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独我論脱却

1 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 04:07
独我論を脱却する論理を誰か見つけられませんか?
吉報待つ!

2 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 05:29
論理ってそもそも独我論だろ?

3 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 07:40
空。

4 :まじくん:2000/07/15(土) 11:30
インドを旅したとき、見せ物小屋に入ったの。
そこには一つの胴体に二つ首のあるシャムの女がいて、
二つの首でたがいにおしゃべりしていた。
これには独我論が通用しないのでは?


5 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 11:54
>>2-3
詳しく説明しておくれ。

6 :>4:2000/07/15(土) 14:25
脳に自我が由来するとすれば、一方の首はあくまでも他人。
よって独我論は成立しうる。


7 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 17:27
>4
 おなに〜しやすそうだね

8 :まじくん:2000/07/15(土) 21:11
>6
それがね、そのシャムの女の人、芸をもってるの。
お客が右の顔になにか見せるの。腕時計とか、紙に描いた絵とか。
左の顔はそれは見てないの。
ところが左の顔も、ちゃんとそれを知ってる。
同伴したインドの友人が、左の顔に自分の指輪をみせたの。
そしたら、右の顔はそれが指輪だっていった。
どうなってんだと友人がその女の人に尋ねたら、
黙っていても、なんかわかるんだって。
それから一方の頭の耳たぶをつまむと、
もう一方の頭もつままれた事はわかるらしい。
インドってすごい。


9 :名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 21:15
>8
マジ?
すごいねー。俺とティムポでもそんなに意思疎通できないよ。

10 :まじくん:2000/07/15(土) 22:26
>7
なんでふた首だとおなに〜しやすいの?
よくわかんないけど。


11 :まじくん:2000/07/15(土) 22:34
>9
あれはすごかった。
でもね、彼女のような人が、働いて生きていける社会というのに
インドのすごい懐の深さを感じもした。


12 ::2000/07/15(土) 23:03
>11
インドだけじゃなくって昔の社会では
結構見世物小屋で見世物になって働いたり、
宮廷で働いたりしてたそうだよ。
いまみたいに福祉や人権の必要性が問われる社会では
あんまりないけど、昔は結構たくましかったみたい。
奇形全書だったかになにかそんなことが書いてあった。

13 ::2000/07/15(土) 23:10
>まじくん

簡単なトリックじゃん。なんつったって、協力者が同じ身体を
共有してるんだから。藁
しかし、日本でそんな見せ物したら、人権団体がうるさいん
だろうな。


14 :まじくん:2000/07/15(土) 23:27
>7
あっ、そうか。そういうことね。



15 :まじくん:2000/07/16(日) 01:08
>13
でも二つの顔がみょうにシンクロして動くときもあるの。
同じ言葉を同時に話したり。同時に笑顔を作って笑ったり。
そのときは声がはもるの。ワワーンって。
でもべっこになってるときのほうが多い。

それから日本じゃむりだよね。
よそでも無理そうだけど。
実際に問題になっていたような。


16 :名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 13:33
で、どうなの?
独我論は脱却できんの?

17 :まじくん:2000/07/16(日) 14:19
>9(12)
STARWARSみたいに、異界異形の生命がいっしょに
生きていける社会。悪くないかもね。
彼女(たち?)はある意味では不幸かもしれないけど
別の意味では奇跡のようにも思うの。
いったいあの二つの頭の中や、あるいは心の中は、
どうなってたんだろうって。
どんなふうに世界をみてたのかなって。


18 :まじくん:2000/07/16(日) 14:28
>16
どうなの?
よくわからないや。
あのとき彼女たちの内面では、
なにかが共有されているようには感じたの。
おなに〜したら、どっちの頭も興奮するのかな。


19 :実は9=12=16:2000/07/16(日) 15:56
>17
>STARWARSみたいに、異界異形の生命がいっしょに
>生きていける社会。悪くないかもね。

いいですなー。
しかし個人的には自分自身の身体をもとに戻すために
一生懸命医学を勉強して奇形の権威とかになり、
奇形に悩む他の人を楽にしてあげられる、
そういう能動的で積極的でちょっぴりニヒルな
カリスマ奇形さんが社会に出て来て活躍して欲しいですな。

あと、独我論は他人との対比だけでなく、
実在との対比でも語られると思います。
例えば自分の死後、世界はあるのか?とか。

20 :まじくん:2000/07/16(日) 16:34
>19
もとに戻すという意味はわかるけど、
もとからそうだったみたいだから。
でもなんとかなるなら、なんとかしたいだろうね。彼女たち。
でもそれはどっちかが犠牲になると思うの。

ふと思ったんだけど、あの人の芸はトリックじゃなかったのかも。
芸でもなんでもなくて、あの人にとっては、
それが当たり前だったとか。


21 :実は9=12=16 :2000/07/16(日) 17:26
>20
そうでした。奇形の場合先天的にそうなってるんでした。
いやー実は、ガン患者がガンの研究をした場合、
死にもの狂いで研究するでしょうから、今よりもガン研究の進歩
は飛躍的にアップするだろうという単純な考えがあったので、
そのまま、奇形の場合に当てはめてました。

身体がくっついて生まれてきた場合、分離手術が難しいのは
双頭の人とかがいるからか・・・難しい倫理学的問題ですな。

それで、双頭の人がどのように世界を見ているのかと言う事ですが、
触覚は共有していて、聴覚と視覚は異なるんであれば、
対して普通の人と変わらないんじゃないですか?
思考も別々にするんだろうし。
だから当然おなに〜すれば、どっちも気持ちいいと。
でも、意思疎通が他人同士より多く出来てるように見えてるってのは
同じような動作をする以外になにかありますか?

22 :名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 00:45
え?おれは存在してないの?
こまるなー君。おれはいるって、ここに。


23 :まじくん:2000/07/17(月) 15:55
>21
旅行中の一時のことだったので、
あまり詳しく観察することはできなかったの。
不思議な存在がいるもんだなとおもったので。
彼女たちの自己イメージって、かなりへんそう。
どこからどこまでが、「私」なのか、
境界があいまいそうなんだもの。


24 :毒牙:2000/07/17(月) 17:36
うーん永井均は手強いねー。大庭健がこの私の存在は奇跡だとかのたまってうぬぼれているうちに等身大の自分を自覚できてない、幼稚なんだお前は、と突っ込んでるけどききめないようですね。


25 :名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 19:43
二つ首の事例は面白そうですが、多重人格とかどうでしょう。
論文で多重人格における世界の原点についてちょっと考えてようと
してみたんですが、記憶が共有された多重人格ってありえると思い
ます?
結局一貫した「私」ってのも記憶の錯覚なのではないかと思う今日
この頃・・・。



26 :オッカム:2000/07/17(月) 22:25
独我論を脱却してーんだな。よし、させてやる。
まず新宿、渋谷などの雑踏のど真ん中に行け。次にあらん限りの
大声で「オマンコー!!!!オマンコー!!!」と絶叫しろ。
おまえが独我論者であり、かつ独我論に忠実であるなら言えるはず
だ。もし言えなければお前は独我論を信奉してないってことだ。
でももし何の躊躇も無く「オマンコー!!」って絶叫できたら
頼むから医者に行って見てもらえ。

27 :名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 22:35
>26
オメコではいけないのでしょうか?

28 :名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 22:38
自己と他者的独我論ではなくて、
観念論対実在論的独我論からの脱却を教えて下さい。

29 :名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 22:41
>23
今、フッと思ったんですが、
片方の頭が、腕を動かそうとして、
もう片方の頭が腕を動かないようにした場合、
腕はどうなるの?

30 ::2000/07/17(月) 23:03
なんでもいいから独我論脱却の秘法を見せてください!吉報待つ!

31 :代理いぬ:2000/07/17(月) 23:35
>30
いや、26は近年稀に見る独我論脱出法だよ。
こんな荒療治ははじめてみた。(感服、感服)

ちなみに、観念論対実在論的独我論からの脱却(>28)には、
30の方法を目をつぶって行う必要がある。
オッカム君の補足をしておくよ。

32 :マルクス・イキマクリクス:2000/07/18(火) 00:29
>26
 あ・・師匠

33 :>27:2000/07/18(火) 01:58
新宿、渋谷ではダメ。
難波や梅田ならヨシ。
常識でわかるだろ、そのくらい。


34 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 08:38
>33
いやっその
ジョークなんすけど・・・

35 :28:2000/07/18(火) 08:46
>31
なるほど。
とすると死んだ後にもこの世があるかどうかという議論を
脱却するには、死ぬ前に、
自分のオリジナルオナニー実行中の写真を
そっと机の奥に忍ばせておけばいいんですな。
しかしながら、敵がエロ本に投稿するようなドキュン
否、文化的社会的な価値判断を悉く理解しない
真性のドキュンだった場合、
どのように対処すればよろしいのでしょうか?

36 :33:2000/07/18(火) 09:19
>34

俺のもジョークだ!心配するな。

(先に言っておくが、34もジョークだろ。)


37 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 15:23
>36
何だビックリしたー。
思わず素のリアクションをしてしまいました。

38 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 15:40
>1&28
とりあえず、
1 完全自殺マニュアルという本を買ってくる
2 書いてある内容を自分に向けて実行する。

これで、たぶん観念論対実在論的独我論を脱却できるはずだ。
私はやったことはないので、確実であるとは言えないのが、残念です。

39 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 18:23
独我論が他者問題から始まってる限り、他者は我々の世界の
あり方の中で定義されてるのだから、それが「いない」とか
考えることはできないのではないかと。

独我論を乗り越えようとする人が証明したい「他者」って、
いったい何を意味してるんでしょうか?


40 :代理いぬ:2000/07/18(火) 20:58
あ、31の、
>30の方法を目をつぶって行う必要がある。
は、「26の方法を目をつぶって行う必要がある」に訂正。
いまさらだけど。

>35
いや、ちがうちがう。

君が真摯な観念論的独我論者だったとして、
渋谷で耳栓をし、目をつぶったらならば、
周りの存在は霧散し、君は孤独な存在者になるわけだ。
とすれば、君はあらん限りの大声で
「Ω@※♯ー!Ω@※♯ー!」
と絶叫することも容易に出来るはずだろう?
もし出来なかったら、
君初めから独我論者ではなかったということになるし、
出来たらとりあえず医者に行かれることをお勧めする。

これがオッカム流独我論カウンセリングだろ。
試してみては?

41 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:35
>40
そうじゃなくて、死んだ後にも自分が生前
住んでいた世界、つまり、今私が住んでいるこの世界ですな。
この世界は自分が死んだ後にも、生前と同じく
存在するのか?と言う事なんです。
早い話、自分が死んだ後、まだ生きている人達の住む世界は
存在し続けているのか?と言う事なんです。
このように問題を設定すると、
耳栓も目をつぶる事も私は死んでいるからできず、
また、猥褻極まりない言葉を流暢な現地語を用いて
トルコで叫ぶ事もままならないと言う事なのです。
それで、こすり付けオナニーに興じる我が身を激写し、
100年プリントでそっと机のひきだしに仕舞い込めるかどうかが、
独我論者かどうかの試金石になると。
しかし、相手が、文化的社会的な価値判断を悉く理解しない
真性のドキュンだった場合、どのように対処すればいいのか
分からない訳です。

ちなみに私は反独我論者で、独我論を脱却したいのですが・・・


42 :通りすがり:2000/07/18(火) 22:38
う〜ん
26の方法でなぜ独我論を脱却できるのかよくわかりませんです。
少なくとも永井均のいう「<私>の独我論」が
それによって揺らぐことはないと思うけどなぁ。

4の見せ物小屋の人については、たとえ首がいくつだろうとも
「世界の開けの原点」=<私>ということで、問題ないのでは?
でも想像するのはちょっと難しい...

43 :名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 22:51
>42
あれは独我論と言うよりも
自己と他者の違い論のような気がするな。
あれは、よくでけとるで、ほんま。
特に「私が云わんとする事を他人が理解してはならない。」
てゆーとことか。あっあれは永井均じゃなくて
ウィトゲンシュタインの青色本か。

44 :ソーカルファン:2000/07/18(火) 23:26
『「知」の欺瞞』にバートランド・ラッセルのこんな一文が紹介されてて、大笑いしたぞ。

p.75からの引用:
「私は高名な論理学者クリスティン・ラッド・フランクリン女史か
ら手紙を受け取ったことがある。それによると、彼女は独我論者
なのだが、ほかにそういう人がいないのを驚きに思っているとの
ことであった。」

どう。こんなもんよ。ワラ




45 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 00:57
とりあえず、永井均は放っておこう。
どうやら1氏が言ってる「独我論」は伝統的な意味の独我論のようだから。

46 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 02:50
独我論・唯我論の類を純粋に論理によって否定することはできません。
それは論理というものの構造、ひいては人間の認識/認知の構造に由来するから
ではないかと思われます。

ですがいくら「世界には唯我のみが在る! と叫んでみたところで金はないし
女は寄ってこないし短足だし無職ヒッキーである貴方の現実は変わりがありません。

そういうどうしようもない現実を、自分がイメージする通り変化させるためには、
結局、「自分の自我の外側にも、世界は広がっている」という現実を受け容れる
しかありません。
少なくとも受け容れているフリが、必要です。

世界が自分の(文字通り)思う通りにはならない、という「現実」のまえには、
この世界が独我論的構造を有しているのか、そうでないのか、という問題は
些事に過ぎなくなります。なぜならそれは、どっちでも大して変わりはないから
です。

47 ::2000/07/19(水) 02:54
非常に頭のよろしい。
私のつぎぐらいに。

48 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 03:04
>46
第1段落はとてもすばらしい。
が、論理と現実の関係が無茶苦茶です。
現実にはなぜか独我論的言明が受け入れられないということを示すために、
論理と現実の関係を詳しく書いて欲しいです。


49 :46:2000/07/19(水) 03:37
>48
論理(てゆうか、観念)と現実の関係はこの場合問題にならない、というのが趣旨です
ので詳しく書きようがありません。

50 :>49:2000/07/19(水) 03:51
現実認識は論理によっては行えなず、
ただ認識のみによるということでしょうか。

51 :46:2000/07/19(水) 04:36
>50
まあそういうことです。
そしてなにより大切なのは、そのこと自体は大して重要ではない、
ということです。
世界が独我的であるかどうかに関わらず、時が来るとやはりオナカは
確実に、すいてしまうのです。

52 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 08:45
>51
重要でないのは分かっている。
でも鬼の首を取ったかのように
振る舞う独我論者に御仕置きするにはどうしたらいいのか?

53 :ソーカルファン:2000/07/19(水) 10:24
そういう馬鹿には、馬鹿だと指摘する以外お仕置きの方法は
ないでしょね。

自分の意志で世界を変えられなければ、独我論など意味がない
ってことに気づかないのが馬鹿ってことよん。

ラッセルの文通相手みたいに、自ら墓穴を掘る馬鹿もいるけどね。




54 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 12:00
>>52
この世が独我論的に見えることは事実ですよね。
しかし、だからといって独我論が正しいとは言えません。
そのことを説明したらどうです?

55 :名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/19(水) 12:52
独我論者を論破する方法。
「君は誰に向かって独我論を主張しているのかね?」と問う。
まあ、タフな独我論者なら、この程度でへこたれたりはしないだろうが、
一度はやってみる価値があるだろう。

56 :すまりやん:2000/07/19(水) 13:13
唯我論者A 私しか存在しない。

唯我論者B そうだ。私しか存在しない。

唯我論者A ちがうちがう。私だけだ。

唯我論者B だからそれは私が言ってることですよ。私しか存在しない。

57 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 13:38
>55
そりゃ無理でしょう。
独我論てのは、この世を"私"の印象に閉じこめてしまう議論なんだから?
まともな独我論者からは「私の心の中の君のイメージに向かってだ」
という答えが帰ってくるでしょう。

58 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 19:31
>57
すると次にこう問うことができる。
「君の心の中の私のイメージは君の心の中の君自身のイメージと同じか?」と。


59 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 19:32
独我論はあくまで認識の問題では?
だから世界を変えられないからといって独我論が論破できる
わけではありません。
独我論は、主観の外に、事物の客観的な存在を認めない態度
です。一種の不可知論です。自分の見えている世界は、すべて
主観を通して感知されている世界像にすぎず、われわれは
自分の主観の外に出たら、事物を認識することはできない、
という態度でしょう。
これはある意味で、事物の客観的な実在などというものは
ない、という主張であり、古典的な形而上学に対する批判を
含んだ誠実な態度といえるでしょう。(現象学を見よ。)
問題は、それでも人間は地球の裏側には人が住んでいる
ことや、オナカが減ったというような感覚を確固としたもの
として信じているわけで、そのメカニズムを探るのが現象学
ということになるでしょう。


60 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 19:58
だから、独我論を論破するためには、主観の外に、客観的な事物
が存在する、ということを証明すればよいわけです。
個人的にはすごく興味があるのですが、かなり難しいことでは
ないでしょうか? 誰かやってみてくれませんか?

デカルトはそうやって“コギト”を見つけたわけですが、
僕はそのコギトの外にある世界の存在を証明したいのです
が... 誰か手助けしてくれませんか?


61 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 20:20
>独我論は、主観の外に、事物の客観的な存在を認めない態度
>です。
これは独我論というより観念論の主張だな。
まあ、観念論を徹底した姿が独我論だともいえるが。
ちなみに独我論や観念論と不可知論はちょとレベルが違う。
不可知論にはさまざまなタイプのものがあるが、
外界の事物の存在についての不可知論を例にとると、
その主張は「外界の事物など存在しない」ではなく、
「そのようなものが存在するのかどうか、知り得ない」
というものになるだろう。
よって、不可知論者は独我論者とも対立することになる。

62 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 20:21
>60
コギトは永井均の言う<私>と同一です。
それから証明しようとする意志自体が、私という言葉の様々な意味の違いを
蒸ししようとする態度に支えられた一つの誤解と言えます。
独我論の論破は客観的な世界の存在の証明では成功しません。
そもそもデカルト主義的な客観的な世界が存在するのか、
というより、そうした態度でわれわれが世界に接しているのか疑問です。
かつて私もあなたと全く同じ症状に陥りましたが、
独我論が言葉の誤用から生じるということに気付いたため回復しました。


63 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 21:06
>61
独我論と不可知論が異なることはよくわかったが、観念論と
独我論の関係はちがうのではないか?私の語感だと「観念論」
は「感覚では捉えられない理念的なもの」が実在し、それに
ついて論じる立場、という気がするのだが...それだと
上の独我論とは対立するものとなるのではないか?

>62
確かに「私」という人称代名詞が、個々の主観の「世界への
接し方」を一律化して、抽象化してしまうことはよくわかるが
だからといって、おのおのの主観が世界に対する際の接し方の
“原理的なメカニズム”は変わらないし抽出可能だと思うの
だが...もしわれわれが“客観的な世界”を想定しないで
世界とつきあっているとしたら、他にどんなやり方があるの
でしょうか? それは夢遊病者か、分裂病患者ということに
なりませんか?

64 :52:2000/07/19(水) 22:09
御仕置きしてきました。

65 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 22:49
>63
>おのおのの主観が世界に対する際の接し方の
>“原理的なメカニズム”は変わらないし抽出可能だと思うのだが...
永井はまさにこのことを批判(?)しているわけです。
あなたのいうことはまったく正当です。
しかし永井は、おのおのの主観というものから私の主観、
彼の言葉を借りれば「そこから世界が始まる原点」を再び抽出するわけです。
これに対して、その原点とやらも人間一般に妥当するではないか
と当然ながら反論されます。
永井はその反論に対して、だからこそこの抽出作業は永久に行われざるを得ないと言ってるんですね。

私としては永井のこの方法はまずいと思っています。
私という言葉の二つの用法に注目して、人間一般のうちの一人であり
同時にそれなくしては世界が成り立たない<私>というものを記述するわけですが、
その語り方がおかしい。

客観的な世界と言う時、主観的な世界との関係が当然問われるでしょうが、
この関係が非常に曖昧です。
この世界は我々が既に持っている観念の投射とも言えるし、
世界自体が我々に直接関わってくるとも言えます。
認識行為の際に言語が果たす役割が
問題の鍵だと思われます。

66 :>65:2000/07/19(水) 23:08
>認識行為の際に言語が果たす役割が
>問題の鍵だと思われます。

言語を持たない動物には「認識行為」はないってこと?
なんか、同意できないな。
認識に言語が果たす役割は大きいと思うけど、あくまでも、
まず認識が先にあって、言語はあとからついてきたはず。
認識の共有による世界観の広がりには言語が必須だったと
いうことなんでないの?



67 :ネオ生茶:2000/07/19(水) 23:36
人間にとっての認識は動物のそれとは異なります。
言語がなければ何もわからないでしょう。
イスという言葉がなければ目の前のイスを背景から取り出すことはできないはず。
つまり、言語を認識の道具と見なすことはできないわけです。
たしかtestのスレで「言葉とは表現手段であると同時に表現そのものである」
見かけましたが、その通りだと思います。
脳の視覚野が特定の反応をすることと、何かを見ることとの間には本質的な関係がないと言えば良いでしょうか?
客観的・主観的な世界の話はこのことを前提として出したわけです。



68 :名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 23:44
>独我論と不可知論が異なることはよくわかったが、観念論と
>独我論の関係はちがうのではないか?私の語感だと「観念論」
>は「感覚では捉えられない理念的なもの」が実在し、それに
>ついて論じる立場、という気がするのだが...
それは観念論ではなくて実念論。
普遍(または抽象的存在者)と個物(または具体的存在者)の関係に
ついての一つの立場で、唯名論(名目論)と対立する。


69 :興味深々:2000/07/19(水) 23:49
>私としては永井のこの方法はまずいと思っています。
>私という言葉の二つの用法に注目して、人間一般のうちの一人であり
>同時にそれなくしては世界が成り立たない<私>というものを記述する
>わけですが、その語り方がおかしい。

 もう少し、詳しく説明してちょ。



70 :ネオ生茶:2000/07/20(木) 00:06
>69
「私」の二つの用法に対応する<私>のあり方に目を付けたのは
画期的だと思います。私の知る限りこれは永井のオリジナルであり、
しかも相当高度な内容を含んでいます。
問題なのは<私>という存りかたを前面に押し出すことです。
<私>とは永井自身が言うとおり世界の基盤なんですが、
だとすればそれは生活の前提条件であり、いわば言うまでもない事柄と言えます。
言うまでもない事柄をわざわざ問題にするのは不自然な行為であり、
永井自身もどこかで、このような営みはそれ自身を無意味化すると言っています。
それにも関わらずこの探求行為を前面に押し出すことが気にくわないのです。

だからといって彼にかわるやり方を思いついたわけでもないんですが。
現在模索中。

71 :興味深々:2000/07/20(木) 00:17
永井の主張内容それ自体の真理性は認めるけど、
語り方、問題の提起の仕方に違和感を感じる、とそういう
ふうに理解していいんですか?


72 :ネオ生茶:2000/07/20(木) 00:31
>71
そういうこと。
厳密に言えば、永井の<私>は私にとっての<私>でないから、
彼の主張に賛成しかねる(笑


73 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 00:39
>68
68さんの言っている“観念論”は、いわゆる“唯心論”に近い
ことのようです。私も文献を開いて調べてみたけれど、観念論
(idealism)の語の意味は歴史的変遷を通じて変化してきている。
例えば17世紀末のライプニッツはエピクロスを唯物論者とした
のに対してプラトンを観念論者(idealist)と称した。僕が
考えていた観念論もこのようなことで、イデアを真実在として、
現実世界をイデアの表象とする考え方です。だが、中世末期から
始まっていた実在論 VS唯名論の普遍論争の成熟の結果(唯名論
の優勢)、イデーあるいはアイディアはしだいに「主観的な思惟
の対象、または単なる表象、すなわち観念」を意味するように
なり、「観念論」は現実、すなわち外的世界の実在性の否定を
意味するようになった(つまりまったく逆のことを意味するよう
になった)。その代表がバークリの主張するような“エッセ・
エスト・ペルキピ”という思想である、と。その後カントが出て
観念論に関してコペルニクス的転換を行なうのですが、とりあ
えず僕の考えていた“観念論”はプラトン的観念論、いわゆる
形而上学的観念論のことです。

74 :生茶氏は:2000/07/20(木) 00:59
研究者さんですか?
かなり学歴も高そう。

75 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 01:10
>74
研究職ではありません。まだ学生です。
生きてきた年が短いためか、人並み程度にしか読書はしてきていません。
ただ、議論の際に決して感情的にならないようには気をつけています。

76 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 01:17
とてもよろしい。前途有望ですね。

77 :もと哲学科学生:2000/07/20(木) 01:22
「観念論」とか「実在論」という語の用法はかなり複雑です。
特にマルクス主義の文脈では、唯物論VS観念論という図式で哲学史
を把握するので、その「観念論」の中には、独我論(唯我論)、唯心論、
経験論など、唯物論以外のありとあらゆる哲学的見地が含まれます。
マルクス主義以外の近代哲学の文脈では、実在論VS観念論という図式
を用いろことが多いのですが、この場合はデカルト以来の認識論優位の
哲学史の流れを背景にしているので、主に「認識対象は認識主体から独
立に存在するのか否か?」という問題設定のもとで議論が行われます。
プラトンの場合は存在論優位の哲学なので、この図式にはあてはまりま
せんが、たとえば数学の哲学におけるプラトニズムが別名「数学的実在
論」と呼ばれるように、どちらかといえば実在論寄りといえるでしょう。
私は学生時代に教授から「ギリシャ哲学のideaを"観念"と訳してはなら
ない」と教わりました。なぜなら、日本語の「観念」は明治初期に近代
ドイツ哲学が輸入された際に仏教用語を転用したもので、古代ギリシャ
哲学の「イデア」とはかなり隔たっているからだということでした。
従って、idealism@`idealistはそれぞれ「イデア論」「イデア論者」と
訳すことになります。
また、中世の普遍論争で登場するreslismも「実在論」と訳すのは好ま
しくないと言われ、「実念論」と呼ぶように指導されました。
ただ、今から思えば「実念論」というのは意訳しすぎのような気もします。



78 :73:2000/07/20(木) 01:30
>77
どうもありがとうございました。
とても勉強になりました。

79 :46:2000/07/20(木) 02:36
>59
念の為に申しておきますが、わたしは「独我論は論破できない」論者です。
世界は変えられない、だから、独我論は論破できる……のではく、
世界を思うままに操れない以上、独我論と非−独我論に決定的な差はない、
というのが、私の考えです。
言わずもがなのことでしたら、ごめんなさい。

80 :名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/20(木) 02:54
私は「独我論は論破する必要がない」論者だな。
知的遊戯としていろいろ論破の方法を考えてみるのは面白いけど。

しかし、独我論って発展性に乏しいね。
「この世には自分しか存在しない!」と叫んだところで、
他者は「他者のイメージ」という形で独我論者の心象風景の中にどっしりと位置を占めていて、
どうにもこうにも操作できないんだから。

81 :46:2000/07/20(木) 03:15
「独我論は論破不可能」論者の私に、独我論者をやりこめる必要が生じたら、
どうするか……。たぶん、56さんのような戦術を採るでしょう。
永井均『<子ども>のための哲学』にも、似たような話しが載っていますね。
独我論を言下に否定する教師に対して、「『いや、君が世界の主人公なのではない。
君はぼくの心象上のコマにすぎない。わたしこそがこの世界の主人公なのだ。』、これ
くらいのことは言って欲しかった」、というくだりです。

独我論者が完全否定できないのと同じ理由で、*その*独我論者こそが
この世界に唯一たる「我」であるという保証は、全くありません。

独りの「我」は誰であっても良いのです。

すべての独我論者は、独我論者であるがゆえに、自分が、どこか別の所にいる
本質的な「我」の一部、その「我」が夢見ている物語の「独我論者」という
登場人物でしかない、という可能性を背負ってしまいます。
そしてその可能性は、絶対に否定できません(……できない筈です)。

ウザったるい独我論者がなにか(屁)理屈を用いて独我論を主張したら、
その用いられた理屈をそのまま逆に利用して、彼が「我」ではない可能性を
強調してやればいいと思います。
すくなくとも、私たちの前でその主張を繰り返すことは、避けるように
なるでしょう。

82 :46:2000/07/20(木) 03:28
訂正します。
× 独我論者が完全否定できないのと同じ理由で、*その*独我論者こそが
○ 独我論が完全否定できないのと同じ理由で、*その*独我論者こそが

83 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 11:29
う〜んと、よく分からないんですけど、

>独我論が完全否定できないのと同じ理由で、*その*独我論者
>こそがこの世界に唯一たる「我」であるという保証は、全く
>ありません。
>独りの「我」は誰であっても良いのです。

っていうのは分かりきったことなのじゃないのかな〜
むしろそれこそが「独我論」の最大の問題点だと思うのです
けれども。

おそらく81さんは独我論の情緒的(倫理的)な意味と、認識論
的な意味をごっちゃにしている。独我論というのは、単に「こ
の世には俺しかいない〜」というような考えなのではなくて、
「実は世の中の一人一人は自分のものさし(=主観)でしか
物を見ていないのではないか? 人間は自分の主観を離れたら、
何も認知できないのではないか?」という考えだと思います。
だから一人一人が“我”の中に閉じこもって、その隙間から
世界を認識しているようなイメージ(例えばライプニッツの
モナドみたいな)。なので独我論は“生産的”なもの、という
よりは、乗り越えるべき課題のようなもので、そうした独我
論的な状況の中で、どうやって共同の認識を作っていくのか?
が課題になるんじゃないですか?
って、至極当たり前のことを書いてしまったのですが...

84 :代理いぬ:2000/07/20(木) 12:53
タフな独我論者には、
「今からおまえを殴るから、おまえはその痛みが何の実在も伴っていないことを信じたまえ」
と宣言しておいて、一発、一発殴ってやるとよろしかろう。

ネをあげて逆ギレ?したら、そいつの負け。
もし、耐えきって気絶でもしたら、こっちが負けを認めてあげても良いじゃないか。
ははははは。

85 :名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/20(木) 14:10
「うがっ、貴様、俺を殴ったな!
俺の心の中のイメージにすぎない仮象の分際で生意気だ。
今から真の実在、唯一の存在者である俺様が、本当の鉄拳の味を教えてやるから、
覚悟しろ!」

86 :代理いぬ:2000/07/20(木) 15:02
>85
負け。

87 :名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/07/20(木) 15:29
「お、俺は負けたのか……?
そう、俺は確かに負けた。
だが、それで俺の独我論が敗れ去ったのか?
否、断じて否だ。
俺は自分の心の弱さに負けただけだ。
俺以外に誰もいないのだから、他人に負けることなどあり得ない。
そうだ、世界に俺はただひとりぃぃぃぃぃぃぃ」

88 :代理いぬ:2000/07/20(木) 15:45
>87
マイリマシタ。

89 :名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/20(木) 16:01
「勝った!
俺は勝ったぞ。
……でも、誰に?」

90 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 16:25
>89
己に克った

91 :46:2000/07/20(木) 18:53
>83
わたしは次のような定義を採用しています。

どくが‐ろん【独我論】
〔哲〕(solipsism) 実在するのはわが自我とその所産のみであって、他我その他すべてはわが自我の観念または現象にすぎないとする主観的認識論。バークリー・フィヒテ・シュティルナーらの立場。ウィトゲンシュタインもこれに属するとみることができる。唯我論。独在論。


92 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 19:53
独我論者にとっては他我や事物は実在しないわけですね。
つまり自分の身体も実在しない、観念のうねりだけがある。
では、観念の世界の現象や変化はどこからやってくると考えるのでしょうか?
それが何者かによって注入されコントロールされているという可能性は考えな
いのでしょうか?

また、外部・他者の実在が証明できないから存在しないとするならば消極的で
はあっても外部の存在を認めている事になると思います。
つまり、独我論に到達するために外部・他者の存在を踏み台にしてはならない
はずですが、かれらの出発点はどこにあるのでしょうか?


93 :59=60=…=83:2000/07/20(木) 22:35
>91
独我論の明快な定義、ありがとうございます。

>92
>また、外部・他者の実在が証明できないから存在しないと
>するならば消極的ではあっても外部の存在を認めている事
>になると思います。

なぜこう言えるのか、いまいちよく分からないのですが?

フッサール信奉者であり、竹田青嗣の本にもちょこっと影響
されている私は、この問題をまるっきり現象学的な問題と捉
えています。ヴィトゲンシュタインには、ヴィトゲンシュタ
インなりの解決法があるとは思いますが...

フッサールによれば、「客観は超越論的主観によって志向的
に構成される」らしい。これは「客観は主観の意味を与える
働きによって成立する」ということ、らしい。

乱暴に言えば、例えば目の前にリンゴがあったとして、まず
我々はそこから「赤い」とか「丸い」とかいう「知覚」素材
を得る。そして「意識」の志向的契機がそれらをまとめあげ
て「一つのリンゴ」という意味を与えて「超越的」対象物が
措定される。
この時、主観から与えられたこの意味のことを現象学では
「ノエマ」と呼び、この意味を与える働き(志向的契機)の
ことが「ノエシス」と呼ばれる。らしい。

詳しくは竹田の本や、過去ログ(『サルにもわかるフッサー
ルの現象学講座』)もありましたんで、そちらも参考に。
それより現象学の専門の方、もしいらっしゃったら
もっと正確な記述をお願いしたいのですけれども。
(ただそうなると、もはや私の手には負えなくなる)

94 :名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 23:02
このごろリンゴネタが多いな

95 :名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 00:23
91の定義に従えば、独我論は他者や外界の事物の存在は否定するが、
他者の観念や事物の観念の存在は認めることになるだろうか?
もしそうだとすると、結局のところ実在論者とあまり変わらないよう
な感じがするな。
うろ覚えで恐縮だが、ウィトゲンシュタインは極端な独我論は極端な
実在論に通じるというような意味のことを言っていたと思う。


96 :92:2000/07/21(金) 01:39
>93
フッサールも超越論的主観が物それ自体を捉える事ができるという事
を証明するために、最後は主観の明証性や他我の認識という問題に突
きあたってしまい結局証明しきれなかったのではないかと記憶してい
るのですが、どうなんですか?

92の疑問は、
独我論者が、どうやってそこにたどりついたか私は知らないのですが
もし「外部世界の実在を証明できないから」ということのみを根拠に
してほかの世界観を提示できないなら、実在しないはずの外部世界か
ら断片をうけとって観念の世界を構成している事になってしまう。
独我論がそれほど強い論理として成立しているのであれば、誰かが観
念の世界の成立の根拠を既存の世界観に頼らず示していてしかるべき
ではないかという疑問です。



97 :オッカム:2000/07/21(金) 01:42
>40
いいこと教えてやる。トルコ語では「おまんこ」のことを
「アーム」って言うんだ。トルコで「アーム」って絶叫しちゃだめだぜ。

98 :名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 02:39
>96
>フッサールも超越論的主観が物それ自体を捉える事ができる
>という事を証明するために、...

僕の理解では、フッサールは、カントのような「物自体」を
想定したことは一度もなく、むしろそれをできるだけ避けて
徹底的に疑うことによって、現場での主観の認識作用のメカ
ニズムを厳密に記述しようとした、と思うのですが...
間違っていたら誰か指摘してください。

二番目の問いへの答え:あなたは観念論と現象学、あるいは
ここでは独我論を混同している。独我論的前提というのは、
頭の中で現実とは無関係な、勝手な観念を作り上げるという
ことではなくて、それこそそうしたものを一旦「括弧に入れ
て」、意識の真っさらな状態で世界と対峙してみよう、とい
う態度です。その時に、それでも確固とした印象で、“ある”
と思える物事の、その確信の基礎を探っていくのが現象学で
はないですか。むしろあなたにお聞きしたいのは、どうやっ
てあなたはあなたの外部の世界が存在しているのかを信じて
いるのですか?それがうまく言えないから独我論に立ってい
るのですよ。それからもう直接私に聞かないで、現象学関連
の著作を何か読んでください。私はもう疲れました。私の言
いたいことはほぼそこに書いてあるはずですから。
ああ疲れた。もう寝ます。

99 :努素人:2000/07/21(金) 04:23
認識論的独我論が「客観世界の実在を証明する事ができない」
って言うのは解るが、そしたら、どうして<私>の存在は証明できるの?
論理もくそもなく、「ここにこうしてあるから」って事だけ?
それでは外部世界と主観的世界は質の差でなく、
程度の差と考える事はできませんか?

用語間違いは指摘してっ。

100 :ふたたび通りすがり:2000/07/21(金) 05:40
>ネオ生茶さん
永井のいう<私>は、ウィトゲンシュタインにヒントを得たものですよね。
で、これは勝手な推測なんですが、永井自身がウィトゲンシュタインの説から
本質的に伝達不可能なはずの<私>を直感的に理解することができたということが、
彼が<私>を敢えて打ち出している、主たる理由なんじゃないかと感じます。
彼は、“<私>”には決して辿り着くことのできないような、
存在するかもわからないようなもの(“<私>”の外部?)に向けて
語っているように見えます。
でも..その行為にはどんな意味があるんでしょうかね。
単に、彼の趣味ということなのだろうか..?


101 :ネオ生茶:2000/07/21(金) 10:15
>永井自身がウィトゲンシュタインの説から
>本質的に伝達不可能なはずの<私>を直感的に理解することができたということが、
>彼が<私>を敢えて打ち出している、主たる理由なんじゃないかと感じます。
彼が自分一人で自説を考え出したとしても、やはりそれを他人に語りたくなると思います。
しかしあなたの言うことも、その条件の一つと考えなければならないでしょう。
<私>の外部、つまり決して届かない別の存在、日常的には他人に対して
語ることが何になるか?永井が何を考えているかはわかりようもありませんが、
(この部分を前面に押し出すと伝統的な独我論に陥る)
私の外部とは普通の他人でもあるのだから、<私>を語ることには十分な意味が
あると思います。相手が同意すれば理解されず、理解したならば同意されず
ということになるでしょうが。
哲学のおもしろさを教えたいというだけでも<私>を語る意義はあるでしょう。

102 :通りすがりの者:2000/07/21(金) 10:28
おいおい、なんの話だ。
頭おかしいんじゃないの? >ヴィトゲンたら永井たら

103 :簡単でしょ:2000/07/21(金) 10:30
独我論を否定することはできない。
だけど、信じる価値もない。

「神の存在」と同じだよね。

これ以上、議論してもはじまらんす。アホラシ。


104 :1:2000/07/22(土) 21:50
独我論が脱却されずしてこのスレッドが下がってゆくのは見るに耐えられぬ・・・
AGEます

105 :名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 22:00
独我論は脱却できません

106 :名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 22:12
>84〜90
85の時点で、自分の中であろうと、すでに「他者」を認めているん
でないですか?

107 :85@`87@`89:2000/07/23(日) 00:10
>85の時点で、自分の中であろうと、すでに「他者」を認めているん
>でないですか?
お見込みのとおり。
86で代理いぬ氏が「負け」と書いているのは、たぶんそのことを言って
いるのだと思う。
独我論者を外部から説得するのはかなり困難で、もしかしたら不可能か
もしれないが、そんな事をしなくても、独我論の内部にすでに「他者」
が含まれているのではないかと私は考えている。
このことをうまく論証することができないので、差し当たり"タフな独
我論者"が自分の主張を全うするために、いかに滑稽な言動を取らざる
を得ないかを示すつもりで書いたのが85@`87@`89だ(すべて引用符で囲
っていることに注意)。

88で代理いぬ氏は「マイリマシタ」と書いているが、本当に負けたのは
代理いぬ氏ではなくて、私が演じた"タフな独我論者"のほうであること
は明らかだと思う。


108 :名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 01:20
>お見込みのとおり。
しかしながら、「私」と「他者」というのは実は対になる
存在なんでしょうね。「私」がある以上「私」の限界を
示す「他者」も存在しなければならない。
というか「他者」がなければ「私」もない。
永井氏の独我論のタフさというのは、そこまでを読み込
んでいるからのように思います。
自分の中の他者というのは、また「私」の1部分でしかない。
1さんのいう独我論がどこまでを想定しているか、わからない
のでいちおうサゲときますが。




109 :ネオ生茶:2000/07/23(日) 01:23
独我論は脱却されるべきだということが一つの誤解でしょう。
独我論が間違いだからと言って、非独我論的世界観が正しいわけではない。

110 :剣豪:2000/07/23(日) 01:36
>109
 なかなか鋭いですな。
>108
 そういうことは、既にヘーゲルが相互承認論で述べてましたなぁ。

111 :>109:2000/07/23(日) 11:15
誤解もなにも、「脱却したい」というのが1の願望なわけだから
そんなこと言ってもしょうがないんじゃない?

神の存在を否定して欲しい、っていうのと同じで、単なる果たし
えない願望ってだけだよね。

>独我論が間違いだからと言って、非独我論的世界観が正しいわけではない。

そりゃ、変じゃないの?独我論が間違いなら、非独我論が正しい
ことになるのは当然でしょう。ただ、非独我論的な個々の世界観
が正しいことにはならないだけ。だいたい、1はそこまで望んで
ないっしょ。

「独我論が間違いだと言えないからといって、独我論が正しい
 わけではない」、とすべきじゃない?

112 :名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 20:09
ノエマとノエシス?

113 :名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 07:33
あげ

114 :26のオッカム氏の方法:2000/08/03(木) 22:43
幼児だったら何のためらいもなくやりますよね。
幼児って独我論者なのかな。
独我論を脱出したら大人なのかな。

115 :オッカム:2000/08/04(金) 15:04
>114
幼児は未だ自我が確立されてないからな。独我論を脱出したら大人
というよりも独我論を語れるようになったら大人。

 それにしてもまーだ独我論なんかに引っかかって脱却できない奴が
いるってか。よーし脱却させてやる(第二弾)!!
 まず金属バットを持って歌舞伎町に逝け。そして路駐してある
スモーク張った黒塗りのベンツを力任せに乱打しろ!!すぐに数人の
お兄さんたちがすっとんできて「君わ一人ぢゃないよ」ってことを
嫌っていうほど詳しく教えてくれるよ。その後で無我の境地にまで
誘ってくれるかもね。

116 :名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 15:52
ワシ黒塗りのロールスに
乗っとるんやが、
便通を破壊しても何も言ってこんな。
ワシは独りなんやろか?

117 :名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 06:37
本当に自分しかいないと思っているんだったら、独我「論」なんかなりたたない。
他人を意識するから「論」が成り立つんだから。
そういう意味では、幼児とかは本当に独我論を生きている、
つまり「論」なんかなしで本当に「独我」だ、と言えるのではないか。

118 :>117:2000/08/12(土) 22:47
鋭いので、あげ。


119 :>117:2000/08/22(火) 03:25
ほんと鋭いね。拍手。
独我論が成り立っているうちは独我にはなれないから、
独我論の内部ではその正当性を原理的に証明できない、てことか。

120 :名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 19:48
2ちゃんねらーは、独我論を脱却できました。
メデタシ、メデタシ

121 :考える名無しさん:2000/10/24(火) 16:19
ega

122 :考える名無しさん:2000/10/24(火) 16:33
上げるね。

123 :考える名無しさん:2000/10/27(金) 10:05
aag

124 :考える名無しさん:2000/10/30(月) 19:51
age.wo

125 :考える名無しさん:2000/11/16(木) 09:29
.

126 :考える名無しさん:2000/12/18(月) 04:42
age

127 :考える名無しさん:2000/12/18(月) 10:26
>>119
他者スレにも書きこんでくれ。

自分で無いがゆえに理解できないものが最終的に正当性の根拠になる
部分を理屈で書いてくれ。

128 :考える名無しさん:2000/12/18(月) 12:06
独我論は経験論から出てくる。
経験論によれば、印象は各個人に帰属するという前提があるが、
その前提を認めるならば、印象は「各個人の印象」となり、その
結果、印象は自意識の範囲内に閉じ込められることになる。
当然、他人の意識は不可視だから、結果、他人のうけとる印象も不可視
になり、結果、私のうけとる印象と他人のうけとるそれとの間の比較
さえ不可能になってしまう。
以上の構造は経験論を認める限り不可避なのだが、出口がないわけではない。
それはimpression(印象)をexpression(表現)することである。
表現において印象はいわば、「外化」されている。外化されているもの(表現)は内化
されているもの(印象)に比べて、比較は可能だ。比較可能なものを「内に閉じ込め
られている」とはもはや言えない。だから、独我論からの出口はexpressionである。
impressionはexpressionとの共役関係を破棄する一点において、
それは独我論の温床になるのである。




129 :ナナシ:2000/12/18(月) 15:04
いかに比較可能とはいえ、他人のexpressionも受け取る側にとっては結局数あるimpressionの一つに過ぎないわけだし、そこではまだ独我論が成立しているのだ、と言う事は可能なんじゃないですか。
この問題は結局、70〜90番台の書き込みにもありましたが、認識の材料としてそれ自体は認識不能なある実体を想定せざるを得ない、という線で行くより他無いと思います。


130 :考える名無しさん:2000/12/18(月) 15:32
>129
expressionが再びimpressionになろうと、その
impressionはまたexpression化できる。
だから、独我論の構造そのものは不変でも、
expressionという出口はありつづける。
出口のない独我論は表現の禁止のうえに
成立してるだけである。
出口(穴)があるというだけでも、所詮、独我論は
完全ではないということを示すには十分であろう。
それとも、「印象の受容」という契機まで否定しなければ、
独我論からの脱却は果たせないのだろうか?



131 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 00:38
こんなのageんなよ。「独我論は「論」であるがゆえに破綻する」で終わだろ。
アホばっかだな(藁)

132 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 00:42
カァッコイイ〜〜。
さぁさ、終わだよ。

133 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 01:09
永井均とか言ってるけど、結局柄谷の「内省と遡行」と「探求T」での話でつきるんじゃないの?
つまり認識論的な態度は独我論になるから態度変更せよ!ってこと。


134 :ナナシ:2000/12/19(火) 10:33
>131@`132
は?ぜんぜん終わってないですよ。117は確かに鋭いけど、あれは結論ではなくむしろ前提の確認でしょ。
独我「論」において、あるいは何年も生きてれば日常において自然と他者を想定している。問題は、主観に投影されたイメージしか認識できないのに、なぜそのような他者が想定されるのか、そこの仕組みです。
同じ困難は128さんにもあると思います。そこをつめない限り、独我「論」を他者に語ったり、あるいは自分の印象を他者に語ったつもりでも、結局それは錯覚に過ぎず、イメージの牢獄で独り言を言ってるに過ぎない、で終わっちゃうのではないでしょうか。

135 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 12:29
どうして1は毒ガロンを脱却したいんだ?
もし1が毒ガロンで生きていけるというなら、それでいいでしょうが。


136 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:01
>134
「出口のある牢獄」はもはや牢獄とさえ
いえないであろう。
出口がないから牢獄であって、出口が
みつかれば、独我論の牢獄としての機能
はすでに破綻しているのである。
そして、牢獄として機能していない独我論は
もはや恐るるに足りない。


137 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:08
>136
134は出口があるとは言ってないと思うよ。イメージの牢獄
と言ってるけどね。
夢から抜け出せばいいじゃないか、というのは出口じゃないもの。

138 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:10
他の人も救出してあげてください。

139 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:15
>134
>なぜそのような他者が想定されるのか、
たぶん、自分をも他者として扱っているからだと思うよ。
「自分」と言った段階で客体だもの。

140 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:20
>137
スレ全部よんでね。

141 :毒蛾論者:2000/12/19(火) 16:22
既に指摘されてるように
そもそも
独我「論」を他人に主張したり
論じ合うって意味あるのか?

「日本独我論学界」とか
「独我論のひとの集い」(藁
みたいで自己矛盾でしょ?

むしろ論理破綻しているのにかかわらず
なんだか独我論に曳かれる人が多いのは何故か?
って問いの方が重要では?

142 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:24
日本独我論学会監修の独我論入門なんかが刊行されて、
第一章、独我論とは
第二章、独我論の歴史と背景
・・・

みたいな内容だったらすごい普通だと思うよ。

143 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:31
ここの独我論者どうしで
オフ会やる、
ってのはどうよ?

ある人「私だけが存在する。お前は存在しない」
別の人「オマエモナー」

って収拾つかないのでは(藁

144 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:41
>141
ていうか、その論理破綻にとってかわる
別の論理がないから、その論理破綻にも
かかわらず、独我論はいまだ根強いのかも。
独我論を破綻に導いても、その先がないから、
結局逆戻りって感じだな。
居心地がいいのかも、独我論って。
ものずきもいるってことなんじゃないの?

145 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:44
「私が存在し、他者は存在しない」と言う時の
「私」と「他者」にリアリティーの差異はあるのか?
いかに自分の心を内的に観察できたとして、それは客体だと
思うし、他者は存在しないと言っても、それは一般に言う
外部的な実在の話でしょう?
ドラえもんと言う言葉からドラえもんが必然的に出てくるように、
他者の知覚、他者と言う言葉についても、同じくらいの
「実在性」はあるし、逆に自己に対してそれに勝る実在性なるもの
を主張できるかと言えば疑わしいのではないかと思う。

146 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:46
独我論は「わたしわたし」と、随分と他人あっての自分を指すこの言葉を
連発しすぎではないのか。

147 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:47
自分が一人称を声に出して(あるいは心の中でも)言うたびに
爪楊枝かなにかで自分を刺す、という修行があるそうです。

148 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:51
自己をすててぼ〜っとしてたら、自分が「自分」と言う言葉を
使っていたということも気付かないかも。
ということはその修行を継続するためには、自分を捨ててはならんのだ。

149 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 16:53
永井均も論破してよー

150 :毒蛾論者:2000/12/19(火) 16:54
「独我論」にもふたつのケースがあり
この種の議論をするといつのまにか
それが混同されている。つまり

(1)存在論的独我論
これが狭義の独我論であり、「私しか存在しない」という主張だが
これはガイシュツのように「論」としては成立し難い。

これに対し
(2)認識論的独我論;
「他者は論理的には想定せざるをえないが、
しかし他者が「ほんとうに」この私と同様に
心ある存在であるのかどうかは知ることができない」
(たとえば精巧に作られてはいるが心無き木偶の坊
ではないのか?とかの疑問が解消できない)

という意味での他我の存在に関する不可知論の
一種としての「独我論」(広義の独我論)である。

私見では117氏は(1)は「論」としては破綻している
という指摘をし、それに対し134氏その他は、(2)
の文脈で「他我認識の不可知性」?の類の議論を
しているように見えるが・・。
印象だが、この二つは論理的位相が違うような気がする・・。



151 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 17:00
>>148
ご明察。この修行を唱えたのは自称黙示録の獣。A・クロウリー氏です。

152 :毒蛾論者:2000/12/19(火) 17:02
ちなみにかくも独我論が
(その論理的弱点にも関わらず)
根強いのは、確かに(1)の狭義の
意味では成立不可能だが、しかし
主観的経験では、私の内面的経験
(痛み、喜怒哀楽、思考その他)
はありありと体験しうるが、
他者についてはその外見・表情・発話
振る舞いといった外的基準でしか
その「内的リアリティ」を把握しえない、
という自己と他者の「経験」のリアリティに
恐るべき落差がある、
という心理学的現実があるからではないだろうか?

そこで(2)の意味での他者の「自我」に関する一種の
不可知論や懐疑論が頭をもたげてしまう・・

というのが「独我論の根強さ」の背景ではないか?


153 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 17:06
(2)は容易には反論し難い内容を含んでますが、実際には(1)の口実に使われる場合も多いようですね。

154 :毒蛾論者:2000/12/19(火) 17:07
こうした、経験に関する
いわゆる「一人称特権」
(他者の内的経験は間接的にしか
知りえないが、自分の内的経験は
直接体験しうる、という意味で
自己は「特権的」)

の存在が問題をややこしくしている。

155 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 17:22
まあある意味で当たり前の議論で、自我が延長されて近くの縁を通して外界を知覚する、
とかそういう表現が引き出されてくるのだけど。

156 :毒蛾論者:2000/12/19(火) 17:33
ちなみに私見では

永井均の議論は(1)でもなく
そして(2)でさえもない。

彼の議論は「他者の自我」「他者の意識」が
存在していて一向にかまわない。
むしろ他人が自分と同じような意識や
自我や人格をそなえていることは
認めた上で、
しかし、
それはなおかつ「この私」ではない、
というような議論だから
厳密には彼の問題は別に「独我論」の問題でも何でもない
ように見える。
ゆえに(1)や(2)の議論が反駁されても
永井氏の議論は痛くもかゆくも無いような
問題構成になっているように見える


(ただし私は永井氏の熱心な読者ではないので
誤解があるかもしれないが)

157 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 17:34
145は「他我認識」と同じ程度に「自我認識」の困難について
述べたつもりだ。ところで「自我」と「自我の座としての自己」を
区別するならば、「他者」があるかないかは知らなくとも、
少なくとも「自己」があることは確かなようだ。
「存在論的独我論」が論でないのは、自分以外に何もないという
証明をできないからに他ならないし、否定できないのは
他者を持ってくることはできず、かつ自己を否定できないからだと思う。



158 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 17:38
しかし「自我の座としての自己」があったとして、
「自我」が「自我」を把握することも、「自己」を「認識」
することも(前提はできるだろうが)できるのだろうか。
この夢見を信用しないからこそ、「自我」を信用しないからこそ、
独我論には組する気になれない。

159 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 18:20
そこまで煮詰まると「自我」を「自分」に直しただけで
しゃべり場と変らなくなってしまいせんか。

160 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 18:33
うきっ!

161 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 18:46
独我「論」となること自体は、真理を言語化し体系づけただけのことであって、
論が成り立っていること自体はナンセンスでもないのではないか。
そうではなく、「論」として体系付け、熱を込めて語るその動機に
表れる胡散臭さだけがおかしいのではないかと思う。

独我論が「主張」「発表」されること自体は独り言だろうとおもう。
でも「それはどういう事?」「それはね、、、」と、論者が親切にも
答えてあげる時に諧謔がある。独我論者と会話とは!

162 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 18:47
しごけ、しごけ、しごけ、しごけ・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

163 :素朴な疑問だが:2000/12/19(火) 18:54
>>161
たしかに同意。

独我論者が熱心に他人にその「論」を
かたる「動機」について考えていくと
なんだか面白い。

かれらは「俺以外は存在しないぞ」って主張するのだが

いったい相手から何とリアクションして欲しいのだろうか?
批判するその相手を論破(!)したり、
「確かにそうだ。世界には君しか存在しない」って
相手から承認されると独我論者はやはり
嬉しかったりするのだろうか?

てな事を想像するとだんだんわけワカメ

164 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 18:56
うきっ!

165 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:07
単に反論されると、あるいは反論されるときに受ける攻撃的な感情が苦痛で、
論破されにくい方へ議論が深化(というか退廃)していくのではないでしょうか。

166 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:13
独我論者にとって、反論者は自己における「しゃっくり」
みたいなものなのだろうか。そういうフリでもなく。
まあ本当にここまで徹底した独我論者なんてまったく見たこともないが。
もし本当にそうなったら即病院行きなのだろうが。

167 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:18
まあまあ。独我論に固まった超自我(←モラルのことね。羅漢は勘弁)に
照らし合わせて発言してるだけで、本人は結構まともかもよ。

168 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:22
独我論者を論理で説得するなんて、統一教会の信者に理屈で脱会をすすめるようなもので、無駄なんじゃないの?

恋人とか家族とか、自分に大きな影響を与える人で無い限り、「ほっとく」のが最もプラグマティックな回答。しかも新興宗教団体と違って、裏で悪さを働くわけでもなし、暇人の趣味なんだから、ほとんど人畜無害。本人がそれでいいというなら、ほっとけばいいのさ。そうでなくて、寂しいから助けてくれという甘えんぼさんなら、すでにそいつは独我論者とはいえない。仮病人みたいなもんだ。

いやいやそうじゃない、あくまで「独我論を論破する」のがゲームのルールだ、という向きもあろうが、自分の趣味としてはあまりゲームとして面白くない。単純すぎる。循環しすぎ。うきき。

169 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:25
唯我論者は自分より極端な唯我論者を見ると迷いから覚めるので、
我こそは世界一の唯我論者という人はプライドの限りで発言してほしいですね。

170 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:35
私は存在論的には唯我論者ではないが
認識論的にはかなり「唯我」的です。
つまり他者はひょっとすると精巧にできた
ロボットである、という可能性を原理的には排除しえない、
という意味(むしろ「不可知論」ですかね)で。

誰かこんな不幸な私を論破してください。


171 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:39
あなたがロボットでない可能性はどこにあるのか。

172 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:39
明かに他人の感情に揺さぶられて自分が感情を感じているというケースを
気をつけて発見するようにすればどうでしょ。

他人は自分と同程度に精巧に出来たロボットだという確信が持てればいい感じでは?

173 :170:2000/12/19(火) 19:43
>>172
「他人の感情に揺さぶられて」
なるほど。
確かに感情的になるのは心有る存在に対してですね。

しかし場合によっては、明らかに心の無い石でも
自分がけつまづいたりすると怒ったりします。

ある対象が自分の感情的な反応を誘発するからといって
その対象にそのことを根拠に心があると認めるのは無理な
ようです。




174 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:47
独我論は
論理的につきつめて考える者にとっては
つねにつきまとう苦痛じゃない?
いまかりに、論理的につきつめると
どうしても独我論的になるとして
それを「家族「恋人」など特権的声似より打破しろといったところで
彼の独我論的な気分から彼を脱出させることはあっても
独我論に追い詰めた論理からは、少なくとも論理的には
脱出させていないから、声なんて数分後にはあくびになってるから
また深みに戻ると思う。

ただ、論理的にかりに、独我論から脱出しても、そのこと自体が独我論的だ
といってたとえば、柄谷は苛立っていたわけだろう?つまり、論理的な
追究にはつねにメタレベルでの認識がついてまわるわけで、どんな結論にせよ、
その結論についての認識といった観点から見直され、批判される、
君はたしかに脱出した、しかし、そのこと自体が独我論的な構えの中でだ、と。
じゃあ、論理の外部、社会的なもの、特権的な関係の対象(家族恋人)によって
裂け目を導入すればいいのだろうか???
おれは精神病病みだから、どちらもわかった上でなおも気分晴れないよ。
おろかだな。。。言葉の力と他人の視線の力とどちらもなあ、なあ、モナー
なにかいってくれよ。。。


175 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:47
相手に心があると確信するために、石に躓いた場合には怒りを取り下げるという訓練が役に立つと思います。
石はこちらが怒りつづけても何の変化も示さないですが、人間や動物は
こちらの怒りを勘案して何らかの変化を示すからかも知れないです。

そうすれば怒りの感情をより人間などに向ける契機が計られ、怒りによって他人をコントロールする経験が増え、
いつのまにかコントロール・支配の及ぶものを自分とその世界の全体だと確信する人間の働きによって、
自分の感情によってコントロールできる他人の感情というものを確信していくことができるのでないでしょうか。

べつにやれっていってる訳ではないですが。

176 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:53
>>175
私は病的なのか、
個人的には頭ではいくら
「石には心が無い」と分かっていても、やはり転んだりすると
石に対して「怒り」を抱いてしまうのが不思議なところです。

また逆に喜怒哀楽の表情をみせる他人も何か一定のアルゴリズムで
作動している、と想定して見れば、不思議なことにほとんどの
人間の行動は予想がついてしまいます。
「ここで殴ったら相手は怒る」とか、

そうすると相手に別に「心」は論理上は不要な気もしますが・・
やはりおかしいでしょうか?




177 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:53
>172
他人の感情と言うものが単なる現象に過ぎないと見えている
ならば、その感動は夕陽の感動と変わらないはず。
この時「他人」はなくとも「世界」があることは確実だろう。
(外的な実在か内的かどうかはともかく)

他人を見て「自分のうちにある感情解釈機能」によってしか
認識できないと言うのならば、逆に言って他人が感情を
持たないと考えることは不可能である。

178 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 19:57
>176

おかしくはないですが、感情表現が浅薄なんでしょうね。
実際に殴ってみると予想と結果が異なるんで相手に感情があるのが
確信できるんですが、逆に予想できる範囲できわめてわずかしか
感情を表現していないという可能性を捨てきれません。

179 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 20:04
なんだか混乱してきたんですが、独我論て、自分の外側の世界を認めない態度ではなくて、自分以外の生物を認めない態度のことなんでしょうか?


180 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 20:05
>178

へ理屈かもしれませんが、しかし仮に相手の行動が
予想外だったとしても、その「予想外の行動」が
ある種の心無きプロセスの結果として表出されていると
想定することもできますよね。
たとえば殴られたら、たいていは怒るか泣くかだが、
行動アルゴリズム?にあらかじめわざとそれ以外の
「意外な」反応を時々するようにしてある、とか・・
そしてその頻度は乱数表によるため、私からすると
「意外な反応をするあたかも感情的な主体」のように
見えてしまう、とか・・
(実際にそう信じているわけではありませんが「論理上」
は可能では?)


181 :考える名無しさん:2000/12/19(火) 20:05
生物は物質を生命的に変形させる力の非人格的現れと解釈できるんで、
ぜんぜん自意識や自我を想定しないで自分の自我を保つ事ができますよ。

182 :考える名無しさん:2000/12/20(水) 23:30
>>181
>生物は物質を生命的に変形させる力の非人格的現れと解釈できるんで
「生命的に変形させる力」「非人格的現れ」の用語の解説OR定義キボンヌ。
そのうえで、どのような過程を経て解釈したか詳細お願い。興味があるから。


183 :考える名無しさん:2000/12/21(木) 01:03
「私が独我論とよぶのは、けっして私独りしかいないという考えではない。
私にいえることは万人にもいえると考えるような考え方こそが、独我論なのである」
(柄谷行人『探求T』(講談社学術文庫、12頁)

184 :神我論者:2000/12/21(木) 01:23
>>183
なるほどね

185 :考える名無しさん:2000/12/21(木) 15:12
>私にいえることは万人にもいえると考えるような考え方
を持っている私の考えを万人のうちにも認めるとなると、これは
どういう事になるのだろうか。

いや、そうではないな。その「他人の頭もオレと似たようなもん」と
考えることそのものが独我論なのか。

しかし破壊兵器「自己言及」を用いるならば、そのオレが「他人とオレは
違うはずだ。皆もそう思ってるだろ?」と考えている時はどうなのだろう?
結局何が何だかわからないのは変わっていないということか。
確かに苛立つかもね。

186 :考える名無しさん:2000/12/24(日) 06:29
独我論は科学的真実であって論破する必要も脱却する必要もない。
自分の死後は自分の認識していた世界は消滅する。

187 :ハム:2000/12/24(日) 07:04
>186
 けれど、自分はこの地球に存在する多くの人間の中で唯一の
 「この私」が気になる、どのようなものなのか知りたい。

188 :名無し名無し名無し名無し:2000/12/24(日) 07:26
時間は存在しない。今仮に、全世界の全ての時計が
止まってしまったらどうなるであろうか。以後われ
われはどうすべきか。時間はカントが言うようにア
・プリオリなカテゴリーとして規定してよいか。わ
れわれは時間をすでに経験してしまっているが時間
を時間として把握する可能性の存在の根拠はどこに
あるのか。先験的概念として規定するならその問題
から逃れられるが、現実に時間というものなくして
は生きられないという体験をしてしまったわれわれは
いかにして時間を規定すればよいか。主観的時間概念
から客観的概念へのプロセスの可能性がありとせば、そ
れはどのようなプロセスなのか。もしそのプロセスが人
間理性に全面的に依拠しているとするならばはたしてそ
の理性の可能性の根拠はどこに由来するのか。このよう
なことを考えていくならば、時間に関する論争は哲学的
のみならず科学的にもなかなか決着を見ない大変な問題で
あり、したがって論じる価値の大きい問題であろう。
私は満足の行く回答はいまだ出せない。

189 :名無し名無し名無し名無し:2000/12/24(日) 07:28
188=189
違ったスレに書いてしまったようです。

190 :考える名無しさん:2000/12/24(日) 15:37
>187
私=唯一の実在で世界の創造主=神のようなもの、
ということだと思います。自分自身の死はいずれ起こることは
予想されますが、しかしそれが実際に起こった後は、そのよう
に自分では(たぶん)認識出来ないので「自分の死」は実在す
るイベントではないかもしれません。
(独我論とは無関係です)

191 :ハム:2000/12/24(日) 16:21
>190
 ??? 「死ぬのが恐い人あつまれ」スレの、自分の発言へのレスですか?

192 :186=190:2000/12/24(日) 20:48
さようなら

193 :考える名無しさん:2000/12/25(月) 11:30
age

194 ::2000/12/25(月) 19:34
認識しえないものは存在しないのと同じ
自分が死んだら、死後の世界は知覚しえない。
知りえないものは、(自分にとって)存在しない。
ゆえに何も存在しない。死んだら全ては消えてなくなる。
自分も存在しない。

195 :186=190:2000/12/28(木) 23:40
↑死んだら自分も存在しないかどうかはわからないのでは?
そもそもすべてが消えてなくなってしまうような状況では
「存在しない」と言う概念が成立しない。「存在する」ものが
一つも無ければ「存在しない」も定義出来なくなる。
独我論的な死後の世界が多分実在するはずだと思うよ。

196 :考える名無しさん:2000/12/29(金) 00:01
>>195
「存在す/存在しない」という概念が成立しないのだからから、
「実在する」などともいえない。
存在するとも存在しないとも言えない。言う必要もない。
「無記」ですね。

197 :186=190:2000/12/30(土) 03:54
>196
現時点ではそうなると思うが、形而上学の最終目標としては
死後の世界まで論理的に説明できなきゃいかんのでは?

しかし、よく考えたらこのスレは観念論や死後の世界を論じ
るためにあるのではないのでこのへんで撤退します。
独我論を脱却するには唯物論の信者になればいいことじゃな
いの?


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