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民国期親日政府スレッド

1 :世界@名無史さん:02/01/12 00:01
民国期の「親日政府」について、指導者、要員、政策、軍隊などを幅広く議論・検討するスレッドです。

なお、ここでは満州国は敢えて対象としません(これだけでスレが別に1つ以上必要でしょうから)。
国民政府(汪兆銘)、中華民国臨時政府(王克敏)、中華民国維新政府(梁鴻志)、
蒙彊連合自治政府(徳王)、冀東防共自治政府(殷汝耕)などが対象です。

荒れやすいテーマであることは覚悟の上ですが、有意義な議論が展開されることを期待しています。

2 :THE GEACS PROJECT:02/01/12 00:31
汪兆銘「南京還都に際し日本に謝す」より
「おもふにいわゆる東亜新秩序の指導精神は東亜の諸国諸民族をして各々
自由独立の立場に基づいて仁愛和平の合作をなすことを得せしむることに
あるのであります。ゆえに貴国は今回の事変においても毅然として戦勝者
をもって自ら奢らず、善隣友好、共同防共、経済提携をもって中日関係を
調整する原則たるべきことを討議せらるるとともに中国に向かって領土を
要求せず、かつ中国の主権を尊重するのみならず、進んで我が国を援助し
てその独立国家たるに必要たる治外法権の撤廃、租界の返還等を考慮する
に吝かならざる旨をせんめいせられたのであります。察するところは貴国
が我が国に対して切望せらるるところは我が国が速やかに近代国家の建設
を完成、和平を欲する責任を分担するに至らんことにあるものと存じます。
これでこそ中日両国ははじめて共存共栄となり、東亜の和平と秩序もはじ
めて確保することができるものであると信ずるのであります。」
(昭和13年3月30日)

3 :THE GEACS PROJECT:02/01/12 00:42
>2
失礼!
昭和13年3月30日X
昭和15年3月30日○

4 :世界@名無史さん:02/01/12 00:49
参考文献としては、一般の概説書の他、
劉傑『漢奸裁判』(中公新書、2000年)を挙げておきます。

>2
早速書き込んでいただき、ありがとうございました。
汪精衛(汪兆銘)のこの言葉から、彼が敢えて日本と和した理由がかなりうかがえますよね?
少なくとも、単なる降伏論者では無かったことは確かです。
もっとも、それによって汪精衛に過度の同情を寄せることは出来ないと思いますが。

5 :西国のアズマ帰依者:02/01/12 01:09
いいスレッドですね?軍閥スレッドの1さんですか?

さて汪兆銘政権については、かれが属した国民党左派
(=国共合作維持派)の性格がいまいち
分かりかねる部分があります。結局、陳公博も参加いたしましたし。
なにか連続性でもあるのか?などと考えてしまいます。

6 ::02/01/12 01:46
>5
西国さんも、早速書き込みありがとうございます。
仰る通り、軍閥スレの1です。

通州事件のスレでいくつか親日政府や要人たちの話題も出てきたので、
そちらの方向へ通州スレを展開させようかとも考えたのですが、
ちょっと無理っぽいので(w新しくスレを立てました。

国民党左派の基本的理念は、「反独裁」「法治」だと思います。
国共合作も、やはり「独裁者=蒋介石」への抵抗の一環だったわけですね。
汪精衛の支持を受けた陳公博は、
「改組派」と呼ばれるグループを率い、自らの理念を実現しようと努力しました。
しかし、「反蒋介石」を貫いた結果、抗日戦争期になると、
汪・陳は第二次国共合作反対と対日和平を主張するようになってしまい、
そして汪精衛政権樹立へとつながって行くわけです。
そこに、何らかの“悲劇”を見出す余地はあるかも知れませんが・・・。

7 ::02/01/12 11:19
通州事件のスレッドでも問題になっていましたが、
冀東防共自治政府と冀察政務委員会の関係について、ここで改めて整理しておきます。

@冀東防共自治政府
1935年11月、河北省薊密区行政督察専員だった殷汝耕が、日本軍の離反工作に応じ、
冀東戦区22県を管轄範囲とした冀東防共自治委員会を立ち上げました。
これが自治政府となったのは、同年12月です(自治政府長官は殷汝耕)。

A冀察政務委員会
国民政府が日本から華北の「自治」を認めるよう要求されたのを受け、
冀東防共自治政府と同時期の1935年12月に北平(北京)で設立された機関です。
河北・察哈爾2省と北平・天津2市を管轄しています。
主席は宋哲元でしたが、王揖唐・王克便などの親日派要人も日本側の推薦で委員となっています。
冀察政務委員会の役割としては、対日外交の重要な窓口というのもありました。

さて、両者の関係ですが、
冀東防共自治政府は、名義上では冀察政務委員会の管轄下に入っています。
しかし、実質的には、
委員会から独立した組織(=日本軍の傀儡政権)と言って良いでしょう。
これは冀察政務委員会の国民政府中央に対する関係と同様です。
ただ、冀察政務委員会が単に日本のために動いたのかというとそうでもなく、
馮玉祥配下だった宋哲元が自己の勢力を拡張するのにも利用されています。

あと、通州事件については、国民政府や共産党の責任を追及する問題とはなりません。
一応、念のため。

8 ::02/01/12 11:21
↑失礼。×王克便→○王克敏

9 :世界@名無史さん:02/01/12 12:12
http://homepage2.nifty.com/t-murata/51taikai/rekishi-3.html

現代中国学会で発表されたようですが、
これって論文になってますか?

10 :世界@名無史さん:02/01/12 23:53
>9
ネットで検索した限りでは、まだ論文になってませんね・・・。

蒙彊聯合自治政府の場合、仮に日本軍の侵略行為を責めるとしても、
一方で徳王たちにとってみれば、一種の民族主義的政治活動と解釈することも出来ます。
おそらく徳王は、汪精衛以上に日本に対しては複雑な感情を抱いていたのではないでしょうか?

11 :世界@名無史さん:02/01/13 00:36
徳王が独立を目指していたことは明らかですが、
当初は国民政府に次のような要求を通電をしていました。
1、モンゴル族を中華民族に位置付ける
2、チンギスハンをモンゴルの太祖として讃える
3、国民政府の内モンゴル政策、ソ連の外モンゴル政策、日本の大陸政策を批判する
4、モンゴル族による高度自治
5、自治の根拠は孫文「建国大綱」(1924年)

1や5はなかなか、関西弁でいう「やらしい」って感じですね。
これに対して国民政府がうやむやな態度をとったことや
不抵抗政策によって内モンゴルが切り捨てられることに不安を感じたようです。
結果として、徳王の方が国民政府を捨てて関東軍に接近したのは
皮肉というべきか。

12 :世界@名無史さん:02/01/13 00:43
ちなみに汪兆銘政権が建てられると
徳王のモンゴル連合自治政府は、またもや「中華民国」に組みこまれることになりました。
日本側にとって徳王も駒の一つにしか過ぎなかったってことでしょうかね。
(自治は認められましたが)

13 ::02/01/13 01:07
>11、12
徳王の方でも、恐らくはあらゆる政治勢力を利用し尽くしてでも、
独立政権(あるいはそれに近い政権)を建てようとしたのでしょう。
しかし、結局は逆に利用され尽くされた、ってところですね。

ちなみに徳王の末路ですが、
1949年にモンゴル人民共和国(外蒙古)に逃れたものの、
翌年に中華人民共和国へ引き渡され、収監されてしまいます。
1963年に恩赦されてからは内蒙古政協文史館で勤務。
文革が始まった1966年に死去しました。

14 :アジアの力:02/01/15 21:36
「護れ満蒙の生命線」佐藤惣之助・作詞

1 鉄の兜に身をかため雪の銃剣肩にすりゃ
  進む足並み血は躍る満網千里は靴の下

2 氷る原野は果てしなし北はノン江チチハルに
  西は遼西錦州にわが戦列の美しさ

3 空にゃ頼むぞ爆撃機大地にゃ無敵な装甲車
  第一線と花に咲くヤング日本の勇児あり

4 進め戦友いざ共に最前線に突入し
  身を肉弾にうちつづけ小癪な匪賊をうちこらせ

5 わが皇国の権益をおかす奴ばらうちはら
  雪の朝日を背にうけて護れ満蒙の生命線

*「ヤング日本」って素敵!

15 :世界@名無史さん:02/01/15 22:24
満州国や徳王政権に参加した人って対日協力したゆえに
戦後の内モンゴルでは支持者がなくなって
逆にウランフを前面に立てた共産党に支持が集まったって話は本当ですか?
内モンゴルってもともと反漢族感情が強かったと思うんだけど。

16 ::02/01/15 22:37
>14
佐藤惣之助は、
昭和初期に満州や蒙古・上海・広東・香港などを旅行してますね。
僕は佐藤の詩やその他著作についてはほとんど知らないのですが、
この時の旅行記などもあるのでしょうか?

>15
1945年9月、モンゴル青年党(若手知識人の政治勢力)を中心とした、
内蒙古人民共和国臨時政府が成立したのですが、そこには、旧蒙疆聯合自治政府の
要員たちも多く加わっていました。
ウランフは親日分子を批判することで臨時政府を動揺させ、
さらにソ連軍と人民解放軍のバックアップを得ることによって、
臨時政府の主席の地位を手に入れています。

17 :西国のアズマ帰依者:02/01/16 03:07
>1さん

冀察政務委員会、もしくは李・白・陳といった国民党西南派のもった
「親日的」性格について、いかにお考えでしょうか?
親日政権とどのように線引きをされるつもりなのでしょうか?
やはり傀儡政権としてつくられたかどうか、で引かれるのでしょうか?

ご存じとは思いますが、金城銀行総経理周作民は、華北にあって華北綿植
事業など様々な分野で、「中日経済提携」に絡んできますし、広東の陳政権は
一時日本側も支援の動きがありました。

親日政権とは、結局親日的性格のもつ政策を相手に施行させえない、つまり
相手にも利益を供与できないもしくは利益供与の説得ができなくなったことであり、
日本政府の影響力減退の象徴=末期症状、2つの転換点の一つである様に思えます。
むろん後一つの転換点は「直接支配」志向ですが。

逆をいえば、親日政権は日中戦争以前と以後で性格が全然違うのではないでしょうか?
とりとめもなく書いてみました

18 :世界@名無史さん:02/01/16 20:29
>17
基本的には、僕の言う「親日政権」は傀儡政権として作られたものを対象としています。
そして、日中戦争開始後のものを指します。

僕自身の考えはきわめて単純なのですが、1937年以後の日本軍の本格的侵攻に対しては、
国内のあらゆる政権(軍閥)が、「抗日」か「親日」かの選択を否応無く迫られたと考えています。
その時点で、日本との和平を選んだ政権(当然、イコール傀儡政権化を選択)を、
僕の考えでは「親日政権」と見なしています。

なお、日本軍の本格侵攻以前の政権(軍閥)が「親日的」な行動や政策を採っていたとしても、
それはあくまで選択肢の1つであり、主体性は政権(軍閥)に属していた、と考えています。
極端な言い方をすれば、日本は「取引相手」の1つでしかなく、
各政権(軍閥)は自己の打算から日本を取引相手に選んだ状況だった、というところでしょう。
(では、冀察政務委員会はどうなるのか?という問題も出てきますが、これは今後の議論としましょう)

大雑把過ぎますが、今の時点での僕の考えはこんなところです。
西国さんをはじめ、皆さんからの批判がうかがえれば幸いです。

19 :ジャパニーズ土人君:02/01/20 18:30
「朝日新聞」昭和十八年十月十日朝刊より
大東亜民族の自覚へ汪主席、決意を述ぶ

「…民族主義の目的は決して漢民族の解放に限定したわけではない、漢民族の下に五族協和を
呼号したけれども、その終局の目的はむしろ英米帝国主義の侵略に抵抗し中国の自由平等を守
らんとするにあった、かくて中国の大東亜戦争参加はまさに国民革命の終局的目的たる不平等
条約排除に到達したのであり、国民革命の光栄ある前途を顕示したのである、われらは国慶節
あたり民族の熱情を奮い起こして国府の指示に従い大東亜戦争の完遂と東亜民族の団結をはか
り、東亜民族の共栄を求めれば中国の自由平等も保障もまたここに獲得し得られるものである」

国父・孫中山先生の正統なる後継者・汪兆銘(精衛)先生万歳!!

20 ::02/01/20 18:44
>19
最近では、傀儡政権樹立期の汪精衛の政治思想・行動について、
大陸でも客観的に見直そうという動きが出てきているようです。
3年前ぐらいですが、「東亜民族の共栄」という部分に着目して、これも一種の帝国主義への抵抗思想
ではないか、という指摘をした記事(『書摘』だったかな?)もありました。

もっとも、「東亜民族の共栄」を推進する主体として日本が妥当であったのか、
そして汪精衛自身の国際情勢に対する見通しの甘さなどは、別に論じる必要があるでしょう。

21 :THE GEACS PROJECT:02/01/22 12:26
この板の方々に朗報!
来る1月27日、靖国神社内の靖国会館(臨時の遊就舘がある建物)において午後1時半より、
名越二荒之助先生の講演が行われます。当日のスペシャル・ゲストは、誰あろう小室直樹先生
です。講演後の御陪席のチャンスもあり!まじめな気持ちでの御参加をお願いします。
小生も<THE GEACS CLUB>の同志諸君と参加します。




22 :世界@名無史さん:02/01/22 18:21
>21
会の告知等は「★★世界史板・統一雑談スレ Part 3★★」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1001676321/l50
の方で御願いします。

さて、通州スレで「自治政府はいくつあるのか?」という問題が出ていましたので、
ここで、「親日政権」の自治政府を僕が分かる限りで挙げておきます。
@蒙古連盟自治政府
 1937年10月に綏遠省帰綏城において成立。主席は雲王(翌年病没)だったが、
徳王が一切の事務を総攬していた。雲王没後は、徳王が主席に就任している。
A晋北自治政府
 1937年10月、山西省大同で成立。最高委員は夏恭。
B察南自治政府
 1937年9月、察哈爾省張家口で成立。最高委員は于品卿。
C蒙彊聯合自治政府
 1937年11月に、日本側の決定によって蒙彊聯合委員会が成立し、@〜Bの上位機関となる。
1939年9月、@〜Bが合併し、蒙彊聯合自治政府が成立。主席は徳王、副主席は夏恭・于品卿。
D河南自治政府
 1937年11月、河南省安陽に成立。主席は蕭瑞臣。1938年5月に廃止。
E冀東防共自治政府
 ※既出

訂正・追加がありましたら、よろしく御願いします。

23 :アジアの力:02/01/22 19:19
【大東亜共同宣言】
 1943年(昭和18年)11月6日午後0時55分、日・中・泰・満・比・緬の代表
(自由印度仮政府スバス・チャンドラ・ボース総帥もオブザーバーの資格で参加した。)
は全会一致で「大東亜共同宣言」を採択した。本スレ寄稿の諸氏には、あえてその意義を
説明する必要はあるまい。
「東京裁判史観」論者は、この事実を避けて「傀儡を集めた茶番劇」などと卑劣な歪曲・
誤魔化しに腐心しているが、大東亜戦争における最大の精神的遺産であることは論を待た
ない。大東亜会議事務局発表によれば内容は以下のとおりである。
(朝日新聞・夕刊 昭和十八年十一月六日付より)
「昭和十八年十一月五日及六日の両国東京に於て大東亜会議を開催せり、同会議に各国代
表者左の通
日本国
内閣総理大臣 東條英機閣下
中華民国
国民政府行政院院長 汪兆銘閣下
タイ王国
内閣総理大臣ピー・ピブン・ソンクラム元帥閣下の名代として ワンワイタヤコーン閣下
満洲国
国務総理大臣 張景恵閣下
フィリピン共和国
大統領 ホセ・ペー・ラウレル閣下
ビルマ国
内閣総理大臣 バー・モウ閣下
同会議においては大東亜戦争完遂と大東亜建設との方針とに関し各代表は隔意なき協議を
遂げたる処全会一致を以て左の共同宣言を採択せり

大東亜共同宣言
抑々世界各国が各其所を得相倚り相扶けて萬邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本
要義なり 然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては
飽くなき侵略搾取を行い大東亜隷属化の野望を逞うし遂には大東亜の安定を根底より覆さ
んとせり大東亜戦争の原因茲に存す
大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自
衛を全うし左の要綱に基き大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す
一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す
一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昂揚す
一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
一、大東亜各国は萬邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源
  を開放し以て世界の進運に貢献す」



24 ::02/01/22 20:18
>23
このスレで問うべき問題は、
汪精衛政権が「大東亜共同宣言」の高らかな理想を謳う国家でありながら、
何故それが中国で受け入れられなかったのか、ということではないでしょうか?

汪精衛が主張した「東亜民族の共栄」という理念を、僕自身は全くのデマカセと断じる
気はありません。
しかし、ここで問いたいのは、その理念と現実とのギャップです。
それほどの高らかな理想を謳った汪精衛が、何故蒋介石の前に敗れ去ったのか?
実際の政策や行政組織、指導者の行動、当時の国際環境など、
様々な面からそれは切れるはずです。

差出口、失礼しました。

25 :世界@名無史さん:02/01/23 14:01
汪精衛政府って内政的にはどんなことしたんでしょう?



26 ::02/01/23 21:43
>25
汪精衛は、やはり民心の掌握と「和平」の宣伝を重視したようです(当然ではありますが)。
重要な施策としては、

@東亜聯盟中国総会の設立とその組織拡大
 東亜聯盟=中日間の軍事同盟、経済協力、経済提携、文化交流を宣伝する組織
A「新国民運動促進委員会」の設立
 新国民運動=「和平反共」、「大東亜戦争」の遂行、「愛中国、愛東亜」など、新精神の樹立を主張。
       蒋介石の「新生活運動」に対抗したもの。
B「中国青年模範団」、「中央青年幹部学校」などの設立

などが挙げられます。
また、中央軍官訓練団を結成したりして、独自の軍事力を擁しようと努力してもいます。

27 :何日君再来:02/01/24 01:42
>24
「和平・建国・反共」の理想だけでは「飯」は喰えない。
やはり、支那人は現実の生活を充実させたかったのであろう。
それにしても「何日君再来」の「君:蒋介石、国民党軍」ってのもなあ…。
「軍人=無頼漢」とする中国的イメージからすると怪しい気もするが?


28 ::02/01/24 22:50
>27
「建国・反共」はここでおくとして、
「和平」については汪精衛が一番念願としてたのではないか、と僕は考えています。
彼の誤算は2つあり、1つは、中国の各階層における抗日意識の昂揚ぶり、
そしてもう1つは、日本軍の大陸からの撤兵をいかほども実現させ得なかったことです。
汪精衛政権樹立前の日本との交渉で、
汪は何度も撤兵について求めていたことが明らかになっています。

「何日君再来」の「君=蒋介石、国民党軍」と言う説は、信憑性が低いらしいですね。
僕はまだ読んだことが無いのですが、
中薗英助『何日君再来物語』(河出書房新社、1988年)によると、
日中戦争の間、「何日君再来」を歌うことは日中双方から(つまり国民党からも)
戦意妨げるとして禁止されたそうです。

29 :世界@名無史さん:02/01/24 23:33
汪精衛の「建国・反共」っていつ頃から構想してたんでしょうか?
西安事件の前後には世論としては
内戦停止・国共合作こそ「建国」として意識されてたと思うんですが。
赤禍根絶決議のころかな?

30 ::02/01/25 01:01
順番が逆になりますが、まず汪精衛の「反共」については、
1927年7月15日の武漢政変で決定的になっています。
(赤禍根絶決議は、この時に宣言として発表されたものですよね?
浅学でこの用語を知らなかったのですが)
以後の汪精衛は、蒋介石のような一時的「聯共」にすら徹底的に反対しています。
宮崎市定は、汪精衛は共産党をよく理解していたからこそ、
国共合作に危惧の念を抱いていた、と主張していますが、
いずれにしても、武漢政変に至るまでの共産党との連繋の苦難が、
汪精衛の「反共」にとって大きな要因となったはずです。

一方、汪精衛が「建国」、すなわち新たな政権を作るという考えに至ったのは、
日中戦争が全面的に勃発した後の1938年頃ではないか、と僕は考えています。
それ以前は、あくまで国民政府内で支持を集めようと努力していたのではないでしょうか?

31 :世界@名無史さん:02/01/25 01:30
赤化根絶決議は三中全会ですよ。
西安事件→赤化根絶決議→第2次国共合作となる。
日本は蒋介石が共産党に絶縁状を叩きつけたものと解釈した。
事実は赤軍の存在はこれを認めないということで、赤軍でなければよく、
以後共産党の軍隊は形式上国民革命軍に加わり、八路軍・新四軍となる。

汪兆銘が親日政府樹立を決意したのは南京陥落後でしょう。
周仏海・高宗武・董道寧らの対日工作を受けて重慶を脱出した。
ところがハノイまで出てきてみると、
近衛首相の声明から撤兵の2文字が抜けてしまっていた。
出た以上は戻ることもできず親日政府樹立となるが、
日本の撤兵方針を受けて作るはずだった政府が単なる傀儡となり、
中枢に加わるべき高宗武・陶希聖は日本の変節に怒って去った。
始めからボタンを掛け違った政府でした。

32 ::02/01/25 01:56
>31
赤化根絶決議の件、すみませんでした。
1937年2月21日の五期三中全会ですね。
僕の場合、中途半端な勉強しかしてなかったもので、こういうところでボロが出るんですよ。
情けない話ですが(もう一度、重要会議を確認して出直さないと・・・)。

高宗武・陶希聖の離脱も汪精衛にとっては大ダメージだったでしょうけど、
さらなる誤算は、雲南軍閥竜雲を筆頭とする西南軍閥が味方につかなかったことでしょうね。
この結果、無力な汪精衛に対して、日本側はほとんど信を置かなくなってしまった感じです。
まあ、スタートラインからして間違ってたから、この点はさほど問題では無いかも知れませんが。

33 :世界@名無史さん:02/01/25 12:07
タイトル見て思ったけど今の民国も親日政府だね。
少なくとも共産党の方よりかは。

34 :歴史教科書「中国近代現代史」:02/01/25 17:49
以下の既述の誤り、問題点を述べましょう。
「1935年12月9日、北平の国民党政府が日本の「華北特殊化」の要求をのみ、16日に「冀察政務委員会」を成立させると報じた。
16日、北平学聯は1万に上る学生たちを組織し、軍隊と警察の厳重な警戒を突破し、街に繰り出して華北自治に反対した。昼近くにデモ
隊は四方八方から天橋広場に集まった。工場労働者、農民、市民、東北の土地を失った同胞も参加した。天橋広場は旗の海となり、スロー
ガンの林となった。「漢奸売国奴を打倒せよ」「華北自治反対」のシュプレヒコールは春のつぼみのようにとどろき、大地を揺るがした。
「冀察政務委員会」の成立は延期せざるを得なかった。
 学生の愛国的行動は国民党の売国政策に打撃を与え、中国を併呑せんとする日本の陰謀を明るみに出した。中国共産党の「内戦を停止し、
一致団結して外敵に対抗しよう」という抗日救国の主張が喧伝され、中華民族の新しい目覚めを促したのである。「12・9」運動以降、
中国共産党は折に触れて革命的青年知識分子は必ず工場労働者、農民と互いに結び合う道を歩まねばならないと指摘した。北平と天津の学
生は宣伝隊を組織して南下し、工場、農村、軍隊を巡って抗日救国を広めた。全国の抗日救亡運動は新たな高まりをみせた。」

>「漢奸売国奴を打倒せよ」「華北自治反対」のシュプレヒコールは春のつぼみのようにとどろき、大地を揺るがした。
「冀察政務委員会」の成立は延期せざるを得なかった。ってホント?
 

35 ::02/01/25 22:28
>33
確かに、現在の民国政府(台湾)は親日と言えますね。
ただ歴史的に見て、民国政府の親日姿勢は冷戦体制の産物とも言えます。
同じく西側陣営に立っていた日本と対立するのを、敢えて抑えていたというのが正確なように思えます
(もちろん、単純にそれだけでは割り切れませんが)。
冷戦体制が崩壊した後も、大陸との対立関係が続く限り、おそらくは親日の姿勢も維持し続けるはずです。

>34
まず、事実関係の整理だけに留めることを御了承ください。

本文にもある通り、1935年12月9日、北平で学生による冀察政務委員会成立への抗議デモが起こりました。
9日のデモは宋哲元の部隊によって一時抑え込まれましたが、その後も学生たちはストやデモを続けています。
この時のスローガンには、「漢奸打倒」「華北自治反対」の他、「内戦停止」「一致抗日」などもありました。
その後、北平の学生デモに呼応する形で、武昌や杭州などでも同種のデモが起こっています。
ただ、冀察政務委員会は12月18日に正式に発足し、延期はわずか2日だけにとどまりました。

とはいえ、「一二・九運動」が、中国の全階層において抗日意識を昂揚させたことは確かです。

36 ::02/01/26 22:48
汪精衛政権の軍事力を「無力」と評しましたが、実際の汪の軍事体制について
ここで整理しておきます。

※軍事委員会
 軍事委員長−汪精衛
 陸軍部長−鮑文エツ<木+越>、海軍部長−任援道、航空署長−陳昌祖、
 参謀部長−楊揆一、軍事訓練部長−陳公博、政治訓練部長−鄭大章、
 調査統計部長−李士群、軍事参議院長−蕭叔萱、
 広州綏靖公署主任−陳耀祖、武漢綏靖公署主任−葉蓬、開封綏靖公署主任−劉郁芬、
 蘇豫辺区総司令−胡毓坤

※軍隊(約70〜80万人)
 第一集団軍総司令−李長江、第一方面軍総司令−任援道、第二方面軍総司令−孫良誠、
 第三方面軍総司令−ホウ<广+龍>炳勳、第四方面軍総司令−孫殿英、第五方面軍総司令−呉化文、
 第六方面軍総司令−カク<赤+「おおざと」>鵬挙

37 ::02/01/26 23:04
この軍事体制から見て言えることは、
まず第一に、指揮官たちの層の薄さです。
軍事委員会のメンバーを見ても、陳耀祖は汪精衛夫人陳璧君の実弟、陳昌祖も一族です。
鮑文エツは元東北軍の参謀で、劉郁芬や実戦指揮官たちは馮玉祥配下なのですが、
いずれもさほどの実力を持った人物ではありませんでした。

そして、第二に、元々汪精衛との関係が深かった人物が少ないのです。
陳公博や陳昌祖、陳耀祖などを除くと、ほとんどがいわゆる「外様」としか言えません。
しかも軍事委員会を構成するメンバーにしても、出身母体がバラバラすぎて、
互いの連繋が期待薄だったのです。

以上のような状態も、汪精衛政権の無力を生んだと言えるのでは無いでしょうか? 

38 :勲章好き:02/01/29 17:16
軍閥スレッドの方で、中華民国の勲章を集めていると言った者です。こっちも見に
来ました。

最近入手したのが、汪兆銘政権が発行していた「一級同光勲章」です。面白い事に
授与者の勲記まで付いています。
勲記には「大中華民国国民政府主席慈贈興」と書いてあり、名前(海軍少将です)
の後に「壱級同光勲章以表親睦之意」「大中華民国三十二年三月二九日令行、国民
政府主席汪兆銘 印」とあります。


39 ::02/01/30 23:46
>38
こちらにも書き込んで頂いてありがとうございます。

汪精衛政権の勲章は、蒋介石政権が発行していたものと比べると、
デザインなどには差があるのでしょうか?
汪精衛は国民党のエリートとしての矜持が強いから、
勲章のような権力の象徴を、いい加減な造りにするはずは無い・・・
などと素人的に考えるのですが? 

40 :勲章好き:02/01/31 07:27
>>39
どうも、お久しぶりです。
勲章のデザインは、結構派手で他の国の勲章にひけをとりません。日本の旭日章のよ
うに中央部分が赤七宝で、そこに金色の星がいくつか書かれています。
この星の数で等級が解るようになっているようです。
なお、この同光勲章は1級の上にもう1つ特級というのが存在します。これは元首ク
ラスに贈るための物のようで、東条首相の胸にも輝いています。

そのうち、判明分の中国勲章一覧を載せましょう。

41 :シーマ・ロシータ:02/01/31 18:16
黄文雄先生の新著「日中戦争の真実」を入手!読んでからカキコするぞ!

42 ::02/01/31 19:42
>40
一覧を載せていただけると、嬉しいですね。
御手数ですが、余裕がありましたらよろしく御願いします。
(そう言えばyahooオークションで、汪精衛政権の勲章が出品されてたような・・・?)

>41
はじめまして。色々とカキコして頂ければ幸いです。よろしく御願いします。

黄文雄氏と言えば、台湾では最近まで汪精衛への関心はそれほど多くなかったようです。
台湾で本格的に汪への研究が始まったのは、90年代前半とのことです。
他の「親日政府」についてはどうなんでしょうか・・・?
蒙彊聯合自治政府の研究などは、大陸でも探すのが難しいと言われてますし・・・。

43 :勲章好き:02/01/31 20:16
とりあえず、判明分の勲章を掲載します。

清王朝発行・・・・・・双龍勲章、黒龍勲章、利剣勲章

北洋軍閥政府発行・・・寶光嘉禾勲章、嘉禾勲章、文虎勲章、曹混大総統就任紀念章

南方軍閥発行・・・靖国軍1等紀念章

国民党政府発行
蒋介石政権・・・・雲摩勲章、寶鼎勲章、中山勲章、采玉勲章、国光勲章、青天白日勲章
         禮義廉恥章、空軍復興勲章

汪兆銘政権・・・・同光勲章、財政奨章、中華民國和平建國紀念章、紅十字会有効章

殷女耕政権・・・・冀東防共自治政府紀念章

王克敏政権・・・・中華民國臨時政府成立二周年紀念章

梁鴻志政権・・・・中華民國維新政府紀念章 

蒙古聯合自治政府 ・・蒙古聯合自治政府肇建功労章、武功章

こんなところでしょうか。中には私が所持している物もありますが、他のHPで存在を
知ったものや、文献から調べた物もあります。
詳しく書かれた資料もあるのですが、英語で書かれているため、元の勲章の名前が解ら
ない物も存在します。

   

44 :世界@名無史さん:02/01/31 20:19
汪精衛は少し前まで抗日を絶叫しており、特に親日ということはない。
ただ中国のゴロツキ軍隊は何べんやってもいくら米英独ソの支援受けて
いい武器を装備しても日本軍に連戦連敗だったからああなっただけ。

蒋介石の場合は更に抗日戦継続ということになったが、これは
大陸打通作戦でイチコロ。悪あがきはむしろ中国のほうだったんだ。

45 :世界@名無史さん:02/01/31 21:43
大陸打通作戦でイチコロね。
「持久戦論」ぶたれる理由もわかる気がするよ。

46 ::02/02/01 00:00
>43
わざわざありがとうございました!こんなに種類があるんですね?
汪精衛政権の勲章の存在については、以前から知っていましたが、
臨時政府・維新政府・冀東防共自治政府・蒙彊聯合自治政府もちゃんと勲章を出してたとは・・・。
勉強になります。本当にありがとうございます。

47 :歴史教科書「中国近代現代史」:02/02/01 00:15
「日本の侵略者は占領地の大量の耕地を強制的に占拠し、道路や封鎖用の塹壕や飛行場を造り、あるいは日本人移民に分配した。
日本軍は食料に対しては配給制を敷き、自由な輸送を禁じた。農村では慢性的に穀物が不足し餓死者があちこちで見られた。
 上海で日本が3年間に配給した食料は1年分に満たなかった。北平の住民が口にしたのは配給された大豆と木の皮と草の根など
でつくった配合粉であった。
 1937年から1945年に至るまで、日本は東北に移民24万人を送り出した。
 41年には日本が山海関以南に送り出した移民は70万人に達した。こうした移民の大部分は農業従事者であり、彼らの耕地や
住居は現地の農民から取り上げたものであった。日本が没収した農地は5万〜6万ムーに達した。日本の偽合弁会社「墾植公司」
は冀東沿岸の土地700万ムーを没収した。日本偽政権は穀物、綿花などの農作物を低廉な価格で買い上げたり、または直接略奪
したりした。上海偽政権が低価格で強制的に買い付けた糸や布の大部分は日本に運ばれた。華北各地の穀物の買い付け価格は一般
市場価格の半分に過ぎなかった。
 日本は占領区で壮丁、人夫を徴発して労働力を略奪した。華北地区だけで徴用された成人男子は600万人にのぼり、東北部な
どでの重労働に駆り出された。そのほか10万人以上の工場労働者と捕虜が日本に送られて強制労働させられ、その多くは虐殺さ
れた。」
*まだまだあるが気分が悪くなるので今回はここまで。最近幾らか小林英夫、川村湊に歴史の公平な評価を進めようという兆しが
見えてきたが、全くあいつら簡単に転ぶからなー(藁

48 :世界@名無史さん:02/02/01 00:25
小林英夫が47さんのいう「公平な評価」をするんだろうか、と思ったりしたが、
同名の別人がいるみたいだ。そっちの方かな?
それでも川村湊の評価が47さんにとって「公平」だとはなかなか思えないが。

49 :勲章好き:02/02/01 08:32
>46
名称、存在が解っているのがこれだけで、まだまだ中華民国発行の勲章は多数あり
ます。
例えば、私の所持している資料(外国の勲章解説本のコピー)には”GRAND ORDER”
とかかれた勲章が載っていますが、これは袁世凱しか佩用しているのを見た事がありません。
また、”ORDER OF MERIT”と書かれている勲章は段祺瑞から、張作霖まで高級
将官のほとんどが佩用しているのですが、これも訳しようがないため、本来の勲章名(漢字の
もの)が解らない状況です。
それと、地方政府発行の物では

湖北省政府・・・・紀念章(何佩容(容の右に王が付く)贈、何故か青天白日に写真入の青天
             白日、旧中華民国の五色旗の綬)

山西省政府・・・・閻錫山メダル(表に閻錫山の肖像、裏に”主張公道”と刻印。これと同じ
                刻印が柄にある国民党軍将校用短剣もあり)
         
         ??勲章(裏に刻印あるも勲章名は現在読めず、”総司令閻”とあるので
              間違いはなさそう)

とまあ、こんな所です。英語を日本語に訳すのは簡単ですが、中国語のどの単語になるのかと
いうと、さっぱり解りませんね。

50 :勲章好き:02/02/01 08:37
訂正
容の右に王→容の左に王、
何故か青天白日に写真入の青天白日→何故か中央に何佩容(?)の写真入青天白日に


51 :勲章好き:02/02/01 08:44
いかん、書き忘れた・・・・1さん、この湖北省政府の何佩容(容の右に王が付く)
とはどのような御人か、ご存知ありませんか?それが解れば、この紀念章発行の背景
が少しは解ると思うのですが・・・・

52 :世界@名無史さん:02/02/01 19:42
書店で41さんのおっしゃってた黄文雄氏の本を立ち読みしました。
日中戦争をネタに「『中国人は日本人に感謝せよ』が本書の主張」というのは
なかなか面白いですな。それにしても大多数の読者は日本人なんでしょうが。
それよりビックリしたのは彼は同時に3冊の本を出してるんですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/ref=s_b_rs/250-0992848-9669054
内容がかぶったりしないのだろうか?
(「中国人の精神病理」というのは、彼の常套句のようだが)
350ページで1300円というのは単純にお買い得ですな。
書物としてどうかは別にして。

53 ::02/02/01 19:55
>47
本文の各所の表現はさておくとして、華北・華中で行った「親日政府」(実質日本軍)の
経済政策が軍隊管理的な統制経済だったのは事実です。もちろん、日中合弁方式の企業設立
という手段も併用していますが、本質的な部分は日本主導でした。

>49-51
何佩<王+容>(1880〜1942?)
 湖北省出身。日本に留学して日本陸軍士官学校に在籍経験を持つ。
帰国後は北洋政府第二鎮に入隊し、辛亥革命後は湖北督軍王占元(直隷軍閥)の参謀長となり、
1919年11月に湖北省長に任命された(〜1920年8月)。1921年に王占元と共に失脚。
 その後、1939年に汪精衛政権に合流し、湖北省長に任命される。しかし、1942年に急死。
愛人に毒殺されたという。

・・・と、このような人物です。北洋政府と汪精衛政権の両方で湖北省のトップになっています。 

54 :世界@名無史さん:02/02/01 21:16
1さんはなんでそんなに詳しいんですか?
軍閥人名事典とかあるんでしょうか?

55 :勲章好き:02/02/01 21:29
>>53
1さんありがとうございます。そうするとこの湖北省政府紀念章、綬が維新政府等
の五色旗の模様そのものですので、おそらく汪兆銘政権合流前に発行したものなん
でしょう。

・・・私の所持しているコレクションの中に、張作霖の遺品が1つあります。
本人と一緒に写真に残っている物なので間違いは無いようです。
ただしボロボロですけど(笑)。どうやって日本に入ってきたんだろう・・・
戦前なのは間違いないのですが・・・・・。

56 :勲章好き:02/02/01 21:33
↑ネタではありませんからね(笑)。存在を知ってからこれを手に入れるまで
2年程かかりました。分割払いだったので(笑)

57 ::02/02/03 16:48
>54
僕が参照している辞典は、
・『民国職官年表』(中華書局、1995年)
・『中国国民党史大辞典』(安徽人民出版社、1993年)
・『中華民国知識詞典』(中国国際広播出版社、1992年)
などです。これらはいずれも中国で購入し、僕の手元にあります。
ただ、53の何佩ヨウについては、以上の工具書には記載が無かったため、
図書館で別の辞典から探し当てました。

>55-56
何佩ヨウの記述について少し訂正します。
何は1939年11月に維新政府から湖北省長に任命された後、
汪精衛の国民政府に合流すると、1940年10月に湖北省政府主席となっています。
ポジションの性質は、省のトップということで全く同じなのですが。
不正確な記述でしたので、お詫びします。

しかし、張作霖の遺品とはすごいですね・・・。
それは勲章なんですか?

58 :世界@名無史さん:02/02/04 01:17
雑誌「正論」3月号の連載記事「炎と疾風の記憶の中で」第五回は「蒋介石」です。
鬼才・福田和也氏が
「軍にしか基盤のなかった蒋介石の特殊性」
「孫文とコミンテルンの協同」
「国民党と共産党の対立のなかで」
「中国現代史の逆説としての蒋介石」
「なぜヤルタ、ポツダムに招かれなかったのか」
との見出しで蒋介石を鋭く論じております。(以下抜粋)
「軍を掌握した蒋介石の、汪兆銘らに対する圧倒的優位は、このクーデター(中山艦事
件)の成功によって、明白なものとなった。」
「今日にいたるまで、中国の愛国プロパガンダは、日本敵視によって構成されている。
それは、日本人であるからこその見方かもしれないが、彼らが一度も、戦うべき敵と戦
うことがなかった故の、自信のなさと慮りのいたらなさの故ではないかと思っている。」



59 :西国のアズマ帰依者:02/02/04 01:55
なんか極端すぎる意見だねえ。
福田にしてはつまらんな。

汪兆銘に対する圧倒的優位というのも、謎だし(蒋汪合作政権が生まれないよ)
愛国プロパガンダはそもそもイギリスに向けていたのが1920年代後半を
境に日本に向けられるのだし、軍にしか基盤がないというのも何だしなあ。

はっきりいって文学理論も同じなら失望だなあ。
畑が違うだけだと思いたいね

60 ::02/02/04 02:33
>60
福田氏の本文を読んでから本格的に論じたいのですが、
僕の意見も西国さんとほぼ同様ですね。
中山艦事件は、汪精衛らの武漢政府への牽制という意味合いもあったにしても、最大の標的は共産党です。
「愛国プロパガンダ」=「反日」はあまりにも一面的な見方ですし、
共産党や李宗仁らはもちろん、蒋介石にしても、決して日本相手に戦いを避けたわけでは無いです。

あと、41氏が紹介してくださった黄文雄氏の書ですが、
最初の部分で、日中戦争とはすなわち内戦だった、というようなことを主張してるのを見て、唖然としました。
(黄氏のこれまでの主張から、内容はある程度予想してはいましたが、ここまでとは・・・)
41氏には申し訳ないのですが、僕には受け入れがたい立場ですね。
ただ、各「親日政府」についてかなり詳しく取り上げている本であるのは事実です。

ところで、黄氏の本には引用資料が書いてなかったのですが、
冀東防共自治政府を「東洋のデンマーク」と表現したのは、誰か(あるいはどの資料か)
御存知の方はいませんか?

61 :世界@名無史さん:02/02/04 09:46
>>44
1937年7月31日、蒋介石は汪兆銘の「最後の関頭」演説を発表する。
狙いは、全国民に、両者の一致提携を印象づけることにあった。その「最後の関頭」
という演説は次のようであった。松本重治「上海時代」から引用する。
《すでに最後の関頭に至れば、絶大の決心と勇気をもって犠牲をなすべきである。
・・・・・・吾人が自己を供するのみにあらず、全国同胞を一斉に犠牲に供する
ことを意味する。(略)中国人の一人をも、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、
敵の手に渡さぬ決意である。(略)大小都市の論なく、これを灰燼に帰せ
しめねばならぬ。(略)一物も得させてはならない》

62 :勲章好き:02/02/04 19:55
>>57
何佩ヨウの詳細の追加ありがとうございます。この紀念章は1939年11月に維新政府
から湖北省長に任命された時の紀念章のようですね。
2〜3日しましたら、また勲章が1つ入る予定です。業者さんの説明だけでは(?)
ですので、実物を見ましたらまたここに書きます。

張作霖の遺品は勲章ではありません。本人がみごとな刺繍の大礼服を着用し、左右
に子供用軍服、オモチャの勲章を付けた息子(一人は学良だったと思いましたが)
写真の中に写っています。物の名前を書くと私がだれかばれてしまう可能性があり
ますので・・・・そのうちHPでも作って公開したいと考えています。

63 :世界@名無史さん:02/02/05 02:39
>>41
第三章 嘘と嫉妬で固めた近現代中国の対日批判
第三節 日中戦争は日本が中国を解放した闘いだった

P135
日本が中国内戦に介入し、各地方政府や汪精衛政府に荷担したことは事実である。
しかし、それは進出や侵略といえるものではなかった。
中国の「反日抗日」から「共同抗日」の、大同団結のための「共通の敵」となった。
そして日本は、中国の各派各系の共通の敵になることで、
中国人の同士討ちは一時的に下火となり、日中戦争が中国内戦を一時終結させ、
大同団結に貢献した。国共内戦の再燃は、共通の敵・日本が敗戦してからである。

P137
毛沢東が、日本軍国主義に感謝したことについての解読は、毛沢東の本意はどうであれ、
それを逆説的にとらえれば中国の近代化、近代民族主義の育成、中国統一に日本軍国主義が
貢献したのは事実ではないだろうか。

『つけあがるな中国人 うろたえるな日本人』徳間書店、2000年初版からです。
日本が中国の内戦を終わらせたと言っています。2年前と今では随分違ってますね。
汪精衛氏への評価の上昇と対応しているのでしょうか。
別板のしょうもない駄スレからのコピペですが、引用元にも一応あたって
確かめてみたら本当にこう述べられています。
ようするにこれは、彼にとって、フライングの歴史認識だったのでしょう。
日本を擁護し、中国を貶めるという、所与の価値判断を
正当化するための歴史研究である事が透けて見えますね。

64 :63:02/02/05 02:40
間違えました。>>60>>1さん宛です。

65 ::02/02/05 03:40
>61
その当時の汪精衛の抗日発言は、本心を隠しての物といった方が良いでしょう。
国民党指導部内の争いを表に出さないための、蒋・汪双方の配慮(妥協)では
無いでしょうか?

>62
こちらこそ、勲章について色々ありがとうございました。
勲章についても、あるいはそれ以外のことについても、今後もこのスレで書き込んで頂ければ幸いです。

>63
情報、ありがとうございます。黄文雄氏の著書はそれほど読んでなかったもので・・・。
それにしても、黄氏の日中戦争観の急変は、呆然自失とさせられますね。
どういう根拠や契機を経て、近著のような見方(日中戦争=中国国内の内戦)になったのか、知りたいものです。
この“転向”は、黄氏の思想がどうという以前の問題でしょう。

それから、汪精衛の再評価は、台湾よりも、むしろ大陸の方がドラスティックになりつつあります。
劉傑氏(『漢奸裁判』の著者)によると、政府や学界の公式見解は別としても、大陸のネット上では、
汪精衛の「漢奸」評価を問い直す意見が続々と現われてきているそうです。 

66 :世界@名無史さん:02/02/05 10:50
>その当時の汪精衛の抗日発言は、本心を隠しての物といった方が良いでしょう。

いや西安事件の後、中国は一致団結抗日戦をやることに決まっており、
汪精衛もそれに合わせるのは当たり前。親日政権は当事者の親日感情
の現れでは無くて、中国が根本的に抗日戦継続が困難になったから。
汪・蒋団結の初期の中国軍はそれなりに強かったが、その後はずっと連敗。

67 :シーマ・ロシータ:02/02/06 01:56
>41
なんだか僕がカキコする前から盛り上がっていますね。
題名間違い「日中戦争知られざる真実」でした。多謝。
まずでかいテーマからいくと
P.291「孫文ですら共鳴していた大東亜共栄圏構想」
P.293「大東亜共栄圏と社会主義革命、どちらが人類に有益だったか?」
が一つの論点でしょう。別スレを立てて論じても良いですが。
本スレ関連では
P.310「日本軍支配地(リン陥地区)は治安・経済ともに安定していた」が、
重要な論点でしょう。
そして黄文雄氏の結論は
P.331「日中戦争を通じ、日本は危害を加えたというより、むしろその近代的
な統一と発展に対し大きな貢献をしていた。中国のインフラ建設をはじめ、財政、
金融の安定をはかった。また医療衛生、文化教育などざまざまな分野でも力を注い
でいた。このような誰もあえて口に出さない事実を、私は第七章と第八章を中心に
紹介した。
もしあの戦争がなかったら、中国の内戦は今日でも続いていたと断言できる。」
であって、
>中国人の同士討ちは一時的に下火となり、日中戦争が中国内戦を一時終結させ、
>大同団結に貢献した。国共内戦の再燃は、共通の敵・日本が敗戦してからである。
という前掲書の結論と完全に矛盾する物ではないように思いますが?

68 :西国のアズマ帰依者:02/02/06 02:18
最後の関頭演説は1937年7月演説が有名だけど、
1937年2月の国民党大会で「最後の関頭にこない限り、中国は自重する」
ことを述べてるんだよね、蒋介石。>>66

>>67
喧嘩売ってるの?(藁)

>P.291「孫文ですら共鳴していた大東亜共栄圏構想」

孫文は1925年に死んでるのに、1941年の構想にどう賛成できるんだ(藁)
アジア主義かなんかの間違いだろ?(それでも日本のやつとは全然違うが)

>P.310「日本軍支配地(リン陥地区)は治安・経済ともに安定していた」

国民党支配地域の法幣より、日本支配地域のインフレ率がひどくて崩壊状態だが。
占領地通貨研究がどれも言及しとるぞ。

>P.331日中戦争を通じ、日本は危害を加えたというより、むしろその近代的
>な統一と発展に対し大きな貢献をしていた。中国のインフラ建設をはじめ、財政、
>金融の安定をはかった。また医療衛生、文化教育などざまざまな分野でも力を注い
>でいた。

そんなことやる力はありません。

69 :1改め「靡莫」:02/02/06 07:45
軍閥スレでも書いていますが、今後、僕はHNとして「靡莫(びばく)」を
名乗ることにしました。
面倒に思われる方は、これまで通り「1」と呼んでくださって結構ですので、
今後とも宜しく御願いします。

>67
シーマ・ロシータさん、書き込み、ありがとうございました。
黄氏の著書について、先行して色々と論じていたことについては、お詫びします。

>P.331「日中戦争を通じ、日本は危害を加えたというより、むしろその近代的
>な統一と発展に対し大きな貢献をしていた。中国のインフラ建設をはじめ、財政、
>金融の安定をはかった。また医療衛生、文化教育などざまざまな分野でも力を注い
>でいた。このような誰もあえて口に出さない事実を、私は第七章と第八章を中心に紹介した。
>もしあの戦争がなかったら、中国の内戦は今日でも続いていたと断言できる。」

経済状態について西国さんが触れていますが、
文化教育事業についても、汪精衛政権は方針についてかなり難儀を抱えていました。
教化の方針は儒教的な色合いが濃厚になり、思想的にも乏しいという批判が、
当時の日本人からも出ていたほどです。

>前掲書の結論と完全に矛盾する物ではないように思いますが?

『つけあがるな・・・』では日本(及び「親日政府」)を中国の外側のファクターとして置いてあることが、
『日中戦争の真実』と比べて、僕には相当な矛盾に思えるのです。
黄氏の思想基盤については、それほど変更が無いと思います。
この点については、後で、自分の考えをもう一度整理してから書き込みます。 

70 :世界史@名無しさん:02/02/06 10:21
自分と異なる見方を新しい視点として楽しむ余裕を
持とう。反論があったら論理で、反対しよう。


71 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

72 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

73 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

74 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

75 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

76 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

77 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

78 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

79 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

80 :勲章好き:02/02/06 18:31
>>71〜>>79
荒しは止めて欲しいですね・・・・・・

>靡莫様
ここの57で書いた、中華民国の勲章が1つ入りました。
表には”興亜”の2文字と高粱の図案、裏には”中華民国楽亭縣恢復功労章”
”民国二八年”とあり、何佩ヨウの紀念章と同じ綬(リボン)が付いています。
材質は銀で、結構よい造りです。
これも梁鴻志の率いる維新政府発行勲章の可能性がありますね。

81 :靡莫:02/02/06 23:37
しばらくはsage進行に切り替えますので、皆様、御了承願います。

>70
あるいは僕に対する批判かも知れませんので、敢えてここで自分の考えを述べておきます。

僕は、自分と全く異なる考えの方が書き込まれても、追い出したり、あるいは論破したり
するつもりはありません(“荒らし”でない限り)。論争をすることはあるかも知れませんが。
ここは、それぞれが自らの知識を持ち寄り、そして議論することで知識を高め合う場にしたい、と考えています。
もちろん、僕は万能では無いので、時には誤った考えに偏執することもあるでしょう。
その時は厳しい批判を、遠慮なく浴びせてください。

>80
書き込んでいただき、ありがとうございます。
楽亭は河北省の県の1つですから、そこでの戦功で与えたものなんでしょう。
民国28年=1939年ですから、そこを治めていたのは維新政府の河北省公署です。
河北省公署は1938年11月に天津で成立し、
1939年の公署の責任者は、6月までが高凌イ(雨+尉)、それ以降が呉賛周という人物です。

82 :黄文雄ウォッチャー:02/02/07 10:05
黄文雄氏は
また大日本帝国をかばう為に
日本軍の「悪行」は実は
その多くが親日政権内の悪質分子だったと
その内、言い出すんではないでしょうかね。
この主張は一理あるとも思いますが(笑。

>>67
下から5行目
>>もしあの戦争がなかったら、中国の内戦は今日でも続いていたと断言できる。
黄文雄氏と違い、私は自分の歴史観への確信が薄いので
歴史に「もし」を持ち込んだ上で、断言するなど滅多にできません。
ただほぼ間違いないと思うのは、もしあの戦争(日中戦争)がなければ、
ソ連にも見捨てられた中国共産党を中国国民党が攻め滅ぼしていたことですね。
スターリンは自国の利益を
外国の共産党(出先機関扱いされていた)の存廃より優先する
一国社会主義路線を歩んでいましたから。




83 :黄文雄ウォッチャー:02/02/07 10:08
>>81
すいません、sage忘れました。
以後、カキコする時には気を付けます。

84 :世界@名無史さん:02/02/07 13:07
>>81
黄さんは、国民党や共産党への
憎しみのあまり、
優れた知性の持ち主ながら
高校生までに受けた中国人教師の
洗脳教育の型に嵌ったまま、
中国叩きを繰り返す気の毒な人ですね。
漏れはそんな所に台湾人の悲哀を
感じてしまうんですよ。

85 :世界@名無史さん:02/02/07 16:31
日本陸軍は中国軍には連戦連勝、大陸打通3千キロ。

あれが中国側の「戦略的勝利」であったとすれば、それはゴロツキの集団
が金だけ奪ってトンズラできて大成功であったという意味に他ならない。

86 :@名無しさん:02/02/07 18:37
>>80 >>81
 新しい勲章に関する考え
1939年8月に南京で梁鴻志、汪精衛、王克敏会談で
臨時政府と維新政府合併が決まっています。
回復とは、河北が本来の南京中華民国の所属にもどるという
意味でないでしょうか?維新政府所属の各県の長に勲章を
授与したと愚考してみました。
 展開社 昭和の記念館シリーズ 「満州事変と支那事変」に
 維新政府の写真が沢山あります。本屋で立ち読みででも
 ご覧ください。

87 :敢闘軍:02/02/07 18:51
>日本陸軍は中国軍には連戦連勝、大陸打通3千キロ

【大本営発表 第669号】 昭和十九年十一月十一日十七時三十分

 大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ支那派遣軍総司令官及支那方面艦隊司令長官
に対し次の勅語を賜はりたり
           勅語
 中支那方面に作戦せる軍の将兵は約半歳に亘り至難なる機動作戦を敢行し「章萬」(病だれ付)
 を冒し難苦に耐へ随処に在支米空軍の根拠を撃砕して克く作戦目的を達成し以て全局の作戦に
 寄与せり
 朕深く之を嘉尚す

 

88 :靡莫:02/02/07 19:04
>82-84
僕の黄文雄氏に対する考えは、これまでのレスにある通りです。
僕自身、黄氏の思想にはほとんど賛成できませんが、
ここは黄氏について論評するスレでは無いので、今後は必要以上に黄氏個人を論じるのは
できるだけ控えるようお願いします。

『日中戦争の真実』は、各「親日政府」についてかなり網羅的に叙述しているので、
その点では評価できると思います(立ち読み程度なので、細かい部分については良く検討してませんが)。
一般書では難しいのかもしれませんが、もう少し引用元について、詳しく書いてあればなお良かったのですが。

>86
うーん・・・。正式に合併が行われたのは1940年3月ですし、
それまでは臨時政府、維新政府のいずれもが中華民国を名乗ってましたからね。
勲章の詳細が分からないので何とも言えませんが、やはり武力で楽亭を占領(あるいは奪回)した
功績じゃないかな、って思うのですが?
違ってたら、すみません。

本の紹介、ありがとうございます。

89 :世界@名無史さん:02/02/07 19:54
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30882300
 一四日(午後三時発信)、岡村大将はふたたび「百万の精鋭健在
の儘敗戦の重慶軍に無条件降伏するが如きは如何なる場合にも
絶対に承服し得ざるところ」と、電報した。同時に岡村大将は参謀
長を通じて天皇に対しても上奏し(午後十時二十五分発信)、
「外電の伝うるが如き屈辱的平和は光栄輝く帝国を邁進すべく
御聖断あらんことを伏して祈り上げ奉る」と言上した。

90 :世界@名無史さん:02/02/08 01:45
579 名前:西国のアズマ帰依者 投稿日:02/01/28 21:44
天皇は東国の敵。
天皇は故郷の半島にお帰りいただいて、
東国の自治を達成することが我々の望み


91 :世界@名無史さん:02/02/08 01:47
796 名前:西国のアズマ帰依者 投稿日:02/02/01 23:39
同感、ロボット天皇制賛成。
ロボットなら食べ物はいらないし、即位式は一度挙げれば済む。
なによりも、改良ができるのがよい

…ゴウザウラーの機械化獣やオーレンジャーを思い出して笑ってしまった(笑)


92 :アジアの力:02/02/08 19:06
>86
間違い!
X展開社
○展転社
 HPはhttp://www.znet.or.jp/~tenden/です。

93 :世界@名無史さん:02/02/08 19:09
国敗れ 故郷の街は 焼かれども

打通魂 未だ消えまじ

94 :靡莫:02/02/08 22:13
>92
展転社のHPの紹介、ありがとうございます。

そのHPにあった書籍を見て思ったのですが、
繆斌(あるいは彼の行った工作)については、皆さんはどう思いますか?

劉傑『漢奸裁判』では、蒋介石の対日和平工作の証拠隠滅のために、
繆は真っ先に処刑されたのではないか、という推測を提示しています。
僕も、繆斌を単純に「漢奸」と決め付けることには疑問を覚えるのですが・・・? 

95 :勲章好き:02/02/09 17:13
>靡莫様

上の80で書きました、 中華民国楽亭縣恢復功労章ですが業者さんの話では私の所持
している汪兆銘政権発行、一級同光勲章と同じ方(旧日本海軍の少将)の物だそうです。
なんでも楽亭縣だけ別の所に置いていたので、うっかり忘れていたそうで。
そうすると、海軍少将ですので戦功勲章ではなく、86さんの書かれているような勲章
なのかもしれません。
ちなみに北洋政府発行の三等文虎勲章もあったそうですが、残念ながらこの品のみ手に
入りませんでした。

・・・今だから書きますが、YAHOO!に以前出ていたという汪兆銘政権の勲章出品
していたのは私です(笑)。一級が手に入りましたので、財政上の理由もあって三級を
手放したしたのです。

96 :靡莫:02/02/09 23:40
>95
そうでしたか。
海軍少将にそのような勲章を戦功として与えるのは、確かに考えにくいですね。
あるいは、軍事顧問として戦争に参加したからとか・・・って自説にこだわりすぎですかね(w

ヤフオクの出品、勲章好きさんだったんですか。
あの三級勲章、かなり立派なものだなと思って見てたんですけど。
一級はもっと豪華なんでしょうね?(我ながら興味がすごい低俗・・・)

97 :勲章好き:02/02/10 08:58
>>96
一級もかなり豪華ですね。一級の本章(肩から斜めに吊るす綬に吊ってある物)と三級
の本章、造りは同じです。箱は日本のように漆塗りではなく、表面に唐草や鶴の模様が
織り込まれた布で包まれ、赤絹に金文字で”一級同光勲章”とあります。
ちなみに同光勲章は中央部の赤七宝に金星が描かれていますが、この数によって等級を
見分けます。一級では九個、最上級の特級では大きな星1個です。

98 :世界@名無史さん:02/02/11 12:52
age

99 :GEACS プロジェクト:02/02/12 00:14
中華民国海軍巡洋艦「寧海」「平海」は、帝国海軍籍に入る前に南京政府海軍籍にあったのでしょうか?
また南京政府海軍について教えてください。

100 :世界@名無史さん:02/02/12 14:39
中国側が抗日戦継続をあくまで「戦略的勝利だった」と言い張るならば、それは
ゴロツキの集団が金だけ奪ってトンズラして大成功であったと白状したことになる。
何しろ大陸打通3千キロにもわたっての国土・住民を放棄してしまったのだから。

101 :正義の枢軸:02/02/12 17:00
【戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言】
大日本帝国政府及び中華民国国民政府は両国緊密に協力して米英両国に対する共同の戦争を完遂し
大東亜に於いて道義に基く新秩序を建設し惹て世界全般の公正なる新秩序の将来に貢献せんことを
希望し左の通宣言す
 大日本帝国及中華民国は米国及英国に対する共同の戦争を完遂する為不動の決意と信念とを以て
軍事上、政治上及経済上完全なる協力を為す
(昭和十八年一月九日即ち中華民国三十二年一月九日南京に於いて/朝日新聞・夕刊 昭和十八年
一月十日付より)

【中国・米英に宣戦布告】
宣 戦 布 告 文
一昨年十二月八日大東亜戦争勃発するや国民政府は日華基本関係条約の精神にもとづき友邦日本と
同甘共苦を決意せる旨声明し爾来新国民運動に着手し治安の保障、民生の改善をはかりもって国力
を増強し大東亜戦争の完遂に協力せんことを期せり、然るに米英等の国は依然百年以来の東亜分裂
政策を踏襲しかつますますこれを強化してついに重慶側の分子を誘拐し、いわゆる米英戦線に参加
せしめ、ビルマ、印度に出兵して東亜人をもって東亜人を惨殺せしむるに至れり、最近その謀略は
すでに友邦日本の陸海空軍に撃破せられ東亜侵略の拠点またすでに喪失せるも彼らはますますその
陰謀を逞しうしかつ国民政府の和平発展を嫉視し、重慶側分子を使族して絶えず侵入撹乱せしめ以
て各種建設の進捗を阻害し、さらに重慶側を根拠地として直接自国の飛行機を用い我が武漢、広東
などに対してしばしば爆撃を行い民衆を損傷しつつあり、重慶側分子が甘んじて米英の頤使を受け
自から東亜の反逆者となれるは固より恥ずべきところなるも英米が東亜に対して深く野心を包蔵し
あらゆる強圧離間の手段を尽し以てその最後の併呑の野望を遂げんと図りつつあるは東亜民族のひ
としく同仇敵愾措く能わざるところなり
ここに中華民国国民政府は今日より英米に対し戦争状態に入れることを宣す、当に全力を尽して友
邦日本と協力し米英の暴力を一掃し以て中国の復興、東亜の解放を図るべし、満洲、タイ両国は夙
に友好を敦うし東亜の共栄に対してはとくにその志を同じうす、爾後まさにますます両国との提携
を図り以て道義にもとづく東亜新秩序の建設に邁進すべし
ドイツ、イタリアの諸盟邦は数年以来欧州において米英勢力と相戦いしばしば勝利の光栄を得たり、
わが国は今ここに大東亜戦争に参加したるをもってまさに世界全体の公正なる新秩序に対し貢献す
るところあらんとす
我が国民は今や国父の大亜洲主義を実現する唯一の機会到来せることを覚り中華民国の復興と大東
亜の建設と世界全般の正義和平の獲得はすべてこの一挙に繋がるを認識し、一徳一心終始戮力をも
ってこの偉大なる時代の偉大なる使命を貫徹せんことを期すべし
(朝日新聞・夕刊 昭和十八年一月十日付より)



102 :世界@名無史さん:02/02/12 17:42
>>98-99
age るとこのように打通太郎が荒らしてしまうので、sage 進行でいきましょう。

103 :世界@名無史さん:02/02/12 22:15
何はともあれ、こっちも100超えましたね。
おめでとうございます。


104 :靡莫:02/02/12 22:58
>98
102さんの仰るとおり、sage進行の方、よろしく御願いします。

さてご質問の件ですが、僕はそれほど軍事学・軍事史について詳しくないので、
申し訳ありませんが、ご期待に添えるような回答は出来ないかと思います。
特に、南京政府(汪精衛政権のことですよね?)海軍の艦隊構成については、
今のところ僕のほうでは資料が見つかってないので、今回は御容赦ください。
(どなたか、適切な資料を提示できましたらよろしく御願いします)
僕の方では、汪精衛政権の海軍部と海軍教育について、以下で少し説明します。

105 :靡莫:02/02/12 23:19
@海軍部

 汪精衛政権の海軍部は、南京国民政府の成立(1940年3月)と同時に設立されて
いますが、最初は汪精衛が海軍部長を兼任しています。これは、海軍部長の人選に
ついて極めて難航したためであり、日本海軍と海軍聯誼社(汪精衛政権の海軍軍官
のグループ)とで推薦した人物は何人かいましたが、様々な理由で就任することが
出来ませんでした。
 その結果、1940年5月に任援道という人物が海軍部長に代理として就任しましたが、
この人は陸軍の第一方面軍総司令であり、海戦の知識にはそれほど長じていなかったようです。
結局、その後も適任者は見つからず、1942年9月に任援道は正式に海軍部長となりました。
1944年11月に凌霄という人物が代理の海軍部長となり、翌年1月に正式に部長に就任しています
(1940年当時、蒋介石政権で海軍上校だった人です)。

いずれにしても汪精衛政権は、海軍の首脳部を構成する人材が、相当不足していたことが覗えます。 

106 :靡莫 :02/02/12 23:34
A海軍教育

海軍教育機関も汪精衛政権成立と同時に設立されています。教育機関としては、
海軍学校(所在地は上海、校長は1940〜42年任援道、1943〜45年姜西園)、
海軍士兵訓練所があります。
校則や教育方法については、日本海軍士官学校に倣い、日本海軍から教官を招聘
しています。
生徒の訓練期間は3年で、訓練終了後、汪精衛政権の練習艦「海興」か、日本海軍
の艦艇で6ヶ月間の実習を積んでから、初めて正式に軍官に任命されました。

とりあえず、こんなところです。期待してた回答と違いましたら、スミマセン。
2隻の艦艇については、もう少し調べてから書き込みますので、
今日のところはお待ちください。

>103
ありがとうございます。
民国軍閥スレと違って波乱万丈(wですが、頑張っていきますので、
今後ともよろしく御願いします。

107 :GEACS プロジェクト:02/02/13 19:47
>104〜106
私は「打通太郎」ではありません。
貴重な情報ありがとう御座います。

108 :靡莫:02/02/13 22:54
>107
“荒らし”では無いことは承知していますので、御安心ください。
これからも書き込んで頂ければ幸いです。
(一応、“荒らし”への対策としてsage進行していますが、
僕の方で、適当なタイミングにageます)

残っていた御質問の巡洋艦「寧海」、「平海」についてですが、
残念ながら汪精衛政権の海軍籍になったかどうかについては、
資料では把握できませんでした。
もし、新しい資料が出てきたら、書き込みます。お役に立てず、申し訳ありません。

109 :勲章好き:02/02/17 21:31
>>99

”平海”ですが、こちらは戦利艦となって捕獲されていましたが昭和18年に日本海軍
海防艦として利用される事となり、大改装のうえ”八十島(やそじま)”と改名されま
した。その後昭和19年9月に軽巡洋艦に転籍となり、最後はフィリピンのリンガエン
湾にてアメリカ軍の空襲により昭和19年1月25日、沈没しました。
”寧海”も同じく改装され海防艦”五百島”となりましたが、こちらは巡洋艦となる前
に撃沈されたそうです(詳細は解りません)。

>靡莫様

勲章ではありませんが、中華民国の壁飾り(?)を手に入れました。
赤絹に黒の縁で、中央に大きく”輝(?)被民衆”とあり、他には”秋山隊長榮陞紀念”
”臨晋縣警察府官警恭頌””中華民国三十年五月吉日”とあります。
どうも日本軍の秋山という隊長が昇進したか何かのお祝いとして造られた物のようです。

110 :勲章好き:02/02/17 21:36
>>109
訂正します。昭和19年1月25日→昭和20年1月25日

111 :靡莫:02/02/17 23:04
>109-110
勲章好きさん、僕の代わりに質問に答えていただき、ありがとうございました。
民国の巡洋艦がそのまま日本海軍に利用されていたなんて、初めて知りました。
勉強になります。

中華民国30年ということは、汪精衛政権時のものですよね?
それは公的な贈答物なのでしょうか?

112 :勲章好き:02/02/17 23:28
>靡莫様

いえ、検定印等なにもありませんので、臨晋縣の警察署員達が私的に贈った物だと
思います。この品は由来がまったく不明なので、書いてある事以外はよく解りませ
ん。

>民国の巡洋艦がそのまま日本海軍に利用

結構旧軍では捕獲した外国の軍艦を使用していますよ。たとえば日清戦争時に捕獲
した戦艦”定遠(鎮遠でしたっけ?)”はそのまま戦艦として連合艦隊で使用され
日露戦争では日本海海戦にも参加しています。
また、WW2においてドイツ降伏時に接収したUボートはイ501〜506として
(このうちイ503、504はイタリア潜水艦!)使用されています。
そういえば、終戦時残存していた海軍の駆逐艦”雪風”は中華民国に賠償艦として
引き渡され、長らく使われていましたね。

113 :世界@名無史さん:02/02/19 05:39
>67あたりにあった孫文が共鳴した大アジア主義云々って
平野義太郎『大アジア主義の歴史的基礎』が元ネタじゃないですかね。
竹内好が猛烈に批判しとりますが。

114 :靡莫:02/02/19 23:45
(定期ageも兼ねます)

>113
確かにそのようですね。
同書の緒言において、平野は「アジア復興の起点は実に日本であった」ことを
孫中山も認めている、と切り出しています。

孫中山が、日本のアジアにおける役割・貢献について高く評価しているのは事実です。
日露戦争の勝利がアジア諸国に独立の希望をもたらし、またその富国強兵政策を模範とすべきである、
といった趣旨の発言を行っています。

しかし、孫中山は日本に対して中国との対等な関係による提携を求めています。
孫中山の「大アジア主義」が、民族間の平等を基調としたものだったからです。
特にこの点において、例えば平野が唱えたような、
日本(民族)の指導性・優越性を強調した「大東亜共栄圏」思想とは、
全く異なるのです。

孫中山の「大アジア主義」については、
『革命家孫文』(中公新書)の181〜185ページが参考になります。

115 :靡莫:02/02/21 22:09
ageついでに、こちらでも人物の紹介をします。

任援道(1890−?)
 江蘇省宜興出身。保定軍官学校出身で、辛亥革命には革命派に加わる。
 1935年に冀察政務委員会の外交委員に任じられ、その後は維新政府に移って、
綏靖部部長に任命された。維新政府に所属している間に、浙江・安徽において
自らの軍隊を形成、強化している。
 1940年、汪精衛政権に参加し、蘇浙皖三省綏靖軍総司令、第一方面軍総司令、
海軍部部長、江蘇省長などの要職を歴任。日本軍の敗戦が濃厚になると、重慶
の蒋介石と暗に連絡をとった。抗日戦後、蒋から南京先遣軍第一路総司令に任命
され、南京周辺の治安維持を委ねられる。
 国共内戦後、香港を経由してカナダへ逃れ、1960年代に死亡(詳細な没年不明)。

116 :西国のアズマ帰依者:02/02/22 01:40
平野義太郎は結局マルキストからアジア主義に走っちゃうんだよな

117 :靡莫:02/02/22 02:08
>116
平野義太郎に限らず、マルキストからの転向者は概ねその道を歩んでしまった、
と言うべきでしょうか・・・?
マルキスト以外では、橘樸のようなリベラリストも満州事変後はアジア主義へ
大きく傾斜してますし・・・(平野ほどの日本民族優越観は無いですが)。

118 :靡莫:02/02/24 19:51
人物紹介です。

劉郁芬(1886-1943)
 河北省清苑出身。保定陸軍速成学校歩兵科卒業。北洋軍閥直隷系に配属
されて馮玉祥配下となり、後に馮配下の「五虎将」の1人に数え上げられた。
 1924年に国民軍師長、1926年に駐甘軍総司令、1927年には綏遠都統や
甘粛省政府主席などの要職に就く。1930年の中原大戦で馮玉祥が敗れると
蒋介石に降伏し、1931年に陝甘青寧四省剿匪総司令に任じられた。
 1940年、汪精衛の招聘に応じて南京政権に参加。開封綏靖公署主任、
陸軍総参謀長などの要職を歴任した。1943年、北京にて病没。享年58歳。

119 :シーマ・ロシータ:02/02/24 20:32
影佐禎昭・著「影佐機関秘録」より(特集「文藝春秋 日本陸海軍の総決算」
昭和30年12月5日発行収録)
「…要するに汪氏の意図するところは和平政府を樹立し、日本との間に提携の活見本をつくることによって、
重慶政府及び一般民衆に対し、和平論は決して根拠のないものではないことを事実によって証明し、それによ
って重慶政府を和平論に誘導し、これと相携えて日本との全面和平提携をもたらそうというのである。
 従って汪氏の新政権樹立によって一時的には重慶政権と対蹠的になり、中国は和平と抗戦の二陣営に分離す
るが、究極には合体するものであり、又合体せねば全面和平はできるものではないと確信している。
 これが汪氏の運動の指導原理である。」
 「われは苦難の道を行く…さらば昴よ」ですね。汪兆銘先生万歳!!


120 :靡莫:02/02/24 21:58
>119
すでに>31さんが触れていますが、
汪精衛(汪兆銘)はそれだけの悲愴な決意を抱いていたにも関わらず、
日本側は彼の「和平」の思いを踏みにじる真似を行っているんですよ。
汪精衛の「和平」は「日本軍の撤兵」こそが切り離せないものだったのに、
それは反古にされ、単なる「傀儡」へと汪は転落していくのです。

汪精衛は影佐禎昭に対し、
「売国奴、漢奸と攻撃されても、和平に向かって邁進する覚悟である」
と語ったそうですが(劉傑『漢奸裁判』81頁。
原典はシーマ・ロシータさんの提示した「影佐機関秘録」かも知れません)、
現実の状況から見ると、この言葉から異質の響きが聞き取れるはずです。

121 :シーマ・ロシータ:02/02/24 22:09
そうは言っても、日本軍あっての南京政府だったのであり、日本が降伏したら
後ろ盾を失って崩壊せざるを得なかったのではないのですか?

122 :靡莫:02/02/24 22:34
>121
それは仰る通りだと思います。
結局、汪精衛の「和平」も日本側の意思次第だったのですし、
南京政府樹立も、日本軍が無かったら有り得なかったと言うべきでしょう。

ただ、汪精衛は「和平工作」中に、西南の各軍閥(雲南軍閥竜雲など)への
協力要請を行っています。
目的は、汪自身が日本軍以外に固有の武力を持とうとしたためですが、
結局、彼らには協力を断られています。
南京政府樹立後も、汪は懸命に独自の軍を擁しようと努力しましたが、
日本軍にも国民政府軍にも共産党軍にも及ばない、水準の低い軍隊しか組織できませんでした。

123 :世界@名無史さん:02/02/25 14:44
中国軍には連戦連勝,大陸打通3千キロ。

ゴロツキの集団は正義の鉄拳で打ち砕かれた。

124 :世界@名無史さん:02/02/25 16:38
>>120
日本としては反日的国府と共産党を妥当しない限り
安易な撤兵はできなかった。
反古というのはオカシイな。

125 :靡莫:02/02/25 19:33
>124
詳しくは、劉傑『漢奸裁判』(中公新書)の第二章を御覧になって頂きたいのですが、
1938年11月、上海において、汪精衛側と日本側との政権樹立計画の予備交渉が行われ、
そこでは、「内蒙以外の地」から2年以内に日本軍は撤兵を完了する、という条件が盛り込まれています。
しかし、その後の交渉の間に「撤兵」は次第に後退し、消え失せていったのです。
この点を、僕は「反古」と表現しました。

ただ、日本側が「安易な撤兵ができなかった」という点には、僕もおおむね同意です。
現実に日本を撤兵させるだけの方策や実力を有していなかったにも関わらず、
ひたすら「和平」の推進に走った汪精衛らの戦略は、
やはり甘かったと言わざるを得ないと思います。

126 :勲章好き:02/02/25 19:37
>靡莫様

私の場合、汪兆銘は理想に走りすぎていたのではないかと考えています。南京政府
だけではありませんが、彼の行動を見ているとそう見えてくるもので・・・・。
革命家としては良かったのかもしれませんが、政治家としては良くて及第点ではな
いでしょうか?

そういえば、何かの本で読んだのですが旧軍が呉佩浮(ふが出ない)を担ぎ出そう
とした時、彼も日本軍の中国全土からの撤兵を要求したそうですね。

127 :靡莫:02/02/25 19:58
>126
汪精衛はスマートな知識人というイメージが強いでしょうが、実はかなりの激情家なんですよね。
辛亥革命直前には、清朝の摂政王を暗殺しようとして捕まったりしてますし。
きわめて優れた知性を持っていながらも、現実の行動では確かに先走るようなところが多い人でした。
「和平工作」の際、高宗武や陶希聖といった主力メンバーの離反を招いたのも、
汪のこの性格が一因とも言えます。

呉佩孚については、1938年に二度にわたって日本軍から親日政府の指導者になるよう
要請されましたが、結局これを拒絶しています。
一応日本との間に交渉は持ちましたが、呉はもともと抗日意識が強かったので、
自分が「漢奸」にならないための条件(撤兵など)では一歩も退かなかったのです。
ちなみに、呉佩孚は1939年12月に病死していますが、
日本軍による暗殺説も依然として根強いです。

128 :勲章好き:02/02/26 07:33
>>127

私の読んだ本では、呉佩孚が日本人歯科医の治療を受けた後に亡くなったので、暗殺
されたのではないか、と言われるようになったと書かれていました。
日本との交渉決裂後、独自の兵力を持つべく動き始めていたとも言われていますが・・。
私は政治家としての彼を結構尊敬してるのですが・・・・。あと張作霖の行動力も。

129 :靡莫:02/02/27 07:36
>128
呉佩孚、張作霖ともに、現在の大陸では評価が低いですが、
彼らも決して“売国的”な人物では無かったですからね。

呉佩孚は、思想的には古い儒教的観念の持ち主でしたが、
一般に言われているほどの無知蒙昧な軍人政治家ではありません。
列強(ソ連含む)は呉の軍隊がとても規律が取れているのを見て、
中国の新たな指導者として見なした時期もありました。

張作霖は一般に「親日軍閥」とされていますが、
実際は極めて強烈なナショナリストであり、日本に対しても簡単に譲歩しない
意思を持ち、またそれを可能にする交渉能力ももっていました。

この2人については、いずれ軍閥スレの方で、詳しく触れたいと思っています。

130 :靡莫:02/02/28 23:50
直隷派の指導者だった頃の呉佩孚については、軍閥スレで触れようと思いますが、
ここでは呉に対する日本の「和平工作」について書き込みます。

日本は北平に王克敏の中華民国臨時政府、南京に梁鴻志の中華民国維新政府を成立させましたが、
現状では、蒋介石政権に対抗できるほどの力を持っていませんでした。
そこで、1938年6月から、土肥原賢二中将が新たな「和平」工作(「鳥工作」)に動くことになりました。
声望のある有力政治家を指導者に起用し、弱体な臨時政府・維新政府を強化しようとしたのです。
その有力政治家として目されていたのは、唐紹儀・キン(革+斤)雲鵬・呉佩孚でした。

唐紹儀に対する土肥原の工作は比較的順調で、唐も「和平」に応じるかと思われましたが、
その動きを察知した蒋介石が、唐を1938年9月に暗殺しました。
キン雲鵬に対する工作は、結局キンが再び軍政の舞台に戻ることを固辞したため、
やはり失敗に終わります。
そして、残る指導者候補として呉佩孚が残ったわけです。

131 :靡莫(130の続き):02/03/01 00:13
土肥原賢二は大迫通貞少将や川本芳太郎大佐を呉佩孚のもとに派遣し、説得を繰り返しました。
しかし、この工作は難航を極めました。

呉佩孚も再起を図っていた野心家であり、また反蒋介石の姿勢を持っていたのは確かですが、
日本軍の下で政権や軍隊を掌握することには消極的だったのです。
そして外部的要因としても、臨時政府の王克敏と呉佩孚とは元々仲が悪く、
しかも呉が新中央政府軍の母体を作ると称して華北で徴兵を行ったため、臨時政府との衝突が決定的となりました。
関東軍においても、呉佩孚が説得に応じる可能性について懐疑的な意見も有力でした。

さらには、汪精衛が重慶から離脱すると、汪と呉との競合関係が生じ、その調整にも難を抱えたのです。
政治を汪精衛と軍事を呉佩孚に委ねる工作も土肥原は進めましたが、結局手詰まりとなります。

そして呉佩孚への工作は、1939年10月に最終的に失敗に終わりました。
この時、説得に来た川本に対して呉は、中国からの日本軍の全面撤退を要求しています。
それから2ヵ月後、呉佩孚は歯の病気の治療中に死亡しました。

132 :靡莫:02/03/03 01:07
ageついでに人物紹介です。

王克敏(1876−1945)
 浙江省杭県(余杭)出身。1903年、日本留学生の監督として日本へ赴き、駐日公使の
参賛となる。1907年帰国後は外務部で勤務し、1910年に直隷交渉使に就任。
 民国成立後は、1917年に中国銀行総裁となり、この年の11月に王士珍内閣で財政総長
に任命される。1918年12月には、南北和平善後会議において北洋政府代表となる。1920
年以降も、中法実業銀行総裁、中国銀行総裁、天津保商銀行総理、財政部総長など、
金融関係の要職を歴任した。1924年の馮玉祥の叛乱後は、天津へ逃れ、1931年には北平(北京)
で財政整理の任に就く。
 1935年に冀察政務委員会委員となり、抗日戦勃発後の1937年12月に北平で中華民国臨時政府
が組織されると、行政院院長となる。また、対日協力組織の新民会の会長にもなっている。
1940年3月、汪精衛政権に合流し、華北政務委員会委員長兼内政総署督弁に任じられた。
 1945年10月、漢奸罪によって逮捕され、同年12月に服毒自殺した。享年70歳。

133 :シーマ・ロシータ:02/03/03 14:46
前レスの続きです。「影佐機関・秘録」は重要資料ですね。
善玉・悪玉二元論的評価は歴史論争において有害無益。ファジーにいきましょう。
「天皇と汪精衛」
 昭和十六年六月、汪氏渡日は実現を見るに至った。汪氏一行の神戸上陸後東京に至るまでの鉄道沿線に於いての日本国民の歓迎ぶりは先ず汪氏を感激せしめたところであろう。東京市内では更にそうであった。
 天皇陛下には、外国元首の資格をもって汪氏を迎えさせられ、霞ヶ関離宮をその旅舎に充てさせられた。
 汪氏の今次訪日で最も深い印象を受けたのは、天皇陛下との会見であった。汪氏は私に対してひそかに「日本の中で真に東亜を顧念し、世界平和に貢献しようと念願せられている第一人者は、天皇陛下である」
と語り、又「天皇陛下が日中間の真の提携を夙夜祈念しておられることは、その誠意のこもった御態度によって確認することを得た。殊に再三に亘って、真の提携という御言葉を承ったのは、陛下の御真意を察す
るに余りある」と述べ且つ「自分の渡日の目的は陛下との会見によってその大半を尽くしたと考える」とも述べた。
汪氏の和平運動は彼の信念に基くもので、日本の「従涌(下に心あり)」によって起こったものではない。然し彼も人間である。運動発足後、時には喜び時には前途を悲観した。然るに、陛下との会見は彼に大き
な悟りと冴えた心境とを与えたように思われた。
 汪氏はその後、行政院長の資格をもって近衛総理その他諸大臣と会見したが、これら日本側大臣は、汪政権援助方針に変化ないことを述べて激励した。ただ東條陸相は右の外、戦時の中の特殊事情を説いて、汪
政権に対して尽くそうとしても尽しがたい事柄もあるという所以を、外交辞令を用いずに懇切的確に述べたのは異彩があった。

*残念ながら手記はここで終わっています。影佐陸軍中将はこの続きを残しているのでしょうか?


134 :靡莫:02/03/03 22:30
>133
シーマさん、書き込みありがとうございます。
ここで知りたいのは、来日時に当の汪精衛本人がどう考えていたかですが、
残念ながらこの時期の『汪兆銘日記』は公開されていないんですよね。
1940年1月から1944年1月までのものが、上海市档案館に保存されているということですが、
一日も早く公開されれば良いな、と個人的には思っています。
(かつて『日記』の真贋論争があったことが、公開の妨げになっているらしいです)

あと、僕が130-131で書き込んだ土肥原中将の工作ですが、
抗日戦後に成立した親日政府の樹立の上で重要なので、
時間をおいてもう少し書き込もうと思います(冀東防共自治政府の樹立などについても)。
黄文雄氏の例の著書などでは、この詳細については触れていなかったですね。

135 :靡莫:02/03/03 23:53
失礼、×抗日戦後→○盧溝橋事変後
でした。

136 :靡莫:02/03/04 00:01
度々スミマセン。
>134の下から3行目、文法と内容が不適切だったので、以下のように訂正します。
×「抗日戦後に成立した親日政府の樹立の上で重要なので」
○「親日政府の樹立の上で重要なので」(>135の訂正は無視してください)

失礼しました。ああ、鬱・・・寝ます。

137 :世界@名無史さん:02/03/05 06:20
めちゃ良スレ、、、
どうしようもない荒れスレだろうと思って覗いたんで、感激。
精読して勉強させていただきます。

138 :勲章好き:02/03/05 15:34
靡莫さん、お久しぶりです。
某オークションにて”中国徽章”という中国の勲章写真集を発見。ただ、定価が
2000円位なのに見つけた時点ですでに5000円を越え、現在10000円
位まで行っています。
他で売ってないかと探すと、なんとWEB上で中国(大陸)の書籍を販売してい
るサイトにて定価で売られているのを見つけました(笑)。
他にも当時の事に関する本がありましたので、まとめ買いしました。探してみる
ものですね。

139 :靡莫:02/03/07 02:24
>137
ありがとうございます。
読むだけでなく、色々書き込んで下さったら、幸いです。

>138
こちらこそ、お久しぶりです。
結構、日本でも中国勲章に関するブームがあるのでしょうか?
それにしても、本を定価で買えて良かったですね。
僕も、色々と資料を購入したいのですが、日本で買うと高くつくもので・・・。

140 :靡莫:02/03/07 02:33
さて、今回からしばらくの間、
「冀東防共自治政府」について詳しく色々と書き込もうと思っています。
内容としては、成立のキッカケとなった「土肥原工作」の実態や、
自治政府の組織・政策などに触れるつもりです。
もちろん、横レスや批判は大歓迎です。

まず、今回は「土肥原工作」について書き込みます。

141 :靡莫:02/03/07 02:57
梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の成立(1935年6月)後、
日本は華北(北支)を国民政府のコントロールから切り離そうとする工作を強化します。
そして、華北の有力者による「連合自治体」の形成を狙いました(華北自治工作)。

しかし、工作が進んでいた中の1935年11月、国民政府は幣制改革を断行しました。
これはイギリスの援助・指導によって、従来の銀本位制を管理通貨制に改め、
法幣への統一を行い、経済面での国民政府の指導力・正統性の強化を狙ったものです。
この幣制改革は、周知の通り成功を収めました。
中国の市場競争力強化に対する、日本側、殊に軍部の衝撃・反発は大きく、
華北自治工作の迅速・強引な推進へと動きます。

その状況下で、
関東軍の土肥原賢二奉天特務機関長が、工作の担い手となったわけです。

142 :靡莫:02/03/07 03:57
土肥原の工作構想は、まず第一段階として、
すでに親日的姿勢が顕著な河北省冀東地区の行政専員である殷汝耕に親日政府を組織させ、
そして第二段階として、平津衛戍司令を務め、華北の有力軍閥となっていた宋哲元に狙いを定め、
やはり親日政府の組織に至らせようとするものでした。

土肥原の工作の結果、1935年11月25日に殷汝耕は冀東防共自治委員会を設立し、
国民政府からの離脱・独立を宣言しました(同年12月25日、冀東防共自治政府となります)。

ところが、宋哲元に対する土肥原の工作は難航し、結局は失敗に終わりました。
国民政府は日本軍への譲歩・対策として、1935年12月18日に冀察政務委員会を設立し、宋を委員長に据えています。
宋は国民政府中央に対しても、日本軍に対しても敷衍的態度をとり、
極めて複雑なパワーバランスの中で、自らの利益の維持・拡張を図ったのです。

結果として、ここでの土肥原工作の成果は、河北省の一部しか管轄しない「冀東防共自治政府」の樹立に留まりました。
宋哲元が華北で独自の地位を築き上げてしまったことは、
華北自治の一連の工作の結果としては、日本軍にとって失敗と言わざるを得ないでしょう。

しかし、この小さな政府にすぎない「冀東防共自治政府」は、
少なくとも無意味な存在ではなかったのです。
その後の、日中全面衝突の導火線になったという意味で。

自治政府の内実への詳しい検討は、次の機会に譲ります。

143 :靡莫:02/03/12 02:20
※冀東防共自治政府成立の過程

 それでは、土肥原賢二は具体的にどんな工作によって、自治政府を樹立したかを
たどってみます。

 1935年10月20日、河北省香河県(冀東地区)で、自治制改革・貧農救済・日本との経済合作
など六か条の要求を掲げた農民蜂起が発生しました。蜂起部隊は県城を占拠し、
「香河県自治人民委員会」の成立を宣言します。
 しかしこの蜂起には、土肥原が派遣した特務機関の諜報員や、いわゆる「大陸浪人」
が参加し、煽動を行っていたのです。香河県と同様の農民蜂起は、その後も冀東地区
を中心に頻発しました。もちろん、土肥原の工作がさらに進行した結果です。
 このようにして“自治運動”を作り上げ、利用することで、土肥原は冀東地区の分離を
図りました。とにかく、いかなる形であれ、当該地域の民衆の「自発的意思」を示さなければ、
親日政府の樹立に正統性を付与することは出来なかったのです。

 そして、自治運動の結果形成された様々な組織(「戦区自治促進会」「民衆連合会」など)
の請願を受ける形で、冀東地区の行政督察専員を務めていた殷汝耕が、1935年11月
25日に「冀東防共自治委員会」の樹立宣言を発表しました。

144 :世界@名無史さん:02/03/12 18:43
タシロ マサシのサを抜いて逆さに読むと
シーマ ロシータですね。乱入失礼。

145 :靡莫:02/03/15 23:16
※冀東防共自治政府の理念@

それでは、冀東防共自治政府(以下冀東政府)の建設理念はどのようなものだったのでしょうか?
冀東政府についての著作を数多く残した高木翔之助は、
『冀東から中華新政権へ』(北支那社、1938年)の中で、冀東政府の建設理念を
「冀東イデオロギー」と表現し、その内容として以下の4点を挙げています。

@「防共」
 説明するまでも無いでしょうが、「国際共産党による破壊的赤化工作を防止する」
(前掲書)ことです。ここで重要なのは、冀東政府の「防共」の目的は、
国民党がすでに「共党と同穴の狐狸」であり、「赤禍の走狗と化した」ため、これを
打倒して「中華民国再建」、「四億の民衆の救出」を目指すことにある、と主張している
ことです。

A「反党自治」
 高木によれば、「一党専制の国民統治の羈範を脱し、冀東区七百万民衆が区内を
自ら治むる」こととしています。
 孫中山(孫文)が容共の態度をとったことにより、「民国」は国民党支配の「党国」
となり、「訓政」の名の下に「少数党員の壟断」を招いている、と冀東政府は主張し、
「党国」支配から脱して「冀東区七百万民衆」の自治を求める、としているのです。
そして、国民党の党旗である青天白日旗を捨て、五色国旗の復興(護旗)を唱えました。

146 :靡莫(145の続き):02/03/15 23:26
B「尊孔」
 高木は、冀東政府の「自主的指導精神」とは、「孔孟思想の実践、換言すれば王道政治
の施行」であるとしています。王道政治とは、孔子・孟子を経て「支那社会の特性」ないしは
「固有文化」となった「民主的自治を内容とするもの」としています。
 そして高木は、この「孔孟思想の実践」「王道政治の復活実現」を唱える冀東政府の理想は、
「民国元年の革命精神たる民主共和の三条件復活」にある、と結論づけています。
  
C「親日」
 高木はこれを「尊孔」と結びつけていますが、分かりやすくするために、
ここでは分離します。
 たとえば、冀東政府の秘書長池宗墨は演説の中で、「尊孔」の東洋文明は、
西洋文明との衝突で危機に瀕したため、東洋文明の指導者である日本との
「共存共栄」を要すると主張しました。しかし、ここでいう「共存共栄」とは、
「日本を先進国にして兄と為り、中国は弟として追随」することを指したのです。

以上の「冀東イデオロギー」への検討は、次の書き込みの時に詳しく行います。

147 :正義の枢軸:02/03/22 21:44
大川周明博士は、名著「大東亜秩序建設」においてかく主張せり。
「日支両国は何時までも戦い続けねばならぬのか。これは実に国民総体の深き嘆きである。
普通の常識を以てしても、日支両国は相和して手を握れば計り知れぬ利益あり、戦って相
争えば百害ある。わけても世界史の此の偉大なる転換期に於て、若し両国が和衷協力する
ならば、亜細亜の事、手に唾して成るであろう。いま日支両国が復興亜細亜の大義によっ
て相結び、その実現のために手を携えて起つとすれば、印度また直ちに吾に呼応し、茲に
独自の生活と理想とを有する大東亜圏の建設が、順風に帆を挙げて進行するであろう。」
世界は日の出を待っていた!!

148 :文麿閣下:02/03/25 21:41
「蒋介石を対手とせず」逝って来ます…。

149 :クロード・ファレール「アジアの悲劇」より:02/04/08 21:22
 支那はまた一つの無政府時代中にある。支那は未だ嘗て一つの国家であったことはない。
国家という観念は全然支那人の頭にない。支那はその起源は或は単一かも知れぬが、民族
の集団以外のものであったことはない。そしてこの集団は「神の子」たる皇帝の勢力が構
成する、変質しやすいセメントにより辛うじて結合しているに過ぎない。そしてこの勢力
が一旦消滅すると、草取りをせぬ畠に毒麦が生える如く所嫌わず発生する共同利害を脅か
す匪賊のため国民は再び大きな烏合の衆と化すのである。この匪賊の社会では最も強いの
が弱いのを指揮するが、かかる事実に支那が常に秘密結社、陰謀、謀叛の地となっている
ので、非常に実行されやすいのである。それゆえにある匪賊の長などは逸早く軍隊を結成
自らを将軍又は元帥と名乗ってしまうのである。それで支那は未だ嘗て正規の戦い方を知
っている元帥又は将軍はいたことはないのである。
 つまり南京、広東、北京その他どこの政府にしろ常に犯罪団体以外のものではなく、国
民より選出せられたものでないのにも拘らず、その国民を欧州などでは想像もつかない位
迫害するのである。


150 :靡莫:02/05/07 00:32
冀東防共自治政府について話を進めていますが、
少し一休みで(ずっと書き込まなかったクセに何ですが)、本の紹介をします。

土屋光芳『汪精衞と民主化の企て』(人間の科学社、2000年)

 劉傑『漢奸裁判』がテーマにしている以前の汪精衛、即ち清末民初期の汪の思想
を焦点とした著作です。これまでほとんどの研究者が見過ごしてきた時期の汪を
取り上げていて、中々興味深いです。

>>149
民国期中国が無政府状態という説は、僕は取ることはできません。
すでに民国軍閥スレの方で何度も触れてますが。

151 :世界@名無史さん:02/05/11 20:58
Oh,say Yeah!
Shakin'up ya Baby!

152 :世界@名無史さん:02/05/12 09:52
age

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