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創価学会に恋人奪われた人、奪い返した人集合!!!

1 :怨念1号:2000/06/16(金) 20:50
創価学会に興味を持ったきっかけが恋愛関係って人けっこういませんか?
そんなあなたは 恋人が学会に倒錯してしまい別れた人?
それとも恋人の為を思い恋人の目を覚まさせた人?
そんな人達情報交換しよう! アンケートに答えて!
★奪われた人
1.付き合ったきっかけ
2.付き合った期間
3.相手の立場(2世なのか、途中入信なのか)
4.相手の家族構成
5.一番もめた事
6.付き合ってて苦労した事
7.別れるきっかけになった出来事、一言等。
8.別れて辛かった事、悔やんでる事
◆奪い返した人
1.付き合ったきっかけ
2.今もつきあっているか
3.相手の立場(2世なのか、途中入信なのか)
4.相手の家族構成
5.一番もめた事
6.付き合ってて苦労した事
7.恋人が脱会したきっかけ
8.今2人は幸せか


2 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 20:53
いません。

―――終了―――




3 :怨念1号:2000/06/16(金) 20:55
★奪われた人
1.飲み会の席で隣になった事から
2.半年
3.3世、中学高校は活動してなかったが、大学から復活。学生部リーダー
4.家族全員学会員(父親だけ未活動)
5.創価学会に疑問があっても、マインドコントロールされてるからイイ。と開きなおられた事
6.ちょっとでも創価学会に関連した話題になると大喧嘩して、俺が議論に勝つと「魔」呼ばわりされた事。
7.お互い憎しみ合うようになったのと、根本的に価値観合わない。でも俺はなんとか彼女救いたかった。
8.彼女といるとき学会に対してストレートに批判しなければよかった。信心増すばかりだったし。

とまず自分から書いてみた、脱会させた人の情報も欲しい



4 :怨念1号:2000/06/16(金) 20:56
>2 学会員お呼びじゃないよ、ばいば〜い 操り人形

5 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 20:59
怨念1号さん多分貴方がSEX下手だったからじゃない?
包茎ならこんな所で書き込みしてる暇があるなら手術しなさい
ひとりでなやむ貴方の為に
http://www.threeweb.ad.jp/~ooimatic/
大井町医院泌尿器科皮膚科クリニック - 泌尿器科、皮膚科、性病科専門クリニックのホームページ。包茎の弊害と手術についても詳述。



6 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:03
“性欲がある”“性交能力がある”“射精できる”“満足感を感じる”以上の項目からひとつでも欠けていれば、インポテンスと言えます。インポテンスは“機能的インポ”と“器質的インポ”の2種類に分けられています。機能的インポは、過度の緊張や不安など精神的な要因で、ある場合にだけ不能になったりする心因性のインポです。“過干渉型”“厳格型”“過保護型”のいずれかで育ち、成長してインポテンスになるケースが非常に多いのです。また、ある種の薬剤投与によって勃起機能が低下してしまう場合も、機能的インポのジャンルに加えられています。全インポテンス患者のうち、7割以上が機能的インポと言われています。一方、器質的インポとは、血液の循環器系疾患やホルモン分泌の異常、糖尿病、肝臓病などの、病気によって引き起こされるインポのことです。では、インポテンスは治るのでしょうか? 機能的インポの場合、精神的な要因を探り、それに適した治療やカウンセリングをすることで、その多くは治ります。器質的インポの場合は、比較的原因が明らかですので、すぐに手術をして下さい。



7 :女をいかせる事が出来ない貴方!:2000/06/16(金) 21:05
すぐに手術をして下さい。

8 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:06
カルトの種類


日本でカルトという場合、圧倒的に目に付きやすいのは宗教系カルトです。生きた絶対者・超越者が集団を支配し、救済や死後の世界への信仰が強調されます。戒律が厳しく体罰を使うこともあり、祈り、隔離、長時間の勉強会や伝道、自己批判や罪の告白などの手口を使います。

次によく見られるのは自己啓発セミナーを典型とするもので、中には心理療法まがいのものもあります。自己変革や向上をめざして努力することを動機とし、恥の意識、威嚇、言葉による虐待などの手口を使います。

上記の2つに似たものに、ニューエイジ系のカルトがあります。人は訓練によってパワーを得、未来について知り、即効の治療法を身に付けることができると考えます。魔術的なトリック、変性意識、仲間からの圧力などの手口を使います。

消費者問題の場面で表面化しやすいのは、マルチ商法に代表される商業カルトです。富、権力、ステータスの獲得や、効率よく儲けることを信条とし、詐欺商法、罪と恥の意識、仲間からの圧力、経済的な支配などの手口を使います。

また、現在の日本ではあまり目立つ存在にはなりませんが、政治、人種差別主義、テロリストの系列のカルトも存在します。社会変革や革命をめざし、敵を打ち倒す、あるいは邪悪な権力を駆逐するといった過激な信念を持ち、軍隊まがいの訓練、互いの密告、罪悪感、恐怖、鍛練会、妄想の植え付け、長時間の教化などの手口を使います。

そして、これもケースとしてはあまり聞きませんが、オカルト、悪魔崇拝、黒魔術的なカルトもあります。超自然の力の信奉から生まれたもので、風変わりな儀式、秘密主義、恐怖と威嚇、極端な暴力などの手口が使われます。

カルトとは、いわゆる宗教の形をしたものだけではありません。カルトはその人の考え、信念を操作するので、それを支配する力さえあれば、信奉する対象が宗教のような超越的存在でなければならない必要はないのです。つまり、その人にとっての"超越的存在"や絶対的価値が人格向上であれば自己啓発セミナーに、神秘主義であればニューエイジやオカルトに、お金であれば商業カルトに、というように、いくらでも応用のきくものなのです。


9 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:07
カルトの特徴


カルトがどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたをカルト以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. カルト以外の他の人たちと話したり、カルト以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事やカルト内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたがカルトへ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. リーダーはあなたやカルト全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともにカルトに服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまるカルトもあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、カルトである可能性は十分でしょう。

10 :1.まずは病院選びから:2000/06/16(金) 21:08
包茎を治すには、専門の病院でベテランの医師に手術をしてもらうことが大切です。他の病院で手術をした結果が思わしくなく、当院を訪れる患者さんが多いことに鑑みると、病院選びは慎重に行う必要があります。

11 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:08
カルトを巡って様々な言説が繰り広げられます。家庭、教育、宗教、人間関係、社会等の荒廃…。人がカルトに入るのはこれが原因だ、と1つに決められるほど、社会は単純ではありません。「マインド・コントロール」は、これら複雑に絡まりあった現実社会の中でこそ効力を発揮できるのです。それはその中で、抗いがたい、予想不可能な出来事に出会い、その度に判断を揺るがされたり、自信をなくしたりする、あまりにも人間的、有機的な行為が繰り広げられているからです。「マインド・コントロール」理論を用いてカルト現象を説明することは、人間性を無化して機械的に人が操られることを意味するものではまったくありません。むしろ、どれだけその力が発揮できやすい状況、すなわち、どれほど社会が複雑になっているか、解決すべき問題が山積みされているかを証明するものと言えましょう。ですから、「マインド・コントロール」を理解する立場の研究者や支援者たちは、これらの問題を決して軽視することなく、1つ1つを大切に考えています。

(1)でも述べた、カルト問題に詳しいスタンフォード大学のジンバルドー教授はこう言います。
「私は教師として、学生に新しい物の見方を教えてあげることは大切だと思います。教育というものは、人に常に新しい考え、信念、価値観を持つことを勧め、伝統を新しい考えに照らして判断することを鼓舞しなければなりません。そして教育は若者たちに、自分だけでなく家族や社会にとっても有益な最高の知識と最高の情報に基づいて、良い判断ができるように自信を与えてくれなければならないのです。」

このように識者たちは「マインド・コントロール」を前に、人生に対してニヒルになったり、多くの諸問題への解決を放棄してしまうのではなく、人間として能動的にそれらに関わり、健全な判断をしていくことの必要を強く説いているのです

12 :2.手術方法の選択 :2000/06/16(金) 21:08
現在、包茎手術は“レーザーメス式”“クランプ式”“金属メスによるマニュアル式”のいずれかで行われています。“レーザーメス式”は、温度千数百度の熱線でカットしていく方法で、切断と同時に切り口を焼き付けるので出血は少なく、尖圭コンジローマやアザの治療、メスが入りにくい内臓疾患の手術などでは、ある程度の効力を発揮しますが、傷跡が汚いとの理由で包茎手術には、今日あまり使われなくなってきました。“クランプ式”は、丸いコーンを亀頭と包皮の間にはめ込んで、皮を引っ張った状態に維持して、亀頭の根元にベースプレートという台座で伸ばした状態の皮を締め付けて固定し、余った部分の皮をカットしていく方法で、仮性包茎の人には適していますが、コーンの大きさに限りがあり、ペニスのサイズに合わない場合もあります。“金属メスによるマニュアル式”は、医師自身の技術によって執り行われる手術で、経験と熟練がモノをいう方法です。当院では、包茎手術はマニュアル式で行なっています。


13 :3.手術の手順と手術費用 :2000/06/16(金) 21:09
電話予約→病院で受付→簡単なカウンセリング→カルテ作成→ペニスを診断→一部剃毛→患部の消毒→再度綿密にペニスを診断→カットラインを決定→麻酔(数秒で効きます)→カッティング手術→止血処理→ 自己融解性縫合糸で縫合   =====手術終了まで約30分=====  手術費用は12万円です。


14 :4.手術のポイント :2000/06/16(金) 21:09
包茎手術で一番大事なポイントは、手術跡が他人に判らないようにすることです。そのため、切開の傷跡を亀頭の内側へ隠してしまう精密手術を施します。長年の手術経験に加え、人それぞれのペニスの正常時と勃起時両方の場合を考慮しながら、ミリ単位でデザインカットするのです。また、縫合に使用する糸は『自己融解性』という、10日ほどで自然に溶けて取れてしまう糸を使っていますので、抜糸の必要もありません。たった1回だけ病院へ来て戴ければ、即刻包茎から解放されます。最高の技術と最新の設備、そして豊富な経験が、グレードの高い包茎手術を可能にします。


15 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:09
「マインド・コントロール」という反社会的行為や、そこから生じる人権侵害、犯罪行為が、誰から誰に対して行われたかという観点から考えるべき問題です。カルト対構成員の関係であれば、基本的に「マインド・コントロール」を行ったカルト側により重い責任が問われるべきでしょう。これは、普通、騙される方が悪いというよりは、騙す方が悪いと考えるのが妥当だからです。カルトは明確なヒエラルキーを持った世界ですから、カルト内の構成員各々に当てはめれば、力を有している立場ほど責任は問われるべきでしょう。しかしながら、カルトの中でもっとも力が小さくても、カルト構成員は社会に対しては、「マインド・コントロール」を施す立場となります。ですから、そこではその構成員もやはり責任から逃れることはできません。仮にその人が直接勧誘活動や違法行為を行っていなかったとしても、それらの行為を生み出す集団に加担し、集団を成り立たせた責任は問われるべきでしょう。何か問題が起きた時に実際的な責任を問われることはなくても、少なくとも道義的責任は認識すべきであると私は考えます。その集団が社会に対し行う犯罪や人権侵害の被害が甚大であればあるほど、指令者や実行者は当然のこと、構成員一人一人が大きな責任を負っていると判断しなければなりません。立場によって責任の重さは異なりますが、社会に対して重大な責任を負うことに変わりはないのです。

16 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:09
オウム裁判や統一協会関係の裁判に際して、しばしば「マインド・コントロール」への様々な評論が繰り広げられます。『「マインド・コントロール」されていたことが、犯罪行為に対する免責となるか』という問題です。しかし、良心的にカルト問題に関わり、事態の悲惨さを知っている研究者やカルト・カウンセラーたちが、『「マインド・コントロール」されていたから、そこで行われた犯罪行為はすべて責任を回避できる』と主張することは、これまでもありませんでしたし、今後もないでしょう。彼らが「マインド・コントロール」を主張するのは、まず事実として、それらの力が発揮されたことを客観的に証明するためであり、また、より大きな責任を負うカルト・リーダーに対し、あくまでも責任量を比較する意味において必要な説明であるからなのです。被害者を前に、『「マインド・コントロール」されていたから仕方なかった。あなたへの罪は償えない」』などと、どこの誰が言えるでしょうか。それは、それこそカルトの犯罪性にも引けを取らない傲慢さではないでしょうか。人は自分の行動に責任を取るものです。その時、その責任の在り方について、尋常ではないメカニズムが働いていることを証明し、より大きな責任媒体の存在を示し、全体の枠組みの中で当事者の責任を測る必要があるのです。それは、事実関係を明白にすることのみならず、カルト犯罪の実態を明らかにし、次の犯罪を防ぐためにも必要なことなのです。

17 :5.術後の経過とアフターケア:2000/06/16(金) 21:10
手術終了から2時間程たつと麻酔が切れて患部に痛みを感じてきたら、痛み止めの薬を飲みます。術後8日間はこまめに包帯の取り替えをして、傷口に刺激を与えないようにします。専用の包帯があるので、取り替えは簡単です。例の『自然溶解糸』は段々と取れていきます。入浴は湯に浸からず、患部にお湯がかからないようにすれば、シャワーなら術後2日目からOKです。2週間程たつと傷口も安定してきますが、それまで激しいスポーツは厳禁です。それから更に1週間は様子を見ながら、初めはマスターベーションで“ニュー感覚”を確かめてから、通常の性生活に入りましょう。アフターケアは非常に大事なことです

18 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:10
ここ数年来、統一協会の脱会者たちが「青春を返せ裁判」という民事裁判を行っています。これは、法曹関係者の間では「違法伝道訴訟」と称されていますが、統一協会が団体名称を隠して勧誘し、詐欺的手法によって当時者を入信させたことにより、彼らが霊感商法やインチキ募金等を通して社会に甚大な被害を与える結果となってしまったことに、統一協会の責任を問うたものです。「マインド・コントロール」の手法は、名称を隠すことのみでは当然ないのですが、この裁判においては、特に統一協会に顕著なこの方法を大きく取り上げています。

19 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:10
『…一人になると、自分が難民募金をさせてしまった人たちのことがよみがえってきます。「こんなぼくでも人の役に立ててうれしいです」と言って五百円玉をくれた15歳くらいの男の子は車椅子に乗っていて、誰もいない家で一人で留守番をしていました。…老人が統一協会じゃないかと疑って結局カンパをくれなかった家は、随分離れた所まで小学生くらいの姉弟が走って追って来て、「おじいちゃんが悪いと思います」と言って、手に握っていた五百円玉をくれました。…そんな人たちの言葉や仕種、家の中の様子までが思い出されて、苦しくて苦しくて、声にならない声を上げて身悶えして…。
…こんな私が生きていることはとうてい許されないように思うのですが、かといって自分から死ぬという行動がよいことなのか悪いことなのか、そんな重大なことはとても考えられません。』

彼女は「こんな思いをもう誰にもさせたくない」という一心から、裁判を起こしました。この叫びの中に、責任逃れなどという発想が読み取れるでしょうか。何をしても償えないほどの、自分を消し去りたいほどの罪悪感の中で、それでも社会に対して償えることがあるとすれば、このような団体の責任を問い、同じ苦しみを味わう人間を二度と出さないという自己への責任感から出た行為なのではないでしょうか。



20 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:11
「マインド・コントロール」という言葉は、使う人の立場や使われる状況によって様々な色合いを醸し出します。なぜなら、それが具体的な状況を指し示すとき、その責任を取り巻く人間関係、力関係を抜きにして語ることのできない言葉だからです。

21 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:11
現在、オウム裁判では概ね、教祖以外の被告たちの求刑が出揃いつつあります。被告たちの多くは、時間のずれや個人差はあるものの、自分の行為をオウム教団というより大きな圧力に動機づけられたものと理解するようになってきています。拘置所で過ごす彼らの環境が、カルト犯罪者が罪を償うには向かないという話は「井上くんのこと(1)」にも記述しましたが、そのような中、数年かかって「マインド・コントロール」状況(オウム裁判では、弁護団によってこの言葉が使われることもあればそうでないこともありますが、意図するところはいずれも同じようです。)を多くの被告たちが理解し、認めています。しかし一方で、直接それを主張する被告と、主張しない被告とに分かれるのも事実です。それはおそらく、被告がその言葉を使ったとき、被害者や裁判所、社会にどう受け止められるかを考慮するからなのではないかと思います。『自分は「マインド・コントロール」されて、とんでもない犯罪に加担してしまった。一体どうしたらいいのかわからない』という当惑を隠さない被告もいるでしょうし、一方で、『そんなことはわかっている。でも、被害者を前に、自分のために懇願するなんてできない』と罪の重さにおののき、押し黙る被告もいるでしょう。私はカルト経験者として、被害者に感じる痛みとはまた別の次元で、彼らをなんとか助けたいと思うのですが、本音を言えば、彼ら自身は自ら受けた「マインド・コントロール」に言及するより、己の悔悟と償いを精一杯示すことに専念した方がよいと感じています。彼らが犯罪に至る経緯を解明し、圧力下にあったことを主張するのは弁護団の役目であり、それは彼らに任せておけばよいのです。被告らはそれを受けて、償うことに専ら身を投じる必要があると思います。


22 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:11
一部の被告らが「マインド・コントロール」を主張しなかったとしても、あるいは、むしろそれを否定し犯罪行為をすべて自分の責任に帰したとしても、それは事実として「マインド・コントロール」が行われなかったことを意味するものではないでしょう。殺人等の凶悪犯罪という最悪の状況では、もっと他に優先して表現すべきことがあるということを彼らが自覚する故だと思います。「マインド・コントロール」の責任を問う相手はあくまでも教団、教祖であり、それを被害者感情との量りに掛ければ、法廷でどのような表現をすべきかを、彼らとて自ずから理解するでしょう。理解できない被告もいるでしょうが、それは人間的成長やパーソナリティの個人差、また、逮捕後に心を開いて事実関係を整理できる環境がどの程度与えられたか等によるものと思われます。

23 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:11
『オウムは戦中の日本のように「マインド・コントロール」されていた。この裁判は戦勝国が圧力で裁く東京裁判と同じように不公正だ』という趣旨の発言をした被告がいました。この話を聞いたとき、私は何の躊躇いもなく、強い憤りを感じました。もちろん、被告の発言からは、「マインド・コントロール」が解けていない、あるいは気持ちの余裕がなく、保身的、他責的な発言しかできない状況にいることは理解できます。けれど、彼のこの主張からは、己の行為への真摯な悔悟の念は少しも見て取ることができませんでした。私が「マインド・コントロール」の問題性を重視している立場であるからこそ、この言葉や概念に対し、こんな使い方はして欲しくありませんでした。繰り返しますが、「マインド・コントロール」の知識、情報は、カルト脱会者にとって、事実関係を客観的に捉え、理解するために必要なのです。自己保身に使うものではありません。

24 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:12
「マインド・コントロール」は科学として客観的に存在証明できるものです。しかし同時に、具体的な対人関係の中で説明がなされる、人間のにおいのする理論でもあります。そのため、受取る側の立場によって、その光の当たり方によって、様々に屈折して見えてしまうこともあります。「マインド・コントロール」を理解するには、これらの要素を鑑みることが必要なのです

25 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:13
科学としてのマインド・コントロール論との出会い

わたしの脱カルトにとって、たいへんに有効であったのは静岡県立大学の西田公昭先生がお書きになられた『マインド・コントロールとは何か』という一書でした。
この本のもっとも優れた点はカルト団体と目されるグループ、また、メンバーに共通する破壊的カルト・マインド・コントロールの実態を客観化することに成功している点にあると、わたしは考えています。

カルト・マインド・コントロールを世に知らしめたスティーヴン・ハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』も、もちろん、優れた一書に違いありませんが、かなり文章量があり、また、特定の宗教団体を問題にしているために、その他のカルト団体に当てはめるのには各人の知的努力を必要とするうらみがあります。

26 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:13
それに対して、西田先生の『マインド・コントロールとは何か』は、破壊的マインド・コントロールが、社会心理学上の問題であり、心理技術の使用であることをより鮮明にされています。
これは、マインド・コントロールは「宗教上の教義、あるいは教義解釈の誤りによって起こる」とする短絡的な発想が支配しがちなカルト論議から一歩、科学に足を踏み込んだものです。
この書は、いかなる団体あれ、個人であれ、その本体が正であれ、邪であれ、マインド・コントロールは心理技術として、使用可能であることを明らかにしました。

27 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:15
「創価学会メンバーであったわたしを心理学的に反省してみると」

カルトをやめて、しばらくして気づいたことは、いままで自分が信念で行っていたことを一般の人々は全く逆に感じていた事実でした。もちろん、それはやめる以前にもわかっていたはずですが、それでも改めて実感したとき、ショックは相当なものでした。

カルトのわたしが信念であると感じていたこと。それは第一には世界平和への貢献・第二には人間革命、大まかに言えば、その二点になります。そして、その二点を支えるものはリーダーへの絶対的服従ということでした。

世界平和

第一の「世界平和」という言葉は実に便利な言葉です。いかなる団体でも「世界平和」は簡単に掲げられるからです。「世界平和はヒットラーでも言っていた」とは、どなたの言葉であるか思い出せませんが、なるほどと頷かされる箴言です。
わたしが所属していたグループでも世界平和は大事な表看板でした。一切の宗教活動は世界平和につながっている。そんな夢想を誰しもが懐いていました。リーダーを信じるのも、朝晩の勤行をするのも、会合に参加するのも、すべての活動は世界平和を実現するためと信じていました。



28 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:16
しかし、それは実体のないかけ声だったのです。さらに言えば、実体がないだけならばまだしも、平和と裏腹に、グループは、自分たちとその他を完全に分けて、すべての善は自分たちに、すべての悪は他者にありとし、自分たち以外の宗教・政党を憎悪させることによって、メンバーを縛りつけていました。

ことに脱会者に対する憎悪を煽ることは徹底していました。脱会した人は、たとえ親族であれ、憎悪の対象となります。
「裏切り者」とは脱会者に対する蔑称です。脱会した人を裏切り者と呼び、憎悪すること。それは平和を希求する感情とはまったくかけ離れたものであるといえるでしょう。
いやもし、このような他者蔑視によって成立する世界平和があるとすれば、それはその覇者が他の敵対者をすべて滅ぼして成立する自分たちだけの“平和”です。他者にとって、このような状態は、平和どころか魔女狩り盛んなりし中世ヨーロッパさながらの恐怖の世界です。

ハッサン氏が
「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」
というカルト・メンバーの心理は、カルトのわたしの心理そのものでした。
世界平和を叫ぶ舌の根に憎悪がひそむ。なんとも恐ろしいことですが、これは偽らざるカルト・マインド・コントロールの実体です。

創価学会のメンバーであったわたしの心は、平和希求と他者蔑視・憎悪というまったく相反する心理の同居を、矛盾とも感じられない奇妙なものであったのです。
しかし、これはわたし一人の心理ではなく、心理操作されたメンバーの心そのものでもあります。
では、この“憎悪”というものはどこから発しているのか。その源を訪ねると、それはリーダーから発せられているものでした。そう記すには、それなりの根拠があります。
かつて、リーダーが「脱会者を自殺に追い込め」と檄を飛ばした逸話が伝えられました。また、自分の弟子の名前を連ねたノートがあり、その名前に朱線を引いて「背いた」と記すと未来永劫、二度と人間に生まれることができなくなるという話がまことしやかに語られたものでした。
そもそも一人の人間が他の人を永遠に地獄に堕とすなどということはできませんが、そのような言辞を吐く心根には敵対者に対する強い憎悪が看て取れるとともに、およそ平和とは無縁な独裁者特有のエゴイズムが渦巻いていることが窺い知れます。


29 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:17
いま創価学会が発行する聖教に目を通すと、その内容は世界平和と敵対者攻撃で大きく二分されています。リーダーの世界平和の貢献を格調高く歌い上げる反面、敵対グループへの論調はいかにも口汚く実に対照的です。この新聞はいわばメンバーの教化内容と軌を一にするわけですから、かつてわたしの心のなかに移植された心理はまた、いまのメンバーたちに“与えられる心理”そのものなのでしょう。そして、それがリーダーから発せられてる証拠は「新聞はリーダーからの手紙」というグループ内の指導が雄弁に物語っています。
また、リーダーの煽動を真っ向から受けたメンバーが「リーダーの敵(かたき)をとる」と入って、追撃の手を緩めないのも強く憎悪に煽られた結果です。

一般の人々が「世界平和に貢献しよう」と考えると、「それは大変なことだ。ちょっと、自分にはできない。でも、やるとすれば、手始めはボランティアかな?」と思いあぐねたり、「武力行使を留め、飢餓と貧困をなくし、差別をなくし、……えーと、それから」と次々と具体策を考えていくことでしょう。
ところが、カルトではそんな煩瑣な思考は無用です。「世界平和はリーダーが実現してくれる。リーダーに付き従えばよい。そのリーダーを信じて日々祈り、活動する。それがすなわち、世界平和への最大の貢献することなのだ」と考えるからです。

しかし、宗教団体であれば、政教分離という鉄則は固守されなければならないでしょうし、また、具体的な平和活動があってしかるべきであろうと思います。もちろん、それは歌ったり踊ったりというアピール活動ではなく、もっと地道な活動が、ということです。
リーダーが言うように、一人の人間の自己変革が国益に寄与し世界平和に貢献する、もし、この大義名分が事実であったとすれば、なにも否定されるものはないでしょう。しかし、グループにいたメンバーとしてのわたしの宗教生活はけっしてそのようなものではありませんでした。
朝晩の祈り・日々の会合参加・布教、そして、政治活動の繰り返し。ただ、それだけでした。そして、ときおり、開催される平和の祭典に演技者として参加する。それだけでメンバーの平和寄与という欲求は満足してしまうのです。

自分の身体を危険にさらすこともありません。不衛生な環境に自分を投じる必要もありません。飢餓に苦しむ人に手を差し伸べることも、病気に苦しむ人の介護に当たることもありません。不衛生な環境、戦火逆巻く危険な環境に身をおくこともないにもかかわらず、自分たちほど、平和に貢献しているものはいないと自負できる神経。それこそが、このグループによってもたらされた錯覚でした。


30 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:19
これはちょっとしたエピソードですが、かつてわたしが創価学会に所属していたころ、「東京に台風が来なくなったのは東京に学会員が増えたためで、何よりも池田先生が東京にいるからだ」と学会員は本気で信じていました。

新しいメンバーが、「どうして先生を信じて、祈ったり、活動することが世界平和に貢献することになるのか」と質問すれば、「やっていけばわかる」という答えが返ってきます。実際は「やっていけばわかる」のではなく、「やっているうちに、そう信じるようになってしまう」だけでした。
そして、与えられる答えとは「いま、日本が平和なのは池田先生がこの世にいるからだ。池田先生が創価学会を発展させ、日本を平和にしたからだ」というように、平和という言葉はあらゆる形でリーダーに還元されていきます。
つまり、世界平和=先生>創価学会>学会員という作為がここに窺えます。

このような還元論でもっとも問題なのは、心理操作が当然のように金銭の拠出と関連付けられていることです。
「世界平和を実現するためにはたくさんのお金が必要である。世界平和を実現するためにお金を出して、世界平和を実現するリーダーに使ってもらおう」と論は短絡的に展開していきます。そして、それは「真心の献金(注8)こそ信心の表れ」とあおられ、人々は世界平和のために、という名目でお金を出し続けるように仕組まれています。
これは要するに世界平和=池田大作=献金ということです。もちろん、実際には、この作為的な理屈を幾重にも複雑に織りなし、もっともらしく、そして、確実に信じられるように舞台装置は整えられています。学会内という“環境”は、金銭を拠出するこを当然のことように信じ込むために、万全に管理された場なのでした。


31 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:21
人間革命

第二の「人間革命」ということは創価学会員である自分にとって、もっとも身近な課題でした。しばしば「人間としての成長」とも呼び習わされていた人格変革という創価学会独自の教義は、いま概観すると、徹底して池田大作との一体化を目指したものであったことがわかります。このことは、つまり、目的の共有化を可能にするものです。
それは「池田大作に呼吸を合わせる」などと表現されていましたが、人格変革の完成形とは池田大作との同一化ということでした。

ただし、誤解がないようにお断りしますが、わたしは人間が精進し、また、鍛錬して、より自分を高めていこうとする努力を否定するものではありません。創価学会員の情熱、努力、それを可能にする集中力のすべてが、正常に作動し、社会に還元されたとしたら、それはすばらしいことでしょう。
しかし、日本の繁栄のためといい、世界の平和のため、人々の幸福のためといって、創価学会員が邁進しようと、その結末は創価学会を潤わせ、池田大作に心酔するように仕組まれているばかりです。
なにより、創価学会での活動は信じられないほど、多忙です。とても、それ以外の行動に時間を割く暇などありませんでした。


32 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:22
ところで、創価学会の疑似平和活動に熱狂する創価学会員は、ときに劇的な性格の変貌をきたし、周囲の人々を驚かせます。消極的であった人が積極的に、暗い印象であった人が突然、明るくなったりします。このような状態になった創価学会員は、自分が変革しているという深い実感を懐くことになります。また、他の創価学会員も、間近な人格変革の実例として、その創価学会員に憧憬の眼差しを送ることになります。

このような性格の変貌を起こす要因は、なんでしょうか。自分の過去の状態から類推すると、過度の自己過信による結果でした。では、自己過信を可能にするものは問えば、それは世界で唯一正しい池田大作・創価学会の創価学会員であるという底なしの自信に裏打ちされたものでした。

池田大作を究極の理想像とする創価学会員が目指す平和と、その活動。それは、やはり、池田大作の軌跡をなぞるものとなります。
池田大作の平和活動の実態を調べてみますと、すぐに気が付くことがあります。世界の要人と会ったり、平和提言を行ったりはするものの、戦地や被災地に赴いて身を危険にさらすようなことや、難民キャンプや伝染病が蔓延するような健康を害する可能性のある場所には行っていないという事実です。
常にボディーガードに囲まれて、最高級の外車に運転手付き、そして最高級の衣服を着込み、拍手と喝采に迎えられる所にしか出向いていないのです。年間、数億円にも昇る給料、創価学会のすべてを占有し、一身に尊敬を集めるように周到に準備された演出があるばかりです。

内容を欠いた平和論ほど、虚しいものはありません。創価学会員は、そんな上っ面の張りぼてのような平和活動を類い希な尊いものであると錯覚しています。


33 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:24
池田大作を同一化を目指す創価学会員は、一度は劇的な性格の変貌を遂げ、表面的に人格が変革したように見えたとしても、池田大作・創価学会の思うままに、すべてを選択してしまいます。(注12)その結果、池田大作と創価学会の搾取の恰好の餌食となり、貴重な人生の時間と、労働力、さらには金銭までも、名ばかりの平和活動につぎ込んでいくハメになります。

わたしは脱会してから、この創価学会で言われていた自己変革の仕組みを考えてきました。その結果、おおむね、それは恐怖と自己陶酔型の代理状態に入ることによる服従によって、第三者(池田大作・創価学会)心理操作を可能にしているのだろうと推測するに至りました。

“恐怖”による操作というのは、特にカルトに限ることではないかも知れません。「悪い行いをすると地獄に堕ちる」とか、少し以前でしたら「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」というように一般の家庭の現場でも、この宗教的な教義に含まれる恐怖は方便として教育に利用されたものでした。
しかし、創価学会における恐怖は、池田大作と創価学会への背信と関連付けられているところにその特異性があります。
たとえば一般の人は特定創価学会の池田大作を信じないと地獄に堕ちるとは思わないでしょうし、創価学会の活動に疑問を抱くことがいけないとも思わないでしょう。
しかし、創価学会員であったわたしは、もし池田大作を毛先ほどでも疑うことがあれば、すぐに悪いことが起き、死んで地獄に堕ちるとかたくなに信じていました。また、創価学会の打ち出す方針と活動は絶対であり、ともかく、なにもわからなくても徹底的に活動しなければ、やはり、悪いことが起きてしまうと信じていました。もちろん、これはわたし一人のことではなく、創価学会・創価学会員に共通する心理であることは言うまでもありません。

34 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:25
ところで、創価学会は基本的に経典としては『法華経』を拠り所としています。そのなかの、
「法華経を読み暗誦し、書いて持っている人を見て、軽蔑し、賤しみ、憎み嫉み恨みを懐く者の罪の報いを、お前はいままた聞きなさい。そのような人は命が終わったのち、阿鼻地獄に堕ちるのである」

という一節は、池田大作や創価学会に不信を抱くと地獄に堕ちることの証左とされていました。

しかし、客観的に見れば、『法華経』を信奉する宗教団体はあまたあり、また、教団ではなくても個人的に『法華経』を読んだり、写経をする人は数多くおられることでしょう。いま挙げた法華経の文は、文意からすればまさに、それらすべての教団・人々を包括するものです。

教義の“解釈”というのは便利なもので、「現代的な意義から言えば」などとうそぶいて、「真の意味で『法華経』を読み暗誦・書持するのは我が創価学会、なかんずく池田大作のみ」とできるのです。これによって『法華経』が編纂された当時の元意は完全に喪失し、「『法華経』の正しい修行者は自分たちのみ」というレトリックを可能にしていきます。
このレトリックによって「恐怖」を武器にして、池田大作を信じ込ませれば、創価学会員は創価学会が用意した解釈のみを信じるようになります。もちろん、そのために勉強会などによる教えこみが威力を発揮します。この教え込みによって、あたかも麻薬を常用するように池田大作・創価学会を信ずることの陶酔と、そして、不信には身の毛もよだつ恐怖心が強力に植え込まれていきます。
このような教義の自己解釈を利用した心理操作のテクニックは枚挙にいとまがありません。

なお、恐怖心が破壊的マインド・コントロールにおいて、強力な武器になっていることはハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』においても、随所に「恐怖」の記述が見られることからも明らかです。氏はマインド・コントロールを可能にする四つの構成要素中、感情コントロールのなかに恐怖による操作を加えています。


35 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:27
また、それは、ハッサン氏が所属したグループ、また、わたしが所属した創価学会に留まらず、他の創価学会でも同様に恐怖心によって創価学会員を操作することが行われていることからもわかります。特定宗教を挙げ、破壊的カルトの特質を挙げている本を何冊かご覧になってください。100%“恐怖”操作の実体を指摘する記述を発見できるでしょう。

それにしても、いまとなって思うのは、自分の創価学会の創価学会員を教化するのに、恐怖心を利用するのは、実に卑劣な行為であるということです。

恐怖心による操作というのは、どうして可能なのでしょうか。これは実は条件反射を利用した心理的な効果、ハッサン氏はこれを思考停止の技術と呼んでいます。
さらに、このような心理操作を可能にしているのが思考をコントロールする創価学会の教え込みによると指摘しています。すなわち、
「マインドコントロールの第二の主要な構成要素である思想コントロールの内容は、創価学会員に徹底的な教え込みをして、その創価学会の教えと新しい言語体系に身につけさせ、また自分の心を『集中した』状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良い創価学会員であるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない」
といいます。
つまり、人格変革というべき劇的変化は、この思考停止に支配されたカルト・マインド・コントロールの結果なのです。

36 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:28
また、それは、ハッサン氏が所属したグループ、また、わたしが所属した創価学会に留まらず、他の創価学会でも同様に恐怖心によって創価学会員を操作することが行われていることからもわかります。特定宗教を挙げ、破壊的カルトの特質を挙げている本を何冊かご覧になってください。100%“恐怖”操作の実体を指摘する記述を発見できるでしょう。

それにしても、いまとなって思うのは、自分の創価学会の創価学会員を教化するのに、恐怖心を利用するのは、実に卑劣な行為であるということです。

恐怖心による操作というのは、どうして可能なのでしょうか。これは実は条件反射を利用した心理的な効果、ハッサン氏はこれを思考停止の技術と呼んでいます。
さらに、このような心理操作を可能にしているのが思考をコントロールする創価学会の教え込みによると指摘しています。すなわち、
「マインドコントロールの第二の主要な構成要素である思想コントロールの内容は、創価学会員に徹底的な教え込みをして、その創価学会の教えと新しい言語体系に身につけさせ、また自分の心を『集中した』状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良い創価学会員であるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない」
といいます。
つまり、人格変革というべき劇的変化は、この思考停止に支配されたカルト・マインド・コントロールの結果なのです。



37 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:28
実際に自分の過去を振り返ってみると、このハッサン氏の指摘はわたしのカルト生活そのものであったことがわかります。
すでに高校生の頃から連日連夜の会合において、徹底的に池田大作の“すばらしさ”、忠誠をたたき込まれました。
私が生まれる以前から創価学会員であった母は「もし、池田大作が暴漢に襲われて殺されそうになったら、代わりに盾になって死んでくれるような篤信な子どもに育ってほしい」と常々語ったものでした。
わたしの命は池田大作のためにある。わたしは池田大作を求めてこの世に生まれてきた。だから、池田大作のために闘って一生を終えるのだ ―― 高校生のときのわたしは心底、そのように考えていました。
池田大作の盾になって代わりに死ぬことが篤信であるという倒錯した信念。それを支えていたものはいったいなんであったのか。実は、それは創価学会内でまことしやかに語り継がれた篤信な人だけに伝えられる秘密。それを知ることができたという自己陶酔によるものでした。それは「池田大作は実は宗祖の生まれ変わりである」というものです。
あとになって、池田大作はそれを否定しつつ、しかし、それでも創価学会内で囁き続けられたこの創り話が池田大作の自作自演であったのか、特定の創価学会員が立てた単なるうわさ話であったのか、いまとなってはそれがどちらであるかは、もうどうでもよいのです。しかし、“秘密めいた話がもたらす心理的効果”がわたしに働いていたのは間違いのない事実でした。
その心理的効果はおおむね二つありました。
一つは自分だけが知り得たという希少性の獲得が信念をより強固にしていたという事実です。
R・チャルディーニ博士は、
「ある情報を得ることを禁じられると、私たちは、禁じられる以前よりもその情報を求めるようになり、その情報をより好ましく思うようになる」(参)検閲
「希少性の情報に関するニュースそれ自体も希少なものであるという事実が、そのニュースの説得力をとりわけ高める」(参)希少性が説得力を増す
と、その心理的効果を指摘しています。
「宗祖の生まれ変わり」という秘密話は、このような心理効果を喚起させ、あまりありました。

38 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:29
「創価学会メンバーであったわたしを心理学的に反省してみると」

カルトをやめて、しばらくして気づいたことは、いままで自分が信念で行っていたことを一般の人々は全く逆に感じていた事実でした。もちろん、それはやめる以前にもわかっていたはずですが、それでも改めて実感したとき、ショックは相当なものでした。

カルトのわたしが信念であると感じていたこと。それは第一には世界平和への貢献・第二には人間革命、大まかに言えば、その二点になります。そして、その二点を支えるものはリーダーへの絶対的服従ということでした。

世界平和

第一の「世界平和」という言葉は実に便利な言葉です。いかなる団体でも「世界平和」は簡単に掲げられるからです。「世界平和はヒットラーでも言っていた」とは、どなたの言葉であるか思い出せませんが、なるほどと頷かされる箴言です。
わたしが所属していたグループでも世界平和は大事な表看板でした。一切の宗教活動は世界平和につながっている。そんな夢想を誰しもが懐いていました。リーダーを信じるのも、朝晩の勤行をするのも、会合に参加するのも、すべての活動は世界平和を実現するためと信じていました。


39 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:30
そして、もう一つはそのような秘密を知り得ることができた自分の特権性です。それはエリート意識と換言してもよいかと思います。
『マインド・コントロールの恐怖』に種々綴られるカルト・創価学会員になったことによるエリート意識は、わたしにとっても心理的には同様のものでした。
たとえば、自分が特別な存在であり、絶対者に選ばれたという喜び、そして、絶対者と等しい池田大作の許に特別な使命を与えられているという心理的高ぶりは創価学会内のどんな辛いスケジュールもむしろ喜びと変えるのに充分なものでした。

世界唯一の正しい教えと、さらにその中で、篤信のエリートのみが知り得る希少性に満ちた秘密話。それにあやかろうとする欲求は、池田大作・創価学会を否定する一切をシャット・アウトする「思考停止の技術」という心理プログラミングによって防御されたものです。このような状態は極度の自己陶酔を起こさせるものでした。


40 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:30
カルトの特徴


カルトがどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたをカルト以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. カルト以外の他の人たちと話したり、カルト以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事やカルト内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたがカルトへ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. リーダーはあなたやカルト全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともにカルトに服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまるカルトもあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、カルトである可能性は十分でしょう。




41 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:30
オウム裁判や統一協会関係の裁判に際して、しばしば「マインド・コントロール」への様々な評論が繰り広げられます。『「マインド・コントロール」されていたことが、犯罪行為に対する免責となるか』という問題です。しかし、良心的にカルト問題に関わり、事態の悲惨さを知っている研究者やカルト・カウンセラーたちが、『「マインド・コントロール」されていたから、そこで行われた犯罪行為はすべて責任を回避できる』と主張することは、これまでもありませんでしたし、今後もないでしょう。彼らが「マインド・コントロール」を主張するのは、まず事実として、それらの力が発揮されたことを客観的に証明するためであり、また、より大きな責任を負うカルト・リーダーに対し、あくまでも責任量を比較する意味において必要な説明であるからなのです。被害者を前に、『「マインド・コントロール」されていたから仕方なかった。あなたへの罪は償えない」』などと、どこの誰が言えるでしょうか。それは、それこそカルトの犯罪性にも引けを取らない傲慢さではないでしょうか。人は自分の行動に責任を取るものです。その時、その責任の在り方について、尋常ではないメカニズムが働いていることを証明し、より大きな責任媒体の存在を示し、全体の枠組みの中で当事者の責任を測る必要があるのです。それは、事実関係を明白にすることのみならず、カルト犯罪の実態を明らかにし、次の犯罪を防ぐためにも必要なことなのです

42 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:31
『…一人になると、自分が難民募金をさせてしまった人たちのことがよみがえってきます。「こんなぼくでも人の役に立ててうれしいです」と言って五百円玉をくれた15歳くらいの男の子は車椅子に乗っていて、誰もいない家で一人で留守番をしていました。…老人が統一協会じゃないかと疑って結局カンパをくれなかった家は、随分離れた所まで小学生くらいの姉弟が走って追って来て、「おじいちゃんが悪いと思います」と言って、手に握っていた五百円玉をくれました。…そんな人たちの言葉や仕種、家の中の様子までが思い出されて、苦しくて苦しくて、声にならない声を上げて身悶えして…。
…こんな私が生きていることはとうてい許されないように思うのですが、かといって自分から死ぬという行動がよいことなのか悪いことなのか、そんな重大なことはとても考えられません。』

彼女は「こんな思いをもう誰にもさせたくない」という一心から、裁判を起こしました。この叫びの中に、責任逃れなどという発想が読み取れるでしょうか。何をしても償えないほどの、自分を消し去りたいほどの罪悪感の中で、それでも社会に対して償えることがあるとすれば、このような団体の責任を問い、同じ苦しみを味わう人間を二度と出さないという自己への責任感から出た行為なのではないでしょうか。


43 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:31
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

44 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:31
『オウムは戦中の日本のように「マインド・コントロール」されていた。この裁判は戦勝国が圧力で裁く東京裁判と同じように不公正だ』という趣旨の発言をした被告がいました。この話を聞いたとき、私は何の躊躇いもなく、強い憤りを感じました。もちろん、被告の発言からは、「マインド・コントロール」が解けていない、あるいは気持ちの余裕がなく、保身的、他責的な発言しかできない状況にいることは理解できます。けれど、彼のこの主張からは、己の行為への真摯な悔悟の念は少しも見て取ることができませんでした。私が「マインド・コントロール」の問題性を重視している立場であるからこそ、この言葉や概念に対し、こんな使い方はして欲しくありませんでした。繰り返しますが、「マインド・コントロール」の知識、情報は、カルト脱会者にとって、事実関係を客観的に捉え、理解するために必要なのです。自己保身に使うものではありません。




45 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:32
鎌倉仏教

鎌倉時代の信仰宗派はいずれも、独立の宗派としての存在を公認されるために苦心した。浄土宗・臨済宗・浄土真宗・日蓮宗みなそうである。ただ道元ひとりは断固として、宗旨を唱えることを拒否した。
「おほよそ世尊在世、かつて仏宗ましまさず……釈迦牟尼仏、ひろく十方仏土中の諸法実相を挙拈〔とりだして〕十方仏土中をとくとき、十方仏土のなかに、いづれの宗を建立せりととかず。宗の称もし仏租の法ならば、仏国にあるべし。仏国にあらば仏説すべし。仏不説なり、しりぬ、仏国の調度にあらず。租道せず、しりぬ、租域の家具にあらずといふことを。ただ人にわらはるるのみにあらざらん、諸仏のために制禁〔禁止〕せられん、また自己のためにわらはれん。つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(『正法眼蔵』仏道)

46 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:32
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。



47 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:33
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

48 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:33
『創価学会は戦中の日本のように「マインド・コントロール」されていた。この裁判は戦勝国が圧力で裁く東京裁判と同じように不公正だ』という趣旨の発言をした被告がいました。この話を聞いたとき、私は何の躊躇いもなく、強い憤りを感じました。もちろん、被告の発言からは、「マインド・コントロール」が解けていない、あるいは気持ちの余裕がなく、保身的、他責的な発言しかできない状況にいることは理解できます。けれど、彼のこの主張からは、己の行為への真摯な悔悟の念は少しも見て取ることができませんでした。私が「マインド・コントロール」の問題性を重視している立場であるからこそ、この言葉や概念に対し、こんな使い方はして欲しくありませんでした。繰り返しますが、「マインド・コントロール」の知識、情報は、カルト脱会者にとって、事実関係を客観的に捉え、理解するために必要なのです。自己保身に使うものではありません。

49 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:33
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

50 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:34
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にか ぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

51 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:34
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

52 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:34
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義 的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

53 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:35
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗 教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

54 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:35
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ 宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

55 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:35
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎら ず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

56 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:36
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、お よそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

57 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:37
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ 宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

58 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:37
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家と しての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

59 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:37
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およ そ宗教家とし ての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

60 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:38
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教 にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

61 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:38
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教 にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。





62 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:38
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教 家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

63 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:39
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ 宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

64 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:39
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての 評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

65 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:40
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧 ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

66 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:40
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加 的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

67 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:41
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な 態(すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の 実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

68 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:41
法華経

不幸にも東アジアでは仏教における第二義的な附加的な要素、つまり宗教儀礼や教理の観念遊戯などが仏教の表面にあらわれたため、仏教の本源的な実践性が見失われるうらみがあった。だから、本格的な研究と実践とによって仏教の本来の姿を把握しようとつとめるとき、そこに高遠な理想と同時に民衆への無限の慈悲が意識され、行動として実現されることになるのはむしろ当然といわなければならない。
これについて「三昧に黙想する仏が、寧ろより根源的な態 (すがた)であって、人類救済のための大活動をする姿の仏も、活動すればする程、三昧の仏の姿に帰らねばならないのである」とも言われる(山口益)。
この問題についてアーノルド・トインビーがキリスト教に関して言っていることを引用しよう。
「……事実、宗教人が社会の実際的な要求に役立ったことを証明することは容易と思われよう。アッシッシの聖フランチェスコ、聖ヴァンサン・ド・ポール、ジョン・ウェズレーダヴィット・リヴィングストンというような人を私が引合に出すとすれば論証の必要なしと言われるだろうから、ここには例外的な人物とふつうには見られもし、嘲られもしているものを引合に出そう。彼らは〈神に酔った〉とも〈反社会的〉ともいわれ、聖であって滑稽でもあり、皮肉な男からは〈もっとも悪い意味での善良な人〉とよんで嘲られる。すなわち、砂漠の聖アントニオとか柱の上の聖シメオンなどのことである。これらの聖者が〈世間〉にとどまって、特定の仕事に生涯をすごすことよりも、仲間から離れたためにかえってずっとより多くの人々と、ずっとより活動的な関係を持つことになったのは明瞭である。主婦における肯定よりも、隠遁所にある聖者の方がより効果的に世界を支配した。なぜかというのに、神との霊的交渉を求めることによる彼ら個人としての聖性の探求は社会活動の形式として、政治面におけるどんな世間的社会奉仕よりもより力強く人々を動かしたからである」
仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の基準は、その精神的体験の深ささとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる。単に信者の喜びそうな文句を綴るとか、ハッタリで人をおどかしつけるだけでは本当の宗教家とは言われない。たとえ後世たまたま大宗派の開祖を仰がれる幸運を荷ったとしてもこのことは変わりはない。道元の言葉として「仏家には教の殊劣(勝劣)を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし」とあるが、その修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかな信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるととは少なくとも私には納得できない。

69 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:42
―――終了―――



70 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:44
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

71 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:44
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

72 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:44
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

73 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:44
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

74 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:45
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

75 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:45
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

76 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:45
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

77 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:46
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自 分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれ ば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以 前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創 価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。

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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会も あれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあ れば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



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創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部 分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



87 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:50
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観 に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部 分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



88 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:50
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以 前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



89 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:52
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前 の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



90 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 21:52
創価学会の特徴


創価学会がどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたを創価学会以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. 創価学会以外の他の人たちと話したり、創価学会以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事や創価学会内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたが創価学会へ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. 池田大作はあなたや創価学会全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともに創価学会に服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕 向け、それまでの生き方を否定します。

これらがすべて当てはまる創価学会もあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、創価学会である可能性は十分でしょう。



91 :名無しさん@1周年:2000/06/16(金) 22:00
(-.-;)

92 :名無しさん@1周年:2000/06/17(土) 13:27
これはギャグですか?

93 :くだらなーい:2000/06/18(日) 19:59
ムキになって反学会ってヤツラもつまんないよねー。
所詮は「そっちじゃなくてオレの言うことを聞け!」って話なわけじゃん。
そんな男、学会女じゃなくたって論外だってことに気が付かないんだもん。
はいはい、ママはあなただけのものでちゅよぉ。

94 :名無しさん@1周年:2000/06/22(木) 16:00
復活age

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