのは3:00過ぎになります。
あしからず。それでは。

288 :いちご姫:2001/03/09(金) 10:52
>286 部外者さん
『イオアンネースによる福音』は、史的イエス像研究にとってガラクタ、
とまでは言えないのです。イェースースの言行の殆どについては信頼性
が全く置けないのですが、日付といった瑣末な点に奇妙に正確なところ
があるのです。念の為。

289 :部外者:2001/03/09(金) 11:11
>287

それは見解の相違というものです。社会的秩序のみですべてが
収まるのならば、宗教などいらないのです。社会的秩序が、実
は非人間的な偽善で保たれているという点をイエスは暴いたので
はないでしょうか。社会的秩序の中であぐらをかいている善人と
は、神の眼から見たら実は極悪人だ、と。「レ・ミゼラブル」の
主人公ジャンバルジャンを、神父がかばわなかったなら、彼は永遠
に救われなかったでしょう。

>288

それは勉強不足でした。今度の機会に是非、教えてください。
ただ、The Five Gospelsの評価は「辛い」というのもまた
事実ですね。

290 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 12:06
>社会的秩序のみですべてが収まるのならば、宗教などいらないのです。
>社会的秩序が、実は非人間的な偽善で保たれているという点をイエスは暴いたので
>はないでしょうか。

君は、法というものに、屈折した考えを持ってないか。
287さんの内容には、社会的秩序が全て、などと書かれていないだろう。
君のレスでは、キリストの生きた時代の社会的秩序と、現在の社会的秩序が全く違うことも念頭にない。
現在の社会的秩序が、非人間的な偽善で保たれているという根拠は何ですか。
確かに、そういう部分はあるとしても、君の言うには、反対に宗教だけで解決しようと
しているように思える。信仰と社会秩序(法)を同じ次元で考えよう、ということですか。
        
「レ・ミゼラブル」の時代と、今の日本の法でも格段の差があるよ。
少し、夢想的すぎやしないか。社会も間違いを改善しながら、少しずつ進歩していますよ。

291 :部外者:2001/03/09(金) 12:24
>290

>社会も間違いを改善しながら、少しずつ進歩していますよ。

それはその通りだと思います。
私は現行の法が全部間違っているというつもりはありませんよ。
だけど、それが「人間が人間らしく生きる」十分条件だとも思いま
せん。パウロの時代、奴隷を解放することは「非常識」だったで
しょう。それを成し遂げたパウロの「義」は評価に値すると思います。

では、奴隷制度がなくなった現代においては、われわれには残された
課題が全くないか、と言えば、そうではないと思います。全体レベル
がパウロ時代よりも高くなっただけで、相変わらず「不義」は社会に
蔓延している。その「不義」を正そうと努力するのが信仰者の役目だ
と私は思います。

ここからは個人的な価値観の違いが出てしまうので、自分の意見を
押し付けるつもりはありません。私が一番「不義」と感じるのは、
弁護士の活動についてです。被疑者が犯罪を犯したかどうか、本人
は知っています。それを正直に告白するような社会でなければ、そ
れは「不義」であると思う。やったことを認めずに、無罪になれば
ラッキーというシステムは、神の眼からは「不義」ではないか、そし
て今の弁護士のなしていることは「不義」の手助けにすぎないのでは
ないかと私は感じます。

弁護士の方から見たら、立腹されるかもしれないが、私の理想とは
あくまで「弁護士の不要な社会」であり、それに向かって一歩ずつ
進むのがイエスの理想を社会に実現していくことだと考えています。

You may say@`I am a dreamer. But@` I am not the only one.
(John Lennon@` "Imagine")

292 :部外者:2001/03/09(金) 12:37
セネカでしたか、数百年もすれば、過去を振り返って「われわれは
こんな簡単な事実がなぜわからなかったのだろう」と不思議がるに
違いない、と言っていますが、われわれがイエスやパウロのユダヤ人
社会を眺めて「なんと彼らは野蛮だったことか」と感じるのも同じ
ことでしょう。

さらに数百年経ったとき、いまのわれわれの道徳観、社会システム、
倫理基準が、未来人から見て「野蛮だ」と非難されないという保証
はありません。

神の「義」とは、こういった歴史性を超越するものです。神の眼か
ら「悪い」ものは、過去にも現在にも未来にも「悪い」のです。
それが、社会的価値と宗教的価値の違いだと思います。だから、
当面の社会的価値に「寄りかかる」限り、それは信仰とはお世辞
にも呼べないものだと私は思います。

293 :部外者:2001/03/09(金) 12:48
抽象論に流れてますね。

具体的にお聞きします。290さんは、具体的に「不良少年」>>285
をどのように指導すべきだと思われますか?そもそも、退学処分と
いうのは、不良分子の切り捨てというだけで、相手に対する愛が
ないと思われませんか?それとも、校則で決まっているから疑問の
余地はない、と言われるのでしょうか?校則だって人間が決めたもの
でしょう?

もうひとつ、具体例を挙げましょう。体の不自由な人のために奉仕活動
をすることをカトリックは奨励していますよね。イエス時代のユダヤ
社会では、彼らは神の罰を受けたものとして社会から排除しました。
では、不良少年の場合はどうでしょうか。彼は心が不自由なのです。
体が不自由なら愛を注ぎ、心が不自由なら排除する、というのは矛盾
していませんか?

すべての「弱者」に愛を注げ、とイエスは命じたのではありません
か?神の眼からすれば、不良少年もまた「弱者」だと思いますけど。

294 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 12:53
>291
なるほど。私も常々加害者の人権擁護だけが正義の如き弁護士を
苦々しく思っている。ただ、全ての弁護士がそうであるとは考えていない。
   
そこで、最初に戻るが、君の学校の不良グループを退学させたカトリック校の
校長と教職員が、毅然とした態度で臨んだことには義が無いと言い、
弁護士が犯罪者を守ることには、義がないという、その矛盾は何か。
     
君の考えでは、弁護士が宗教的見地から、犯罪者を守るのは良いことではないのか。


295 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 13:09
>体が不自由なら愛を注ぎ、心が不自由なら排除する、というのは矛盾
>していませんか?
 
愛を注ぐとはどういうことか。
不良少年グループに罰を与えないことなのか。
校則を守らないでも許すということか。
それは溺愛という、この世の愛だろう。
   
罰をうけても、彼らは神の前で懺悔し許しを乞うなら、神にその心を赦されるだろう。
しかし、社会秩序を乱したこの世の責任はこの世で取らなければならない。
もし、心を赦されたなら、彼らは平安な気持ちで進んで罰を受けようとするだろう。
神に逆らい赦しを請わなければ、彼らは罰から逃れることしか考えないだろう。
 
指導者は、それを彼ら理解させなければならない。

296 :部外者:2001/03/09(金) 13:22
>294

一番大きな違いは、本人の魂の救済の問題なのですよ。

犯罪者を処罰するという意味は、1)本人の更生を試み、再発を防止
する、2)「見せしめ」によって犯罪を未然に防止する、という2つ
の目的があると思います。社会的には2つとも重要な役割を持って
います。しかし、宗教的な「魂」の問題となると、2)には意味が
ないと思います。なぜなら、宗教とは、目撃者がいようと、いるまい
と神の面前であることを自覚し、24時間「悪」をしないことを要求
するからです。だから、「魂」を更生するための処罰しか考えられ
ない。

不良少年の「魂」を救済するためには、更生という手段しか考えら
れないのです。このまま彼を追放しても、またどこかで罪を犯すで
しょう。だからジャンバルジャンのような扱いが必要になるのです。

もう一方の弁護士の方は、それこそ問題外です。彼は、証拠不十分で
無罪になればそれでよし、としている。魂の問題など眼中にない。
もっとはっきり言えば、神を畏れていない。目撃者がいなければ、
神が見てようと、犯罪者を無罪放免することに良心の呵責を感じて
いない。そして、何よりも重要なことは、被疑者を弁護している
ようで、実は被疑者の魂について冷酷極まることをやっている。
せっかくの更生の機会を逃すわけですから。

297 :部外者:2001/03/09(金) 13:32
>295

放任せよ、と言っているのではありません。残念ながら、よい実例
が見つかりませんので、有名な逸話を引用します。

良寛禅師が、親戚の息子の放蕩をなんとか止めてくれ、と頼まれて
その家に泊まりにいったのだそうです。ところが、2日たち、3日
たっても良寛さんは何もおっしゃらない。家の連中は障子の影で
やきもきしている。とうとう、良寛さんが帰る時間が来て、その
息子に「すまんが、わらじをはかせてくれ」と頼みます。息子が
かがんで手を動かしていると、首筋に冷たいものを感じて、何か
と上を見上げると、良寛さんが両目に一杯の涙をためて、おだやか
な表情で、自分の顔をじっと見つめていたのだそうです。その息子は、
胸をつかれたような思いがして、それから放蕩をピッタリやめたと
いうことです。

まあ、これは理想論かもしれませんけど、いやしくも宗教者のはし
くれなら、良寛さん流の更生を目指すべきだと思います。

私の目からは、厳格な校長や職員の態度よりも、良寛さんの態度の
方がずっとイエスの心に近いと思います。

298 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 13:44
>296
学校問題で、よく出て来る問題に「学校はどこまで教育すべきか」がある。
私は、不良グループの更正は、専門施設(専門家)にまかせるべきだと
思います。更正の過程で魂を救える場を必要とする、というのなら解ります。
たまたま、カトリックの学校だから、彼らの更正までやれ、という意見は、
現実には困難です。片手間に出来ることではないでしょう。
宗教者を責めることは簡単です。しかし、相手の立場に立って冷静に考えることも
必要です。あなたが指導者なら、自分のクラスの残る全員を放り出して
不良グループの更正に力を注ぐことが出来ますか。一人の人間を更正させる為に
どれほどの人間の力が必要か、それも考えて見なければならないでしょう。
     
弁護士については、あなたの言うことはよく解りますが、
全ての弁護士がそうではないと私は信じています。マスコミに出て来る
弁護士だけが弁護士ではないからです。

299 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 14:01
>297
人の立場や持分を無視すれば、宗教者に良寛さんのような教え方を求めて
実現できない、ということはない。
もし数百人の組織の指導者でも、3日間を一人のために費やすような、自由があれば、
最初からそうしているでしょう。不良グループは、目立って悪いことをするが、
目立たず、人知れず悩み苦しみ我慢している生徒もいることも教育者は知っている。
どうやって、公平に数百人の生徒を指導すればいいのかな。あなたも考えるべきだと思う。

300 :部外者:2001/03/09(金) 14:22
>298@`299

宗教者が社会からのドロップアウトを積極的に受け入れている好例
が、東南アジアの仏教寺院です。テレビの特集で見ましたが、エイ
ズ患者など、社会から見捨てられて引き取り手がいない人々を寺院
がひきとって、息をひきとるまでの間に仏教修行をさせるという
ことです。幸いに、東南アジアでは仏教信仰が根強く、坊さんが
金策に走り回らなくても、お布施で十分にやっていけるから、こう
いう芸当ができるのかもしれませんね。

元々、イエスの教団もこういう感じだったのかもしれないですね。
今の教会は「裕福」すぎる(笑)。教会がぜいたくしているという
意味じゃなくて、信者がね、ハングリーでない。

301 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 14:30
298,299>300
私もテレビで見ました。
理想的です。あなたが、この社会に不満を持っているなら、
まだお若いようですから、そのような方向に力を注ぐのもいいのではないですか。


302 :部外者:2001/03/09(金) 14:44
>301

そうですね。どういう形で貢献できるのか、考えてみたいと思います。
実際に実現しようとすると、確かに身動きが取れないなあ(^^;)。


303 :名無しさん@1周年:2001/03/09(金) 14:48
>302
頑張ってみて下さい。期待しています!

304 :かとりこ:2001/03/10(土) 01:32
>部外者
出会いが悪かったようだな。
学校のくそ親父どもみたいな奴はどこにでもいるがな。

なんでも組織化すると、お互いを縛ったり、逸脱を許さない
ルールを作ろうとする傾向はあるよな。この掲示板だって
プロキシ規制が入ったりするわけだ。

組織化した時点で宗教精神と対立するものが生まれるんだよな。
フランチェスコもそれで悩んだわけだ。
でも、集まりたがるのも人間なんだよね。
強い奴ばかりと限らないからな。

部外者は無教会とか超教派が向いてるかもしれないな。
でもよ、たまにはのんびりしてみるのも良いかもよ。
マジ神仏スレはマッタリするぞ。

305 :いちご姫:2001/03/10(土) 11:55
>291@`294@`296
 加害者の法的利益を第一に行動する弁護士は、正しく好ましい行為をしている、
と私は考えます。法廷は、原告(国)と被告人の対決・競争の場であり、そこに
おいて被告人への法的利益の齎しを商品として、対価を被告人(若しくは国選の
場合国)から受け取るのだからです。彼/女は、被告人の更正を慮る必要や義務
はない、と考えます。それは、本人なり親族なり裁判官なり(或は現存しないの
でこれから作られても良い)第三者機関なりが考えるべき事柄です。
 ある仕事を完全にこなしている職業人を、他の業種の観点からは十分な成果を
上げていない、と批判するのは無益であり、かつ彼/女に不等に侮辱的である、
と考えます。

306 :名無しさん@1周年:2001/03/10(土) 14:50
>305
部外者さんに、いくら現行の秩序を説明しても無駄かもしれません。
宗教的に、人間はどうあるべきか、という理想を社会システムの秩序に
組み込むことを望んでおられます。

307 :部外者:2001/03/12(月) 09:31
>306

そうですね。私のような非力でどこまでできるかわからないですが、非力
ながらに「神の義」(キリスト教に限らず、仏の義と言うこともできると
思います)を、この地上に実現するための仕事が、自分なりにできればと
思います。見渡せば、私が援助の手を差し伸べられる人々は必ず周りに
います。

しかし、その前に「神の義」とは何か、について、現実社会の善悪を一度
ゼロセットし、批判的に見直して見るべきだと思います。「神の義」とは
歴史性を超えた絶対的なもののはずですから。たとえ、その考え方が他人
の目から「カルト」と見えようとも。

今日は、あいにくカキコに時間を取れません。レス遅れますが、悪しからず。

308 :部外者:2001/03/12(月) 09:35
>304

かとりこさん、どうもありがとうよ。あなたにだけは、私の気持ちが
通じているみたいだね。

309 :かとりこ:2001/03/12(月) 22:06
>部外者
また気が向いたら遊んでくれ。楽しかったよ。

310 :iroha168:2001/03/12(月) 23:29

パっとみて思ったんだけど
上の方にあったことで
「疑問・矛盾を受け入れることができないと宗教に向いてない」
みたいなことがあるんだけど
矛盾を見逃して、疑問を無視するのは罪ではないのでしょうか?

初めてここに来て書きこみます

311 :大阪教区:2001/03/13(火) 00:34
>310
何の矛盾のことを言ってらっしゃるのですか。
もし、聖書のことなら、
矛盾を見逃したり、疑問を無視する必要などありませんよ。
あなたが、全力を尽くして聖書と格闘して下さい。
史的イエスに首をつっこんで私も一時悩んだことがあります。
そこから脱出するのに苦労しました。



312 :名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 00:36
>307
>私が援助の手を差し伸べられる人々は必ず周りにいます。
>しかし、その前に「神の義」とは何か、について、現実社会の善悪を一度
>ゼロセットし、批判的に見直して見るべきだと思います。
               
困ってる人や苦しんでる人への援助というものは、頭で考える前に、
行動に移さなければ意味がない。
援助の意味や、意義や、理由、根拠、そんなもの考えてる暇に
一人の人間の命だって救うことができる。
            
・針の穴から天を覗く          
・下手の考え休むに似たり
・An idle brain is the devil's shop.(暇な頭は悪魔の仕事場)


313 :名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 07:48
バカは死んでもバカ。
バカの回答はオマエモナー。

314 :大阪大司教区:2001/03/14(水) 13:16
 まぁ熱くなりなさんなって。カトリックの欠点であり、同時によいところは、
「ぬるさ」なんだから。
 この辺、やいのやいのいう輩はおるけど、そんなヤツは仕事も勉強も、オチこぼれで
ここで愚痴を書き込むのがやっとやねんから。

 そもそも仕事もバリバリこなして、かわいい彼女もおるヤツが、こんなとこで
ウダウダいうてるわけあれへんやん。

 オレもせやけどね。

315 :質問者:2001/03/14(水) 14:16
突然、ぶしつけな質問でごめんなさい。

カトリック公認の聖者である「聖マラキ」の教皇予言のことについて
お伺いします。以下のサイトを見ると、カトリックの聖職者の方も
「聖マラキの預言」は真面目に取り上げておられるようですが(英文
サイトでごめんなさい)、カトリック公認ということなのでしょうか?

また、信者の皆様の見解はいかがですか?

http://www.truecatholic.org/pope/stmalachyprophecy.htm


316 :かとりこ:2001/03/15(木) 02:11
>>315
はじめて知ったが。ピウス13世というのが出てくるって?
ちょっとナニだな。
ウィスコンシン州出身で終戦後すぐに琉球〜奄美大島で宣教
してた人?よーするにアメリカ人から教皇ピウスXIIIが
出るって事かね。アメリカ人の妄想とも思えるんだけど、
どうなんだろう?英語には自信がないから良く分からんな。

317 :なな信徒@求道中:2001/03/15(木) 02:33
マラキの予言は、偽書と断じられたような気が・・・

たしか、ピウス11世の予言は公認されていますね。内容は知りませんが。

318 :質問者:2001/03/15(木) 08:30
>>316-317

レスいただき、ありがとうございます。

私もしっかり読んだわけではありませんが、著者はCardinalの称号を名乗り、
そこのHPは「真のカトリック」です。

再び英文サイトで恐縮ですが、「カトリック百科事典」にも詳しく内容が紹介
されており、単なる偽書という扱いにはなっておりません。そういう疑いもあ
るが断定されていない、という書き方ですね。

http://newadvent.org/cathen/12473a.htm#malachy


319 :かとりこ:2001/03/15(木) 23:55
まさかアメリカ人の枢機卿のサイト?
アメリカから教皇を出したいとか
希望を持ってるのかね。

320 :質問者:2001/03/16(金) 12:04
>319

>アメリカから教皇を出したいとか希望を持ってるのかね。

どうも、そんな「まともな」希望ではなさそうです。

あとでHPのところに戻って読み直してみると、とんでもないことが書いて
ありました。どうも、バチカンから分派した「カトリック」(自称、「真
のカトリック」)のようです。

1998年10月24日に「カトリック教会」はPius XIIIを教皇として選出した、
実は、Pius XIIの没後(1958年10月9日)、現バチカンの連中が勝手に
「カトリック教会」の名前を強奪し、キリストや聖ペテロを初めとする使徒
達の教会から離れてしまった、という風なことが書かれていますね。

http://www.truecatholic.org/

まるで、「バビロン捕囚」時の対立教皇みたいですね。現代にもこういう
のがあるとは驚きました。


321 :名無し:2001/03/19(月) 14:56
禁欲を命じられている修道院の乙女は処女を守り
男とつきあっちゃいけないんですよね?そんな修道院の女性に
萌えてしまいます。どうすれば修道女に接近できるでしょうか?
教えてください。おねがいします。



322 :名無しさん@一周年:2001/03/19(月) 15:11
>321
修道女は、男子禁制の修道会に所属しています。
修道会に一般の男性が行っても会えません。
出会いを求めるなら、彼女たちが活動をしている場所に出向くのが手っ取り早いと思います。
・修道会に出入りする業者になる。
・司教・司祭になる。教会のミサに行く。
・教会の勉強会に行く(高齢シスターが教えているところもたまにある)
・カトリックの学校の生徒・父兄になる。
・ホスピスなどの医療機関・老人ホーム・ボランティアセンターなどに行く。
             
などなどですが、最近は修道女は修道服を着ていないことが多いので、
見分けることが出来ないかもしれません。
また、若い時は、見習い期間として、修道会内部で働くというような規則もあるようで、
学校の教師や病院以外では、高齢者が多いです。
また、修道女は、特殊な修道会以外、あちこちに移動させられるようですので、
なかなか出会いは難しいですね。

323 :実習生さん:2001/03/19(月) 19:24
322さん。情報ありがとうございます。それでは近いうち近所の教会のミサなど
に行ってみようと思います。都内で若い修道女がくるところをご存知であれば
教えていただけないでしょうか・

324 :名無しさん@一周年:2001/03/19(月) 19:35
>323
実習生さん
是非、ミサにも、聖書の勉強会などにも行ってみてください。
カトリックでは、あなたのような方にこそ、神の憐れみが注がれていると考えております。
みなさんが、普通の人間として普通の生活に安らげない心の貧しいあなたの為に、
お祈りして下さることと思います。  


325 :>323:2001/03/19(月) 21:33
あんまり期待しないほうがいいぞ(笑)
おれの乏しい経験だけど、修道女よりは修道士のほうがはるかに親しみやすい。
まあ、せいぜい頑張れや。応援してるぞ。

326 :名無し:2001/03/19(月) 21:42
うほー!いいなあ!愛に飢えた憐れなおれにも修道女さま
の祈りがほしいなあ!

327 :かとりこ:2001/03/19(月) 21:45
>>323
修道女は書店、教会用品屋には常駐してる場合が多い。
都内だと、エンデルレ書店、イグナチオの売店など大きな
教会の売店にいるな。若くて初々しい方に、まみえるには
根気が居るぞ。大きなイベントがらみのミサにはよく来てる。
女子パウロ会などが取材に来るからね。叙階式、東京カテドラ
ルのラテン語ミサなど狙い目。

なるべく眺めるだけで満足したまえ。
どうしても、手を出したいなら最後まで責任をとる事。
見捨てたりしたら、全カトリック信者が君を許さん。

328 :名無しさん@1周年   :2001/03/20(火) 23:27
****************************************************************
カトリックの修道会について

1 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/18(日) 00:16
キリスト教にはたくさんの宗派があるけど
正教会、その他一部の宗派にも修道会がありますが
特にカトリックの修道会について皆さんの、意見、思いいれ、疑問を語っていただきたいです。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=984842209&ls=50
****************************************************************
無駄スレ立てた奴がいるので、
こっちで面倒見てやってくれないか。

329 :かとりこ:2001/03/20(火) 23:32
ん?
思い入れ?ないよ。
質問の焦点が良く判らないので再登場きぼ〜ん。

330 :323:2001/03/21(水) 12:51
ぼくは大学生なんですが、学生でも教会にいくと寄付金とか要求されるんですか?

331 :名無しさん@1周年:2001/03/21(水) 14:59
要求されるってのは君が受ける印象による。
まさか、新来会者に「献金してくださいね」なんていう教会はないとおもうよ。
でも、出さざるをえない雰囲気があるとこも存在してるよ。
寄付金?しらんなぁ。

332 :カトリックは永遠なり  :2001/03/21(水) 15:37


333 :大阪大司教区:2001/03/22(木) 02:03
>>320さん
 熊沢天皇@カトリック教会版ですね。
 いいなぁ、このおやじ。天国で聖ペトロになんと申し開きすんでしょうかね。
 ここにせよ、ピオ10にせよ、ミミ萩原(ぷ)にせよ、そんなに
カトリックのシステムって魅力的なのかなぁ....

>>330

 ミサ中の献金については無視してよし。すぐに次の人に回せばよし。
 多少手持ちの少ないときは....井上ひさし氏は抜き取りをしていたらしい。
 寄付金はたとえば信徒会館の建設とかなんとかで依頼がある場合があります
が、それも任意。たとえばそれによってミサを受けられなくなる、といった
ことは高松司教区をのぞいてありません。
 ところでまだミュンヘン大司教区からの教会助成金は続いてるんでしょうか?
 ローマからの助成金はなくなったと聞きましたが。

334 :かとりこ:2001/03/22(木) 04:02
>>329
払うも払わないも自由だね。気が引けるなら、共同募金に
入れるぐらいの金額で良いんじゃないか?
おれ、財布忘れて払わなかった時もあるよ。
あと、依頼があった寄付があったが、生活が苦しかったんで、
保留にしてた。2年経つが、結局なんにも言われなかったな。

335 :名無しさん@1周年:2001/03/23(金) 10:42
>>333

カトリック組織が魅力的ということよりも、こういう「偽者」に対する
抵抗力の甘さが怖いのではありませんか?聖ペテロが「おやじ」に懲罰を
加えるのは死後の話ですよね。どちらが本物の教皇か、今のわれわれは、
どうやって見分けるのだろうか。やはり、死後に聖ペテロを前に行われる
「チキンレース」しかないんでしょうか?

336 :名無しさん@1周年:2001/03/23(金) 15:03
突然お邪魔します。
司祭?の方が法衣の上から、肩にかけているマフラーのような、長い帯みたいな物の名称を
どなたかご存知ないでしょうか?
教えてください。
よろしくお願いします。

337 :名無し不動さん:2001/03/23(金) 17:48
>336
『ストラ』っていうんだっけか?
間違ってたら誰か訂正してちょ。


338 :質問者:2001/03/26(月) 14:08
毎度、変な質問で申し訳ない。今度は、「ホスティアの奇跡」について質問が
あります。韓国のあるカトリック教会では、女性信者に聖痕が現れたり、口の中
でホスティアが血肉に変化したり、マリア像の目から血の涙が流れたり、といった
奇跡が多発しているようです。
http://www.geocities.com/jusanfn/index8.htm(また英文サイトです)

ヨハネパウロ2世も現地を訪れて調査しているようです(一緒に写っている写真
があります)。
http://www.geocities.com/jusanfn/eumi2.htm(一番下の写真)

カトリック教会の信者の皆様は、どのように受け取られていますか?


339 :↑うさんくさい写真や:2001/03/26(月) 14:22
ナジュのマリアっていんちきなんじゃなかったけ?
誰か詳しく知ってる人〜?

340 :どうなんだ?:2001/03/26(月) 14:23
カトリックにはどえらい奇跡もある分いんちきも多いからなあー

341 :かとりこ:2001/03/26(月) 15:01
おれさ、血の涙を流す奇蹟って嫌だな。
信じる信じない以前に、なんじゃそりゃ?
と思うね。同じ奇蹟なら、誰かのビョーキがなおるとか、
そういうのにしてくれよ。
聖痕もなんかね。マザー・テレサみたいな奇蹟的な活動をしていた
ような人に現れたとかいうならまだいいけど、おれみたいなぐうた
らに現れたとかそういうのだったら気持ち悪いだけだな。

342 :質問者:2001/03/26(月) 15:11
>>339-341

レスをどうもありがとうございます。
私も「気持ち悪い」というのが正直な気持ちですけど、「秘蹟」と
してカトリック教会の重要な儀式である以上、決して黙認すべきで
はないように思います。たとえインチキだったとしても、それを
必要とした人々(仕掛け人だけでなく、受けて喜ぶ人もいたはず)
が居たのは事実だから。

私自身は、たとえ「形式上」でも、ぶどう酒やホスティアが血や肉
に変化するという教義そのものが「おどろおどろしく」感じてしま
います。それが文字通り実現したら、こういう感じになるというこ
とでしょう?改めて「気持ち悪い」というのも何だか変な気もしま
すよ。最初から「気持ち悪い」教義なんだから。

343 :マリア:2001/03/26(月) 16:28
>>342あはは(笑)。ごめんなさい。うちの集落の長老達と同じこと言ってる。
うちの集落にカトリックのお嫁さんが来たのよ。
うちの集落にキリスト教徒が来るって前代未聞だったものだから、
興味半分で聞いたみたいなの。で、すごく怖がってたみたいで。
「生き血をすすって人肉を食べるのと同じことじゃないか」って。
真剣になって「あれは怪しい宗門でなかろうか?」って。
真剣にうちの伯父に訴えに来たの。

伯父はキリスト教知らないから、あたしが代わりに答えたの。
「お神酒とお寺でもらうお供えのお下がりみたいなものですよ。
そこに神が宿ってるっていうことの表現です。西洋風の例えですよ」
って言ったら納得したのは良かった。

でも、あたし達の言うことは鵜呑みにしちゃうっていうか、
「巫女さんはやっぱり、うちの神様の生まれ変わりでなかろうか?」
とか訳の分からない話しになっていって、
「私は人間ですから、ご心配なく」って言ったけど、
長老たちが帰ってから、悪いけど伯父と伯母と三人で笑い転げてしまった。

344 :名無しさん@1周年:2001/03/26(月) 16:39
>343
>生き血をすすって人肉を食べるのと同じことじゃないか
古代キリスト教徒に対するデマと同じですね。
カトリックの信仰は人間的な部分が濃いだけに、血の涙を流すマリア像
といったオカルトと背中合わせなところがある。プロテスタントのように
そういう人間的な部分を切り捨てた信仰はなんだか味気ないけれど、
オカルトは困るなあ。

345 :質問者:2001/03/26(月) 16:44
>>343

お下がりですか。それなら納得。しかし、わざわざ血を持ち出すこと
はないと思いますがね。

私は「人間の想念は現実化する力を持つ」と信じていますので、あの
奇跡がもし本物だとしたら、そういう奇跡が起こることを強く願う
心のエネルギーが、あのような超常現象を起こしたのだと思うのです。
ということは、あの教会にそういう「おどろおどろしい精神」が一杯
ということでしょう。

私が恐れているのは、あの奇跡を現した女性が、タリバンみたいなこ
とをまたおっぱじめないか、ということです。身内に第2の統○教会
ができるのは、カトリックにとっても迷惑だと思うんですけど。

そう言えば、統○教会の教義も相当「血生臭い」ですね。

346 :かとりこ:2001/03/26(月) 17:09
>>342
なんかね。聖体、葡萄酒が血肉なのは秘蹟だからこそ
モノホンになるってのは変じゃないかねと思うわけよ。
それに教義は気持ち悪くないよ。イエス御自身がそう言ってるん
だから。その言葉の意味を噛締めるためのことでもあるわけよ。

奇蹟は神の御技だが、なんらのメッセージ性や、意味が
ともなって生きてくるものだと思うんだよね。



347 :質問者:2001/03/26(月) 17:31
>>346

>聖体、葡萄酒が血肉なのは秘蹟だからこそモノホンになるって
>のは変じゃないかね

納得です。

日本語にも「血肉になる」という表現がありますからね。ただ、
ローマ時代にライオンの餌食になる殉教者を出しつつ、無抵抗主義
を貫いた原始キリスト教徒の心を察すると、この「血肉」にこめら
れた殉教の精神を感ぜざるをえないのです。確か、迫害が激しい
時代に書かれたヨハネ黙示録にも、「血」は頻繁に登場しますね。

あれと結びつけるから「おどろおどろしく」感じてしまうのかな?
とにかく、「真っ赤に流れる〜僕の血潮〜」という明るい「血」で
はないことは確かです。

348 :マリア:2001/03/26(月) 19:23
>>345迫害を受けたという事もあるでしょうね。
それから、日本人などの東洋人と中東や西欧人との
感覚の違いもあると思う。
言わんとしている事は同じでも、感じ方が違うのだと思うわ。
文化の違いってやつよ。

あたしは昔はカトリックだったし、今は神道だから分かるわ。

349 :マリア:2001/03/26(月) 19:52
>>345忘れてた。続き。
想念が現実化できるというのは、近年の研究でも明らかになってきたわね。
その「おどろおどろしい精神」ってあなたが感じるのは文化的に違和感かも
知れないわね。あたしの母が日本の全体主義的文化になじめないのと同じで。

タリバンみたいなのをするかしないかは、彼女の人間性の問題だけど、
日本でも、ミミ萩原や色んな「幻視者」っていわれてる人たちの活動は
「カトリック中央協議会とは関係ありません」扱いだしね。
秋田の血の涙を流した聖母マリア像に対しても、半信半疑扱い。

統○協会が血なまぐさく見えるのは、
教祖が血分派と呼ばれる性的儀式を行う派の牧師だったせいかもね。

350 :質問者:2001/03/26(月) 20:12
>349

>「カトリック中央協議会とは関係ありません」扱い

気持ちがわからないでもないですね。そういう奇跡の類を迷信視
して、カトリック=迷信宗教というレッテルを貼られることを必要
以上に気にする人がおりますから。一度、ルルドの奇跡について
質問したら、頭から湯気立てて(画面では見えないけどね)、あん
な迷信と一緒にするなってどなられた(画面では聞こえないけどね)
ことがあるなあ。

私が滑稽に見えるのは、そういう「科学的」なイメージと裏腹に、
相変わらず「聖餐」というような旧態然たる儀式にしがみついてい
るところ。奇跡を全部否定したら、最後には「聖餐」だって否定
せざるを得ないのは見え見えなのに、平気で矛盾的行為を続けて
いるように、「部外者」の私からは見えますね。

「正しい奇跡」と「いかがわしい奇跡」をどう区別するのでしょう。
人間が見分けられるような代物とは思えませんが。せいぜい、判断
基準としては「おどろおどろしいか否か」しかなくなってしまう。

世界的にユーメイな○○さんが言うのだから、絶対間違いない、
なんて説明は子供にしてくれ、って感じです。絶対に自己欺瞞だよ。

351 :質問者:2001/03/26(月) 20:22
>350

あっ、思わず矛先をカトリックに向けちゃったな(^^;)

>>346でかとりこさんが説明してくれたのだと、結局はイエス受難のメモリ
アルにすぎないと思うのです。それはそれで意義があることだとして、その
儀式に「不可思議な力」が発生して、魔法のように罪が清められる、と
言ったら、その時点で詐欺になると思いますよ。

そこのところが、都合のよいように2枚の舌を使い分けているように思
えてね、ダブルスタンダードって奴じゃないかな。すべては奇跡だ、か、
奇跡などない、かだと思う。これは奇跡で、あれは悪魔のまやかしだ、と
使い分けるとすると、私のような部外者から「では、その正邪をどうや
って見分けるんだ」と突っつかれると、二の句もつげなくなるでしょう。

ちょっと以前、「対立教皇」のHPを紹介したときにも少し「鎌かけて」
みたんだけどね。誰も触れたがらないようで、たちまち下がっちまった。

352 :かとりこ:2001/03/27(火) 03:07
>>351
俺は奇蹟自体は否定しないが、その奇蹟にはかならず神のメッセージ
があると思うからね。その意味が明らかになるまで、わからんものは
良く分からんという結論だよ。

ルルドの場合は、病気が治るという奇蹟が伴ってるし、最終的には
あれだけの人間が今もおとづれて奇蹟の恩恵に授かってるからね。
パードレ・ピオの聖痕も、本人が聖者のような人間だったからね。
証みたいなもんじゃないかと思ってるよ。聖フランチェスコと
同様だね。

だから、ただ血の涙を流したとか言われてもね。そのあとのメッセージが
生まれないと俺的には分からんよ。ただ気持ち悪いよな。という思いしか
ないね。正邪はその後に分かるもんだろうね。奇蹟の意味が分かった時
にね。神の奇蹟は単なる耳目集めだったりとかそんなはずないと思うから。

それから、おれはキリストが敢えて奇蹟を起こさずに死んでいった意味や
奇蹟に対する口止めをした意味を考えるよ。

353 :キリスト教スレ住人へ:2001/03/27(火) 03:14
乱立問題がついに出たので、以下で話合いをしてます。意見もとむ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=984311929&ls=100

354 :o((=゚ェ゚=))o:2001/03/27(火) 12:16
ユイスマンスの「ルルドの群集」という本を昔読んだけど、凄まじかったよ。
顔面の狼瘡や潰瘍が瞬時に癒えるの。
カトリックの場合、どっかの新興宗教と違って、その奇跡調査を厳密にプロテスタント、無神論者、医師なども交えて何年もかけておこなうから、その信憑性は信じてるよ。

初期の頃、骨の潰瘍が癒着しなかったものが瞬時に元通りになった人の骨は標本にされたりね。
ホスティアが肉片に変わる奇跡は昔、イタリアのバジリカだかでもあったらしいね。

要するに、ホスティアはイエスが言うように、本当の主の肉と同じ意味を持つというメッセージでしょう。
聖体拝領は本当にイエスと一致できる、から大事ざんすよーというご神託じゃないかな。
ナジュの真偽はともかく。

355 :マリア:2001/03/27(火) 17:51
>>350あたしはそういうのが分かる変な体質だから、
簡単に見分けがつくけど、そうでない人は難しいわね。
それに、あたしのような人達からは一般人に対しての説明が
不十分になる。「大丈夫ですよ」って言うのは簡単だけど、
その根拠を説明しなさいって言われたときは?
あたし達も人間だから、間違った道に行く可能性もあるしね。

ただ、何でも否定するのは簡単。誰にだってできるわね。

だから時間がかかるのは当然だし、かけるのは当然。
メッセージが必ず添えられているはずだから、
そこから真偽を確かめることもできるわね。
それも、自然界の贈り物よ。

356 :名無し:2001/03/28(水) 15:51
あげ

357 :かとりこ:2001/03/28(水) 16:07
> o((=゚ェ゚=))o
ユイスマンスは面白いな。ルルドに興味ある人は読むといい。

血肉の変化について考えたけど、要するにその共同体か人の
信仰が試されているわけだろ?だとするとあんまり名誉なこと
じゃないな。喜んじゃいかんと思うな。

マリアさんみたいに見れる人はいいね。
大変なこともあると思うがね。
つまり、正しき道に向かおうとするなら、人よりも深いところ
まで到達できると思うけど、悪しき道への誘惑も人より多いか
らね大変だと思うよ。

358 :実習生さん:2001/03/28(水) 16:11
プロテスタントの立場から質問。
カトリックの聖歌はラテン語ですよね?
意味分からなくてつまらなくありませんか?
サンスクリット語であるお経聞いていても面白くないのと同じで。
それとも西洋の言葉ならありがたいの?

やはり、賛美歌は日本語の方が意味かみしめつつ歌えるからいいと思うんですが。

359 :なっちありがとう!:2001/03/28(水) 16:30
>358
誰からそんな出鱈目聞いたの?
現在私たちが教会で声張り上げて、歌っているのは、紛れもない日本語です。
「典礼聖歌」と呼んでるヤツで、詩編(もちろん日本語)にメロディをつけたもの。
一度教会に来て、自分の耳で確かめてみたら?

360 :かとりこ:2001/03/28(水) 16:41
>>359
ほんとだな日本語ばっかりだ。
俺はたまにはラテン語の歌も歌いたいと思ってるぐらい
だがね(藁

定型文のラテン語聖歌の場合、歌えるとそのうち
単語ぐらいはなんとなく意味判るようになる。
そうすると世界中どこ行ってもミサに困らないよ。
それで助かった時がある。

361 :名無し:2001/03/28(水) 16:54
ほんと多いね、カトリックに対する誤解って。
前にカトリックでは信者は聖書を読んでは行けないらしいなんて
レスがあったけど、これじゃあエキュメ運動なんて
先の先だね。

362 :マリア:2001/03/28(水) 16:56
>>357かとりこさん、あたしはしょっちゅう誘惑ありまくり。
見てたら分かるでしょ。攻撃的な性格だからね。
何でも白黒つけようとするもの。叩く人がいるのは当然。
ただ、あたしはそれは自分の心から来ているものなのよ。
それも分かってるの。一応は。分からなくなったら終わり
だとも思ってるけど、修業が足りないから何かしらやらかすわね。

それをあたしの先祖の古代の巫女たちは「魔」と呼んだ。
イエズスも「悪とは人の心から出る」と言われているわね。
最近のヨハネ・パウロ2世は地獄に関して
「神から離れた人の状態」みたいな事を言ってたけど、
あたし達もそんな感じに思ってる。

ここに来てると色んな人に会えるから、自分の間違いにも
気付きやすいしありがたいの。

363 :かとりこ:2001/03/28(水) 17:08
>マリア
そうだな。攻撃的と思わないが、感性が豊かだと思って
みてたよ。多分その特異な才能故に来るなんかだとね。

地獄のことは俺も同じに思ってるよ。
回心という言葉が意味するところは大きいよな。
悪は自らの思いや行いによって生じるんだよね。

俺もマリアさんや皆から色々教えられたな。
通信というのは相手の肉体が見えないから、言葉が自分の
内面により一層働きかけてくるな。考え込む事が多い。
面白いね。

364 :o((=゚ェ゚=))o :2001/03/28(水) 18:00
マリアさんが攻撃的な性格とは思わないよ。

365 :マリア:2001/03/28(水) 19:04
>>363特異のものは、たまたまのものよ。
多分、遺伝子異常ってやつじゃないかしら。
先祖から受け継いだものだし。ただ、それ程度よ。

そうね。この世界は非常に面白い世界ね。
神は色んなことを通じて答えをくれるわね。
分からなくなったら、答えをくれるのを待ってれば
必ず答えをくれる。
ただ、向こうの時間の流れとこちらの時間の流れが違うけど。

>>364ありがと。
でも、あたしはまだまだって感じ。
けど、時の流れに身を任してたら、また色々気づく事もあると
思うから、自然=神に委ねて生きていくことにするわ。

366 :質問者:2001/03/30(金) 10:41
>>352

>キリストが敢えて奇蹟を起こさずに死んでいった意味や奇蹟に対する口止
>めをした意味

奇跡を杖にするのでなく(無条件の贖罪による救済を含む)、自らの頭で
善悪を判断し、善を好むが故に善を行う、そういう人間になって欲しいとい
うメッセージが込められていると私は思います。

>>354

問題は、その種の「奇跡」は、他の宗教団体でも起きているのです。「奇跡」
にこだわり、それを「正法の証」と捉えると、結局は「どちらが正しい?」
という泥沼に陥ります。「奇跡」などなくてもキリストを信じるような信者
をこそ、キリストは求めているのではないでしょうか?「奇跡」でもって、
「正法」へ導こうとするのは、たとえ善意であれ、結果的にはその人を迷わ
せるだけの話です。

>>362

私もマリアさんが攻撃的だとは思いません。たとえ厳しいことが含まれてい
ても、それを上回る「愛」を感じるからね。真理を追究しようとする人は、
どうしても「攻撃的」に他人の意見を論破する場面が出てきてしまうものだ
と思います。相手もまた真理を求める人なら、いかに「攻撃的」な意見に
ショックを受けたとしても、かえって真理に近づけたことを感謝するものだと
思います。

367 :かとりこ:2001/03/30(金) 12:57
>質問者
俺も同じ意見だよ。
奇蹟とは実は信じることや、日常のなかで常に生じてると思えるしね。
目に見える形よりも大きい奇蹟があると思ってる。

紹介された韓国の奇跡も、その理解によって正邪に分かれる。
それを奇蹟と喜び宣伝するより、何故現れたのか?吟味すべき
事だろうね。俺的には書いた通り、信仰の疑いの深さが試された
と思えるがね。俺にそんなことがあったら、恥じるよ。
だから宣伝するより、内省を求められると思う。
その内省が良いほうに向かえば、深い信仰が得られると思うがね。

368 :名無しさん@1周年 :2001/03/30(金) 13:11
今の世の中口先だけで、何の奇蹟もなかったら、どんな新興宗教もありってことになると思うよ。
奇蹟はその判定基準にはなると思う。

でなければ、聖母はファティマで太陽の奇蹟を示されなかったのでは。
イエスがもし、何の徴も示せない人間だったら、単なる冤罪で処刑された哀れな人間の可能性のほうが高い。

いまはインチキやでっちあげの奇蹟が多いからね。難しいけど。
ただ、奇蹟云々より、イエスの説いた教えのほうが尊いということは、かとりこさんのいうようによくわかります。

369 :質問者:2001/03/30(金) 13:45
>>367

全く、「奇跡に躓かぬ者は幸いなり」だと思います。

>>368

キリスト教のみならず、いろいろな宗教でも奇跡が多発している
ことをご存知でしょうか?奇跡を起こす者が常に「正しい」者で
あるという保証はありませんよ。神道では、古くから神が人に降り
て託宣などを与えるというシステムが発達し、その正邪を判定する
必要が問題になったことから、「さにわ(審神)」と呼ばれる手法
が確立しました。それと比較すると、キリスト教は無防備とも言える
状態です。それを見越して、イエスは「私が救世主だ、と宣言する者に
従ってはならない」と適切なる忠告を与えています。

イエスが「私に躓かぬ者は幸いである」と言っている裏には、「奇跡
を起こさない私を救世主と認めることができない人々は、不幸である」
という意味が込められていると思います。

370 :名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 13:51
奇蹟を起こさない救世主といえば、

麻原
深見東州
その他大勢。


371 :質問者:2001/03/30(金) 14:01
>370

麻原氏は、首都圏にサリンをまいて、奇跡を演出ことによって、自分
への崇拝を強めようとしたし、深見氏もまた、いろいろな秘法を売り
物にして信者を集めようとしている。確かに奇跡を起こしていないけ
ど、奇跡に魂を抜かれているところは共通でしょう。同じく、奇跡
ばかりを求める盲目者が、そういった偽救世主の餌食になっていく。

彼らは奇跡を「起こさない」のではなく、「起こしたくてしょうが
ないが起こせない」のですよ。イエスは逆でしょう?奇跡など起こせ
るけど、人間のためにならないからあえて「起こさない」のです。
本当の剣の達人は、素人を前にしてやたら棒を振り回して力量を見せ
つけようなどとは考えません。それは剣を汚す行為だからね。宗教
も同じ。奇跡を見せて人心を掴もうとするのは、神を汚すことです。

372 :名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 14:12
マリアは否定的だよ、意見があわない人には特に。
人間の裏表ってやつかな?反動も大きい。
本当はそこから得るものもある筈なのに。
逆に攻撃的な意見を部分的にはしてたりする。
これは文句でも批判でもないよ、誤解しないでもらいたい。
愛と言うより自己満足な意見と言えるかも知れない。
その証拠に急にトンだこと言い出したりしてる。
バランス、バランス。

373 :名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 14:15
サイババは?
イエスの言葉を進展させた内容の言葉を言っていると思えるけど
優しく現代的に話すし、でも奇跡じゃない?

374 :名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 14:28
>>373
一度会いに行ったけど、強烈に惹かれるものがあるのは事実。
イエスやサイババの言う通り、奇跡は問題じゃ無いと思えた。

375 :ヘマね。見て研究会会員:2001/04/07(土) 02:43
>326
シスターといい関係になりたい人へ。
書店のしゅじんになればいいのですよ。
女子パウロのシスターが営業に来るので、親切に聞いてあげておいてあげるんだよ。
で、それをくりかえして求愛したらどう?
トラップ一家みたい。

376 :名無しさん@1周年:2001/04/07(土) 02:52
>>373 >>374
サイババ
             
カリスマ性のある人間+マジックマニア=奇跡
               

377 :薔薇の名前:2001/04/07(土) 08:36
すいませんが、フマネ・ヴィテ研究会とかいうところの成相明人神父って実際にカトリック内部では
どう思われているんですか?
かなりトンデモがかかっているような気がするんですけど。

京都教区の大塚司教に対しても平気で「辞めた方がいい」なんてことを言ってるし。
強気は強気なんだけど。
あれが多数派なんだとしたら、ちょっとカトリック全体に対する見方が変わっちゃうな(悪い方へ)。

378 :ぷちとまと:2001/04/07(土) 13:39
>>358
少し前に出されたキリスト教紹介書では、第二ヴァティカン以前の事を書いていたり
するので、「出鱈目」とどやされるほどの誤解じゃないでしょう。
かつては確かに原則ラテン語のみで御ミサが行われていたそうです。
ラテン語ミサはとても響きが美しいので私は時々はやっていただきたいと願っています。

379 :ぷちとまと:2001/04/07(土) 13:43
>>361
カトリックは聖書を読んでは行けない
矢内原先生が撒き散らしたデマですね

380 :ぷちとまと:2001/04/07(土) 13:46
>>361
でも他のスレッドで、カトリックでは旧約聖書は使わない、と書かれていたのは
カトリックの方(新しい方なので誤解していただけのようですが)でしたよ。
カトリックの方でプロテスタントなどに誤解をしている方も大勢いますし

あ、エキュメニズムの道は遠い、という結論は正しいんですね

381 ::2001/04/12(木) 16:48
カトリックの信者の女性は愛に飢えてますと言えば
やらしてくれるんですか?

382 :名無し:2001/04/12(木) 17:32
>377
フマネ・ヴィテ研究会のHPを読むと、日本のカトリックはダメみたい
な発言がここそこにあるから、おそらく少数派なのでしょう、日本では。
森元司教についても批判しているし。ただ欧米でもフマネ・ヴィテに
反対の聖職者は沢山いるから、世界的にみてあのかたの意見が
カトリックのすべてとは言えないでしょう。まあ、YAHOO掲示板の
katura氏やフマネ・ヴィテ研究会だけからの情報をたよりに
カトリックを判断しないでください。

383 :非クリスチャン:2001/04/12(木) 18:07
>380

>エキュメニズムの道は遠い、という結論は正しいんですね

私が不思議に思うのは、同じキリストを教祖とするのに、なぜカト
リックとプロに分かれているかということ。キリストや神がそれを
お許しになったから、こういう状態なのでしょう?これには何か
壮大な「神の計画」があるんだろうか。

クリスチャンの皆さんのご意見きぼ〜ん。


384 :マリア@和霊:2001/04/12(木) 19:37
ラテン語の御ミサは教皇大使が来られた時に
されていたような・・・。
その時侍者をしていたのですが、緊張しておりましたので
上の空であったと思います・・・。

385 :薔薇の名前:2001/04/13(金) 03:25
>>382
ありがとう。

>katura氏やフマネ・ヴィテ研究会だけからの情報をたよりに
>カトリックを判断しないでください。

大丈夫。ただ、ああいった考え方が多数派だったり増加傾向にあるのだと
したらイヤだなあと思っただけ。
まあカトリックほど大きくなると、内部にいろんな考え方があっても仕方
ないことなんだろうけど。

386 :森司教の普通のおっさんぽいところが好き:2001/04/13(金) 06:51
フマネ・ヴィテのヴァカどもはなぜ森司教のこと悪く言うの?

387 :名無しさん@1周年:2001/04/13(金) 07:35
>>1さん、どこにいるの?
どうしても、話したいことがあるんだけど。

388 :382:2001/04/13(金) 09:43
>385
カトリックが第二バチカン公会議で大きくかわったことは、対話を大切にするようになった点だと思う。
中世から近代までは、法的教会が重視されてきた。フマネ・ヴィテ研究会やkaturaさんの
やりかたは対話重視よりもまず教会の権威で相手を黙らせようとするみたいで、まるで近代以前
を彷彿とさせるね。カトリック教会内部で対話ができないひとたちが、外のプロテスタントや
異教徒とどうして対話ができるかと、不思議に思ってしまいます。わたしの知る範囲はごくごく
限られているため、日本のカトリック全体がどうなっているのかについてはよくわからないけれど、
少なくともわたしのまわりには、権威を振りかざして相手を黙らせようとするような聖職者や信徒は
みかけないね。実際の現教皇も会ってみると、謙虚なひとらしいよ。仮にいっていることが正しくても
包容力がなくては、まったく逆効果なのにね。

389 :とおりがかり:2001/04/13(金) 12:32
ちょいと冷や水を..

「げんこつ」への理解なくして
父から子への愛は語れない。

イエスは当時の宗教担当の人に「心のげんこつ」を与えた
そして、彼は磔にされた。


390 :名無しさん@1周年 :2001/04/13(金) 12:49
>389

んだ、んだ。

ルターの宗教改革で、カトリックは「げんこつ」を受けたお陰で、
バチカンの汚職まみれの状態は改善したし、イエズス会は世界中
を布教してまわるという快挙を成し遂げた。

「げんこつ」を敵視して、攻撃するのだけが能じゃないぜ。これは
プロに対しても言えることだけど。

391 :マリア@和霊:2001/04/13(金) 15:31
確かにそういう面もありますよね。
いろんなことがあって人は学んでいくんですよね。
いろいろと考えさせられる今日この頃だったりします。

ただ、和解に向かって少しでも進んでいけばよいなと望みます。

392 :マリア@和霊:2001/04/13(金) 15:41
それから正統か異端とか人間が決めてもいいのかな?
とも思ってます。
良い行いの中にキリストが居られるように感じたりするので。
イエスのように温かい目で人を見て生きていきたいなと思います。
・・・確かにとても難しいことですけど。
「愛し合いなさい」「許しなさい」
これを教訓にして生きていきたいです。

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