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★☆★アルベール・カミュ★☆★
- 1 :吾輩は名無しである:01/09/20 20:20
- 前スレが消えたので立てました。
新世紀にカミュの哲学を再考しましょう。
- 336 :吾輩は名無しである:02/03/29 16:23
- >>335
別にむかつきはしないが、この文の書き手は全然『転落』がわかって
いないと思う。
- 337 :336:02/03/29 17:23
- >>335
同意。だが、たまに気に入らない作家を批評するのに
その読者まで貶す奴がいるんだが、腹が立つ。
- 338 :336:02/03/29 19:39
- >>337
同意してくれるのは嬉しいが、これじゃあ、自作自演みたいじゃないかー。
- 339 :吾輩は名無しである:02/03/29 21:12
- 偽善なんて言葉が既に安っぽいんだよ!
善悪の彼岸に転落は在るのさ。
- 340 :吾輩は名無しである:02/03/29 21:51
- 336=337
晒しあげ
- 341 :吾輩は名無しである:02/03/29 22:33
- >>340 そうかい?
- 342 :吾輩は名無しである:02/03/29 23:32
- 336=337=341
不条理だな(藁
- 343 :342:02/03/30 03:18
- 同意。
ほんとに不条理ですな。
- 344 :吾輩は名無しである:02/03/30 09:53
- カミュかこいい
- 345 :吾輩は名無しである:02/04/02 09:48
- というか、カミュは『ペスト』を話すのがよいと思われ。
なんだか『異邦人』論ばかりで、いかにも日本人の議論くさい。
それと335の様な批評は批評でもなんでもない。
批評というのは分析することであって「まあまあだ」とか
よりごのみ的判断を基調とした判断ではない。
ああいうヤシに限ってまともな小説、いや短編の一つもロクに
かけないんだ。
批評オタク、文学論述オタクは一度自分で小説を書いてみると
良い。そうすれば批評の仕方も変わってくるし、自分小ささも
わかる。本当、読書しているだけの批評家は駄目。
サッカーやったことのないヤシが解説しているようなもんだ。
- 346 :名無しマン:02/04/02 15:32
- >>345
だって「ペスト」より「異邦人」のが面白いと思わない?
- 347 :吾輩は名無しである:02/04/02 15:59
- 面白いってどういうことかわからんが
分量や話の誤落成のこといってるなら検討違いだし
そもそも『異邦人』と『ペスト』の優劣ではなくて、
カミュの話となると前者に偏りがちだということを指摘
しているだけ。
- 348 :吾輩は名無しである:02/04/02 18:27
- それなら『転落』と『カリギュラ』も入れてやってくれい。
私、大好きなんだ。
- 349 :吾輩は名無しである:02/04/02 18:30
- >>345
前半部分は同感だが、後半はどうかな。
小説を書かなければ批評はできないというのは違うと思うぞ。
実作者と批評家は資質が別のように思う。
まあ、その両方を兼ね備えている作家もいるけどね。
- 350 :吾輩は名無しである:02/04/02 18:56
- 美学の本など読むと、トルストイなどの文学観があまりに
単純であることに驚かされるなどということが書いてあったりする。
優れた実作者が優れた批評家になれるというものでもないだろう。
- 351 :吾輩は名無しである:02/04/02 20:30
- >優れた実作者が優れた批評家になれる
我らが国の文学者、中上健次を忘れないで(ボソッ
- 352 :吾輩は名無しである:02/04/02 21:43
- カミュの批評家としての資質はどうなんでしょうね。
『シーシュポスの神話』や『反抗的人間』の中で、いろいろな作家を
論じてはいますが。
- 353 :名無しマン:02/04/16 21:59
- 「異邦人」ほどシンプルで深い作品はなかなか無いと思う。
今でも時々読み返す本の一冊。
「ペスト」はあんまりしっくりこなかった。
「シューシポスの神話」はカミュが偉そうに、
哲学者気取りで書いてるので断片的にしか読んでないな〜。
ドストエフスキーが好きだから、ドストの事が書かれてるとこは読んだけど。
- 354 :老人と海馬鹿にした奴は殺す ◆zIdJrjf. :02/04/16 23:13
- 異邦人
と
転落
は良い
- 355 :吾輩は名無しである:02/04/17 00:18
- くわしくはわからん。ムルソーのキャラは昔のフランス文学の正統的なものだと
沙流採るがゆった。没個性といえば光源氏みたいなものかしら?
ムルソーは刑務所に入ってから、大分判りやすくなるが、
それまでの優柔不断ぶりは、ダンディズムの系譜と思うぞ。
転落は読んでないが(失礼!)刑務所入った後のムルソーみたいなものか?
- 356 :吾輩は名無しである:02/04/17 18:08
- >沙流採るがゆった。
沙流採るってだれ?
- 357 :356:02/04/17 20:39
- 沙流採るって、サルトルか。いまやっとわかった。蛍光灯だ。
でもサルトルはムルソーのキャラがフランス文学の伝統に属していると
言ったのではなく、『異邦人』がそうだと言ったのではなかった?
- 358 :吾輩は名無しである:02/04/17 21:00
- シーシュポスはすごいと思ったよ。
それでも浅いと思った人は、本当にすごいと思うものをすすめてほしいな。
- 359 :吾輩は名無しである:02/04/17 22:57
- >>358
老子と荘子
- 360 :吾輩は名無しである:02/04/17 22:58
- >>358
坂口安吾(w
- 361 :吾輩は名無しである:02/04/21 18:59
- >>360
激しく同意
- 362 :老人と海 ◆zIdJrjf. :02/04/24 22:59
- age
- 363 :吾輩は名無しである:02/04/27 19:51
- いまペスト買ってきた。わくわく
- 364 :吾輩は名無しである:02/04/27 23:10
- 「シーシュポス」はぜんぜん哲学者気取りなんかじゃないだろ!
むしろ哲学者なんか死んじまえ!っていってるようなもんだよ。
- 365 :吾輩は名無しである:02/04/28 08:31
- 文章が論文調(というかそのもの)だからじゃないのかな?
俺は転落が好きだね。
- 366 :吾輩は名無しである:02/04/28 09:41
- 邦訳タイトルは「シジフォスの神話」にしてほしかった。
- 367 :吾輩は名無しである:02/04/28 12:34
- 昔はシジフォスだったよ。それが後になって原語に近い表記ということ
でシーシュポスになったらしい。
- 368 :吾輩は名無しである:02/04/28 17:57
- わかりまいた。
- 369 :吾輩は名無しである:02/04/28 20:24
- そういえばムルソーの母親の婚約者の名前は、以前はトマ・ペレだった
のに、今はトマ・ペレーズになっている。
- 370 :吾輩は名無しである:02/04/29 02:25
- 『シーシュポスの神話』、私は文学作品として読んだ。
哲学論文として読むと、ちょっと・・・だけど、文学作品としては
一流だと思った。
- 371 :吾輩は名無しである:02/05/01 21:24
- 『異邦人』読んだけどいまいちピンとこなかった。残念。
不条理文学とかよく言われるけど母親が死んだ次の日海水浴行って映画行くって所も
不条理として読むのかな?
個人的にはそこは全然違和感なかったし殺しのシーンも違和感なかった。
読む前はもっと滅茶苦茶なのを想像してたからそこがピンとこなかった理由かも。
次はペスト読んでみる。
- 372 :吾輩は名無しである:02/05/01 22:47
- ムルソーのキャラって、今では普通にいるんでないの?
感情の起伏が少ない、ていうか常に冷静さを保とうとする。
法廷のシーンはそういうふてぶてしさ漂うムルソーに憎悪の
視線が注がれた。
毒入りカレーの林真須美や麻原に注がれた邪眼と一緒。
私は、そんなキャラが好きでも無し、いいとも言わないけど。
- 373 :リウー:02/05/02 12:49
- うーん、異邦人よりペストの方が私には読みやすかった様な気が。
よく、ブラックジャックに影響されて医師になったという人間はいるが、私は
リウーが好きだった。結核の妻と離ればなれに成りながら、淡々と医師として
の職務を遂行するリウーの姿が印象的だったような。
何だかしばらくぶりにペストが読みたくなりました。
- 374 :吾輩は名無しである:02/05/02 23:05
- なぜ誰もジェイムズ・マラハン・ケインに触れない?
- 375 :吾輩は名無しである :02/05/03 07:46
- 『シーシュポスの神話』は重要だろう。
その生きる人間の置かれざるを得ない状況という主題よりも
不条理の感覚そのものが。
ここには人間の「世界」に対する聖性の感覚が含まれている。
例えばドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のイワンが
「あの青空を愛して生きたいんだよ」というようなことを言った時
その不条理の感覚は彼を激しく襲っていたことだろうと思う。
だがそれは彼が此岸と同時に彼岸にありつつ最も純粋であるがゆえの感覚だ。
「世界」「存在」「個人」「生」「死」といったものに対する不条理にして真正
にして聖なる感覚の表出だ。
「自分」という裸の記名性なき怪物じみた人間の発見。
見知らぬ他人のように自分を感じること。
にもかかわらず徹底して個人であることを知っていること。
その恐怖。謎。安易さ。不安。対象のはっきりしない切望。
ここにはバタイユの云う「非-知」「聖性」と重なり合う部分がかなりある。
だがこの感覚こそ現代人に必要なものである。
そう、現代日本のような神もなく宗教もなくすべてが日常性の延長と化し、
俗や感情までもが簡便化した空間(例えばこの電脳空間)で生きている我々にこそ、
この不条理の感覚もとい聖なる感覚は必要不可欠なものなのである。
ここには一種の神秘性がある。それは否定できない。
いや、この神秘をこそ人間は取り戻さなければならないのだ。
宗教を抱いていない者ほど。
世界、自分、あるいは他人。これらは永遠に一個の謎である。
だからこそ愛し嫌悪しなければならないし、求めざるをえない。
いまだに、というか今こそ
カミュ(『シーシュポスの神話』)そしてバタイユは重要な存在となっている。
僕は非常にそう思います。
- 376 :吾輩は名無しである:02/05/03 08:47
- 異邦人はそこそこだったけど、ペストはすごくおもしろかった。
まさかこれほどのものとは思わなかったな…
- 377 :吾輩は名無しである:02/05/03 09:38
- ──カミュは、個人的には好きだが、将来彼の作品が残るとは思えない。
(トルーマン・カポーティ)
それはてめえだろ!!
- 378 :吾輩は名無しである:02/05/03 20:52
- 不条理の感覚が、聖性につながるものだと初めて知りました。
勉強になりました。
- 379 :吾輩は名無しである:02/05/03 21:43
- 不条理の感覚は聖性にはつながらないでしょ。
カミュは『シーシュポスの神話』のなかで、不条理との直面せず聖性の中
へ逃避する態度を「哲学上の自殺」として批判していますよ。
それにしても母親の葬式で涙を流さないばかりか、翌日海水浴へ行き、そ
こでナンバした女と一夜を共にすることが、ショッキングでないばかりか
共感を呼ぶ時代になったとは・・・(絶句)。
あれをあたりまえと思ってしまうと、『異邦人』は読めないような気がす
るんですがね。
- 380 :吾輩は名無しである:02/05/03 22:29
- >>379
あたりまえだからこそ、
そんなことで死刑にされちゃうのが不条理なんですよ。
- 381 :吾輩は名無しである:02/05/03 23:04
- ムルソーは変な奴だ。だから「異邦人」であるわけで、こんな
奴よくいるよ、ふつうじゃんと言われると、ああ、この人には
『異邦人』のよさはわからないんだろうなあと思ってしまう。
それ以上に、ああいうのがふつうだという人の神経が(スレ違い
のみならず、板違いなので、以下略)。
- 382 :吾輩は名無しである:02/05/03 23:10
- >380 発言の大筋では関係ないことですが、
死刑にされたのは、殺人を犯したからです。
- 383 :吾輩は名無しである:02/05/03 23:41
- >>379
いや、カミュの主張は本人の望むところに反して逆説的になってるんだよ。
不条理の先端にはまぎれもなく聖性と非-知がある。
そこにまたジレンマがあり、さらにその不条理性に引き裂かれるわけだけどね。
「世界」の中にありつつ「世界」と乖離(非-関係)し「世界」と相対している
完結しえない無記名の個人という存在の永久運動として。
そして次第に不条理性と聖性が一体化してきてしまう。恐ろしいことに。
また不条理の感覚に至る前段階として、より低次のきわめて安易で素朴な聖性の
領域があるわけだけど、それにガマンならない、疑念をうやむやにせず誤魔化しを
良しとしない「世界」と相対峙しようとする個人が不条理の感覚に至る。
そしてその後は上記の通り。
また、
>母親の葬式で涙を流さないばかりか、翌日海水浴へ行き、そ
>こでナンバした女と一夜を共にすることが、ショッキングでないばかりか
>共感を呼ぶ時代
な現代では、もちろん不条理な感覚を体験する条件のようなものが変化して
きている。僕が思うところでは、インターネットの世界に嵌りつつ外の世界
(社会、自然界、宇宙レベルでの「世界」、形而上的世界。あるいはハイデガー
の云うところの四方界)への感覚に鋭敏な人ほど不条理、聖性、非-知の感覚に
(たとえ一瞬だとしても)陥りやすい。無感覚、麻痺とも隣り合わせなんだけど。
いや、だからこそ余計にね。このへんのところは黒澤清の映画「回路」にちょこ
っとヒントが隠されてるような気がする。
だから今「異邦人」を書くならそういう属性を持った主人公を設定しなければ
成立しないだろう。
また、『シーシュポスの神話』の中でも表されていることだけど
不条理の感覚というのは何も「知」と「科学」あるいは批評精神が発達した
近代以降に特有なものでもないわけで。
古代あるいは人間が人間となった暁の時代に既にそれはあったと思われる。
わかりやすい例で言えば、それは、燦燦と照り輝く太陽や満面の星空を前にして
「自分」という人間(存在)を一種の謎のような疑問と共に強烈に意識した瞬間、
沸き起こっていたはずである。あるいは雄たけびをあげていたはずだ。
だから本来は原初的体験とさえ云ってもいい。
なんだか曖昧かつ神秘主義的な物言いになってしまってるかも知れないが
とりあえず僕が今掴んでいるのはここまでです。
- 384 :吾輩は名無しである:02/05/03 23:49
- >>382
違うだろ。
それもあるが、母の死の直後に恋人と海に行ったとか、太陽のせいだとか、
当時の連中にとって(゜Д゜)ハァ?ということを言ったから、というのが非常に
大きなファクターだっただろ。
- 385 :吾輩は名無しである:02/05/04 02:06
- >>374
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の文体に啓発されて書いただけの小説が、
この盛況ぶり。世間というのは実に有難いものですなあ。
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