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キリストとお釈迦さま、どっちが偉い?

1 :1:2001/08/03(金) 00:00
イエス・キリストと、仏教の開祖お釈迦様、
どっちが偉いか教えて下さい。
キリスト教は、人間は天国か地獄のどちらかに落ち、
仏教は、六道輪廻+涅槃、
どちらの世界観が正しいか教えて下さい。

951 :黒海老:01/08/29 13:21 ID:i/JM2GuI
>>948
>スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』は、間違いであるか?

間違いとは言いません。
歴史的事実として見るべきではないと言っただけです。

952 :黒海老:01/08/29 13:48 ID:5h5AXy.o
>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。

これは一体何の事ですか?
全ての人類の起源は同一ですので、後も先もないと思いますが?
「この民族は霊的に高く、この民族は低い」と言う事がある、と言うのですか?

953 :223:01/08/29 14:33 ID:jrSIV2Cw
今後忙しくなるのであまり書き込めないかもしれませんが、取り急ぎ・・・
>>930
>キリスト教には、興味が無いですか?イエスは、贖罪の子羊と言われている。
 ヴェーダの神々に現世利益と後生安穏を願う供犠祭祀と、イエスの受難の意義を
同列に論じるのは不適切かと思います。クリスチャンの方の見解を待ちます。
>真実の祭祀は否定していない。よく確認されたし!
 お示しの文献の当該箇所はいずれも、在家者のブッダに対する供養の功徳を説い
ており、特に後者ではバラモン神学に基づく祭祀を批判こそすれ賛美してはおりま
せん。
>愚かなバラモンを指摘しても意味が無い。当然、真実からかけ離れている。
 賢愚を問うのではなく、当時(現在も?)の正統的なバラモン神学とその祭祀儀礼
の思想的な基盤を述べたまでです。
>それは、後世の仏教徒達がした事である。
 クシャトリア出身のブッダは、バラモンたちが独占し秘匿していた三ヴェーダ聖
典を系統的に習得する機会を持ちえません。教えを乞う人々はブッダの唱えて説い
た偈の秀逸さに対し「ヴェーダ(詩句)の達人」と讃えました。ブッダ自身は、教えの
内容が正確に相手に伝わればそれでよしという、プラクティカルな態度をとってい
たようですので、バラモンたちに教えを説くときは彼らの語彙を使用することに躊
躇を感じなかったのでしょう。

954 :223:01/08/29 14:35 ID:jrSIV2Cw
続きです。
>同意するが、真のバラモン教の否定にはならないが。
 バラモン神学のドグマとの訣別と考えます。
>内容については同意するが、奥義自体の否定にはならない。
 それではブッダの教説の「奥義」とは?またそれが存在する根拠をお示し願います
か。直感も結構ですが、それを裏付ける明晰な論証をお願いします。仏教ではこう
した要素が非常に重要だと考えます。
>真のバラモン教を説いたと、なぜ考えられないのか?
 一切の事象が例外なく流動しつつ、原因と条件に依存して生じては滅するという
縁起説をその論理展開の根底に置く仏教と、何らかの絶対者の実在を設定し、そこ
から何物かが流れ出てくると主張するバラモン神学とでは、思想的な分岐点が明瞭
に存在します。
>これも同意するが、真のバラモン教の否定にはならない。
 バラモン思想に不可欠な形而上学や神秘主義の思想的基盤に対し、ブッダは一貫
して批判を加えています。実証や論証不可能な命題に対しては思考から排除すると
いうすぐれて科学的な態度をもって・・・。(もっとも中期大乗以降、仏教もバラモン
化してしまいますが。ーー;)
>そして現在でも、同じ過ちを我々は犯しているのであるが。(爆笑)
あなたも形而上学的思想を放擲しておられますか?

955 :名無しさん@1周年:01/08/30 00:48 ID:tQYcC.7w
>黒海老さん
>>949
> この話は、「人間は生まれによる区別はないのだから、バラモンとしてあるべき行為をしている人は
> バラモンとするべきである。しかし、現実にはカースト制度によって人々は生まれに拘束されている。」
> と取るべきでしょう。カルマうんぬんの話ではありません。
何度も言っているように、『行為』によるである!
カーストに拘束されているのではない。行為に拘束されているのである。
全ての人が素晴らしくなったのなら、シュードラやチャンダーラは消滅する。
自分の卑しい階級をカーストのせいにしている限り、救われない。

であるから、『熱心な修行と清らかな行ないと感官の制御と自制と』、
これによりバラモンになる、と言っているではないか。
なぜ、因果応報(縁起)を理解しないのか?

>>950
>>祭祀の中では火への供養が最上であると書いてある。
>> スッタニパータ第三・七『セーラ』568
>>また、現在の仏教でも火を祭っているのはご存知か?
>
> 「祭祀の中では火への供養が最上」と言ったのは結い髪の行者ケーニヤであって釈迦ではありません。
これを言ったのは、釈迦であると書いてある。もう一度確認されよ。

956 :名無しさん@1周年:01/08/30 00:56 ID:tQYcC.7w
>黒海老さん
>>951
>> スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』は、間違いであるか?
>
> 間違いとは言いません。
> 歴史的事実として見るべきではないと言っただけです。
仮にカーストを侵略者が作ったとしても、因果律に左右されるがゆえ、
卑しい行いをしたなら、自ら作った制度によって自らを貶める事になる。
原住民をシュードラにしたとしても、正しき行為によって来世は、
バラモンにもなるのである。

>>952
>>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
>
> これは一体何の事ですか?
> 全ての人類の起源は同一ですので、後も先もないと思いますが?
> 「この民族は霊的に高く、この民族は低い」と言う事がある、と言うのですか?
その通りである。魂の受肉は、とても同じであるとは思われない。

2500年前、釈迦は生徒ではなく教師を卒業されたのである。
また釈迦の先生であった迦葉仏や、大昔の師匠の燃灯仏は、
我々と同じであると思えるか?

957 :名無しさん@1周年:01/08/30 01:12 ID:tQYcC.7w
>223さん
>>953
>>キリスト教には、興味が無いですか?イエスは、贖罪の子羊と言われている。
>  ヴェーダの神々に現世利益と後生安穏を願う供犠祭祀と、イエスの受難の意義を
> 同列に論じるのは不適切かと思います。クリスチャンの方の見解を待ちます。
贖罪の子羊は、生けにえとは呼ばないのか?
自ら学ばれてはどうか?私も、無知ゆえに多くの誤りを犯した。

>> 真実の祭祀は否定していない。よく確認されたし!
>>  スッタニパータ 第三・五『マーガ』
>>  サンユッタ・ニカーヤ 第V篇・第一章・第九節『生けにえ』
> お示しの文献の当該箇所はいずれも、在家者のブッダに対する供養の功徳を説い
> ており、特に後者ではバラモン神学に基づく祭祀を批判こそすれ賛美してはおりま
> せん
何度も言うように、それこそが真実のバラモンの祭祀であると、
釈迦は言うのである。また、後者(サンユッタニカーヤ)は、
正しい祭祀をかなり賛美しているが、もう一度確認されよ!

>>愚かなバラモンを指摘しても意味が無い。当然、真実からかけ離れている。
> 賢愚を問うのではなく、当時(現在も?)の正統的なバラモン神学とその祭祀儀礼
>の思想的な基盤を述べたまでです。
何度も言うように、現実のバラモン神学と比べているのではない。
真実のバラモン神学の事を述べているのである。
現在の仏教と、真実の仏教を比べたらどのような事になるのか
お分かりか?

> クシャトリア出身のブッダは、バラモンたちが独占し秘匿していた三ヴェーダ聖
>典を系統的に習得する機会を持ちえません。教えを乞う人々はブッダの唱えて説い
>た偈の秀逸さに対し「ヴェーダ(詩句)の達人」と讃えました。ブッダ自身は、教えの
>内容が正確に相手に伝わればそれでよしという、プラクティカルな態度をとってい
>たようですので、バラモンたちに教えを説くときは彼らの語彙を使用することに躊
>躇を感じなかったのでしょう。
そのような想像で語っても意味は無い。原始仏典郡より、引用されよ。

958 :名無しさん@1周年:01/08/30 01:28 ID:QcTeSshY
>223さん
>>954
>>> 伝承やドグマに拠らぬ、現在の自己の洞察と、現前の事象
>>> の観察による智慧の獲得をブッダは説きました。
>> 同意するが、真のバラモン教の否定にはならないが。
> バラモン神学のドグマとの訣別と考えます。
それが真実のバラモン教である。なぜ判らないか?

>>内容については同意するが、奥義自体の否定にはならない。
> それではブッダの教説の「奥義」とは?またそれが存在する根拠をお示し願います
>か。直感も結構ですが、それを裏付ける明晰な論証をお願いします。仏教ではこう
>した要素が非常に重要だと考えます。
これは、釈迦の教えの奥義の事ではない。宗教全般についての事である。

> 一切の事象が例外なく流動しつつ、原因と条件に依存して生じては滅するという
> 縁起説をその論理展開の根底に置く仏教と、何らかの絶対者の実在を設定し、そこ
> から何物かが流れ出てくると主張するバラモン神学とでは、思想的な分岐点が明瞭
> に存在します。
ここは、非常に重要なところである!
その絶対者の想定であるが、何も『無い』と考えるのか???
これは、非常に重要な質問であり、宗教の合一の要である!

> バラモン思想に不可欠な形而上学や神秘主義の思想的基盤に対し、ブッダは一貫
>して批判を加えています。実証や論証不可能な命題に対しては思考から排除すると
>いうすぐれて科学的な態度をもって・・・。(もっとも中期大乗以降、仏教もバラモン
>化してしまいますが。ーー;)
何度も言うように、それは真のバラモン思想の特徴ではない。人々が
それを好むのである。であるから、大乗仏教のバラモン化でもない。

>> そして現在でも、同じ過ちを我々は犯しているのであるが。(爆笑)
> あなたも形而上学的思想を放擲しておられますか?
宗教は、形而上学の王様である!お分かりか?(笑)

959 :黒海老:01/08/30 01:31 ID:qspNqiKw
>>955
>> 「祭祀の中では火への供養が最上」と言ったのは結い髪の行者ケーニヤであって釈迦ではありません。
>これを言ったのは、釈迦であると書いてある。もう一度確認されよ。

そうでした。見間違いでした、すいません。
ただし「釈迦は言った」という散文の部分は、ずっと後になって創られたことに注意してください。
ここで言われている内容は、釈迦の説法と言うよりは詩的表現が強いものです。
いかにも詩の結びとして用いられそうな賛美ですよね。
思いつくままに述べられた言葉であり、「王は人間のうちでは最上の者である。」などと
王を特に優れた人間と考えなかった釈迦の思想と反します。
のみならず、註でも明らかなようにこれらの詩句は、諸文献に散見されるものですので、
恐らく、結びの言葉としてよく用いられていたのでしょう。
ですからやはり、これをもって火への祭祀を説いたとは考え難いのです。

960 :黒海老:01/08/30 02:44 ID:qspNqiKw
>>955
あなたが言う「行為によってバラモンになる」と言うのは「行為によってバラモンに生まれる」という話なのか
それとも「行為によってバラモンと呼ばれる」という話なのかどちらですか?
『ヴァーセッタ』の章を見ると、明らかに後者のことを言っていますよね。
「人間は生まれによる区別は無い」「修行者として立派な『行為』をしている人はバラモンである」という話ですから。
>>949ではその事を確認していたのです。

それから、>>948>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
と言うのはどういう意味ですか?
「来た」とは、どこからどこに来たのですか?

961 :名無しさん@1周年:01/08/31 00:47 ID:SOw4t1ss
ヨハナン・ベン・ザッカイさん(元140さん)
は愛想を尽かしてしまったのでしょうか?

962 :名無しさん@1周年:01/08/31 01:15 ID:AGc7NhOY
>>959 >黒海老さん
> 思いつくままに述べられた言葉であり、「王は人間のうちでは最上の者である。」などと
> 王を特に優れた人間と考えなかった釈迦の思想と反します。
王族が優れていると言う文章は一応ある。
サンユッタ・ニカーヤ 第Y篇・第二章・第一節

> のみならず、註でも明らかなようにこれらの詩句は、諸文献に散見されるものですので、
> 恐らく、結びの言葉としてよく用いられていたのでしょう。
> ですからやはり、これをもって火への祭祀を説いたとは考え難いのです。
最古の経典に書いてある文章を、簡単に否定するべきではないと思う。

釈迦は、賢者・聖者には、祭祀などは無意味であると説くのであるが、
そうでない者達には、血生臭い祭祀や、無意味な祭祀を否定し、
その中では最上の火の祭祀を説くのであろう。所詮、人々は祭祀を捨てない
のであるから、最上の火の祭祀を勧めるのが、得策ではないだろうか?

また、現在の日本でも祭りだらけであるし、たしか高野山や比叡山でも
火を焚いていると思われる。釈迦は全ての人々の教師であり、人々の心情を
よく理解して、各々に説き分けたのであろう。

963 :名無しさん@1周年:01/08/31 01:31 ID:AGc7NhOY
>>960 >黒海老さん
> あなたが言う「行為によってバラモンになる」と言うのは「行為によってバラモンに生まれる」という話なのか
> それとも「行為によってバラモンと呼ばれる」という話なのかどちらですか?
> 『ヴァーセッタ』の章を見ると、明らかに後者のことを言っていますよね。
これは申し訳ない。カーストがまだ正常に機能していた頃の話しと、
錯綜してしまった。正常なら、両方とも正しい事になる。

釈迦の頃は、もはや混乱しているので、正確に反映していないので
あろう。また、カーストが正常であったとしても、聖者・賢者は
当然、行為によりバラモンと呼ぶ、と言うであろう。しかしながら、
良い家に生れるには?という問いに釈迦は、現世の功徳を勧めている。

これは推測であるが、上に書いたように、バラモンより王族が上と
いうのは、もしかするとカーストの混乱が関係しているかもしれない。
バラモンが血塗られたために、おかしくなったのであろうか?
釈迦の教師であった迦葉仏は、バラモンであるのに、釈迦が
クシャトリアであるのは、何か意味があるのかもれない。

> それから、>>948>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
> と言うのはどういう意味ですか?
> 「来た」とは、どこからどこに来たのですか?
これは、人はどこから来て、どこへ行くのであろうか、と言う文章から
引用したにすぎない。

964 :むもん:01/08/31 06:38 ID:EAw2KJZI

婆羅門教に『十不善業』に類する戒律はあったのでしょうか?
聖書にも『十戒』という戒律があるようですが。

965 :名無しさん@1周年:01/08/31 23:55 ID:yrFL49CA
>>964
> 婆羅門教に『十不善業』に類する戒律はあったのでしょうか?
> 聖書にも『十戒』という戒律があるようですが。
たぶんウポーサタ(八斎戒)の八戒ではないだろうか。

966 :223:01/09/01 11:07 ID:A9rCwcAU
>>957
大慌てで整理します^^;
@生贄の問題
 バラモンの供犠に「贖罪」の意味はなく、ヴェーダの神々に捧げ物をすることで
所願成就を祈念するという目的の下に祭祀を行ない、のちには祭式そのものによ
って神々や宇宙を支配できるようになると考えられました。キリスト教とは思想
的な背景が明らかに異質です。
Aブッダの教説とブラフマニズム
 インドの正統的な思想と明らかに異質な主張を、従来の語彙をそのまま用いて
説いています。バラモン(最も勝れた者)という呼称をブッダが用いるときに、ロ
ーカルな土俗信仰の語彙の解釈に拘ると、その思想的意義を見失う恐れがありま
す。原始仏典の随所に示されるバラモン思想とブッダの主張の思想的、論理的差
異を慎重に検討すれば両者の重要な相違点が明らかになるでしょう。
Bブラフマニズムとの思想的分岐点
 ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問題
に繋がる見解をどちらも排除してしまい、知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみ
を対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
開しました。「絶対者の想定」を否定したのではなく、その有無を追及する形而上
学自体を否定し去ったのだと考えます。このような反証不可能命題が無限に製造
されるだけの空理空論からの訣別ないしは解脱を遂げたわけです。形而上的存在
を思考から捨象する宗教(?)の誕生です。

*宗教が「形而上学の王様」ならば、仏教が宗教である必要もなくなりますかね(笑)

967 :放浪者:01/09/01 13:40 ID:4BK0W6Bs
>>966
>ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
>するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問
>題に繋がる見解をどちらも排除してしまい

議論を排除したにすぎない。

>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、
>ニルヴァーナに至るという教説を展開しました。

よい師につき、戒を守って真面目に瞑想していれば、意識が肉体という枠組みを外れ
て広がっていく(膨張ではなく、流れ出す感じ)という経験をするのはそんなに難し
くないだろう。空無辺のごく初歩の初歩の初歩か。

968 :名無しさん@1周年:01/09/01 14:51 ID:OBfkgCN2
>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
開しました

思索・思考で「解脱」できるなら、戒律も禅定も不要ですから、単なる「哲学」でしかない。
一方、「解脱」は宗教的命題だから、仏教は宗教と判断できる。
そうすると、上記言明は、矛盾した判断が含意されていることになる。

「知的作業」の延長上には「解脱」は無い。という結論になる。

969 :むもん:01/09/02 06:46 ID:6V3KGKkY
>>966
>>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、ニル
>>ヴァーナに至るという教説を展開しました。「

これが「無常・苦・空・非我」の観察ですね。
−−『無常』を観察すると『苦』であることがわかる『苦』を観察すると『空』であること
がわかる『空』を観察すると『非我』であることがわかる。−−
これこそまさに阿含経の真髄ですね。

970 :名無しさん@1周年:01/09/02 07:41 ID:F4cUqZ8Q
>>966 >223さん
> @生贄の問題
>  バラモンの供犠に「贖罪」の意味はなく、ヴェーダの神々に捧げ物をすることで
> 所願成就を祈念するという目的の下に祭祀を行ない、のちには祭式そのものによ
> って神々や宇宙を支配できるようになると考えられました。キリスト教とは思想
> 的な背景が明らかに異質です。
バラモンの生け贄について肯定などしていない。また、それは識者も非難している、
と仏典に書いてあるように、釈迦が言い始めた事ではない。
私は、神によって規定された生け贄があり、その最後がイエスではなかろうか、
と言ったのである。

> Aブッダの教説とブラフマニズム
>  インドの正統的な思想と明らかに異質な主張を、従来の語彙をそのまま用いて
> 説いています。バラモン(最も勝れた者)という呼称をブッダが用いるときに、ロ
> ーカルな土俗信仰の語彙の解釈に拘ると、その思想的意義を見失う恐れがありま
> す。原始仏典の随所に示されるバラモン思想とブッダの主張の思想的、論理的差
> 異を慎重に検討すれば両者の重要な相違点が明らかになるでしょう。
釈迦の説いた教えは、その昔、バラモンであった迦葉仏の教えと同じである。
正しい教えは、太古から存在している。

971 :名無しさん@1周年:01/09/02 07:53 ID:F4cUqZ8Q
>>966 >223さん
> Bブラフマニズムとの思想的分岐点
>  ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
> するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問題
> に繋がる見解をどちらも排除してしまい、知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみ
> を対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
> 開しました。
そのような事は、原始仏典郡には出ていない!
貪欲と憎悪を滅ぼし尽くして、ニルヴァーナに至るのである。

> 開しました。「絶対者の想定」を否定したのではなく、その有無を追及する形而上
> 学自体を否定し去ったのだと考えます。このような反証不可能命題が無限に製造
> されるだけの空理空論からの訣別ないしは解脱を遂げたわけです。形而上的存在
> を思考から捨象する宗教(?)の誕生です。
それは悟れば出来るのであり、それ故に仏陀と言うのである。上にも書いたが、
これは古来からの『道』であり、別に新しい宗教が誕生したわけではない。

> *宗教が「形而上学の王様」ならば、仏教が宗教である必要もなくなりますかね(笑)
ニルヴァーナを語ることが、形而上学で無いとでも言うのであろうか?
自らが形而上学的な議論をしている事に、なぜ気がつかない?

972 :黒海老:01/09/02 13:49 ID:GzkoPGc2
>>964-965
八斎戒は仏教の戒律です。
『ブッダのことば』中村元註釈より

…前掲の五戒にさらに三つの戒を加えて、八斎戒とし、ウポーサタ(布薩)の儀礼の際に
まもるべきであるという規定が古くから成立していた(スッタニパータ401)。
ところで最初期の仏教はバラモンの行なうウポーサタは不必要であると考えていた。
それよりも内心を清らかならしめればよい。
古い詩句では「きよらかな人には常にウポーサタがある」(マッジマ・ニカーヤ)といい、
漢訳では「何ぞ布薩を以てせむ」とある(『雑阿含経』第四十四巻、大正蔵、二巻、三二一貢中、
異訳では「もし人の心が真に浄らかならば、戒を具え、常に布薩するなり」とある。)
だからバラモン教を批判していた段階における仏教はウポーサタを排斥していたわけであるが、
この習俗が一般民衆のあいだに根強く残っているのを見ると、むしろこの習俗を換骨奪胎して
利用するほうが好都合だと考えるようになった。
ところで最初期の仏典においては次のように言う、―「(1)生き物を害してはならぬ。
(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。
(5)淫事である不浄の行ないを離れよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。(7)花かざりを着けてはならぬ。
芳香を用いてはならぬ。(8)地上に敷いた床にのみ臥すべし。これこそ実に八つの部分より成るウポーサタ(斎戒)
であるといって、苦しみを終滅した仏が宣言したもうたのである」(スッタニパータ、アングッタラ・ニカーヤ)。
この八つに、さらに「演劇・歌舞・舞楽・観覧物を見ることを禁止すること」と「金銀を受けるのを禁止すること」
とを加えると、紗弥の十種の学処となる(宇井伯寿『印度哲学研究』)

続く…

973 :黒海老:01/09/02 13:49 ID:GzkoPGc2
…続き

八つの戒の内容は必ずしも一定していなかったらしい。他方では、「殺さず」「盗まず」「嘘を言わず」の三つに、
主として人間関係に即する五つの徳目を付加して八つにまとめることもなされた。或る資産家に対して
ゴータマブッダは「すぐれた人の身の処しかた」(ariyassa vinaya)における「八つの定め」を説いている。
この八つを表に示すと次のごとくである。(1)生命を傷つけない(2)真実のことば
(3)与えられたもののみを取る(=盗まない)(4)かげ口を言わぬ(5)貪らぬ(6)非難・暴言をしない
(7)怒り悩まさない(8)高ぶらない。ここに挙げられた八つの徳目は、面倒な人間のつき合いに関するものばかりで、
高度に社会的である。
よって世俗人に対する戒めのまとめかたは必ずしも一定していないが、非常に厳粛な道徳的実践をめざしていることが、
それらの戒めの立てかたから、容易に看取することができる。
そうしてウポーサタに八斎戒をまもるという定型は、最初期の仏教においては必ずしもまだ行なわれていなかったらしい。
十五日のウポーサタにおいて、まもるべき戒めとして本書第153−163詩に説かれていることは、雑然としている。
そこで説かれている諸徳のうち若干をとり上げ、それにさらに若干の戒めを付加して、八斎戒の体系が成立したのであろう。

974 :黒海老:01/09/02 15:10 ID:QaZXsqSE
>>971
形而上学的問題とは以下の[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]の事でしょう。
これらの問いに対して「有る」と言っても「無い」と言ってもどちらの見解も
「独断に陥っているものであり」「涅槃に役立たない」のであるから、
それよりも「修行によって現実の苦を滅することが大切である」と言うのでしょう。
これを指して「形而上学的問題を排した」と言うのなら間違いではないと思います。

>>512‐513 223さんのカキコから拝借
「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があ
ってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また
人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活
が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は
死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないと
いう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。」
                       (中部経典:毒箭経)
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるか
どうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]
に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩み
をともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、
涅槃に役立たない。」
                         (中部経典72)

975 :基主義。:01/09/02 15:12 ID:glinjlKY
まぁ結局の所、基教はパリサイなどの立法主義者を本質的には嫌っているし、
仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。

976 :名無しさん@1周年:01/09/02 15:52 ID:TRQCQRa.
>>975
>仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。

仏教は、釈迦が実現した、正覚/涅槃と呼ばれる状況を、
自分自身の上に、自力で実現する為に生まれたものです。
くしくも、上のカキコであるように、
「それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」
ので、そういう役立たない事はするべきではない、として釈迦が事有るごとに皆に諭していった。
それを集めたものが、「戒律」としてまとまったのです。

ですから、「戒律で縛るのを基本とする宗教」と見えますが、
「涅槃、という目標に到達する為に障害となる、様々な心の動きを、うまく制御する為の助言集」
と考えていただくと良いかと思います。

977 :名無しさん@1周年:01/09/02 17:29 ID:DYxAz6iY
死んだら終わりのはずがない、そんな事があってはならない。輪廻は有る。なぜなら自己が永遠である為には死んだら終わりでは困るから。
神通は有る。なぜなら前世を思い出したりできないと前世の俺が困るから。不滅のアートマンは有る。なぜなら自己が永遠であるためには何か永遠不滅のものがないといけないから。
解脱することで自己とアートマンは一体となる。なぜなら自己が永遠でないと困るから。

978 :むもん:01/09/02 19:13 ID:ui5q3Hw6
>>976
その通りだと思いますね。
鼻の頭に心を置いて鼻の頭のことしか考えないでおこうとする時、それは3分と
持ちませんね。次々と色々な想念が起きる。これが欲望。
だから、離欲して、欲望から厭離して、欲望を滅尽して、心が寂静にならなけれ
ばならない。そうすることによって神通力が現れる。そして、正覚を得、涅槃に
至るというわけ。

979 :名無しさん@1周年:01/09/02 23:49 ID:4Yb363Yo
どなたか、新しいスレッドを作っていただけないか?

980 :名無しさん@1周年 :01/09/03 01:03 ID:OZ5tgI5I
新スレッド立てたよ〜

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=999446418

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