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法隆寺五重の塔の柱は6世紀伐採

1 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 15:04
つうことはなんだね、法隆寺が九州王朝のお寺を建て替えたもんだ、
という説が正しいって可能性が更に高くなったわけだね。

2 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 18:06
■法隆寺の国宝・五重塔の心柱、伐採は建立の100年前
 再利用か長期貯蔵か

 《写真》 実際に測定した心柱の写真(手前)を見せながら、伐採年が594年だったと発表する光谷拓実・奈良国立文化財研究所発掘
技術研究室長。手にしているのは説明用の見本=20日、平城宮跡資料館で

 《図》 解体修理前の法隆寺五重塔の断面図

 現存する日本最古の仏塔で、世界遺産に登録されている法隆寺(奈良県斑鳩町)の国宝・五重塔の中心を通る心柱(しん
ばしら)として、594年に伐採されたヒノキが使われていたことが判明した、と奈良国立文化財研究所が20日、発表し
た。五重塔は8世紀初めの建立とされていたが、心柱の伐採年はそれを100年以上さかのぼることになる。

 法隆寺は607年ごろに聖徳太子が創建し、670年に焼失、場所を少し移して再建されたというのが定説。同研究所は「伐採された木材
はすぐに使われるのが普通だ。なぜこれほど古いのかわからない」としており、今後、様々な説が浮上しそうだ。

 五重塔の心柱は、長さ約14.3メートルと約17.8メートルの八角形の木材が縦につがれている。下の方の木材は約2.7メートル分が地下に埋まっ
ていた。腐って空洞になっていた、下の柱の下端約4.5メートル分が解体修理(1943−54年)のときに切断され、別の木材で補強された。このと
き、厚さ約10センチ分を標本として切り取り、京都大学が保管していた。この部分の太さは78センチあり、354層の年輪があった。同研究所の光谷拓
実・発掘技術研究室長が、年輪年代法でヒノキの標準年輪パターンと照合した結果、最も外側の年輪は594年のものとわかった。上の柱の年代は不明。

 法隆寺は7世紀初め、現在の西院伽藍(がらん)の南東約100メートルの位置に創建された(若草伽藍)。日本書紀によると、この伽藍は670年に火
災で焼け、現在の場所で711年ごろ再建された。

 同研究所は「現在の伽藍から出土する瓦(かわら)は7世紀後半以降のもので、それ以前のものはない。五重塔が、それより50年以上前の600年前後
に建てられたとは考えにくい」としている。(1)別の寺の塔の心柱が再利用された(2)原木が長期間、貯蔵されていた――などが考えられるという。

      ◇            ◇

 ◆年輪年代法

 年輪幅の変化のパターンを利用して年代を調べる方法。年代不明の資料の年輪パターンを標準のパターンと照合して判定する。欧米で開発され、奈良国立
文化財研究所が導入した。ヒノキなら現代から紀元前912年まで、スギなら紀元前1313年まで調べられるといい、樹齢が100年以上あれば正確に測
定できるという。古建築や仏像、災害の埋没林など多くの年代判定に用いられている。

3 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 20:50
今日の新聞見て知った。

「再建説の歴史」について、誰かまとめてくれ。

4 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 20:53
新聞では,もともと飛鳥寺(596年建立)用に伐採されたヒノキではないか?
との話が載っていたが?

梅原さんが喜びそう…

5 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 21:01
>>4
朝日には梅原氏の論がめいっぱい載ってたよー
ああいうこと新聞の社会面に載っけちゃマズイだろ・・。
知らないヤツが見たら確立された説と勘違いするぞ・・・。

6 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 21:24
>>4
それが何故、100年も後につかわれたのか不明。
説明になっていない説明だな。

7 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:09
>>6
飛鳥寺用に伐採しておいたものではなく
飛鳥寺の五重の塔で実際に使用していた物という説だよ。

8 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:42
馬鹿は何が出ても「これで我々の○○説が有利になった」って言うんだよな。

9 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:51
何にせよ当初は別の寺なり建造物で使われていたことは確かなわけだ
当時あんなにデカイものの選択肢はそう多くはないだろ。
さて、どこでせうか。

10 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:52
> 法隆寺が九州王朝のお寺を建て替えたもんだ、という説

これはどう言う説なの? 九州王朝って?

11 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:52
馬鹿はどんな発言が出ても、罵倒しかしないんだよな。

12 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:00
>>10
君、知らないの? 唖然。

13 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:02
飛鳥寺ってそんなに大きかったの?
塔の遺跡って判明してた?

14 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:08
>>10
まあ、
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/
↑こういう人と
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu.htm
↑こういう人が
争っている(?)説です。ハイ。
普通の人は知らなくて当たり前かつ知る必要もないのでご安心を。

15 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:13
>>13
発掘調査によれば創建当時は現在の法隆寺の3倍の規模だったとか

16 :日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:22
広さよりは建物の規模が問題では。

17 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:38
7世紀の日本書紀は相当に怪しい。何か隠しながら書いてるね。

18 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 03:47
かりに、九州王朝のお寺を立て替えたものだとしても、
九州王朝諸説で唱えているのと、年代があわないぞ。

むしろ九州王朝説がこれで崩壊したってことでは。

19 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 07:04
古田じいさん(元々は江戸時代の国学者の発案)の九州王朝説って久しぶりに聞いたな(藁

20 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:01
>>18
はにゃあー? 何で崩壊するの? 九州の方だって建て替えたりして
その頃つくったかしれんでしょ。前提が真偽不明なのに、崩壊するわけないでしょ(w

21 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:26
んじゃ、九州王朝説の方、今回のを納得行く説明してくださいよ。

22 :日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:32
九州朝が倒れたのは7世紀後半、白村江のあとだっていうから、
その後移築されたんでしょうな。

23 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 02:47
あんな馬鹿デカイ柱を使った建築物があったなら、
九州王朝の遺構が残ってるんじゃないの?

24 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 03:23
あの心柱、京大の研究所の木材倉庫みたいなところで
転がってるの見たことあるんだけれど、そんなに
大事にあつかわれてなかったよ。

25 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 06:41
>24
半世紀も無視してたってこと?
年輪年代法がなくても、貴重な史料だろう。

26 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:24
生えてるペンペン草まで掘り取ったから物的証拠はなくて
史料はみんな改ざんされたから記録がないんだっていうのが
九州王朝説だろ?
証拠は天井裏から落ちてきた偽書だけ

27 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:27
偽書っていうのは本当に存在しているの??

28 :日本@名無史さん:2001/02/23(金) 23:21
年輪年代法的にはどの地域のヒノキなのかまでは推測できんかったんかな


29 :日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:42
>2に長期貯蔵説が指摘されているように
良木はすぐに使用せず、
癖をなくするためにしばらく屋外に保管するそうだ。
今でも年季の入ったものは30〜40年もする物があるそうな。
まっ、リサイクルした奴かも知れんが
使用されている瓦が日本書紀の記述を裏ずける物である以上
「法隆寺再建否定説」の根拠にはならんな


30 :日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:44
>29
訂正、
裏付ける

31 :日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:59
>>28
板目に裂いてみれば分かるかもね。

32 :日本@名無史さん:2001/02/24(土) 08:51
法隆寺は607年ごろに聖徳太子が創建したんだったら、
594年に伐採されたヒノキが使われていても自然だね。

ってことは、焼失したのではなくて、移築されたってこと??

33 :氏名トルアキ:2001/02/24(土) 09:50
落雷で焼けた心柱の下部が焼け残って、それを再建の際に使用した、
っていうのはどう?

34 :日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:00
落雷はずばっと中まで丸焼けになるよね?

35 :日本@名無史さん:2001/02/25(日) 15:10
法隆寺はもともと怨念を鎮めるために建てられたものだぜ
再建せざるを得なかったのもそのため

36 :日本@名無史さん:2001/02/25(日) 23:22
あげ

37 :日本@名無史さん:2001/02/26(月) 04:44
法隆寺のすぐとなりの埋葬者二名については
まだ諸説があって確定していないです

38 :日本@名無史さん:2001/02/26(月) 22:09
聖徳太子が怨霊をかなりおそれていたとみえるよね


39 :日本@名無史さん:2001/02/27(火) 09:56
十字架が隠されているんだよね

40 :日本@名無史さん:2001/02/27(火) 10:35
どうやら崇峻天皇を暗殺する支持を送った黒幕の一人が聖徳太子らしい。
その祟りを恐れて、崇峻天皇の墓の隣に法隆寺を作っている。

41 :日本@名無史さん:2001/02/27(火) 22:06
藤ノ木古墳と法隆寺があんなに近いのはそういうわけだったのか

42 :日本@名無史さん:2001/02/28(水) 16:01
つーか、崇峻天皇を暗殺した厩戸皇子がおびえてるだけだろ。

43 :日本@名無史さん:2001/02/28(水) 22:53
九州へ暗殺の指示を出したんだっけ??

44 :日本@名無史さん:2001/03/01(木) 19:00
日本書紀によれば、592年、崇峻天皇は、欽明天皇の時に失われた任那日本府の奪還を
計るため、新羅に攻め込むために2万の軍勢を九州に集結させた。

そして、崇峻天皇自身も総大将として九州に赴いていた。
任那日本府の奪還計画は、欽明天皇の遺言で、敏達、用明天皇も成し遂げたい
国家的プロジェクトであったが、崇峻天皇のとき、ようやく時期が到来した。
ところが、この時、崇峻天皇は九州で暗殺されてしまった‥。

45 :日本@名無史さん:2001/03/02(金) 09:28
いろいろ総合的に判断すると厩戸皇子と馬子はモンロー主義だったみたいだね

46 :日本@名無史さん:2001/03/02(金) 10:15

わざ

わざ

九州くんだりから、古材を持ってくる理由がわからんね。

後世の穿った、都合のいい心理描写曲解以外に、なにもない。
ほんと〜〜〜に、なにもない。

あほらし。電波板逝けよ。



47 :日本@名無史さん:2001/03/02(金) 23:01
>>45
ふたりとも半島へ関わることをいやがってたんでしょうね。
崇峻天皇がその空気を読めずに半島出兵を強攻するからこんなことに…

48 :日本@名無史さん:2001/03/03(土) 23:08
>>47
>ふたりとも半島へ関わることをいやがってた

??? どうしてそんな結論がでるんだ?

49 :名無しさん@1周年:2001/03/04(日) 01:42
もうちょっとサンプルを取るべきだったと
他所の先生が言っていたような。
場所変えて取れとか。

50 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 03:08
あほか、日本書紀には、聖徳太子は新羅に出兵させたと書いてあるぞ。
モンロー主義どころか、中国を統一した隋とも対等関係を持とうと
雄大なことを考えて、諸制度を改革したわけ。

51 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 06:17
>49
場所を変えると、年代以外の事が分かるかもしれないの?

52 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 08:56
年輪の付き方でどの地方の木か有る程度判るらしいよ。
大和説には都合悪いかも。

53 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 09:09
九州王朝説支持者はまた有りもしない「証拠」で夢想

54 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 11:30
大和説支持者は出土品を何でもこじつけ。

55 :名無しさん@1周年:2001/03/04(日) 12:23
>>50
ずいぶんチンタラとした新羅出兵のようでしたが。

56 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 17:10
>54
九州や山口県の木でも大和政権の勢力がソコまで及んでいた
と云えばとおる世界です。

57 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 17:19
通らない世界が異常なの

58 :日本@名無史さん:2001/03/04(日) 20:08
たしかに異常な世界だ。
なんかいつのまにか“九州から来た木材だ”っていう幻想が一人歩きしてるぞ。

59 :日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:28
年輪測定においては、地方によっての気候差が観測できるケースもあって、
もう少し細かく調べればどこの地方のものかわかるかも知れません。

60 :日本@名無史さん:2001/03/09(金) 13:14
>>50
たしか聖徳太子の弟が大将になって出兵しようとしたが、
九州あたりで毒殺されて中止になったはず。

61 :日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:08
そのまえに崇峻天皇が半島出兵しようとしたときも九州で暗殺されてるね。
この頃はいったいどういう状況だったのだろう。

62 :日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:45
>>60
聖徳太子の弟はふたりとも出兵がらみで毒殺だな

63 :日本@名無史さん:2001/03/15(木) 01:40
なんだっけ出目皇子か??

64 :日本@名無史さん:2001/03/16(金) 06:34
来目皇子(くめおうじ)でしょ

65 :日本@名無史さん:2001/03/19(月) 20:53
厩戸皇子は、摂政就任早々602年新羅討伐軍を編成して、九州に兵を集結させた。
総大将は、厩戸皇子の実の弟・来目皇子であった。

事態に驚いた馬子は、厩戸皇子に出兵の中止を申し込んだが、聞き入れられなかった。
馬子は、意見を同じくする豪族と計らい、崇峻天皇のときと同じく使者を使わして、
来目皇子を殺した。

66 :名無しさん@1周年:2001/03/19(月) 21:56
それは九州王朝の出兵積極策に消極的だった、畿内朝廷の内部紛争を
反映したものでしょう。

67 :日本@名無史さん:2001/03/21(水) 22:15
俺は九州王朝説に反対なのだが、
なぜかこの時代は『半島へ出兵』といいつつ、
それらの大将なり重要な人物なりが『九州で毒殺』されている。

すごく疑問を感じる。

68 :名無しさん@1周年:2001/03/21(水) 22:22
とにかく変だよ、この時代は。
古田も言っているが、大和朝廷関係者で、白村江で死んだやつはいない。

69 :日本@名無史さん:2001/03/25(日) 05:55
>>67
純粋に考えると、それって九州征伐にいって、
戦って殺されたんじゃないの?

70 :日本@名無史さん:2001/03/27(火) 21:21
桧の年輪から遡れるなら、
貝の成長跡とかでもできそうだな。
貝輪から、弥生時代の年代が読めるかも。
専門家の方、そこんとこどうでしょう?

71 :日本@名無史さん:2001/03/29(木) 16:20
崇峻天皇も来目皇子も半島出兵しようとしたということの実態は九州出兵
九州で毒殺されたということの実態は九州王朝での戦死

これ以外にこの時代の記述をうまく説明できる説が出ていない

72 :日本@名無史さん:2001/03/29(木) 18:09
斉明天皇も九州で死んでる。

73 :日本@名無史さん:2001/03/29(木) 19:33
そのまえの仲哀とかいうのも西日本のどこかで。

74 :日本@名無史さん:2001/04/02(月) 00:00
あらら。なんで、こうも、九州王朝説に有利な状況ばかりなの??
反九州王朝説の人、うまく説明して!!

75 :日本@名無史さん:2001/04/02(月) 06:16
ばか?

76 :日本@名無史さん:2001/04/02(月) 09:15
>>75=バカ


77 :日本@名無史さん:2001/04/07(土) 16:02
九州王朝説はともかくとして、どの時代も九州征伐で戦死者を出していたというのは
間違いがないのでは?

78 :日本@名無史さん:2001/04/14(土) 20:34
記紀的にはそうなりますね
ただし表現がどれも微妙です

多くは九州征伐と明示的に書かずに半島出兵の途中でとなっています
また戦死ではなく途中で病気でなくなった者が圧倒的です

79 :日本@名無史さん:2001/04/14(土) 20:42
だって、九州の高千穂は皇室の出身地でしょ?
皇室というか、おおきみの。
どうして、里帰りの途中で戦死するのさ?

80 :日本@名無史さん:2001/04/20(金) 22:48
里帰りの途中と思えない。
そもそも、半島出兵するたびに九州で亡くなってる。

81 :法師:2001/04/21(土) 19:40
「貝」じゃあ、いくら何でも寿命が短すぎて、他とつきあわせるのが無理ではないかと。

82 :日本@名無史さん:2001/04/28(土) 23:48
>>79の九州出身というのは嘘だとして、
九州へ派遣したあるいは自ら行ったものが多勢死んでいるのは事実で、
その死亡原因の表現方法はともかく、記紀的にも事実を隠せなかった。

83 :日本@名無史さん:2001/04/29(日) 07:16
九州が不衛生な辺境だから都びとは死んじゃうんだよ

84 :日本@名無史さん:2001/04/30(月) 13:29
記紀ってそんなに穴があったんだ…
今まで誰も指摘してなかったの?

85 :日本@名無史さん:2001/05/13(日) 19:50
穴があったというより、半島出兵の途中で九州で戦死、とか、
あるいは、暗殺(っぽい)とか、偶然、出兵途中で家族が倒れたために
九州から関西へ帰還とか、そんな感じで書かれてるんだよね。

86 :日本@名無しさん:2001/05/13(日) 20:08
本題に戻しておこう。
今のところは米田良三「法隆寺は移築された」(1989年)の
太宰府観世音寺からの移築説が最も説得力があると思う。
年輪測定法よりも前に建築家の目から移築説を出したのは大したもんだよ。

87 :日本@名無史さん:2001/05/20(日) 17:47
その移築説では、焼失前の存在はどうなっているの

88 :日本@名無史さん:2001/05/20(日) 21:50
>>86
そうゆう歴史学者とは別のスペシャリストから出た意見って貴重だよね。
哲学者はご遠慮願いたいが…

89 :日本@名無史さん:2001/05/26(土) 04:32
やはり九州王朝説がただしかったのか‥

90 :日本@名無史さん:2001/05/28(月) 03:59
聖徳太子の弟たちは次々に九州征伐に行ったことが記されてる

91 :s:2001/05/28(月) 20:49
e

92 :日本@名無史さん:2001/06/02(土) 04:04
九州年号は実在が疑われていたが証拠が出た以上はね

93 :日本@名無史さん:2001/06/02(土) 04:35
なんの証拠だって?

94 :日本@百舌鳥@上野芝:2001/06/02(土) 14:30
法隆寺の移築以外で九州から畿内に移動したものはないの。たとえば宝物とか肖像画とか古文書類とか。
最近聖徳太子は実在しなかったという本が話題になってるけど。

95 :日本@名無史さん:2001/06/05(火) 17:24
えーっと、ちゃんと、分けて考えよう。

・九州王朝が存在していた説/存在していなかった説
・聖徳太子が存在していた説/存在していなかった説

それぞれで四通りの組合わせの説がどれも発表されている。

96 :日本@名無史さん:2001/06/05(火) 23:47
そもそも年輪測定法は、伐採年しかわからないもの。
建立年とは無関係だね。

これで橿原研の連中の企む古墳時代繰り上げ操作も
終わりだね

97 :日本@名無史さん:2001/06/05(火) 23:58
↑いつもの白雉さんごくろうさん

98 :96:2001/06/05(火) 23:58
しかし、九州王朝説は、問題外。
学会では誰も相手にしていない。

この世界素人からの参入者も多いが、奥野や安本のように多少マシのと違って
古田は完全な電波。
素人の皆さんはだまされないようにしてください。

99 :日本@名無史さん:2001/06/06(水) 00:04
どのへんが電波なんですか?
津軽外三郡誌以外で?


100 :日本@名無史さん:2001/06/06(水) 00:07
古田は井沢ちゃん以下だよね。
井沢ちゃんは、奇をてらってもいろんな学者の言っていることのツギハギ
だからまだ許せるがな(少なくとも古代史に関しては)

101 :日本@名無史さん:2001/06/06(水) 00:08
>>100
結局印象批評か?
まだ色々あるだろうが。

102 :>97:2001/06/06(水) 00:22
陰ではみんな言ってることだよ。


103 :>101:2001/06/06(水) 00:23
古田信者はまだ存在するのか。

104 :日本@名無史さん:2001/06/06(水) 00:34
古田信者は、コヴァ信者並み

105 :日本@名無史さん:2001/06/06(水) 00:36
そんな!コヴァに悪いよ。

106 :>105:2001/06/06(水) 00:42
そうだよね。曲がりなりにも外国にまで波紋を起こす漫画家と
日本の狭い学会からも相手にされん古田じゃあ格が違う

107 :日本@名無史さん:2001/06/11(月) 12:42
どう違う

108 :日本@名無史さん:2001/06/25(月) 04:17
年輪測定においては、地方によっての気候差が観測できるケースもあって、
もう少し細かく調べればどこの地方のものかわかるかも知れません。

109 :kajima:2001/06/27(水) 04:38
s

110 :日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:07
そうすると、聖徳太子の弟たちが九州で戦死したことも裏付けられる??

111 :日本@名無史さん:2001/07/09(月) 17:10
半島出兵だったのか九州出兵だったのか、だれか質実を!!

112 :日本@名無史さん:2001/07/09(月) 17:22
>>106
相手にしたら勝てないから無視するんだろ。

113 :日本@名無史さん:2001/07/11(水) 19:55
とにかく、九州王朝の存在はかなりあやしいとしても、
九州征伐のために九州で戦死者が多く出たのだけは記紀的にも書かれている事実。

114 :日本@名無史さん:2001/07/28(土) 11:33
sage

115 :日本@名無史さん:2001/07/31(火) 14:05
九州のは王朝というよりも反抗勢力にすぎないんじゃないかな。
制圧に何度か行く上で戦死者が出るのはすごく自然。

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read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
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