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平安貴族間の政争

1 : ◆ct1NeH0g :01/12/25 02:31
って、どうやって決着していたの?
だいたい、平安時代の政治って、何をやってたの?
貴族は朝廷で何をしていたの?
出世速度は何で決まったの?

2 :日本@名無史さん:01/12/25 02:32


3 :日本@名無史さん:01/12/25 04:14
家柄と女関係

4 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/25 11:21
宇多天皇が頑張って政治改革しようとしたけど駄目だったね。
本人が退位したらほい、それまでよ、だもん・・・・

5 :日本@名無史さん:01/12/25 11:23
一般民衆がどうだったのか気になる

6 :日本@名無史さん:01/12/25 11:50
マターリと呪術なんかかけてたんだろ?
道長の兄貴(名前わすれた、道兼?)は弟の道長の出世を妬んで
足の裏に道長の名前を書いて毎日踏んであるいたそうだ
これも呪術の一種

失脚するときも「呪詛」の罪により流罪だろ?
出世はどこに婿入りするかによって左右されるから
一生懸命、有力者の娘に歌を贈る。和歌の勉強は必須(w

7 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/25 12:17
とりあえず尾張の庶民は結束力が強くて厄介だったらしい。>平安時代

8 :日本@名無史さん:01/12/25 12:19
>>7
名古屋市立博物館には、例の藤原元命への訴状が展示してある。
昔は今と違って、血気盛んな県民性だったらしい。

9 :日本@名無史さん:01/12/25 13:02
>>8
今も血気盛んだと思うが・・・1001とか

10 :日本@名無史さん:01/12/25 13:42
仙一?(w

11 : ◆ct1NeH0g :01/12/25 23:48
血縁による贔屓と、性欲による贔屓ってことですね。
血族内の人気を高めたり、性的魅力を高めたりする手段が
和歌とか漢詩とか呪力(w)とかだったのでしょうね。
貴族間に駆け引きみたいな物はあったんでしょうか。
商人間の駆け引きなら、想像できます。実際の商品や貨幣をめぐって
駆け引きをしていたのでしょうから。
でも当時の政治家たちは?

12 : ◆ct1NeH0g :01/12/25 23:50
宇多天皇はどのような政治をするつもりだったんでしょうか?

13 :日本@名無史さん:01/12/25 23:58
中流貴族たちは、上流(大臣や大納言家)の家司となって奉仕することで
出世の足がかりにしたが。
たとえば、その家から女御が宮中に上がってて、懐妊すれば宿下がりして
出産するわけだけど、そのための邸を新築したり。
子供が産まれれば、お祝いに馬を何頭も献上したり。
ようするに賄賂だけどね。
駆け引きというとね。
道長の話だけど、自分の娘(上東門院)がまだ幼くて一条帝の子を産めない。
で、寵愛あつい中宮定子(道長の長兄道隆の娘)が懐妊すると困るから、
他の貴族をけしかけてどんどん娘を入内させた。
他家の娘の産んだ皇子なら、簡単に追い落とせるからね。
これも一種の駆け引き?

14 : ◆ct1NeH0g :01/12/26 03:55
>中流貴族たちは、上流(大臣や大納言家)の家司となって奉仕することで
>出世の足がかりにしたが。
現代風に言えば、公務以外にもアルバイト先があって、アルバイト先とコネを作る
でいいですか。それに賄賂、と。
>他の貴族をけしかけてどんどん娘を入内させた。
なるほどそういう戦略もありましたか。
性欲の権力配分に対する影響が強ければ、それに応じて作戦を立ててるわけだ。

ところで、大臣や大納言を決めるのは天皇?皇后や側室らを決めるのは天皇と
本人の合意?皇太子を決めるのは天皇の一存?

15 :日本@名無史さん:01/12/26 04:21
>皇太子を決めるのは天皇の一存?
一条や文徳の例を見れば明らかなようにそうではありません。

>大臣や大納言を決めるのは天皇?
かなりのウェイトを占めますが、貴族間の調整、年臈なども必要条件です。

>皇后や側室らを決めるのは天皇と 本人の合意?
女房のうち誰がお手つきになるかは天皇の意志ですが
誰を皇后にするか、中宮にするか、女房になるかは
支配者層の政治的やりとりです。

16 : ◆ct1NeH0g :01/12/26 05:27
皆様、ありがとうございます。
平安時代には、京都でのクーデターを抑止する機構はあったのでしょうか?
また、一気に年代は飛びますが、平清盛はどうやって支配階級に入る事ができたのでしょう?

17 :日本@名無史さん:01/12/26 10:02
>1って教えてちゃん?
ちょっと調べれば簡単に判りそうなことをなんでここで聞くの?
質問の内容が低レベル過ぎて答える気なくなっちゃうなぁ。

18 :日本@名無史さん:01/12/26 10:12
そもそも何故武士があんなに台頭できたのか
朝廷直属の軍は一体何をしていたのか

19 :日本@名無史さん:01/12/26 10:25
まぁいいじゃないの>17
幕末スレと天皇スレばっかりのなかで久々の平安スレだ
俺はここで遊ぶことにした

20 :日本@名無史さん:01/12/26 10:36
清盛が支配階級にはいったのは長くなるな〜
もとはといえば、後三条・白河院が摂関家の支配から逃れて
自分の思い通りに政治をしたいと思ったからだよ
後三条の母は、摂関家の出身ではなく、内親王だった。
白河の母も、摂関家ではなく傍系の閑院流藤原氏。
摂関家の勢力を弱めるために、それまで陽の当たらなかった中小貴族を
ひきあげた。その中に、北面の武士からうまく院に取り入った伊勢平氏も
いたわけよ。
清盛の父忠盛は正四位刑部卿右京大夫まですすんだけど
これは武士としては破格のことだった。
清盛自身は、保元の乱・平治の乱で武力をもって天皇(院)に仕えたが
この内乱のせいで天皇側が「武士を味方につけなければ」という危機感を抱いたんだな。
直接的には清盛の妻、これは武家平氏ではなく公家平氏(桓武平氏の嫡流)出身の平時子だけど
その妹が後白河に愛され(建春門院平滋子)、産んだ子供が高倉天皇で、
外戚として勢力を振るうというお決まりのコースを辿ったんだが。

21 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 11:40
清盛といえば、白河院ご落胤説あるけど、あれ本当?
あと、忠盛は少年時代、白河院のお手つき寵童だったって話、あるよね。

>12
>宇多天皇はどのような政治をするつもりだったんでしょうか?

藤原氏の専横を阻止しようとして、菅原道真をスピード出世させたりしてる。

22 :日本@名無史さん:01/12/26 11:58
待ってました!平安時代スレッド\(^o^)/
日本史の中でこれほど面白い時代も無いと言えましょう!

23 :日本@名無史さん:01/12/26 12:39
清盛の落胤説はまだどっちなのかわかってない。
平家物語には「御落胤だとも言われている」と書かれてあるね。

24 :日本@名無史さん:01/12/26 12:56
池禅尼ってどこの家の出なの?

25 :日本@名無史さん:01/12/26 13:02
隆家流?だっけ?

26 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 13:06
修理権太夫 藤原宗兼の娘 宗子 だっけ?>池禅尼

27 :日本@名無史さん:01/12/26 16:05
サンクス!

28 :日本@名無史さん:01/12/26 19:56
紀某之氏は、某竹取翁という人物を使って小説でライバルに仕返ししてたな

29 :日本@名無史さん:01/12/26 21:33
宇多天皇って、もともとは陽成天皇の侍従か何かで、
その頃に在原業平と相撲を取って、ぶん投げられたりしてるんだよね。
いったんは臣籍に下ってさえいる。
現代で言えば、皇太子のご学友の元皇族がいつの間にか天皇になってたようなもの、
って言ったらちょっと飛躍しすぎか?

30 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:14
宇多さんは光孝天皇の第三皇子だったけど、18歳で臣籍に下って、確かに一度
源氏になってますね。ちなみに宇多さんが臣下だったのってたった三年か四年の事
みたいですよ。
その頃に確かに業平と相撲をとったらしいけど、ぶん投げられたのは知らないなぁ。
ただ、もみ合っている時に椅子にぶつかって、手すりが折れたという記述は見たことがある。

31 :日本@名無史さん:01/12/26 22:23
たしか光孝天皇は60歳くらいになってから即位したんだよね?
在位も短かった・・・。
宇多天皇(源定省)が臣籍降下したのは、父が即位する前なのかな?
当時陽成天皇の子供が基経の外孫で、光孝天皇は基経に遠慮して自分の子を
みんな臣籍降下しちゃったとか、読んだおぼえがあるんだが。

32 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:28
ドキュソで有名な陽成天皇が宮中でうっかり人殺しをしてしまい、17歳の若さで
退位させられ、すでにとっしょり(55歳)だった光孝天皇が即位・・・

は、まぁいいとして。
なんで父親が天皇になった歳に息子の宇多さんが臣籍に下り、三年後の光孝天皇
崩御の同日、立太子→即位なんて回りくどい事になったのか?

誰か知ってる?

33 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:34
>31
>基経に遠慮して自分の子を みんな臣籍降下しちゃったとか

あ、そうなんですか!
(↑ワシったらリロードせずに32のレスを入れてしまった)

どうりでというか(; ´_ゝ`)
46人いる子供の内、数人(女性)以外は全員源氏に下ってる・・・・・

34 :31:01/12/26 22:39
いま自分で調べてみました(すみません)
光孝天皇の即位が884年2月5日
で、臣籍降下が884年4月13日
やっぱり遠慮したんですかね。

35 :日本@名無史さん:01/12/26 22:46
たしか光孝平氏ってあったよね・・・?

36 :日本@名無史さん:01/12/26 22:48
たぶん30年くらい前の邦画の恐怖映画です。
飛行機が不時着してハイジャック犯?のヒタイがぱっくり割れてそこに
気持ち悪いミミズみたいな生物がズルズルっと入っていって吸血鬼に
なって人を襲うんです。
ラストシーンもかなりショックだったような気がするがどんなのか思い出せない。
ひたすら気持ち悪かった。

37 :日本@名無史さん:01/12/26 22:50
>36 けっこう笑える乱入者だな

38 :36:01/12/26 22:54
すまん誤爆だ

39 :日本@名無史さん:01/12/26 23:01
>>28 紀某之氏は、某竹取翁という人物を使って...
竹取翁物語の作者は、紀氏ではないのでは。平安朝初頭に政争好きの藤原氏に
不遇にさらされた氏族出身者では。

40 :日本@名無史さん:01/12/26 23:11
陽成天皇には同母弟がいたのに、なんで後継者になれなかったんだ?
基経の娘を母とした異母弟もいたのに、なんで後継者になれなかったんだ?

41 :日本@名無史さん:01/12/26 23:16
わからん。全て基経がとりはからった

42 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 23:27
>40
よくわかんないけど、とりあえず陽成の母親の高子さん自身がかなりのドキュソだから、
同母の弟も似たりよったりだったのかも。高子は昔 業平と駆け落ちして、基経に
阻まれているから、兄妹仲はかならずしもよくなかったかもね。
ちなみに基経の母親と光孝天皇の母親は姉妹。

あと、これはポイント高いだろうなと思うんですが、基経は子供の頃から光孝天皇と
親しく、しかも尊敬していたらしい。

その上嵯峨源氏(融さんとか)が皇位を虎視眈々と狙っていたので、この場はいっそ
光孝天皇にお願いした方がいいと思ったのかも。

どっちみち光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇(基経の孫)と来てますし。

43 :アフォ(; ´_ゝ`):01/12/26 23:30
>基経の娘を母とした異母弟もいたのに

ごめん、陽成の同母の弟のことかと思った。失礼しました。

44 :日本@名無史さん:01/12/26 23:46
これは仮説というか、
あるいは臆測(または個人的な妄想?)なんだけど、
皇統の移動があった時には、前の皇統の人たちって、
たいていネガティブな話がいろいろ伝えられるように思える。
例えば武烈天皇や孝謙(称徳)女帝みたいに。
陽成天皇とかその母の藤原高子もそうじゃないかって気がするんだけど。
宇多天皇からすると、かつての主筋で、
目の上のたんこぶ的存在でしょ。
あまり学問的でない発想ですみません。

45 :日本@名無史さん:01/12/26 23:51
いちおう書いてみたりして。
清和天皇の皇子
 陽成天皇 (868生、母基経の娘、高子)
 貞保親王 (870生、母同)
 貞辰親王 (874生、母基経の娘、頼子)
 貞純親王 (873生、母棟貞王の娘)
 貞数親王 (875生、母斎宮頭 藤原諸藤の娘)
 貞固親王 (母治部大輔橘休蔭の娘)
 貞元親王 (母参議藤原仲統の娘)
 貞平親王 (母右中弁藤原良近の娘)
 貞頼親王 (母木工允 藤原直宗の娘)

基経がなんで陽成の弟を皇位につけなかったか、実に疑問だ。
当時の公卿たちもビクーリしたらしい。

46 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 23:57
>44
>陽成天皇とかその母の藤原高子もそうじゃないかって気がするんだけど

いやそんな事はない。高子と陽成のことは完璧な史実。

武烈は古すぎるのでこの場合の例としてはそぐわないと思うし、
孝謙さんの場合は道鏡への侮蔑が端緒だから。

日本の歴史は万世一系なだけはあり、他国のように新王朝が旧王朝を
貶めるような改竄はほとんどしない。

47 :44:01/12/27 00:09
>>46さん
レスありがとうございます。
藤原高子の場合、50代で善祐との姦通をとがめられて廃位され、
後に朱雀天皇の時に皇太后に復されてるけど、
ここに宇多天皇の政治的意図を読み取ってしまうのは、
考え過ぎでしょうか?

48 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 00:22
>47
ていうか、嘘の醜聞をでっち上げてまで高子の地位を貶める
理由がないと思うんだけど>宇多さん
高子を廃位にした翌年には宇多は醍醐天皇に位を譲っていますよね。
基経はすでに故人だし、そうまでして高子を追い落とす理由が
ないのでは?

49 :日本@名無史さん:01/12/27 04:04
>48

陽成/藤原高子の不徳を強調すればするほど、自分の王統の正当性を
強調できるというのは、なしでしょうか。
45にあるような清和?陽成の系統を排除するのに、「彼らが天皇にな
るにふさわしくない程、陽成/藤原高子は不徳であった」とすること
で、「光孝?宇多?醍醐の系統に移ったのは当然である」という論理
を強調したのではなかろうか、と。

まあ、嘘をでっちあげまでせずとも、針小棒大に宣伝するくらいはし
ても不自然では無いと思います。

50 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 10:55
>49
宇多が自分の皇位の正当性をことさらに主張する必要はありません。日本の皇室は
一応万世一系を謳っていますが、古代に置いては兄弟相続は当然であり、それは
奈良朝の頃までは親子相続よりも一般的でした。奈良朝の頃に大宝律令が完成して、
皇位争いでもめる事のないよう明文化されていますが、だからと言って、親子相続が
完全に主流になったわけではありません。兄弟相続の名残はその後鎌倉時代まで続きます。

//鎌倉時代以降もあったんだろうと思いますが、ワシ、室町以降はあまり勉強
していないので許してちょ//

陽成の跡継ぎを定める時、他に立候補者がいました。仁明天皇の弟である源融は
「私にも皇位継承権はある」
と主張しています。それを基経がはねつけて光孝天皇に決定したという故事から見ても
「皇位は天皇自身が決めるものではない」という事は判ると思います。
つまり光孝・宇多は選ばれた天皇であり、自ら簒奪した者ではないのです。まして、
宇多の父親である光孝天皇は仁明天皇のれっきとした皇子ですから、兄弟相続でさえなく、
ある意味れっきとして親子相続でもあるわけです。

天皇の孫・曾孫の世代や、形式ではなく源氏に下った皇子が皇位を継ぐというならともかく、
光孝天皇→宇多天皇の譲り渡しは、どう考えても正統です。

//宇多の三年間の源氏姓下賜はただの形式です//

つまり、宇多が「皇位の正統を主張する為に高子を貶める必要」は全くないのです。

//ちなみに天皇の后が空閨に男を引き入れてしまう事はよくありますよ。道長などは
入内した妹の不義密通を自ら調査し告発しています。//

51 :日本@名無史さん:01/12/27 11:24
同意。
二条帝の中宮だった高松院は、未亡人になってから子供まで産んだ。
それに宇多天皇に高子を貶める理由はまったくないよ。

52 :44:01/12/27 19:30
なるほど、と言いたいところですが、もう一回だけ突っ込ませて下さい。
「中国では皇太后は皇帝の廃立を行なうことが出来る」って、
菅原道真なら知っていたはずでは?
中国式の発想なら、藤原高子(皇太后)が宇多天皇を廃することが出来ると思います。
漢の昭帝の皇后とか、魏の明帝の皇后とかが、
皇太后として(臣下の要請に基づいて)そうしていたと思います。

53 :日本@名無史さん:01/12/27 20:03
あほらしい

54 :日本@名無史さん:01/12/27 20:23
>53
オマエガナー

55 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 21:34
>52
>「中国では皇太后は皇帝の廃立を行なうことが出来る」って、
> 菅原道真なら知っていたはずでは?

中国の法律と日本の法律は違うんですよ。
日本は確かに中国の影響を受けていますが、完全に影響されていたのは奈良朝の
頃の事であり、平安時代には影響はかなり薄れ、日本風にアレンジされています。
中国においての皇太后の権限がいかようなものであろうと、だから「日本の皇太后も」
というわけにはいかないのです。
あと、遣唐使の必要なしとして、その制度を廃止したのは確か菅原道真ではなかった
ですか?

>藤原高子(皇太后)が宇多天皇を廃することが出来ると思います

それは無理というものです。
天皇でさえ、後ろ盾がない場合、悲惨な目に遭うのが日本の皇室の歴史というものです。
氏の長者である兄の基経に見放された高子には、もはや何の権力も残ってはいなか
ったでしょう。
//だからこそ、そんな高子をわざわざ宇多さんが陥れる必要もなかったんですが//

ちなみに道真は、宇多天皇が退位した時は、大臣にさえなっていませんよ。

56 :44:01/12/27 22:35
>>55
レスありがとうございます。
まだまだ色々突っ込みたいところはありますが、
52で「もう一回だけ」って言ったので、ここらで止めときますか。
陽成天皇退位の事情について、
今まで議論できる人が周囲にいなかったんで、
いろいろ疑問に思い続けて来たことを、書き連ねてみました。
もう一回文献を洗い直してから、また戻って来ます。
ありがとうございました。

57 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 23:28
>56
44さんは日本の天皇制というもの自体を色々誤解しているんじゃないかなと思います。
日本の天皇制をよく理解していたら、まず諸外国の王制(法律)を引き合いに出して
議論することが、そもそも無茶であると判ると思うのですが。
まして中国は・・・・・  違いすぎです。

中国は、奴隷女でも皇帝さえ気に入れば翌日には皇后になれますが、日本の場合は
そうはいきません。奈良時代前期までは、皇后になれるのは皇女だけでしたし、身分の
怪しい女が妃になる事もあり得ませんでした。
天皇自体が、群臣たちとの会議によって定められましたし。
元はと言えば持統天皇と藤原不比等が作った律令制度(天皇がボンクラでも臣下さえ
マトモなら政務は滞りなく進める事が出来るという法律)のせいとも言えますが、
もともと日本の天皇家にはそういう性質があったわけです。
逆にいえば、天皇の地位は守られる変わりに、ワンマン的権力は亡くすわけで、
平安時代の最高権力者である藤原道真さえ、理由もなく天皇を廃位したり廃嫡したり
する事は出来なかったのですよ。
イジメて自分から退位するよう差し向ける事は頻繁だったみたいですけど( ´▽`)

*************************************************************************
陽成天皇の退位に関する事を書いておきますね。

元慶7年、11月10日。源朝臣蔭之の子 益が殿上で格殺(手で撃ち殺す)されるという
事件が起こる。益の母親は陽成の乳母である紀全子であった。
『日本三大実録』『尊卑分脈』『玉葉』の記事からみて、ほぼ疑いのない事実である。
基経は陽成の廃位を決め、淳和天皇の皇子を即位させようとしたが、本人が辞退した上、
嵯峨天皇の皇子で源氏に下っていた源融が立候補をしたので、急ぎ時康親王を
立てる事にした。(時康親王=光孝天皇)
その会議の席では、人々は異議を出して意見は一致しなかったが、藤原諸藤が劔の鞘
に手をかけて威嚇した為、一同怯えて基経の意見に賛成をした。

陽成は粗暴ながら、基経に無理矢理廃位させられたわけであり、当然基経批判の声は
高かった。『玉葉』によると、基経は天皇位を奪って無理矢理光孝天皇に授けたのだとして
批判的に書かれている。
基経に好意的な書き方をしたのは数百年後の『愚管抄』である。
***************************************************************************
高子はともかく、陽成の非常識な逸話は多すぎてとても庇い切れません(;´Д`)

58 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 23:31
あ、文章挿入忘れΣ(゚д゚)

乳母子の益を殺したのは勿論陽成天皇です。

59 :日本@名無史さん:01/12/27 23:36
53だけど、44よ、さっきの「あほらしい」はあやまるよ。
中国の皇太后なんか持ち出されたから、つい・・・
いいから書けよ、おもしろいじゃん。
ところで角田文衛の王朝三部作のひとつ、「王朝の映像」って読んだかよ?
陽成天皇退位の裏事情について、面白い説が載ってたよ。

60 :日本@名無史さん:01/12/27 23:45
補足。角田説は、基経と高子の不仲・陽成天皇に対する母后高子の影響力を
不満に思った基経が、天皇廃立を企てたというスゴイもの。
それによると、陽成帝は「物狂い」「病弱」ですらなかったらしい。

61 :お言葉に甘えて復活します=44:01/12/27 23:49
中国と日本の事情が別だというのは了解。
だけどどうしてもよくわからないのが、
陽成天皇からその大叔父の光孝天皇に位が移った点。
文徳天皇や清和天皇の子孫たちは最初から無視されてたってこと?

62 :44:01/12/27 23:56
>>60
実際には基経と高子の兄妹の対立だってこと?
そう考えると、陽成天皇の同母弟が後継とされなかったのも納得できる。
陽成天皇にしろ、年齢的にはそれこそ「厨房」だったし、
素行が悪くても矯正する余地はあるように思えてたんで。
でも基経には自分の外孫も確か一人いたはずだけど......。
何か藤原基経って、とんでもない大物に思えて来たよ。

63 :闖入者:01/12/28 00:00
>>36
「吸血鬼ゴケミドロ」。
http://home.catv.ne.jp/nn/kotatu/movie/1996_01/960113.htm
誤爆にレスするのもアレだけど、面白いので(w

64 :日本@名無史さん:01/12/28 00:04
中国の皇太后たちは確かに相当な力持ってる。

本人が実権を掌握している場合もあれば
権臣が皇太后の権威を利用して皇帝を廃したりする。

南北朝時代には簒奪をやりたい臣下が皇太后に
「天命はもはや革まってしまった」という詔書を出させたりして
禅譲を強行する。辛亥革命も隆裕皇太后の詔書によって
「遜位」したという形をとった。

65 :日本@名無史さん:01/12/28 00:21
清和天皇の皇子は、>>45 のとおりで、
貞辰親王を皇嗣に立てなかったことが不思議なんだが、
角田説によるとこれも天皇の廃立に基経が私心のないことを示すための遠謀だという。

文徳天皇の子は早死にが多くて、884年に生きてたのは惟喬親王だけ。
母は紀氏だから、基経のお眼鏡にかなわなかったんじゃない?
仁明皇子は、孝光と、同母弟帝の人康、本康(母は滋野氏)しか生存していなかった。

66 :44:01/12/28 00:21
あと些細なことかも知れないけど、
源融が立候補したっていうのは、融自身にとっては、
「マジ」だったんですかね。
それとも基経との間で仕組んだ芝居、「ヤラセ」だったんですかね。
まあどちらにしても、
自分の妹の子でさえ廃位してしまうくらいだから、
この時の藤原基経っていうのは、もの凄い「ド迫力」だったでしょうね。
こんな男が臣下にいたら、誰も天皇なんかになりたくなかったかも。
それで光孝天皇みたいな、温和な(人畜無害な?)人のところに、
落ち着いたんでしょうね。
(しかしそう考えると、やはり源融の「間抜け」ぶりが際立ってしまう。
そういう状況で野心を見せる奴なんか、誰も推さないに決まってるのに)

67 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 00:27
>61
>お言葉に甘えて復活します

みんなで語り合いたいな(´▽`) 平安時代大好きだから(ハァト

>文徳天皇や清和天皇の子孫たちは最初から無視されてたってこと?

文徳天皇の場合で考えると、ある意味、無視はされて当然かも知れません。
基経の姉妹や娘などは文徳天皇には入内していませんので。
文徳天皇の女御に、基経の従姉妹にあたる明子が入内していますが、明子の子供は男女ひとり
づつです。皇子は清和天皇となりました。

清和天皇に関していえば、妹の高子や、娘の佳珠子が入内しているようですね。高子は
三人(陽成含)の子供をもうけたようですが、基経と不仲ならば、高子腹の皇子が無視されたのも
判る気がします。
基経の娘の産んだ子は何故無視されたのか・・・・ この頃にはすでに死亡していたのかな?
と思わないでもありません。

その辺はサパーリ

68 :日本@名無史さん:01/12/28 00:34
「ちかき皇胤をたづねれば、融らもはべるは」って融が云ったって、
なにかに書いてあったな。大鏡かな?
マジだったんじゃない?
嵯峨天皇は、皇室の「中興の祖」みたいな存在だったから、嵯峨皇子というのは
当時大きな存在感をもっていた。
王朝の映像、でかい図書館行けばあるから読んでみて。
細かいとこ忘れちゃったけど基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、
つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい。
だから基経は、はじめから全部シナリオを書いて、廃立劇をやったとか。
よくおぼえてないんだが、そんな内容だった

69 :日本@名無史さん:01/12/28 00:39
>>68 細かいとこ忘れちゃったけど基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、
   つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい

尚侍の藤原淑子だったかな?
 

70 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 00:47
>66
>源融が立候補したっていうのは、融自身にとっては、 「マジ」だったんですかね。

68に同意。
当然マジでしょう。
この頃の藤原氏は後の道長の時代ほどの権力は持っていなかった筈です。
(藤原氏は奈良朝の四兄弟の死後、勢力が一端衰えていますし、四家の子孫たちの
水面下の争いもありましたし)
嵯峨天皇の皇子である源融の勢力は大変なもので、清和・陽成の頃は、左大臣
でした。>融

源融は光源氏のモデルとも言われているし、河原院という大豪邸に住んでいたあたり、
当時はそうとうだったんじゃないのかなぁ。

確か芥川龍之介の「地獄変」に出てきた大臣って、この人でしたよね。

71 :44:01/12/28 00:59
皆さんありがとうございました。
眠くなって来たので、お先に失礼します。おやすみなさい......

化けて出ないといいな、源融左大臣。

72 :49:01/12/28 01:00
>50

でも、陽成院に、「当代は元家人ではないか」なんて聞こえよがしに
言われた、なんていう話が伝わっている訳ですよね、宇多天皇には。

ここまで言われた宇多天皇が、高子/陽成を殊更に貶めることで、彼
らの系統が王位にふさわしくないのだと主張するのは、むしろ自然な
ように思えますが。


誤解されているかもしれませんが、私は光孝->宇多の流れが正統でな
いために無理やり正統性を主張したのだ、と言ったわけではないです。

文徳->清和->陽成の流れから遡って光孝->宇多の系統に皇位が移った
以上、高子/陽成親子を貶めることは、宇多天皇の正統性を高めるこ
とはあっても、損になることはないだろう、と言いたかったんですが。

73 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 01:15
>72
>でも、陽成院に、「当代は元家人ではないか」なんて聞こえよがしに

それは大鏡にみえる記述ですよね。
その程度の事で恨みに思ってその母親を貶める行為に出る事こそ不自然じゃない
でしょうか。

「ここまで言われた宇多天皇が」と仰いますが、大した発言ではないと思います。
無礼といえば無礼ですが、相手は元天皇であり、間違っても自分より位の低い
人に嗤われたわけではありませんし。むしろ若くして帝位を奪われた陽成院を
哀れに思うのが関の山じゃないですか?
大宅世継もなるほど、「立派な家人をお持ちになった」とお世辞を言っている程度の
事だと思いますよ。
つーか、当代の天皇に対してそんな事を聞こえよがしに言ってしまうくらい、
陽成は分別のない性質だったいい証拠じゃないかと思います。

>誤解されているかもしれませんが、

了解しました。

74 :日本@名無史さん:01/12/28 01:21
まぁ、僧と姦通するくらいのこと、高松院でもやったしな〜
廃后はちょっとやり過ぎかもね。
もしかしたら、陽成の皇子の誰かを皇位につけようと、何か画策するとか、
呪詛するとか、やったのかもしれないな。
孝光天皇はおとなしい温和な人だったが、宇多天皇はそうでもなかった・・・。
早めに醍醐に皇位を譲ったのも、陽成帝の皇子たちの存在が気になったせいかも。

75 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 01:47
【陽成と基経の確執】

貞観18年、基経は幼い陽成天皇を助ける者として、摂政を任じられました。
この時基経はすでに右大臣でしたが、源融は基経よりも更に格上の左大臣
でした。
本来「摂政」たるは、太政大臣、すなわち臣下としての最高位の者が更に
得られる任務であるところを、中途半端な位で任じられてしまった。
それが基経には気に入らなかったようです。

早い話が、太政大臣になれると思っていたらなれなかったのでムカついた?

結局は太政大臣にはなるのですが、基経は政務をほったらかしにし、陽成に
いやがらせに近い態度を取っていたようです。

阿部 猛 著

76 :鴉の華:01/12/28 02:31
藤原佐偽っていたの?

77 :日本@名無史さん:01/12/28 08:18
>69
>基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい
>尚侍の藤原淑子だったかな?

基経の妹のようですね。
光孝天皇の即位はともかくとして、基経は宇多さんの即位には不満だったみたいですね。
それを強引に説き伏せたのがこの淑子さんだったみたい。
て事は、光孝天皇即位はあくまで中継的なものであり、基経としては最終的には
自分に都合のいい血筋の天皇を擁立するつもりだつたんですかねぇ。

78 :日本@名無史さん:01/12/28 11:57
陽成廃位→高子排除→年寄りで温和な孝光即位→すぐ死ぬ→孫の貞辰親王即位→おらが春
という筋書きだったの?

だとすると、孝光天皇の在位してた4年て、すごく重要だね。
水面下で激しい政争が行われてたってこと?
孝光天皇は遠慮したんじゃなく、強要されて皇子に臣籍降下させられた?
でもいよいよ孝光が死ぬときになって、何らかの要因で
貞辰ではなく源定省を擁立したってことか。

79 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 12:45
>78
>陽成廃位→高子排除→年寄りで温和な孝光即位→すぐ死ぬ→孫の貞辰親王即位→おらが春

陽成廃位後すぐに高子が廃后になったわけじゃありませんよ。
正しくは、

陽成廃位→光孝即位→三(四?)年後崩御→宇多天皇即位→約10年後、高子が醜聞により廃后

が史実です。
ちなみに基経は宇多の治世四年後に亡くなっています。

80 :日本@名無史さん:01/12/28 13:58
いや、そういう意味じゃなくて
母后としての高子の影響力を排除する、という趣旨。

たしか臣下で摂関職についたのは良房からだよね?
摂関家としての藤原氏の地位を確固たるものにするためには
廃帝すらやってのけた基経ってすげーやつだなぁ。
当時はまだ嵯峨源氏が巾を利かせていたし、別に摂関家として認められたわけでも
なかったわけだから・・・
摂関家としての地位を築いたのは時平・忠平からだろう。
高子廃后は、総仕上げかもね。
でも、廃帝に較べれば、大したことじゃない。

基経が阿衡事件のとき、あんなにこだわったわけが分かった気がする。
今までは、たんなる嫌がらせかと思ってた。

81 :日本@名無史さん:01/12/28 14:15
>>80
>母后としての高子の影響力を排除する

そこがよくわからん。
もともと高子には大した権力はなかったと思う。
皇后でさえないんだから。陽成が即位したから皇太后にはなったけどね。
後ろ盾なし、息子は廃帝になって10年。これでどうして「影響力」があると
思えるのか。
少女の頃から浮き名を流していた高子が、歳をとってから老僧と出来て
廃后になったって、なんの不思議もない。それをでっちあげと見なそうと
する君の心がわからない。

82 :日本@名無史さん:01/12/28 14:29
でっちあげとはいってないよ。よく読め。俺は昨日の44,49とは別人だぞ。
君の心、とは何事だべさ?

母后としての高子の影響力てぇのは、公卿に対するものじゃない。
陽成帝に対する影響力だ。
廃后の話じゃねぇ、廃帝の話だ。
高子と基経が対立していたならば、陽成を父の清和帝と同様に傀儡として
基経が全てを仕切るわけにはいかんじゃないか。
陽成帝は17歳だろ。もし「物狂い」云々でなければ、やがて成人して基経排除に
回りかねない。
嵯峨源氏が廟堂の高官を占めていて、まだ基経の摂関職も安泰ってわけでもない時期に
そんなことになってみろ、大変じゃないか。

廃后については知らん。
だが10年たてば陽成にも皇子が生れてるし
陽成の弟たちも成人してる。
念のため、高子を追い落としておいても損はあるめぇ。

83 :日本@名無史さん:01/12/28 14:31
>>81
なんの影響力もないのなら
不義をかさねようが
密通をかさねようが
夫を亡くした50過ぎのおばあさんなのだから
放置しておけばよかったものを。

84 :日本@名無史さん:01/12/28 14:34
天皇の母として、諸大臣達以上に発言力のあった女性なんてほとんどいないと思うよ。
いたとしても、天皇の力というよりは、後見の実家の力があってこそなんだから。


-高子の背景-
父→長良。生存時は権中納言。早世した為、位階はここまで。
兄→仲違い。
本人→皇后でさえない。
息子→廃帝。


大貴族の娘でさえ、両親に死なれると落剥して、遊女にまで身を落とすと言われていた
この時代。例え皇后になったとしても、実家が没落すると、その嫡男は皇太子にさえなれません。
これでどうして影響力が?

わざわざ排除するほどの力だろうか。

85 :81:01/12/28 14:37
>>82
あ、そうなの?>別人

昨日からのやりとりで勘違いしちゃった。ごめんね。

86 :日本@名無史さん:01/12/28 14:40
歳をとってから老僧と出来たぐらいで廃后になるのか?

87 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 14:44
>86
なんでだろうね。
子供が出来るならともかく、出来るような年頃でもなかったろうし・・・>廃后

88 :日本@名無史さん:01/12/28 14:46
高子てぇのは少なくとも大人しい女じゃないからな。
どっちかというと気性の激しい女だろう。
兄の命令で恋人と引き裂かれて後宮に入れられたのに
こんどは天皇になった息子を兄に廃されてしまった。
何しでかすか分からんぞ、こういう女は。

俺の想像(妄想)
高子の不義相手の僧は、高子が発願して建てた寺の住職だというから、
実は「皇位を我が子(孫)に戻したまえ」という呪詛をやっていた。
それが発覚し、呪詛ではやばいから、密通ということで僧ともども処分した。
どうよ?

89 :日本@名無史さん:01/12/28 14:50
>88
それ、すごくイイ!

90 :日本@名無史さん:01/12/28 14:54
>>88
呪詛ということでもやばくないと思われ。

91 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 15:01
>82
>陽成帝に対する影響力だ

陽成にはなんの力ものこっていないと思う。
廃帝になった時点、年若だったし、廃帝になってからは、その素行はますます酷くなった
そうだしね。庶民をいたぶる事はなはだしかったらしいから、復位なんて、それこそ無理
だったんじゃないかな。方や宇多は平安時代の中でも誉れとされるいい時代を築いてい
た訳だし。※宇多の成功の反動で、ますます酷くなったんだろうか、陽成……

「院」が権力を握るのは白河天皇からであり、平安初期のこの頃は、ただ権力を削がれた
だけでは?
現に宇多天皇さえ、上皇になってからは息子の醍醐天皇への影響力を無くています。
宇多が登用した菅原道真は、醍醐天皇の代で太宰府へ左遷される訳ですが、道真は
その前に宇多上皇の元へ駆けつけようとしています。宇多が状況を知った時にはどうする
事も出来なかったとか。

>88
>高子の不義相手の僧は、高子が発願して建てた寺の住職だというから、
>実は「皇位を我が子(孫)に戻したまえ」という呪詛をやっていた。

その発想すごくいいね。
ただ、ワシ的にはちょっと疑問が……
仏教に呪詛はナシです。
奈良朝の頃に唐から入ってきた道教(左道)が、平安時代にはすでに日本風にアレンジ
されて陰陽道になりました。呪詛をするのは陰陽師であり、お坊さんではないのでは
ないかなぁ。
それとも密教が入ってきた事で、呪術的色彩を帯びていた?>仏教
不勉強でよくわからないので教えてホスィ・・・

92 :日本@名無史さん:01/12/28 15:16
裏づけのない憶測でスマンが。
基経の威勢は大したものだったけど、その死後、時平は内覧宣旨だけで関白には
なってないよね。しかも896年の高子廃后のとき、時平はまだ若い(26歳)
嵯峨源氏やら、南家式家やら、冬嗣流の別家やら、政敵は沢山いた。
基経はもう死んでるし、もし反時平勢力が結集したらどこにいく?
廃された陽成と高子のとこじゃないかな。
もともと陽成は嫡流だし、その子供のひとりを担ぎ上げれば、十分な対抗勢力になりうる。
そんなことにならないうちに、高子を貶めておく・・・くらいのことは、やりかねないと思うんだが。

93 :88:01/12/28 15:23
>91
そうか。。。呪詛は寺ではやらんのか。
ずーっとあとで、後醍醐が文観僧正とかと幕府追討の呪詛をやったけど
あれは平安時代にはまだなかったのかなぁ。
俺も不勉強でよくわからん。

>90
呪詛でもやばくない・・・といえばそうかも(藁
ただ、臭いものにフタ、みたい感じで、極秘処理したのかもと
思ったんだ。
もういちど考えてみる。

94 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 15:39
>92を読んで、なんとなくそれが当たりのような気がしてきた・・・・>廃后の真相
て事は、高子廃后の黒幕は時平?

基経死後、92が書いているような水面下の政権争いが勃発したが、時平には泣き所があった。
それが叔母の高子と従兄弟の陽成。
この2人は基経によって二条院に幽閉されてたが、イギリスの王族がロンドン塔に幽閉される
のとはわけが違うから、2人は二条院で好き放題をしていた。
それが周辺では大変な悪評を立てていたらしいし・・・・
高子はともかくとして、陽成は確かに酷なと思う所がある。
貴顕の家に押し入って強盗まがいの事をしたり、攫った女を丸裸にして縛り上げ、池に浸けて
おいたりと、なかなか最低なことをしてるから。

//この時代、下級貴族のおっさんが病気になった時、医師に「胎児の生き肝(だったかな)を
食べると治る」と言われて、妊娠中だった嫁の腹を割こうとした上、大して非道とは思われて
いなかったみたいなので、そのくらいやるかもね・・・・>陽成//

しかし最高位の人間のやる事としては、外聞は悪いだろうな・・・・

時平としては、この泣き所を政敵たちに突っ込まれたくなかったが為、あえて叔母を陥れた。
なにしろ廃后になった高子は時平の館に引き取られているから。

て事だろうか?

>91
いやいや、本当にワシ、そのあたり、不勉強なので。疑問をていしたというより、マジで
知らなくて訊いただけなんです。

95 :日本@名無史さん:01/12/28 20:18
宇多天皇や基経。
このスレ1から読むと、詳しくなった気になれますね。

ところで皆さん、平安時代で実はこの当たりが
一番興味あるってのどの辺なんですか?一番の得意分野というか。

96 :44:01/12/28 20:26
戻って来たらこんなにレスが延びてたんで、ビクーリ!
この辺の話題でも結構語れるんだ、と思いました。
ところで、
やっぱり基経と高子って、何か普通の兄妹とはとても思えない関係って気がする。
羽振りのいい叔父のところに養子に行った兄に、
さんざん政治的にいいように利用され尽くされて、
それに対する鬱憤がついにどっかで決定的に切れちゃったのかな、妹の方は。
ところで、私個人としては、「藤原基経=とんでもない超大物」って意識があって、
それで基経の死後に出来た権力の空白を巡って、その後も一波乱あって、
それが高子の廃后と関係してるんじゃないか、
と仮定(空想? 妄想?)して考えてました。
でも逆に考えると、基経の存在があまりにも大き過ぎて、対抗馬もいなくて、
宇多天皇が親政を始めると、それまでの基経のイエスマンたちが、
そのまま宇多天皇のイエスマンに移行しちゃったんじゃないか、とも思えて来ました。
なんかいつも小説的な想像ばかり書き込んで申し訳ありませんが。

97 :日本@名無史さん:01/12/28 20:37
44よ、君のいない間にどんどん話が勝手なほうに・・・(藁
ところで、嵯峨源氏は正直言って面白くなかったと思うよ。
孝光は仁明皇子だからまだしも、一度臣下に降りた宇多なんか、
嵯峨天皇の皇子である源融あたりから見たら、格下だもん。
文徳皇子の源能有とか、源氏がまだ勢力もってた時期だもんね。

むしろ、基経に死なれて、宇多天皇は恐ろしくなったと思われ。
基経自身が、臣下が天皇を廃する前例作ってるわけだし。
大急ぎでまだ13歳の醍醐帝に譲位したし、菅原道真を重用したのだって
本当は藤原氏を抑えるためではなく、源氏を抑えるためだったという研究もあるよ。
醍醐帝も大変な覚悟で親政を始めたんじゃないのかな。

98 :44:01/12/28 20:58
>>97
これは個人的な好き嫌いの問題ですけど、
学者が政治に深入りするのは「?」って思ってしまうんですよ。
だから私自身は菅原道真にあまり好感は持てないんですが、
そこで皆さんにお訊きしたいのは、
菅原道真って、どこまでが道真自身の権力志向で、
どこまでが宇多上皇の言うままで動いてたんでしょうね?
怨霊話なんかあると、逆に、
「そこまで権力に執着したかったの?」とも思えてしまう。
「怨霊話がある」→「道真自身、相当な権力志向の持ち主=俗物だった」
なんて書き込んじゃうと、
「何を短絡的な発想してんの」って突っ込みが来るのは、
目に見えてますが、あえて。

99 :日本@名無史さん:01/12/28 21:15
道真は理想家だから
「天皇はこうあるべき」「まつりごとはこうあるべき」という
理想論で動いていたと思う。
それが現実にそぐわなくても・・・

100 :44:01/12/28 21:28
菅原道真といえば藤原時平なんですが、
時平の政治家としての力量は、どんなもんだったんでしょうか?

101 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:30
>98
道真というのは非常に実直かつ潔癖性なんだと思います。周囲が権力を前にして
口を噤む中、敢然と自己の主張を述べるタマだったらしいので。つまり、自分が
不利になるのを承知で、恩義もない相手を、それが正しいと思うならば庇うという
峻烈さがあったという訳です。

まず彼が学者であったのは、単に家柄のせいだと思います。
祖父の清公は学問一筋に生きた男でした。父の是善は参議にまで上りましたが、
この人も文章博士であり、その資格ゆえに参議にまでなれた訳ですから、
つまるところ、学問で身を立てるのが菅原家の伝統だったのではないでしょうか。

光孝天皇が即位した3年後、基経の長男である時平が16歳で元服しています。
そして丁度同じ年、道真は加賀権守の任を解かれ、讃岐守になっています。
これは左遷とは言わないまでも、栄転とは言い難かったようです。
道真は菅家廊下(塾)を開いていましたが、その学閥を恐れた派閥が、道真を
地方へ飛ばしたとの見方も出来ます。

ちなみに、翌年宇多天皇が即位した時、道真は当然讃岐にいました。

102 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:44
>101の続き。

讃岐時代の道真は、学者としても政治家としても中途半端であると嘆いていたようです。
宇多天皇即位の四年後、ようやく人気が明け、都へ戻っています。
翌年、宇多天皇の側に使える式部少輔→蔵人頭→及び左中弁を兼ねました。

この時点で基経は亡くなり、20歳の時平は参議になっています。

道真のスピード出世が始まったのは、まさにこの頃からでしょう。
当時25歳、政治改革やる気満々の宇多天皇と、もともとやる気満々の道真は、恐らく
馬があったのではないかなと。

宇多天皇、31歳で退位し、息子の醍醐天皇に位を譲る。その二年後、道真右大臣に。

//時平左大臣→29歳//
//道真右大臣→55歳//

宇多天皇という後ろ盾を失った道真は、途端に他の貴族からいやがらせを受けました。
今風でいうとイジメ。それも中学生なみの。シカトとか村八をされたようです。
宇多条項はその状況を打開しようと、他の貴族たちを集めて説得していますが事態は
変わらず、道真は孤立していきます。

103 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:50
>102の続き。

更に二年後、道真はいきなり太宰府に左遷されます。
道真の罪状は以下でした。

「菅原道真は低い家柄の出でありながら、口上手くこびへつらい、手に入れた
大臣位を利用して権力を行使し、宇多上皇を欺いた。道真は大臣の器に非ず。
これは罪人として裁くべきである」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと非道すぎじゃありません?(゚∀゚)

104 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:55
なんだかやたら長文レスばかりして申し訳ないです。
実は・・・・

道長が好きなんです・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴメ・・・・・

105 :日本@名無史さん:01/12/28 22:00
>101-104

いや、別にいいんじゃない?

106 :44:01/12/28 22:02
>>104
ど真ん中の直球なんで思わず見逃してしまいそう、道長。
でもこのスレのためにはいいかも。
道長どんどんやって下さい。

107 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 22:09
>106
>道長が好きなんです・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴメ・・・・・

ごめん、道真だたよぉ(;´Д`)
道長よりは頼道のが好きです!

108 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 22:32
突然の道真左遷は、当然宇多抜きで画策されました。宇多が止めるのを恐れたからでしょうが、
しかしそれこそが、ある意味道真の罪状が虚実でしかなかった事を物語っています。
いかな道真びいきの宇多といえど、罪状が真実ならば、ちゃんと宇多に話を通したに違いありま
せんから。
流刑(ほとんどコレですよね)になったのは道真本人だけではありません。まず四人の息子は、
それぞれ流謫せられています。長男は一応左遷ですが、残りの三人は配流です。若年の
男女は道真についてゆく事をゆるされていますが、男の子の方は長旅が祟って、道真より先に
亡くなっています。
その二年後、道真自身も太宰府で亡くなったことは、広く人口に膾炙していますね。

>98
>「そこまで権力に執着したかったの?」とも思えてしまう。
>「怨霊話がある」→「道真自身、相当な権力志向の持ち主=俗物だった」

怨霊話→それほど道真が世間の同情を集めた→時平たちの横死、ざまぁみろと世間が思った

という変換の方が正しいと私は思います。
世間はひたすら亡くなった道真に同情的でした。それは生前の道真の人柄によるものではない
でしょうか。当時の天変地異や政敵の横死を「天罰だ」と言うことにより、藤原氏の横暴を世間が
詰ったのだと思います。少なくとも「祟られる程のことを時平らはやった」と認識されていたのだと
思います。

109 :日本@名無史さん:01/12/28 22:56
時平の若死の後に藤原氏の家長の後継者となった忠平が道真派だったんでしょう?
忠平が道真の名誉回復に働いたと思う。
藤原氏全体が道真派に転換して、藤原氏の天下が強まったという筋書き。

110 :日本@名無史さん:01/12/28 22:59
時平vs忠平兄弟の確執があったのかなぁ?

111 :日本@名無史さん:01/12/28 23:13
藤原忠平の時代に、国外では唐の滅亡、渤海国の滅亡、新羅の滅亡が続き、
国内では平将門と藤原純友の乱が起きている。
忠平が関白になる頃には班田収授が全く行われなくなり、
荘園が乱立するようになる。
律令制国家が音を立てて崩壊していた時期なのだ。
時代の転換点を忠平が乗り切ったわけだが、
忠平自身は有職故実にこだわる消極的な政治家にしか見えない。
この落差はなんだろうね?

112 :日本@名無史さん:01/12/28 23:21
時平は荘園整理令を出すなど、律令制の建て直しに積極的。
積極ついでに道真を追放したわけ。

一方、忠平は時平の努力を水の泡にして、律令国家制度を破滅させた。
おかげで藤原氏の繁栄が長続きすることになる。
時代の先取りという意味では、時平より忠平の方が上手。

113 :日本@名無史さん:01/12/28 23:28
忠平は道真を師匠にしていた。
その道真は遣唐使の廃止を具申するなどして、
唐風文化及び律令制の未来を見限っていたのでは?
忠平は道真の路線で公地公民制から私有荘園制へと
ソフトランディングを図っていたとしていたら、
凄腕の政治家なんだが・・・・。
やっぱり有職故実にしか関心のない人物としか思えない。

114 :日本@名無史さん:01/12/28 23:36
いや本当の忠平は大物なんだよ。
実は平将門や藤原純友とも裏で通じていたのだ。
忠平が将門とは面識があることは史料に残っているはずだし、
純友は摂関家の縁続きだから当然知り合いなのさ。
二人を操って日本をひっくり返そうとしたのだ。
陰謀家であることを隠すために凡人であるふりをしていただけなのだ。

だんだん、電波になってきた。
誰か止めてくれ・・・。

115 :日本@名無史さん:01/12/28 23:45
時平は理想に燃えて力技で政治を切り盛りしようとしましたが、
忠平は現実主義でかつ問題先送り手法。冷めているところがあったような気がします。

116 :日本@名無史さん:01/12/29 00:02
国立民俗歴史博物館で、貴族たちの日誌が展示してあった。
関白級の貴族はかなり優雅でまったりした日々を送っているが、
少し下級になると、連日雑務に追われて飛び回っているそうな。

117 :日本@名無史さん:01/12/29 00:21
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/772205.htm
菅原道真と宇多・醍醐帝の関係については、ここが詳しい。
宇多即位に尚侍・淑子が暗躍したことも載ってるよ。

118 :日本@名無史さん:01/12/29 09:30
忠平は藤原氏主流派に逆らって、菅原道真に心酔していたことは周知だった。
道真を左遷するなど強引さの目立った時平たち主流派の政策に世論の批判を浴びたものだから、
一転して「温厚な」忠平が抜擢された。
忠平は見せかけだけの温厚であり、実際は道真怨霊騒ぎで天皇を脅迫した陰謀家だったという話を読んだことがある。

119 :日本@名無史さん:01/12/29 09:37
藤原氏一門に優秀な人材が多数排出したのが藤原氏の時代が長続きした原因だと思う。
時平政治が挫折しても、忠平のような非主流派を抱えていたために、藤原氏は力を失わなかった。
藤原氏は今の自民党みたいに幅広いのかも。
危機が訪れると、それに対応できる人材を祭り上げることができた。

120 :日本@名無史さん:01/12/29 09:46
藤原氏は他の氏族と異なり、地方豪族としての基盤を持っていない。
ただ朝廷の官僚として出世するしかなかった。
官僚制に寄生して、他の豪族たちを圧倒するには、
それだけ勉学にいそしみ、
あらゆる政治学に長ける必要があった。
その分、優秀な人材を育むことになったと考えます。

121 :日本@名無史さん:01/12/29 09:52
橋本派が小泉政権を支えているようなものか?>>119

122 :日本@名無史さん:01/12/29 09:56
平安時代、特に摂関政治の時代って、戦乱の少ない、文字通りの平安な時代なのかなぁ?

123 :日本@名無史さん:01/12/29 10:07
今昔物語では盗賊が跋扈し、治安が悪い時代に見える。
源氏物語の世界では宮廷貴族は恋愛にうつつを抜かしており、
責任感を持った政治が行われていないように思える。
学校の教科書には官吏の責任感が衰退し、治安は乱れ、盗賊がはびこり、地方政治が混乱したことになっている。
そのくせ名のある戦乱が少なく、死刑すら少なかった。
しかも長続きしている。

オイラが思うに、各種の物語のイメージに引きずられ過ぎているのだ。
センセーショナルな報道や、芸能人ゴシップだらけのワイドショーで今の時代の全てを語ろうとするのと同じではないか?

124 :日本@名無史さん:01/12/29 10:11
>>122
今でいう戦国時代の合戦を想像するなら、無いとも言えるんじゃないかな。
ただ九州では外国の海賊に襲われて太宰府が応戦したりしてた。地方で
豪族同士の小競り合いは頻繁にあったと思うが、中央政府は無関心だよ。
都でも貴族の使用人同士が殺しあったりしてるな。

125 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 10:16
>122
いや、庶民にとっては、かなり凄惨な時代だったと思います。
というのも、この時代は死刑がなかったそうですが、普通死刑にするだろう的な
犯罪者がいなかったわけでは当然なく、死刑にしてもいいような人たちも野放し
にしていたというのが真相です。

悪事→捕縛→放免→悪事→捕縛→放免→エンドレス

一応法律では死刑制度もあったのだけど、誰も死刑判決を受けなかったわけです。
まぁ、平安初期の承和の変とかは、死刑バンバンやりまくった奈良朝の匂いがまだ
残っていたのだと思いますが。

頼朝が庶民に歓呼で迎えられたのは、死刑にされてしかるべき罪人をかたっぱし
から斬首してくれたからという説もあります。

126 :日本@名無史さん:01/12/29 10:19
そういえば刀伊の入寇があったね。
大宰府や九州豪族たちの奮戦で撃退できたのだが、
大宰府が中央の命令を待たずに侵略軍に応戦したという理由で、
恩賞を与えるべからずという論議が朝廷でまかり通っていたらしい。
形式主義というか、平和ボケの現代とそっくり。

127 :日本@名無史さん:01/12/29 10:41
結局は「常識」が勝って、恩賞が与えられたんだけどね。<刀伊の入寇
現代は「常識」が通じるかどうか不明。

128 :日本@名無史さん:01/12/29 11:03
なんで死刑執行がなくなってしまったの?
平安時代に死刑廃止論者がいたから?

129 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 11:55
>128
養老律令にはちゃんと死刑の制度が規定してあるんですが、仏教的慈悲心ムードの
蔓延していた宮廷では、処罰を軽くする事がよい事とされ、やたら恩赦や特赦を
行っていたらしいです。
貴族たちには来世の功徳でも、悪人を世に放たれては、庶民にとってはえらい
迷惑ですよね。

130 :日本@名無史さん:01/12/29 15:00
武士だって仏教を熱心に信仰していたはずだが、
軟弱にならなかった。
貴族と宗派が違うのかしらん?

131 :日本@名無史さん:01/12/29 15:09
>130
庶民だって仏教を信仰してたでしょ。
てか、貴族=法曹界であり、それ以外の人たちは、法曹界の人々のエゴに
振り回されていたという点では同類だったんじゃないかな。
だから逞しくなったんだと思う。

132 :日本@名無史さん:01/12/29 15:10
平安末期に平氏が政権を握ったとき、
清盛の義弟、平時忠が検非違使別当となり、盗賊12人の右手を切断したことがある。
強盗、強姦、殺人を繰り返す非道な連中だったが、
時忠の処断は貴族たちに受け入れられず、非難を浴びた。
平安時代とはそういう時代だった。。。

133 :日本@名無史さん:01/12/29 15:20
人権が大切だったんだね。

134 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 15:25
嵯峨天皇が「主義として死刑は行わない」という規則を作ったんです。
当時の法律では、ある一定以上のものを強奪した強盗は死刑でしたが、嵯峨天皇の主義によって
減刑され、懲役刑になりました。しかし、たとえその強盗が一定以上を盗んだとしても、一定以下
だったと上申され(慈悲のつもりか?)、何故か減刑されたりもしたのです。
この主義が嵯峨亡き後も一般化し、しまいにはとんでもない事になっていました。強盗が殺人を
犯しても、罪に問われるのは強盗罪の方だけで、殺人の方は問われなくなりました。人を斬り殺しても、
物盗りをしなければ無罪になったりしました(゚д゚)ポカーン。

ところでワシ、>125で嘘を書いてしまいました。

>頼朝が庶民に歓呼で迎えられたのは、死刑にされてしかるべき罪人をかたっぱし
>から斬首してくれたからという説もあります

頼朝じゃなくて北条時政でした。
時政は、罪人を検非違使に渡せば、それが無罪放免になると判っていたので、渡さずに独断で
斬り殺したらしいです。
そんで、京都の庶民が大喜び。

135 :日本@名無史さん:01/12/29 17:00
あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。

これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。
光孝が即位したときに皇子をすべて臣籍降下させたのは、
彼が暫定的に立てられたことを示しているのだろう。
光孝が立てられた経緯を考えても、
これが予期せぬ事態だったことが明らかではないか。

宇多が突如即位したことからも、
これが基経の意向ではなかった(予期していなかった)ことがわかる。
そろそろ藤原氏中心史観はやめよう。

136 :日本@名無史さん:01/12/29 17:06
>135

なんか勘違いしてない?

137 :日本@名無史さん:01/12/29 17:08
>>136
何を?
まあ、あまりこの時代詳しくないので
ご教授願いたい。

138 :日本@名無史さん:01/12/29 17:15
>135
すいませんが、君の説明は意味不明です。

>あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。

ほんと、今更だね。

>これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。

「これ」は「陽成退位」にかかるんですよね?
基経が主導以外の何者でもありませんよ。当時、天皇を廃位に出来る力を持っていた
のは基経だけです。ちなみにその事については誰も「わけわからなく」などなってませんが。

>光孝が即位したときに皇子をすべて臣籍降下させたのは、
>彼が暫定的に立てられたことを示しているのだろう。

それはそうでしょうね。だけど今更言うことじゃないですね。このスレで既出です。

>光孝が立てられた経緯を考えても、
>これが予期せぬ事態だったことが明らかではないか。

そりゃ基経も、まさか陽成が宮中で乳兄弟を殺すなんて事は良きしなかったと思います。
が、もともと陽成が即位した時から、基経は陽成に対して政治上のイジメをしていた
わけですから、退位させた事自体は、基経にとってはある放免では渡りに船だったと
思いますよ。

>宇多が突如即位したことからも、
>これが基経の意向ではなかった(予期していなかった)ことがわかる。

それもこのスレで思い切り既出。そして基経は結局は承知している。宇多が押し切った
わけじゃない。

>そろそろ藤原氏中心史観はやめよう。

意味不明。何がいいたいんだ?

139 :日本@名無史さん:01/12/29 17:17
>137
過去ログ、斜め読みしたでしょ?(´∀`)

140 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 17:21
>135
>あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。
>これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。

わけがわからなくなるというのは、一体なにについての事でしょうか?

141 :日本@名無史さん:01/12/29 17:29
>>139
そのとおり。今はじめてこのスレ知ったから。
それは謝る。

でも何か基経を偉大な政治家とするところに違和感がある。
それでは陽成退位、光孝即位は基経にとっては喜ぶべき事態だったわけ?
光孝の前に恒貞が推薦されたのはどういう意味?
恒貞のこと誰も触れてないでしょ。

142 :日本@名無史さん:01/12/29 17:38
>141
ほんっとに過去ログ読んでないんだね〜

143 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 17:43
>141

いちおう過去レスでワシが書いてます。>恒貞親王のこと
名前じゃなくて、淳和天皇の皇子としかかいとらんけど。

144 :日本@名無史さん:01/12/29 18:06
>いまさら陽成退位
歓迎だよ。ループはかなわんけど、新しい発想は大歓迎。

>藤原中心史観
そう、確かに平安初期はまだ藤原氏の勢力は確立していなかった。
いつどこでひっくり返るか、わからん危うさをはらんでいた。
俺たちはつい、摂関家の藤原氏の威勢を前提に判断しちゃうけど。
その権力が確立するのは、少なくとも忠平以降だろうね。

145 :日本@名無史さん:01/12/29 18:08
恒貞親王は承和の変の時に廃太子になっているし、そもそも陽成廃帝、光孝天皇即位の
年に60歳で亡くなってる。恒貞親王の次ぎに白羽の矢を立てたのが、幼い頃から仲良し
だった時康親王。しかしこれも高齢。
基経が欲しかったのはやはり「暫定天皇」だったんだろうね。

146 :日本@名無史さん:01/12/29 18:14
>144
>歓迎だよ。ループはかなわんけど、新しい発想は大歓迎。
いや、しかしな。
せめて過去ログは読んでから参加してほしいよ?
ループを防ぐ為にもさ。


>そう、確かに平安初期はまだ藤原氏の勢力は確立していなかった
それはそうなんだが、少なくとも良房-基経あたりは、一時的にでも
安定していたと思うよ。
基経の晩年は源氏の台頭で困ったろうけどね。
でもまぁ、道長の頃のような藤原一辺倒でなかったとは思うけど。

147 :135:01/12/29 18:30
本当に謝る。
実はまだ聞きたいことがあったけど
ここでやめておく。
つまり恒貞も光孝も暫定だったから、
先に恒貞が推薦されたことは
あまり気にすることじゃなかったんだね。

ゆっくり過去ログ読んでくるのでさよなら。

148 :日本@名無史さん:01/12/29 18:32
>147
また来てね。

149 :日本@名無史さん:01/12/29 18:50
平安初期の藤原氏って。。。

承和の変(842)では恒貞親王の皇太子を廃し、側近伴健岑、橘逸勢失脚。
で、道康親王(文徳天皇)立太子。
文徳天皇の時代には、天皇は惟喬親王の立太子を希望していたのにむりやり
惟仁親王(清和)が生後9ヶ月で立太子。
清和天皇の時代には、応天門の変(868)で、左大臣源信・良房の弟・右大臣良相・
大納言伴善男を失脚させる。
陽成天皇の時代になると、天皇自身が、884年宮中での殺人を機に基経に廃された。
次に来るのが昌泰の変(901)で、菅原道真の配流。
最後に安和の変(969)で、左大臣源高明が配流。

私見だけど、藤原氏が他の氏族を排除し、一族内での宗家が確立して、
摂関家としての権力を固めたのは、10世紀からじゃないかなぁ。

150 :日本@名無史さん:01/12/29 19:00
>149
それはそうでしょう。
つーか、このスレでもそうだって言われてるやん・・・・

151 :44:01/12/29 19:07
道長の話題になったと思ってたら、そうじゃなかったんですね。
ところで、149が源高明の名前出したんで、この辺を語っていただきましょうか。
そういう私は源兼明と為平親王に萌える。

152 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 19:21
高明というと思い浮かぶのは、高明の屋敷の柱の稚児の手(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

153 :日本@名無史さん:01/12/29 19:47
高明も陰謀に陥れられたんですよね。
でも怨霊にはならなかったの?

154 :日本@名無史さん:01/12/29 20:09
>153
「怨霊になる」という事をどういう意味で言っているのかちょっと気になる。

A:本当に怨霊がいると思っている
B:民間伝承としての怨霊への転訛について問うている

どっち?

155 :153:01/12/29 20:15
Bです

156 :日本@名無史さん:01/12/31 13:52
>>149 藤原氏が...権力を固めたのは、10世紀からじゃないかなぁ。
良房の9世紀からでしょう。後世の冬嗣流北家藤原氏への一家権力集中を築造したのは。
良房の時代までは、北家以外の藤原氏はむろん、石上氏や大伴氏等の所謂古代氏族も廟堂に
列していたのですから。菅原道真は議政官の家柄でもないし、北家藤原氏を追い落とすような
権力志向政治家型でもないですから、除外です。
9世紀序盤の恒武〜仁明朝期は、外戚でもないし南家や式家流がとって替わっても不思議は
なかった筈なのですが。平城天皇の復位騒動が、大きかったのでしょうか。

157 :135:01/12/31 16:32
さて、もう一度質問させてね。
基経によって暫定である光孝即位が進められたのであれば、
当然基経の心中には本当に天皇にしたかった候補がいたはずだよね。
で、宇多即位は基経生前。
となると基経の本命は宇多・・・?
しかし基経と宇多の仲は悪かった。
少なくとも宇多自身は基経流(?)藤原氏との協調姿勢は感じられない。
天皇家と藤原氏(嫡流)の協調が崩れたという意味で、
基経に偉大な政治家という評価は与えられない。
それでも陽成廃位からの一連の出来事は基経主導といえるの?

158 :日本@名無史さん:01/12/31 16:42
>157
その前に質問させてくれ。
基経を偉大な政治家といった人物への質問なんだろうけど、どうして
その人宛のレスナンバーをふらないのか?
つっこみ入れたいんだけど、私自身は基経=偉大な政治家という
認識じゃないので、当然私あての質問と見なすことは出来ないしな。

159 :日本@名無史さん:01/12/31 17:22
>陽成廃位からの一連の出来事は基経主導
じゃないかという、過去レスの流れから、
基経ってすげーヤツだなって書いたおぼえはあるが。

160 :日本@名無史さん:01/12/31 18:03
このスレ検索してみたけど、「偉大」という単語は135さん本人が最初に
使ったようだ。単語の意味合いを主観で捉えて変換しちゃっているんじゃ
ないかな。

161 :135:01/12/31 18:45
別に誰宛ってわけじゃないし・・・。
ただ雰囲気的にこのスレ全体が
>陽成廃位からの一連の出来事は基経主導
ということで合意していると勝手に考えていた。
だって基経主導ということにどう反論していた?
158さんのつっこみを期待。
137のとおりで、もっとこの時代知りたいので。

162 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 19:14
>161
陽成廃位は基経主導以外の何者でもないでしょう。

陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ

じゃないですよ
基経は心中では孫を立てたかったでしょうね。だけど、源氏も橘氏も、他の藤原氏にも
立てたい天皇がいたでしょうし。甥の廃位はともかく、皇太子までは基経の一存ではなかなか
決められなかった。
現に光孝天皇(時康親王)擁立の時も、脅しがようやく事を奏したんです。
ですがこの力業も、時康親王ではなく基経の孫(貞辰親王)の名前を持ち出していたとしたら、
やはり脅しも利かなかったのではないかと自分としては思います。
時康親王は一見基経からは遠い人であり、他の勢力から見ても無難。だからこそ、脅しも利いた
のではないでしょうか。

陽成は廃位されても文句のいえないような事をして、廃位されたわけですし。
陽成廃位後、自分の孫の親王を皇太子に立てることが出来ていたらスゴイと思いますが。>基経

163 :135:01/12/31 20:05
>>162
>陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
なんて思ってないけど。
殺人を犯した以上、
陽成の廃位は他の貴族にとっても当然だったのでは。
宇多という、反基経の人物を皇位につけなくてはならなかったところに
基経のすごさは見出せない。
阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
失意のうちに基経は死んだと思う。
基経流の藤原氏が勢力を復活できたのは
菅原道真配流からだろう。
ここでようやく醍醐に娘を入内させることができたから。

164 :日本@名無史さん:01/12/31 20:08
藤原組長マンセー!!

165 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 20:09
>163
>>陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
>なんて思ってないけど。

いや、貴方が思っていると言っているんじゃなくて、このスレの人たちが
そう思っていると思っているのかなと思ったんだけど違ったらゴメンね。

↑たった2行なのに「思ってる」が四回(;´Д`)

166 :(´ー`):01/12/31 20:13
135がようするに何に対して絡んでいるのかわからん。

167 :日本@名無史さん:01/12/31 20:25
>163
「基経に偉大な政治家という評価は与えられない」
誰もそんな事いってませんがな。
「それでも陽成廃位からの一連の出来事は基経主導といえるの?」
基経が主導だったのはただの事実。想像じゃないの。 で、それは
別にすごくもなんともないって、このスレの皆さん、言ってます。
>>陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
>なんて思ってないけど。
あなたが「基経凄いと思ってるの?」と聞いたから「そうは思ってない」
と答えたんでしょ。アフォさんが。
>殺人を犯した以上、
>陽成の廃位は他の貴族にとっても当然だったのでは。
だからそう言ってるじゃん。
>宇多という、反基経の人物を皇位につけなくてはならなかったところに
>基経のすごさは見出せない。
>阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
>失意のうちに基経は死んだと思う。
キシュツです。
>基経流の藤原氏が勢力を復活できたのは
>菅原道真配流からだろう。
キシュツです。

168 :167:01/12/31 20:30
てか、藤原氏の勢力復活は忠平からって出てたんだっけ、確か。

169 :135:01/12/31 20:36
>>166
過去ログ読んでると、
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」というのが
一般的なようなので、それはおかしいのでは、と。

163で言っているように、
基経は宇多との協調関係を作り出せていないのだから、
基経の政治的力量が優れていたとするのはおかしいだろう。

つまり陽成による殺人事件後、
基経は次の策を見出せないままだった。

こう見ると
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」
とは言いがたい。
この混乱した状況から宇多は登場した。

170 :135:01/12/31 20:45
>>167
全部既出だって?
そう読み取れなかったが・・・。

171 :日本@名無史さん:01/12/31 20:54
>157,158,159
基経は、先代の良房が引いたレール(皇族以外からの摂政制度)の上を走ったに過ぎない
のでは。対抗しうる臣籍源氏以外の貴族政治勢力は、基経の時代には霧散していたはずです。
北家藤原氏が外戚では、天皇の他氏の引きたてもないし、良房が他の政治勢力を廟堂に任用しなかったので。

>当然基経の心中には本当に天皇にしたかった候補...
は、むろん自らが外祖父となれる親王ですが、該当者がいなかった。

172 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 20:55
>170
アフォからのお願いです。
レスナンバー付で文章を引用してからつっこんで貰えないでしょうか。
このスレ、立った時から参加しているんですが、頭混乱してきました。

173 :135:01/12/31 21:07
>>172
いや、既出だと思えないから文章の引用はできない・・・。
169についてはどう思ってるのかな?
皇位選定も基経が主導だったら
宇多との対立はおかしいでしょう。

言いたいことは
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」だとしたら
なぜ基経自身が選んだ宇多と仲が悪いの?ということ。

それについて教えてほしい。

174 :日本@名無史さん:01/12/31 22:31
>173
宇多と基経の不仲って?
なにか具体的な事実がある?
教えてくれ。

175 :日本@名無史さん:01/12/31 22:36
ねーねー
ここに安倍清明ヲタの腐女子をいっぱい連れてきてもいい?

176 :日本@名無史さん:01/12/31 22:41
別にこのスレッドで意見統一する必要はないんだよ。
人の意見にからむより、自分の見解をまず述べたまえ。

俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。
それは(他のみんなの意見とは違うが)陽成帝「物狂い」すら
基経と典侍淑子の捏造だという角田説のせいなんだが。
陽成が乳母子を殺したのさえ、事故ではなかったかとも言われている。
ことあるごとに陽成の天皇不適格を言いふらし(噂は全部宮中の女官からでている)
周到な準備の上廃帝を行った・・・
断言はできないが、その可能性は無視できない。
上皇となった陽成と高子の「乱行」についても、基経らが噂を流すことは
至極簡単だったろう。

177 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 22:48
>173
じゃあワシなり。

>「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」というのが
>一般的なようなので、それはおかしいのでは、と。
>「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」だとしたら
>なぜ基経自身が選んだ宇多と仲が悪いの?ということ。

基経自身が選んだ天皇は光孝天皇です。

>この混乱した状況から宇多は登場した。 皇位選定も基経が主導だったら
>宇多との対立はおかしいでしょう。

計算外に早く死なれてしまった事、他に適任者がいなかった事、宇多を猶子にしていた
尚侍(基経の妹)に説き伏せられた事、この三つの条件で、基経はしぶしぶ宇多の即位を
承知しました。自ら選んだとは言い難いですね。
宇多の登場は光孝天皇の早すぎる死が原因であり、陽成廃位とは無関係です。
参考になるか判りませんが、スレの>57・>69・>75・>77 も併せてご覧下さい。

>つまり陽成による殺人事件後、 基経は次の策を見出せないままだった。

とりあえずの中継ぎ帝は立てているでしょう。強引に。

>163で言っているように、基経は宇多との協調関係を作り出せていないのだから、
>基経の政治的力量が優れていたとするのはおかしいだろう。

光孝天皇を即位させた時点では、宇多を即位させるつもりはなかったでしょう。光孝は
中継ぎのつもりで擁立したのでしょうし、光孝、そして自分がそんなに早く亡くなる事までは
計算出来なかったでしょう。これは政治的力量が優れているかどうか以前の結果論に
過ぎないと思います。
ていうか、ワシは基経は、もともと政治的手腕が優れているとは思っていませんけどね。
>70・>145で何回か出てますけど。

>この混乱した状況から宇多は登場した。 皇位選定も基経が主導だったら
>宇多との対立はおかしいでしょう。

基経と宇多の仲が悪いのは、宇多即位後、橘広相と藤原佐世が関係しており、怒った基経が
政務を放棄。宇多が屈して、罪のない広相に罪を着せ、基経に謝罪しました。
//日記に文句をたれているようです//

178 :アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 22:49
>175
政争に関係あるんですか?

179 :日本@名無史さん:01/12/31 23:06
>174
>宇多と基経の不仲って?
>なにか具体的な事実がある?

阿衡事件。

180 :日本@名無史さん:01/12/31 23:12
あれは
他の天皇でも起こってたよ。
宇多だから起こった事件ではない。
関白というものの位置付けについて争ったんだから。

181 :180:01/12/31 23:15
それに、橘広相(その娘義子は宇多の子を二人産んでた)を失脚させ
基経の娘温子を入内させることができたし。
基経のすごさが目立った事件だよな。

182 :167:01/12/31 23:19
>135*173
過去ログ再読のついでに基経大物説を上げたレスを拾ってきた。


>何か藤原基経って、とんでもない大物に思えて来たよ。(>62)

>基経の威勢は大したものだったけど、その死後、時平は
>内覧宣旨だけで関白にはなってないよね。(>92)

>ところで、私個人としては、「藤原基経=とんでもない超大物」って
>意識があって、(>62=>96)

>むしろ、基経に死なれて、宇多天皇は恐ろしくなったと思われ。
>基経自身が、臣下が天皇を廃する前例作ってるわけだし。(>97)

>俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。 (>176)


人数にすっと四人かな?正味の数は4人以下って事になるか。
基経をどう思うかは人それぞれだよな。
でもさどう考えてもこのスレッドの総意とは思えないスヽ(´Д`)ノ

あと、>167の
>>阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
>>失意のうちに基経は死んだと思う。
>キシュツです。
は撤回。なかったス。前に読んだ本に書いてあった記憶とこのスレが混ざってたかも。

183 :135:01/12/31 23:55
いつの間にかこんなにスレが伸びていた・・・。
年末なのに。
>>176
角田説を読んでない以上何もいえない。
陽成不適格ってのは後付じゃないのかな?

>>177
>光孝天皇を即位させた時点では、宇多を即位させるつもりはなかったでしょう。光孝は
>中継ぎのつもりで擁立したのでしょうし、光孝、そして自分がそんなに早く亡くなる事までは
>計算出来なかったでしょう。これは政治的力量が優れているかどうか以前の結果論に
>過ぎないと思います。
>ていうか、ワシは基経は、もともと政治的手腕が優れているとは思っていませんけどね。
意見が合いそう。日記云々はまったくわからないけど。

>>182
>でもさどう考えてもこのスレッドの総意とは思えないスヽ(´Д`)ノ
総意に思えたけどね。

184 :アフォ( ´_ゝ`):02/01/01 00:01
>176
>俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。

その角田説というの、興味深いですね。お薦め本、あります?おせーて

185 :日本@名無史さん:02/01/01 00:08
>183
>日記云々はまったくわからないけど。

「朕ついに志を曲げ大臣の請いに随う。濁世かくの如し。大長息す」
と、宇多は日記に書いてます。

「漏れ、とうとう厨房基経に股を屈してヤツに謝罪しちまったよ(゚Д゚)ゴルァ!!
世の中どうなってんだよカス 欝駄氏脳」

186 :日本@名無史さん:02/01/01 00:11
>185
膝?(゚∀゚)

187 : :02/01/01 00:28
みなさん、基経さんのことで紛議しているようですが、そもそも、平安
時代の貴族の仕事とは何だったのでしょうか?
普段、出仕したら、どういう仕事をしていたのでしょうか?
(官位、官職によって内容は異なるし、時代によっても異なるとは想い
ますが)

188 :日本@名無史さん:02/01/01 00:32
>184
王朝の映像 角田文衛 東京堂出版 S45
王朝の残映 角田文衛 東京堂出版 H4
王朝の明暗 角田文衛 東京堂出版 S52
俺が勝手に王朝三部作とよんでいる本です
図書館(大阪では中之島にあります)で一部をコピーした分しか
もっていません。
京大の先生だったから、京都の古本屋に時々出るようですが。
7〜8千円するみたいです。
基経と高子の反目・陽成廃帝説は「映像」に出ています。
他の本も、おもしろい!
角田先生の本で、俺は日本史ファンになりました。
とにかく意表をつく解釈が好きらしい。東京での評価は分からんけど
京都では平安歴史資料館(だっけ?)館長です。

189 :アフォ( ´_ゝ`):02/01/01 00:38
>188
>7〜8千円するみたいです。

うわ、たっけーーーーーー(゚д゚)
って、まさか古本屋価格がその値段なんですか?

でも、つまりはそれだけ読む価値ありなのかも。メモっときます。
ありがとう ぺこっ

190 :日本@名無史さん:02/01/01 00:57
>189
今の話題とは違うんですが
角田文衛の本、
中公新書で「承香殿の女御」
講談社学術文庫「平安の春」
同「平家後抄」
朝日選書「椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯」
が、面白いです。それに、安いです(w

191 :アフォ(; ´_ゝ`):02/01/01 01:02
>188
ネット通販考えて検索して出てきた本の中に、自分も持ってる本が
ありました。普段著者名見ないんでつい・・・
持っているのは講談社学術の「平安の春」なんですが、この人の本はすごく
読みやすくてお気に入りの一冊でした。この人の本なら8000円出しても
いい気がしてきます。お薦め本、GETしてみますね。ありがと。



ただいま無職なんで貧乏。入手に時間かかるかも(゚д゚) カナスィ・・

192 :アフォ(; ´_ゝ`):02/01/01 01:03
>190
レス書いてる間に!Σ(゚д゚)  かえすがえすありがとうです!

193 :アフォ(; ´_ゝ`):02/01/01 01:06
188さんと190さんは同一人物でしょうか。
違っていたら、それぞれに。 ありがとうです。ぺこ

194 :188=190:02/01/01 01:19
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/youseitennouheika.html

角田文衛で検索したら、出てきました。
やたら読みにくいけど、例の角田説を延々と書き写している。。。
HP製作者の感想が混じっているんで、読みにくいけど
お閑があったら読んでみて下さい。
8千円倹約になります(w

195 :日本@名無史さん:02/01/01 02:30
平安の春は、私もお気に入りです。
気楽な読み物としても楽しめますし、なにしろこの先生は読みやすい
文章を書く人ですね。ユーモアのある方なんだと思います。
日本の貴族の女性名を音読み(徳子=トクコ、定子=テイシ)にする
習慣が間違ってる、実際は訓読みなんだ! 音読みなんて狂気の沙汰である。
なんて怒ってたりするんですよね。いや、魅力ある人だなあ

196 :日本@名無史さん:02/01/01 07:46
学問とは外れるけど、永井路子は平安貴族の政争を何度も小説にしてる。
「この世をば」が有名ですな。

197 :日本@名無史さん:02/01/01 12:40
角田は妄想狂
学者とは言えない

198 :日本@名無史さん:02/01/01 13:47
>197
ここまでの流れ的に、面白そうだから読もうかというのが
発露であり、なにも信者になるとかいう問題じゃないだろ。
だいたい文化系の論文なんて基本的に妄想じゃんヽ(´▽`)ノ
その中でじぶんの考えや嗜好とと一致する学説を信じれば
いいんだし、いいや自分はどれも信じない、俺の組み立てた
仮説こそが真実! でもかまーないんだよ。

それも妄想だけどナ>俺的仮説

199 :日本@名無史さん:02/01/01 14:02
>だいたい文化系の論文なんて基本的に妄想じゃんヽ(´▽`)ノ
>その中でじぶんの考えや嗜好とと一致する学説を信じれば
>いいんだし、いいや自分はどれも信じない、俺の組み立てた
>仮説こそが真実! でもかまーないんだよ。

こういうこったからいつまでも書店の古代史コーナーには電波本ばかりが置かれてるし
井沢だの西尾だのの本が売れちゃうんだな

200 :日本@名無史さん:02/01/01 14:17
>199
それより私としてはウメハラをどうにかしてほしいけどな。

201 :188=190:02/01/01 16:31
角田先生の説ってたしかに意表をつくものが多いんだ。
でも、執拗かつ克明に(藁)、裏づけしてあるよ。
単なる憶測・妄想ではないと思われ。
俺自身は、角田ファンだけど信者ではない。
あの先生の発想って、ビクーリするような大胆な仮説で、
とにかく読んで面白いんだ。可能性の一つとして吟味する、くらいの
気持ちで読めば、たのしいよ。

202 :日本@名無史さん:02/01/01 17:46
>200
もはや梅原は重鎮なので、手の施しようがない。

203 :日本@名無史さん:02/01/01 18:00
>202
マジヽ(´Д`)ノ? キッツー いくらなんでもアレ(ウメ)はねぇだろと思うんだけど。
読む分には面白いけどな(色々な意味で)

204 :日本@名無史さん:02/01/01 21:48
梅原を見ててつくづく思うんだけど、大御所がいつの間にか暴走し始めるのくらい、たちの悪いのはないね。

205 :日本@名無史さん :02/01/01 22:04
>>204
師匠(梅原)の大暴走と、弟子(井沢)の大珍走は見事にリンクしてます(w

206 :アフォ( ´_ゝ`):02/01/01 22:14
>187
神祇官・太政官・八省・被官・蔵人所・軍事警察・東西の市司・地方庁
とあり、それが各部ごとに細かくわけられて業務が決まっていました。

例)兵部省の朝刊は「卿」。軍事を司り、五司の統括。

また、国司ひとつを取っても、上国(大管)・上国(上管)・中国(中管)・
下国(下管)と分かれ、国司以下の職員のそれぞれ規定がありました。
任地に赴かない遙任国司と、任地で実務を取る受領の二通りあります。
国司の仕事は朝廷への一定の貢納を果たす事でした。

女官の場合も上臈・中臈・下臈に分かれ、それらは出自によって
定められたようです。

例)上臈は裁縫・奏請、伝宣など。

207 :日本@名無史さん:02/01/06 01:01
そういう役所って、いつ頃まで正常に機能していたんでしょう?
役職だけあって仕事はなし、に、だんだんなっていくでしょう?
大内裏だってなくなっちゃうし、平安末期には大学寮すらなかったみたいだし。
班田収受やめてしまえば、民部省なんか、することないですよね。
ずっと正常に機能していたのは、弁官局くらいのものでは?

208 :アフォ( ´_ゝ`):02/01/10 18:26
今日ようやくでかい本屋に行ったので捜したけど
角田本なかったよ〜 がっくし。

209 :日本@名無史さん:02/01/11 01:04
アフォさんへ
神田古書街のHPです。もしほんとにお探しなのでしたら、メールだして買えるみたいです。
http://www.book-kanda.or.jp/asp/Result.asp

210 :209:02/01/11 01:07
ごめんなさい
角田文衛で検索した結果をリンクしたかったのですが失敗しました。
http://www.book-kanda.or.jp/index.htm
ここから見てください。

211 :日本@名無史さん:02/01/11 22:57
> 班田収受やめてしまえば、民部省なんか、することないですよね。
王朝国家体制ってヤツでは、民部省図っていうのが民部省に保管されているみたい
だったが。
平安中期くらいまでは、民部省にもすこしは仕事があったのかも。

212 :日本@名無史さん:02/01/18 11:25
age

213 :日本@名無史さん:02/01/27 18:30
age

214 :日本@名無史さん:02/01/27 18:56
>>42
藤原高子は、息子の陽成が即位してから、在原業平を優遇してるんだよね。
業平が蔵人頭になったのは、陽成が即位してからだからさ。
この人事なんかを見ても、基経と高子は仲が良かったとは思えないよ。

215 :135:02/01/31 17:37
結局、陽成廃位に関する基経のねらいがはっきりしてない。
高子との不仲説の根拠は何。当時の日記にあるの?後世の史料だけなら問題外だ。
光孝があくまで中継ぎなのだから、基経は次の天皇を模索中だったってこと。
決まっていたらそれを皇位につけりゃいいのだから。
最終的に基経は自分とうまくいく天皇を見つけられなかったことから、
ぜんぜん彼は「すごくない」ってことでいいんだよね?確認。

216 :日本@名無史さん:02/01/31 18:03
確認なんかとるなよ
ここで意見統一する必要なんかないだろ
>ぜんぜん彼は「すごくない」ってことでいいんだよね?
そりゃ、お前の意見がそれならいいんじゃない?

歴史ってのは、入手し得る史料から、いくつかの推論を立てて
さらに史料を読み込んで、その推論をひとつひとつ消去してゆくしかない。
この場合なら
「高子・基経不仲」という推論から陽成廃位を考えるのと
「陽成は精神の病気」説から考えるのとで孝光即位の背景が全く違ってくる。
高子・基経不仲説を取る場合、たとえば嵯峨源氏の立場はどうだったのか、
どこかに矛盾がないか、ひとつひとつ検証してゆかねばならない。
どちらの説が真実に近いかによって、基経の器量の大きさも変わってくる。
また、孝光天皇を中継ぎ即位させたあと、基経自身の外孫を皇位につけるつもりだったのか、
それが何らかの要因により源定省即位に変ったのか?
簡単に決め付ける問題ではないだろう。
基経はすごい、とか、全然すごくない、とか、
決め付けたがるのは、歴史向きじゃないと思うよ。

217 :135:02/01/31 18:18
>>216
そうだね。誰も結論を出そうとしていないね。過去ログからは。
ただみんなはこの件をどう考えてるのかなあと思っただけなんだけどさ。
なんか男女関係が陽成廃位に結びつくってのが納得できなかったわけ。
まあ、自分が納得できないならそれはそれでいいや。
この議論はぶり返すべきじゃなかったか。

218 :日本@名無史さん:02/01/31 18:38
なんかよーわからん人が1人いるよなぁ。
例え資料があったとしても、本人に聞かないと真相なんか分かるわけないじゃん。
現代のゴシップだって、あーだこーだと批評されている人一杯いるけど、
あくまで憶測の域を出てないだろ。本人にしかわからんよ。

「この人はこうだったのかなぁ」
「そうかもね」
「そうなのかな」
「そうかも」

って、絶対に本人や当事者にしかわからん事を、
後世の我々が憶測で話し合っているだけなのに、
なんで「決めつけ」とかいうんだか。決めつけてるのは君だよ、ったく・・・・

「私はこの人は凄いと思う」
そう思うのはその人の勝手。

「俺はこいつはすごくないと思う」
そう思うのもあんたの勝手。

誰も自分の意見押しつけてないのに、1人で自分の意見押しつけようとして、
ひょっとしてバカなんじゃねーの。
でもお前をスゴイと思っている奴も、ひょっとしたら世の中に1人くらいいるんだろ?。
その人からしたらお前は「スゴイ」、俺からしたらお前は「凄くない」。
それでいいじゃないか。
お前は俺を「こいつ、俺の事誤解してる、バカだ!」って思うわけだろ?。
それはお前の中の真実であり、「バカいえ、俺さまときたらこんなにも素晴らしいぞ、
崇めなさい(゚Д゚)ゴルァ!! 」なんて、俺は押しつけねーぞ。

219 :135:02/01/31 18:43
そもそも平安時代なんて興味なかった自分が
たまたまこの事件に興味を持ってしまったのが悪かったんだ。
この時代の本なんて数えるほどしか持ってないし、
史料は簡単に読める環境じゃないし。
もっと勉強してからレスすべきだったなあ・・・。

>基経はすごい、とか、全然すごくない、とか、
>決め付けたがるのは、歴史向きじゃないと思うよ。
これが痛恨の一撃。いつもは結論付けは避けるようにしてたのに
なんでだろ・・・。鬱だ氏脳・。ごめんね。

220 :>135:02/01/31 18:45
俺が歴史が好きなのは
ありとあらゆる可能性があるから。
歴史に「もし〜なら」はないけど
「もしかしたら〜かも」は、常にある。
新しい発見がひとつなされれば、それまでの前提が大きく覆される。
すべての事件が違った角度から、検証しなおされる。
基経は、アホだったかもしれないし、すごい切れ者だったかもしれない。
みんなで意見を戦わせるのが面白いから、意見統一はやめようよ。
しかし、
この話題は今のとこ、煮つまっちゃってるから。
新しい話題を請う。

221 :日本@名無史さん:02/01/31 18:45
>219
ちょっとまてよ、218にレスいれるなよ!

222 :218-221:02/01/31 18:47
>219-220

217のレスを読まなかった上、216の後半部分を215のレスの一部と
誤解した上の長文が218です。



 〈 ドモッ、スミマセン....。 〈 スミマセンスミマセン...。 〈 コノトオリデス!
  ∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 (´Д`;)ヾ      (´Д`;)            ヾ
   ∨)        (八 )         (´Д`;)、
   ((          〈〈            ノノZ乙

223 :218-221:02/01/31 18:49
しかも、あせるあまり、220も135のレスだと誤解  (´д`;)
欝出汁脳・・・ 小夜尾奈良・・・・

224 :日本@名無史さん:02/01/31 18:56
まぁまぁ、マターリといきましょうや。
でも今年になってこのスレ沈みっぱなしだったし、
上がってくると嬉しいね。
なんか、話題ない?

225 :日本@名無史さん:02/01/31 19:05
ではひとつ。
藤原北家興隆の祖?冬嗣は最終的には
どの程度の権勢を得たのかな。
たしか出世の糸口は嵯峨帝の信任を得て
薬子の乱のあたりで蔵人頭になったことだと
記憶しているが。


226 :日本@名無史さん:02/01/31 19:21
平城天皇が弟嵯峨天皇に譲位した後も政治に介入したことから、
初代の蔵人頭になって嵯峨を補佐したんだよね?
薬子の乱の直前だったか・・・


227 :日本@名無史さん:02/01/31 19:23
検非違使の設置も、嵯峨ー冬嗣の時代じゃないかな。

228 :225:02/01/31 19:35
ネットで調べたら冬嗣は最終的には左大臣までいったらしい。
嵯峨には東宮時代からつかえてたみたいだね。
永井路子が小説書いてるから結構面白い人物かもね。
ところで嵯峨は晩年政治に対する意欲を失ったと
どこかで見たけどどうなの。


229 :225:02/01/31 19:47
嵯峨が後継者育成しっかりやって権力の分散はかれば、
平安時代はまた違うものになったと思うんだけどな。


230 :日本@名無史さん:02/02/01 11:52
内麻呂と冬嗣って
どうもよく分からん。
普通に考えれば、平安朝の藤原氏の主流は式家になるはずだった。
桓武天皇擁立の首魁は式家の百川。
桓武皇后は、式家良継の娘、乙牟漏で、平城・嵯峨帝の母。
百川の娘旅子は淳和天皇母。
もうひとりの娘、帯子は早逝したけど平城帝の東宮妃だった。
嵯峨帝の皇后は橘氏だけど、
べつに内麻呂や冬嗣が擁立したわけでもないし・・・。
閨閥とは関係なく、嵯峨帝の信任をえたということか。
百川の子、雄嗣は左大臣まで昇ったが(冬嗣の卒去後、淳和帝の時代)
結局その子らは公卿にさえなれなかった。
どんな策をつかったんだろ??


231 :225:02/02/01 19:15
>>230
嵯峨は実力天皇とみられてるみたいだけど、
実は冬嗣の操り人形だったりして。

232 :日本@名無史さん:02/02/01 22:53
>>230
 嵯峨の皇后・橘嘉智子の姉の夫が、冬嗣の妻の兄弟だけど
それほど近い関係とはいえないよね。


233 :日本@名無史さん:02/02/02 14:03
>>230
>普通に考えれば、平安朝の藤原氏の主流は式家になるはずだった...
は、桓武の死去と式家の薬子の乱で翻ったわけです。
内麻呂は息男をそれぞれ平城、嵯峨兄弟に付けて、薬子の乱で嵯峨流と冬嗣流が後世の本流となった
わけです。平城側の息男は真夏?だったか。
及び仲成暗殺後の式家が政治的人材を欠いていたのが、北家の本流化の2つ目の因子でしょう。
緒嗣は冬嗣に対抗しうる政治的人材ではなかったわけです。


234 :225:02/02/02 14:57
嵯峨と冬嗣は江戸期における徳川家治と田沼意次のような
関係だったのかな。
嵯峨はなんか文人皇帝というイメージがあるもんで。


235 :アフォ( ´_ゝ`):02/02/02 20:28
真夏って「まなつ」って読むのかなぁ。

236 :日本@名無史さん:02/02/08 13:38
age

237 :日本@名無史さん:02/02/09 14:28
>>230
>雄嗣は左大臣まで昇ったが(冬嗣の卒去後、淳和帝の時代)結局その子らは公卿にさえなれなかった。どんな策を...
良房の政策(政治的策略)でしょう。
>>233
>緒嗣は冬嗣に対抗しうる政治的人材ではなかった...
冬嗣にでなく、良房にが正確でしょう。



238 :日本@名無史さん:02/02/09 22:30
だいたい冬嗣の父親、内麻呂があやしい男だ。
南家を一気に葬った伊予親王の謀反事件は一体誰がお膳立てしたんだ?
あれが誣告だったことから、平城天皇は神経衰弱になって
僅か4年で譲位したようなもの。
平城天皇というひとは、薬子に懸想したことを除けば、短かったが立派な治世を行っていたのに。
譲位後に再び勢力を保とうとしたため、孤立を深め、ついに薬子の乱となったが。
あれだって、式家を追い落とすための、内麻呂の筋書きかも。
内麻呂の長男、真夏はあの事件で失脚したが、
息子をひとりずつ、両賭けしてたんだろうか。
それとも真夏を捨てて、冬嗣を選んだということか?
気持ちの悪い親子だよな。

239 :日本@名無史さん:02/02/09 23:24
真夏は日野家の祖だよね。
完全に捨てられたわけでもないんじゃない?

240 :日本@名無史さん:02/02/09 23:31
真夏・冬嗣・秋継・桜麿
殆どギャグだな

241 :日本@名無史さん:02/02/10 00:09
>>238
>平城天皇というひとは...立派な治世を行っていたのに...
とは、どの方面の施策を指しているのかな。少なくとも政略家の資質はなかった。父の桓武と違い。
薬子の乱も色ぼけ平城は神輿にすぎず、式家と北家の政争だった。


242 :日本@名無史さん:02/02/10 09:48
>240
思わず言えてるとか思っちゃった。
でもまぁ、古い時代なだけに、ギャグもなかなか雅やかじゃないですか。

243 :>241:02/02/12 10:21
観察使の設置は悪くなかったとおもう
まー批判もいろいろあるだろうけど、勘解由使なんかよりは実効力があった。
地方行政に意気込みを示しただけでも、当時としては珍しいことだった。
中臣・忌部氏の長年の争いにもあっさりとケリをつけたし
平城天皇はけっこうやり手だったのでは・・・?
薬子の乱のアホさ加減のせいで、アフォ帝のイメージ強いけど
いわゆる権謀術数家ではなかっただけで、良政を施こうという意欲のある天皇だったと思う。

244 :日本@名無史さん:02/02/14 05:18
官司統廃合や人員削減など、今で言う行政整理その他
反桓武的に頑張って、いろいろやったけど
結局嵯峨の時に元に戻されちゃってるんだよなあ。

245 :日本@名無史さん:02/02/16 16:27
>>230 内麻呂と冬嗣ってどうもよく分からん
>>238 内麻呂があやしい男だ
桓武の子女の一人の良岑安世と冬嗣とは、異父兄弟。母は百済永継。
女御を家臣に下賜した所以なら判らぬでもないが、冬嗣の方が年上。内麻呂はあやしい男だ。
内麻呂の嫡妻って誰だったかなあ?皇女だったかなあ?

今冬、今上天皇の「韓国ゆかり発言」が話題になりましたが、五摂家も母系では百済からの
亡命人の末裔になるわけです。



246 :日本@名無史さん:02/02/16 17:04
百済人=倭人でしょ。高句麗人(今のチョン)ではないでしょ。

247 :日本@名無史さん:02/02/21 22:32
あげ

248 :日本@名無史さん:02/03/03 14:44
>>246
いろんなスレで同じこと言ってるでしょ?

249 :日本@名無史さん:02/03/03 18:03
>>240 
秋継・桜麿って母親は誰?。真夏・冬嗣は、>>245の記載の通り百済永継だが。


250 :日本@名無史さん:02/03/04 00:11
>>240 秋継・桜麿って母親は誰?。

永井路子の『王朝序曲』では内麻呂は坂上田村麻呂の妹と再婚して、
冬嗣達の異母弟をもうけてたような……
ソースが小説なので正しいかどうかは自信ない。
 

251 :日本@名無史さん:02/03/06 21:38
>>250 
田村麻呂の妹って、桓武天皇の後宮に入って高津内親王を産んだ坂上又子のこと?


252 :250:02/03/06 22:59
>>251
 たぶん別人だと思う。

253 :日本@名無史さん:02/03/07 16:06
少女漫画スレの「里中真智子・天上の虹」スレで祭り中。

http://comic.2ch.net/test/read.cgi/gcomic/1011887031/

>263が「飛鳥時代は十二単を着ていた。だって百人一首で持統天皇が
十二単着ていたモン。私は歴史の成績いいんだから間違いない」
と言い張ってます。どうにかしてください。

254 :日本@名無史さん:02/03/07 18:38
>>253
粘着ヲタが厨房に見事釣り上げられちゃってるじゃん(w

覚えよう、放置

とりあえずこの言葉を捧ぐ。

255 :日本@名無史さん:02/03/09 22:32
>>250 
坂上氏は、田村麻呂後、何故凋落したんだ?武門貴族の紀氏と違って。承平の乱なぞは
出番のはずだが。


256 :日本@名無史さん:02/03/11 10:28
へたれな跡継ぎが幾代か続いてしまったんでは?>田村

257 :257:02/03/11 17:52

http://www.geocities.co.jp/Bookend/5854/top/htm

藤原氏関連のサイトです。↑



258 :257:02/03/11 17:54

間違えました。訂正します。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/5854/top.htm

でした。


259 :日本@名無史さん:02/03/13 17:01
安和の変で兼家が源高明を失脚させたけれど、そのあと超子が高明一家を助けたって本当?「萌がさね」でみたけど。

260 :アフォ( ´_ゝ`) :02/03/13 21:47
>259
その小説読んでないけど、ネタでは?
超子のエピソードは、甲申の夜に頓死したというくらいしか伝わってないような…

261 :アフォ( ´_ゝ`) :02/03/13 21:57
ネタ→小説のネタ

262 :日本@名無史さん:02/03/14 05:05
娘の明子は詮子に養われ道長と結婚した。

263 :日本@名無史さん:02/03/14 13:04
http://comic.2ch.net/test/read.cgi/gcomic/1011887031/
450〜500ちょいまでの醜くてくだらない論争を誰か止めてください。






264 :アフォ( ;´_ゝ`) :02/03/14 13:38
>263
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(´д`)

265 :日本@名無史さん:02/03/15 21:48
>263
その論争、片方が笑えるくらい厨房だね。
女のいやらしさが出ててコワイす。
意見言うと厨房返しに合いそうなんで勘弁
して下さい(((((((( ;゚Д゚)))ガクガクガクブルブル。
も終わってるみたいだしね。


ま、あえて言えば倭姫が大海人と結婚って
どういう発想かてとこ。

266 :日本@名無史さん:02/03/15 23:06
>265
スレ違い。ここ平安だし

267 :信長:02/03/20 12:09
わしがいれば簡単に天下が取れたな・・・


268 :光秀:02/03/24 11:27
儂が阻止しちゃうみょん(・∀・)>信P

269 :日本@名無史さん:02/03/31 18:03
嵯峨天皇の第一妃だった高津内親王は、どうして後に妃位を
廃されたんでしょうか。誰か教えてください。

270 :日本@名無史さん:02/03/31 18:37
仁明の母親、橘嘉智子が権力握ってたからじゃないの?

271 :日本@名無史さん:02/03/31 18:54
>270
仮にも桓武帝の皇女である女性を、なんの落ち度もなく
廃位にするとは考えられないなぁと思って。まして、嵯峨から見たら、
異腹とはいえ妹だし・・・
ていうか、高津内親王が早逝した為、嘉智子が皇后になったらしいんです。
つまり、高津が廃妃になったのは、嘉智子が権力を握る前のはず。

と思ったんだけど、よくわかんないヽ(´Д`)ノ


272 :日本@名無史さん:02/04/16 00:05
age

273 :日本@名無史さん:02/04/16 00:12
保元の乱後の信西の政治改革は意外と好評だったらしい。でも、アフォの信
頼とバカな義朝のせいで頓挫。もし、平治の乱が起こらなかったら・・・
平安末期の世の中はどう推移していったのでしょうか?


274 :アフォ( ´_ゝ`) :02/04/16 00:16
>273
どうなったんだろうねぇ

275 :目が怖い:02/04/16 00:18
後白河上皇は政権を掌握できないまま、死亡。それ以外はわからん。



276 :日本@名無史さん:02/04/16 00:37
頼朝の武家政権は出現できたのかなあ?

277 : :02/04/16 15:55
>271
あの時代は、異腹兄弟姉妹は他人みたいなものだった。
だからケコーンできたのさ。

278 :日本@名無史さん:02/04/16 16:41
>>271
薬子の変の後始末だったと思う。
これにより嘉智子・冬嗣ラインの政権が完成する。

詳しいことは忘れた。


279 :271:02/04/16 18:58
>277
いや、いくら余所余所しい仲でも、子供も産まれているわけだし、
落ち度もなく皇女を廃位にはできないでしょう。その『落ち度』ってなんだったの?
って質問だったのです。

>278
別のところで『高津の廃位は歴史上不明』と教えて貰い、納得してました。
なので、是非「忘れた詳しい事」を思い出して欲スィ
もしも思い出したらどうか教えてください。

280 :藤吉郎:02/04/17 16:43
バラ戦争?

281 :日本@名無史さん:02/04/28 16:48


282 : :02/04/28 22:42
今夜の実況は こちらで

NHKアーカイブス SP ◆ 吉永小百合
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1019938314/


283 :日本@名無史さん:02/04/29 14:14
>>270
橘嘉智子が権力握ってたという事実はないと思うが。
当時の表の権力者は藤原氏、後宮では、誰だったかな。

>>278
高津内親王は坂上苅田麻呂女の又子所生だから、薬子の変での係累はないだろう。

284 :日本@名無史さん:02/04/30 15:19
>>270
橘嘉智子が権力握ってたら、橘氏がもっと政権上層部に登用されたはずだが。
奈良麻呂横死後、橘氏の公卿っていたっけ?

285 :日本@名無史さん:02/04/30 16:03
>284
逸勢は?
あれは公卿にはならなかった?←知らない

286 :アフォ( ´_ゝ`) ◆P.38K86E :02/05/01 12:57
トリップってこうやるんだっけ

287 :日本@名無史さん:02/05/02 02:01
>>285
橘逸勢は、842年承和の変で失脚。橘嘉智子の生没年は786〜850だから藤原氏に抗する
権勢なし。

>>269
妃を廃された理由は、「良有以也(まことにゆえあるなり)」なのか。意味深長だ。
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/heian/saga.htm


288 :日本@名無史さん:02/05/02 02:31
>>283
永井路子の『王朝序曲』という小説に書いてあったのだが、
橘嘉智子の姉・橘安子の夫が藤原三守。
三守の姉・藤原美都子の夫が藤原冬嗣 だそうだ。
橘嘉智子は藤原氏(北家)に近い立場だったのかもしれない。


289 :日本@名無史さん:02/05/02 02:39
>>284
橘嘉智子の兄の橘氏公が右大臣になってる。

290 :日本@名無史さん:02/05/06 19:11
age

291 :日本@名無史さん:02/05/11 15:22
>>288 
藤原美都子は、南家武智麿−巨勢麿−真作−美都子。尚侍等の後宮要職にも就いているから、
冬嗣とさしずめ夫唱婦随で、自家の権勢伸張と他家謀略に勤しんだだろうなあ。
>>289
氏公は、嘉智子の従兄弟逸勢が失脚した承和の変後も安泰だったのかな。


292 :日本@名無史さん:02/05/11 15:36
>>291
承和9年 承和の変 橘逸勢が失脚
承和11年 橘氏公、右大臣に任命される。

293 :日本@名無史さん:02/05/11 15:55
>>77 藤原淑子は、基経異母妹。
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/naisi.htm
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/retuden/heiannbito/kugyofu2.htm


294 :日本@名無史さん:02/05/12 16:20
>293
77は、別に同母妹とも言ってないと思うけど。

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