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地名の由来について

1 :天之御名無主:01/09/09 19:38
オカ板
http://piza2.2ch.net/test/read.cgi?bbs=occult&key=999951542

オカルト板にもありますが、あちらは荒れているのでこっちに立てました。
よろしくお願いします。

2 :天之御名無主:01/09/09 20:58
墓地/葬地に由来する地名はあって不思議でないと思いますが、
「支笏」「梅田」がそうなのかどうか。支笏はアイヌ語との関係
が問題で、1リンク先の34にある説がいいのではないでしょうか。
「梅田」については、民間語源説的な感じがします。この地名が
いつからあったかは調べていませんが、古語で埋めたと言う場合
は「埋めたり」とか(時代によって、平安時代の助動詞の変化が
異なりますが)いろいろな言い方がありますが、「埋めた」と言
うようになったのは江戸時代ではないかと。梅田という地名がい
つからあったかを示してもらわないと判断がつきにくいでしょう。

墓地由来の地名としては「塚原」とか「○○塚」というのがあり
ます。
そういう地名に関心がおありでしょうか。漠然と「地名の由来に
ついて」だけでなく、この板で新レスを立てるときは一応仁義を
切ってください(笑)。

3 :ひでよし:01/09/09 22:15
京都には「○野」という地名が多くありますが、その多くは埋葬地だったそうです

具体的には「北野」(北野天満宮がある)、「平野」(ここにも天満宮がある)、
「紫野」(佛教大学がある)、「念野」(念仏寺という寺がある)などです

また「千本通り」(かつての朱雀大路)という名前は、卒塔婆がたくさん立ち並んで
いたことに由来するそうです

4 :天之御名無主:01/09/09 22:52
「梅田」
駅を作るのに田んぼを埋めたというのはウソ?

5 :訂正です:01/09/10 16:59
>>3
「念野」 → 「化野」

これで「あだしの」と読みます
石仏・石塔がなんと8000体以上あるというすごいお寺です

6 :うろぼろす:01/09/10 23:17
地名について調べるといったら、やっぱり角川の『角川日本地名大辞典』でしょう。
47都道府県すべての巻がずらっとそろっているのを図書館などで見ると、圧倒さ
れるものがある。
この事典は地名だけでなく、地域の歴史や特徴もそれなりにコンパクトにまとまっ
ているので、何かと便利。
それにしても、北海道あたりが、一冊ではおさまりきらず二冊になっているのをみ
ると、その地域がもっている重みというのをふと感じる。

7 :ひでよし:01/09/14 15:27
>>6
「角川日本地名大辞典」といえば、各巻が凶器になりそうな分厚さをもつ
素晴らしい辞典ですね
学生時代はよくお世話になりました

8 :名無しさん:01/09/14 16:27
>>7
凶器としてお世話になったのか? (藁

9 :ひでよし:01/09/14 18:01
>>8
今でも某大学の「角川日本地名大辞典」には血糊がべっとりと・・・・

こういうツッコミを期待してたので嬉しいです

10 :うろぼろす:01/09/15 08:10
確かに、あの事典は分厚い。しかし、凶器とはねえ(笑)・・・。
おかげで、真ん中ごろを普通のコピー機でコピーしようとしたら、中央が黒くなっ
て字がよめなくなるんだよね(泣)。

11 :天之御名無主:01/09/27 08:20
あg

12 :ひでよし:01/09/28 21:40
民俗学で地名研究といえば、谷川建一さんが有名ですね
(僕は読んだことがありませんが・・・・)

13 :訂正です:01/09/29 11:30
>>12
「谷川建一さん」 → 「谷川健一さん」

>>4
近松門左衛門の「曽根崎心中」、「心中天網島」などに「梅田橋」という名前が
見えますので、その頃から「梅田」という地名があったのは確かでしょう

鉄道が開通するまでの「梅田」は、辺り一面の水田地帯だったそうです
埋め立てて田を作った事から「埋田」と呼ばれ、それが「梅田」になったのでは
ないでしょうか

14 :天之御名無主:01/09/29 14:35
地形から由来している名前が多いよね
それ以外で知るっているところといえば(東京)

銀座 → 銀貨だったか銀を精製するところだかがあったところ
     (当然金座もあったらしい)

お茶の水 → 御は将軍に献上するモノの意味
       将軍御用達のお茶用の水が湧いていたらしい。

15 :天之御名無主:01/09/30 04:08
大阪の十三は?

16 :ひでよし:01/10/07 21:48
江戸時代に紀伊の漁民が房総半島に移り住み、多くの村を開いたという
伝承があります
鰯の地引網漁の漁場を求めて、九十九里浜へ向かったからだといわれ、
紀伊と房総半島には共通する地名が残されています
例えば勝浦という地名は、和歌山県の那智勝浦町と千葉県の勝浦市に
残されています

このように、人の移動に伴う地名の伝播もありますので、地名研究は
歴史研究でもあるといえるでしょう

17 :天之御名無主:01/10/28 19:12
age

18 :ヤイコ:01/10/29 02:14
地名って化石って言われてるくらいですものね・・
個人的には千のつく地名って(例 京都・千本ドウリ、大阪・千日前等)処刑場だったり、墓地だったり死に関するイメージが強い地名なんだと感じてるのですが・・
私が通っていた京都の学校が元処刑場だったという所だったのですが・・学校のまん前のバス停の名前が神終町(かみはてちょうと読む)で出来すぎって思っていました。

19 :天之御名無主:01/10/29 02:17
突然ですが質問です

九州地方には前原・田原坂・西都原など、「原」を「ばる」と読むところが
多いですが、「ばる」という読み方どこからきているのでしょうか?

また、この読みは九州地方以外にもあるのでしょうか?

20 :天之御名無主:01/10/29 09:14

墓が千葉館山にあります。安房の国です。
なんで安房かと言うと地元に「わしらの先祖は四国の阿波からわたってきた」
って言い伝えがありました。
アホな思っていたところ、旧事記に「阿波の忌部が安房を開拓した」
なんて記述あって仰天。無論故老があの書物読んで「伝説」考えた可能性ありますが。
しかしいまでも徳島から房総半島って、海流にのればすぐみたい。
昔は四国沖で流され、館山あたりに流された人っておおかったのでしょうか。

21 :天之御名無主:01/10/29 09:23
>20
千葉に住んでるなら話が早い。紀伊湯浅から銚子まで渡った人たちが
関東で醤油製造を広めたのは、その話よりもっと有名かもよ。

22 :ひでよし:01/10/29 13:02
>>15
淀川の上流から数えて13番目の渡しがあったから、という説が有力です
しかし、なぜ「じゅうそう」と読むのかはわかりませんでした

23 :天之御名無主:01/10/30 21:14
地名の由来を考えるには、漢字ではなく音で調べろって昔先生が・・・

24 :天之御名無主:01/10/30 21:21
漢字なんてただの当て字ということも多いしな

25 :天之御名無主:01/10/30 23:51
>>23,24
日本全国には漢字渡来以前からある地名がたくさん存在する。
8世紀頃何回か発令された好字令により、
漢字の当て字がつけられた。

26 :天之御名無主:01/10/31 01:17
>>19
ヤンバルクイナのバルは原だよ。

27 :天之御名無主:01/10/31 03:46
>>26

ヤンバルクイナは、山原水鶏と書くそうですね

沖縄地方でも「原」を「ばる」ということがあるとわかりました

ではなぜ「ばる」と読むのかも知りたいですね

28 :天之御名無主:01/10/31 13:48
>>27

ttp://village.infoweb.ne.jp/~bbf/28culture.html

ここ見てみそ。

29 :天之御名無主:01/11/01 04:09
>>28 ありがとうございます

「ばる」「はる」の読み方はどうも九州地方中心のようですね

読みは南方から来たんじゃないかとも推測されていました

しかし、なぜ「ばる」と読むのかは依然わからずじまいのようです

30 :天之御名無主:01/11/04 07:56
あげる

31 :天之御名無主:01/11/04 09:45
みなさん柳田の『地名の研究』は読んでるのかな。

32 :ひでよし:01/11/22 16:29
本間雅彦『牛のきた道 地名が語る和牛の足跡』(ニューフォークロア双書、
1994)によると、牛に由来する「牛地名」が全国各地に幅広く分布している
とされています

牛掛、牛込、牛牧、牛踏、牛道、牛窪、牛首などのような「牛」という漢字で
表記されるもののほか、「ビヤ」という牛の古語が付く地名も多くあるとされて
います
しかし、その「ビヤ」は「ビワ」に変化し、楽器の「琵琶」や植物の「枇杷」を当てた
地名も多くあり、それが本来は「牛地名」であったことが忘れられている、と
本間氏は述べています

ここで本間氏が例として挙げている「牛地名」をすべて牛に由来する地名だと
するには一考の余地がありますが、地名の中に失われた日本語が残されて
いる可能性もありますので、漢字の表記にとらわれず、本来の地名の意味に
遡って考えようとする姿勢が地名研究には必要になるでしょう

33 :『皇后陛下のお四国遍路』製作委員会:01/11/22 16:32
 霊迷ならぬ霊明かな、かな。

34 :地名しらべ:01/11/25 23:53
116>>江戸時代に紀伊漁民が房総半島に移住み、村を開いた
伝承。>江戸時代に爆発的に増えた江戸の胃袋を満たすために紀伊
から漁民が移動しました。紀伊国屋文左衛門辺りもかんでいるかも。
米は伊達藩からも着ました。それ以前は九十九里浜の地名のように、
東北から強制移住されたエミシや俘囚の地で、別所ともいう地です。
勿論漁業はしていなかった模様です。中心の一つは小見川町織幡の
ようです。銚子は名のように鳥などを狩る、別所の人達の地ので
しょう。粟、泡、阿波、安房は皆同じ意味という説もあります。

35 :『皇后陛下のお四国遍路』製作委員会:01/11/26 00:52
 天地アワーがきそうであはたてたこととかここんとこここん東西あったっけ・・・

36 :釈迦と仏と神:01/11/28 20:21
18>千のつく地名は、そういう事で八切止夫は「賤」「せん」を当てて
います。遠廻しですがぴったりです。そこに昔住んだ方がそうですから。
 人はダメになると「おしゃかになる」「仏になる」「お休みになる」
「お眠りになる」と方言で言います。その先は神になるそうですから
神終は間違いで、神始なら理解できます。初神地名は結構あります。
 確かに釈迦、仏、神つく地名は、昔話で戦争(虐殺)があった所も
あります。
 

37 :ひでよし:01/11/29 20:24
紀州の漁民の東国への移住についてですが、東日本に鈴木という苗字が
なぜ多いのかを調べてみてもいいでしょう
網野善彦氏の『古文書返却の旅』に登場する唐桑半島(宮城県)の鈴木家
にも先祖は紀州の漁民だったと伝わっているそうです

38 :天之御名無主:01/12/01 20:10
>>31
柳田は地名研究に関してどう言ってるの?

39 :天之御名無主:01/12/02 11:20
近所に五領という地名がありましたが、由来は
わかっていません。相当古い地名のようで、
おそらく御陵ではないか?とも言われています。
しかしこのたび、めぐみヶ丘と改称されました。

40 :天之御名無主:01/12/02 14:53
その近くに古墳などはありますか?
「御霊」とか「五郎」という可能性もありますので、地名研究は
難しいですね

それにしても「めぐみヶ丘」って、なんてありきたりな・・・・

41 :めぐみヶ丘:01/12/02 21:37
40>誰が命名したのでしょうか?デベロッパーか役所か?
 恵むは金やくず米を与える、恵まれるは金や小米を戴く、でしょうか
それとも、願いを込めているのでしょうか。前の地名に因縁有りそうな
意味深な地名ですね。緑ヶ丘なども同じ感じがします。偏見と先入観から
ですよ。「ヶ」は川崎真治という方の本に解説がありました。

42 :スサノオくん:01/12/04 12:29
手前、にわか古代史研究家です。
「ヤマタイコクはどこですか」というミステリー小説に度肝をぬかされて、地名について興味がわいたのですが、その小説のオチでもあった岩手県と秋田県の県境にある「八幡平(ハチマンタイ)」
の言われというか、由緒というか詳しい方、教えてください。特に「平」を「ヒラ」と読む点が非常に興味深いのです。

43 :スサノオくん:01/12/04 12:33
訂正です。「平」を「タイ」と読む点です。

44 :平へいなる:01/12/04 16:36
42>古代史は分りません。西日本ではヒラで、古代の比良坂の比良と
同じ意味という説があります。そうなると平はなると同意でしょう
か。また坂と同意という方もいます。平は女陰と同じく凸凹のない
状態や場所をいいます。平民と小ばかにした言い方もありました。
平々と書いてサラリーマンの下っ端をいいます、別名ヒラヒラで
蝶々とも言いますね。明治時代も売女が「へいぺいの癖に私を抱き
おって」といってますから、平には良い意味はのでしょう。
タイならタイラからでは?_

45 :天之御名無主:01/12/04 18:04
北東北は「平」を「たい」と読むことが多いね。
エデンの園とか言われた「迷ヶ平」も「まよがたい」だし。
そういえば山陰よりの地方で「山」を「せん」と読むのも気になる。
「大山」は「だいせん」、「氷ノ山」は「ひょうのせん」。
まあ仏教の「須弥山」は「しゅみせん」と読むのだけど・・・。
これは漢字の時代による音の違いだろうけど、
なぜこの地区だけそうなったのか気になる。

46 :タイは分らない:01/12/04 18:21
45>山をセンと読むのは仏教語で坊主が使ったものでは。という事は
山伏など下級坊主が居住したところではないでしょうか?大山は
修験のアジ―ル、氷ノ山は別所のあった所ですから、関連あるかも
しれません。せんとくれば八切止夫が言うように賤の掛詞の可能性も
捨てきれません。山に森がつくのは山伏がいたような気がします。

47 :天之御名無主:01/12/04 20:27
>>16
勝浦という地名は江戸以降からなんですか
というと戦国時代の勝浦正木氏は後世つけられた名称?
当時呼ばれてた正式名が知りたいな

48 :ひでよし:01/12/04 21:07
角川の地名辞典にそのような記述がありましたので、それをそのまま
鵜呑みにしてしまったようですが、房総半島の勝浦は紀州の勝浦とは
関係がないのかもしれません

源平の争乱で源氏の水軍として活躍し、その功により東国に所領を
与えられた鈴木氏の移動と関係があるのかもしれません
もう一度調べ直してみます

49 :ひでよし:01/12/06 16:55
「勝浦」についてわかる範囲で調べ直してみました
(以下の記述は『角川地名大辞典 千葉県編』に拠ります)

「勝浦」の地名の由来は「紀伊勝浦、土佐桂との関係に由来するとも、開拓の祖
勝占の忌部の名に由来するとも、天然の良港すなわち勝れた浦の意に由来する
ともいう」とあり、その由来はよくわかっていないようです
また、「古くは桂浦・葛浦・勝占とも書いた」とあり、「カツウラ」と呼ばれていたのは
確かなようですが、その表記も一定していません

文献上では天文11(1542)年の正木時忠判物に「かつうらのねんく代」とあるのが
初見で、天正18(1590)年の成立と推測される関東八州諸城覚書には「かつらの城
<正木左近大夫居城>」とありますので、この時代には「勝浦」の地名があったのは
確実なのですが、それより以前は史料が残されていないようです

一説には「勝浦城は上総守興世王が天慶年間(938〜47)に築城したとも、上総権介
広常の一族平景俊が文治年間(1185〜90)に居城したとも伝えられる」が、現時点では
大永元(1521)年に小田原北条氏方の武田信清が安房の里見氏攻略のために築いた
とするのが妥当だとされている

50 :ひでよし:01/12/06 17:06
調べ直してみてわかったことは、房総半島の勝浦という地名の
由来は紀州からの移住に由来するものだという説は、少なくとも
文献史料の上では確認することはできなかった、ということです

これからは辞書・辞典の記述とはいえども、そのまま鵜呑みに
するのではなく、自分で調べるぐらいの慎重な姿勢で臨みたいと
思います

51 :天之御名無主:01/12/06 20:27
>>50
房総半島には関西と同じ地名が他にも沢山あるよ。
移住者がつけでもしなきゃ、ここまで偶然はない。

52 :天之御名無主:01/12/07 14:37
>房総半島には関西と同じ地名が他にも沢山あるよ

例えば?勝浦以外にもどんなのがあるの?

53 :kab:01/12/07 15:00
乱入!
上総の由来は?
聖徳太子展にいってきたんだけど・・・
彼は カズサノ宮とよばれていたんだろ
今日は?宮話題もあったことだし・・・・・

54 :「姓氏と家紋 鈴木氏」:01/12/07 17:07
>>37
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/suzuki.htm

55 :54:01/12/07 17:10
ごめん、少しミスったみたい
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/suzuki.html

56 :kappa:01/12/08 01:40
上総の由来だれか知らないかな?

57 :天之御名無主:01/12/08 06:00
もともと千葉館山ですけど、
「先祖は四国の阿波から来た。安房は阿波の漁師が作った」
てな伝承をじいさまから聞いた。
んなアホなと思ってたけど、徳島から館山来るのに、
黒潮のったら一発だと知った。
というより四国沖で流されると自然に房総半島南端まで流される。
てことは、紀州沖で遭難しても千葉まで来ない?
逆はけっこうしんどいかもしんないけど。
千葉はもともと「フサ」と言う名前で、近畿に近い方をカミフサ
→カズサってつけ、遠いほうをシモフサ。アワだけういてる。

58 :kappa:01/12/08 12:21
そうかそうか
でも 上総=かずさ の読みには無理があるんだけど・・
和歌かなんかに出典があるのかな・・・
自分でも調べては見るけど・・・
上総の宮じゃなく 上の宮らしいが
これが 出典じゃないだろうし・・・
潮流は八丈あたりで逆コースがあったかな 風かな?
泡を吹く? そんな 小さい話じゃないよ・・・・

59 : ◆URc37si. :01/12/08 12:25
 ついでに乱入!!!
 「ヤマタイ国は九州のこと説」(既出ならスマソ)
日本=「ひのもと」=「阿蘇山周辺」
 注)太古「ヒ」という音は「膨大な熱量を出すもの」という意味で
   日・火はすべて「ヒ」で表わされていた。
卑弥呼=「ヒ」の国の巫女
 ちなみに卑弥呼の後継者は「ヒミココ」と呼ばれていた。
肥前・肥後・日向
 阿蘇山(=ヒ)を中心にそれぞれ前側・後ろ側・向かい側。

出典は「ヤマタイ国はなかった」より(作者は東北大の教授だった)

60 :kappa:01/12/08 12:36
カミフサ=カミツフサ だね
カミーカンーカムーカウ?
カウツソウの国
カウノ宮?  まだ無理があるかな?
上野=コウズケ ののりだけど

61 :ひでよし:01/12/08 13:24
肝心なことを書くのを忘れていました
紀伊の勝浦に関してですが、その地名は「かずらのように長くのびる地形にちなむ」と
いい、「葛浦」とも書いたといいます

文献上の初出は正安2(1300)年の引旦那注文案の端裏書に「カツラノオイトの分」と
あり、「阿波国大野本庄岩峯寺引旦那」と記されているものです
鎌倉時代の末期には熊野信仰に関係する文献が残されていて、元徳2(1330)年の
旦那譲状に「葛浦左衛門入道」の旦那として上総国・摂津国とあることから熊野信仰が
関東地方にまで及んでいたことがわかります

慶長7(1602)年の二階堂名字相論済差入証文の副紙に慶長10(1605)年の日付と
ともに「其時之御使廊房隠居 勝浦金左衛門」とあることから、この時期から「葛浦」から
「勝浦」へと表記が変わったようです

62 :kappa:01/12/08 13:42
聖徳君と武家?源氏との関連は?

63 :kappa:01/12/08 13:55
俺様は カツラじゃないよ
クズ??? 糞にくらべればましだぜ!!!
カズラフジ? 実のならないぶどう vine yard
フジサン!!! ・・・紋章ねー・・・・?????

64 :天之御名無主:01/12/08 14:02
http://village.infoweb.ne.jp/~fwih6330/nenpyo/masaki.htm

ここを読むと正木氏は房総の水軍を配下にしていたようだし、熊野とも
海を通じて関係していたかもね

65 :kappa:01/12/08 14:07
あのー 朝廷時代のことが知りたいなー
カズラフジじゃなくツヅラフジ でした・・・・・・・
頭に クズが詰まってるかな???

66 :ひでよし:01/12/08 15:37
福岡県津屋崎町宗像郡勝浦、徳島県勝浦郡勝浦町にも「勝浦」の
地名が残されています
どちらも古代の海人の居住地と伝えられ、中世には水軍の根拠地
となった所ですので、もしかすると紀伊の勝浦と関係があるのかも
しれません

67 :kaufu:01/12/08 16:07
だから 海流じゃないのかな?
九州、沖縄、フィリッピンあたりは急行がでてるよ
・・・宣伝省・なあ エッチ かましてーぇ 略して nhk
のまわしものでは ありません・・・・

68 :grosso:01/12/09 05:50
"近つ飛鳥"と"遠つ飛鳥"って地名なんですけど
飛鳥地方に近い方を"遠つ飛鳥"、遠い方を"近つ飛鳥"
となってるんですけど
これについて誰か知ってる方いないですか?

69 :天之御名無主:01/12/09 08:05
確かそれは難波宮から見ての遠近だったんじゃないかな?

70 :kuku:01/12/09 12:55
上になぜカズという読みがあるのか教えて

71 :天之御名無主:01/12/09 13:37
カミツフサ→カウツフサ→カウヅサ→カヅサ

このように転じたんじゃないの?
別に「上」を「カズ」と読んでるわけじゃないと思うよ

72 :kuku:01/12/09 13:52
うーん まえのカキコは読んでもらってないようだなー
聖徳太子に上の宮という称号がついていて・・
それが すでに??? カズサと読まれていた節があるように
感じられるんだけど・・・・・ということ
ま 辞書には 上=かず とはでてはこないからね

73 :kuku:01/12/09 14:52
カウヅ島は揺れてるのー

74 :47:01/12/09 21:20
>ひでよしさん他
勉強になりました(ほんとは自分で調べなきゃ

75 :ユライ:01/12/15 10:36
42八幡平(ハチマンタイ)>
 古代の筑紫の磐井時代に中央政府は熊本あたりのオソ・熊襲を
討伐して、東北に連行しました。戦国期に九州の渡来系の土豪は
北東北に流入したのは事実です(これにサンカ系がいる事は地名
から推定できる)。彼らが「八幡だ」を「八幡たい」と言ったの
が地名になった、というのはどうですか?「そうたい」と言って。

76 :このスレの1:01/12/23 10:25
オカ板は私が立てたスレではないのですが、最近かなり荒れて
寂れてきちゃいました。

こっちの繁栄を願っております。

77 :天之御名無主:01/12/23 11:33
ふへへへ、こっちでも荒らしてやるかなっ。うふふへへ!

78 :天之御名無主:01/12/23 19:10
磐井の時代は八幡平はまったく朝廷の勢力圏ではない。当時はせいぜい福島県ぐらいじゃないか?
あのあたりが勢力圏になったのはどう見てもアテルイ反乱の鎮圧後だろう。
だから熊襲を八幡平まで連行したことはありえない。
戦国期うんぬんはどうか知らんが、多分それ以前からそう呼ばれているだろう。
それに八幡平・迷ヶ平などの「たい」地名は文字通り平らな場所につけられているから、
語源が「たいら」なのは間違いないだろう。問題はなぜ「たいら」ではなく「たい」なのかということ。

79 :天之御名無主:01/12/23 19:14
安房と阿波の関係というと、忌部氏のことが出てないな。
古代、安房も阿波も忌部氏の勢力圏だった。
安房一番の大社・安房神社は忌部氏の祖・天太玉命を祭る。
阿波の忌部の一部が安房に移り同じ地名をつけたといわれているが。

80 :天之御名無主:01/12/23 19:17
だから57のおじいさまの伝える伝承というのは実は相当奥の深いものかもしれない。

81 :gav ◆GA9BCNoI :01/12/24 01:36
カズサノミヤタイシ はどう書くんだったっけ?

82 :天之御名無主:01/12/24 08:24
それって本当に「カズサノミヤ」って読むの?
「ウエノミヤ」じゃなくて?

83 :天之御名無主:01/12/26 15:05
王子っていう地名をよく耳にするけど、王子様じゃないよね?

84 :天之御名無主:01/12/26 16:01
熊野信仰と関係

85 :天之御名無主:01/12/26 16:10
さあ、みんな、地名を書き込んでね。
これってなんの意味?とかの理由をたずねてもOKだよ。
もちろん、たずねる事ばっかりで理由を書き込むやつはほとんど
いないって状況でOKだよ。どうせ、返レスはなんだろうね?とかだし
そして、オカ板みたいに地名だけ質問するレスで埋め尽くされて
滅んでくスタイルでいいよー。
(まあ、どうせ茶々入れないでも新陳代謝の悪い民俗板じゃ触らない
でもほっとけば崩れてくだろうけど)

86 : じゃとりあえずクイズ形式で:01/12/26 16:35
信州には塩尻って地名がいくつもあるが、その由来は?

87 :天之御名無主:01/12/26 16:39
↑うっふふ、知るもんか。

88 :vak ◆GA9BCNoI :01/12/26 19:52
>>82
甲子園に出てなかったっけ?
かづさ と呼んでいた気がするんだけど・・・

89 :天之御名無主:01/12/26 20:04
83>歴史学の石上堅によると、寺に隷属した童子のこと。頭の禿た童子
もいっぱい居たそうです。昔は童子村があって農耕に従事、後の毛坊主
、自作農や庄屋のルーツの一つです。隷属者の最上位は神主、次は神楽
芸能関係と序列がありました。童子は皇子や王司などと書いてるそうで
す。熊野にある〇〇王子も同じで修験の「溜場」。
東京の八王子も同類です。

90 :83:01/12/26 21:28
>>89

詳細な解説ありがとう。
勉強になりました

91 :天之御名無主:01/12/26 22:29
90>どう致しまして。書き落としを加えます。
 童子の前身は、五色の賎という日本の奴隷制度の寺奴・神奴です。
東大寺奴婢帳、法隆寺?奴婢帳などに奴隷の名前と年齢が沢山のっ
ます。蝦夷討伐という天皇家の東北への侵略戦争で、敵のエミシを
捕虜に、俘囚と呼び、九州から北関東までの広い範囲に、強制移住
しました。その時の奴隷が最多でしょう。別所・印内・印池・垣内
・産所などの地名が関連しています。その後裔が我々です。
 童子は寺社が潰れた場合解放されましたから、廃寺のある所は注
意です。今でも古い神社との氏子関係で残っています。阿部弘蔵
『日本奴隷史』や菊地山哉『別所と俘囚』を図書館でぜひご覧下さ
い。私達のグループは本と調査で勉強してます。

92 :天之御名無主:01/12/27 14:50
>>89
あれ?
八王子ってのは、スサノオの八人の子供のことじゃなかったけ?

93 :天之御名無主:01/12/27 19:00
92>和歌山南海岸?ではそういいます。
 記紀辺りからの引用で、インテリの熊野山伏の話では
まいでしょうか。説明する方がその末裔でしょうか。
ただどのように証明するのでしょうか?
 方法は妥当なのでしょうか?

94 :天之御名無主:01/12/27 19:19
42>青森のとっさんから聞いてきてやったぞ。やっぱし年寄り物知りだ。
「平」は岱(たい)からきたとされます。「八幡」は「八幡信仰」から
きたとするのが自然なのですが、ここは湿地が多いことから「やわらか」
→「やわた」→「八幡」 となったという説もあります。(岩手の地名
物語から)。当地では「平地・台地」を「タイ」「ティ」と呼んでいます。
そして、湿地は「ヤズ」「ヤジ」「ヤチピタ」などといいます。八幡平は
高い台地になって、その台地には多くの湿原があります。「ヤチピタ」と
「タイ」からきたと考えるのも面白いです(私見です)。ありがとう。

95 :天之御名無主:01/12/28 08:32
>>93
和歌山の話ではなくて、東京都八王子市のことなんだけど…
八王子の地名の由来はスサノオと8人の子供を祭った八王子権現が
あったからだと聞いたんだけどね

http://homepage2.nifty.com/sole/hachi/map/map00.htm

96 :天之御名無主:01/12/28 11:54
熊野の王子と、八王子の王子は一緒だと思ってました。
そうか、違うんだ。
ところで、「本質は一緒で記述レベルの細部だけ違う、結局同じ」って
ことはありませんですか。よくありすぎる話なんで、一応確認など。

97 :天之御名無主:01/12/28 12:27
95>非江戸人なので八王子地元の事はちーとも知りません。今度勉強
しときます。スサノオ伝承、「権現」などといってるなら、記紀か何
かを元にした修験の作り話でしょう?華厳菩薩とは何物?スサノオに
八人子供がありか?いつ八王子としたのか?など。北条氏が拠点を置
いたとこからは新羅人の勢力圏みたいですね。スサノオ・祇園・牛頭
天皇、いずれにせよ反天皇側賎民の代表名詞のようですね。
 郷土史家は『新しい歴史教科書』のように我々の忌まわしい惨めな
過去を「美化」する悪癖があるのです。合言葉は事実に忠実にです。

98 :「王子」というのは:01/12/28 13:42
神の子供という意味で、熊野の子供なら「熊野王子」、山王の子供なら
「山王王子」と呼ぶみたいですね
そこから転じて、本社に対しての末社という意味で使われることもあった
みたいで、攝津から熊野へと続く熊野古道沿いには「熊野九十九王子」と
呼ばれた神社が点在していたそうです

また、神社に仕えた奴婢を王子と呼ぶこともあったようで、こちらは寺院
における童子に相当するものだったようです

http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/koindex.htm

99 :天之御名無主:01/12/28 17:35
89>歴史学者の石上堅氏の『歴史民俗学大辞典』ですね。
皇室のかたがたも読んでおられると書いていますね。
 98のHPの初めにかわゆいねーちゃんが写ってます。
なあるほど、何とか王子でこれらのねーちゃんとXXする
んだったら熊野の山の中掻き分けても、皇族が密にたか
る蟻のように行列をなすはずでしょうな。わかりやすく
ゆうと茶屋女ですか。

100 :天之御名無主:01/12/29 21:42
地名のルーツを調べるなら『野史呼び名辞典』をおすすめ。
編集しながらびっくり・やっぱり・すっきりの連続でした。
ついでに苗字のルーツも連想できます。

101 :天之御名無主:01/12/29 21:46
宣伝か?

102 :天之御名無主:01/12/30 00:46
関西地方の地名は部落がらみが多いので大きな声で言えない所が多い。
旧名の部落名−>明治時代の新地名、これが差別のもとに
なるので更に新地名になっている悲惨な場所もある。
元々の部落名はもう知る人はすくない。明治時代の地名は
地図上の地名からは抹殺されているが公営住宅の名前、
バス停の名前に残っている場合が多い。
大阪市の場合は地名を決める局、住宅供給公社、交通局と
分かれているため部落名撲滅が徹底していないのですね。
官僚のセクショナリズムまんせーですな。
こういう風に書くと差別主義者のように思われるが地名は歴史を
表していることが多いので行政の手でいったん消されると数世代で
消えてしまう。それが差別的な意味を持ってる場合でもそうです。
前述のように明治によかれと思って命名したのが現在では差別地名と
なっていることを考えると下手にいじらないのが正解と思う。
実際に兵庫県伊丹市の阪急伊丹近くは部落であった。
しかし、大阪市のように解放会館、部落指定、地名変更など一切行わなかったので
今はここが部落であったことを知る人もすくなく「伊丹」いう地名を2chの
人権板に書いても削除されないが私が住んでいるJRの向こう側の地名を書くと
あぼーんされてしまうのです。
とりとめのない話でスマソ。

103 :天之御名無主:02/01/07 15:01
>>97
う〜ん、古代から現代まで一気にすっ飛ばすような人に
「合言葉は事実に忠実にです」と言われてもなあ…

例えば「北条氏が拠点を置いたとこからは新羅人の勢力圏みたい
ですね」という書き方から推測すると、北条氏は新羅人と考えている
みたいだけど、それが果たして「事実」なのか?とか、「本所」に対しての
「別所」や「散所」であるのに、それらのすべてが古代の俘囚に結び付く
というのが果たして「事実」なのか?とかさ、その辺りが疑問だね

104 :97:02/01/09 12:55
103>北条氏は新羅人,果たして「事実」なのか?、「本所」に対しての
「別所」や「散所」であるのに、それらのすべてが古代の俘囚に結び付く
というのが果たして「事実」なのか?
 反証を具体的に教えて下され。

105 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

106 :具体的な反証ってのは、:02/01/09 15:05
>>104
戦国大名の北条氏(後北条氏)の初代である早雲は謎の多い人物で、
その出自にはいろいろな説がある
(伊勢の素浪人とする説や伊勢氏の被官であるとする説など)
しかし、早雲が新羅人だとするには根拠がなさすぎる
古代に新羅系の渡来人が領有したとはいえ、中世の北条氏がそこを
領有していたというだけで、「北条氏=新羅人」になるのか?
だとしたら、北条氏よりも前に八王子周辺を領有していた扇谷上杉氏
はどうなるのか?

散所や別所に関しては、そもそも古代の俘囚がどれぐらいの範囲に
分布していたのかなどの実態についてもわからない点も多くあるのに、
そのすべてを現代も残る地名に結び付けることができるのか?
それは「印内」や「垣内」についても同様で、そこに俘囚がいた寺社が
存在していたのか、などは個別に検討していかなければならないので
はないか?

107 :天之御名無主:02/01/09 15:09
ついでに書いておくと、古代の寺奴・神奴が「後の毛坊主 、自作農や
庄屋のルーツの一つ」というのもかなり疑問だね
寺奴・神奴がどのような経緯で定住し、財力を蓄えていったのかなど
も考えていく必要があるんじゃないの?

108 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

109 :天之御名無主:02/01/10 20:13
106>散所や別所、印内や垣内についても個別に検討していかなねば。>
十年前から文献だけでなく、実地調査で実行しています。限定されて
はいますが、菊地山哉や柴田氏などより進んでいると思いますよ。
一つは地名による方法です。他の方法(秘密)で補っていますが。
>古代の寺奴・神奴が「後の毛坊主 、自作農や庄屋のルーツの一つ」>
 歴史民俗学の石上堅の説です。これも吟味できるかもしれません。

110 :天之御名無主:02/01/10 23:32
106>関西では北条も上杉も地名から研究して新羅系だそう
です。関東で調査していませんので関東について確証は
ありません。
関東の方なら実地調査していただけませんか。

111 :関東人ではない106:02/01/11 09:18
>北条も上杉も地名から研究して新羅系

新羅系の地名があったとして、そこに居住する、あるいは領有する
人が新羅系だとすることはできないよ
第一、新羅系の地名って、どんなのだよ?

112 :天之御名無主:02/01/13 19:22
111>どこにお住まいかな?沢山あるので近くなら具体的に示しますが。
「帰化人」とつく歴史の本にのってますよ。
<新羅系の地名があっても、そこに居住する、領有する人が新羅系だ
とすることはできない>とは必ずしも言えない。具体的でないから
これ位しか答えようがないよ。

113 :ひでよし:02/01/14 16:54
>>91
笹本正治氏が「博士と金山」(網野義彦編『中世を考える 職人と芸能』
所収、吉川弘文館、1994)で、「いんない」(院内、印内、陰内)という
地名について書いておられます

この地名は東海・甲信越地方に多く見られるのですが、それは戦国期
から活動が確認できる「院内」と呼ばれた民間の陰陽師に由来している
のではないかと推測されています
ここで興味深いのは、「いんない」という地名のいくつかは鉱山との関係
があるらしく、例えば京都市福知山市大字院内にはかつて銀山があった
といい、秋田県雄勝郡雄勝町には院内銀山があるなど、鉱山の開発や
その他の普請などにも陰陽師深くが関与していた形跡が見られるという
指摘です

これから考えますと、「いんない」の地名には古代の五色の賎には由来
しないものもあると思われますので、いろいろな視点からの考察が必要
になるでしょう

114 :天之御名無主 :02/01/16 10:58
113>ありがとう。陰陽師も修験と関連があるようで、山伏といえば神主
になり神事をしたり、神楽をしたり、祈祷や祓い、諸芸能したり、また
石臼で製粉したり、山木伐木・木出、鉱山開発、偵察・隠密、僧兵、運
びや、焼畑、乞食、物売りなどで、一般にさまざまな仕事に関連し
ているようです。また居住地により院内とも産所、近年では香住、霞、
物識などとも。おっしゃる通り個別研究がいるようです。地方により
そのルーツが守戸とも三所とも別所ともいいますので、その元は一般に
神奴、寺奴、社奴の縦と横のネットワークではないかと予想しています。
その例は石見と印内銀山、佐渡・甲州・佐渡の金山をリモコン経営した
猿楽師での大久保長安がいるから。印内は境内と同じ意味でしょうか?

115 :ひでよし:02/01/23 20:08
「さんじょ」(散所、産所、算所)という地名に関してですが、それが古代
の俘囚に結び付くようなものなのかは、個人的には疑問を感じます

「散所」という語の本来の意味は「律令官職制そのもの(とりわけ衛府
の制)に深く由来」するものであり、「内舎人・近衛・雑色・衛士らがその
本所を律令官制に置きながら、勅宣などによって院宮諸家に賜与され
散直している状態を散所といった」という丹生谷哲一氏の研究(『日本中
世の身分と社会』、塙書房、1993)があり、これに従うとならば、「散所」
と俘囚を結び付けることはできなくなります

おそらくは「非人」などが集住していた中世期の「散所」を、古代の俘囚
に結び付けて考えられているのでしょうが、平安時代の「散所」の用例
が律令官職制に関連するものが多いことから、そのように考えることは
難しいのではないでしょうか

116 :訂正です:02/01/23 20:16
「これに従うとならば」 → 「これに従うならば」

「別所」に関しての記述は丹生谷氏の論考にはなかったのですが、
こちらの本来の意味も「散所」と同様に「本所」に対して用いられた
もので、律令官職制に由来するものなのかもしれません

117 :天之御名前主:02/01/23 23:41
115>幾つか引用します。産所とは、1)室町末期に貴族社寺の雑役を勤め
地子を免除された地区の民で、浮浪者多し。2)高島郡安曇村で御陵の守
戸。3)近江・遠江で印内。4)三上郡産所村に東光寺跡と同寺縁起保存
の家ありで上古の守戸の流れ。5)守戸村・山城・近江・攝津で守戸を山所
(の者)。6)中世末期・ほうきで陰陽師。「散所」。7)遠江で声聞師。
8)紀伊・近江・中国・山口で守戸、三条とも。まだありますがこれで。
 奈良本『中世隷属民と芸能』に出ています。でも三所が語源でしょう。

118 :ひでよし:02/01/24 12:26
律令体制から権門体制への変遷に伴い、「散所」という語の意味も
変遷していったと考えられています

寺社や公家の勢力が強まるにつれ、本来は公的な存在として「賜与」
されていた官人がそのまま権門に従属する私的な存在へと変遷し、
さらには権門の本家に対して、荘園や別荘という意味へと変遷したと
考えられ、その過程で、生活に窮乏した流浪民や解放された雑戸や
品部が取り込まれるようになり、神人や寄人、供御人と称するように
なっったのではないでしょうか

例として挙げておられるもののうち、1は権門体制下の「散所」に由来
し、3,6,7は民間の宗教者・芸能者に由来するものだと思います
残りの2,4、5,8は古代の五色の賎に由来するものなのだとしたら、
「散所」とは関係がないということになります
いずれにしても、個別の検討が必要になるでしょう

119 :ひでよし:02/01/24 12:42
「本所」と「散所」の関係を、わかりやすく表現するならば、親会社から
子会社へと出向している社員を用いるのがいいかもしれません

親会社(「本所」)から子会社(「散所」)へと出向しているということは、
どちらの会社にも所属しているということです
普段は子会社で勤務をしていますが、時折は親会社に会議などで
顔を出すこともあります
しかし、親会社が経営危機に陥り、その一方で子会社が順調に業績
を伸ばしてきましので、子会社が独立することになりました
その時に親会社から出向していた社員は、子会社の社員として残る
ことを決意しました
子会社はその後も成長を続け、求人広告を出したり、あるいは親会社
からリストラされた人材を採用するようになっていきました
そうして一つの独立した会社としての地位を高めていくのでした

こんな感じでどうでしょう?
雰囲気だけでも掴んでもらえると嬉しいのですが・・・・

120 :訂正です:02/01/24 12:51
>>118
「なっったのではないでしょうか」 → 「なったのではないでしょうか」

平安時代の末期頃から、京都の「散所」に居住する声門師や陰陽師の
活動が確認されるようになります
「さんじょ」の地名のいくつかは、そういった宗教者・芸能者に由来する
ものもあると思います

121 :天之御名無主:02/01/24 13:25
======2==C==H======================================================

         2ちゃんねるのお勧めな話題と
     ネットでの面白い出来事を配送したいと思ってます。。。

===============================読者数:81300人 発行日:2002/01/15

どもども、ひろゆきですー。
昨日は警察庁からの偽メールに取り乱しちゃいましたですー。
いやあ、今考えるとちょっぴり恥ずかしいですー。
よーく考えてみると、おいらも以前に「ネタ」と称して”閉鎖騒動”なんか起こしてたんですよねー。
その時のコメントはこんな感じでしたあ、、、↓

>そして、今回のオークションネタは、ネタのわかる人たちへの最後の花向けと、
>ネタのわからない人たちを笑う最後の悪趣味な冗談だったわけです。

まったく、おいらってば自分のことは棚に上げて、なにを言ってるんでしょうねぇ、、、
どうもおいらは自分に甘く他人に厳しいというか、自分の言動と他人の言動を相対的にみる能力が著しく欠落しているようなんですー。
ひょっとしたら、こういうところで「人格障害者」なんて言われちゃうんですかねぇ、、、
警察庁にはあんな高飛車で脅迫めいたメールを送りつけてしまったし、恥の上塗りですー。。。

でもみんなは、そういうとこも含めておいらのこと好きなんだよね?
まさかこんなことで愛想尽かしたりしないよね?
これからも応援してちょ!

んじゃ!

122 :天之御名無主:02/01/24 16:36
垣内ってのは、環濠集落に関係する地名だと読んだ気がするけど…
(うろ覚えでスマン)

123 : :02/01/24 16:50
中央高等学院の従業員「西部」が女子トイレに闖入し
汚物入れを物色して女子生徒の使用済みタンポン・ナプキン等を
個人的に収集しているというのは事実。

中央高等学院では
生徒及びその保護者の個人情報を名簿図書館等に売却しています。
中央高等学院 http://chs-f.com/index.html 中央高等学院福岡校
http://www.chuo-school.ac/


124 :天之御名前主:02/01/24 23:19
118>個別の検討が必要になるでしょう
賛成です。専門家の文献研究だけでは不充分で本質は明らかになら
ないと思います。古い時代は民俗的方法などでは非常に難しいと思い
ますが、現場探索も不可欠です。新しい発見がありますよ。
119>九州の美麗田楽法師、別名一万人法師の本貫地は葛野郡西梅津で、
唱門師、別名「本山所」です。九州では三潴郡に居住、多分表は芸能で
本業は忍びの元締でしょう。三潴もサンジョと読めます。


125 :天之御名無主:02/01/25 15:52
>本業は忍びの元締

はあ?なんか根拠でもあるの?

126 :天之御名無主:02/01/25 19:16
三瀦をサンジョと読めるって、元の読みはミズマでしょ?
どう考えったって当て字じゃねぇか。
勝手にこじつけるなよ。


127 :126:02/01/25 20:10
なんだか意味わからなくなってスマソ。
なんでサンジョと読めるってこじつけられるのかってことを問いただしたく思ったわけで。
すまぬ。

128 :天之御名前主:02/01/25 22:08
125>美麗田楽法師は当時の地頭の配下として九州入りしています。
 当時地頭への目付けとして雑色を重用したと菊池山哉はいいます。
 中世期芸能・山伏・猿楽師などは小谷売僧のように、軍事・偵察・
忍びにも関与してる傾向があります。小説ですが「忍者者」を見て
下さい。ましてや地頭の配下とくれば、そのような推定ができます。
126>今もミズマで、昔水沼の君がいたという事からとなっている筈で
す。こじ付けではありませんよ。サンジョと読めませんか?漢和大辞
典を引いて下さい。またなぜ三瀦という漢字を当てたのでしょうか?
地名には例外がない位、「公にできない」歴史的背景があります。
 海渡(カイト)を江戸時代に民の懇願にもかかわらず替字せずにウト
と読み方だけを替えたり、三町は地図や公称ではサンチョウですが地元
ではサンジョと呼んでいます。山椒太夫はサンジョの頭の意味です。
そうなると三朝も三条も三篠もサンジョという地名研究者の主張も検討
する必要があります。大阪も江戸時代は、正しくも大坂でした。



129 :125:02/01/26 15:32

民間の宗教者や芸能者が特定の権力者と結びつく例なんて、
いくらでもあるぞ
地頭の配下というだけの理由で「忍び」になるんだったら、「忍び」が
あちこちにいることになるな


130 :ひでよし:02/01/26 19:12
>>51
紀伊と房総に共通する地名として、よく例に出される「白浜」ですが、
この両者にはまったく関係がないそうです

紀伊の白浜は大正時代に「白良浜」(しららはま)という景勝地から
温泉が掘り出され、それを大阪商船の庶務課長だった池原次郎と
いう人物が「白浜温泉」の名称で宣伝をしたそうです
それに合わせて温泉の開発を行った「白良浜土地建物株式会社」
が、「白浜温泉自動車株式会社」と会社の名称を変更するなど、次
第に「白浜」という名称が定着していったそうです

「白良浜」から少し離れたところには「白浜」という地名があるそうなの
ですが、そちらは人家のない荒涼とした小さな窪地で、漁村集落が
形成されていたような形跡もないそうです

このようにして新しく誕生した「白浜」という地名は、観光会社主導の
もとで著名になり、昭和15年(1940)の町村合併の際に「白浜町」と
いう名称が採用されるまでになっていったそうです

131 :ひでよし:02/01/26 19:18
ちなみに、房総の「白浜」は『延喜式』に「白浜牧」とあり、地名として
は紀伊の「白浜」よりも古い地名なのだそうです

それにも関わらず、この両者を関連付けるような言説が多いのは、
「近世の紀州漁民の関東進出が、あまりにもドラマチックだったから」
(桑原康宏『熊野の集落と地名 紀南地域の人文環境』、清文堂、
1999)なのでしょうか

132 :天之御名前主:02/01/26 23:06
129>>そうです。多いですよ。見分け方があるようです。
 例えば、島根と広島を貫流する江川は江戸時代船の運行は禁止
でした。あるとき不信な舟がいるというので、調べて見たら藩の
密輸船でした。これを垂れ込んだのは何と、馬子だったそうです。
 芸能・商人・祈祷師・サンカなども密偵・忍び・目付けなどの
公務についていたようです。多いです。陣笠をもつ五反百姓の所に
対岸の農家が米を買いにきたという話があります、ここは地名から
して隠密や必殺屋の集落でした。また藩の御典医(針医者)という
家がありその山奥集落ではランクが最下位、一番上は鉄砲の名人と
いう所もあります。私の実家自作農は被差別部落に対する、家老辺
りに直属の隠し目付。外部から分る証拠があります。もちろん古文書
に表れるのは氷山の一角です。最近でも賞金が出ないのに警察への密
告は先進国中でわが国はトップだそうです。

133 :126:02/01/28 21:50
>>128
そりゃ、読めないこともない。ただ、全てをサンジョとするのはどうなんですか?
全部が全部そうではないでしょう?
ただ、読めるからといってそれに結びつけるのは、短絡的なんでは?

では、なぜ三潴という字を当てたのですか?
「潴」の意味は、「水の集まりとどまった所。貯水池」とでましたが。




134 :111:02/01/29 16:18
>>112
上杉も北条も、中央から派遣された軍事官僚の末裔なんじゃないの?
だとしたら、どちらも「よそ者」ということになると思うんだけど?

>>132
一般の村落にも「郷目付」などと呼ばれた家は存在していたんじゃないの?
それに、犯罪捜査に協力するのは、当然の義務なんじゃないの?

135 :天之御名無主:02/01/29 23:48
133>>すべては・・・・。歴史を一般化するのは大変難しい。だから
学者はそれをさける傾向があります。すべてを検証するなどという
のは土台無りな話でしょう。とっかかりは「読めるから」で始まり
ます。時間が掛かりますし、完全な検証は困難を極める場合があり
ます。どうです、あなたも検証してみませんか?
潴の国語辞典の意味はそうでしょう。しかしサンイ+獣編+者 と
見ることができます。それからさまざまな角度から検討です。
飛鳥をアスカ、日下をクサカとしたり、八人=火としたり、空地=
明地などと使い、国語の感覚では、地名や歴史が不明の事がありま
す。第一あなたの苗字の意味がお分かりですか?

136 :天之御名無主:02/01/30 00:03
133>>「潴」の意味は、「水の集まりとどまった所。貯水池」
三潴の一部は、確か筑後川の氾濫地帯を含んでたように思い
ます。貯水池ではなく、遊水地として利用された時代があるかも
知れません。詳しくは町史を見ないといえません。ただ周辺に
は被差別部落があったようです。その北の久留米市には全国の河
童の総本山・水天宮があり、その宮司真木和泉は明治維新の志士と
なり都で蜂起した歴史があります。

137 :東沢美史:02/01/30 02:06
深夜の寝静まったところで、はじめまして。
私は宮城に住んでいますが「瀦城」に少し凝ったことがあります。
村田付近やや田尻付近にありました。
福岡県大宰府近くの水城に似てますが、宮城は九州とは逆に山の水を貯めて
大堤を一気に決壊させて敵の船や人々に打撃を加えるものだったようです。

「おおぬき」という大字があって「ぬき」とも発音するでしょう。
なんか上の方の方、もしかしてお知り合いの方?かな。


138 :天之御名無主:02/01/31 00:04
137>>東沢美史さん今晩は。いつもお世話になっています。
>「瀦城」大堤を一気に決壊させて敵の船や人々に打撃を加えるもの
ということは、それが破損されないように直ちに修理できるように
また米百姓に水が盗まれぬように、土木工事のできる管理人や番人を
配置する必要があります。また戦時には守備と共に、いざとなったら
身を賭して破壊する必要があります。何かの特権を持つ、そのような
役の人達がいた形跡があるはずですが。いかがですか。

139 :天之御名無主:02/02/01 10:09
134>>
地名は歴史の反映。例えば江戸時代に百万の人口の藩があったとして
五千から一万人が贅沢をするために、残りの人達を食い物にしました。
多数がいかに貧しい・質素な暮らしをしてたかご存知でしょうね。
圧倒的多数の人間を押さえるには彼らを分断し・切り裂く事です。
少数者が多数者の犠牲に上に君臨するには目明・目付・隠密・忍者が
必要で、番太・岡引などが必要になります。幕藩体制に逆らうもの
一切を犯罪者とするのです。もちろん直訴・一揆などはとんでもで
す。私はこのような時代を繰り返さないために勉強しています。
申し訳ないけど、現在ならともかく<犯罪捜査に協力するのは、
当然の義務>などは、歴史を話す立場としては、反対です。


140 :134:02/02/01 10:52
>幕藩体制に逆らうもの一切を犯罪者とするのです。
>もちろん直訴・一揆などはとんでもです。

律令体制でも国家に配する反逆が一番重い罪だったって知ってるか?

>私はこのような時代を繰り返さないために勉強しています。
>申し訳ないけど、現在ならともかく<犯罪捜査に協力するのは、
>当然の義務>などは、歴史を話す立場としては、反対です。

それならば、俘囚や五色の賎についても正しい知識を持つように
努力したらどうなの?
それに、罪人に対する捜査や逮捕に協力することは、江戸時代でも
法令に定められてるし、民衆が治安を維持するために密告をすること
なんて、別におかしいいことではないはずだが?

141 :天之御名無主:02/02/01 21:54
140>>
>律令体制でも国家に配する反逆が一番重い罪だった?
知ってるよ。法の上では。
>俘囚や五色の賎についても正しい知識を持つように努力したら?
素人ですが、頑張ってますよ。何を読めば「正しい」知識が得られる
のですか?法律べったりでない立場で、歴史観の違いでしょうか。


142 :東沢美史:02/02/01 22:33
>>138の天之御名無主様、聞いた話ですがお答えします。

水城を守る
大堤、大貯水場はどうも古代〜戦国期に土木工事で作られた言い伝えが多いです。

堤の水を守る人をは「どうもり」といいます。近くのおばさんから聞きました。
おばさんの実家筋はかつて一族の一方が「やまもり」
一方が「どうもり」でして
明治のはじめまで任せられていたそうです。
戦国期には、堤を決壊させた水が川を下り
城に近づいた4キロ先の敵達に威力を発揮します。

143 :天之御名無主:02/02/02 08:38
地名に関係ない話はよそでして下さい

144 :天之御名無主:02/02/02 12:01
138です。東沢美史 さんありがとうございます。
 堤の水を守る人はふつう水守です。水城には堂があったのでしょう。
堂森でも堂原でもいいようですね。何を祭った堂なのでしょうか?
 山守か山森かわかりませんが、水を供給する山か林の管理にあたった
人でしょう。

145 :_:02/02/02 14:46
>>143
ケツの穴のちいせぇやっちゃ

146 :143:02/02/02 16:32
別に関係ない話をしてもいいけど、「地名からして新羅系」とか「地名からして
必殺屋」とかがわかる地名の話をしてほしいんですよ
そうじゃないのに、わけのわからん隠密の話とかされても、スレ違いですとしか
言いようがないでしょ?

147 :質問があるんですが…:02/02/02 19:50
>>117
「三所が語源でしょう」とありますが、「三所」ってなんですか?
三つの場所という意味で、 >>115とか>>118とかに書いている
「散所」とは違うものなんですか?


148 :天之御名無主:02/02/02 22:05
147>>
サンジョは産所、参所、散所、三所、算所、珊所、燦所、蚕所
三篠、三朝などとも書くと、地名研究者や柳田国男は言っています。
とにかく地名は当て字が多いようです。もちろん漢字に意味を持たせ
ている場合もあり複雑です。柳田国男全集の索引のある巻を見られる
とよいです。三所権現は別の意味で使ってるようです。
サンジョがもろにでるのは林家辰三郎『歴史における隷属民の生活』
他に、本居内遠『賤者考』、
菊池山哉『賤民族と先住民族』『別所と特殊部落』
喜田貞吉『民族と歴史』『賤民体系』
石井良助『江戸の賤民』、原田『部落差別の歴史』など部落史の本
などが有名です。大きな図書館にはあります。
146>>
笄町は甲賀者の集落だそうです。また伊賀という地名は沢山あります。

149 :147:02/02/03 14:10
「サンジョ」という語の本来の意味について質問したんですけど…

150 :天之御名無主:02/02/03 23:21
149>>書くのが面倒なので、熊野ライフから無断引用します。
河原と散所
「屠は、よろずのいきたるものを、ころし、はふものなり。これは、りょうしというものなり。
沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。(中略)
りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」

と、真宗門徒の聖典・五五三頁にあるようですが、

そのような賤民群の中に、河原と散所の二つの流れがあったとされています。
時代が下るにつれて散所の民も河原の民との区別なく賤民とされたようですが、
平安末期頃に、神社や寺院の所有する散所に流人や難民が入りこんできます。
そうした人々は雑業に従事する人々でありましたが、
散所に住居する条件として、支配社寺の所定の奉仕義務を負わされることになります。
それは巨大な支配力をもつ社寺に隷属することで、逆に保護を受けることでもあります。
それにくらべて河原の民には隷属の義務もなかったかわりに何の保護もなかったといいます。




151 :126:02/02/07 22:14
>>135-136
三潴だけでなく筑後一帯には多く被差別部落があります。
ただ単に読めるから、被差別部落があるからといったことを理由にするのは、論拠に乏しいですね。
しかも、水天宮は「河童の総本山」とはいつの間にそんことになったのでしょうか?
水天宮由緒http://www.suitengu.com/info.htmlを見たところ、そんなこと一つもないではないですか?




152 :ひでよし:02/02/08 15:26
福岡県三潴郡三潴町について『日本地名大辞典』で調べてみました

『日本書紀』にはその一帯に勢力を持つ豪族「水沼君」(みぬまのきみ)
がいたとあること、『和名抄』や『延喜式』に「三潴郷」の地名が見えること、
『和名抄』には「美無万」と訓があることがわかりました
これらのことから「水沼」から「三潴」に表記が変わっても、この頃には
「みぬま」と呼ばれていたことがわかります

それが鎌倉時代の文献では「みぬま」と「みずま」が混同して使われる
ようになり、その後は「みずま」という呼び方が定着していったようです

153 :ひでよし:02/02/08 15:40
「潴」は「みずたまり」とも読みますので、「沼」から「潴」へと表記が変わる
ことは十分にあるとは思いますが、「三潴」を「さんじょ」と読んでいたという
形跡は、僕が調べた範囲では見出せませんでした

「三潴」を「さんじょ」と読めなくはないという程度では、いささか根拠に乏しく、
「さんじょ」という地名が被差別部落と関係する地名でもあるのならば、もう
少し慎重に検討する必要があるのではないでしょうか

154 :天之御名無主:02/02/09 19:23
>>148
>伊賀という地名は沢山あります

隠密ってさ、地名だけで伊賀者だとバレるような場所に
住んでるものなの?
それじゃ、隠密になってないような気がするぞ

155 :天之御名無主 :02/02/09 20:58
154>>
現在市販されてる地図の上での話です。江戸時代に庶民が物見遊山の
絵図の他は、地図を買えたとは思えません。地名を途中から変えてる
かも知れません。また伊賀者も上層部にはパトロンがついていたし、
権力を持っていたようです。もちろん監視される側も気づいてた感じ
です。下層(下忍)も3〜5反程度の田圃を耕作していたようで、それ
でも近隣の百姓に米を売ってた所もありますから、公務からの収入など
があったのでしょう。伊賀者の上忍は目付や商人になった者が多くおり
ます。京都の公事宿小川家の話は、忍者物の本に出てきます。
 普段は目付・密偵ですが、いざ戦となると、軍の先鋒を務めますので
集団的な居住の必要があったものでしょう。検校にしろ長吏にしろ、その
地名には高々、座頭や小頭など頭(現地幹部)クラスがいて、上層部は
居住しておらず、別の集落にいたようです。


156 :天之御名無主:02/02/10 09:08
周辺住民はそこが伊賀者の集落だということを知ってるんでしょ?
それだと、隠密としての任務に支障をきたすんじゃないの?、という
ことを聞いたんだよ

157 :天之御名無主 :02/02/10 17:23
151>>水天宮は「河童の総本山」
かつて地元で市長から聞きました。寺社の由緒くらい
奇麗事が多いのは調査する者にとり常識です。郷土史を
美化したい傾向が根強いのです。
ひでよしさん
>>「三潴」
地元の事は詳しくはありません。分ったらおしらせします。
重要な事は地名一つも「公称」と「実称」があり、場所によって
は全域、二重の地名があります。後者は「多賀谷氏のいた最強の
海賊の島」(屋久島の伝承です)広島県蒲刈島で、これには歴史
的な背景があります。三町と書いて地図で「さんちょう」ですが、
現地の人は「さんじょ」と読んでてびっくりしたとある民俗学者
が言ってました。精査はしていませんが、ある寺の関連民から発
した集落のようです。

158 :天之御名無主:02/02/10 21:56
153>>ひでよしさん
>三潴をさんじょと読めるという程度では云々。
→124>九州の美麗田楽法師、別名一万人法師の本貫地は葛野郡西梅津で、
唱門師、別名「本山所」です。九州では三潴郡に居住。
林屋辰三郎『中世芸能と隷属民の生活』、菊地山哉『別所と俘囚』、鹿子
島『部落解放・福岡』の論文のほか民俗学論文があったようです。記憶だけ
で書いていますのですみません。京都の梅津村は産所としては有名です。表
稼業が唱門師=陰陽師の産所の太夫(頭)が配置替えになった以上はそこが
散所になるのは政治的には常識と考えています。
そこが近世被差別部落だったか否かは不明ですが、三潴郡にはあったよう
です。言うまでも無く中世は被差別集落です。
地名以外で検証した訳ではありません。あしからず。

159 :ひでよし:02/02/11 09:12
既に書いていますように、「三潴」という表記は平安時代の後期には
用いられていたことは、『和名抄』(962年成立)や『延喜式』(927年
成立)の記述から明らかです
その「三潴」という表記が、中世期の唱門師や陰陽師とそのまま結び
付くものなのかは、個別に検討するべきなのではないかと思います

それと、これはややスレ違いになるのですが、唱門師や陰陽師が居住
する「さんじょ」と呼ばれた集落が、「言うまでも無く中世は被差別集落」
であったとは僕は考えていません
中世の「職人」に対する神聖視が弱まり、卑賎視が強まるのは、後期に
なってからだといわれています
「言うまでも無く中世は被差別集落」であったというのならば、その根拠
を明示し、その上で個別に検討するべきなのではないかと思います

160 :天之御名無主:02/02/13 03:07
東京都調布市
調布の名称の起源は、遠く飛鳥時代、大化の改新によって
「租庸調」の税制度が日本に採り入れられたころに始まります。
「万葉集」の巻14・東歌に、
「多摩川にさらす手作りさらさらに 何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」
とあるように、昔の調布地域は布の産地で、多摩川の清流を利用して
古くから布づくりが盛んに行われていました。この多摩川でさらした布は
調(その土地の生産物を納める税)として朝廷に納められ、「調布」の名
で呼ばれていたことから、これが市名の由来であるという説があります。

161 :天之御名無主:02/02/13 03:27
>>160
多摩川上流の青梅にも調布という地名があるね。下流の大田区田園調布
も本来はただの調布。


162 :名無し:02/02/13 06:26
「経塚」
法華経が埋められた塚があるからだって。
柳田国男の本に書いてあった。

163 :名無し:02/02/16 18:43
「野上」ってどうよ。
東京都青梅市や埼玉県にあるようだけど。

164 :天之御名無主:02/02/16 19:38
>>162
何日か前の新聞に、熊野で最大級の経塚群が発掘されたって書いてたな

165 :奈々氏:02/02/16 20:55
>162
江戸時代の『絵本御伽品鏡』にこうあります。

傀儡師
このやうな 操り人形 古(いにしえ)は東の野上 今西宮

どうやら、「野上」とは関東地方と関係ありますね。

166 :ひでよし:02/02/18 09:01
>>158
西宮の戎神社に隣接する「産所」村に傀儡子が居住していたこと、
百太夫が淡路島の「三条」村に人形浄瑠璃を伝えたことなどから、
宗教者・芸能者が居住する「さんじょ」と呼ばれた村があったことは
確かです

しかし、美麗田楽の起源が、中世期に地頭が連れてきたことなのだ
としたら、平安時代後期にはすでに「水沼」から「三潴」へと表記が
変わっていることから考えて、そこには「三潴」を「さんじょ」と読ませ
ようとする意図はなかったのは間違いないでしょう

繰り返し述べていますように、個別に検討をすることが重要なのでは
ないでしょうか

167 :天之御名無主:02/02/18 16:12
>>165
傀儡師がいた「野上」って、今の地名で言うとどこになるの?
それと、関東地方にいくつかある「野上」は関係あるの?

168 :山野野衾:02/02/18 17:15
>162
「狂塚」という表記もあります。地域によって色々伝承がある様ですね。

169 :天之御名無主:02/02/21 23:07
159>>三潴の件は文献からの推測で未調査に附き後にします。
 山科散所について八切止夫説『忍術論考』から引用します。
 年貢もなく雑色の行事を担当、1252『近衛家所領目録』。
 「中将朝臣云、白馬朧近衛、称散所随身、前例不然也」
1013『小右記』正月四日の条に関し、散所とは山所、産所の当
字をするが、桓武帝が京へ都を定めた時、天孫系に刃向った原住系
を捕まえ収容した捕虜収容所(印内・印池)の分散収容所のことで
あり、彼らは白山信仰で白旗を立てていた連中・・。
 「山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹取の者すみ、茶筅売り、唱門
師支配」『山州名称志備要』。「山科在所より細竹280本持来る」
『言経卿日記』天正十三年正月十三日。関連して、散所系原住民は
元来遊牧民族で一切農耕はしない、山科・・細竹や灯心の物納があ
ってそれで換金はできたが、飯米の年貢はなかった事実の証明。
江戸期延宝二年坂内直頼『山城四季物語』に「七月二十四日六地蔵
参り・・山科・・」。他のサンジョも見つかれば紹介します。

170 :奈々氏:02/02/22 06:27
>167
群馬県にも、「小野上村」ってありますね。

171 :天之御名無主:02/02/23 07:32
辻はどうだ。由来はどうだ。

172 :天之御名無主:02/02/23 10:28
>>169
それらの記述からでは、「散所」が「天孫系に刃向った原住系を捕まえ
収容した捕虜収容所」であったと推測することなんて出来ないと思うの
ですが…

しかも、「散所系原住民は元来遊牧民族」であるとしたら、、竹細工や
陰陽道、千歳万歳を行うのはなぜでなんでしょう?

173 :天之御名無主:02/03/12 07:55
神奈川に海老名と言う市があります。由来を調べたところ
ここ一帯に「海老名」と言う地方豪族がいたそうです。しかし
「海老名と言う豪族が海老名という地名を取って海老名と名乗った」か
「海老名と言う豪族の名をとって海老名と言う地名になったか」と
あり。まだ分かってないようです

174 :天之御名無主:02/03/12 10:59
鶏が先か?卵が先か?さあどっち?

175 :天之御名無主:02/03/13 23:42
埼玉県の大宮って、なんで大宮なのでしょうか。
天皇がいたということもなさそうですし。

176 :天之御名無主:02/03/14 21:58
>>175
神社があるじゃん

177 :天之御名無主:02/03/14 22:20
うちの近くは「柏ヶ谷」って地名なんだけど
柏の木が沢山生えてたからかな?

178 :天之御名無主:02/03/15 00:36
173>>
海老は海老済(香川)地名と同じと本にあり。エビナは平安時代
に江首とかき、古代海人族の江人の首領。官奴(国家奴隷)で漁労
により膳部に仕える者。愛媛の恵久美(えくび)地名は、江頚とも
書きましたし、鶴吉地名もありますからエビナの名残のようです。
柳田は人名に由来する地名は「殆どない」といっています。
175>>
天皇に関係ないからこそ「大宮」というのでしょう。
正確には「宮」と「神社」は信仰対象が異質です。寺は仏
神社は神、宮は△△です。
177>>
ケ谷は「がや」で、山や岡の意味があるそうです。倒置して
「やが」も同じ。一説にサンカ語ともいいます。そういえば
サンカ系の方が比較的多いようです。柳田国男は横浜の
「程ケ谷」を通る時にH、エロイ気持ちで可笑しくなると
いってます。柏は白と木を組み合わせた意味があることも
あるので注意する必要があります。

179 :万子:02/03/15 05:29
>>176
氷川神社

180 :天之御名無主:02/03/15 08:15
>>178
>「程ケ谷」を通る時にH、エロイ気持ちで可笑しくなると
>いってます。

ホトがアレのことだからかな?

>>179

たしかにあるね。
やっぱり大宮と言われるくらいの、いわれある神社なんでしょうか。

181 :天之御名無主:02/03/15 12:31
武蔵国の一宮じゃなかったけ?

182 :天之御名無主:02/03/15 23:15
>>178
そうなんですか〜!何か人の名前がそのまま地名になったような町があったりしたのは
やはり「地名」を取って名乗ったと言う事なんですね?ありがとうございます
でも、人名が地名になる例はほとんど無いなんて始めて知りましたよ
勉強になりました

183 :天之御名無主:02/03/16 01:10
俺の近所(愛知県)に

深溝(ふこうみぞ)

って言う地名がありますが
まさにそれは

活断層

のことです

184 :天之御名無主:02/03/16 06:47
>>178
>ケ谷は「がや」で、山や岡の意味があるそうです

確かにうちの近くは坂が多いですネェ・・・

>一説にサンカ語ともいいます

サンカ語とはなんでしょうか?

>「程ケ谷」を通る時にH、エロイ気持ちで可笑しくなると

どう言う事でしょうか?

>柏は白と木を組み合わせた意味があることも
あるので注意する必要があります。

白と木をあわせるという事はどう言う意味のある事なのでしょうか?


185 :天之御名無主:02/03/16 10:28
>>184
女陰のことをホトというだろう。「程ヶ谷」(保土ヶ谷)のホドもそれ
と同じで、女陰のように窪んだ土地という意味らしい。

186 :184:02/03/16 17:03
>>185
この板は初めてなんで、何にも知りませんでした。
地名に「女陰」なんてつける何て初めて知りましたよ

187 :万子:02/03/16 20:06
>>186
昔々の大昔、くぼんだところを形容するものは、「それ」しかなかった
と思われ。

保土ヶ谷は屋上屋を重ねているような気がするが。

188 :天之御名無主:02/03/17 10:07
>>187
と言う事は地名って言うのはそんな大昔からあったんですね
漢字は後に当て字にしたのかな?

189 :天之御名無主:02/03/17 16:33
>>188

地名は、古いものは古いですからね。
愛媛(エヒメ)とかは古事記の頃からあります。
まず音がありきでしょうから、あとから当て字、もしくは字面が悪いので、別の字をあてたところも
多いでしょうね。(下(シモ)>志茂)

地名ってのは歴史の流れの中に残った、古代の遺産だと私は考えます。
最近の新興住宅地で「ウッディタウン」とかわけのわからん地名を
つけたりする場合がありますけど、苦笑してしまいますな。

190 :sage:02/03/17 18:49
>>178

ヤナギダクニオも溜まってただけだろ(藁)

191 :188:02/03/17 21:32
>>189
「さいたま市」なんて良い例ですなぁ(笑)
イヤァ、この板良い!日本史板よりも良いかも
教えて厨で悪いのですが、「神奈川」にもそれなりに意味があるんでしょうか?

192 :天之御名無主:02/03/17 21:49
「神奈川」はもともと横浜市神奈川区辺りの小地名。
東海道の宿場町である。
「カナ」が付く地名は、その地で製鉄が行われていたか、
もしくは崖崩れが多い地帯で有ることを示しているという。
実際、神奈川区、横浜市全般は土砂崩れ危険地帯多し。

193 :188:02/03/17 23:31
なるほど「金川」なんですね?
いや、地名を調べると面白いナァ・・・

194 :天之御名無主:02/03/18 02:08
邪馬台国関連は諸説あるので、どれが本当か・・・。
大和もヤマタイに似ているし、
平が邪馬台国の”タイ”だというと、
実は奈良の語源も平(ならし)だったり、平城京ともいうし。
九州の阿蘇付近の地名は奈良とほとんど共通だし、遷都の多い国だったから色々考えられる。

「日下」が日本の元という説もあったり

195 :188:02/03/18 21:27
「大和」って地名も多いですよね
神奈川にも「大和市」ってありますしねぇ・・・

196 :178 :02/03/19 09:27
おくれてすみませんです。
182>人名地名
 荘園時代や江戸時代の開拓地には人名がつけられた例が
あります。浜崎あゆみが開拓したなら、あゆみ新田です。
 孫兵衛場などはどういうものか処刑場と聞きます。
184>サンカ語とは?
 サンカと呼ばれる方が使用した言葉で、東京でいうムラサキ
(醤油)は有名です。普通ヤクザ、したがって刑事などが使う
隠語に多いようです。弥助(寿司)も同じかもしれません。
186>女陰地名
 サネ・カイス・ヨネもあそこを示します。三重県の大カイス
小カイス、鳥取県の米子もホトと同じ由来かも知れません。
仏教語ではヨネはあそこです。
千葉には確か実籾があり、行って調べれば分ります。不動さん
もこれが立地する場所はたいていホトと同じみたいです。

197 :天之御名無主:02/03/19 13:33
こんにちは。ずっとROMって楽しんでおりました。自分も郷土史とか地名・人名にたいへん興味がある者です。
ホト・サネ・ヨネが女陰からきた言葉とは!勉強になりました。
芸人にホト原さんっているけど…(蛍の字を当ててますがw)
そこで純粋に下ネタでなくお聞きしたいのですが、男根を示した地名もやはりあるのでしょうか?
すごく気になります。

198 :天之御名無主:02/03/19 22:19
>>196
アイヌ地名研究者によると女陰に由来する地名がアイヌ語にもあるようだ。
「昔のアイヌ社会は非常に大らかであったので、地形を性器で呼ぶなど問題にもならなかった」そうだ。
普通にかわいく割れた所みたいな感じだったんだろうな。
三角州のような地形にこれが多い。

199 :天之御名無主:02/03/20 09:35
北海道帯広市のアイヌ語名は「オペケペレケプ」
意味は「川下が幾重にも裂けているもの」。
下が裂ける、「オペレ」と言う言葉には、おまんこの意味もある。

アイヌ語で陰部、性器は「オ」。地名には何のためらいもなく
使用される。旭川市郊外のオサラッペ川は「川の陰部が表れている」
の意。置杵牛は「オ・キナ・ウシ」で「川下に蒲がある」の意。

アイヌ民族の生活において川は非常に重要なものだった。
主食で有る鮭を捕り、船による交通路でもあるから。そのために
川に親しみを込め、人体になぞらえた地名を付けた。
曲がったところは「シットク」(肘)、曲がりくねったところは
「カンカン」(腸)、小さな支流は「ウッチ」(肋骨)、
そして川下は「オ」(性器)。
アイヌ語でセックスは「オウコッチ」直訳すれば(性器をくっつける)
である。この言葉がそのまま地名にになったのが道北の興部町。
二つの川が河口近くで合流していることからの連想である。

200 :天之御名無主:02/03/23 22:13
ちなみにアイヌ語でちんちんはチエヘ
おマンコはサマンペ

201 :天之御名無主:02/03/30 17:26
アゲル

202 :196:02/04/01 22:21
 久保・窪・ほと・不動などは地形がそうだから、そのような
地名なったと、民俗学者や地名研究家がいっています。市町村史
にも普通そのように書かれています。でもこれでは不合格です。
 谷や沢のどんずづまりの日陰で、湿気がありまたは水分過多で、
健康にも不都合で、米などできない場所、という解説が地勢的には
正しい。しかしこれでも足りないことがあります。そんな不健全な
場所に誰が住んだか、住まわされたかという事です。
 一説にはタタラとか鍛冶屋が住んだともいいますが、地域差があ
ります、実はいまでいう、日陰者なのです。後は省略しますが、
ここまで地名を考えないと面白くありません。

203 :ひでよし:02/04/03 07:47
>>178
手元の地図帳で確認しただけなのですが、「ガヤ」が付く地名(例えば保土ヶ谷)の
場所は、山裾の平坦な土地に多いように見受けられます
山の中や山の上にではない場所に「ガヤ」地名が多いのだとすれば、「サンカ語」で
「山や岡の意味がある」というのは疑問です

また、沖浦和光氏などの研究により「サンカ」に対する見直しが進んでいる状況から
考えて、「サンカ語」に由来する地名に対しても見直しが必要になるでしょう

204 :ひでよし:02/04/03 07:53
>>202
「谷や沢のどんずづまりの日陰で、湿気がありまたは水分過多で」あった
としても、そこは溜池や用水などの大規模な施設を必要としないことから、
早くから稲作が行われていたことが明かにされています

そのような場所が「米などできない場所」であり、「日陰者」が住まわされた
とする解説が「正しい」のでしょうか
これもまた疑問だと思います

205 :天之御名無主:02/04/04 01:10
福岡県小郡市にある小板井、大板井という地名について。

神功皇后が陣痛起こして少し痛がった所が小板井、
凄く痛がった所が大板井だという話です。

ttp://www.kttnet.co.jp/ogori/htm/public/0301/rekishi0301.htm
↑市役所のHP

どこまで信用できるんだろう・・・・・



206 :天之御名無主:02/04/04 09:43
瀬戸内海から九州北部にかけては神功皇后の伝承(地名の由来に限らず)が
多いですからね
あまり「信用」はできないと思いますよ

207 :天之御名無主:02/04/04 23:37
204>>
サンカ研究の見直しとはおよそどのような事なのでしょうか?
 またサンカ語に由来する地名の見直しとは?
 ご教示下さい。
 ガヤとかヤガはサンカ語からきてるというのは何か本にあった
ように記憶しています。

208 :こちらのスレにどうぞ:02/04/05 07:51
「私はサンカ系?」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/min/991634884/

209 :保土ヶ谷の語源:02/04/05 08:05
http://www.necsoft.co.jp/kanagawa/hodogaya/history/alacarte.html

平安時代に、各地に荘園が形成されましたが、これらは、貴族や神社を除いては、
公には認められていませんでした。このため伊勢神宮に貢ぎ物をする代わりに、その
名前を借りて、伊勢神宮の領地(御厨)として、実際は豪族が統治するという方法を
とっていました。
保土ヶ谷の語源と言われる棒谷御厨(はんがやみくりゃ)は、今の保土ヶ谷区や旭区に
渡る地域に所在していたといわれますが、神戸町の神明社は、1225年(嘉禄元年)に、
現在の地に御厨神明社として構えたと「新編武蔵風土記稿」に記されています。

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