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少林寺拳法と北禅

1 :名無しさん@1周年:01/08/28 08:02 ID:3pjhOjrs
禅は大きく分けて天台禅と達磨禅に、
達磨禅は南禅と北禅に分類できますが
なんで道臣さんは一番マイナーな北禅をチョイスしたんでしょうねぇ?
義和団と禅は関係ないよね??
本家の中国少林寺は現在曹洞宗(南禅)だとなんかで読んだし。不思議だ。

103 :名無しさん@1周年:01/10/08 21:11
 そうそうそしたら、インチキは乱捕りはきんしされてるとかいいだすし、しかも
あのインチキ受身まじあぶねーあしくろすしたらあしおるってなんとかして

104 :名無しさん@1周年:01/10/08 21:22
 そうそう、少林寺は、日本拳法と合気道を騒動真がくみあわせたものだよ、
日本拳法の先生がいってた、昔客人ととして送同心がきてたってしかも日本拳法
わつくってたぽいひとがあれは、商売だっていわれたらしい、うんでもそのとおり
だとおもうよ演舞(感じわかんない)で本当に精神がきたえられないし最後の
黙想も意味不明俺の格闘人生で一番無駄だった、全もなにもないあるのわいんちき
だって目さまして

105 :1:01/10/09 03:33
>>102-104
マジ頭悪そう^^; 恥ずかしくない?

106 :1:01/10/09 03:39
>>100
あなたのような人を私は待っていました(感涙)。
教えていただきたいのは、少林寺が禅でも道教でも良いのですが
坐ることによって何を目指しているのかです。
道教のことは禅のこと以上に知らないんですけれど
やっぱり同じように「悟り」を目指してるのでしょうか。
それと、基本的なことで申し訳ありませんが坐禅を組むとき
目は半眼ですか?

107 :Syami:01/10/09 09:36
>> 106

 こんにちは。今年の5月ぐらいから2ch遊びを始めた者です。武道版に居ます。
さて、我々が坐る事によって求めるもの?何でしょうねー?
私は、呼吸法と精神統一による心身調整と思っています。
実際、あの呼吸法は気功で中丹田と下丹田を意識させる初心者用の功法と全く変わりません。
あの「調息法」によって丹田の位置を意識し、その後に「周天法」に進みます。
我々はそこまでやりませんね。

さて、「悟り」?こちらで仰る「悟り」とは如何なるものなのでしょう?
道教の「悟り」は仏教の求めるところとは随分違うと思います。
乱暴に言ってしまうならば、仏教は自分の在り様を知るためのメソッド、
儒教は「仁」に代表されるように、対人関係における自分を学ぶためのメソッド。
道教は「自然」あるいは「宇宙」と自分との関係を知る為のメソッドと捕らえています。
もちろん私見です。
仏教も古い教典を見ると、宗教的かつまた神秘的な表現は少なく、実生活を通して「中道」の在るべき姿を
説いた一種「実用書」めいたところも在ると感じます。

それと、我々の坐禅の方法では目は瞑ります。
坐禅を修行のメインに据えている方々の中には、月輪観、日輪観、阿字観などを
なさる方もおいでですが、我々は自分の内側を意識することに酔って集中します。
一種の数息観と言っても良いかも?

>> 101

貴方の仰る「発勁」や「内功」とは如何なるものですか?
ま、これはスレ違いなので、武道版にでも行って語りましょう。

>> 31

 確かにその様なタイトルにした方が人は集まったかも。

108 :1:01/10/09 17:03
>>100
そうしますとやはり少林寺拳法の禅法は禅宗のそれとは違うと考えて良いのでしょう。
真言を唱える禅宗を私は知らない。
ただ、私が知らないだけかも知れない^^;
ここら辺はできたら38さんにでもご登場願えればと思うんですけど
まだいるかな〜?
少林寺で唱えていたという真言ってどんなものでしたでしょうか?

109 :38:01/10/09 22:00
>>1
>まだいるかな〜?
仕事の合間に覗いてますよ〜(w
真言というと、真言宗や天台宗だけのように感じますが、要は呪であり陀羅尼でしょ?
禅宗の普段読むお経は殆どが呪や陀羅尼です。
また韋駄天諷経では、真言も唱えます。
むしろ真言でない経は般若経典系と甘露門だけの様な気がします。
思いつくまま大悲咒、消災呪、ブチンソンシン陀羅尼、ギャクオン神呪、リョウゴンシュウ、
皆呪文ですよ。

110 :Syami:01/10/10 00:20
や、これは面白くなってきた。

現在我々が唱える真言は「ナム ダーマ」だけですね。
以前は「ノウマクサンマン ダーマ」と唱えていました。
もう一つあったけどなんだったかなー?

外縛独鈷印は坐禅以外に、活法や整法を行う時にも結んでいましたねー。
真言もこういう時に唱えていたとか。

あと、これは坐禅を組む時の観相の一つですが、吸気の時に
「宇宙の霊気我に入る。」
呼気の時に
「ダーマの霊性我より発す。」
と心中に唱えるように学びました。意密の一種??

111 :名無しさん@1周年:01/10/10 01:16
僕も5年ほど前崇山少林寺行ったことありますよ。
近くで子供がサンドバッグ相手に拳法の練習してました。
しかしこんなところで高度な議論が続いてますね。珍しい。
禅系統のスレにはわけのわからんヒッピー禅に荒らされることが多いのですが。

しかし虎渓山を知らずにでかい顔してる人がいるとは失笑ですね。
南禅寺派で国宝の建物が2つもある名刹なのに・・・(笑。
歴史の資料にも載ってますよね。
すると38さんは私の先輩ですか、頑張って下さい。
なかなか内容的には難しくて大変です。

112 :名無しさん@1周年:01/10/10 01:39
自作自演痛いw

113 :1:01/10/10 02:33
38さん、解説有り難うございます。
Syamiさんの話を伺っていると少林寺拳法の禅は天台の禅法に
似ているような気がします。
あちらでも確か月輪観や阿字観のときには目を瞑っていると読んだことが
あるような。
もしかして開祖は天台から禅をピックアップしてきたのかも?
それだったら北禅を唱えても間違えではありませんよね。
道教の影響を受けているのは大陸で属していた団体のためでしょうか。

ところで外縛の独鈷印って、あのよくテレビで忍者が忍法使うときにやる
人差し指を合わせて伸ばす印のことですよね?
法界定印とおんなじで人に制せられる可能性があるので
使わなくなったのでしょうか。
なんにしても少林寺で印や真言まで使っていたなんて
初耳でわくわくしてしまいます。

114 :38:01/10/10 08:58
>>111
ん?だれやろ〜?
こんなとこウロウロしてるのは、さしずめ○坊○さんかな?
あんまりここで身内の話すると顰蹙買うから止めときましょう。(藁

>しかし虎渓山を知らずに…云々
良いやん、別に。
多分彼らは東京の人でしょ。谷中とかで坐ってるんでしょ?
ま〜秋月系の人らだわ、物言いが。教団嫌いだからネ。

115 :Syami:01/10/10 13:48
 こんにちは。私は「禅を」深く学んだわけではないので、勉強になります。
私の仏教の師としては、増谷 文雄先生が上げられます。後は金岡 秀友先生。
つまり原始仏教や、密教系になる訳です。

以前台湾を旅行した時、見学に入った寺院では表には仏像があったものの、裏に回ったら
道教の神からヒンズーの神までがごっそり祭られていました。
そして現地の方々もこれらの像を分け隔てなく礼拝していました。
西遊記等を読んでも、仏様以外に道教の神仙が当たり前の様に出てきます。
あの時代にギリシャ神話やキリスト教が伝わっていたら、きっとキリストも顔を出したのでは??
要するに、中国での民間信仰としては「現世利益」を与えてくれるような神ならば
なんでも崇拝すると言った事の様です。
善し悪しは別にして、おおらかな事ですね。

開祖の著作にも在るように、開祖は中国で先ずは道教を学んでいます。
その後、世界紅卍会で色々な宗教、武術に触れ、これが金剛禅のバックボーンに
なっていると私は考えています。
金剛禅と名乗り、禅宗の一派を標榜するのは少林寺系の技法を多く学び、少林寺で
伝法の儀式を得、白衣殿でインスピレーションを受け、夢で達磨の教示を得たと言う
体験からこうしたとご本人にも仰っておいででした。

116 :Syami:01/10/10 13:49

1さんは坐る事にちょっとこだわっておいでの様ですが、そもそも「禅」とは
「単」に「示」すであって、坐る事では無いですよね?
門外の者が言うのも難ですが、禅の修行者は、作務をしていても、食事をしていても
歩いていても、寝ていても「禅」だそうです。
我々も坐りますが、これは我々の修行の主たるところではありませんね?

以前は鎮魂行の時には真言を唱えていたのですが、最近まで唱えませんでした。
これは「宗教法人」以外の所から、宗教色を押さえたいと言う要望が出たからです。
最近になって復活したのは、宗教法人としての色をもっと出さざるを得なくなったからとの事。
ある意味で文部省対策が在ったかも知れません。
昔も真言は唱えていたものの、その説明は必ずしもされない道院が多かったですからネ。

個人的にはこの様に「混沌」とした所も少林寺拳法修行の面白いところだと思っています。
他の「ちゃんとした」門派の方々には随分「胡散臭い」宗教団体だと思われている事でしょうね?
これはある意味仕方が無いことだとも思っています。

ここで一つ私が日頃唱えている「げ」を記しておきます。
南伝 相応部教典 7,4
漢訳 雑阿含経 42,1153より。
邦訳 増谷 文雄先生

「もし人、故なくして、悪語を放ち、怒罵をあびせ
清浄にして無垢なる人を汚さんとせば、その悪かえって己に帰す。
たとえば
土をとってかの人に投ずるに、風に逆うてかえって自らを汚すがごとし。」

ご存じ瞋恚説法でした。

117 :38:01/10/10 18:23
>>Syamiさん
はじめまして。私は少林寺拳法の事は判りません。
また金岡さんも『秘鍵』ぐらいしか読んだ事がありません。
ただ、心の置き場所について考えてみるのは面白そうです。
余談ですが、現在の臨済では坐る際の印を意識する事は殆どありません。
僧堂にもよりますが、単に両手を組み合わせるか、法界定印かのいずれかです。
呼吸法はいわゆる数息観を基本にしていますが、最近面白い事を聞きました。
それは、禅には二つの流れがある、という事です。

118 :38:01/10/10 18:24
一つは、白隠が説いた様に臍下丹田に上気しようとする氣を、呼吸法で収めていく方法。
「氣は心」と言う様に、つまり丹田に心を置く方法です。
道元も『永平広録』で、師である如淨から「呼吸は臍下三寸でする」と教わったと
書いてます。
また如淨は道元に「淨曰く、元子、坐禅の時、心を左の掌の上に置くべし」と言われたと
聞きます。左の掌は坐禅すると臍下丹田になります。
これらは心を臍下丹田一箇所に集中する方法ですが、このような方法は、
何も禅に限らず中国では古来より神仙の丹錬術として行われていて、
古くは『黄帝内経』や『老子』『荘子』などにも見られるものです

119 :38:01/10/10 18:25
もう一つは、心を一箇所に止めないグループです。
それは例えば、達磨であり、六祖であり、臨済であり、沢庵であります。
達磨は慧可に「心を持ち来れ」と言い、「心」が限定的で無い事を説き、六祖もまた、
神秀の「心は明鏡台の如し」に対して「本来無一物」と、心を固定化する事を否定しました。
また臨済は「心法無形」とか「眼に在っては見ると言い云々」と言って、心は
常に私達の面門より出たり入ったりしていると説きました。
そうして沢庵は『不動智神妙録』で「心の置所」をハッキリこう言ってます。
「心を臍の下に押しこんで働かないのも、不自由で用に立たぬとすれば、
どこに心を置いたらよろしいか。」
「右手に置いたら、右手に心を取られて、動きが自由にならぬ。
眼に置いたら眼に取られて働きが欠ける。〜云々〜
どこか一つ所に心を置けば、ほかの方がお留守になってしまう。」
「どこにも置かぬことだ〜中略〜心を一方に置かなければ、十方に行き渡るのだ」

120 :38:01/10/10 18:25
では白隠や道元、或いはこのスレで話題になった(爆)
「心は鏡の様だから、毎日奇麗に磨かなイカン」と言った、神秀などは間違いか、
と言うとけしてそうでは在りません。
沢庵は言います。
「然れども仏法の向上の段より見れば、(心を)臍の下に押込めて余所にやらぬと云うは
段が卑しくし、向上に在らず。修行稽古の時の位なり。」
つまり、修行する時は臍下丹田に心を集中して坐るわけですが、働く時には心をどこにも
とどめずに、自由自在、活發發地に働かさなくてはならない、という事です。

私は、この心を「一心」としてとどめるグループと、心をどこにもとどめないグループを
比べた時、前者は中国的な思想であり(禅はよく学者に仏教ではなくシナ思想だと言われますが)
後者は仏教的な思想である様に感じます。
それは言いかえれば、天台本學思想と中論・空思想との対比にも似て、非常に興味深いのです。

121 :Syami:01/10/11 00:22
38さんはじめまして。
一つご提案なのですが、番号の固定ハンドルは及びし難いので、何か他のハンドル名を
お作りになりませんか?

成る程、勉強になります。
「黄帝内経」と言うと「素門・霊枢」ですね。
私も少林寺拳法の整法を勉強する時に一通り読みました。
む、すると「坐禅」は道教からきたものと考えるべきなのですか?
また、御坊の仰る「心」とは意識とか意念と言うべきものなのでしょうか?

「不動智神妙録」は私も勉強しましたが、自由闊達な禅風は非常に面白いと思いました。
内に向く心、外に向く心、ひいては何処にでもあり、何処にもない、囚われない心とでも
申しましょうか?そんな印象を受けた事を覚えています。
ではまた、ご教示お願いいたします。

122 :38改:01/10/11 21:10
私Web上で使ってるハンドルは一つなので、余りコテハンを複数持ちたくありません。
よって上記のようにしました。同じ事ですが…(^-^;

「心」ですが、その時々に応じて様々な意味に使っていますが、
そのまま「心とは何か?」と問われれば、「生命の別名」と思います。
ただ、上記の場合は多分に「意識」と言うようなニュアンスが強い事は言うまでもありません。
スイマセン、土日に壇信徒の方を連れて京都行くので準備に追われてます。
月曜までレスできません。

123 :光の子:01/10/11 22:13
 心をどこかにとどめようとする、磨こうとする、というのは「心があると思う
我」を(心がここにある、という思いによって生じた)我の内にとどめ、その我
によって観想された心を磨く、ということのような気がします。それは正しい、
間違い、というよりも心を仮定した「主体」によって認識・意識しその結果生じ
ている「心」によってまた「心」を見ようとするような、ある種のもどかしさが
あるのかも。

 丹田への気の集中は私も時々行いますね。もっとも、私の場合は禅ではなく
仙道で、丹田に集中させるより全身に熱と圧力となった「気」を巡らすことが
中心ですが(いわゆる小周天)。硬気功・武術にも一時興味を持っていたけど、
軟派な私にはあわず....。

124 :1:01/10/12 02:18
光の子さん、こんにちは。
だんだん役者がそろってきた。
密教の人も来ないかな^^

125 :Syami:01/10/12 10:34
密教と言えば…。
我々は高段者なると「法器」と称して錫杖、如意棒、金剛杵を使います。
如意棒と言っても雲形ではない短い棒状のものです。
これも道教から来ている様です。金剛杵は基本的に五寸の「独鈷杵」を使います。
(本山に在るのは1尺ぐらいあるけど。)
これは有名な密教の法具ですね。
他の宗派でもこのような「金剛杵」は使うのですか?

126 :1:01/10/14 04:24
密教系の方、いらっしゃいませんねぇ。
まだどこかに頼みに行こうかな。
>125
ところで法器って拳法では武器に使用するのですよね?
他に用い方はあるのでしょうか。
道教や密教でも武器から発生したのかな?

127 :1:01/10/15 06:14
いつのまにか紅卍字会のスレができてますねぇ。
思わずageてしまった(w

128 :名無しさん@1周年:01/10/15 07:55
一点集中と言いますが、
下丹田に気が溜まっていく事によって
自我が消えていき、無我になるという話しがありますが?

129 :名無しさん@1周年:01/10/15 07:56
腹脳というやつです

130 :光の子:01/10/15 09:12
>>128

 気が丹田にたまっていく事によって、というより一度丹田に集まった
気がそこから全身、さらに自分の周囲にまで広がっていく事によって、
という感じですかね、私の場合。

131 :128:01/10/15 11:46
元、仙道連の人が書いた本に
そういう事が書いてあったので引用しました
腹脳を鍛えていく事が宇宙意識へとつながると

132 :1:01/10/16 06:09
少林寺拳法で言うダーマ(Dharma)は大宇宙の大生命ってことになってるんだけど
この解釈はダルマ(Dharma)を法と訳する禅仏教でもOKなんでしょうか。
同じ事なの?

133 :38改:01/10/17 07:26
>>132
法(ダルマ)に限らず、心や仏性というような言葉も、全て生命という意味であり、
そういう解釈に陥りやすい訳です。また私もかつてはこんな風に理解していました。
自分の生命は大いなる生命から縁に依って取り出された生命、だから死んだら大いなる
生命に帰って行くと。
しかし、そうなると永遠不滅の大いなる生命が一つある、という風になってしまう
ので、これは諸法無我・諸行無常を唱える仏教では無くなってしまいます。
いわゆる本覚思想ですね。
正しくは、禅は空間的にも時間的にも、大いなる生命と自己の生命とを別に見るのでは
無くって、自己の生命がそのまま大いなる生命であると見るのです。
沢庵の『不動智神妙録』に「間、髪を入れず」という項がありますが、まさにこの事で
自己の生命と大いなる生命の間に「髪の毛一本も入る隙間が無い」というのが、
禅の生命観であり、法は十方に遍く満ちている、と言う事なのです。

134 :1:01/10/18 08:37
>>133
なるほど。そうなりますってえと、個人の生命がダーマの
分霊だと考える金剛禅は禅じゃないってえことになるんですね?
こだわるようですが、天台の方ではどうなんでしょうか。

135 :Syami:01/10/18 23:37
さてこそ?
我々の道訓の
「凡そ人心は神なり仏なり。神仏即ち霊なり。
心に恥ずるところ無くんば神仏にも恥ずるところなし。」
から解釈すると、まさに「禅の生命観」そのものと感じられるのですが?

136 :1:01/10/20 08:27
>>135
でも少林寺では「分霊」という言葉を明確に使用していますよ。
わけみたま即ち禅じゃない、というのが134の解釈。
あるいは日本で発展した南禅的な禅じゃないというべきか。

137 :Syami:01/10/20 09:05
ふーむふむ、成る程。わけみたまかー。成る程。

個人的には「分御霊」の場合は本当に別れているように思うのですが
我々の場合は分かれてはいるモノの、別れては居ないと言う様に
理解しています。この解釈は如何なものでしょうか?

138 :1:01/10/20 20:14
>>その解釈はSyamiさんの解釈ですか。それとも少林寺拳法が
そう解釈していると受け取ってよろしいのでしょうか。

139 :Syami:01/10/21 01:09
私の個人的な解釈です。
残念ながら、少林寺拳法の修行の中でこう言う議論は殆どされていませんね。
実は子供の頃に道訓の
「一動一静、総て神仏の観察するところ、報応昭々として豪厘も赦さざるなり」
と言うのを覚えた時にイメージしたものが未だに残ってるのです。
分かれたと言ってもつながっているから、これが可能なんだなーって。
レベルの低い話で申し訳ないです。

140 :1:01/10/21 19:33
>レベルの低い話で申し訳ないです。
いえいえとんでもございません。
Syamiさんの教えて下さるいにしえの少林寺の修行内容は金剛禅のバックボーン
を知る手がかりとしてめっちゃくちゃ貴重です。
もっと他にも、今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?

141 :Syami:01/10/22 20:46
>>140

>今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?

宗教的なと言う事ですよね?ならば、
行法として断食行、托鉢行、長時間の座禅など。

道訓は現バージョンしか知りませんが、以前は般若心経を読み下したものを
唱えていた時代もありました。
「観自在菩薩、真般若波羅密多を行ずる時五蘊は云々・・・」
と言うヤツですネ。

また、聖句は現行のものに加え、もうひとつ有りました。

「総て悪しき事を為さず、善き事を実践し
自己の心を清むる事、これ諸々の仏の教えなり。」

やー、流石に覚えているもんだなー。
このように以前は自己帰依を説く聖句が三つ並んでいたのです。
別に消さなくても良かったように思うんですけどネ。

142 :1:01/10/23 06:14
有り難うございます。
断食までしていたのですね。拳法の修行というか体育とは正反対な修行法だ。
これは宗教ですね。
ところで世界紅卍字会のスレに注目すべき書き込みが有りました。
どう思われますか?

143 :Syami:01/10/23 12:35
さぁて?ノーコメントですね。
コメントするほどの材料も無いことですし。
何か誤解してるだけじゃないかなぁ?

でも、中国でも「道院」と言う呼称は道教の修行場に対するものになってる様です。
仏教だったら「寺」とか「寺院」とか言ってますよ?
崇山近辺で道教もやってたかも知れないけど、少林寺でやってるとは思い難いなぁ?
…と、思います。

144 :1:01/10/24 03:57
崇山の古いパンフに道院の文字があって引用したと卍字会のスレに書いてありました。
38改さん、ご存じない?

145 :名無しさん@1周年:01/10/24 20:40
いわゆる少林寺珍宝はへたれによる、へたれのための、へたれの
拳法踊りだから、禅なんてどうでもいいのさ。
税金払いたくなかっただけさ。中野踊りの詐欺師め。

146 :名無しさん@1周年:01/10/25 09:57
>>144
すみません。確認したら、道院ではなく、活佛院でした。記憶違いで、
お騒がせして申し訳ありません。達磨大師正統継承者とも書いてありま
した。
ところで、少林寺拳法は道院であり、禅宗なんですか?

147 :名無しさん@1周年:01/10/25 20:44
少林寺は踊りの流派です。

148 :名無しさん@1周年:01/10/25 22:50
○○流とか色んな流派はあるの?

149 :1:01/10/26 04:19
少林寺拳法は一流一派です。分派したら少林寺は名乗れない。
商標登録してあるのだ。(マジ)

>>146
卍字のスレの方ですね。ようこそおいで下さいました。
もし達磨のことでもう少し詳しいことがわかったら教えてくれませんか?

少林寺拳法の言う道院は町道場くらいの意味だと思います。
(・・・よね、Syamiさん?)
でもとっても変な感じなので(禅を名乗っているから)このスレを立ててみました。

150 :名無しさん@1周年:01/10/26 08:22
>>149
達磨寶巻という本ご存知ですか? 小さな本ですが、中国や韓国では結構
読まれているようです。日本語版は入手するのは極めてむずかしいですが。
私も持っていたのですが、内容がむずかしいので、専門家にプレゼントして
しまいました。
前半は、達磨大師がインドから中国へやってきて、武帝に会い、神光に法を
授けるまで、後半は、丹の練り方が書かれています。私のような無知な者が
読むと、どこが禅の開祖なのかとも思いますが、問題は、達磨大師がなぜ、
インドから中国に来たのか? そしていったい何を伝えたのか?ですね。
このあたりは、禅ではどのように説明されているのでしょう?

151 :Syami:01/10/26 12:39
さて?でも、恐らくはそうであろうと思います。
開祖は中国において道教も学んでいたので、この辺の用語
または思想等は結構混沌としている様に感じています。
そこが私にはまた面白く感じられるのです。
他から見ると少々胡散臭く感じるかも知れませんが…。

152 :名無しさん@1周年:01/10/26 14:49
私の言った嵩山少林寺は、禅宗ではなく、一貫道系の分派別派だと思われます
嵩山少林寺を語っているのかもしれませんし、あるいは門前市の拳法道場の如く
多少は縁があるのかもしれません。紅卍も多分、同じ流れだと思います。私達は
道院といえば、別派という感覚です。
そこでは、達磨大師は開祖ではなく、伏儀から始まる道統の祖師のお一人にすぎな
いのですね。もちろん天命をインドから中国に運んだ(戻した)という点では、重要
な分岐点ではあるのですが。
何を伝えたかというと、一般には正法という言葉で簡単に説明されてしまうのですが、
正法とは、正しい教えではなく、まさしく以心伝心、教外別伝、不立文字の超生了死の
法そのものであって、仏典や教義ではなかったのですね。単伝という厳しい時代であり、
一人にしかその法は伝えられなかった。禅家の6祖慧能祖でしたか、そこで天命継承は
禅家を離れ、儒家に移ったとされています。
これが一貫道の基本的なスタンスであり、そういう意味では、仏教とか道教とかの枠に
とらわれてはおりませんが、達磨大師から数えて18代目の弓長祖以降、普伝を機に、
いわゆる祖師はいなくなり、残念ながら唯一天命を伝えるはずの団体が、分裂して
しまっているという現状です。
主神の他に、弥勒(天盤)、南海観音(副天盤)、天然(道盤)の三佛を奉っており
ますので、すぐわかります。

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