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キリストとお釈迦さま、どっちが偉い?

1 :1:2001/08/03(金) 00:00
イエス・キリストと、仏教の開祖お釈迦様、
どっちが偉いか教えて下さい。
キリスト教は、人間は天国か地獄のどちらかに落ち、
仏教は、六道輪廻+涅槃、
どちらの世界観が正しいか教えて下さい。

2 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:05
人間は平等です。
どちらもえらくありません。

どちらも正しく有りません。
人は、死んだら、それまでです。

3 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:12
2さ〜ん、それは、唯物主義ですな〜。
あなたは、まず、人が生きてること自体
神秘的だと思わないんですか?

人間がこうゆう意識もってるのとか、スゴイ不思議だと
思うよ。

4 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:17
(原始)仏教は一種の唯物論ですよ。

5 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:18
キリストです。

6 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:18
どっちが偉いかは別として、キリスト教の世界観は仏教のそれに
含まれると思う。

7 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:19
>>4
それは違うだろ

8 :プロテスタント:2001/08/03(金) 00:20

ヾ'_____
 ||    |   |
 ||o   .|   |
 ||    |   |

    ↓
カチャ!
 ______
 |∧ ∧.||   .|  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 |(,,゚Д゚)||o  | < 釈迦は、逝ってヨシ!
 |/  つ   |  \______
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ↓

  パタン
ヾ'_____
 ||    |   |
 ||o   .|   |
 ||    |   |

9 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:32
>>人が生きてること自体神秘的だと思わないんですか?
あまりに、日常なので不思議だとは思ったことはありません。
持病もなかった健康な人が、急に倒れて死んだら。
びっくりしますが。
唯物主義を、私は知りませんので、あしからず。

>>5さん
あなたのように、理由を示すこともなく、自分の信じている
宗教を擁護する人が多くの宗教戦争を引き起こし、沢山の人を
殺してきた歴史があることを理解して下さい。

10 :4:2001/08/03(金) 00:36
>>7
私はそう理解していますが。
7さん具体的にカキコしてたもんせ。

11 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:36
イエス=釈迦
同一神仏(人物)。

12 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:41
キリスト以外、救いはありえません。

13 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 00:43
11さん、いい答えだねえ。
でも、日本人にしか、このギャグは理解できんと思うよ〜。

14 :7:2001/08/03(金) 00:54
>>10
仏典に神もマーラもでてくるでしょ。

15 :4改め黒海老:2001/08/03(金) 01:02
>>13
前、新聞のコラムで呼んだのですが、とある坊さんが
「私は釈迦もイエスも本質的には同じ事を言いたかったのだと思っている。
もし釈迦とイエスが出会ったらお互いを共感を持って理解したと思う。」
見たいな事を書いていました。
ペットの犬が死んだときは、可愛がってくれていた近所の人達と一緒に
仏式とキリスト教式の混合で葬式を挙げたとか。
うろ覚えですまんですが。

16 :プロテスタント:2001/08/03(金) 01:03
>>15
プッ

17 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 01:18
キリストは、神です。
仏陀は、ただのインド人です。

よって、神であるキリストが偉い。

18 :4改め黒海老:2001/08/03(金) 01:27
>>14
確かにそうですが、それはあの時代では輪廻や神悪魔の観念が定着していて
あまりに当り前になっていたからです。
どうやら釈迦自信はそれは迷信であろうと見抜いていた様ですが、
それを信じきっている人達に分かりやすく説法をする為に、話として神とか悪魔とか言っていたようです。
たとえば、釈迦は「心の中に悪い思いが起こったら、それは悪魔のささやきだと思って退けなさい。」
などと言っています。
スッタニパータを読むと、釈迦が乞食(こつじき)に周ったけれど食べ物が得られなかった、
そこへ悪魔が出てきて「もう一度周ったらどうかね。」とささやきます。
釈迦はこれを退けますが、これは釈迦の心に「困ったな、もう一度周ってみようかな。」
と言う誘惑が起こり、これを退けたと言う意味です。
だから菩提樹の下で釈迦が悟りを得ようとしたとき、さまざまな悪魔が出てきて釈迦を誘惑しますが、
これは釈迦が自分の心の中の煩悩と戦っていたのです。

19 :7:2001/08/03(金) 01:46
>>18
>どうやら釈迦自信はそれは迷信であろうと見抜いていた様ですが
どこらへんの記述からそう思われたのですか?

輪廻転生がないなら、善行の意味はなんなのでしょう?

20 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 02:08
その最期を見れば差は歴然です

キリストは殺されました、たとえどうあれど。
釈迦は皆に愛され、静かに逝きました。

21 :黒海老:2001/08/03(金) 02:09
例えば釈迦は、全ての物事は縁(相互作用)で成り立っていると言っています。
花が咲くのも縁ですし雨が降るのも縁です。
あの時代は花が咲くのは神様が花を咲かしている、と考えられていました。
これを縁で考えますと、まず花の種が土の上に落ちると言う縁があり、次に雨が降ると言う縁があります。
発芽した芽に太陽の光が当たると言う縁があり花が咲きます。
咲いた花の蜜を吸いに虫が飛んで来ると言う縁があり、受粉してまた種が出来ます。
こうやって世の中は回っていると言う事です。

22 :7:2001/08/03(金) 02:20
>>20
逝き方っていうのはあまり関係ないと思う。食中毒で死んでるんだし。
イエスとの違いは、釈迦は自分の逝く時を自分で決めたってところにある。

23 :黒海老:2001/08/03(金) 02:27
仏教の目的は善く生きると言う事です。
だから釈迦は神様がいると信じていても、それで善く生きられるのならそれでも良い。
として、迷信を積極的に否定しませんでした。
だから出家者には、「生存への執着を断ち切って二度と生まれない(輪廻)ようにしなさい。」
と言いましたが、在家者には「来世の為に功徳を積みなさい。」などと言っています。

24 :黒海老:2001/08/03(金) 02:32
>>22
なんと言うか、釈迦は別に死のうと思って死んだわけではありませんよ。
故郷に帰る旅の途中で力尽きたわけですから。
自分の死期を悟っての最後の旅でしたが。

25 :7:2001/08/03(金) 02:35
>>21
>これを縁で考えますと、まず花の種が土の上に落ちると言う縁があり、
>次に雨が降ると言う縁があります。発芽した芽に太陽の光が当たると
>言う縁があり花が咲きます。咲いた花の蜜を吸いに虫が飛んで来ると
>言う縁があり、受粉してまた種が出来ます。

このプロセスに天候を司る神々が介在していると考えてなにか不都合でしょうか?
そこに矛盾がない限り、わざわざ釈迦の言葉をねじ曲げる形で解釈するほうが
強引だと思いますが。

26 :7:2001/08/03(金) 02:40
>>23
老病死をみて出家した釈迦の結論が「善く生きる」とは思いません。

27 :7:2001/08/03(金) 02:45
>>24
アーナンダやマーラ(これも例え話ですか?だとしたら何の?)との会話
から、自分できめたと解するほうがすっきりします。

25と同様の感想を持ちます。

28 :黒海老:2001/08/03(金) 02:50
>>25
雨が降る事もまた縁の働きなのです。
太陽によって地上や海が熱されると言う縁があり、水分が水蒸気として上空に上がります。
上空の空気で冷やされて雲になり、雨として降ります。
何が言いたいかと言いますと、一神教的人格神の存在を否定しているのであって、
宇宙全体の流れのような意味の「神」の存在を否定しているのではありません。

29 :7:2001/08/03(金) 02:59
>>28
いいたいのは、輪廻転生とか神々の存在とかを含めて、仏教の世界観
っていうのは、見事なまでの整合性で構成されている(と思っています)。

それに反対をとなえるなら、その矛盾をあげて、より説得力のある世界観を
提示していただかないとそれに賛成する気にはならないっていうことです。

30 :黒海老:2001/08/03(金) 03:00
>>26
「善く生きる」が結論や目的ではなく、手段や方法と言った方が良いかもしれません。
善く生きる事が幸せに繋がると言う事だと思います。

31 :黒海老:2001/08/03(金) 03:15
>>29
難しい問題ですね。
一口に仏教の世界観と言っても色々ありますし、解釈も人によって違いますし。
もし差し障りがなければ、7さんの仏教感を上げてみてはもらえませんか?

32 :7:2001/08/03(金) 03:19
>>30
@老いと病と死があって
A死後の世界がない。
ここから導かれる答えが「善く生きることが幸せにつながる」になりますかね。

現代日本人をみても(@の意識はないだろうが)多少悪いことやっても
面白く生きるって感じじゃないですか?

むしろ死後の世界を前提としたキリスト教徒のほうが「善く生き」ようと
していると思いますが。

現代日本人と釈迦の思索力を一緒にするなと思われますか?だとしたら
仏典を現代人の考えを前提に解釈するっていうのは、細心の注意を
払ってなされるべきだと思います。

33 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 03:23
>>17 さん
>キリストは、神です。
いいえ、ちゃんと割礼した、れっきとしたユダヤ人です。

34 :黒海老:2001/08/03(金) 03:50
>>30
レスありがとうございます。言われたい事は大体分かりました。
私は@老いと病と死があって A死後の世界がない。であっても
「善く生きることが幸せにつながる」と思っています。
なぜなら
「物事は全て心を先とし、心を主とし、心より成る。
 汚れた心で語り、行えば、苦しみはその人につきしたがう。
 車を引く牛の足に車輪が従うように。
 物事は全て心を先とし、心を主とし、心より成る。
 清らかな心で語り、行えば、苦しみはその人につきしたがう。
 車を引く牛の足に車輪が従うように。」   (ダンマパダ 1・2)

元々宇宙には幸も不幸もないと思います。
人間がこれは幸福であるこれは不幸である、と決めたものだと考えます。
例えば、同じ境遇に生まれたとしても、ある人は幸福であると思い、
ある人は不幸であると思うと言う事です。
そして清らかな(執着心がない)心であれば幸せであり、
汚れた(執着心の強い)心であれば不幸になると思います。
この事についてはお釈迦さん自身何度も言っていることですが。
そして、現代日本人をみても(@の意識はないだろうが)多少悪いことやっても
面白く生きるって感じじゃないですか? と言いますが
それでは結局無常の真理の前では、いずれ滅び去る苦しみが生まれます。
だからこそ、欲を抑え善く生きるべきだと思います。
私は、面白く生きると言うのは楽しいかもしれないけれど、幸福ではないと考えています。

35 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 04:00
>>33

いいえ、神です。

36 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 04:01
>>1の質問ってどうして釈迦とキリストだけなのかなー?
すっげー素朴な疑問だけど。
過去の有名教祖は他にも色々いたと思うんだ、僕。
(例えばムハンマドも)

でもどちらか?と言われたら、僕は別に宗教は信じちゃいないが、
安らかに死んだお釈迦様よりも磔で殺されたキリストのほうが凄いと思う。
彼等の言ってた事が正しいとかは別として、
自分の命を差し出してまで自分の真理を貫き通そうとした姿勢は真似出来ない。
でもこれはあくまでキリストも釈迦も人間として見た意見です。
神様がどうこうなんて、知りません。
だって人間じゃん。どっちも。

37 :黒海老:2001/08/03(金) 04:25
>>34の答えは>>32にたいしてでした。
それから「清らかな心で語り、行えば、×苦しみはその人につきしたがう。」
「清らかな心で語り、行えば、○楽しみはその人につきしたがう。」
でした…鬱死

38 :7:2001/08/03(金) 04:31
>>37
仏教観は今度書きますから、30に対してとしておいてください。

39 :7:2001/08/03(金) 04:35
>>37
32は30に対するレスです。仏教観は別に書きます。

40 :黒海老:2001/08/03(金) 04:47
有名な話なのでご存知かもしれませんが、こんな話があります。
ある弟子がお釈迦さんに質問しました。
「宇宙は有限でしょうか、無限でしょうか?
それから、霊魂と肉体は別のものでしょうか、同じものでしょうか?」
「ぜひ教えてください。その様に修行します。」
と言う問いに対して釈迦は
「ここに毒矢にいられた男がいるとする。
男は、誰が毒矢を射ったのか、矢の種類はなんなのか、毒の種類はなんなのか、
答えが得られないうちは矢を抜かないと言う。
そんな事をしているうちに男は死んでしまうだろう。」

つまり、「欲望(に対する執着)と言う矢が刺さって苦しんでいるのだから、まずその矢を抜け」
と言うわけです。

41 :黒海老:2001/08/03(金) 04:49
>>39   分かりました。

42 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 04:49
       ∧
   _|\/ ヽ/|_
   \ ノ   ヽ /
  <  ・  ・  >
   ∠  ∀   \
ゝωレ━|/ヽゝωレ━
     ))/..∨/  プルプル
プルプル  \ .\((
       ̄ . ̄
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43 :イエス:2001/08/03(金) 05:50
死んだ人間が生き返るわけないよ
処女が妊娠なんてアホクッさ
聖書もイエスが死んでから数十年後に書かれたんでしょ

あれお釈迦さまーーー

44 :光る汗血馬:2001/08/03(金) 07:05
釈迦も「応身仏」として捉えれば神秘的存在では。
応身仏は人の形をとって現れた仏のこと。
でも、あえてそこで「人である」ことを有難く感じるのが仏教だから。


>>1
はその気になればいい凡夫になれるよ。

45 :7:2001/08/03(金) 08:40
>>40
これは
「ゴチャゴチャぬかさんで、とっとと修業せい、ゴルァ!」(超訳)
と解釈します。修業が進めば全て明らかになるのだからということで、
仏教=唯物論説を補強するとは思いません。

46 :7:2001/08/03(金) 08:47
>>45
あと貴重な時間を無駄にするなっていうこともね。

47 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 09:53
>>1

つまんない話題。
キリストとお釈迦様。
「ウルトラマンとミラーマンと、どっちが強いか」って、言ってるようなもの。
そもそも、世界観が異なるのだから、比べようがない。
無理して比べても、意味がない。
野球のルールでサッカーをするようなもの。

だと思うけどな。

48 :7:2001/08/03(金) 10:26
>>47
そうかな?私はむしろ、あらゆる宗教はどれがどれに含まれるか
という包含関係の問題があるにせよ、ひとつの流れの中に位置付ける
ことができると思っているけどね。

49 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 10:31
そもそも、「どっちが偉い」とか聞いてくる時点でおしまい。
ショートとセカンドどっちが偉いと聞かれてもね・・・

50 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 10:31
>>48
無理だよ。
同系統の宗教(例えば、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)なら、それができるけど、
仏教とキリスト教じゃあ、基本となる世界観が、まるで違う。
そこで、もし一つの流れの中に位置付けることができるのなら、
先ず、その世界観の部分を、きちんと議論することが大切だと思う。

もっとも、そこを議論すればするほど、相違が明らかになるような気がするけどね。

51 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 10:50
広い意味での宗教の目的が何であるのかをまず論じないと無理だね
目的がはっきりすれば,到達方法を最も良く示しているのはどこかを論じられるから

52 :7:2001/08/03(金) 10:55
>>50
>先ず、その世界観の部分を、きちんと議論することが大切だと思う。
そうそうこれには激しく同意。

だから47の最初っから「意味がない」って切り捨てちゃう態度には
賛成できない。で、聞きたいのは、聖書に造物主っていう単語は
でてくるの?

53 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 11:01
仏教は、輪廻転生を説く。
一方キリスト教は、万物には初めと終わりがある、と説く。
だから、同じ花を見ても、仏教的に考えるのと、キリスト教的に考えるのとでは、
違っている。
つまり、その花が存在する目的自体が、異なってくるわけ。

この議論を広げて行くと、その宗教は、一体何を目指しているかが、
明らかになってくるのでは?
そうすると、>>51 さんが言っているところへと、議論が向かうと思う。

因みに。
宗教を離れてしまうと、その花の存在の目的なんて、ありゃしない。
もちろん、人間の存在の目的も。
すると、ニヒリズムへの道を開いてしまうことになりはしないか。
そういう意味でも、宗教のない世界は、恐ろしい。

54 :7:2001/08/03(金) 11:21
>>53
うーん。つか春に種まいて秋に収穫した実がうまいか、まずいか
っていうのがキリスト教で、種がまた芽を出す、しかもバイオ
テクノロジーでとんでもないものにトランスフォームしちゃう
ことも可能っていうのが仏教かなと思う。

55 :53:2001/08/03(金) 11:27
>>54
うまい!なるほど、ザ宗教。
ここらあたりから、両宗教の対話が可能となる道が開かれるかもしれないな。

つまり、キリスト教では、その実を収穫する、という目的があるんだ。
で、そうなると、仏教の目的は何なのだろう?
やはり、トランスフォームすることかな?

56 :7:2001/08/03(金) 11:35
>>55
そう思うね。

57 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 12:06
仏教もキリスト教もイスラム教も駄目じゃん。

58 :黒海老:2001/08/03(金) 14:58
私はイエスと釈迦はどちらが偉いなんて言う気はありません。
7さんは唯物論と言う言葉に対して悪い印象を持っている様ですが、私はそう思いません。
私の仏教感とは、方丈記で言う
「行く川の流れは絶えずして、然も本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、
かつきえかつむすびて、久しくとどまる事なし。世の中にある人と住家と、又かくの如し」
です。
つまり、全てが自然と言う事です。
世界は神様(人格神)が創った訳でもなんでもなく、自然に出来て自然に栄えたり滅んだりを
繰り返していくと言う事だと思っています。
仏教では法とか真理とか言いますが、如実知見とか言って世のありさまをありのままに見よ、と言います。
諸行無常をありのままに観察し、受け入れる事だと思います。

59 : キリストとお釈迦さま、どっちが偉い?  2:2001/08/03(金) 15:10
質問の仕方、変えてみては?

キリスト教団と仏教団とどちらがたくさん人殺したか?

どちらがたくさん金儲けしているか?

どちらが信者が多いか?

どちらが歴史が古いか?

共通するところと正反対なところはどこか?

60 :7:2001/08/03(金) 16:52
>>58
唯物論に悪い印象をもっているっていうわけでもないんですが。仏教体系という、
実践を伴った美しい理論を「迷信であろうと見抜いていた」などという言い方で
切り裂こうとしているのに対して、もうちょっと素直に読んだら?と声をかけたく
なるというのはあります。

61 :7:2001/08/03(金) 17:24
>>58
唯物論というぐらいですから、根本には物理学があるのでしょう。詳しくないの
ですが、シュレディンガーの猫という話がありますよね。そこでは「観測者」と
いうのがキーワードとして出てくると思います。そこから発展させて意識する者。
意識。心。そこらへんに宗教っぽさを感じます。

62 :黒海老:2001/08/03(金) 17:26
仏典に神とか悪魔とかが出てくる、と言う話の補足ですが、
例えばスッタニパータでこんな個所があります。
「見よ、神々並びに世人は非がなるものを我と思いなし、<名称と形態>(固体)に執著している。
「これこそ真理である」と考えている。(756)
ここで言う「世人」とは一般の人と言う意味で、執著していると言う事で異論はないでしょう。
「神々」についてですが、「彼らが執著している様を見ろ」と言います。
これは伝承上(神話上)の神々を引き合いに出して執著している、と言っていると見て良いでしょう。
どこかに神様がいてそれを見ろ、と言っているわけではないわけです。

63 :7:2001/08/03(金) 17:31
>>58
48で私は「あらゆる宗教は一つの流れに位置付けられる」と言っていますが、
サイエンスも狙っています。科学っていうものが進歩すればするほど、宗教
との接点は多くなるのではないかなと。宇宙が成立し、地球上に生命が誕生
するという確率を考えたら、そこに何らかの意志が働いたと考えるほうが、
筋が通るということも聞いたことがあります。

64 :7:2001/08/03(金) 17:50
>>62
世の人々、そして神々でさえも、<名称と形態?>に執着し、それこそが本質
であると考えている。そして輪廻から逃れることができない。そのありさま
を見よ、あるいは理解せよということでいいんじゃないかな。

神様がいてそれを見ろと理解しても問題ないと思いますよ。釈迦の弟子
でも神々と対話するレベルの人はいましたから。

ありのままに見るというのは、人格神はないと決めてかかることではない
と思います。

65 :黒海老:2001/08/03(金) 17:56
「迷信であろうと見抜いていた」と言うのは仏教体系に対してではありません。
例えば、火や太陽を信仰して生贄をささげたり、雨乞いをしたり、
カースト制度の生まれながらに貴また賎であると言う思想やヒンズー教の沐浴などを
「迷信であろうと見抜いていた」と言っているのです。
カーストに対しては、しばしば
「生まれによって清らかになるのではない。行為によって清らかになるのである」
と言っていますし
「もし汝が慎んで、清らかに語り行うならば、
ガヤーに行って何(沐浴)をする必要があるのか」などと言います。

66 :7:2001/08/03(金) 18:44

         ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        (゚∀゚  )  < 仏教論争になってるね
        (    ),,,,,  \____________
     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
    ∧ ∧     / /|
  /_(  ,,)__/ / ┌─────────
 || ̄/  | ̄ ̄||/  < イキのいいキリスト教徒来ないかな・・・
 ||, (___/   ||    └─────────
  /

67 :影法師:2001/08/03(金) 19:15
1はクリスチャン?仏教徒?それともどちらかに入信を?
どちらが偉いかなんて、ここにいる人達には誰にも答えられない。
だから、キミが好きな方を選ぶなり、偉いと思うなり、自由にすべし。

68 :考える足:2001/08/03(金) 19:24
>63

科学と宗教は「ねじれ」関係にあると思います。ぎりぎりのところをお互いに
すれ違うけど、永遠に出会うことはない。

科学は、観測事実から「主観的なもの」、観測者の特殊事情(見ていてハラハラ
したとか、腹が減っていたとか、失恋して落ち込んでいたとか)をすべて排除し
て、事実の断片にします。宗教の方は、逆に「主観的なもの」を総動員して、全体
の「統一的な姿」を見ようとします。科学は断片化、宗教は統合化をそれぞれ目指
しますから、到達する結論は全く違ったものになります。

たとえば、「私」を記述する場合、科学は「私」を事実の細切れにし、身長、体重、
経歴などのデータの羅列にしてしまいます。しかし、データからは私の痛みも悲しみ
も出てこない。しかし、「私」を一番特徴づけるものは、科学が捨て去ってしまった
「主観性」の方にあるのです。

69 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 19:37
>>68
逆だと思いますが。
宗教=客観的(知恵):真実の全相を総合的に絶対認識する
科学=主観的(五感):真実の部相を分析的に相対認識する

70 :黒海老:2001/08/03(金) 19:50
>>61
シュレディンガーの猫ですか。
確か「目の前にいる猫は確かに生きているが、
箱の中の猫は(観察者にとって)生きているか死んでいるか分からない」
と言う話でしたね。

>>62
×非がなるもの ○非我なるもの でした。

重ねて言いますが、私は人格神(ギリシア神話に出てくる神々と思ってもらって結構です)
の存在に対して?と言っているのであって、
宇宙全体の流れや法則と言う「神」の存在を否定しているのではありません。
もしかしたら人間は『2001年宇宙の旅』のように異星人によって進化させられていたのかもしれないのです。
絶対と言う事は絶対にないのだから。

71 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 20:03
イエス=釈迦。
裸になれば黄金ブラブラ。

72 :考える足:2001/08/03(金) 20:03
>69

あれっ?

「客観的事実」って、世界中の誰に対しても成り立つ事実のことです
よね、たとえば地球は丸いとか、空は青いとか。
「主観的事実」って、個人差がある事実のことでしょう?私はこの
テレビゲームが面白い(しかし、別の人がどう思うかは知らない)とか。

誰か「客観的」?判定をきぼ〜ん(笑)

73 :7:2001/08/03(金) 20:11
>>68
>科学は、観測事実から「主観的なもの」、観測者の特殊事情(見ていて
>ハラハラしたとか、腹が減っていたとか、失恋して落ち込んでいたとか)
>をすべて排除して、事実の断片にします。

これってモロに宗教者と一致するんですけど。

見ていてハラハラする  →自己保存(ちょっとこれはこじ付け?)
腹が減っていた     →食欲
失恋して落ち込んでいた →性欲・情

矢印の右側を静め、ありのままに現象をみつめる。
レベルの高い修業者は優秀な科学者ってことになりませんか?

74 :考える足:2001/08/03(金) 20:29
>73

それは、状況説明にすぎないから、やはり科学的視点から抜け出て
ないと思いますけど。「食欲」をいくら解剖しても、「腹が減って
いるときの体のだるさ」なんかは伝わってこないし、「それは気の毒
に」という慈悲の心も起きない。

水はH2Oですけど、人間が本当に水の存在を掴み取るのは、炎天下
に喉を潤すときでしょう?その時に、「ああ、今、液体上のH2Oが
喉頭部を○cc通過した」と感じる人はいない。ゴクゴクゴク、プハー
アア、うまい、と言うしかないでしょう。TVのコマーシャルで、いく
らビールの製法や品質のよさを説明してもだめ。やっぱり、汗だくの
俳優が、ゴクゴクゴク、プハー、をやらねば。水を知らない人が、
ゴクゴクゴク、プハーと言われても、何のことかさっぱりわからない
が、一度でも自分でそれを体験すれば、ああ、あれね、と膝を打つ。
そういうものが宗教的真理だと思います。

禅でいう「冷暖自知」がないと、宗教的体験にはなりえませんよ。

75 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 20:31
池田大作と千石イエスはどっちが偉いんだ?

76 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 20:35
>>75:両方とも自意識過剰のアホ。 女を侍らしたがるだけの単なるスケベ爺。 つける薬は無し。

77 :7:2001/08/03(金) 20:47
>>73
>それは、状況説明にすぎないから、やはり科学的視点から抜け出て
>ないと思いますけど。

? 宗教者=科学者っていいたいんだけど。んで、宗教と科学の合致とい
ほうに話をもっていこうと思ったんですけど。

>ゴクゴクゴク、プハー アア、うまい、
っていうのは真実じゃないです。例えば、冷たい水をのむとすぐに
腹を壊すっていう人がそれをやったら、ちょっとビクビクものでしょ。

感覚は条件によって変わる。例えば老いによって。そしてそれは苦しみ
にもなるから捨てましょう、制御しましょうってことになるわけでしょ。

ゴクゴクゴクプハーは宗教的というより、煩悩的体験にすぎないじゃん。

78 :7:2001/08/03(金) 20:48

>>73>>74の間違い。スマソ

79 :考える足:2001/08/03(金) 20:59
>77

>例えば、冷たい水をのむとすぐに腹を壊すっていう人がそれを
>やったら、ちょっとビクビクものでしょ。

いや、それでいいのですよ。腹壊す人にとったら、それが真理です。
ビクビクも含めて。「あれ、他の人はなぜ腹壊さないんだ?」とか、
「どっちが正常なのか」とか考えるから迷いに落ちるのです。「私は
ゴクゴクゴク、ブリブリブリ」の一点張りで通せばいい。

>ゴクゴクゴクプハーは宗教的というより、煩悩的体験にすぎない
>じゃん。

煩悩を厭うから悟れないんです。厭った時点で勝負がついている。
ゴクゴクゴク、プハーに徹すれば、煩悩即菩提が実現する。

80 :7:2001/08/03(金) 21:00
あと冷暖自知ってなに?

81 :考える足:2001/08/03(金) 21:07
>80

禅語のひとつです。「冷たい」と「暖かい」は、いくら言葉で説明
してもわからない。自分で寒中に川に飛び込むとかすれば、おのず
からわかる、という意味です。

82 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 21:10
>たとえば、「私」を記述する場合、科学は「私」を事実の細切れにし...
なんか、科学とゆうと物理、化学ですか??
生物学における、生態系の研究なんかは、断片を集めながらも最終的に総合して
鳥瞰する作業が入っているじゃないかなあ。
科学に対する偏見だよ。

>一度でも自分でそれを体験すれば、ああ、あれね、と膝を打つ。
>そういうものが宗教的真理だと思います。
最近はやりの、心のケアをする心理学者や、精神科の医者は科学者ですよ。

物理、化学、地学、数学は人間の心理を扱う分野じゃないだけ。

>科学が捨て去ってしまった「主観性」の方にあるのです。
心理学なんかは、手法は客観的にしようと努力していますが、
(あんまり成功してないように見えるが)
「主観性」を分析していないわけじゃない。

宗教の好きなみなさん、科学のすすのは広いです、f=m・aだけが
科学じゃありません。

83 :7:2001/08/03(金) 21:12
>>79
そら真理の定義が違うよ。肉体、感覚、まあ、色受想行識だな、
に対する執着を落としたら、「ああ、今、液体上のものが 喉頭部
を通過した」と感じるようになるはず。なった人もいた。

>煩悩を厭うから悟れないんです。厭った時点で勝負がついている。
>ゴクゴクゴク、プハーに徹すれば、煩悩即菩提が実現する。
禅の用語を使ったけど、君は禅をやっているのか?少なくとも上記
の考えは禅じゃないだろ?

84 :考える足:2001/08/03(金) 21:18
>83

禅を少々、たしなむ程度ですね。

煩悩を厭うな、というのは、むしろ禅の根本思想ですよ。修行して仏
になる、というより、もともと仏であることに気付く、に近いですね。
白隠禅師も、
「触りゃ濁るぞ渓河の水、問うな学ぶな手出しをするな、
 是がまことの禅法だほどに、見ぬが仏ぞ知らぬが神よ」
と言っています。

85 :7:2001/08/03(金) 21:21
>>70
>私は人格神(ギリシア神話に出てくる神々と思ってもらって結構です)
>の存在に対して?と言っているのであって・・・・・
>もしかしたら人間は『2001年宇宙の旅』のように異星人によって進化させ
>られていたのかもしれないのです。 絶対と言う事は絶対にないのだから。

異星人が人格神ってことはないのかな。ドラゴンボールみたいに。

86 :考える足:2001/08/03(金) 21:28
>82

いや、いざ「科学者」の立場になると、被験者A,被験者Bであって、
それに私情をはさむことはないのです。社会科学や心理学の論文読んで
感動の涙が流れますか?人間の生き様とか、そういう人間の核心の部分
はしっかり捨てられているのです。

「星の王子様」をお読みになったことはありますか?あの童話の中で、
王子が世界で一番大切にしている花は、他の何百何千の同種類の花と
は外見では見分けがつきません。科学にとって、それらは「等価」で
す。それにも関わらず、人は特別な一本の「花」を大切にするのです。
一見不合理に見えるが、「その花が特別である」という事実もまた真
理なのです。

87 :7:2001/08/03(金) 21:29
>>84
ほっとけってやつですか?手出ししないでおさまるのを待つのですよね
でもそれって煩悩即菩提(悟り?)っていうのかな?

煩悩即菩提(悟り?)っていうと密教の輪廻と涅槃が同一だとかいう
ややこしいところに入るっていうイメージがあります。

88 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 21:41
>>86さん
分析そのものに私情をはさんじゃったら、ダメでしょうけど。
なぜ、「ドイツでヒトラーは支持されたか。」を分析した心理学の本は
その、「主観」をいっしょうけんめい分析してたよ。

>科学にとって、それらは「等価」で...
心のケアを担当する、精神科医は決してそんなことは言わないはずだよ。

科学には、人間の主観を解明する分野(これわかって)があることを
わかってほしい。

物理、化学の学者だって、他人の子供より自分の子供がかわいいのは
いっしょ。
だから、偏見だっつうの。

89 :名無しさん@1周年:2001/08/03(金) 22:10
        +
   +       +
      ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  + . ( ´∀`)< 一休み・・・
     ( つ日)  \_____
     (⌒_)__)
    ⊂===⊃

90 :黒海老:2001/08/03(金) 23:32
7さんは仏教体系と言うものをどのようなものだと思っているのでしょうか?
興味があるので、もし差し障りがなければ話してもらえますか。
仏教における神様や輪廻や善行の意味について。

91 :黒海老:2001/08/04(土) 00:10
仏教の根幹は『諸行無常』です。
無常とは常に変化して、とどまる事がないと言う意味です。
変化があるからこそ物は生じ、変化があるからこそ物は滅するのです。
まさしく、川の流れの様に。
仏教における『空』とは、何もないと言う意味ではなく、
何物にも永続する実体がないと言う事です。
空であるからものは滅しますが、空であるからこそ新しくものが生じるです。

92 :惨殺:2001/08/04(土) 01:11
最後に惨殺されたからキリストのほうが偉い!

93 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 01:18
お釈迦様はなくなるときにお弟子さんに対して
「私に構わず自分の道を行きなさい」
というようなことを残されたそうです。
すべてのものは移ろいでいく。
そこには当然お釈迦様ご自身も入っておられるということで
唯一絶対のものをお認めにならなかった。
ある意味で無神論と言えます。
それに比べるとイエズス様は「神のおんひとりご」として
あがめられ、とうとう神様になってしまいました。
捕らえ方にもよるでしょうが、私はお釈迦様の方が好きです。

94 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 01:20
釈迦は「五蘊(色・受・想・行・識)は空だ」と言いました。
これは人間の肉体から意識まで全て空(永続性がない)と言う意味です。
何故でしょうか?
当時のインド人は、人間の魂は元々純粋なものであり不純な肉体がその純粋性を
損ねていると考えていました。
だから、肉体を痛めつけて衰弱させ、魂の純粋性を取り戻そうと苦行に励んだわけです。
釈迦も6年間苦行に励んだけれども、結局苦行は肉体と精神を衰弱させるだけだとして
苦行に見切りをつけたと言います。
「肉体と精神を別々に考えるべきではない」とも言っていたと思います。

95 :黒海老↑94は私です:2001/08/04(土) 01:26
精神は空と言いましたが、魂はどうか知りません。
ただ、一般的に言う「魂」は空だと思います。
その奥の奥にある「何か」は残るかもしれませんね。

96 :7:2001/08/04(土) 01:39
>>95
その「何か」はあるという立場をとっています。

97 :黒海老:2001/08/04(土) 01:44
>>96
う〜ん…
永久に残るかは?ですね。
一切皆空なので。
まあ、死んで見ないと分かりませんね。

98 :黒海老:2001/08/04(土) 01:59
お釈迦さんは「一切をあるがままに見よ」と言いました。
そうするとどうしても科学的・物理的になってしまうのです。
宮沢賢治のように、自分の中で科学と宗教が矛盾しなかった人もいますが。
7さんはどうですか?

99 :7:2001/08/04(土) 02:17
>>90
人間以上の意識レベルのものは神というふうに認識しています。

人間より下の世界は地獄、動物、餓鬼の3つ。それぞれの世界を成立
させている根本的な法則は怒り、痴、貪です。仏教でいう三毒に対応します。

基本的な戒は殺すな、嘘をつくな、盗むな、姦淫するな、酒を飲むなですが、
前3つは、やはり地獄・動物・餓鬼に対応します。後の2つは人間と低位の神々
の世界に対応します。

人間の法則は何かといったら情ですね。そして、男女のまじわり。
低位の神々は酒を飲む。そして高位の神々に嫉妬する。

だから5つの戒律を守っていれば、下から数えて5つ目の世界に対する
意識の固定は弱くなると。だから、戒めっていうのは本来心を解放
していくものであって縛り付けるものではない。

これは在家用のお話だから天界もOKとしている。中間地点として一つの
達成目標だけど、それも無常だから悟り、解脱しなさいと。

100 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 02:21
2

101 :7:2001/08/04(土) 02:25
>>98
科学的・物理的でOK。前に書いたとおり、宗教と科学の合一を目指します。
釈迦はある意味最高の科学者だと思います。

102 :黒海老:2001/08/04(土) 02:27
いくつも世界があって、善行をすると上の世界に行けて
悪行をすると下の世界に落ちる。
と言う意味でしょうか?

103 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 02:38
>>人間より下の世界は地獄、動物、餓鬼の3つ。
ゴータマシダールタさんこんなこといたのかしらん?
日本の仏教は、導入当初からとち狂ってるからなあ。
いったい、日本の仏教の教義=教えの中にゴータマさんの考えていたことって
何パーセント残ってるのだろう?

知ってる人いたら教えて下さい。

(いきなり、仏像拝み出したり、国家の安泰を願ったりした国だかかんな
 ゴータマさんの人生考えると、国家の安泰を願っていい人じゃないとおもうんだけどね)
アっとキリストさんも。。。。
どっちがって?「人間みんな平等。どっちもえらくない」と前書いた。

104 :黒海老:2001/08/04(土) 02:47
天界
低位の神界←酒を飲む >だから5つの戒律を守っていれば、
人間界  ←情を持つ >下から数えて5つ目の世界に対する 意識の固定は弱くなる
地獄界  ←嘘をつく  だから下の5つの世界から離れて上の天界に行ける。と言う事ですか?
動物界  ←盗む
餓鬼界  ←姦淫する

105 :7:2001/08/04(土) 02:48
>>102
世界はたくさんあり、その一つ一つにその世界を構成させている根本的
な法則(=煩悩)があるということです。

なしたことは返ってくるということで、人を喜ばせれば自分にも喜びが
かえってくる。天界は基本的に喜びの多い世界。また、物質的にしろ
精神的にしろ他に施すということはおうおうにして心を軽くさせる方向
に働きます。逆に悪行は三毒を活性化させ、低い世界に心を縛り付けます。

106 :7:2001/08/04(土) 02:55
>>103
ある女性が釈迦に妊娠させられたといって、釈迦を公衆の面前で
非難し地獄に落ちています。

動物はいいですよね。餓鬼はサンスクリットでなんていったかな・・・
チベットだと飢えた妖怪とか表現されています。

107 :ぼく:2001/08/04(土) 02:57
やっぱさ、一番かわいいのは、酒井若菜だよなー

108 :黒海老:2001/08/04(土) 02:58
>>106
それはどの経典に出ている話でしょうか?

109 :7:2001/08/04(土) 03:03
>>108
すみません、今確認できません。
女性の名前は酒井若菜、あ、いや、チンチャーだったかな?

110 :黒海老:2001/08/04(土) 03:17
すいません、もう寝ます。

111 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 03:30
とりあえず釈迦は俺を鬱な宗教に巻き込んだので逝ってよし!!!!

112 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 04:30
>>ある女性が釈迦に妊娠させられたといって、釈迦を公衆の面前で
>>非難し地獄に落ちています。
だから、Iさんも、裁判に勝ったってか?

「地獄に落ちる。」とか言ってれば、怖がるなんて思ってない??ん!
それじゃ、中世のキリスト教と同列だよ。

113 :7:2001/08/04(土) 04:51
>>112
Iさんって池田さんのことか?相手の女性は地獄に落ちたのか?
そんなん聞いたことないぞ。

世界の構造を述べているのだよ。その成立の要件もな。

114 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 05:16
>世界の構造を述べているのだよ。
人間の大脳皮質のシナプスのミス結合の構造のまちがいじゃ...
こんなこと書いたら7さん怒るかなあ?

115 :27:2001/08/04(土) 05:23
>>114
この程度じゃまだまだ。それより建設的な意見を書き込んでくれ。

116 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 06:29
キリスト教は、仏教観の一部に過ぎません。
聖書を読んでも、キリストの経験からいって、
涅槃のレベルまでは、いってません。

キリストと、釈迦を比べるのは、なんらおかしくないと思います。
色んな宗教(世界観)がありますが、最高の真実は一つだと思っています。

釈迦の高弟、マハモッガラーナは邪教の僧に、
頭を叩き割られて死んだそうです。
その時彼は、自分を殺した相手に対して、
深い哀れみを持ち、『私のこの、不浄の肉体を滅してくれた、
どうか、彼の善業になりますように。』と言ったそうです。
(仏教には我が身不浄なり)とゆう教えがありますから。

釈迦に対して、これほどまで帰依していたとゆうことです。
一方キリストに弟子達は・・・

やはり、釈迦の方が偉大です!!

117 :ひたじーふ:2001/08/04(土) 08:24
ジーザスさんもゴータマさんもほぼ同時代の人。
彼らの没後約
2000年を過ぎた今、
科学の発達、技術の進化により、
現代人の暮らしは快適になった。
先進国と呼ばれる国々は飢えに苦しむ事もなく、
医療設備や施設も向上している。

しかし人々の心は進化・進歩したのか?
2000年前に生きた人々より精神は豊かになったのか?

相変わらず戦争を起こし、
憎しみ合ったり苦しんだり、
日々の生活に100%満足している人はいない。

ジーザスさんやゴータマさんは、
果たして現代社会に生きる人の心に納得しているのか?

やはり完璧な成功者だとは現時点では言えない。
その教えをほぼ忠実に引き継いで来たにも関わらず、
こんな世界しか残せなかったんだから。

「いや〜大満足ですわ〜」
なんて言われたら関西風味の突っ込み入れたくならへんか?

118 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 08:38
>>117
忠実に引き継いでるとは思えません。
特に、日本には、忠実に伝わってませんよ。
仏教はサンスクリット語から、中国語、そして日本語。
など等。
聖書は、ヘブライ語?から英語、日本語、など。

だから、日本の坊さんは、金儲け主義だったり、
愛人作ったり、めちゃくちゃでしょ?

基本的に117さんのご意見には賛成です。
先進国は、豊かになりましたが、心は貧しいです。
しかし、仏教が純粋に残っている国は、まだまだ
捨てたモンじゃないと思いますよ。

釈迦の時代は、正法といわれ、
みんな、戒律を守って、素晴らしい転生をしたと
伝えられています。

そして、無数の魂がいるので、釈迦が入滅後、
世界が荒れた時に、また仏陀が現れる、と
予言されていますので、そろそろかな〜(藁
と思ってるのですけど。

釈迦は、釈迦の役割を完璧に果たしたのだと思います

119 :7:2001/08/04(土) 09:01
>>117
つか、君の書き込みのほうが突っ込みたくなるわ。

釈迦の生まれたのって紀元前500年頃なんだけど。500年の差を
同時代とかたづけてしまうのか?

釈迦は仏教の衰退を予言したし、キリスト教でも世の中が乱れて
再臨というプログラムになってたと思うけど。

ほぼ忠実に引き継いできた?それは違うだろ。仮にそうだとしても
実際に実践してるのは、ごく少数いるかいないかじゃないの?

他方で欲望を煽るコマーシャリズムに立ち向かうことなく、踊らさ
れてるのは僕ら自身だろ?釈迦やイエスのせいにするつもりかい?

120 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 12:40
>特に、日本には、忠実に伝わってませんよ。
>仏教はサンスクリット語から、中国語、そして日本語。
>など等。
>聖書は、ヘブライ語?から英語、日本語、など。
それでも、結構キリスト教系の資料は、のほほんと生活していても手に入る。
でも、仏教は難しい。
日本が、中国から輸入した時点で、ゆがんでいた上に、日本の僧侶が勝手に
解釈、理論の改竄、飛躍をしたために、ゴータマさんってどんな人だったのか
さっぱりわからなくなってる。
サンスクリット語を中国文字で表わして、それを日本人が発音して(お経)
なんの意味があるんだろう?

仏教に詳しい人、ゴータマさんの思想がわかるカキコして、して。

121 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 13:06
>120同意です。
お経で「波羅蜜多」は〜ら〜み〜た〜と発音するのですが、
日本の宗教では、蜜の多い甘い人生を送りましょう、なんていう、
なんのこっちゃい?になってますもんね。
ほんとは、サンスクリット語で、ハラミタは、極限とゆう意味があるそうです。
その前に、精進がつくと、精進波羅蜜多となって、極限まで
修行に精進しましょう、ということです。

122 :黒海老:2001/08/04(土) 17:51
サンスクリット語はバラモン階級の人間が使う言葉で、一種の貴族語です。
釈迦は俗語であるマガダ語で説法をしたと考えられます。
一般民衆が分からないサンスクリット語は用いなかったでしょう。
仏典でも原始仏教に属する古いものは、俗語であるパーリ語で書かれています。
仏典がサンスクリット語で書かれるようになったのは、釈迦入滅後500年後頃から
起こった大乗仏教の経典からです。

123 :黒海老:2001/08/04(土) 21:08
>>117
釈迦と同時代の人は、孔子やソクラテスですね。

輪廻転生についてこんな話があります。
僧ナーガセーナにミリンダ王がさまざまな問いをした『ミリンダ王の問い』より
「輪廻転生前の人と後の人は同じ人間ですか別の人間ですか?」
「例えばある人が、一つの灯火から他の灯火へと火を点ずる時、
灯火が一方から他方へ転移するのであろうか」
「そうではない」
「王よ、それと同じように、一つの体から他の体に主体が転移するのではなく、
しかも生まれ変わるのです」

124 :7:2001/08/04(土) 21:17
>>123
黒海老さんはこの「ミリンダ王の問い」をどのように解釈するのですか?
あと104の世界と構造と戒の一覧表はおかしいです。諸々の事情で訂正は
しませんが。

125 :7:2001/08/04(土) 22:27
>>97
>う〜ん…
>永久に残るかは?ですね。
>一切皆空なので。
>まあ、死んで見ないと分かりませんね。

これは非我か無我かっていう話になるのじゃないですかね。五蘊無我っていう
言葉があるけど、これは無我じゃなくて非我ととるならば、五蘊は我じゃない、
真実の我は別にありそれこそ本質であるということになると思います。

126 :名無しさん@1周年:2001/08/04(土) 23:20
イエスはエッセネ派の影響を受けました。
エッセネ派はイランのゾロアスター教の影響を受けました。
よってイエスよりゾロアスターの方が偉い。

127 :黒海老:2001/08/05(日) 01:16
>>124
蝋燭を肉体、そこで燃えている火を精神と考えれば分かりやすいかと思います。
蝋燭が燃え尽きれば火は消えますが、その火は新しい蝋燭に受け継がれていく、と言った感じです。
火は同じ火から発していますが、あくまで蝋燭によって燃えている。
しかし、その火は次から次へと受け継がれて行くのです。
これはただの例えですので、あまり細かい所にはこだわらないでください。

128 :黒海老:2001/08/05(日) 03:12
>>93
それに関しては『筏』と題されたこんな話があります。
「ある人が道を歩いていて、大河に出会ったとする。
その川をわたる為に筏を作り、それによって川を渡ったとする。
川を渡った後はもう筏は不用なのだから、その場に置いて行くだろう。
それと同じように教えもまた捨てられるべきである」
ここで言う教えとは、煩悩の川を渡り悟りにいたる方法としてお釈迦さんが示した戒のことでしょう。
しかし、ここで注意すべきは渡りきったらそれで終わりではないと言う事です。
川を渡る方法として教えがあったわけですが、生きている以上川の向こうにもまた日々問題があるわけで
その都度、それに対処する方法を考えていかなければいけないでしょう。
何故なら、あらゆる物は無常(変化)によっているので、
無常なればこそ日々問題が変化していく、と考えなければいけないでしょう。

129 :1:2001/08/05(日) 10:31
みなさん、カキコありがとう!
なんか、仏教って深いですね〜
キリスト教の人は、教えについては全然書いてくれないのでわかりません。

130 :黒海老:2001/08/05(日) 18:33
>>125
真実の『我』と言いますが、これは当時のインドでも古くから議論されてきた問題です。
仏教よりも古いバラモン教では宇宙から人間まで、全てのものは『ブラフマン』
と言う存在から生じたもの、とされています。
そしてあらゆる物の根底に『ブラフマン』が存在しているとされ、
それは永遠不滅の存在『アートマン(atman)』と言われました。
これを訳したものを『我』と言います。
それに対し、物には永遠不滅の存在がないとすることを『アナートマン(anatman)』
パーリ語で『アナッタン(anattan)』と言い、『無我』とか『非我』と訳されます。
釈迦は『諸法無我』と言いました。
あらゆる存在は『無我(anattan)』と言うわけですから、当然五蘊も『無我』になります。

131 :黒海老:2001/08/05(日) 18:34
見よ、神々並びに世人は、非我(anattan)なるものを我と思いなし、<名称と形態>(固体)に
執著している。「これこそ真理である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
安らぎ(ニルバーナ)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
彼らは実に真理を悟るが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。
                             (スッタニパータ756〜758)
「あらゆる物は非我であるけれど、安らぎは虚妄でない」と言います。
何故でしょうか?
それにはまず『無常』と言う事を考える必要があると思います。
無常とは変化です。
変化があるからこそ物が生じます。変化があるからこそ物が滅します。
ゆえに無常とは、あらゆる物の根底に流れている不変の法則です。
常に変化し変化しないものは何もないこの宇宙で、唯一不変と言えるでしょう。
「絶対と言う事は絶対ない、その事(絶対と言う事は絶対ない)を除いては」
と言うわけです。

132 :黒海老:2001/08/05(日) 18:34
「安らぎは虚妄ではない(絶対である)」と言う事を理解するのに、こんな話があります。
「暑い時、寒い時にはどうしたら言いでしょうか?」
「暑いときは暑さになりきり、寒い時には寒さになりきる」洞山良介
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」禅僧快川
「心頭滅却すれば…」と聞きますと「暑いものは暑いじゃないか」と思いますが、
ここで言う「涼し」とは「熱くてもそれを苦に感じない」と言う意味です。
こんな話を聞きました。
ある徳の高い僧が末期ガンで亡くなったそうです。末期ガンとは激しい苦痛を伴うものです。
ある人がその僧の弟子に「あの人とはいえ苦しんだのではないですか?」と問いました。
すると「痛みは感じていても、それは苦しみではないのです」と答えたそうです。
これを踏まえて『無常』を見てみますと。
無常は宇宙の真理なのだから、自らが無常になりきってしまうと無常がゆえに生じる老死は
当たり前のこととなり、もはや『苦』ではなくなるのだと思います。
無常なるがゆえの変化も当り前の(虚妄ではない)事となるのだと思います。

133 :黒海老さんへ:2001/08/06(月) 10:17
無常になりきるのは違います。
仏陀は、無常を超えて、涅槃しなさいと、おっしゃってます。
そして、そのための教えを残しました。
そして、真我(アートマン説)の存在を仏典の中でも認めています。

五蘊は無我です。
あなたは、釈迦の涅槃をどう考えていらっしゃるのですか?

134 :考える足:2001/08/06(月) 11:48
人間は、生まれてから「自己」の領域を拡大していくと思うのです。最初は自分
と両親と「その他」、やがて、+同級生と「その他」。海外にペンパルができたり
すれば、+その国の人と「その他」。つきあいが増えると、「その他」がだんだん
減っていって、「自分」と同化する。この究極の姿が「生きとし生けるもの」と
「自分」との同化で、仏教の教えに近いと思います。涅槃にはいった人は、地球の
裏側で、自分が一度もであったことがない人の苦悩をも、自分の苦悩として感じ、
放っておけないでしょう。

仏智とは、「彼我」の対立を超越することだと言われますが、それをわかりやすく
説けば、「生きとし生けるものすべてを自分自身のように愛する」境地、というこ
とになると思います。その時、我=仏とならざるをえない。

キリスト教においては、神を人間の外に設定していますし、その神は悪人を裁く
存在ですから、「その他」にワンサカ抱えています。この視点からすると、仏教
よりも下位の教えであることは明白です。

135 :考える足:2001/08/06(月) 11:54
キリスト教の視点の原点に、「彼我」の対立がある。「彼」=神、
「我」=人間です。イエスキリストは、「神は父のような存在である」
と真理を看破していたし、「他人を裁くな」という言葉でもって、
「その他」にいかなる人をもいれるな、と教えたのです。少なくとも、
イエスキリスト自身は「彼我」の対立を超えた視点で教えを説いていた。

しかしながら、弟子達があまりにも低級すぎましたね。

136 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:03
>134
キリスト教が仏教の下位とゆう、結論にたどり着いたのは、賛成です。
しかし、仏典での全てを愛するとは、人は、自分が一番可愛い、そして誰からも愛されたいと思う、そして全ての人が、同じように思っているので、自分を愛するように他を愛しなさい、と言っています。
もう一つは、人は無数の輪廻を繰り返し、色々な転生をしてきています。もし、隣人が子供を亡くし、悲しんでいたら、自分もいくつか前の前世で、同じような悲しみをもったかもしれない、よって、隣人は自分である。
隣人だけではなく、全ての人は、私である。と考えることです。
また、>生きとし生けるものすべてを自分自身のように愛する<
とゆうのは、キリスト教では、最高の境地かもしれませんが、仏教では、これは、天界の上の方へいける教えであって、涅槃まで至る教えは、もっと高度なものになってきます。

137 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:11
>135
弟子達が、出来が悪かったんですね〜。同意です!!

他人を裁くな、には、仏教でいうところの、人間の観念で、人を裁くと業になる、とゆうことではないでしょうか?
つまり、輪廻を背景に考えますと、人間以外の、虫などを殺すことの方が、スピード違反より罪になりますからね〜。
閻魔様にしか裁けないとゆうことですね。

138 :考える足:2001/08/06(月) 12:15
>もし、隣人が子供を亡くし、悲しんでいたら、自分もいくつか前の
>前世で、同じような悲しみをもったかもしれない、よって、隣人は
>自分である。

輪廻は、隣人と自分の関係を考える上で、非常に参考になる教えだと
思います。ただ、釈尊が仏教を説く前に、バラモン教でも説いていた
ことです。彼らは、いろいろな供養によって、罪障消滅のための善行
をやっていた。

釈尊はそれではいけない、と感じたから仏教を改めて説いたはずです。

それは何か、というと、自分の来世を願っての善行は、所詮は偽善だ
ということではないでしょうか。「自分が一番可愛い」というのがあ
る限り、どんな善行も「自分のため」にすぎないのです。「輪廻競争」
にたとえ勝利したとしても、永遠に輪廻から脱却できない(これこそ
がバラモン教の中心的教義です)。

釈尊の問題提起とは、果たして「自分」というのは本物か?単なる思い
込みじゃないのか?「自分」とは、大きな宇宙の木の一本の枝であって、
「自分は枝であって木なんかじゃない」と思い込んでいるだけではないの
か、という問いかけであったと思います。

だから、輪廻する本体すら「仮の自分」だと釈尊は説いているのです。
その妄想を捨てた時に「仮の自分」に対する執着がやみ、輪廻もまた
やむというのが釈尊の教えだと私は考えています。

139 ::2001/08/06(月) 12:23
イエス・キリスト、お釈迦様どっちが正しいかって言えば、
どっちも正しいと思います。死後、生きた人間にふさわしい世界に
行くのはどちらとも共通した概念だとおもいます。

140 :突然ですが:2001/08/06(月) 12:27
今までずっと読ませていただいておりました。
仏教をご専門となさっておられる皆様のご意見、大変参考になりました。
ありがとうございました。

ですが、キリスト教に関しては、かなり間違った知識をもっておいでのようです。
私のように、ほんの少しだけ勉強しただけの素人が見ても、間違っていると思われる部分が、あります。

ここは一つ、キリスト教の専門の方が来られるまで、キリスト教については触れないでおいた方が、
よろしいかと思います。

では、これからも皆さんのお話を伺いながら、学ばせていただきますので、よろしくお願いします。

141 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:28
>138
>自分の来世を願っての善行は、所詮は偽善だ
>ということではないでしょうか。

これは、タントリックな教えですね。
釈迦は仏教で、小乗、大乗、金剛乗の三乗をおさめてらっしゃいますから、
当然、善業の果報と悪業の果報について、説いてました。

まず、自分というのは本物か?よりも自分とは何だ?とゆう問題提起だったと思います。
そして、六処(耳、目、鼻、口、触覚、意識)でも名色(五蘊)でもないと、悟り、自分とは真我である、と説きました。

142 :考える足:2001/08/06(月) 12:29
>137

>輪廻を背景に考えますと、人間以外の、虫などを殺すことの方が、
>スピード違反より罪になりますからね〜。

そう簡単ではないから難しいのですよ(^^)。たとえ殺人でも、幾分
かの善は含まれている。安楽死問題なんか、一概に「罪」とは断罪で
きませんよね。どんな行為にも「善」と「悪」は共存していて、すべ
てを「自己」として捉える仏の目からは、裁けないのです。裁判官が
涼しい顔して刑を宣告できるのは、犯人のおいたちやら生活状態など
について感情移入していないからです。もし、すべての人の心の中が
わかって、自分自身の問題だと真剣に考えたなら、一体誰が裁けるの
でしょうか。

所詮、人間としては「仮に自分の行為が悪業として、輪廻の報いを
受けても、自分が義だと思うことはやる」という居直りしかないのだ
と思いますし、結果ばかり気にしてビクビク生きる「善行家」よりも
仏に近いと思っています。

143 :名無しさん:2001/08/06(月) 12:29
人殺しは断然キリスト教徒のほうが多いぜ!

144 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:29
 前世の記憶が失われた時、輪廻したとしてもそれは同じ「我」
と言えるのだろうか? 「我」の大部分は「経験と記憶」による
過去からの連続で構成されている。

145 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:32
>139
でも、キリスト教は輪廻を説いてませんよ。
人間は一度だけ生まれ、そして天国か地獄に落ちておしまい、なんてヘンでしょ?地獄に落ちた魂はもう救われないの?って思っちゃいます。
また、動物に関する見解もはっきりしません。

146 :考える足:2001/08/06(月) 12:32
>140

そうご謙遜なさらずに、あなたのキリスト教論をお聞かせください。
私もちょっとばかり勉強したことがあるので、よい議論相手になると
思いますよ。

147 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:42
>144
お釈迦さまも言いました。
「人はほんとに輪廻してるのですか?」
との問いに
「それは聞いてはいけない。」と。

なぜかというと、一回一回の生で、前世を覚えてないものには、
「輪廻はない」ということだし、
お釈迦さまのように、修行によって、自分の過去世を全て思い出した人にとっては、
「輪廻はある」ということです。

経典には、このような話があります。
今生とても、愛してくれる旦那と、可愛い子供に恵まれた一人の女性。
ある日、子供を抱いて魚を焼いてると、一匹の犬がそれを盗みにきた。
女性は、あわてて石をぶつけて、犬を殺したと。しかし、その瞬間、彼女は
深い潜在意識に入り、前世を思い出し、今生の転生先と一緒に見えた。
いま、抱いている赤ん坊は、前世において、父を殺した仇であった。愛しい旦那は、
自分を刺し殺した相手であった。そして、犬は、前世でとても優しかった、母であった。

148 :考える足:2001/08/06(月) 12:46
>145

原始キリスト教の一派で、グノーシス派に属する教団が使っていた
福音書には、暗に輪廻を指すようなイエスの言葉が収録されています。

たとえば、

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、
あなたがたは御国を見いだすであろうから。なぜなら、あなたがたが
そこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」
(トマスの福音書、第49節)

新約聖書が編纂されていく過程で、教団の教義と相反するようなイエス
の言葉は削除されたのだと推測できます。

149 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 12:55
考える足さんの言うことは、甘い。知識だけしかないから、
そうゆうこと言えるんだと思うよ。
宗教学者じゃなくて、宗教家の意見が聞きたい。
つまり、釈迦だって、瞑想や化身によって、六道全ての経験、
色界、無色界の経験を実際にされてるから、経典の地獄の描写も、
リアルだし、悪業をなせば、地獄に落ちることの怖さを知っているのも、お釈迦さま。
だからこそ、必死で教えを広めたんだと思うよ。
聖書にしろ、仏教にしろ、実際修行して、瞑想で経験しないとダメじゃない?

150 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 13:00
>>148

解かりづらい比喩ばかりつかって、怪しげな聖書、仏典の引用はやめて下さい。
懺悔してください。

151 :考える足:2001/08/06(月) 13:35
>149

おっしゃる通りだけど、地図を知らない人よりは、知っている方が
いいと思うよ。地図なしに歩いたって、目的地には着かない。

>聖書にしろ、仏教にしろ、実際修行して、瞑想で経験しないとダメじゃない?

瞑想を中心にする禅宗では、「修行して仏になるのではない」と言って
いるんだけど。「仏になろう」という動機でやる限り、いくら瞑想やって
も無駄だ、と言ったらどうします?

152 :考える足:2001/08/06(月) 14:46
『六祖壇経』から、「真仮動静の偈」の和訳文を示します。

一切万物に真はない、真を探そうとするな。
もし真を見るというなら、その考えはすべて真ではない。
もしほんとうに自己が真をもったというなら、にせものを除き去ったところこそ
心はほんものだ。
自己の心がにせものを除き去っていなければほんものはない、どこにほんものが
あろう。
有情のものは動くことができる、しかし無情のものは動きもしない。
もし不動の行を実践するなら、それは無情のものの不動と同じことだ。
もし真の不動を求めるなら、動の上にある不動こそがそれだ。
不動は不動でしかないのだ、そういう無情のものには仏種はない。
見事にものの諸相を弁別しつつ、根本義においてどしりと不動であること。
そういう見て取りかたができるなら、それこそ真如の働きというものだ。
もろもろの修行者に告げる、せいぜいしっかりと気をつけることだ。
大乗の教えの中にいながら、生死の智にしがみついてはならぬ。
もしこの言下にぴたりとわかる者があれば、共に仏の本義を語り合おう。
もしぴたりとわかりようもない者なら、手を合わせて[仏を]歓喜するように仕向け
てやろう。
この宗旨は本来あらがいをせぬ。あらがいは菩提心を失う。
本心を失って教えをあらがうなら、自己の本性は生死の世界に踏み込んでしまう。
(中川孝:訳)

153 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 16:20
と言う事は…
おしゃかさんや
じいざすくらいすとさんの
生まれ変わりが今、
どこかにいるのかも…
ひょっとして…お、俺かも!

154 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 16:20
まったく個人的な意見だがキリストと仏陀だったら
仏陀の方が優れてる(人間的に見習いたい)と思う。

155 :7:2001/08/06(月) 16:58
>>132
>ある徳の高い僧が末期ガンで亡くなったそうです。末期ガン
>とは激しい苦痛を伴うものです。 ある人がその僧の弟子に
>「あの人とはいえ苦しんだのではないですか?」と問いました。
>すると「痛みは感じていても、それは苦しみではないのです」
>と答えたそうです。

えーと、黒海老さんって仏教=唯物論説を提唱なさっているんですよね。
上記のこと、唯物論的に考えると、病巣の異常が神経を通して電気信号
として脳に伝達され・・・どうなるんでしょうね?

つか、むしろ黒海老さんは唯心論・神魔否定派っていう感じに思うのは私だけ?

156 :黒海老:2001/08/06(月) 21:41
私はおもに深夜に放送されている、いわゆる環境ビデオが好きなのですが、
ついこの間放送されていたもので北東アジアの自然を1年間追ったものがありました。
ここでは冬、雪と氷に覆われていた大地が春になり雪が解けると川が増水し草木や虫が目覚め、
タンチョウが子育てを始め、ヤマメ(サクラマスの稚魚)は川を下ります。
夏になると生き物はますます活発に活動し、秋になると生き物は冬支度を始めます。
秋、川を下って数年立ったサクラマスは川を遡り、故郷に戻ると産卵をして力尽きます。
冬になるとタンチョウはペアとなり、産卵を始めます。
これを見ていて私は、「自然はそのままで美しい」と思いました。
全てがあるべきところに収まっている、と言う思いがしました。

新聞のコラムである女性がこんな話をしていました。
「宇宙は巨大な織物で、生命とはその織物に折りこまれた一本の糸だと思います。
糸を無理やり解いてもいけないし、抜け落ちるべき時に無理に留まらせてもいけないと思います」
生命はその与えられた役割をこなしていくものだ、と言う事でしょう。
サクラマスにとってその与えられた役割とは、精一杯に生き、川を遡り子孫を残して、
やるだけやったならば満足して死んでいきます。
人間も同じだと思います。
やるだけやったならば、あとは次に任せて自分は身を引くのです。

157 :黒海老:2001/08/06(月) 21:42
この世において、実相を洞察させる智慧が最も優れている。
それによって人は生と死の滅びる事を正しく、明らかに知る。『ウダーナヴァルガ』

世間の人々は多くは二つの立場にこだわっている。それは有と無である。
もしも人が正しい智慧をもって世間のあらわれでること(成立)を如実に観ずるならば、
無はありえない。
また、人が正しい智慧をもって世界の消滅を如実に観ずるならば、有はありえない。
仏はこの両極端に近づかないで中道によって法を説くのである。『サンユッタ・ニカーヤ』

生と死はありえない、無と有はありえない、と言います。
これを私はこのように解釈しています。
生き物は必ず死にます。
しかし、その遺体は他の動物に食べられたり、バクテリアに分解されて腐敗します。
そして土になりその養分を草木が吸収し、それを食べた動物に吸収されます。
いわゆる食物連鎖ですが、そうやってはるか昔から生命は繋がってきたのです。

158 :7:2001/08/06(月) 23:17
>>156
>これを見ていて私は、「自然はそのままで美しい」と思いました。

これは私が仏教体系に見る美しさにある意味通じるものかもしれませんね。

私が精神世界に興味をもったきっかけの一つは、子供のころ遊んでいた山
が削りとられて宅地造成が行なわれたことです。まあ、山っていうほどの
ものじゃないですね。となりのトトロのような雰囲気を想像してもらえば
いいかな。白いコンクリートで固められたそれを見て、人間ってこういう
ことをする存在なんだなって悲しく思いました。

159 :名無しさん@1周年:2001/08/06(月) 23:18
じゃ熱水鉱床に住む、火山性のイオウ等をエネルギー源にする、バクテリアは
仲間はずれ?

たぶん、全生物の祖先はそういった生物から始まってるはずですよ。

160 :7:2001/08/06(月) 23:33
>>156
ただ、動物の世界っていうのは、実際は食うか食われるかの生存競争で、動物
達は絶えずビクビクしながら生きているのでしょう。恐怖というのも動物転生
のきっかけとされています。

人間も、先進国といわれるこの国に住んでいる私達でさえ、皆悩みをかかえ
ている。老病死というのは誰にでも平等に訪れる。でもだからこそ、苦しみ
と喜びというものの本質について比較しながら考えるチャンスがある。
地獄は苦しみ多く修業などする余裕はない。天は喜び多く修業する気がない。
仏教で人間の生は貴重であるといわれるゆえんです。

161 :黒海老:2001/08/06(月) 23:58
>>159
別にそんな事言ったつもりはありません。

>たぶん、全生物の祖先はそういった生物から始まってるはずですよ。

『寄生獣』と言う漫画をご存知ですか?
この中で「私は恥ずかしげも無く「地球の為に」と言う人間が嫌いだ。
地球で最初の生命は煮えたぎる硫化水素(猛毒)の中で生まれはそうだ」
と言う台詞がありますが、確か当時空気中に酸素がほとんど無かった為
生物は硫化水素をエネルギー源にしていた。(その頃の生物にとって酸素は猛毒)
酸素が増えるにつれ硫化水素よりも効率の良い酸素をエネルギー源にするようになった
と言う話から来ています。
どれが良いもので悪いものだと言う事は、人間が勝手に決めたと言う事でしょう。
それでも、人間は判断して選び取っていかなければならないと思います。

162 :黒海老:2001/08/07(火) 00:07
>>133
沢庵禅師は「動かずとは少しもとどまらない事だ」と言いました。
動かず(不動の境地)とは何かに固執する事ではない。
と言う事を言うのでしょう。。
ところで、釈迦がアートマン説を唱えていると言うのは始めて聞きましたが、
どの経典の話しですか?
原文を読んで見たいと思います。

163 :BM:2001/08/07(火) 00:42
>>162
横レス失礼致します。

>釈迦がアートマン説を唱えていると言うのは始めて聞きましたが、
>どの経典の話しですか?

中村元選集 第15巻「原始仏教の思想」(春秋社)P455-673を御覧
になられたらいかがでしょう。件の問題に、丁寧な論証を行っていら
っしゃいます。

164 :電柱|_ー)/^^ :2001/08/07(火) 00:46
「お釈迦様が偉い」に一票!
理由は、ウチがキリスト教では無く、仏教だから。
そんだけです。
お話の邪魔して、すいませんでし!
バイバ〜イ!

165 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 00:51
>ただ、動物の世界っていうのは、実際は食うか食われるかの生存競争で、動物
>達は絶えずビクビクしながら生きているのでしょう。
たとえば昆虫、彼らは恐怖なんて、哺乳類独特のおかしな感情は持って
ないだろうなあ。
もっと、生物として純粋です。
人間の側からだけ見て、他の生物をバカにするのは傲慢そのもの。

166 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 00:59
>>161 名前:黒海老さん
「寄生獣」はよく読んだけど、作者は、主人公に「後藤」を殺させた。
(多分、連載途中までは、とどめをささせないつもりであったろうに)
「後藤」を殺させた所に正しい「エコロジー」を感じましたが、
さて、なにか意見が違うのだろうか??

167 :黒海老:2001/08/07(火) 01:14
いや別に深い意味はなかったんです。
長々と書きましたけど

>じゃ熱水鉱床に住む、火山性のイオウ等をエネルギー源にする、バクテリアは
>仲間はずれ?
に対して、そんなつもりで言ったわけじゃない、と言いたかっただけです。
分かりづらくてすいませんでした。

168 :7:2001/08/07(火) 01:20
>>165
すいとん作ろうと思ってさ、小麦粉練ってお湯にいれたんだよね。
そしたら粉の中に蛆虫のようなのが紛れ込んでて、それが表面に
出てきて苦しそうにうねうねしてるんだよね。

そだね、昆虫ってのは哺乳類ほど複雑な感情はもってないかもしれ
ない(もってるかもしれない、甲冑をかぶった人間の表情がよくわ
からないように)。ただ、自己保存本能はあるだろうし、苦しみを
感じる能力はある。

だから、昆虫といっても地獄に近いかもしれないね。人間にも食べ
られないで苦しむ餓鬼の要素の強い人もいるのと同じように。

169 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 01:30
あの世ではイエスズとシッダルタは仲良くやっている。
クリスチャンと仏教徒が仲良くしてくれることを願っています。

170 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 01:32
>>168さん
昆虫、哺乳類、鳥類
現在の動物世界の中で、最も進化したもの達でしょう。
たとえば、全世界の核兵器がその、能力を最大限に発揮したとして、
人類は滅亡するでしょうが、昆虫類は絶滅しないでしょう。

昆虫が人類より劣っているといった見方は、多分間違いです。
進化するときにとった戦略が違うだけです。

171 :黒海老:2001/08/07(火) 01:39
>>170
ゴキブリは、はるか古代から生き延びてますしね。

172 :7:2001/08/07(火) 01:53
>>170
仏教というのはある段階までは階層構造を説くんですよ。最終的には
そこを離れるんですけど。

で、バカにしてるってことはないですよ。僕らだって地獄、動物の生
を数限りなくすごして来たはずだし、釈迦の高弟の一人は前世が地獄
だった。上のほうに出てたはずだけど、頭かち割られたって人です。

中沢新一がチベットかどっかで修業していたとき、正確には忘れたけど
生き物すべてが自分の母親だったっていう瞑想をしたそうです。で、その
あと屠殺場につれていかれて牛をほふる場面を見せられておもわず叫んで
しまったそうです。

173 :7:2001/08/07(火) 02:23
>>171
なんか黒海老さんらしくない突っ込み

174 :7:2001/08/07(火) 03:08
つまり

スレの主題はイエスと釈迦がどっちが」偉いかであり、その比較の前提
として仏教とは何かを話していたのではないですか。で、

>「安らぎは虚妄ではない(絶対である)」と言う事を理解するのに、こんな話があります。
>「暑い時、寒い時にはどうしたら言いでしょうか?」
>「暑いときは暑さになりきり、寒い時には寒さになりきる」洞山良介
>「心頭を滅却すれば火もまた涼し」禅僧快川
>「心頭滅却すれば…」と聞きますと「暑いものは暑いじゃないか」と思いますが、
>ここで言う「涼し」とは「熱くてもそれを苦に感じない」と言う意味です。
>こんな話を聞きました。
>ある徳の高い僧が末期ガンで亡くなったそうです。末期ガンとは激しい苦痛を伴うものです。
>ある人がその僧の弟子に「あの人とはいえ苦しんだのではないですか?」と問いました。
>すると「痛みは感じていても、それは苦しみではないのです」と答えたそうです。

こういう話をしていたのでしょう?

175 :7:2001/08/07(火) 03:13

>昆虫が人類より劣っているといった見方は、多分間違いです。
>進化するときにとった戦略が違うだけです。

これに

>ゴキブリは、はるか古代から生き延びてますしね。

というカキコで賛成しているのでしょ?

昆虫と人類との比較を進化とか適者生存のレベルなどでやっていません。

ゴキブリが

>「輪廻転生前の人と後の人は同じ人間ですか別の人間ですか?」
>「例えばある人が、一つの灯火から他の灯火へと火を点ずる時、
>灯火が一方から他方へ転移するのであろうか」
>「そうではない」
>「王よ、それと同じように、一つの体から他の体に主体が転移するのではなく、
>しかも生まれ変わるのです」

こんな会話はしなでしょう?その可能性もあるかもしれないっていわ
れたら黒海老さんに対する認識を誤っていたとしかいえませんが。

176 :黒海老:2001/08/07(火) 05:23
>>173
ゴキブリって生命力強いですね!と言う意味でした。
あまり深く考えないでください。

177 :7:2001/08/07(火) 05:28
>>176
失礼いたしました。

178 :黒海老:2001/08/07(火) 06:30
人間の体は約60億個の細胞から出来ていると言われています。
細胞は日々誕生と死を繰り返しています。
皮膚の表面の細胞は、三日毎の割合で入れ替わっている事をご存知ですか?
そして、細胞は全て食べた物から出来ています。
食べ物は基本的に生物(動植物)です。
人間の体は頭のてっぺんからつま先まで、全て他の動植物だったものなのです。

179 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 08:30
178
どうしたらいいですかーっ!

180 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 09:44
仏陀がお説きになった、教えは、
それ以上の教えもないし、それ以外もありません。
それは、絶対のものです。
例えば「人は必ず死ぬ」ということは、誰も反論できない真実です。
このように、真理というものは反論の仕様もない、唯一の真理なんです。
それは、最終地点に到達なさった、仏陀が最高の智慧と、純粋観照智によって、
残された、最高の教えです。

正しい、翻訳の仏典を、ただ実践すれば、悟り・解脱を得れるのです。

181 :考える足:2001/08/07(火) 10:04
>180

誰でも「人は必ず死ぬ」ということは承知していると思うよ。事実を事実として
認めることと、その事実に自分を委ねられることとは違うと思う。

人間が木石なら、「事実を事実として認める」ですべて済むでしょうが、人間は
そうはいかない。人間とは「自分が存在することを、直感的に感づいている存在」
(ハイデッガーの「現存在」)なのです。だから、死がこわい。木や石は、存在は
するけど、自分の存在には無頓着なのです。だから、死を恐れない。

修行で「唯物的思考」を徹底するのは、いわば人間を木石に貶めるだけで、仏道な
どとは程遠いものです。昨日、引用した六祖壇経で言うとおり、

>もし不動の行を実践するなら、それは無情のものの不動と同じことだ。
>もし真の不動を求めるなら、動の上にある不動こそがそれだ。

ということです。

182 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 10:21
>もし不動の行を実践するなら、それは無情のものの不動と同じことだ。
>もし真の不動を求めるなら、動の上にある不動こそがそれだ。
どういう意味でしょうか?あなたの解釈を御聞かせ下さい。

>修行で「唯物的思考」を徹底するのは
少なくとも、仏教やチベット仏教では、唯物的な修行はありません。
禅は、無我という教えですから、ニルバーナの経験が出来ないのだと思います。
釈迦は非我は説いてますが、無我は説いてません。
瞑想経験のない、後期の学者が、非我=無我と説いたのです。
釈迦は、アートマンの存在を認めています。
阿含経や、十二縁起は真我なしでは説けません。
アナートマンですと、釈迦の教え自体がなりたたないのです。

あなたは、十二縁起をどのように認識してますか?

183 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 10:32
>>166
後藤はあのあと復活して羽を生やして飛んでいくというシナリオもあったらしいよ。

184 :ななしさん:2001/08/07(火) 10:43
キリストは悟りを開けなかった。

キリストは仏教徒であるという
真面目な本もあるよね。外国人著者でちょっと立ち読みしたが、
良い本みたいだったが三千円くらいしたので、買わなかった。
給料もらったら買ってみよう。

185 :考える足:2001/08/07(火) 10:44
>182

「動の上の不動」とは、心が対象に従って動きつつ、それに囚われない
状態のことだと思います。沢庵禅師の言葉を借りれば、自分が切り結ぶ
相手の剣先のみに集中し、それを払えば執着することなく、次の剣先に
集中する。一本の剣先に執着すれば、二本目に斬られてしまいますし、
最初から執着するまいと目をつむっても、やはり斬られてしまいます。

>禅は、無我という教えですから、ニルバーナの経験が出来ないのだと思います。

「見性」こそが真のニルバーナだと思いますが。無我というのも、虚仮(こけ)
の自己を捨てるために立てた「仮の目標」にすぎず、無我に徹したあとに
真我に出会うというのが禅の教えです。

186 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 10:49
>>185 そんなに難しく考えなくても。

諸行無常なんだよ。悟りは。(一切皆苦でもいいけどね)。

口で諸行無常といってもダメで、剣の切っ先を付きつけられても
「諸行無常」と平然とできないとダメなんだけどね。

187 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 10:50
あ、悟りスレッドじゃなかったね。

188 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 10:52
>>185 だと、切られる切られ無いに執着しているよ。

本当に諸行無常を悟れば、切られても切られなくてもどちらでも良いはず。

189 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 10:53
無我=我が無常である、という意味です。

我が無いという意味ではない。

190 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 11:01
>>185
見性ってなんですか?

191 :通行人:2001/08/07(火) 11:03
>>189
じゃ五蘊無我ってどういう意味?

192 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 11:09
>191
五蘊とは、容姿と心の要素(感覚、イメージ、意思、意識)のこと。
それらは、全て無常であり、変わりゆくものなので、
本質的な我ではない、という意味です。

>189
>>182を参考に考えてください。

193 :191:2001/08/07(火) 11:13
>>192
とは思うけど189が
>無我=我が無常である、という意味です。我が無いという意味ではない。
といっているから彼の見解を聞きたいのです。

194 :192:2001/08/07(火) 11:23
>191
すみません!出すぎた真似をしました。
ただ、189には答えられない質問だと思いましたので。

195 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:32
>>191 五蘊無我なんて言葉あるの。五蘊皆空でしょう?

196 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:34
五蘊が、全て無常であり、変わりゆくものなので、

我が無常である、


どう違うの?移り変わるというのと無いというのは別でしょう?

197 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:36
我はあるんだけど、空=移ろい行くもの=無常=変わり行くもの

であり、
これを、無我というんですよ。我が無いという意味じゃあない。

198 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:36
無我=恒常的なアートマンは存在しない

199 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 12:37
>>195
ん、ん?
皆空?何宗の言葉ですか?
仏典にはそんな言葉ありませんが。。。

200 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:38
五蘊=我 かどうかは、色=心 かどうかで

これは、お釈迦様でも答えない無記じゃなかったのかしら?
(一応、五蘊=我 として上のコメントは書きました)

201 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:39
>>199 般若心経読んでごらん。最初に出てくるから。

202 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:40
かんじーざいぼーさ、ぎょーじんはんにゃはらみたじー。
しょーけん、五蘊皆空。じゃなかった?間違ってたらスマソ。

203 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:42
問題はあるけど、一応、五蘊=我 と考えたら

五蘊無我=我無我 だからおかしいでしょう?
五蘊皆空=五蘊(我の五つの要素は)すべて空 だから文法が通る。

204 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:44

般 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
   呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
  波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
  羅   真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
  羯   実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
  提   不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
      虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
  波   故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
  羅   説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
  僧   般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
  羯   若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
  諦   波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
      羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
  菩   蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
  提
  薩
  婆
  訶

205 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:45
ずれた!sage

206 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 12:48
>>203
非我論と無我論があるのはご存知ですか?非我論にたつと192の
見解も導けるのです。あと130も読んでみたらどうでしょう。

207 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:54
>>206 私は、アートマンはあるが、それは空である(恒常的な存在ではない)
という論を取っているのです。

アートマンは無い=無我とは取ってません。アートマンが無いのなら
宗教は要らないでしょう。私はそう言う論者(というほどでもないが)
だということです。

208 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 12:56
まあ、般若心経には、五蘊皆空と書いてあって。五蘊皆無とは書いていませんからね。

空というのは、条件に応じて相が変わることです。諸法実相の相です。

209 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 12:58
>205
だから、五蘊は我じゃないんだって!
なぜわからん??
五蘊は無常だから、本当の自分ではないの。
あと、般若心境は、パーリ語の音に日本語(漢字・中国語)をのせただけだから、
その漢字だけで読むと間違ってるの。

たとえば、あなたの言うお経はね、「はんにゃはらみたじー。 」
漢字では「般若波羅蜜多」ってなってると思うけど、
そのハラミタは、パーリ語で、「徹底、極限、限界」という意味なんです。

それで、音を合わせるために、関係ない漢字まで入れたりしてるから、
お経はありがたいもの、と思ってただ単にお経をあげるのは、日本人の一番悪いところだと思うぞ!

210 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:00
>>192 五蘊とは、容姿と心の要素(感覚、イメージ、意思、意識)のこと。

まちがっているよ。五蘊は、色、受、想、行、識。

色(しき)は肉体の物質的な構成成分。(色香とか容姿じゃない。)

受、想、行、識は心の要素で良いけどね。

211 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:04
>>209 五蘊は我じゃないんだって

五蘊は、色、受、想、行、識 = あなたの心と身体。

あなたは、心と身体じゃないの?

心と身体から離れた所に「我」があるなら、それで良いけど。
私は わたしの我=わたしの心と身体 だと思っているよ。

212 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:04
ずっと下がってた。上げます。

213 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:10
初期仏教と大乗仏教の接点である般若心経。

その中に、五蘊以外に「我」という単語はあるかな?

注意;色、声、香、味、触、法;六入の色は五蘊の色とは別物です。
また、六処、六入が我だなんて言わないでね。

214 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:11
「我」を意味する単語はあるかな? に訂正。

215 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:14
>210
色は、確かに肉体ともいえます。
しかし、そのことを、仏典では形状ー容姿と表現します。
たぶん、私の解釈では、肉体も、また着飾ったりしたもの全ても、という意味だと思います。

>211
五蘊は我じゃありません。無我です。
私の心と体は、私の本質ではありません。
全て無常だからです。
前世では違う自分を演じ、また来世では違う自分を演じます。
ですから、今ここにいる私は、色々な業の集積で、存在してるだけで、
我は真我だと思っています。

216 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:15
「輪廻する葦」は阿含宗桐山師の代表的著作です。

以上のコメントはすべて受け売りでした。おわり。

HN;輪廻する葦は、これにて消えます。でわ。

217 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:16
>>210
192はそういいたいのですよ。言葉の使い方の問題。192の言葉が若干たりないだけ

普通の人は(もちろん悟っていない私達を含めて)五蘊を我と錯覚しています。
えーと五蘊無我という言葉はあります。無我とする人と非我とする人がいます。
で私は非我説です。その意味で五蘊皆空というのは正しい。そして
五蘊は我ではなく真実の我は別にあるというのが私の見解です。

このように見解がいろいろあったら、仏典の読み方がいろいろ
あったら何が本当なのだろうかという話になるじゃないですか。
別スレ「悟りってどういう状態?」でのあなたの717はやはり茶化しです。

輪廻する葦さん、細切れに投稿しないで、もうちょっと練ってから
まとめてカキコしてもらえませんか。

218 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:17
>>215 それを五蘊皆空というんですよ。本当に、ではこれで失礼。

219 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:17
諸行無常
一切皆苦
諸法無我
涅槃寂静

佛教の基礎原則

220 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:18
>>217 通りすがりで申し訳ありませんでした。またの機会にね。

221 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:20
上の三つが、三法印?とか言うんでしょう。涅槃寂静がゴールね。
仏教はそれに尽きるけど、後は、方法論ですね。

222 :輪廻する葦:2001/08/07(火) 13:24
いろはにほへと、ちりぬるを(諸法無我)
わかよたれそ、つねならむ(諸行無常)
ういのおくやま、けふこえて(一切皆苦)
あさきゆめみし、えひもせす(涅槃寂静 )

223 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:33
>>217
「真実の我」の存在を想定すると仏教以前のブラフマニズム
に陥ってしまいます。
 仏教で説く「我」とはあくまで実体なき現象、あるいは作
用としての「我」ではないかと思うのですが。

224 :217:2001/08/07(火) 13:37
>>223
すみません。出かけますので帰ってからお答えしたいと思います。

225 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:37
>223
現象は実体があるので、現象だと思います。
仏教でも、真実の我に触れてます。
それがないと、成り立たない教えがたくさんあります。

226 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 13:57
>>225
 あらゆる現象は何らかの実体から発生するのではなく、無数の関係
の連鎖(縁起といってもいい)から生じてまた滅するものだと、ブッダ
は説いたと認識しています。
 実体を立てないと成り立たない教えとはいったいどんなものでしょ
う?興味があります。

227 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 14:22
ここで論争する奴は戦争好きな奴だな
ものの見方が根本的に間違えてるぞ
(まぁ〜宗教に毒されてるから仕方なかろうが・・・)

228 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 14:32
>>227

229 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 14:33
>>227
どのように間違えているか具体的にあげてもらえませんか?

230 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 15:44

輪廻する葦さんへ

自分の考え(=桐山師の受け売り)を主張することに専念せず、
他の人が何を言いたいのか理解する努力をしましょう。
違う言葉をつかって同じ事をいっているかもしれません。
同じ言葉をつかって違うことをいっている場合もあります。

あなたの書き込みは自分の言いたいことだけをわめいているように感じます。

231 :223:2001/08/07(火) 16:08
さて本題。
 ブッダは「解脱・涅槃」に至る「道」を説いた。
 キリストは「天国」に向かう「信仰」を説いた。
これが両者の重大な相違点。

232 :140:2001/08/07(火) 16:22
あの、ちょっとだけ、いいですか。

>>231
>キリストは「天国」に向かう「信仰」を説いた。

そうでしょうか?
イエスが最初に語った言葉は、「神の国は近づいた」です。
(マタイ4,17、マルコ1,14)
神の国、もしくは天の国と訳されている言葉は、「神の支配する領域」という意味です。
つまり、いわゆる「天国」とは、先ず私たちに近づいて来るものであって、
こちらが「そちら」に向かって行く、というものではない、と読むことができます。
そして、信仰をもってこれを受け取る、という風に読むのが普通だと思います。

以上、「両者の重大な相違点」として論ずるには、ちょっと…と思いましたので。
大変失礼いたしました。

233 :変人:2001/08/07(火) 16:42
なにか柱をたてませんと宗教になりませんね。
実体はなにか・・これは「我」にもってかないと宗教じゃないですね。
「一念三千」の法理により、一瞬一瞬変化する「我」。
そこから派生する「縁起」>>現象となると思うんですが。
私は、仏教徒でないので、そのへんは皆様の方が詳しいんじゃないんですか。

234 :黒海老:2001/08/07(火) 16:47
>>222
いろはにほへと、ちりぬるを(諸行無常)
わかよたれそ、つねならむ(是生滅法)
ういのおくやま、けふこえて(生滅滅已)
あさきゆめみし、えひもせす(寂滅為楽)

だったと思います。
「…弘法大師の作と信じられていたが、実はその死後、平安中期の作。」広辞苑より

235 :223:2001/08/07(火) 17:12
>>232
慌てて打ち込んだので舌足らずで申し訳ないです。
天国に向かう×
   ↓
「神」に対する○
に訂正します。
失礼!

236 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 18:04
>>223

欲界は全て幻影だと言うことも出来ます。
平安の状態にあった真我が、自性の干渉を受け、(科学・物理学の見解ではこれがビックバンだと思います。)
十二縁起にあるように、一部の魂が無明によって落下しました。
もともと、真我というものは一つであり、全てであり、それ以上もなければそれ以外もない、
絶対的な真理だったにも関わらず、この時に、自と他の区別が起こりました。
そして、自と外界の差異によって、楽しみを求めるようになりました。
つまり、この時に、喜びや自由というものが、絶対的なものから、相対的なものにかわっていきました。
欲界、色界、無色界は、一部の魂が、エゴによって作り出した世界ともいえます。
本質は、真我です。よって、罪を犯す魂がいなくなれば、地獄は消滅するのでしょう。

237 :223:2001/08/07(火) 18:32
>>236
う〜む^^;
仏教の術語を用いてブラフマニズムを解説したように読めます。

 ブッダは無我(非我)説に基づき常住不滅の実体や、霊魂の実在に関して否
定的なコメントを多く残しています。形而上学的な問題に対しては「捨置」あ
るいは「無記」という一貫した態度を取ったようです。

238 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 18:53
霊魂の存在は、六道でいうと餓鬼だと思います。
修行により、五蘊の形成が人間の五蘊から神々の五蘊に近づいたら、当然神通もつくでしょう。逆に餓鬼を形成する五蘊、つまり貪りを背景とした五蘊の構成をすると、当然霊魂が見えてしまったりはするでしょうね。
しかし、魂は輪廻してますから、死んだ母がの霊魂が誰かに乗り移るということはありません。
霊能者もいたこも嘘でしょう。

また、ニルバーナや真我は一元なので説明のしようがなかったようです。
高弟が質問したら、それは聞いてはならぬ、と答えてました。
二元論ではないのです。自分で修行して経験しなさい、ということなのでしょう。

ヨーガ理論によると、欲界(熱優位)とアストラル世界(音、振動優位)、コーザル世界(光優位)の三つに分かれていて、
この三つは連動している、コーザル世界で想念が生じた後、アストラル世界にそのイメージがあらわれ、その後、欲界に事象が生じると言われる。
逆にいえば、時間をさかのぼることが出来れば、アストラル、コーザル世界に到達できると言うことです。
この推論も、ビッグバン理論と一致します。光同士の衝突があり、振動とともに、光から素粒子になる中間の状態を経て、素粒子が出来、同時に熱が放出された、という理論に。

239 :223:2001/08/07(火) 20:13
>>238
なんか話題が拡散してきた^^;
仏教の話ならともかく、「ヨーガ理論」となるとなにがなんやら・・・。

ブッダは
一切=十八界 眼・耳・鼻・舌・身・意 (感覚器官)
       色・声・香・味・触・法 (その対象)
       眼識・耳識・鼻識・身識・意識 (その認識)
つまり、上記の十八の要素が一切を構成すると説いたと認識して
います。確か『サンユッタ・ニカーヤ』に記されていたと思いま
す(手許に資料がありませんが)。したがって論証不可能な形而上
的空理空論に関わって、徒に時間をするより眼前の苦悩を克服し
て速やかに涅槃に到れというのがブッダの真意ではなかったかと
考えます。(また慌てて書いた^^;)

240 :223:2001/08/07(火) 20:15
また訂正
 時間をするより×
 時間を浪費するより○

241 :223:2001/08/07(火) 20:17
箸休め

  色ごともすめば即ち是れ空し

242 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 22:09
age

243 :7:2001/08/07(火) 22:43
>>237
>仏教の術語を用いてブラフマニズムを解説したように読めます。
あらゆる宗教を一つの流れとして捉えようとしている私にとっては興味深い
ところです。

>ブッダは無我(非我)説に基づき常住不滅の実体や、霊魂の実在に関して否
>定的なコメントを多く残しています。
これと

>形而上学的な問題に対しては「捨置」あるいは「無記」という一貫した態度を
>取ったようです。
これは矛盾かなと思います。捨置と否定的とは違うと思います。

ブラフマンは創造主でもあるわけで、キリスト教とのからみをいろいろ想像
したいところです。

244 :名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 23:35

             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ,__     |      キリスト教徒が来ますように…
    /  ./\    \____________________________
  /  ./( ・ ).\       o〇      ヾ!;;l;::lilii|//"
/_____/ .(´ー`) ,\   ∧∧         |;;l;;::|liii|/゙
 ̄|| || || ||. |っ¢..|| ̄  (,,  ) ナモナモ    |;;l;;::||iii|
  || || || ||./,,, |ゝ iii~   ⊂  ヾ..        |;;|;l;::i|ii|      (○)
  | ̄ ̄ ̄|~~凸( ̄)凸 .(゙  ,,,)〜 wjwjjrj从jwwjwjjrj从jrヽ|〃

245 :黒海老:2001/08/08(水) 00:00
釈迦が「功徳を積めば来世で幸せになれる」と言ったのは、一種の方便なのではないかと思います。
いきなり「欲を捨てろ」と言ったらきつ過ぎるので、とりあえず幸せのために功徳を積みなさい
と言い、ある程度心の下地が出来た所で本格的に説法するわけです。
準備運動のようなものでしょう。
だから、言動にある程度の矛盾が生まれるのではないかと考えています。

246 :223:2001/08/08(水) 01:05
>>243
 仰るとおりです。古い経典とされるものを読んでも矛盾した内容が
雑然と記されています。^^;しかしどうやらブッダ自身は煩瑣な思想
体系を築くつもりはなく、相手の状態に応じた「対機説法」あるいは
「次第説法」で苦を除くことを重んじていたようです。したがってあ
る程度の矛盾も「善巧方便」として解釈できると思います。
 仏教はその初期においては、宗教というより実践哲学の性格が強く、
ブッダとその弟子、あるいは帰依者たちとの関係は「教祖と信者」と
いうより「カウンセラーとクライアント」といった印象を持ちます。

247 :7:2001/08/08(水) 02:29
>>245
>>246
 223さんは黒海老さんと似てるなー。赤海老さんと呼びたくなってしまう。
神・魔・等を思索の枠外に置いてしまうから、矛盾が生じてしまうのでは?
両者にお願いしたいのですが、矛盾点というのを一つ挙げていただけませんか?

248 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 08:19
>>239
仏教でビッグバンの説明がつき、ヨーガ理論でもビッグバンの説明がつくので、
色界=アストラル、無色界=コーザルという推論が成り立つのでは、と思ったのです。

>>243
私も宗教は一つだと思っています。
キリストは仏教の途中段階の悟りと同じ体験をしてると思うのです。

249 :140:2001/08/08(水) 09:07
今日の「ちょっとだけ」(^^;

釈尊と比較する場合、キリストではだめだ、と思います。
仏教の場合、釈尊の「個人的な体験」が、もとになって、出発していると思いますが、
キリスト教の場合は、イエス・キリストの個人的な体験が出発点ではなく、
むしろ、キリストの復活体験をした十二使徒(特にペトロ)、
そして、ユダヤ教の教義から、独特の贖罪論を発展させたパウロの神学、
この両者の神学の上に、キリスト教神学が構築されている、と見られるからです。
ですから、釈尊と比較するなら、むしろペトロやパウロといった、
使徒たちと比較する方が、良いのではないかと思いました。

さらに、仏教とキリスト教とでは、世界観がまるで異なります。
そこらあたりから論じないと、お互いに山と海の話で論じているようなことにならないでしょうか?

浅学の者が、失礼をいたしました。

250 :ななしさん:2001/08/08(水) 11:57
キリスト教を論じるには、キリストを論じても仕方が無いという、ご託宣。

251 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 13:11
>>249
>さらに、仏教とキリスト教とでは、世界観がまるで異なります。
>そこらあたりから論じないと、お互いに山と海の話で論じているようなことにならないでしょうか?

キリスト教は仏教の一部の世界観だと思っています。
例えばキリストの最高の教え慈悲は仏教では、梵天まで到達できる教えです。
喜や捨まで実践すると、それ以上の世界に転生します。

252 :140:2001/08/08(水) 13:14
>>251
そのように思われるのはご自由ですが、やはり、異なると思います。
ではお尋ねしたいのですが、仏教では、「世界の始まり」を、どのように考えているのでしょうか?

253 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 13:20
非我、無我と色々な説がありますが、私は非我説が正しいと思っています。
アートマンの存在を肯定してます!

仏教では世界の始まりどころではなく、宇宙の始まりから始まります。
それは、ビッグバンを、このスレに仏教理論とヨーガ理論に照らし合わせ、書いてます。
読んでみて下さい。

254 :140:2001/08/08(水) 13:29
>>253
レス、ありがとうございます。すでに読ませていただきました。
私が、舌足らずだったようですね。

旧約聖書創世記第一章一節
ベレシート バラー エロヒーム エット ハシャマイム ヴェエット ハアレツ
これは、ヘブライ語ですが(カタカナ表記。ここにはヘブライ語が書けないので)、
この中にあるハシャマイム ヴェエット ハアレツ をもって、
全宇宙を指しています。(日本語の聖書では、天と地と訳されています)
世界の創造に関して、三位一体の神がかかわっていると。
世界には始まりがあり、終わりがある。そして、始まりから終わりに向かって、一方向に流れているのであって、
輪廻の世界観は、聖書にはありません。
(時間概念については、ギリシャ語のカイロスとクロノスの議論がありますが、今は止めておきます)
これだけでも、世界観が全く異なる、と思いますけれど。

255 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 13:34
>154
ええ、だからキリスト教は仏教の一部分でしかないんです。
輪廻も中途半端に一回きりありますよね。

天国と地獄。動物はどこからきてどこへ行くのですか?
地獄へ落ちた魂は二度と這い上げれないのですか?

わたしが行ってた教会だけかもしれませんが、かなりはちゃめちゃだったもので。

256 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 13:36
>世界には始まりがあり、終わりがある。
仏教にもこのような考え方はあります。
宇宙の創造、維持、破壊。
それを繰り返してるのです。

257 :140:2001/08/08(水) 13:42
>>255
>輪廻も中途半端に一回きりありますよね。

いえ、全くありません。
一体、どこを指してそういわれるのか、教えていただけますか?

動物はどこから来て、どこへ行くのか。
これ自体が、きわめて仏教的な発想だと思います。
聖書には、そういう発想そのものがありません。
動物も、被造物です。創られたものであり、そして、いなくなってしまうもの。
天国と地獄ですが、これは死んでから行くべきところ、という以前に、もっと大切な意味をもっています。
天国とはつまり、「神の支配領域」を指すわけです。
このことについても、詳しくお話すると、とても長くなってしまいますが。

地獄に落ちる、というのは、これもまた仏教的な発想だと思います。

どうやら、255さんが行っておられた教会というのは、かなりめちゃくちゃな
教会だったような気がして来ました。

258 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 13:54
>140

死んだ後、天国か地獄に行くという発送を
1回きりの輪廻という、私の言葉で表現してみました。
あのー、根本的な疑問ですが、生まれた時、難民として生まれてしまう人や、
お金持ちに生まれてしまう人、このような差はなぜつくとお考えですか?

259 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 14:01
聖書には、仏教の瞑想体験と同じようなことが多く記されています。
「キリスト」は仏教徒だった、という本を紹介していた方がいらっしゃいますが、
わたしも同じ見解です。

結局、キリスト教と仏教、全く違う教義だったらどちらかが偽者になるのです。
宗教は本当は一つのことを言いたいのだと思います。
仏陀もキリストも偉大な聖者ですから、どちらかがペテン師ということはありえません。
そこで、仏典と聖書を研究し、自分の瞑想体験と合わせ、結局同じことを言いたかったのだと思いました。
しかしながら、修行のレベルや悟りは、仏陀がかなり上だったと思います。

260 :140:2001/08/08(水) 14:41
皆さんと、有意義なお話をさせていただいて、感謝いたします。
ただ、仕事の合間を縫って、お話を読ませていただいてますので、レスが遅れますが…

>>256
まさに、そういう「繰り返す」という考え方が、聖書にはありません。
それで、「世界観が異なるのではないか」と、申し上げた次第です。

>>258
死んだあと、天国か地獄…私は、聖書からそういう教義は読めませんが。
死んだあとではなく、最後の審判のあとで、「神の国を受け継ぐ者」と、そうでない者とに分けられる、
という考え方だと思います。

人はなぜ、そのような境遇に生まれてくるのか。この疑問は、仏教では見事に解決していますね。
一見すると、キリスト教ではそこまで語っていないかのようにも見えますが、実は、それに言及されている聖書の個所があります。
問題は、「近代以降の人間」が、それを受け入れるかどうか、にあります。
簡単に言うと、例えば生まれつき盲人の人は、その人自身に原因があるのではない、と。
あるいは、親兄弟に原因があるのでもない。
「神の栄光が現れるため」である、というのです。
この意味については、また別の機会に。

261 :140:2001/08/08(水) 14:44
>>259
私は、やはり世界観に引っかかってしまいます。
つまり、もしキリスト教が仏教の一部なら、キリスト教(あるいは聖書)が指し示す神を、
仏教は認めるでしょうか?認めないのではないでしょうか。

瞑想と祈りとは、やはり区別すべきだと思います。
カトリックの方々がなさる瞑想は、やはり祈りとは区別されていますし。
聖書には、仏教的な瞑想を示す、明確な個所はありません。
むしろ、祈りについて、多く言及されている、と思います。

262 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 14:50
140さん、仏教とキリスト教は確かに異なります。しかし、似ている部分があるのです。
そして、仏教を学ぶものとして、キリスト教は仏教の一部分にしか見えないのです。
ですから、異なるものですが、同じところもあるのです。
最後の審判に近い教えも、仏教にはあるらしいです。

私から見ると、仏教は全て理論的に説明がつくと思うのですが、
キリスト教は、大事なところを「神が・・・」となりますから。
神の存在を信じていますが、キリスト教の教えが正しいのならば、
みんな幸せじゃないとおかしいと思うのです。

263 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 14:50
あのー。。。「キリスト教に文句2・・・」に、こんなことが書かれてありました。

(どうも神は{へりくだりのパラダイム・シフト}らしいです)

「たとえばきみは、愛する者を、自分の命を奪う者にさえ、赦し、愛し、待ち 
つづける、なんてことが、理屈ではなく、人間に可能だと、ほんのちょっとで
も信じられるかい? 創造主とは何か? 人間、いや、あらゆるものを創った
「サムシング・エルス」だろう? きみのために、ただ、愛し、赦し、喜んで
死んでくれる者・・・・それが神だ。創造主なんだよ。主イエス・キリスト」
     

264 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 14:57
>263
うん。それも神。
でも仏教の神はもっとすごいんだよ。

265 :140:2001/08/08(水) 15:04
>>262
一体どなたと話をしているのか、分からなくなってしまった(^^;
はい、似ている部分はありますね。
でも、似ているということは、異なっているから似ている、というのではないでしょうか。
同じなら、似ているとは言いませんから。(言葉の遊びみたいで、すみません)
私の知り合いの牧師に、もと僧侶がいます。
彼に言わせると、やはり全く異なるものだそうです。
第一、神概念が全然違う。
私は、両者が違う、別物だ、ということから出発しないと、正しい比較はできないと思いました。

>>263
ありがとうございました。
でも、率直に言って、私はこの文章、おかしいと思います。
なぜなら、ここに見えるのは、いわゆる「天父受苦説」といって、
古代の教会で異端とされた思想が、見えてしまうからです。

266 :通りがかり:2001/08/08(水) 16:04
>140さんへ

キリスト教と仏教の比較については、八木誠一さんがライフワークとして研究さ
れています。古本でしかもはや手にはいらないのですが、以下の本はお勧めでき
ます。

『キリスト教は信じうるか』、『キリストとイエス』(いずれも講談社現代新書)

これらを一読されれば、262さんの

>仏教を学ぶものとして、キリスト教は仏教の一部分にしか見えないのです。

という感覚がおわかりになるでしょう。

267 :223:2001/08/08(水) 16:38
>>7 経典の矛盾点では、輪廻説を受け入れながら無我(非我)を説いた
  事があげられます。しかし輪廻説という当時のインド地方における
  強固な土着信仰の否定を前提として教えを説くより、輪廻=苦の一
  つ、という観点から、苦悩からの開放の道を教えて解脱に到らせる
  という、より効果的な教化の方法を採ったのだと考えます。解脱涅
  槃に到れば輪廻の観念も無化され、輪廻説からの開放も実現される
  わけですから。

268 :7:2001/08/08(水) 17:17
スレの主題に関わる議論になってきましたね。

日本に生まれたキリスト教徒の役割は、キリスト教に輪廻転生、因果応報の
概念を受け入れさせること(or復活させること)ではないかと思っちゃった
りします。

キリスト教は輪廻を受け入れた方がすっきりすると思います。外典とはいえ
それを暗示する教えがあったと、148で考える葦さんが紹介してくれています。
その他受け入れた方がいいと思う理由を思いつくままに挙げると

キリスト教的神はイエスを贖罪のために「遣わした」のである。そしてイエス
は神のもとに召された。つまり、少なくとも、A→B→Aという移動は可能なこと。
(続く)

269 :268の続き:2001/08/08(水) 17:21
生まれつき算数が好きな子と、何となく拒否してしまう子がいる等個人の性癖の
問題。

前世を思い出す子供達という研究書がでるほどその類の話があること。実際に
検証可能なケースがいくつか報告されていること。

家に来たEの証人(Mの塔?私、区別つかないんです。キリスト教的という言葉を
使ったら聖書的と訂正されてしまった。もしかしたらキリスト教じゃないの?)
と話したとき、彼らの「地上に天国が現れるが神を信じないものは滅ぼされる」
という教義に対し、「キリスト教とは全く縁のない環境で生まれ育った者にあな
たは神を信じなかったから滅びますといえるのか。輪廻、因果応報という概念を
用いないでどのように説明するのか」と質問したら、彼女達は答えられなかった。

270 :7:2001/08/08(水) 17:30
>>267
223さん、申し訳ないのですが、できたら経典から具体的な一節を
抜き出していただけませんか?

>輪廻説を受け入れながら無我(非我)を説いた事があげられます。
私はこれを矛盾とは思えないのです。

271 :223:2001/08/08(水) 17:32
>>7 続きです
 経典の中には、過去世の事柄を説いて現在の状況を説明している
場面が多く見られます。それらをよく読んで見ると、ブッダは現状
と同じ事態が過去に起こったという論法を用い、教えを説いていま
す。これらも説法を効果的にするための一種のレトリックであった
と思われます。こうした論法は仏教に限らず、古代インド文学に特
有の常套的修辞法であったと書名は失念しましたが読んだ事があり
ます。
 仏典もそうですが、時代も地域も風土も遠く隔たったところに成
立したものを読んだり解釈したりするとき、彼我お互いの差異の大
きさを認めた上で、共通する普遍的な要素を抽出して理解すること
が要請されます。そうでなければ、仏教思想も原理主義的ドグマに
縛られるか、あるいは古代インドの遺跡となってしまい、我々に何
の智慧ももたらさないものと成り果ててしまいます。ブッダもそん
なことを望んで教えを説いたのではなかったはずだと思います。

272 :7:2001/08/08(水) 17:38
>>271
あ、やはり具体的な経典は挙げていただかなくて結構です。
今反論を推敲しているところなのでしばしお待ちを。

273 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 18:00
>>270
7さん、私も矛盾とは思いません。

私の解釈では、非我は五蘊や、エゴ、煩悩は我に非ず、といってるだけだと思います。
真実の我はアートマンであると。

274 :名無しさん:2001/08/08(水) 18:10
>>273
真の我はアートマン?そらちがうだろう。

275 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 18:18
>274
真の我は何?

276 :223:2001/08/08(水) 18:29
>>7
長いものは書き込みが大変なので
『ダンマパダ』(法句経)より
 277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧
   をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ
   人が清らかになる道である。
 278「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧
   をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ
   人が清らかになる道である。
 279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧
   をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ
   人が清らかになる道である。

 という根本原則が示されます。ところが

 126 或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕ち、行いの
   良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。

 と来世の果報を説きます。(全き安らぎ=涅槃も説いていますが)

 153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
   ―家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて―。
   あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 154 家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を造る
   ことはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまっ
   た。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
      (岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳)
     *家屋=自我 作者=妄執
 という輪廻説の受け入れとその無化が行われます。

277 :223:2001/08/08(水) 18:33
>>7
 折角打ち込んだのに・・・(^^;)

278 :7:2001/08/08(水) 18:35
>>163
BMさん

>>釈迦がアートマン説を唱えていると言うのは始めて聞きましたが、
>>どの経典の話しですか?

>中村元選集 第15巻「原始仏教の思想」(春秋社)P455-673を御覧
>になられたらいかがでしょう。件の問題に、丁寧な論証を行っていら
>っしゃいます。

中村さんは結局のところ、どういう見解なのですか?本当は本読めばいいのだ
ろうと思いますが、ちょっと教えていただけると有難いです。

279 :7:2001/08/08(水) 18:37
>>277
ごめんなさーい。でもカキコしていただけるのなら、そちらのほうが
有難いです。

280 :名無しさん:2001/08/08(水) 18:46
>>275
常駐・単一・主宰としてのアートマンを否定するのが仏教でしょう。
仏教は我を諸要素の集合として扱っている。

281 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 18:57
>>280
アートマンを否定するのが仏教?

これは完璧間違ってます。
もっと仏教を勉強して下さい。
上で紹介されてる、中村元選集でもいいですから。

後期の瞑想経験のない学者が、理解できなくて無我にしちゃったんです。
非我です。

282 :7:2001/08/08(水) 19:05
>>276
>という根本原則が示されます。ところが
>或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕ち、行いの
>良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
>と来世の果報を説きます。(全き安らぎ=涅槃も説いていますが)

これは明らかに段階です。例えば夫婦関係ですが、無常であって、
苦しみであってなどといわれても本当に執着し合っている者達は
わかっちゃいるけどやめられないって感じでしょう。実際問題
在家と出家の別があったわけだし。

よって解脱できる者はしなさい。でもそこまで出来ない人は天界
へ行きなさいということです。(続く)

283 :223:2001/08/08(水) 19:09
 ブッダは行為の主体としてのアートマン(自己)いわば普通名詞としての
アートマンを否定しなかったと思いますし、こうした実践主体である自己
をよく制御して怠ることなく修行するように、積極的に説いています。ブ
ッダが否定し思考から排除したのは、従来のブラフマニズムに基づく常住
不滅の実体としてのアートマン(真我)だったのだと考えます。

284 :282の続き:2001/08/08(水) 19:27
>>223さんへ
>わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
>―家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて―。
>あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

>家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を造る
>ことはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまっ
>た。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

>という輪廻説の受け入れと
●確かに輪廻を肯定しそれが苦しみであるとの認識が示されています。

>その無化が
●無化が大辞林でヒットしないんだけど、否定と捉えていいのか、無意味化
とでも理解すればいいのか・・・まいずれにしろ、「輪廻を繰り返して苦しんで
きた。その原因である妄執の正体(本質)を理解した今もはや輪廻すること
はない。」と読めるので何の矛盾も感じません。

285 :名無しさん:2001/08/08(水) 19:37
>>281
(゚Д゚)ハァ?
中村元も同じ説をとってるよ。とりあえず、中村元も編者に
加わっている岩波の仏教辞典で調べてみたまえ。

286 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 19:41
>285
中村元よんでもそう思ってるの?
アタタタ

287 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 19:44
>283
縁起の法の見解をお聞かせ下さい。

288 :ななしさん:2001/08/08(水) 19:46
恒常的な存在としてのアートマンは無い=無我(非我でもどちらでも同じ)
アートマンは移ろい行くもの。
涅槃に入ったアートマンは私達には理解できない存在。
それを真のアートマンと呼びたいならば呼んでもいいが。

289 :名無しさん:2001/08/08(水) 19:51
>>286
はいはい。じゃあ、引用すりゃいいんだろう。

『ブッダの人と思想』(中村元 田辺祥二  NHKブックス)より

「仏教は古来『諸法無我』といい、すべての存在は実体なきもので
あるという存在論を展開してきましたが、原始仏教の時代において
は、『我(アートマン)にあらざるもの』つまり『非我』が主とし
て説かれています。『我(アートマン)は存在しない』つまり『無
我』が説かれ、仏教を無我説として特徴づけるのは時代が下がって
からであります。非我も無我もブッダの時代から一体として説かれ
ていたものが、時代がたつにつれて微妙なニュアンスの違いを生じ、
日本においては我なしの無我は、自己のすべてがなくなることであ
るとの誤解が生じています」

で、誰がアートマン説を取っているって?

290 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 19:51
>288
無我と非我では全く意味が違います。

涅槃に入ったアートマンというか、アートマン=涅槃の状態だと思います。
魂が涅槃してアートマンと合一する、というか、業、五蘊から開放されたら、
アートマンしか残らないと思います。

291 :黒海老:2001/08/08(水) 19:53
しばらく見ないうちに沢山のカキコが…
とりあえず
>>247
矛盾と言うのは言い過ぎたかもしれません。
全部の話しを同じ視点(レベル)で見ると、多少疑問に思う個所があると言う事です。
「過去にも未来にも執着するな」と言ってるのに「良い来世の為に功徳を積め」
などと言っている所や、これは本当に釈迦が言ったかは分かりませんが
「聖者をそしると地獄に落ちる」などと脅しとも取れる個所がある事です。
あとこれは釈迦が言った話ではないのでちょっと違いますが、釈迦が生まれた時仙人が来て
「この人は人間の中で最高のかたです。最高の悟りに達するでしょう」などと言ったといいます。
釈迦は「生まれを問うな。人間は生まれながらに分別は無い」と言っているのにです。
これはおそらく後世の人間の創作でしょう。
後に大人物になった人の逸話としてはありがちの話ですから。
劉備玄徳も幼少の頃占い師が「この子供は後に大人物になる」と言った話が残っていますが、
信用できる話ではないとされています。

292 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 19:55
>289
>『我(アートマン)にあらざるもの』つまり『非我』が主とし
>て説かれています。
長々書いていただきましたが、この部分が中村元の言いたかったことです。
これは、まさにアートマン説です。

293 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 20:02
>『我(アートマン)にあらざるもの』つまり『非我』
アートマン以外は、無常であり、幻影で、本質の我ではない、ということです。
289は「日本においては我なしの無我は、自己のすべてがなくなることであ
るとの誤解が生じています」を間違いですよ、と提示しているのに肯定してしまったんだと思います。

294 :名無しさん:2001/08/08(水) 20:03
>>292
はいはい。もうちょっと引用してみましょうね。同じ本から。

「非我あるいは無我が、いまひとつはっきりしないのは、あれは
アートマンではない、これもアートマンではないと否定的に説か
れていて、これがアートマンであると肯定的に、断定的に説き明
かされていないところに、わかりにくい面がありましょう。しか
し、ここで、否定的にしか説き得ないことなのであるということ
を理解しなければなりません。もしこれがアートマン(自己)で
あると断定したなら、ブッダの教説と違ってしまうでしょう」

つまりだ。ブッダはアートマンは存在しないとは言わないが、こ
れがアートマンでもあるともいわないわけだ。これのどこがアー
トマン説やねん。

295 :黒海老:2001/08/08(水) 20:04
「アートマンは存在するが恒常的なものでは無く移ろいゆくものであるから
我として捉える事が出来ない」と言う意味で良いでしょうか?

296 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 20:14
いろいろ理屈こねるのはいいけどさ、なんで仏教って世界では恐ろしく少数なんだ?
そして朝から晩まで経よんで頭の一部だけ使ってドメスティクな「自分が・・・」勉強
だけなんだ? 普段何してんだ? 俺は知らねえんだよ。教えてくれよ。

297 :名無しさん:2001/08/08(水) 20:17
仏教は言葉の定義がいい加減。
だから解釈を巡ってひどく混乱が生じるものと思われ。

存在論として語られるアートマンと、倫理的道徳的主体
として語られるアートマンは、その意味あいが微妙にあ
るいは決定的に違う。

298 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 20:18
>>294
あなたの書いたところでは、アートマンが否定されてません。
先ほど書いてくれたところでは、肯定してたのですが、
今回はあまり、意味のないところを書いたみたいです。
仏陀といえども、アートマンは人間の言葉で表現できなかったんです。
アートマンはあるが、自分で経験しなさい、と言ってます。
仏陀の言葉以外でも、教えの面でアートマンの存在なしでは矛盾が生じるものがたくさんあります。
中村元はアートマンの定義は良いのですが、瞑想経験がないので、悟りや空、ニルヴァーナにたいしては
間違っています。

カギュなどの、アートマンや空の体験をみると、全などの低い悟りではなく、
とても仏陀に近い人がいます。
アートマンはやはり一元で、表現のしようがなく、思考がなく、時間がなく始まりも終わりもない
とにかく二元論では論じれないものです。
中村元は仏教学者としては一流ですが、実際瞑想体験がないので、説得力にかけます。
瞑想家ヨガマタ相川恵子と、中村元を足して2で割るとちょうど良いでしょう。

299 :298:2001/08/08(水) 20:21
全→禅

300 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 20:23
>265
きみは頭のみなのかな? 聖霊にそう語られたのですか? 263の言っている
話はほとんどのプロテスタント教会で教えていることです。

301 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 20:23
>>296
仏教は少数派じゃないよ。キリスト教が多すぎるだけ。
キリスト教が多数派なのは、当時世界帝国だったローマの
国教になったから。そして、帝国主義の時代に植民地支配
していた国にキリスト教を無理矢理押しつけることに成功
したから。

302 :名無しさん:2001/08/08(水) 20:34
>>298
アートマンの否定とアートマン説の否定は違う。
存在論的には、アートマンは否定も肯定もできない。
それは形而上学に属するものだから。
ブッダが否定したのはアートマン説の方。

それから>>297にも書いたが、アートマンの定義に混乱が見られる。
倫理的・道徳的主体としてのアートマンはブッダにおいても肯定さ
れるが、常駐・単一・主宰のアートマンは否定される。あなたは
前者と後者を混同して一緒のものと考えているようだ。

303 :名無しさん:2001/08/08(水) 20:35
人数が多ければいいのだったら、層化さんに行ったら?

304 :初心者:2001/08/08(水) 20:42
キリストは愛だけど、仏教は光なんだよね。

305 :初心者:2001/08/08(水) 20:44
愛はいつかは滅びる、というか、空(恒常じゃなもの)だよね。
愛は過ぎ去っていく。

306 :名無しさん:2001/08/08(水) 20:49
>>305
キリスト教において肯定されるのは神の愛だけ。
当然、神=恒常であり、神の愛は永遠である。

307 :7:2001/08/08(水) 21:03
>>302
>倫理的・道徳的主体としてのアートマンはブッダにおいても肯定
>さ れるが、常駐・単一・主宰のアートマンは否定される。あなた
>は 前者と後者を混同して一緒のものと考えているようだ。

うーん、これはむしろ逆に思える。

>倫理的・道徳的主体としてのアートマン
倫理的・道徳的主体になれるのは五蘊でしょ。人を殺してはいけない
と判断し実行するのだから。これをアートマンとは言えないのでは?

>常駐・単一・主宰のアートマン
言葉の意味がわからないけど、涅槃の状態にある真実の我と理解する
なら、それは人を殺してはいけないという判断を超越し、もちろん
肉体、感覚等を超越して存在(もしかしたら存在するしないを超越し)
するものとして、それをアートマンと呼びうるものと思う。

308 :初心者:2001/08/08(水) 21:05
>>306 キリスト教においては、魂が永遠なのではないの?

309 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:06
>307
302に言ってもわかんないよ。
302にはもっと勉強してから参加して欲しい。

310 :名無しさん:2001/08/08(水) 21:08
>>308
魂の永遠は神の愛によって保証される。

311 :初心者:2001/08/08(水) 21:15
>>310 神=愛 ではないのですか?

312 :初心者:2001/08/08(水) 21:17
万有引力ではありませんが、生き物と生き物の間の引力のようなもの=愛
と解釈しているのですが、キリスト教的にはどうですか?

313 :名無しさん:2001/08/08(水) 21:19
>>307
自己を愛する。
自己を愛するように他人を愛する。
この時の自己とは五蘊のことか?
違うだろう。

314 :初心者:2001/08/08(水) 21:19
仏教においてはすべてが空(恒常的な存在ではなく、移ろい行くもの)
なんですよね。

ただ一つ、法=ダルマ、だけは空なのか、実存なのか(私には分かりませんが)。

では、救いは何かというと、涅槃寂静=ニルバーナなんですよ。

神の愛のようなものはない。寂しいようだが、どちらが真実なんでしょう?

315 :7:2001/08/08(水) 21:20
>>304
>>306
>>310
みなさんの理解が何を基にしているか出典等を示していただけますか?

316 :名無しさん:2001/08/08(水) 21:21
>>311
その通り。

>>312
人と人とは神の愛によって結ばれる。というのがキリスト教的解釈。
例えば、結婚式を考えるのがわかりやすい。永遠の愛を誓う相手は
配偶者ではなく神だ。

317 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:22
>>313
五蘊だよ

318 :ななしさん:2001/08/08(水) 21:22
>>313 自己は五蘊です。

色=物質的自己、
受、想、行、識=こころ

319 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:22
>301 プっ! ワラタ    超勉強不足
ではなぜ仏教人口は減り続けてんの?

320 :ななしさん:2001/08/08(水) 21:23
死ぬと、こころは=魂(だけ)になります。生きていても、こころ=魂
ですけどね。

321 :ななしさん:2001/08/08(水) 21:26
>>319 人数の多い少ないで、真実は見れませんよ。

多い少ないだけだと、ノーベル賞学者と、それ以外の人って
前者のほうが少ないでしょう。でも、前者があらゆる場合で
間違っているとは言えないしね。
仏教を信じる人が多くても、少なくても、真実とは何か
という事とは関係ありません。

322 :7:2001/08/08(水) 21:28
>>313
えーと、まず自己を愛するについて。
人間誰しも自分を愛する(自分の利益を考える)というのは、
普段私達がどこでも行なっている、どこでも見かけることのできる
行為だと思います。五蘊の働きであるとおもいますが。

323 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:37
アナクロな理屈はもういいよ。では仏教が社会的にはたした意義ある役割を
(少なくともキリスト教以上に)具体的に書いてください。

324 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:42
しょせんバイブルの「神は愛なり」以外は「脳みそ世界」
歴史が証明しているーーー
今は西暦2001年だよ! 

325 :ななしさん:2001/08/08(水) 21:43
>>322 仏教では、愛を、執着=取 と解釈するんだよ。

仏教用語での「愛」の意味は「欲望」に近い。渇愛とも言う。
渇きにも似た激しい望み。(性愛だけじゃないよ。誤解しないでね。)
性愛以外に渇愛があるのは分かる?

326 :名無しさん:2001/08/08(水) 21:46
>>317
>>318

「自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。
しからばかれらは常に損じられることなく、賢者なのである。」

ここで語られている自己を五蘊と解釈すると意味が通らなくなる。
五蘊とは自己の構成要素であって自己そのものではない。

327 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 21:48
>319
仏教は煩悩否定だから、一般の人には厳しいから。
キリスト教は甘いから

328 :7:2001/08/08(水) 21:59
>>326
>ここで語られている自己を五蘊と解釈すると意味が通らなくなる。

なぜ?

329 :名無しさん:2001/08/08(水) 21:59
>>319
どのぐらい減っているのか、先にソースを出せ。

330 :7:2001/08/08(水) 22:06
>>324
多分このスレを最初から見ているキリスト教徒でも仏教徒でもない
人がいたら、仏教って結構奥が深いねーという感想を持っていると
思う。

キリスト教を解説してくれる人があまりいなかったから、その点
キリスト教支持者には不利なんだが、324さんのはしゃぎぶりは
それに輪をかけることになると思うよ。

331 :名無しさん:2001/08/08(水) 22:09
>>328
繰り返しになるが、五蘊とは自己の構成要素であって
自己そのものではないから。

332 :心理学を学ぶ青二才:2001/08/08(水) 22:13
キリスト教は自己や自我が前面に出る。
仏教では自己や自我は究極的にはない。

古典力学的科学はキリスト教の影響が大きい。
量子力学や、最近の複雑系の科学は大変仏教的です。

サイエンスも宗教の影響を受けていることを考えると、東西両宗教は奥が深いと思います。

333 :名無しさん:2001/08/08(水) 22:30
>>331 じゃあ、その本物の自己の事は経典には
どう書かれているの?五蘊以外に。

初期仏教の言葉でお願いします。中期大乗以降の観念的な
言葉はダメだよ。

334 :名無しさん:2001/08/08(水) 22:31
>>332 自己を学ぶのが仏教だよ。

335 :ヴェラスコ:2001/08/08(水) 22:33
>>334
その根拠となる釈迦の発言と経文を示せ!

どうせただのお前の願望だろうが

336 :名無しさん@1周年:2001/08/08(水) 22:47
聖書は「歴史書」としても世界中の歴史研究に貢献してきた。多くの
研究者がその歴史的存在意義を認めているが、何よりも学者・有識者
を驚愕せしめた点は、預言の的中率であった。ところで聖書は2000
もの言語に翻訳され、毎年2000万冊、福音書のみでは6億を超える
部数を誇り、他に類をみない書物である。この聖書は10年や100年
という短期間に書かれたのではなく、実に1500年の歳月を費やして
書き上げられた。その最も古い部分は今から3400年前、最も新しい
部分でも1900年も前に書かれたのである。さて、イエスが一度めに
来られることなど預言はすべて実現している。イエスに関しては350も、
である。聖書の預言があまりにも完全である理由から、メリル・F・アン
ガー博士やE・J・ヤング博士などの世界的考古学者は、歴史が実際に
起こった後に書かれた可能性も考慮し分析した。結果1947年に死海
文書が発見されたことも合わさって、科学的にもこれらがまぎれもなく
紀元前に記されていたことが証明された。ペルシャ帝国についての預言、
ギリシャ帝国についての預言、シリアとエジプトについての預言、アン
テオクス・エピファネス王があらわれるまでのプトレマイオス家とセレ
ウクス家の闘争の預言、ユダヤ人の預言、1948年のイスラエル建国
の預言等々・・・・この他あげればきりがない。今、世界は終末に向か
っているというが、いずれにせよ、中東問題にいたるまで聖書は良いこと
も悪いこともすべて預言し、実現させているのである。

337 :7:2001/08/08(水) 22:52
>>331
>繰り返しになるが、五蘊とは自己の構成要素であって自己そのものではないから。

ということは五蘊プラスα=自己ということですか?
だとしたらαとはなんでしょう?

>(五蘊とは)自己そのものではないから。
というか五蘊を自己と錯覚していると理解しているのですが。

338 :223:2001/08/08(水) 22:52
>>7
 輪廻からの解脱=輪廻説からの開放 と捉えています。先にも書きました
ようにブッダは「苦からの解脱」を説きました。その教説は輪廻があろうが
無かろうが有効であると思います。輪廻を苦として捉えていた当時の人々に、
それからの解脱を説くことは当然のことであったと考えます。輪廻説にイン
ド人ほど馴染みの無い私たちにも、多くの苦悩はありますしそうしたものへ
の対処法として、ブッダの教えは甚だ効果的だなと思っております。

それにしても
 常住不変のアートマン(真我)が存在しなければ困る人がいる
のかな?そうしたものへの執着からの解脱をブッダは説いたの
だと思うのですが。

339 :名無しさん:2001/08/08(水) 23:01
>>337
自己そのものは捉えられない。

>>(五蘊とは)自己そのものではないから。
>というか五蘊を自己と錯覚していると理解しているのですが。

その通りでしょう。
「(五蘊に)執着してこだわるが故に、我有りとの念が起こる」

340 :7:2001/08/08(水) 23:39
>>339
>自己そのものは捉えられない。

出典あるいはそれを類推させるような記述があればお教え願いたいのですが。

341 :名無しさん:2001/08/08(水) 23:50
>>340
「修行完成者は自ら自己を見ることがない」(諸経要集)

342 :7:2001/08/09(木) 00:31
>>341
でも、完成者の話ですよね。よくわからん。
ストーカーに思われるのも嫌なので最後に一つだけ。常駐・単一・主宰
ってはじめて目にしたのですが、差し支えなければ、どちらのほうで使
われているのか教えていただけませんか?

343 :BM:2001/08/09(木) 00:52
>>278
ちょっとしばらくの間忙しいので、簡単な引用でお許し下さい。

「このように、初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、
 アートマンを積極的に承認している。
   中略
 さらにアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥されているので
 あるから、アートマンをアートマンと見なすことは正しいことなのではなかろう
 か。聖典自身は明らかにこの立場を承認している。原始仏教においては自己(ア
 ートマン)を自己(アートマン)として追求することが正しい実践目標として説
 示されている。すなわち真実の自己を求むべきことを勧めている。」
    中村元選集第15巻「原始仏教の思想」(P505)

とりあえず結論めいた部分を引用致しましたが参考になりましたでしょうか?
機会がありましたなら、ぜひ「原始仏教の思想」全編をお読みください。中村
先生が意を尽くされた論証の部分を割愛することは、とても大切な部分を切り
捨てるような気が致します。

それでは失礼致します。

344 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 00:54
仏教はすぐれた哲学、学問。
厳密にキリスト教は、世界的、歴史的、存在意義的に唯一の実践的宗教。
したがって、キリストと釈迦どっちが偉い? なんて愚問。
  

345 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 00:55
主宰ってもしか・・・

346 :BM:2001/08/09(木) 00:55
>>338

>常住不変のアートマン(真我)が存在しなければ困る人がいる
>のかな?そうしたものへの執着からの解脱をブッダは説いたの
>だと思うのですが。

本当にその通りなのでしょうね。

347 :黒海老:2001/08/09(木) 01:04
玄沙師備と言う僧が雪峰和尚の元で修行していたのですが、なかなか悟りを得る事が出来ません。
そこで玄沙は多くの師に教えを受けようと行脚に出る事にしました。
しばらく歩いた所で石につまづき、足先に激痛が走りました。
そこで「自己は本来空であるのに、この痛みはどこから生じたのだろう」
と思ったとき悟ったそうです。
「空=何もない」ではなく有ったのだと。
「有るとか無いとか言う自己への思いが囚われであり、囚われを空じていけば、
この世全てが一体である」と悟ったそうです。
我は無いではなく、我では無い。
そこに有るけど空である。空であるけどそこに有る。
色即是空、空即是色と言ったところだと思います。

348 :223:2001/08/09(木) 01:13
>>7
 五蘊は自己そのものではないかもしれませんが、自己を成立させるのに
不可欠な要素であると思います。五蘊の作用によって自己が存続出来るの
でしょう。

349 :7:2001/08/09(木) 01:16
おいおい最後にぼそっとつぶやくのはずるいよw
こんな論争にかまけてないで修業しろっていうのは確かにあるけどね

>>344
キリスト教の本質を捉えているならここで披露してください。
わかっていない仏教について話す必要はないですよ。

350 :7:2001/08/09(木) 01:23
>>348
ご自分で私はなにから構成されているのだろうと考えてみてください。
五蘊いがいの何がかんがえられますか?具体的に。

351 :223:2001/08/09(木) 01:28
>>7
 自己を構成するものですか?

352 :7:2001/08/09(木) 01:36
>>351
はい。

353 :223:2001/08/09(木) 01:37
 私は自分の背後にが何らかの実体であると考える事が出来ません
ね。無数の因と縁の作用によって生じて、また滅する現象に過ぎな
いと思っています。五蘊も自己を成立させる要素ではあるが、それ
も実体無き現象であると考えています。どうも存在論より現象論や
認識論的に自己を捉えてますな。

354 :7:2001/08/09(木) 01:50
>>291
>全部の話しを同じ視点(レベル)で見ると、多少疑問に思う個所
>があると言う事です。 「過去にも未来にも執着するな」と言って
>るのに「良い来世の為に功徳を積め」と

話の前後がわからないのではっきりしたことはいえませんが、修業
には段階があります。「良い来世の為に功徳を積め」は在家向けの話
であろうと思われます

>聖者をそしると地獄に落ちるなどと脅しとも取れる個所がある事です。

これは人々がジャンプする機会をつぶすことになるわけですから
自分が落ちても、いわゆる自業自得。単純な法を説いているだけ。
私も世界の構造には言及しました。

黒海老さん 223さんは、お二方とも一回 神はいないとか、輪廻転生は
ないとかいう考えをちゃらにして、あるのかな?ないのかな?という
感じで仏典にアプローチしてみたらどうでしょうか?

355 :7:2001/08/09(木) 01:54
>>353
いやや、背後とかそういうことじゃなくて。五蘊以外のなにがあるかと。
五蘊の定義は192からひっぱってきました。

192
五蘊とは、容姿と心の要素(感覚、イメージ、意思、意識)のこと。
それらは、全て無常であり、変わりゆくものなので、
本質的な我ではない、という意味です。

356 :あのう今度:2001/08/09(木) 02:14


357 :223:2001/08/09(木) 02:19
>>7
五蘊以外ですか・・・十八界が考えられますね。くわしくはこちら
>>239
 を御覧ください。ただし認識の部分に舌識が抜けておりますが^^;
それ以外に何かが存在するとは思えませんし、知り得ませんが・・・。

358 :あのう今度:2001/08/09(木) 02:24
浄土真宗の檀家です 東
住職に聞いています 「どっちが偉いのて?」
檀家てじいさん ばあsんばっか
なみあぶつを唱えばいいだよ


359 :7:2001/08/09(木) 02:36
>>357

>ブッダは
>一切=十八界 眼・耳・鼻・舌・身・意 (感覚器官)
>       色・声・香・味・触・法 (その対象)
>       眼識・耳識・鼻識・身識・意識 (その認識)
>つまり、上記の十八の要素が一切を構成すると説いたと認識して

これって世界の構成要素ですか?
じゃなくて自分について考えていただきたかったのですが・・・

いいたいのは、やっぱり現時点での自己=五蘊。で五蘊は無我または非我
だからそのあとに何があるのだろう、ないのだろうという話になる。
まじめな修業者はそんなこと自分で確認すればいいと修業にはげむ。
そうでないやつはネットで議論するってことでした。おやすみなさい。

360 :223:2001/08/09(木) 02:46
五蘊・十八界の止滅=涅槃かな。

361 :7:2001/08/09(木) 02:48
追伸
>>338
>輪廻からの解脱=輪廻説からの開放と捉えています。
ちょっとこれには賛成できませんね。
>>343
BMさんお忙しい所カキコありがとうございました

362 :223:2001/08/09(木) 02:59
>>354
 不可知な事に関しては断定を避け、思考から排除する。有(常見)
無(断見)のどちらにも偏らず中道を歩め。というブッダの態度に共
感を覚えます。神がいようがいまいが、輪廻があろうがなかろうが
現実に苦悩は次々に起こります。その止滅への道をブッダは説いた
と認識しております。

 もう寝なければ^^;

363 :140:2001/08/09(木) 09:20
今日こそ、ほんの少しだけお邪魔します (^^

キリスト教の教理にとって、一番大切なものは、
基本信条といわれているものです。
これには、いくつかの種類がありますが、
いずれも、新約聖書が編纂され、旧約聖書と共にキリスト教の聖典(カノン)となる前に、
作られたものです。
ですから、キリスト教に言及なさるなら、基本信条にまで言及されなければ、
「キリスト教に似ているけど、ちっともキリスト教ではない」ものになってしまいます。
そういう間違いが、このスレでは多発しているように思います。

仏教の専門家は参加していても、キリスト教の専門家が参加していないのは、
ちょっと残念ですね。

おじゃましました。

364 :使徒信条:2001/08/09(木) 09:26
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより
生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のなかよりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来りて
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖な
る公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の
生命を信ず。アーメン。

おわかりのように、キリスト教の原点は、キリストの説く智慧ではなく、
その慈悲にすがることにあるのです。信条の中のどこにも「智慧」が
説かれていない。「歴史的事実」の羅列にすぎない。仏陀の智慧を書き
記した仏典とは、そもそもスタートが違うのです。

このスレで、キリスト教徒が参加しないのは、参加しないのではなくて
参加できないのです。仏教的な見方をすれば、キリスト教の教義が低級
だと感じられるのも当然のお話です。

365 :140:2001/08/09(木) 09:35
自分の書き込みを確認するために覗いてみたら、またまた誤解が…

基本信条は、使徒信条だけを指すのではありません。(参ったなあ、もう…)

○使徒信条(古ローマ定式とゴール定式の二つがありますが、普通はゴール定式)
○ニケア信条
○ニケア・コンスタンティノポリス信条
○カルケドン信条
○アタナシオス信条

以上のほかに、必ず参照されるべきは、
○ハイデルベルク信仰問答でしょうね。

366 :1:2001/08/09(木) 09:38
皆さん、教えてくれてありがとうございます。
今のところ、お釈迦様の方が偉いと思います。
私がこのスレを立てたのは、どっちが人類のために生きたか、
人類の精神的進化に影響を及ぼしたか、
どちらが全ての魂の幸福を願ったか、ということと、
聖書、仏典の正しい解釈と修業方法、また修行したことによって、
どのような変化が人間に現れるのかを知りたかったからです。

引き続き、どちらが、より崇高な教えか教えて下さい。
ご教授お願い致します。
あと、申し訳ないのですが、渡海難さんはカキコしないようお願いいたします。
渡海さんが来ても、無視するようお願い致します。
変に煽ると荒れてしまいますので。

367 :140:2001/08/09(木) 09:47
今日は私、とても忙しいのですが、どうしてもお伝えしたく、またまた参上いたしました。

皆様にお願いがあります。

何かの通俗書の類で読みかじっただけの知識や、小耳にはさんだだけの知識で、
「キリスト教とはこうです」「イエスとは、こういうものです」と、断定しないでくださいね。
あまりにも滑稽なだけでなく、情けなくなります。

私は、仏教については、ほとんど無知です。
ですから、「仏教とは、こうだ」「悟りとはこうだ」という断定もしなければ、
それだけの知識(とは言えませんが)だけで、比較するようなこともしていません。
むしろ仏教を学ばせていただいているくらいです。
もしここで私が、「仏教なんて、所詮葬式のためのものだろ」などと言い出すと、
皆さんも困ってしまわれるでしょう?

もし、キリスト教に少しでも言及なさるのであれば、
せめて、ほんの少しだけでも、きちんと学ばれることを、
強くお奨めいたします。
そして、正しい知識をもってください。

仏教は、イロイロいっているけど、結局人間形成に役立ってないね」
などというそしりを受けたら、つまらないではありませんか。

大変失礼いたしました。

368 :364>365:2001/08/09(木) 09:51
参照されるべき信条を列挙するんなら、その概要くらい書くべきなん
じゃない?これもある、あれもある、と空砲だけでは情けないぞ。

369 :140:2001/08/09(木) 09:57
>>368
書き込みを確認しようとすると、必ず何かが…(^^;;

分かりました。今日は時間がないので、そのうち書き込んでもいいですが、
かなり長くなりますよ。
神学は、言葉に対してものすごく厳密な学問なので、
概要、というわけには行かないので。
では、いずれまた(今度こそ、仕事に戻らなくては(^^

370 :364:2001/08/09(木) 09:58
>369

よし、約束だよ。

371 :1:2001/08/09(木) 10:01
すみません。言い忘れました。
仏教用語はなんとなくわかるのですが、キリスト教用語は
ほとんど解かりません。
もし、仏典や聖書から抜粋するのでしたら、
わかりやすい解釈も書いていただけると助かります。
ここは、専門家が専門の話をするために作ったのではなっく、
仏教徒には聖書をわかりやすく説き、
キリスト教徒には仏典をわかりやすく説いてほしいのです。
両方に詳しい方は、Aという出来事に対して、聖書の教えと仏典の教えの比較や、
共通点など書いていただけると、助かります。

372 :nanashi:2001/08/09(木) 12:23
>>357 五蘊(色、受、想、行、識)

(五蘊の)受;眼、耳、鼻、舌、身、意 (色、声、香、味、触、法)

前者の色(身体の構成要素)と後者の色(目で見るもの)は別物。

上の6種類、六入のうち(色、声、香、味、触)は分かりやすい。
法はわかりぬくいが、インターネットの言語で飛び交っている概念が法。
(最近は、色も声も飛び交っているが)

373 :nanashi:2001/08/09(木) 12:25
>>369 神学も本当の事なら、いくら難しくても複雑でも勉強するんだが
、長年にわたって構築されてきた「架空のこと」だからね。ちょっと
勉強する気にはなれない。

374 :nanashi:2001/08/09(木) 12:29
>>367
「仏教なんて、所詮葬式のためのものだろ」などと言い出すと、
皆さんも困ってしまわれるでしょう?

別に困らないよ。

仏教と言うのは仏陀になる=涅槃を得て輪廻の苦しみから離れる
ための学問と修行です。

375 :nanashi:2001/08/09(木) 12:29
イエスは本当に(六道)輪廻には気がついてなかったのだろうか?

376 :http://vvv.geocities.co.jp/WallStreet/7976/:2001/08/09(木) 12:30
総ての女性に対して欲情しなければならないという救世主の本当に哀れな難しい立場
文鮮明が、成りたいと切望する真のアダムの立場・・・・・
すべての女は、最初にエバがサタンと性行為(by 堕落論)をして、堕落後にアダムの妻に
なった事(この事によりサタンの血統が全人類に遺伝した、もちろん文鮮明にも by 堕落論)
の復帰摂理として、まず真のアダムである文鮮明(教義上の理由不明?文鮮明の母親は
高名な僧侶にでも血統転換されて文鮮明を産んだか?または、文鮮明自身が青年時代に
金百文の血分けセミナーで、どこぞのばばあに血統転換されたのか?)の妻になり、血分け
または、合同結婚式で、実体、象徴に係わらず血統転換されて復帰の後、サタンの立場の者
(=教義上の堕落人間)に払い下げられなければならないのである。したがって文鮮明は
総ての女性に対して欲情しなければならないという、真に辛い立場なのである。

377 :nanashi:2001/08/09(木) 12:32
仏教の「あがり」は涅槃寂静ですよね。

キリスト教の「あがり」は何なんだろう?

378 :223:2001/08/09(木) 12:53
−仏典に登場する神と悪魔−
 読んでいると、あるパターンがあることに気がつきます。ブッダや
その弟子の心に、よい想念や意思が浮かんだときには神が登場し、悪
しき想念や誘惑が出てきたときには悪魔が登場します。たとえば悟り
を開いて教えを説こうとブッダが決意した時には、梵天が現れ、政治
に関心を持ったりすると悪魔が出てきたりします。また神や悪魔はど
ちらもブッダやその弟子たちに意見する、世間の人間の描写ではない
かという説もあります。経典によっては神と悪魔が同じ偈を唱えたり
する例もあり、その区別が曖昧であったりもします。
 興味深いのは、ブッダが「悪魔とは何か?」というラーダ比丘の問い
に答えて「五蘊(色・受・想・行・識)が悪魔である。」と説いていることで
す。したがって、何らかの外的実在としての悪魔の存在を想定してい
るとはいえないのではないかと思います。神にせよ、ブッダへの質問
者、あるいは賛同者として登場することが多く、それ以上の役割を与
えられているわけでもないようです。
 仏典においては神も悪魔も、説法の呼び水としての機能は果たしま
すが、中心的な役割は与えられておりません。主に内的な心理描写に
用いられた譬喩として読むことが適切な解釈かと考えます。また経典
が記された時代の文学的背景や歴史的文脈にも留意すべきかと思いま
す。

岩波文庫『ブッダ 神との対話・悪魔との対話』は興味深い文献です。

379 :140:2001/08/09(木) 13:18
お昼ご飯を食べて、ちょっと覗いてみましたが…

>>373
だからあ、そういう風に決め付けないでくださいと、お願いしたんですよ!

神学を勉強するためには、「聖書の神への信仰」が前提となりますので、
普通の人には無理でしょうね。
信仰を抜きにして学ぶのであれば、キリスト教学、ということになるのでしょうけど。
でも私は、そんな面倒くさいことを、言っているのではないのです。

キリスト教の信仰を、体系的に語っているものを、2,3読まれたらいかがでしょうか、
ということです。

380 :223:2001/08/09(木) 14:00
−仏教は信仰を説くか−
 最初期の仏教は信仰を説いたのでしょうか。四法印、四諦、八正道や縁起説
など基本的な教説を調べても、信仰せよという教えは見当たりません。時代が
降ってブッダが神格化されるにつれ、ブッダに対する信仰を説くようになるよ
うですが・・・。古層といわれる経典から引用します。
  「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィー・ゴータマが信仰を捨て去った
  ように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に
  到るであろう。ピンギヤよ。」        (スッタニパータ:1146)
  「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。[おのが]信仰を捨てよ。」
                  (サンユッタ・ニカーヤ:Z-1-1-13)
とあります。こうした記述を読んでいると、仏教は果たして宗教なのかという
問題に突き当たります。宗教であろうが無かろうが私は困りませんのですが。

381 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 15:39
ここでたとえば神学、たとえば遠大なスコラ哲学・トミズムを語る低レベルなクリスチャン
がいない理由はおわかりかな? ところでキリスト者は「自己が云々」と言われるが、
キリスト者とは「一度死んだ者」「あけわたし」(これらも深い体系があるが、聖霊は平明
に敷衍してくださる)、要するに自己満足的なものではなく、何のためか? というキリスト
が生きて「なされる」具体的な他者への「分かち合う愛」にイニシアチブを、畢竟いかなる
「行ない」も救いを買う手段とはならない、恵みが恵みではなくなる、というダイアローグ・変節体験に
基礎をおいている、ということ。その代表例がパウロの「ダマスコの回心」である。フランチェスコやM・
ルーサー・キングも然り。彼らは聖霊・御霊・御使いとともに、実際に絶対者・神の声に聞き従っているが、
これらは自己救済とは対極であり、キリストにおける「ひとつ心の同労者」「へりくだり」であって、所謂預言
成就なのである。キリストにおける壮絶な殉教者は星の数ほどいるが、自己に厳しく修行する行為その
ものに価値をおいていない福音がある以上、キリスト以外に誇るものがあってはならない、と
言われている以上、自分により頼むな、と言われている以上、キリスト者にとっては重要な事柄(本質)
ではない。ところで、量子力学を云々していた方がいたので一言、分子生物学者M・デントン曰く。
「私の知る限り、すぐれた科学者は殆どキリストを知っている」 人間は不完全である。これを聖書は心に
実際に語りかけるのである。そして神の完全な計画を成就させていただくわけである。肉体を通しても。これは喜びである。

382 :名無しさん@1周年 :2001/08/09(木) 15:46
>381

いいたいことはわかるが、もうちょっと句読点を活用して書けないも
んだろうか。小論文だったら読まれずにゴミ箱行きだ。

383 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 15:56
キリスト者の多くは仏教者を敵視するどころか、むしろ愛と尊敬をもって
みている。あるいは同志に近いであろう。ただ彼らの救われるため、祈って
いる。 

384 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 16:02
聖書の言葉は単なる言葉ではない、ロゴスである、生きている聖霊にも似た。

385 :黒海老:2001/08/09(木) 16:13
釈迦が言った事が宇宙創造のビックバンに似ていると言う話がありましたが、
おそらく釈迦はそんな事、思いもよらなかったでしょう。
科学が進歩して色々な事が分かって来ると、釈迦の直感が大筋正しかった事が分かってきました。
しかし、物理現象が全て仏典と合致するわけは無いし、そもそもそんな必要もないのです。
極端な話、ノストラダモスの予言も解釈によってどうとでも取れてしまうのですから。
釈迦は人間として道を説いたのであって、概念よりも方法を重視したと思います。
後代になり、人間ゴータマ・ブッダが神格化され『仏陀』となると釈迦は神通力を備えた
存在となりますが、そうとは思えません。
私は理系なので物理現象の事は科学に聞いて、道のことを仏教に聞くと言う姿勢です。
私は223さんとは、ほとんど同意見です。

386 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 16:56
釈迦は偉人
キリストは神人
ゆえに比較対象ではないと思われますが・・・・

387 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 17:24
今となっては、実際の社会的貢献度で、客観的に判断されるべきでは? 

388 :140:2001/08/09(木) 17:32
仕事が終わって、またちょっと覗きに来ました。
>>381
神学ではなく、キリスト教の基本を語りたいと、私も思っています。
>>383
おっしゃるとおりです。それは別に、仏教が優れているから、ということではありませんよね。
異なる宗教に対する、礼儀の一つだと、思います。
>>386
私は、釈迦とキリストとは、比較の対象にはならないと、このスレの前の方で申し上げました。
無理やり比較をしても、滑稽なだけだと。

なぜ私が乗り出したか、といいますと、(これもすでに書き込んだことなのですが)
キリスト教のことを、全くご存知ない方々が、「キリスト教はああだ、こうだ」と
断定しておられるので、それを訂正しようと思ったわけです。
私は今でも、比較しようとは思っていません。

389 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 18:43
パウロとギリシャ哲学者たちとの論争を読んでも、キリスト教には、終始一貫性が
感じられます。言葉ではうまく説明できませんが、揺るがない「なにか」です。
翻って、眼を外に向けても、我が国も含めて、世界のさまざまな状況を見れば見る
ほど、聖書に「リアル」を発見します。388さん、ありがとうございました。

390 :そうだろか:2001/08/09(木) 18:57
>389

うがった見方をすると、パウロがキリスト教は真理である、の一点張り
で通して、自説を曲げなかっただけじゃないの?自説を揺るがさない
だけなら、偏狭とかわらないよ。ヘーゲルの言う、矛盾を克服しつつ
自らが変質(軌道修正)していく、というのが本当の真理へのアプロ
ーチの仕方だと思うよ。

世界中が弁証法的に進化しているのに、キリスト教だけが取り残されて
いるだけみたいだぞ、おい。

391 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 19:36
>390
むしろ19世紀から20世紀にかけてその弁証法は「くだかれた」のですね。
パウロの血脈は正鵠を穿った。すなわち世界的にキリスト教は大きく働き続け、
際限なき議論は、祈り・愛の奉仕・社会的実践によって導かれないまま「停滞」
という陥穽にはまりこむ。なぜならこれらも窮境、導き、であって、換言すれ
ば、基は永遠に「ぶれない」ということーーーつまりこれは厳然たる実証である。

392 :390:2001/08/09(木) 19:43
>391

>むしろ19世紀から20世紀にかけてその弁証法は「くだかれた」のですね。

本気でそんなこと言っているとしたら、お寒い限りですね。
カントが登場するまで、唯物論の攻撃の前になすすべがなかったのが、
当時の教会の置かれた立場です。むしろ、カントは、二律背反によって
キリスト教だけの特殊な空間に安住できるよう、そっと墓穴を用意した
のです。これで、キリスト教は科学の追及の目を逃れれることに成功し
たものの、客観的な事実とは無関係の、「自己満足」の世界に永遠に
閉じこもってしまった。

カントも言っている。神がいるから信仰があるのじゃない。神は、道徳
上の要請で存在しているのだと。

393 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 19:45
>>392
391さんは、神学史上のことを言っておられるのではないでしょうか。

394 :390:2001/08/09(木) 20:00
>393

なるほど。しかし、それは所詮「コップの中の嵐」ですな。誰かの
頭の中にある想像の世界ですよ。間違いだなんて言わない。一種の
数学みたいなものだから。ただ、それは現実世界に何の関わりもない。

現実世界では、19世紀から20世紀にかけ、実存主義が主流を占めた。
これは、厳格な意味での実証主義で、キリスト教のような教義とは正反対
の方向を向いています。実存主義の創始者のひとりとされる、キェルケゴ
ールは、痛烈に教会を批判し続けたが、教会はやったことは、彼を破門し
て自分の殻に閉じこもることだけだった。そういう意味では、キリスト教
はカント以降、世界から置いてきぼりを食っている。

395 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 20:09
>>394
それは見当違いというものです。
19世紀から20世紀にかけて(そういえば、もう21世紀なんだ)、
神学はかつてないほど大きな飛躍を遂げました。
聖書学(もちろん聖書神学も)、組織神学(教義学、キリスト教倫理学等)、歴史神学、
全ての面にわたってです。
あなたが言っておられることは、おそらく、福音派の中でもファンダメンタリストといわれている、
根本主義者のことではないでしょうか。
それなら、おっしゃるとおりかもしれません。
ですが、キリスト教界全体を見るならば、決してそうではないのですよ。

396 :7:2001/08/09(木) 20:57
>>395
>聖書学(もちろん聖書神学も)、組織神学、歴史神学
これに日本人がどのように関わってきたのでしょうか。

西洋諸国においても転生の考えを受け入れる人が増えている
(調査あり、ソース探せず)現実を前に、転生という概念
あるいは現象をもう一度考えてみるべきです。

そもそもキリスト教における輪廻転生の否定は紀元325年、
ローマ皇帝のコンスタンチンが、新約聖書の輪廻に関する記述を
削除してしまったことからはじまったと聞いています
おもいっきり世俗的なひとに聖書をいじらせてそれを追認したの
ですよね。

日本人キリスト者に期待します。

397 :7:2001/08/09(木) 21:45
>>378
>仏典においては神も悪魔も、説法の呼び水としての機能は果たしま
>すが、中心的な役割は与えられておりません。主に内的な心理描写に
>用いられた譬喩として読むことが適切な解釈かと考えます。また経典
>が記された時代の文学的背景や歴史的文脈にも留意すべきかと思いま

これはまた見事に学者さん的解釈を。悪魔はキリスト教にも登場します
よね。世界を支配させることを条件に私を崇めなさいと。両者に共通
するのは悪魔が欲望をつかって修業者の邪魔をするということです。
ではなぜ邪魔をするのか。

>経典によっては神と悪魔が同じ偈を唱えたり する例もあり、

前後の文がわからないので、正確にはいえませんが、神も悪魔も
天界の住人ですから、まあ、そういうことがあっても不思議じゃ
ないです。で、欲界の支配者は第六天魔王ですから、その支配を
脱しようとする者の妨害をするということです。

>ラーダ比丘の問いに答えて「五蘊(色・受・想・行・識)が悪魔である」

実際問題、五蘊が邪魔になって私達は覚醒できないのだから、
五蘊を悪魔ともいいえるというわけです。

398 :7:2001/08/09(木) 22:12
>>380
>最初期の仏教は信仰を説いたのでしょうか。四法印、四諦、八正道や縁起説
>など基本的な教説を調べても、信仰せよという教えは見当たりません。

---某所からの引用---
長者もまた、お釈迦様の教えに心をひかれますが、家庭も仕事も捨てることが
できないので悩んで「家庭と仕事があって出家できないものが仏弟子になるには、
どうしたらいいでしょうか」と尋ねたときに、お釈迦様が教えられたのが、
「仏・法・僧」に合掌して、帰依の心を持つ「三帰依文」です。
---引用終わり---

ただ、初期は釈迦に対する帰依のみがいわれ、入滅前に仏法僧に対する帰依
を説いたと記憶しています。

【 正法眼蔵(帰依三宝)】「帰依三宝の儀、いまだかつておこなわざるは、
これ外道の法なるとしるべし、または天魔の法ならんとしるべし。仏仏祖祖
の法は、かならずそのはじめに、帰依三宝の儀軌(ぎき)あるなり。」

>「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。[おのが]信仰を捨てよ。」

これについては前後をよまないとわかりませんね。他宗教の実践者に言って
いるのかもしれないし、完成者にはもはや宗教など必要ないと言っているのか

399 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 22:37
>394
キリスト教が内面世界にのみ閉じこもっているなら世界中の宗教はどうなるんだ?
いつもいつも反キリスト教の同じ哲学者の名前ばかり。言っている内容もその辺の
本に載っているようなことばかり・・・・現実も全く見ていないし見ようともしない。
ポストモダン後は逆に聖書の新鮮さを云々・・・してもくだらないので、たとえば
パスカルの「パンセ」について君自身の言葉で君自身の思想背景でもって感想なりを
語ってくれないか? たった今「刺青クリスチャン」ビートたけしの番組でやっていた
けどさ、彼らの自らの足を使うホームレスの方々や社会的弱者の方々への誠実な奉仕、
つつましやかな態度(実践)をきみは知っているのかい? 世界中に彼らは招待され、
証ししているではないか? 米国議会にも呼ばれ大きく報じられているぞ。渡瀬恒彦
主演で映画にもなっているが、そんなことよりキリスト者の実践は確実にトップである。
実存主義だぁ? 死語ではないか? 君はマジで時代錯誤しているよ。

400 :7:2001/08/09(木) 23:01
400ゲットー!
>>385
>釈迦は人間として道を説いたのであって、概念よりも方法を重視したと
>思います。 後代になり、人間ゴータマ・ブッダが神格化され『仏陀』
>となると釈迦は神通力を備えた 存在となりますが、そうとは思えません。

「人間を超越する道をといた」なら賛成します。願望成就を達成するために
イメージとか潜在意識を使うという方法があります。魔術等がそうですね。

仏教では潜在意識をクリアにし、さらにその奥まで到達し、最終的に真我
を覚醒することを可能にするのです(異論歓迎)。そこは宇宙の根本原理
ともいうべきところですから、神、いえ神を越えた存在となるわけです。

意識に対する物理的アプローチというのは不足していますので、理系の方
がこの分野で奮闘してくれることを期待します。また、仏教の理系の方に
与える恩恵は、物事をありのままに見るための方法論がそこに展開されて
る事だと思います。道を聞くのもいいですが、頭をコチコチにさせないよ
う気を付けてください。

401 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 23:10
最近ソルジェニーツィンの論文を読む機会があったのじゃが、どうも
399の言っておる内容のほうが世界の潮流に近いようじゃ。また、
このスレを読んでもわかるように、内面世界に閉じこもって同じこと
を繰り返しておるのは仏教側ではないのかな。神戸大学の五百旗頭真
教授の著作も勉強になるぞ。

402 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 23:44
age

403 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 23:49
キリスト教は確実に拡大しているが、仏教はジリ貧である。これもひとつの大きな
評価基準であろう。この現実から目をそらしてはならない。またキリスト教は麻薬患者
の更生に大きく貢献している。医学者も信じられない更生率に驚愕している。

404 :7:2001/08/09(木) 23:58
>>403
再臨までに世界っていうのは堕落していくのではないの?それとも
再臨は既にあったの?

聖書学(もちろん聖書神学も)、組織神学、歴史神学
これに日本人がどのように関わってきたのでしょうか。

あなたはイエスの教えの西洋人的解釈をうのみにしてるって
ことはないの?

405 :名無しさん@1周年:2001/08/09(木) 23:59
>>399
>「刺青クリスチャン」
って、もしかして彼らのことですか?

▼船橋シロアムキリスト教会ってどうよ?▼
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=986976180
ミッション・バラバってどうよ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=990120686

2chでは評判が良くないようですが。。。
実際のところどうなのですか?

406 :7:2001/08/10(金) 00:02
>>403
遠慮して書いたらわかりにくくなったかな?

再臨までに世界っていうのは堕落していくのではないの?
キリスト教(≠イエスの教え)が増殖するっていうのは
世界の荒廃を意味しないの?

それとも再臨は既にあったの?

407 :7:2001/08/10(金) 00:15
>>401
自己というものに対する洞察を欠いて、他にアプローチするという
のが、ある意味では無謀なのですよ。

キリスト教と比較する前に、仏教とは何かを確定しなければならない
のは、まあ当然です。仏教は論理的だから唯物論的に解釈する人も
いるのですよ。大変です。

408 :黒海老:2001/08/10(金) 00:23
>>400
「人間として」と言うのは、釈迦は人間には違いないのに
まるで人間以外の存在になってしまったかのように言われる事に対する疑問です。
釈迦は間違い無く人間ですよ。
解脱した人間ですけど。

409 :7:2001/08/10(金) 00:36
>>408
表面上はそうでしょう。意識と世界の対応について上のほうで言及
しましたが、下の5個めまでの世界に対する煩悩をきったら、意識は
欲界の神です。(むろん釈迦はそんなレベルではありません)

壷があったとしましょう。中に砂をいれたものと油をいれたものを
用意する。これを水中で叩き割ると砂は落ち、油は浮く。中に何が
はいっているかが問題です。

410 :黒海老:2001/08/10(金) 00:43
>>409
物理的に変化したわけではないと言いたかったのです。
神通力うんぬん等がそうです。
「イエス・キリストは復活したから凄い」なんて言うのと変わりませんよ。
釈迦が凄いのは、その悟りの深さであるのに。

411 :7:2001/08/10(金) 00:49
>物理的に変化したわけではないと言いたかったのです。
はい、了解しているつもりです。

>神通力うんぬん等がそうです。
神にとって神通力は、人間がしゃべることができるぐらいの話。

>釈迦が凄いのは、その悟りの深さであるのに。
同意。

412 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 00:57
>406 再臨はまだですが、堕落というか民族紛争や地震、愛のない人間
の増大は黙示のみならず福音書に記されてあります。そしてそれがいつ
起こるか、は誰にもわからない、とあります。またその頃には中東での
戦争(とりわけイスラエルを中心に)が激化するらしいですが、書かれ
た当時はイスラエルという国はなく、不思議な話で、また反キリストと
いう者が現れるそうです。この人物はD・カッパーフィールドも旧約の
魔術師も真っ青な位の不思議を行ない、自らを救世主的な為政者として
多くの人民を魅了するらしいです。キリスト教が増大するのは世界の
荒廃を意味しないの? は鋭い指摘です。まさに聖書には終わりの頃は
世界中に福音が伝わると指摘しています。奇妙なことにダニエル書には、
中東和平の実現後、7年間でそれは破綻する、ともとれる預言があり、
物議をかもしていますが、1993年に中東和平条約が結ばれ、昨年の
10月に実質破綻し、今にいたっています。今日も大きな衝突がありま
した。中東問題に関してはクリスチャンの多くは非難されても仕方がない
でしょう。イスラエルばかりが正しくはありません。ローマ書9から10
までを読めばよくわかります。ユダヤ人の現状、孤立、将来の様子まで。
イエス曰く。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」「剣をとる者
は剣によって滅びる」「御子を信じる者は誰でもアブラハムの子孫である」

413 :7:2001/08/10(金) 01:09
>>412
>キリスト教が増大するのは世界の 荒廃を意味しないの? は
>鋭い指摘です。まさに聖書には終わりの頃は 世界中に福音が
>伝わると指摘しています。

そう切り替えしますか(笑)←嘲笑じゃないよ。

414 :7:2001/08/10(金) 01:16
>>412
>イエス曰く。
>「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
>「剣をとる者は剣によって滅びる」

これは仏教にも通じる教えです(前者はもろに、後者は為した
ことが返ってくるということで)。

あなたが日本という非キリスト教国に生まれ、転生という概念を頭
から否定しないであろう環境に育ち、今、キリスト者であるという
意味を私はいろいろと想像したくなるよ。

415 :黒海老:2001/08/10(金) 02:03
>>411
釈迦は神通力が使えたと思いますか?
なんの経典かは忘れましたが、ある時釈迦が渡し舟で向こう岸に渡してくれるよう頼んだそうです。
けれど断られたので宙に浮いて渡ったそうです。

416 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 02:06
>「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

は、イエスのオリジナルじゃないし。

>「剣をとる者は剣によって滅びる」

は、イエスが言ったか、
もしくは、聖書著者がつけくわえたものかもしれない
そもそも当時のことわざなんだろうけどね

417 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 02:09
412ですがローマ書9から「12」の誤りです。すみません。
>414 ぼくも親鸞の歎異抄はキリストの教えと同質のものを
感じています。転生という概念は聖書には、はっきり「ある」とも
「ない」とも書かれてありません。よって個人的には、知らなくてよいこと、
と判断していますが、世の中には興味深い実話が存在しており、幼い子供が
ありえないほどに前世の自分の詳細を語るなど、いろいろ想像を巡らせたり
・・・また仏教の哲学も興味深くみさせてもらっています。これからも時々
拝見させていただきます。では、いつかまた。  

418 :7:2001/08/10(金) 02:18
>>415
はい。但し、衆生を法に導くとか、弟子の教化とかいう場面で使った
と認識してます。

入滅直前、在家のアンバパーリーという人が追いかけてきて、非常に
取り乱していたので川を作っちゃったという話もあったと思います。

でも、そういう物理的変化を起こす能力よりも、人の心を読み取る力
とか過去と未来を見る力があったからこそ、調御丈夫ともいわれ、
自在に弟子を導くことができたのだと思います。

神通については神通第一といわれた大目連(頭を叩き割られて死んだ)
が有名ですね。

419 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 02:22
俺が偉い

420 :黒海老:2001/08/10(金) 02:25
>>418
悟りを得たら神通力が使えるようになると思いますか。

421 :黒海老:2001/08/10(金) 02:27
悟りを得たら神通力が使えるようになると思いますか。 ×
悟りを得たら神通力が使えるようになると思いますか? ○

422 :7:2001/08/10(金) 02:40
>>421
神通力の種類にもよると思いますが、悟りを得る以前に欲界の神の
意識になった段階で、徳とか集中力とか深い意識にアプローチする
能力があれば可能だと思います。

423 :7:2001/08/10(金) 03:52
しばらくここには来れないので、やっぱ104を訂正しときます。

欲界の構造(他に色界とか無色界とかがある)

高位の天界←自己満足 第六天魔王(欲界の支配者)
低位の神界←酒を飲む 闘争心 嫉妬心     ←酒をのむな
人間界  ←情を持つ セックス プライド   ←邪淫をするな
餓鬼界  ←盗む・貪る    ←盗むな
動物界  ←曖昧・無智 楽しみ セックス   ←嘘をつくな
地獄界  ←嫌悪(嫌悪からくる怒り)     ←殺すな

注意 一つの戒には複数の意味があります。また各世界の
   特長はここに書かれたものが全てではないです。

>5つの戒律を守っていれば、下から数えて5つ目までの世界に対する
>意識の固定は弱くなる。だから下の5つの世界から離れて上の天界に
>行ける。と言う事ですか?

その可能性は高くなるということですね。

424 :7:2001/08/10(金) 03:57

×低位の神界
○低位の天界
どっちでもいいんだけど一応訂正

425 :7:2001/08/10(金) 05:03
>だから5つの戒律を守っていれば、下から数えて5つ目までの世界
>に対する意識の固定は弱くなる。だから、戒めっていうのは本来
>心を解放していくものであって縛り付けるものではない。

426 :390:2001/08/10(金) 08:36
>399

私が、キリスト教が現実と何の関わりもない、と言ったのは、慈善事業などを
実践していない、という意味ではないよ。

キリスト教の正しさが客観的に証明されていないのに、それをあたかも科学に代わる
事実のように吹聴する、そういう不誠実な態度が許せないんだよ。神学など、所詮
はキリスト教の教義でキリスト教の正しさを裏付けているだけだ。

あなたに言わせれば、教会の中世的迷信支配から、人間を解放したベーコンもまた
「反キリスト教哲学者」なんだろうがな。彼はこう言っているぞ。

「人間の機知と精神とは、物質に働きかけるときはその物によって制限されるが、
しかしクモが巣をつくるように、おのれ自身に働きかけるときは、それは果てしも
なく続いて、実際に学問という『クモの巣』をつくり、糸といい、細工といい、
見事なものだが、実質といったら何もなく、益するところは一つもない」

427 :140:2001/08/10(金) 09:21
皆様、おはようございます! (^^
いやあ、夜になると、このスレのお話し合いが、盛り上がりますね。
私は、夜は参加できませんので、残念です。

ところで、朝このスレを見るたびに、「ああ、また訂正しないと…」と思ってしまいます。
夜に登場する、クリスチャンの方々、仏教徒の方々の誤解を解いてあげるよう、努力してください。

>>396
325年は、「新約聖書」はまだ「存在していません。」
紀元90年と118年ごろの二回にわたり、ヤムニア会議という、聖典決定のための会議が、開かれました。
これは、ユダヤ教の会議なのですが、ここで、旧約聖書の内容が確定され、現在の形になりました。
(うんと簡単に言うと、こういうことです。)
この「旧約聖書」を、当時のクリスチャン達はユダヤ教から受け取りました。

当時、イエス・キリストと使徒達のことについて、いろいろな文書が記されていました。
その中で、昨日ごく簡単に触れた、基本信条が成立して行く中で、
イエスの言葉(として伝えられたものも含む)、使徒達の伝承等が集められました。
そして、明らかに異端と思われるものは、取り除かれて行くのです。
そして、最終的に、新約聖書が確定するのが、397年に行われた、カルタゴ教会会議です。
ここで、旧約聖書・新約聖書あわせた66巻が、正式に「教会の聖典(カノン)」として、決定されました。

…もうこんな時間なので、以下略!

428 :140:2001/08/10(金) 10:39
少し時間ができたので、続き。

キリスト教は、この「聖書」を、基準としています。
仏教で言う「聖典」と、キリスト教で言う「聖典」とは、意味が異なるのではないでしょうか。
キリスト教は、あくまでも聖書が基本であり、基準であるのです。
カルタゴ会議で決定された聖書から逸脱するものは、それは教理にはならない。
だから、途中で「輪廻の思想も取り込もう」などということは、絶対にありえないのです。
それがいくら、「日本人キリスト者」だとしても、です。

聖書を中心として、全ての思想が展開します。
ですから、基本信条に基づいた聖書釈義をきっちり行わないと、正しいキリスト教の姿は見えてきません。
しかし、残念ながらそこまできちんとしていない「キリスト教亜流」が、巷には満ち溢れていますね。残念です。

それから、自分の宗教から他宗教を見る、ということについての、個人的見解。
仏教からキリスト教を見れば、やはり不完全であり、劣っていると見えるのは、理解できます。
ところが、キリスト教から仏教を見ると、例えばパウロや使徒教父達が論争した、
様々な異教の哲学体系と、何ら変わるところがない、と見えてしまうのです。
つまり仏教は、完全な救いに至ることができない、不完全な哲学である、と。
しかしこれでは、生産的なものは、生まれません。
お互いに謙遜になって、相手から学ぶという姿勢が、大切なのではないでしょうか。

429 :ななしさん:2001/08/10(金) 10:42
このスレッドを読むと、世間では宗教の話題はダメと言うのがよく分かる。
結局あの世の事だから、堂堂巡りなのね。

ただ、実践あるのみですね。

430 :140:2001/08/10(金) 10:50
書き込みを確認しようとすると、また書きたくなるな。

>>429

ななしさんへ
キリスト教が言う「神の国」とは、神の支配が及ぶ領域、という意味です。
「それが近づいた」と、主イエスは語られたのですが、
それはまさに、この地上において、神の支配が実現しなくてはならない、ということです
それを主イエスは、人々に求められたのです。
キリスト教会が、いろいろな業を、地上で熱心に行っているのは、そういう背景があります。
つまり、死んでからどうのこうの、ということよりは、「今生きている人間がどうするか」の方が、
関心が高い、とも言えるのです(これもまた、誤解を招きそうな言い方だなあ…)。

431 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 11:05
>428
>カルタゴ会議で決定された聖書から逸脱するものは、それは教理にはならない。

イエスの考えなんてどーでもいいわけだね。
だったらカルタゴ教にしなよ、まぎらわしい。

432 :140:2001/08/10(金) 11:11
>>431

もう一度同じことを書きます。

当時、イエス・キリストと使徒達のことについて、いろいろな文書が記されていました。
その中で、昨日ごく簡単に触れた、基本信条が成立して行く中で、
イエスの言葉(として伝えられたものも含む)、使徒達の伝承等が集められました。
そして、明らかに異端と思われるものは、取り除かれて行くのです。
そして、最終的に、新約聖書が確定するのが、397年に行われた、カルタゴ教会会議です。

要するに、
当時、たくさん流布していた文書の中で、主イエスの言葉と、主イエスのことを証しした文書が集められたのです。

最後まできちんと読んでから、反論してください。

433 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 11:14
>>428
>つまり仏教は、完全な救いに至ることができない、不完全な哲学である

具体的に挙げてみてくれませんか?学問にすぎないという中傷以外
きいた事がないもので。

434 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 11:19
>432
カルタゴ教会会議というのにイエスと同じレベルの修行者がどれだけ
いたんだい?それと時の権力者の影響を受けなかったといいきれるのかい

435 :1:2001/08/10(金) 11:31
みなさーん、ありがとうございます!とっても勉強になります!!
ひとつ気になってたのですが、キリストと釈迦は比較できないと言う方が、
いらっしゃいますので、質問を
「キリストとお釈迦さま、どっちが偉い? 」から
「イエスとお釈迦さま、どっちが偉い? 」に変えたいと思います。

436 :140:2001/08/10(金) 11:32
>>433 >>434
残念ですが、私はそろそろ、仕事に戻らないと…(^^;

学問に過ぎない、ということと、意味は同じかと思います。
詳しく論ずるには、私もまた、仏教に関する知識に乏しすぎます。
ですから、そういうことは避けたい。

主イエスは、修行者ではありません。
そういう発想は、仏教的な発想です。
私が繰り返して申し上げているのは、そういう風に見ないで欲しい、ということなのです。
分かっていただけるでしょうか?

それから、ご質問に対してお答えするには、ここは限られたスペースです。
もしここで、簡単なお答えをすると、また誤解が生まれます(今までの経験から)。
ですが、誤解を恐れず、あえて申し上げます。

時の権力者=悪者、と、簡単に割り切ることはできません。
特にキリスト教は、「歴史的宗教」といわれています。
(このことについての詳しい知識は、もし志がおありなら、ご自分で学んでください。)
ですから、歴史の流れから離反し、そこから超越したところで、
キリスト教は形成されたのではないのです。
さらに、旧約聖書では、国家と宗教とは、等しい一面があります(古代イスラエルの歴史)。

ああ、時間切れ

437 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 11:57
>436
じゃ断食はなんなの?修行っていわないなら何でしょう?
国家と宗教の関係はどうでもいいです。アショカ王など仏法を基に統治した
王はいますから。問題は権力者が経典編纂あるいはその準備に干渉しなかったと
いいきれるのかということです。特に輪廻の思想は死を恐れないという考え
に結びつきかねず、支配者には都合の悪いものと捉えられる可能性があるのです。

438 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 12:34
http://www.godsimmediatecontact.org/kannon/news/no81/d-1.htm

コンスタンチン皇帝時代の国教会は、信仰の規則に従って、いつでも使えるよう
固定された聖書の目録を作りました。彼らはさらに、不要なものとして流通から
除かれたものや、すでに聖書として見なされなくなった経典の目録も作成しました。
こうした規範化や検閲の過程の多くは、四世紀中に起きています。「外典」の
ほとんどが聖書としての地位を失ったのがこの時期です。ほんの少しの部分だけが
この四世紀の聖書となり、悲しいことに、多くの重要な神秘的な部分が省かれてし
まったのです。

439 :426:2001/08/10(金) 12:36
140さんの言いたいことはこういう三段論法なんだろう?

1.キリスト教の教義は正しい。
2.キリスト教が公式に認めたもの以外は、キリスト教においては
真理ではない。
3.仏教やギリシャ哲学は、キリスト教が公式に認めたものと一致
しないから、真理ではない。

この仮定には、実は「すべての真理はキリスト教に含まれる」ないし、
「キリスト教以外に真理はない」という前提が含まれているんだよ。
だから、「キリスト教が正しいのは、キリスト教以外に正しいものが
ないからだ」という同語反復になっているんだよ。

440 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 12:37
遠い未来、宇宙構造、創造原因、体の仕組み、意識、心霊、死後世界、生命存在理由理由などなど、
科学でかなりのことが解明されると確信しています。
切り口は違っていても、真理を多面的に追究することで、
研究が加速されるわけで、多面的アプローチが許容されることこそ重要と思います。
どちらが偉いというのは変な議論で、どちらも重要で偉大と思います。

441 :140:2001/08/10(金) 12:46
>>437
断食は、修行ではありません。全く違います。
断食は、旧約聖書の祭儀に、そのルーツがあります。
祭儀というと、また誤解が生じると思いますが、仕方がありません。

要するに、神の前に、祈りと讃美を捧げて、礼拝を捧げること
(厳密な言い方ではありませんが、分かりやすくするために)と、
密接に関係があるのです。

もう何度も申し上げたことですが、もう一度申し上げます。

仏教者の皆様は、仏教を語ることだけに専念していただきたいのです。
そうでないと、ただの「こき下ろし」になってしまい(もうそうなってる)、
決してよいことではない、と感じるからです。

ただ、質問なら歓迎しますよ。(^^

>>438
おっしゃるとおりだと思います。
そういう意味では、
聖典としての聖書だけでなく、外典・偽典の研究も、
有意義だと思います。
ただ、資料としての価値にとどまるとは思いますが。
つまり、そこから新しい教理を形成するわけには行きませんよね。

442 :426:2001/08/10(金) 12:47
聖書の成立についても同じ事。テキスト批判が進んだ今、新約聖書
の多くが後世の教会関係者が書き足したものであることは明白な事実
だよ。勉強していないのなら、田川建一の『書物としての新約聖書』
を読んでから、ここへ来なさい。そうでないと、438さんの指摘する
事実を受け入れられないだろうから。

ニケーヤ会議の決議を正統とするのは教会の勝手だが、それは教会
内の取り決めだろう?それが非クリスチャンのわれわれに対しても、
そのまま真理になるというのは、「教会=神」ってことかい?

それなら、議論の余地なんてないじゃないか。サリンばらまいた教団
と同じだよ。一般人との対話が成り立たないからな。

443 :140:2001/08/10(金) 12:52
>>439

私は一度も、「キリスト教は正しい」とは、言っていませんよ。
おそらく、仏教者の皆様の方が、「仏教は正しい」と言いたいのだと思いますが。
だから、「仏教(という、真理)から見たら、キリスト教は…」という論法から、
抜け出せないでいるのではないでしょうか。

キリスト教で一番大切なことは、「聖なる三位一体の神への信仰」です。
この信仰を前提として、全ての教理が成り立っているのです。
で、この「神への信仰」のためには、神とはどういうお方か、ということが、
明確になっていないとならない。
そこで、神とはどういうお方かがきちんと示されているのが
昨日(だったかな?)お話した、基本信条です。
父なる神について、子なるキリストについて、助け主なる聖霊について、
そして、「イエス・キリストとは、一体どういうお方なのか」
ということについて、示されているのです。

…話が途中で脱線してしまった…

444 :438:2001/08/10(金) 12:55
すみません。438の文章はあげてあるurlからの引用です。

445 :140:2001/08/10(金) 12:56
忙しいなあ…

>>442
そういうことは、どうでもいいのです。
問題は、「聖書は聖典である」ということなのです。
正直言って、聖書はだれが、いつ、どこでどのようにして書いたのか、
分からないものが多いのです。
けれども、そういう緒論的なことよりも、大切なことは、
いわゆる「ケリュグマのキリスト」なのです。
つまり、使徒たちが(主イエスの弟子達)出会い、行動を共にし、
その十字架と死、復活と昇天との出来事の目撃者として語った。
そこが肝心なのです。

446 :1:2001/08/10(金) 12:59
140さん、
申し訳ありません。かなり簡単な言葉に直して説明して下さってると思うのですが、
もう少しわかりやすくお願いします。
断食は「要するに、神の前に、祈りと讃美を捧げて、礼拝を捧げること」らしいですが、
それをすることにどんな意味があるのですか?

また、仏教では断食はどのような意味があるか教えて下さい。

447 :426:2001/08/10(金) 13:07
>140

ちょっと酷い表現になってしまったようで、スマンね。許してくれ。

自分の信仰に対する姿勢を問いたいんだよ。確かに、信仰の自由は
ある。だけど、それを選ぶだけの根拠があるはずだよね。あなただ
って、オウムには入らずにキリスト教に活路を見出した。それは、
単に今日のお昼を牛丼にするか、あるいはハンバーグにするか、と
いう安易な選択とは違うと思うがね。

どんな宗教行っても、「自分のところは真の教えです」って言うん
ですよ。だから、本当に真理を求める人は、科学者のように疑団の
塊になってぶつからなければ。「聖書が聖典である」なんて、教団が
用意したいい訳の丸写しじゃない。私には、そういう態度が不誠実で
許せないんだよ。それで、つい声?を荒立ててしまった。許せ。

キリスト教会の場合、今の教義がどういう成り行きで作られていった
か、一度洗い直す必要があると思うよ。人間は過ちを犯すものだ。
それを意識している限り、どんな宗教でも大きく道を踏み外すことは
ない。だが、140さんの書きっぷりを見ていると、非常に怪しいな。

448 :140:2001/08/10(金) 13:08
>>446
先ほどの私の書き込みは、実は正確ではありません。
聖書においては、祈りのため、喪に服するため、悲しむため、悔い改めのため、
国家の滅亡を想起するため、そして、贖罪の日という、祭りのためなどに、
断食を行いました。
以上は、旧約聖書の断食に関することです。
新約聖書においては、特に祈りの面が強調されているようです。
また、神の前に悔い改めるという面も、見過ごすことはできないでしょうね。
以上のようなことを総合すると、前の書き込みのようなことが言えるのです。

449 :140:2001/08/10(金) 13:16
>>447
もちろん、許すも許さないも… (^^
お互い真剣に自分が信じる道を真剣に求め、考えている、という点では、
私達は仲間だと思っていますから。(迷惑でしょうけどね)

私は、教理自体は、問題はない、と思っています。
アサシンのように、人を殺せとか、どこかの宗教のように、ポアしろとか、
そういうことは言ってはいないわけですから。
問題はむしろ、人間が都合のいいように聖書を解釈して、
勝手に振舞っているこの現実、ではないでしょうか。

私は、実は別のスレで、「デビルマン」という名前を使って、
クリスチャン達にそのことを問いただしたのですが、
見事、追い出されてしまいました。。。
特に、今の日本の(それも福音派を中心とした)クリスチャン達は、
神に対しても、人に対しても、そのあり方に問題があると思っています。

つまり、「悔い改めがない」のです。
そして、「悔い改めていない」ことに、気が付かないでいるのです。
大きな問題を感じています。

450 :夏厨Ver.0.12bate:2001/08/10(金) 13:20
で、結局どっちが偉いんだ??

俺的にはキリストに一票。
クリスマスがあるからにゃ

451 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 13:37
>>446
仏教的には食欲の本質を知るっていうことが挙げられるかな?食べる
ことの喜びの裏にある食べられないことの苦しみ。これはワンセット
なんだってことを認識する。

ただ、普通は無理にやらない。なぜなら、食べたい食べたいと思いながら
やったらその思いが確定してしまう。餓鬼転生の因にもなる。食欲の
メリット、デメリットをあるいは同様に味覚の本質について考えていくと
食欲は自然に落ちていく。

ヨーガ的にいうと気を下げないって意味があるね。瞑想の時足を組むでしょ。
それも同じような意味がある。消化にエネルギーを使うってこともある。
それと眠くなる。

>>441
ヨーガでは儀式も修行という定義にいれます。儀式ヨーガという言葉
もあるし。仏教でもそうだと思うよ。戒誓行(満月と新月の日にザンゲ
する、だと思った)っていう言葉あるし。

あと、これいうと怒られるかな、イエスの40?日の断食はヨーガ・
仏教でいうサマディにはいっていたのだと思う。

452 :426:2001/08/10(金) 13:41
>449

誠意あるレスをありがとう。「デビルマン」さんね。ご活躍は存じて
ますよ。クリスチャンにも酷いのがいるんだねえ。

仏教の根本思想は、科学に似ていると思うのです。その精神は「本当
の存在であるか疑いぬけ」です。仏教はタマネギのようなもので、
むき続けると最後には何もなくなる、と悪口を言う人もいます。否定、
否定のあと、最後には否定自体を否定しますので。何事も断定せず、
保留しておくのが仏教の思想だと私は思います。

このスレで、近代科学の出した結論が仏教思想に近い云々の話が出ま
したが、それは態度を保留しておいたからそういう結果になったので、
仏教の智慧がそこにあるとすれば「断定せず、保留しておく」という
行為そのものにおいてです。逆に、何でも断定せずにはおかないキリス
ト教は、はく付けのために採用したアリストテレス哲学が裏目にでて、
台頭してきた科学との競争に敗れ、迷信で人心を惑わす悪役を自ら引き
受けるはめになってしまいました。その点、「保留」で貫いた仏教は賢い。

453 :426:2001/08/10(金) 13:51
>451

横からゴメンよ。

>食べることの喜びの裏にある食べられないことの苦しみ。これはワン
>セットなんだってことを認識する。

これとともに、「食べる者と食べられる者」のワンセットの認識がある
から、無制限に食べられなくなるのだと思います。あるいは、「食べる
自分と食べられない他人」のワンセット。さらには、「食べ物を作る人
とその食べ物を食べさせてもらう自分」のワンセット。

こういう縦横無尽のネットワークの中で、自分が生かされていること
を感じるとき、仏の慈愛を感じ取ることができると思います。451さん
の解釈は小乗的(悪い意味じゃなくて)、私のは大乗的かな?

454 :223:2001/08/10(金) 14:01
一晩来ないうちに書き込みが大量に・・・^^;
>>7
どうも話が噛み合わないですね^^;
 私は仏教における「自己」や「神」「悪魔」あるいは「五蘊」や「十八界」を
変化する状態または生滅する現象として捉えており、実在論的に解釈
しておりません。あらゆる事物の実在化、実体化を批判するのが仏教
の基本教説であると考えます。7さんは「真我」という概念をどのよう
に捉えられてお出ででしょう。またそうしたことが説かれている仏典
をお示し頂ければ幸甚です。仏典に説かれるアートマンはブラフマニ
ズム的な「真我」とは同じ概念だとは思えないのですが・・・

>>黒海老さん
 私もブッダを神のような存在ではなく、あくまで「目覚めた人」とし
て捉えております。「ブッダ」という語も当時は普通名詞として用いら
れており、ジャイナ教の経典などには弟子のサーリプッタ(舎利弗)も
ブッダの一人として登場するようです。ゴータマ・ブッダ(釈迦)の神格
化の過程で、普通名詞から固有名詞に変化したのだと思われます。

455 :1:2001/08/10(金) 14:14
>>451
ありがとうございます!素人な質問をして申し訳ないです。
とてもわかりやすいです。
エネルギーを下げないとどういう利点があるのですか?

>140
丁寧に教えて下さってありがとうございます。
>聖書においては、祈りのため、喪に服するため、悲しむため、悔い改めのため、
国家の滅亡を想起するため、そして、贖罪の日という、祭りのためなどに

このような理由で断食をして、どのような効果があるのですか?
特に、悲しむために断食をする、という意味がよくわかりません。

456 :440:2001/08/10(金) 14:26
>>452
基本的には仏教支持派ですが、キリスト教について

科学では、仮説を提示しなければ、証明実験もはじまらないし、先に進みません。
なのでキリスト教的なアプローチは重要で必要だと思います。
神も霊の実存し、実存するエネルギーで活動する。
自然科学的世界観を提示しています。

457 :223:2001/08/10(金) 14:54
>>452
 ブッダは経験、知覚、観察、認識出来うる事物に対しては、積極的に
見解を述べましたが、それ以外の形而上的な問題に関しては沈黙を守り
回答をあたえませんでした。こうした仏教の態度が、現代の諸科学との
共存を可能にしたのでしょうね。

458 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 15:44
>>455
ヨーガにも哲学的ヨーガ等いろいろ流派がありますが、エネルギーをサハス
ラーラ・チャクラ(頭頂)に集中し崩壊させ不死の甘露(エンドルフィンでは
ないかともいわれています)を滴らせるという技法があります。

下位のチャクラにエネルギーが集中すると、そのチャクラが司る精神活動
(性欲、食欲等)が活性化し、またいい瞑想(高い世界につながる瞑想)
ができないっていう理由もあります。

459 :1:2001/08/10(金) 15:49
>458
ご回答ありがとうございます!
不死の甘露と言うのは液体のですか?
また、肉体が不死になるのですか?

460 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 15:53
新約・旧約66巻の成立過程そのものは重要ではない。結果が重要である。なぜなら
神はエジプトの異教の王パロを用いた、場合によってはサタンさえ用いた(ヨブ記)
ではないか? 新旧の預言一致は天文学的な確立であるし、歴史的に、あるいは現在
進行形でも預言自体は評価されている。「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」と
新約にあるが、確かに統一性は否定できない。福音書にはそれぞれ個性が別れるが、
弟子の失敗等々、宗教書として不利な点も客観的に記されてある。蛇足だが毀誉褒貶
あいなかばの「聖書の暗号」という本も興味深い。これは無神論の新聞記者がヘブライ
大学の教授などと分析・論究したもので、コンピューターを使い聖書から暗号を読み
とる、というものだが、ヘブライ語原典の聖書のみ有効で、トルストイの「戦争と平和」
でもドストでも、人間の書いたほとんどのものでは無理であったらしい。それによると、
世界中の出来事のみならず、日本の小さな出来事まで、何年何月に起こるかまで、記され
てあるという。が、ぼくはこれに関しては、100パーセント信じているわけではない。 

461 :223:2001/08/10(金) 15:54
 「無記のものは、無記のまま、了解せよ。無記であるのは、目的に
かなわず、浄らかな修行の基盤とならず、世俗的なものを厭い離れる
こと、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、正し
いさとり、ニルヴァーナのためにならないからである」

462 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 16:10
>>459
冷たい液体上のものが頭の真中を落ちるそうです。左右にも流れ
ますが、これは本格的なものではないです。

肉体が不死になるのではないです。意識の断絶がなくなることを
不死といいます。一説によるとエンドルフィンは死に直面したとき
分泌され、安らかに逝くことを可能にするとか。

これと同様の効果でサマディ(擬似死)にも入りやすくなる。
サマディにはいるとき熟達していないと気絶してしまいますが、
なれると意識の断絶が起きなくなります。

で、これを実際の死のときに応用すると意識の断絶なしに死後
の世界に移行し、訓練していれば転生先も選べるということに
なります。

463 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 16:27
世界ではじめにキリスト教を国教としたのはローマですが、これもよく
考えれば非常に不思議な話です。初代教会のみならず旧約を信奉してい
たユダヤ人を最も迫害したのはローマでしょう? ところで、人間が夢
か現実かわからぬ窮境までいったとして、それは聖書では重要な話では
ない。というのも、人間それ自体にその力があろうがなかろうが、パウロ
は言っています。「私は以前、第三の天にまで引き上げられた(ヒト)
を知っています。肉体かそれを離れてかは判然としませんが」旧約聖書
にはエノクという人物が、いきなり天に引き上げられた、とあります。
おもしろいことに、聖書はそれらを重要な事柄(本質)と捉えていない、
ということです。問題は別のところに存在するようです。重要なことは、
神の栄光・義・愛です。イエスは「自分からは何もできない」とさえ言
いました。すべて神のみこころです、と。私たちクリスチャンはイエス
の言葉によって生かされています。神を愛し、ヒトを愛し、感謝と謙遜
と祈りによって、喜び、分かち合いなさい、ということです。 在主

464 :7:2001/08/10(金) 16:49
>>454
呼ばれたようなので来ちゃいました。
>私は仏教における「自己」や「神」「悪魔」あるいは「五蘊」や「十八界」
>を変化する状態または生滅する現象として捉えており、

これは同意なのですが、映画マトリックスみたいなもんで、虚構
の世界は虚構の世界として(しかし住人にとっては実在のものと
して)存在するのです。

外に立っている人は、それが虚構であることをしっており、一部の
住人は(私達は)外に立つ人の残したメモをみて、世界の実相を
知識としてのみ把握しているのです(体現してない)。

>あらゆる事物の実在化、実体化を批判するのが仏教
>の基本教説であると考えます。

これは、虚構の世界を虚構といっている根本的な法則です。
が、一方で、繰り返しますが、虚構の世界は虚構の世界として
存在するのです。あなたは今どこにいますか?そこは虚構の
世界ですが、あなたにとっての実在でもあるのです。

出典についてはまず
>仏典に説かれるアートマンはブラフマニズム的な「真我」とは同じ
>概念だとは思えないのですが・・・
を示す記述を先に提出していただきますようお願いいたします。

465 :黒海老:2001/08/10(金) 16:57
『スッタニパータ』は原始仏典の中でも特に古い時代に成立したもので、
おそらく釈迦入滅から100年以内にまとめられたものであると思われます。
仏教の最初期のものに近く、興味深い記述が多くなされています。
岩波書房発行 ブッタの言葉−スッタニパータ− 中村元 訳より

鍛冶工チェンダはいった、「目ざめた人々(註)は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか?
また、<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか?
またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。
また<道を汚すもの>をわたくしに解き明かしてください。」
「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルバーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、
神々と世間とを導く人、−そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。」(85.86)

註 …ここで、目覚めた人々(buddha)が複数形であることに注意せよ。
次の詩でもbuddhaと複数形になっている。つまり、ここの教えを釈迦が説いているのではない。
「わたしが説くのだ!」とは言わない。そういう傲り高ぶった気持ちをかれはもっていなかった。
ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が説くのである。
当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈迦はただ伝えたに過ぎないのである。
かれには<仏教>という意識がなかったのである。

また、「マハパリニッバーナスッタンタ」では

如来は自分こそが修行僧を導くであろう、とか、修行僧の仲間は私を頼っている、
とか思うことがない。
如来には修行僧のサンガにあらためて語ることはないのだ。(1・25)

釈迦自身を信仰するのではなく、真理を追究しなさい、と言っているようにも取れます。

466 :7:2001/08/10(金) 17:15
>>465
一人なのは如来です。如来とは直接の師なし一人で最終段階にいたった魂です。
如来の導きで覚醒した魂は、定義上、如来にはなりません。仏陀はもちろん
固有名詞ではなく、複数いてもok

釈迦は弟子が求めるから、それだけの理由で存在する。釈迦が求めて法を説く
ということはない。すでに執着はないからいつでも涅槃に入れる。あるいは他
の場所で衆生再度の法輪をまわしてもいい。

467 :140:2001/08/10(金) 17:47
やはり皆さん、仏教を語られると、すごいですね。心から敬服いたします。
やはり専門の方であろうと拝察いたしました。
その調子で、もっといろいろと教えてください。

私はそのうち、お約束の「基本信条」について、解説と共に日本語訳を書き込むことにします。
このスレを見ておられる方々のお役に立てば、と思います。

>>1

断食の効果ですが、いわゆる「効果」を求めて、断食をするのではありません。
神の前に、自分自身がどのような態度で臨んでいるか、ということの、一つの現れでしょうね。
例えば、食を絶って神に祈るくらい、神を求めているのだ、という具合に。

468 :1:2001/08/10(金) 17:51
>>467=140
それほどまでにして、神を祈ると、どうなるのですか?

469 :名無しさん@:2001/08/10(金) 17:56
キリストもお釈迦さんもどちらも偉いにきまってんじゃん!どうして比べたがるのかなー? 強いて言えば、キリストは神の子、
お釈迦さんは、人の子だよね。そうなると、どちらが偉いのかな?

470 :名無しさん@:2001/08/10(金) 18:02
神を祈るんじゃなくて、、、神に祈るんだろ!自らの煩悩というか、欲望を捨てて、心を空っぽにして、何事も、素直に受け入れる姿勢を祈る事によって生きるということを学べるんじゃないの!
人間として正直になれるよ、きっと。

471 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:06
イエスが断食をした例では、サタンに対する霊的闘い、が有名です。
悪霊が入った子供を、断食と祈りによって治癒なされたりも。。。

472 :通りすがり:2001/08/10(金) 18:06
>469-470

キミは一体、何を怒っているんだい?情緒が不安定なのか?攻撃的
性格なのか?

473 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:07
>>469

レス全部読んで!
タイトルが「キリスト」から「イエス」になったの。
イエスは、人の子よ。

474 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:08
>470
ふ〜ん。
なんか他力本願だね。

475 :黒海老:2001/08/10(金) 18:09
仏教とは真理を追究する事が目的です。
真理とは自然の働きですから、当然釈迦が生まれる以前から存在したものです。
そこで釈迦が悟りに至る以前に悟りに至った人達がいた、と言う発想が起こりました。
これを「過去七仏」と呼びます。
釈迦以前に6人のブッダがいたとして、それに釈迦を加えて7人とします。
ダンマパダには有名な七仏通誡喝(すいません、"イ"にんべんの『げ』と言う文字が出ません)
と呼ばれる一説があります。

諸々の悪をなすなかれ。諸々の善をなし。自らの心を清めよ。これ諸仏(過去七仏)の教えなり。
                                     (183)
また『古城』という話があります。

私は人気のない林をさまよっていて、ふと古い道を発見しました。
昔の人が住んでいた古い城がありました。園林があり、岸も美しい蓮池がある古城です。

比丘たちよ、私も同じように過去の仏たちがたどった古道を発見したのだ。

それはかの八正道である。
…これが過去の仏たちのたどった古道であって、この道を歩んでいきながら、私もまた老死を知り、
老死の生じる原因を知り、老死の滅を知り、老死の滅に至る道を知ったのである。
                             (サンユッタニカーヤ12・65)
真理とは釈迦が発見したものであって、創り出したものではないと言う事でしょう。

476 :キリストから釈迦へ:2001/08/10(金) 18:19
キリスト『どうですか? うまくやってますか? あなたのとこの人間は?』
釈迦 『だめだ!! へんな奴 ばっかりに なってしまった...。』
キリスト『私のとこと 一緒ですな...。どうしたもんでしょう?』
釈迦 『つぎいこ つぎ!!』

477 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:21
>468 支配されるのでしょう。悪い意味ではありませんよ。聖書に
は、キリストにある者は完全な自由人であるが、義の奴隷、つまり買い取られた、
というような内容が書かれてあります。キリストによって死に、キリストに
よって生きるようになる、ともあります。しかし問題はそういうことでは
ありません。主キリスト・イエスにより生命全体の中の「ひとつの器官」として、
お使い頂く、という内なる御声に導かれる・・・現実界における実践でしょう。

478 :7:2001/08/10(金) 18:24
>>475
>釈迦以前に6人のブッダがいたとして、それに釈迦を加えて7人とします。

ブッダ、正確には如来ですね。人数にあまり意味はないですが、宇宙は
創造、維持、破壊、虚空のサイクルを繰り返しています。ワンサイクルを
1カルパといいます。で現在のカルパでは釈迦で24人目だったような・・・
曖昧なこといって御免なさい。

>真理とは自然の働きですから、当然釈迦が生まれる以前から存在したものです。
同意

479 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:28
>475 不思議なことに、聖書にも、今あるものは既に過去にもあった、
というような記述があります。ところで、学究の徒であられる仏教者の
みなさんには、ぜひ一度、旧約聖書の「伝道者の書」をお読みいただきたい。
30分もあれば読了できるでしょう。その感想が聞きたいのでした。

480 :名無しさん@1周年 :2001/08/10(金) 18:32
>479

?「新共同訳」だけど、そんなの目次にないよ

481 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 18:36
>>479 >>480
伝道の書…口語訳聖書
コヘレトの言葉…新共同訳聖書
伝道者の書…新改訳聖書

482 :480:2001/08/10(金) 18:40
>481

ありがと。

483 :黒海老:2001/08/10(金) 18:41
『スッタニパータ』に『ヴァンギーサ』と言う章があり、
そこでヴァンギーサは亡くなった師ニグローダ・カッパについて質問します。
そして釈迦が「彼(カッパ)は妄執を断ち切ったのである…」と言う説明を聞いてこう言います。

[ヴァンギーサいわく、−]「第七の仙人(ブッダ)さま。あなたのおことばを聞いて、
わたくしは喜びます。わたくしの問いは、決して無駄ではありませんでした。
バラモンであるあなたは、わたくしを騙しません。

とあります。
過去七仏と言う観念が最初期からあった事が伺えます。

484 :480:2001/08/10(金) 18:53
>479

走り読みしただけだが、仏教に近い。それが言いたいのでしょう?

しかし、仏教と呼ぶには無常論(ニヒリズム)に走りすぎている気が
する。近いのはエピクテトスかな?

「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦し
た結果のすべてに満足することこそ、幸福で良い事だ。それが人の
受けるべき分だ」(5:17)

に端的に現れているけど、著者の視点は「二者対立」の世界から抜け
出ていないね。仏教に似て非なるもの。

485 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 19:10
これは全くの個人的な感想であります。ご容赦下さい。私の仏教における
不信感は、真理は、自然の働き、あるもの、として書かれていますね。
自然に道徳律は比例せぬとは思われませんか? また、繰り返すサイクル、否、
真理の目的は何なのでしょうか? 他方、超人的なブッダのみが老死の滅
に至る道にゆくのであれば、圧倒的多数の弱者は、もっと言えば歴史の
存続意義はどう説明するのでしょう? 親鸞などの教えもありますが、
仏教には筋が通っていない印象を受けざるを得ません。というのも内村鑑三
は説明しています。「道徳率には愛という深遠たる概念なしには存在し得ぬ。
愛は、アルファでありオメガであるところの根源すなわち創造主であるが、
愛はもし単体ならば存在不可能な概念であり、唯一聖書の神のみが、それを
敷衍してくれる。そう、父と子と聖霊である」次元・時間・空間という概念
も自然律もサイクルも超えた「愛」という歴史的な人倫に対する貢献物は、
聖書に唯一示されているのではないでしょうか? 実際の歴史的人物を通して。

486 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 19:19
>>485
仏教の説く「愛」とキリスト教の説く「愛」は別物だ。
仏教にとって「愛」は絶対のものではない。道徳もしかり。

487 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 19:21
485ですが、途中、道徳率は道徳律に訂正。そして付け加えるならば、
真理を悟った人間は「不死」をどうしても体で示す必要があったのでは?

488 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 19:26
>>487
生ある者は必ず滅す。それが自然の理。その理を直視するのが仏教。
「不死」を体で示す必要があるのはむしろキリスト教の方だろう。

489 :480:2001/08/10(金) 19:30
>485

あなたのご指摘は正鵠を得ていると私は思います。「仏教徒」の中で
も見方が分かれる問題でしょう。

仏教修行者は、ひたすら「仮の自分」を捨て去る修行を積むのです。
その具体的な思想や方法については、このスレでも多くの人が書いて
います。そして、最後に「仮の自分」を捨て去ったとき、そこに絶対
的無か、というと、そうではない。「本来の自分」が泰然と姿を表わす
のです。これが、人が仏と同等になる瞬間です。この時、世界中の存在
が「唯一の根源」(キリスト教でいう神)の部分のひとつひとつである
ことを見、自分も他人もつながっていることを実感するのです。この時
に、キリストの言う「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」
が自然に成就するのです。これが、仏教で説く「菩提心」です。

一言で言えば、仏教はキリスト教の理想を、自己体験によって成就しよ
うとするものです。体験すれば、誰でも真理(神)がわかるのですから、
キリスト教のように最初に神を立てる必要がないのです。無神論に近い
ところから始める。だけど、最後は一種の汎神論になる。

きっと、「そんなものは仏教ではない」と思われる方がおられるでしょう
から、今度はこの方々の意見を聞きたいと思います。

490 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 19:30
>487
仏教は肉体さえ無常である、ってことなの。
不死は意識の連続のこと。

491 :480:2001/08/10(金) 19:51
>485(続き)

ついでに書きますと、原始キリスト教にも、仏教と同じことを主張する
一派がありました。それがグノーシス主義です。

「人間の肉的身体の根底には本来の自己性ともよぶべき霊的本性が
存在しており、それは霊的世界の至高な存在と通ずるものである。歴史
的グノーシス主義ではこの場合、人間は神秘的な『霊的体験(グノー
シス)』によらなければ本来の自己性を認識することはできないという。」
(湯浅泰雄『ユングとキリスト教』講談社学術文庫、p.212)

グノーシス主義は善悪二元論を説くなど、仏教と違うところもあります
が、めざすところは同じなのです。キリスト教会は、かなり早い段階で
グノーシス主義を異端とし、教義から切り離しました。

492 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 19:58
>>491
仏教とグノーシス主義は全くの別物。

493 :7:2001/08/10(金) 20:34
>>485
私見です。
>真理は、自然の働き、あるもの、として書かれていますね。
真理は世界の実相とそれを超越するための法則と考えてください。

>自然に道徳律は比例せぬとは思われませんか?
ごめんなさい。意味がわかりません。

>繰り返すサイクル、否、 真理の目的は何なのでしょうか?
無常ゆえに変化し(サイクル)、その無常を乗り越えること
はできるということです。

>他方、超人的なブッダのみが老死の滅に至る道にゆくので
>あれば、圧倒的多数の弱者は、もっと言えば歴史の存続意義
>はどう説明するのでしょう?
覚醒する因は全ての人、いえ全ての魂にあります。輪廻(=歴史)
の中で、何が本当の幸福なのかをあれでもないこれでもないと
求め続け、外側に自分の求めるものはないことにいつか気づきます。

もちろん、先に覚醒した如来、菩薩方はいろいろな手段で
手を差し伸べます。宇宙の創造、維持、破壊、虚空のプロセス
さえ、救済計画の一部とも言えるのです。(続く・・・かもしれない)

494 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 20:53
>491 ありがとうございました。グノーシスは、イエスがなされた行為のみに重点を
おきすぎた、という話を聞いたことがあります。

495 :480:2001/08/10(金) 20:58
>494

どういたしまして。

>グノーシスは、イエスがなされた行為のみに重点を
>おきすぎた、という話を聞いたことがあります。

それは、イエスに自分の罪を一切合財背負わせて、自分はイエスの
なした行為をやらずに、礼拝ばかりやっているキリスト教会の言い分
だからです。

496 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 20:58
>>494
むしろ逆。グノーシス主義においては、キリストの人性は救済上
本質的意味をもたない。

497 :480:2001/08/10(金) 21:12
>496

できれば、もう少し詳しく教えてもらえないでしょうか?

498 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 21:29
>>497
グノーシス主義は史的イエスの業にではなく、歴史を超越した言葉と
その解釈に重きを置いている。

499 :480:2001/08/10(金) 21:37
>498

では、イエスのなした「隣人愛の実践」などは、意味がないとグノー
シス主義では考えるのでしょうか?

500 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 22:00
>>499
グノーシス主義は、隣人愛よりもむしろ兄弟愛を説く。
兄弟とは宗教共同体の同朋のことを指す。つまり、基本的にセクト主義。
よって、いわゆる隣人愛よりも愛する対象が限定されているとは言える。
ただし、愛の実践そのものを否定するものではない。

501 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 22:19
>ただし、愛の実践そのものを否定するものではない。

十分に否定してるって。

502 :堕靡泥の星:2001/08/10(金) 22:20
>>501
創価モナー

503 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 23:32
>493 自然は、諸々の悪をなすなかれ、などの道徳とは、しばしば正反対な現象を
を起こすし、そもそも道徳は自然自体には不必要な概念ではあるまいか?
すでにあるもの、真理、自然、これらの救済、最終目標とは畢竟「何」であるか?
その無常を乗り越えた後は? それのために人間および地球は存在したのなら、なぜ
創ったのか? その意味は? キリスト教には「創造主における愛の完成」という新約・旧約
に流れる一貫した成長過程ならびに目的、計画成就の現象、理由、来し方行く末、が垣間見られるのだが。

504 :黒海老:2001/08/10(金) 23:35
>>478
>人数にあまり意味はないですが

たしかに数はあまり意味がありませんね。
仏教では7と言う数字を好んで用います。
バラモン教で16と言う数字が重要だったのを受けて、仏教でも16と言う数字が度々用いられます。
それから500と言う数字を「沢山」と言う意味で用いられる事が多く見られます。

505 :名無しさん@1周年:2001/08/10(金) 23:36
皆さん阿含宗という宗教団体を知っていますか?
今では伝統宗教のようにふるまっていますが昔は自ら作ったインチキ
超能力で民心を惑わしあのオウム麻原を生んだとんでもない宗教団体
です。(オウム麻原と桐山靖雄を比べればそっくりであることに気が
付くでしょう)桐山靖雄の過去も疑わしい点があります。
偽ビール事件で実刑判決を受け、学歴詐称を行い(初めは早稲田の卒
業と偽り、それがばれると、日大の芸術学部と偽った)、実際は僧歴
もないのに、僧歴を偽るなどの悪行を行ったのです
現在も金銭の見返りに世界各国から勲章をもらうなどしてますし(池田
大作に模倣して??)インチキなノストラダムス本を書いてまた民心を
惑わし続けています。
皆さん、こんな宗教団体に騙されてはいけません!!
阿含宗の信者だった、もしくはそこの内部事情を知っている方ここへ書
き込みしていただけませんか?宜しくお願いします
また、私も阿含宗の資料が集まり次第ここへ書き込みいたしますので
どうか宜しくお願いします

506 :黒海老:2001/08/11(土) 00:05
>>466
>一人なのは如来です。如来とは直接の師なし一人で最終段階にいたった魂です。
>如来の導きで覚醒した魂は、定義上、如来にはなりません。仏陀はもちろん
>固有名詞ではなく、複数いてもok

如来の語源は全き人(tathagata)と言います。
悟りに至った人とか優れた人と言う意味だと思います。

『スッタニパータ』において『スンダリカ・バーラドヴァージャ』と言う章があり
スンダリカ・バーラドヴァージャと言うバラモンが、祭祀の際の献供を誰に与えるべきか?
と問い掛けます。
それに対し釈迦は「○○な全き人はお供えの菓子を受けるにふさわしい」と答えます。
この時、偽りなく、慢心なく、執着を離れ、心静かに、とらわれず…と良いと思った事を書き連ねているだけです。
わずかに「全き人は過去の目覚めた人々、諸仏と等しく…」となっていますが、
これは過去七仏=如来=独覚と言う意味ではなく、ただ優れた人と言う意味だと思われます。
この時釈迦は「詩を唱えて得たものを食べるべきではない」といい、供物を退けますが、
「ではサーリプッタさんが頂いてください」と言ったとして、釈迦は
「サーリプッタは独覚ではないので全き人ではない。だから供物を受けるに値しない」
とは言わないであろうと思います。

507 :名無しさん:2001/08/11(土) 00:09
>505
いやだ!関係ねえもん。

508 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 00:25
キリスト教徒へ質問。
コレヘトって結局なんで神を受け入れたの?
全く合理的でなかったが。

509 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 00:32
かね出してないけど券1万枚買った

510 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 00:45
思春期には絶対的な存在、神にあこがれる少年少女は多いものです。
自分よりも偉大な存在に導かれ、ぬくもりを感じたいなんて思った
りもします。それで仏陀が偉いのかイエスが偉いのか、いやいやム
ハンマドが、あるいはマルクスかと不毛な問いに悩みます。でも考
えてみましょう。イエスや仏陀は、人間は自分自身が主役であると
いうようなことを言ったと思います。イエスや仏陀の教えに服従し
ていることのみで幸せになれるのではありません。
要は私たちは自分の力で立って生きてゆかねばならないのです。
イエスや仏陀が偉いのは、あなた自身の心に呼びかけを行い、
あなたがそれに答えるきっかけを与えるからにすぎません。
彼らの言葉を受け入れることができ、それを自分の力に転嫁できる
ようになったのであるなら、そのときのあなた自身が真に偉いのです。

511 :BM:2001/08/11(土) 00:56
如来について(>>506

「タター(かくのごとく)・ガタ(行ける)」と「タター(かくのごとく)
 ・アーガタ(来れる)」の二重の意味があるようですね。
如来と漢訳されている場合は、「タター(かくのごとく)・アーガタ(来れ
る)」の意味の方に比重がありますね。

512 :223:2001/08/11(土) 02:20
>>7
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実と
して捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚し
た教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永
遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まった
く愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです
、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
                         (中部経典22)
「「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があ
ってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また
人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活
が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は
死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないと
いう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。」
                       (中部経典:毒箭経)
「みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞
いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。そ
れは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににお
うもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、
心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と
主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょ
う。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れて
しまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼
の知識領域を越えているからです。       (相応部経典 33)
「われ(アートマン)というものはない。また、わがものというもの
もない。すでにわれなしと知らば、何によってか、わがものがあろう
か。」                    (相応部経典 22)

513 :223:2001/08/11(土) 02:21
>>7 続きです。
 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた
常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どうかそれを
わたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておら
れるからです。」
師は答えた。
 「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。
かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれについては存在しない
。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶え
るのである。」
(スッタニパータ 1075〜1076)
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるか
どうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]
に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩み
をともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、
涅槃に役立たない。」
                         (中部経典72)
書き写しにも骨が折れます^^;

514 :223:2001/08/11(土) 02:28
>>7
 ついでに質問。7さんは私を唯物論者とお考えなのでしょうか?

515 :7:2001/08/11(土) 05:17
>>512その1
>書き写しにも骨が折れます^^;
ご苦労さまです。わたしが出典の提出に応じなかったのは、多分ないだろう
という思いがあったのでw。すみません。

知識として知っていても、それは覚醒とは違い、無常を越えることにはならない
ということと、四念処の瞑想など目の前のやるべきことをやれというのが基本です。

アートマン=一元の世界の話を、相対の世界にどっぷり使っている私達が聞いても
誤解することがあっても理解することは出来ないでしょう。百害あって一利なし。

その他障害として考えられるのは雑念になり瞑想の妨げになること、観念化する
と逆に悟れない場合があるということ等が考えられます。

516 :7:2001/08/11(土) 05:18
>>512その2
@『我(アートマン)』という訳が適当であるか疑問。我は無常であり
本質ではない。仮にアートマンと訳しても「真実として捉えられるものではない」
という言葉は、目の前に存在するもののように誰がみても実体として認識し得る
ものではないという意味にとるのが経典全体のバランスからみて妥当でしょう。

A修行の動機として、死後の世界の有無を問題にしているのではなく、生老病死
はあり、悲嘆苦憂悩はあるという現実を「征服」するための法であるといって
います。個人名がでてますから、他の人にそのままあてはめていいかという
問題はありますが、アートマンとは関係なし。

B認識主体とその対象及び感覚について述べています。それを取っ払ったあと
何が残るのか、あるいは何が残らないのかについては言及していません。

Cこれも訳が・・・。前後がわからないのでよくわかりませんが、われ=アートマン
とする訳が適切かどうかという根本的な問題があります。私が言っている
のは真我であって我ではありません。我は無常。

513に関しては、すべてアートマンの否定とは関係もないと思います。

517 :7:2001/08/11(土) 05:21
>>512その3
223さん=唯物論者説には私は組みしません。情報がすくないもので。
黒海老さんに関しても仏教=唯物論を唱えているという認識のみで
唯物論者とはおもっていません。223さんは、ただ、学者さんの本を
読みすぎかとw。天魔を比喩など捉えず、思い込みを廃し、仏典の
説く世界観をありのままに受け入れようとしたとき。美しい、感嘆
するほど調和のとれた世界が眼前に現れると思いますよ。しかもそれは
実践すべき体系も備えています。

上のほうで宣言したとおり、しばらくここへはこないと思うので
呼びかけられてもレスできない可能性があります。ではまた。

追伸:マトリックスって見ました?仏教的視点がはいっていると
思います。233さんのいうブラフマニズム的な「真我」もね。

518 :失礼します。:2001/08/11(土) 05:27
人間は度が過ぎない程度に、心地よい「動き」をいつも模索しているのですね。
安逸をむさぼらず、自分をよく知り、人間関係に調和と快適さを自然に取っていく。
自分が、そうできればいいなあと常々思っております。
私は、キリスト教なんですけど、仏教ではその「道」をどう説かれているのか
だれか教えてくれませんか?出来れば簡潔に!

519 :7:2001/08/11(土) 06:25
>>518
仏教というか、仏教を私なりに解釈したことをお話したいと思います。

>安逸をむさぼらず、
愛というのはキリスト教でも重要なキーワードですよね。他の苦しみを
思いましょう。

>自分をよく知り
四念処の瞑想などいかがでしょう。簡潔には・・・書けません。

>人間関係に調和と快適さを
戒律を守りましょう。上で述べてますが、その裏の意味も実践しましょう。
@殺すな   →だけじゃなくて慈しみの心をもって接しましょう
A嘘をつくな →だけじゃなくて真実をやさしい言葉で語りましょう。
B盗むな   →だけじゃなくて貪りを離れ、施しましょう。
C邪淫をするな→だけじゃなくて誰とでも心から和合しましょう。
D酒をのむな →だけじゃなくて・・・?

520 :7:2001/08/11(土) 07:43
>>503その1
>自然は、諸々の悪をなすなかれ、などの道徳とは、しばしば正反対な現象
>を起こすし、そもそも道徳は自然自体には不必要な概念ではあるまいか?
現象に善悪はありません。心がそれをどう捉えるかという問題になります。
仏教が善をなせ、徳を積めというのは途中の段階です。最終的には善悪
という2元の世界を超越します。

>すでにあるもの、真理、自然、これらの救済、最終目標とは畢竟「何」
もともと私達は何も求める必要のない状態にあったのです。しかし、
錯覚のためその安定を崩してしまった。それが現在の私達です。
最終目標は元の状態を取り戻すことです。

救済とは錯覚を起こさなかった魂に始まるという説もありますが、
一般的には先に覚醒したものが、安定した状態に入らず、世界に
干渉し続け、全ての魂を覚醒させようとしている企てのことです。

521 :7:2001/08/11(土) 07:47
>>503その2
>その無常を乗り越えた後は?
何も求める必要のない状態に復帰します。説明はできません。
1元の世界ですから。それこそアルファでありオメガであるの
ですから。

>人間および地球は存在したのなら、なぜ創ったのか?その意味は?
錯覚した魂がつくりだした迷妄の世界です。ただ救済者の
干渉もあるかもしれません。

>キリスト教には「創造主における愛の完成」という新約・旧約
>に流れる一貫した成長過程ならびに目的、計画成就の現象、理由、
>来し方行く末、が垣間見られるのだが。
仏教的には愛でとどまりません。愛(慈)を根本とする世界は、色界の
最下部であり、そのうえに悲喜捨(漢字のイメージから意味を想像
しないでください)の世界が広がります。

私見ですが、創造主とアルファとオメガで表される方は違うと
思います。創造主とは創造主と錯覚している者であり、愛の
世界の王であるのではないかと。

それでは、本当にしばらく来ません。またいつか。

522 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 12:06
>>513
ウパシーヴァさんがいった、「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、
その他のものを捨て、最上の<思いからの解脱>において解脱した人、
−彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか?」
師は答えた、「… −彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
「… かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか?
またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」
師が答えた、「ウパシーヴァよ。例えば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって
(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して
滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」(スッタニパータ1071〜1074)

『解脱して滅びてしまって』と言う言葉を受けて『滅びてしまったその人』と続いているので
ここで言う『滅びてしまったその人』とは『解脱して滅びてしまった人』と言う意味だと思います。

523 :黒海老:2001/08/11(土) 12:07
↑522は私でした

524 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 20:40
>522

>「彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

「安住する」ものがあるということですか?

525 :セイジン:2001/08/11(土) 20:42
腹減った。

526 :黒海老:2001/08/11(土) 21:09
>>524
そこと言うのは『ニルバーナ』の事でしょう。
ちなみに522の前半は、生きている間の事を問答しています。

527 :黒海老:2001/08/11(土) 21:14
ニルバーナに安住して滅したら…と言う話です。

528 :黒海老:2001/08/11(土) 21:15
人間は宇宙の中で生きています。
宇宙を全体で一つの存在だとすると、人間もまた宇宙と一体であると言う事になります。
そして仏教では一つに、人間が宇宙と一体である事を実感する、と言う事があると思います。
「仏になるのではなく、すでに仏であると言う事に気づく」と言う言葉がありましたが、
それを借りるならば「宇宙と一体になるのではなく、宇宙と一体である事に気づく」となります。
「宇宙と一体になる」と言うと、元々そうではないところをそのように持っていく、
と言うニュアンスがあり、仏教でよく言われる「分別をするな」と言う言葉に合いません。
元々宇宙といったいである事に気づくのならば、元々そうである真実を如実に見る事になり、
この方が順当でしょう。

529 :黒海老:2001/08/11(土) 21:18
>>528
元々宇宙といったい×
元々宇宙と一体○

530 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 21:33
>527

>ニルバーナに安住して滅したら…と言う話です。

逆でしょう。滅してニルバーナに安住するにしないと「安住する」言葉がお
かしくなってしまう。

531 :名無しさん@1周年:2001/08/11(土) 23:17
>522
思いからの解脱・・・・・心解脱?
名称と身体・・・・・・・・・名色?

532 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 00:17
>528 行き着くところ、宇宙=人間? 人間の体全体が創造主だと仮定すれば細胞が人々って感じなの
かな? 細胞を創った意味ーーー創造主(宇宙)は、人間がいなければ、結果的に存在不可能になって
しまわないか? キリスト教では、創造主と人間は厳密に分類されているが、そのほうが「後付け」的でないようにも思えるが・・・

533 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 00:53
>528
梵我一如のことをいっているのでしょうか?宇宙は無常だから
人間が宇宙と一体である事を実感するというのはおかしいです。

534 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 02:54
現象に善悪はなくとも、霊魂へのエネルギー(愛)注入効率
の良し悪しはあります。霊は活動的でポジティブな状態が望ましい。

535 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 02:56
>528 人間は聖書のいう「堕天使」のような存在になってしまうぞ。

536 :堕靡泥の星:2001/08/12(日) 02:57
梵我一如は仏教の教えではない。

537 :黒海老:2001/08/12(日) 04:34
>>530
すいませんが、何故おかしいのか具体的に言ってもらえますか?

538 :黒海老:2001/08/12(日) 04:42
>>533
言い方が悪かったのでしょうか。
宇宙の一部と言い変えても良いです。
人間は完全に独立して生きているのではなく、大きな流れの中にいると言いたかったのです。
大河の一滴と言う小説がありましたね。
読んでませんけど。

539 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 16:31
age

540 :名無しさん@1周年:2001/08/12(日) 17:06
私は、大作先生が1番だと思います。

よってこのスレはsage

541 :黒海老:2001/08/12(日) 23:19
>>530
返事が無いようなので勝手に解釈させていただきますが、
『安住』と言う言葉が『変化しない』と言うニュアンスにとられたのだと想像します。
ですが、ここで言う『安住する』とは再び世俗の生活に戻らない、と言う意味であると思われます。

542 :黒海老:2001/08/12(日) 23:38
>>531
『思いからの解脱』ではなく『想いからの解脱』でした、すいません。
意味的には似たようなものでしょう。
『想念からの解脱』と言っても良いです。

543 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 00:01
>445
>イエスつまり、使徒たちが(主イエスの弟子達)出会い、行動を共にし、
その十字架と死、復活と昇天との出来事の目撃者として語った。
そこが肝心なのです。

イエスの悲劇はその教えを受け継ぐ弟子がいなかったということだ。
教えというのは説く側の問題と説かれる側の問題がある。イエスのこと
は置いておくとして、弟子のレベルは周知のとおり。

>432
>イエスの言葉(として伝えられたものも含む)、使徒達の伝承等が集められました。
そして、明らかに異端と思われるものは、取り除かれて行くのです。
そして、最終的に、新約聖書が確定するのが、397年に行われた、カルタゴ教会会議です。

裏切りの系統の
もの達がいくら額を集めて議論したとしても・・・ね。

544 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 00:26
>543 イエスの弟子たちは、復活したイエスの目撃者となって以降、劇的
な変化を遂げます。殆どの者は最後、喜びのなか壮絶に殉教したそうです。まさに
ヨハネの福音書です、14章から17章を読むとイエスは、弟子のすべてを知悉し、
祈ってあげさえし、愛を示す・・・・そしてキリスト教の「悪から善への展開」
がまたしても預言通り実現する、ということに。結果的に、キリスト教は現在世界
において確固たる地位にあるという実証。聖書は、失楽園以後、すべての人間は原罪を持っている、と念をおします。
このスレを読んできて、結論的に、イエス・キリストは神の子。お釈迦さんは偉大
な人間。この構図は変わらないと思いました。当然かもしれませんが・・・・

545 :名無しさん@1周年 :2001/08/13(月) 00:29
死に方はキリスト
生き方はブッダとか・・
ってことは、キリストの方が偉い(笑)

546 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 00:45
>544
イエスは人の子でしょ。聖書読んだことないの?

547 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 01:08
>544
>劇的な変化を遂げます。
はいはい。それもカルタゴの会議での決定事項かい?


真に愛を説いている、あるいは実践しているのかという問題を抱えるキリスト教が
世界の破滅の前に愛は冷え、世は乱れるという予言とリンクすると
いう現実から目を背けているね。

単純に考えて真理が広がってなぜ世の終わりがくるんだい。

548 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 01:39
>>544
釈迦のどの部分を偉大だといっているのかな?
判断の基準は唯物論的解釈によるのかな?
ブラフマニズム的アートマンを否定する立場をとるの?それとも肯定?

どーせ読んでないんでしょ?

殉教するのが素晴らしいのだったら、アメリカの大使館にバンザイアタック
をかけるイスラム教徒も評価してください。

549 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 08:34
殉教だね
>548
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20010813CIII008313.html
【エルサレム13日共同】イスラエル放送によると、同国北西部ハイファ近郊
のカフェレストランで12日夕(日本時間同日夜)、自爆テロがあり、犯人1
人が死亡、約20人が軽傷を負った。パレスチナ情勢をめぐるテロで、イスラ
ム原理主義組織、イスラム聖戦が犯行声明を出した。

550 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 10:55
宗教的に、自爆テロって評価すべきなのかな?
政治的には、評価するべきだとは思うけど。

551 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 11:23

いろいろとお話が続いているようですが、
正直な感想を書かせていただきますと、
少なくとも、このスレでは、キリスト教の立場に立つ方々の方が、
仏教の立場に立つ方々よりも、紳士的であると感じています。
あるいは、仏教の方々の方が、非常に傲慢であると感じます。
仏教の教えは、人を傲慢にし、
キリスト教の教えは、人を謙遜にする、といったら、言いすぎでしょうか。

552 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 14:02
>546 聖書をきちんと勉強してから意見したほうがいいよ。

553 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 14:02
>キリスト教の教えは、人を謙遜...
現実を見ましょう、似たようなものです。

554 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 14:18
キリスト教は仏教で言う、夜摩天(欲界の第三天界、閻魔様のこと)信仰だと思います。
なぜそう思ったかというと、イエスは死後の審判を説いています。
そして、その死後の審判というのは、誰でも必ず受けなければいけません。
東洋思想でもこれはそっくりです。
そして、裁きというものは誰が行うかというと夜摩天(閻魔様)が行います。
ですから、キリスト教は夜摩天信仰だと思うのです。
夜摩天は天界でも第三天界という、低位の天界、つまりエゴが残る世界です。
従って、キリスト教というのは、完璧なエゴでできています。
キリスト教では、自分達が救われると説いています。
信じれば自分達が救われると。
私はそれはエゴだと思っています。
仏教の最高の教えの真理は、信仰することによって、
他の人を救い、幸福な世界へ導くということです。
つまり、自己の利益を捨て、他の利益を重んじます。
また、夜摩天は生死をつかさどってるわけだから、
当然イエスを復活させることも出来ただろうと思います。

555 :140:2001/08/13(月) 14:32
久しぶりに来ました。
私は以前皆さんに、ご自分の宗教以外の事に言及するのは控えた方が良いのでは、という提案を書き込みましたが、受け入れてくださらないようですね。
仕方がありません。
しかし、このまま放っておくわけには行かないとも思います。
そこで私は、このスレをご覧になっておられる、多くの方々のために、
私の時間の許す範囲内で、キリスト教の基本的なことを、少しずつ書いてゆくことにします。
ですから、私の書き込みに対しては、レスは不要です。
ここに書いておられる、仏教者の方々は、私の書き込みを無視してくださっても結構です。
どうやら、「キリスト教は、仏教よりも次元の低い、劣った宗教だから」という先入観を、捨てることができずにおられるようなので。
むしろ、このスレを見ておられる、その他の方々に、少しでもキリスト教を「正しく」理解するための手助けとなれば、と思います。

556 :堕靡泥の星:2001/08/13(月) 14:35
>>555
ならば、あなたの所属する宗派も明かす必要があると思うが、どうか。

557 :140:2001/08/13(月) 14:48
さて、難しい言葉でたくさんのことを、一度に書き込んでも、読むのも大変なので、
一言ずつ小分けにして書くことにします。
ただ、簡単に書くということは、言葉の上での厳密さを犠牲にしてしまう恐れもあります。
そこで、もし私の話を読んでくださった専門の方の中で、
「これは?」と思われるような記述がありましたなら、
遠慮せずにお申し出ください。

先ず、キリスト教というものを考える上で、大切なこととなるのが、「啓示」という考え方です。
聖書の神は、人間に対してご自身を「啓示される」神です。
キリスト教は「啓示宗教である」と言われることがありますが、そのとおりなのです。
つまり、人間が一生懸命探求して得た結論のようなものではない、ということです。

続く(おそらく、明日)

558 :140:2001/08/13(月) 14:50
>>556
失礼しました、私はプロテスタントの日本キリスト教団に所属しています。

559 :223:2001/08/13(月) 15:16
久しぶりに来て見ると・・・^^;
>>554
 初期の仏教は、「信仰」を説いていません。
  「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィー・ゴータマが信仰を捨て去った
  ように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に
  到るであろう。ピンギヤよ。」        (スッタニパータ:1146)
  「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。[おのが]信仰を捨てよ。」
                  (サンユッタ・ニカーヤ:Z-1-1-13)
 というふうに、信仰の放棄を説いています。それでは、何を拠り所とするべ
きか。
  「今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよ
  りとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他
  のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが
  修行僧として最高の境地にあるであろう、―誰でも学ぼうと望む人々
  は―。」
と説いています。

560 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 15:21
アホ!
比べるモンじゃないぜ

561 :223:2001/08/13(月) 15:21
>>554
 仏教が整然とした死後の世界観を構築するのは、もっと後のアビダルマ
論師たちの活躍した、部派仏教全盛期だったと記憶していますが・・・。

562 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 15:38
テトス3章1から8参照。キリスト者には・・・絶えず確信をもって語る「一貫性」と「喜び」
みたいなものが感じられる。そしてそれを何より「分かち合おう」としておられる。
他方、仏教者のみなさんには、真面目であるが、迷いと苦しみ、悲壮感のようなものがとりついて
おられるように思う・・・ >554 「他の人を救い、幸福な世界へ導く」「自己の利益を捨て、
他の利益を重んじる」 まったくキリスト教はこれと同質ではないか!
私は門外漢としてこのスレを見てきたが、少し言わせてもらおうか。キリスト教者は、仏教の内容
を知らずに批判めいたことを書く人物が少ないが、仏教者はその逆のパターンにはまっている人物
が多い。554さん、いかがかな? また、もっとひどいのがいる。この人たちは、聖書も殆ど
知らぬままに、マトハズレなキリスト教批判をする連中である。こういう連中は、はっきり言って
仏教者にとっても迷惑であろう。なぜ、キリスト教には、いつの時代にも、妙な(闇の勢力?)敵
がいるのか? 私は気になって調べてみた。すると驚いたことに、聖書はそれさえも預言している
ではないか。最後に、私は個人的に485と503の指摘には驚愕を禁じえなかった。また532
と535にも、であるが、畢竟、仏教は、これらには回答を出せないでいる。が、それこそが本質
なのかもしれない。仏教が答えを出せないのは当然であろう。なぜなら、行き着くところつまり、
人間の作った哲学であるがゆえ。 

563 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 16:04
140さん、いいとこきた。
ここで質問したら無視されちゃったんだ。
で、質問。
コレヘトはなんで神マンセーになったの?
あれはどういう論理?

564 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 16:51
キリスト教は、厳密に歴史的な啓示・実証主義的宗教である。紀元前、否、はるか以前から
旧約・新約を通して預言は実証され、イエス・キリストは語られてきた。ヒンドゥー教、
イスラム教にもイエスは偉人として登場し、仏教はイエスを、これ位の位置にある偉人だろう、
などと独善的に推察する。しかし聖書は彼らを語らぬ。しかも揺るがぬ内実である。空想社会
主義的な論争をしない点からでもキリスト教に本物を感じる。

565 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 17:02
2001年現在、さまざまな意味において、キリスト教に驚異を覚えます。

566 :223:2001/08/13(月) 17:09
論題を「ゴータマ・ブッダとイエズス・キリストの思想と教説」
に整理したほうが、いいかも知れませんね。もっともキリス
トに関しては、私の乏しいキリスト教理解ではあまり有意義
な発言は出来ませんが。
うっ、仏教もただの半可通かも^^;

567 :堕靡泥の星:2001/08/13(月) 17:23
>>558
お答えありがとう。宗派によって偏りがあるので、聞いておきたかった。

568 :堕靡泥の星:2001/08/13(月) 17:24
>>564
はずれた預言も結構あるんだがな。
実証主義というのは、つじつま合わせのことかい?

569 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 17:25
>>1

どっちもここに来ている連中(私もそうだが)よりは上なのでしっかり
勉強しませう。

570 :黒海老:2001/08/13(月) 17:26
『ブッダの言葉』中村元の註訳に興味深い個所があります。
同書中『こよなき幸せ』と言う章で、釈迦が『幸福とは何か』と言う事を説いています。

「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」
諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、
―これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、―同上
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、―同上
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、―同上
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、―同上
悪をやめ、悪を離れ、飲酒を慎み、徳行をゆるがせにしないこと、―同上
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、―同上
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の<道の人>に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、―同上
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること(註)、―同上
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、―同上
これらの事を行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。
あらゆることについて幸福に達する。―これがかれらにとってこよなき幸せである。(スッタニパータ258〜269)
続く…

571 :黒海老:2001/08/13(月) 17:27
…続き
中村元註釈 安らぎを体現すること―原文ではニルヴァーナを体現すること(nibbana-sacchikiriya)となっている。
世俗の生活をしている人が、そのままでニルヴァーナを体現できるかどうかということは、
原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、
世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると
考えていたことがわかる(しかし、のちに教団が発達すると、このような見解は教団一般には採用されなかった)。

余計かもしれませんが、前後の関係を分かりやすくするために、全文を書き出しました。
以上から、最初期(釈迦存命中から入滅後しばらく)の仏教者は世俗のままの状態でニルヴァーナに達しうる、
と考えていたようです。

572 :黒海老:2001/08/13(月) 18:05
>>561
そうですね。
最初期の仏教では欲界、色界、無色界、と言う三界説や六天説等は成立していません。
仏教書にも天界や地獄は単数形で表記されています。
天界や地獄は漠然と考えられていただけのようです。

573 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 19:12
>562
>キリスト教者は、仏教の内容 を知らずに批判めいたこ
>とを書く人物が---少ないが---
>仏教者はその逆のパターンにはまっている人物 が多い。

>仏教が答えを出せないのは当然であろう。なぜなら、行き着くところ
>つまり、人間の作った哲学であるがゆえ。

自分の目玉ってみえないんだよね

574 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 20:11
>>562=485=503=532 ?
私は気になって調べてみた。すると驚いたことに、聖書はそれさえも
預言している ではないか。最後に、私は個人的に485と503の
指摘には驚愕を禁じえなかった。また532 と535にも、であるが、
畢竟、仏教は、これらには回答を出せないでいる。

   使ってる言葉
485-----------------------------------仏教的見地からの回答あり
503 畢竟「何」-----------------------仏教的見地からの回答あり
532 行き着くところ
535 --------------------------------指摘事項があまりにも突飛なため反応なし
562 畢竟、行き着くところつまり

575 :名無しさん@1周年:2001/08/13(月) 20:13
>>562=485=503=532 ?
>私は気になって調べてみた。すると驚いたことに、聖書はそれさえも
>預言している ではないか。最後に、私は個人的に485と503の
>指摘には驚愕を禁じえなかった。また532 と535にも、であるが、
>畢竟、仏教は、これらには回答を出せないでいる。

   使ってる言葉
485-----------------------------------仏教的見地からの回答あり
503 畢竟「何」-----------------------仏教的見地からの回答あり
532 行き着くところ
535 --------------------------------指摘事項があまりにも突飛なため反応なし
562 畢竟、行き着くところつまり

576 :黒海老:2001/08/13(月) 21:51
引き続き『ブッダの言葉』より
学生ドータカの質問

ドータカさんがたずねた、「先生!わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。
偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。
あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。(註1)」
師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。
この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。(註2)」
「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。
わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう(註3)。
ただしそなたが最上の真理(註4)を知るならば、それによってそなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法(註5)を教えてください。
わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行いましょう。」
師は言われた、「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体現させるこの安らぎを、
そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えよ。」
師は答えた、「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、
―それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
                                   (スッタニパータ1061〜1069)
続く…

577 :黒海老:2001/08/13(月) 21:52
>>576の続き
中村元註釈
註1 ここでは、「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう」(sikkhe nibbanam attano)という。
この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ
(実践しつつ)あることにほかならない。…
この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、
と解することができよう。
註2 ここでも、「自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ」というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。
註3 ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は人々を救うことができないのである。
註4 不死、ニルヴァーナ、をいう。
註5 vivekadhammam(=sabbasamkhara-viveka-nibbana-dhammam.パラマッタ・ジョーティカー593)
この註釈文から見ると、遠ざかり離れるはたらき、行為をニルヴァーナと呼んでいるのである。
ここの本文で「理法」(dhamma)と呼ばれているものは、「真理」と訳して差支えないが、
それは事実認識の表象内容としての真理ではなく、実践的認識としての真理なのである。

以上から、最初期の仏教でニルヴァーナとは、安らぎの為に実践していく境地であると考えられていたようです。

578 :7:2001/08/13(月) 22:32

一言。学者は瞑想のできなくなった修行者が生活のために始めた職業とされています。

(パーリ語の経典あり。探しておきます。)

学者に瞑想家の世界観は捉えられないというのが、仏典の見解ですからそこのとこ

よろしく。

579 :黒海老:2001/08/13(月) 23:17
>>578
すいません。
いまいち意味が分かりませんです。
>学者に瞑想家の世界観は捉えられない…
という事をふまえて、仏典を読む際どのように気をつけたら良い、と言う話でしょうか?

580 :無宗教派:2001/08/13(月) 23:46
>一言。学者は瞑想のできなくなった修行者が生活のために始めた職業とされています。

今は、宗教法人を相続できる人が僧侶になる。ちがうかなあ。

581 :黒海老:2001/08/14(火) 04:37
釈迦入滅後その教えは韻文(詩)としてまとめられ、後世に伝えられました。
これがのちに一つにまとめられたものが『スッタニパータ』です。
ですからスッタニパータの韻文部分(特に第四章と第五章)は仏教書の中では最も古いものです。
散文部分は韻文部分よりも後になって付け加えられたものです。
そして、韻文部分の註釈が『パラマッタ・ジョーティカー』としてまとめられました。
しかしこれは明らかに後代の解釈を持ちこんでいる個所があります。

582 :黒海老:2001/08/14(火) 07:03
引き続き『ブッダのことば』清浄についての八つの詩句より


かれは一切の物事について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。
このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」
と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。
(真の)バラモンは、(煩悩の)載囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、
執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない(註)。
かれは<この世ではこれが最上のものである>と固執することもない。(スッタニパータ793〜795)

中村元註釈 かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない―na ragaragi,na viragaratto.
ブッダゴーサ(後代の注釈者)は、前者は欲界の貪りに執することなく、の意で、
後者は、色界、無色界を貪ることに執することなく、の異に解する。
しかし『スッタニパータ』の最古層においては、まだ三界説は成立していなかったから、
後代の思想にもとづいたこの解釈は無理である。恐らく、「欲望にとらわれることもなく、
また無理に欲望をなくそうと思ってその願望にとらわれることもなく」というのが、
原意であったのだろう。同様の心境は、第813詩についても見られる。
理想の修行者は、欲望を離れているのみならず、<欲望を離れている>ということをも離れているのである。
こういう表現は、後代の空観、または禅僧のさとりを思わせるものがある。

注釈に後代の解釈を持ちこんでいる、と思われる個所です。

583 :黒海老:2001/08/14(火) 07:25
引き続き『ブッダのことば』老いより


たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮花の上の水が汚されないように、
それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。
かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない(註)。
                              (スッタニパータ812〜813)
中村元註釈 また嫌うこともない―直訳すると「貪りを離れることもない」の意。

584 :名無しさん:2001/08/14(火) 10:55
嫌う事も、愛する事も、執着なんだよね。

例えば托鉢をしていて、美しい人が来て「あ!」と思うのも執着。
醜い人が捧げ物をして「え!」と思うのも執着。

585 :140:2001/08/14(火) 15:08
>>563

亀レスですみませんでした。

さて、コヘレトについてですが、伝承では、コヘレトというのは、ソロモン王のことだと言われています。
しかし実際には、ダビデの子孫にあたる誰か、ということ以外には、分かりません。
(それさえも怪しい、という人もいますが)
コヘレトというのは、伝道者、説教者、あるいは集会の指導者、という意味があります。
つまり、この人物は、最初から聖書の神に対する信仰をもっていたということです。
だから、最後になって「神様マンセー」になった、というわけではありません。
地上の様子を見ながら、そのはかないありさまを模写しているのでしょうね。
詳しい釈義は、ここでは省きます。
以上でよろしいでしょうか?

586 :黒海老:2001/08/14(火) 16:40
引き続き『ブッダの言葉』より『破滅』

「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。
破滅への門はなんですか?師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、―。」
(師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。
理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」
「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。
先生!第二のものを説いてください。破滅への門はなんですか?」
「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。―これは破滅への門である。」
「よく分かりました。…」
「睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、―同上」
「よく分かりました。…」
「みずからは豊かに楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、―同上」
「よく分かりました。…」
「バラモンまたは<道の人>または他の<もの乞う人>を、嘘をついてだますならば、―同上」
「よく分かりました。…」
「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいものを食べるならば、―同上」
「よく分かりました。…」
「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかもおのが親戚を軽蔑する人がいる、―同上」
「よく分かりました。…」
「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、―同上」
「よく分かりました。…」
続く…

587 :黒海老:2001/08/14(火) 16:41
>>586の続きです
「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、―同上」
「よく分かりました。…」
「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、
かの女についての嫉妬から夜も眠られない、―同上」
「よく分かりました。…」
「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に。実権を託すならば、―同上」
「よく分かりました。…」
「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、
この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である。
世の中にはこのような破滅のあることを考慮して、賢者・すぐれた人は真理を見て、幸せな世界を体得する(註)。」
                                       (スッタニパータ91〜115)
中村元註釈 幸せな世界を体得する―salokam bhajate sivam.
幸せな世界を体得すると気づいた境地が<幸せな世界>である、というのであろう。
パーリ文の註にはsiva loka=devalokaと解して、「幸せな世界」とは「神々の世界」をいうのだと解するが、
それは善き在俗信徒は死後に神々の世界に生まれると解する後代の見解をここに持ちこんでいるのである。
本文に関する限り、そのように解する必要はない。
ことに原文のbhajateは「あずかる」「享受する」というほどの意味である。
「天」という別の場所に到達することを意味しているのではない。いま生きているこの場所に<幸せな世界>が存在するのである。
以上、この一節においては、悪いと思ったことを、ただ思いつくままに述べているのである。
五戒、八斎戒というような、徳目の体系化がなされる以前の段階の教えであろう。

「どこか別の場所に幸せな世界が存在するのではなく、今この場所に存在する」と言うのです。
同じことはR・カールソン著『小さいことにくよくよするな!』でも言われています。
「いつかどこか」に幸せを求めても得られない。今を大事にしよう、と言います。

588 :黒海老:2001/08/14(火) 18:15
>>559
ちょっと補足させていただきます。『ブッダのことば』中村元註釈より

信仰を捨て去れ―原文にはmuttasaddho,pamuncassu saddhamとあり、註釈は信仰によって解脱すると解する。
しかし直訳すれば「信仰を解き放つ」であって、多くの訳者のように「信仰によって解脱する」
と解することは、語法上困難である。
「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。
釈迦がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、そのときに釈迦が梵天に向かって説いた詩のうちに
「不死の門は開かれた」といって、「信仰を捨てよ」という。
この同じ文句は、成道後の経過を述べるところに出てくる。
恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグマ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろう。
最初期の仏教は<信仰>(saddha)なるものを説かなかった。
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
『スッタニパータ』の中でも、遅い層になって、仏の説いた理法に対する「信仰」を説くようになった。
ちなみに、saddhaと言う語は、インド一般に、教義を信奉するという意味で、多く用いられる。

修行者にとって釈迦は、先達として敬う存在であって『信仰』する存在ではないと言う事でしょう。

589 :名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 19:20
140さん、ここはもう仏教信者の方々の勉強会となっているようなので、「キリスト
教に文句2」スレに来てください。素朴な質問をされている方が多くなってきました。

590 :名無しさん@:2001/08/14(火) 19:26
キリストは神の子、お釈迦さんは、人の子、でも、キリストは、救い主
として、使わされた神から愛された御方です。お釈迦さんはどうかな?
偉い御方ですけれどね。

591 :名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 19:48
>お釈迦さんはどうかな?

 生と死を離れた存在、真理を知るもの、とされているという意味
ではキリスト教的な「神」に近い面もあるね。ただ、イエスにしろ、
ゴータマにしろ、人の子として生まれ人の子として死んだ。信者に
とっては「覚者(ブッダ)」や「救い主(キリスト)」であっても、
まず彼らが人の子としてどう生きたか、見るべきだな。

592 :名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 20:26
>黒海老さん

黒海老さんの全文引用(なんと註釈まで!)は、ここまで続くとさすがに鬱陶しい!
もう少し要点をまとめるなり工夫して書き込み願えませんか?

593 :名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 20:27
http://www.startingweb.com/bbs.cgi?nick=%90%7E%96%5B&subject=%8Dr%82%E7%82%B5&message=%8E%7E%82%DF%82%EB&bbsid=446&parentmid=0&job=reg

594 :名無しさん@1周年:2001/08/14(火) 20:33
あなた達は なぜ釈尊を偉大な方であるというのか?
確かに釈尊はとてつもなく偉大なお方である がしかし、なぜ偉大なのか
その功績を正しく理解している人は少ないのではないかと思う

釈尊は単に瞑想家、哲学者的な扱いを受けることがしばしばあるようだが
それは間違いである
釈尊が悟りを開くにあたって瞑想は非常に大きな役割を果たしてはいるが
それだけではない
釈尊は古代から伝わるクンダリニーヨーガの達人であったようだ
人間の最大のエネルギー言であるといわれる クンダリニーを釈尊は
長い修行生活のなかで覚醒させ 普通の人間をはるかに超えた
超能力者といっていい状態になっていたはずだ
その上での瞑想によって自己の潜在意識、深層意識にまで 深く入り込み
自己の存在の中に潜む(あらゆる人の中にも)人の魂を果てしない輪廻の輪に
結びつけ続ける根源的な煩悩(無明)を断じて仏陀となられたようである

それは カルマの法則の実体の把握であり 同時にカルマを断つ力の獲得でもあった
釈尊がそれ以後人々に説いて回ったのは まさに自分が仏陀になるに至ったこれまでの修行を
まとめた 『人を仏陀へと導くための教育のカリキュラム』=成仏法である

また 釈尊の入滅のあと高弟たちが集まり 生前の釈尊の言行禄として阿含経を作った
阿含経には 難解ではあるが 成仏法が説かれている
仏陀の最大の功績は成仏法を後世に残したことである

ところが その後さまざまな経緯で偽の仏教経典軍が創作されてしまう
法華経、維摩経、華厳経、無量寿経、etc 阿含経以外のお経はすべて創作経典である
これは 学術的に史実であることが証明されている
日本の坊さんどもはなかなか認めようとはしないが・・・・・・・・

595 :黒海老:2001/08/14(火) 21:31
>>592
すいません。なるべく要約します。
『ブッダの言葉』より『ダミンカ』

「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたくしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、
家から出て出家する人であろうと、また在家の信徒であろうと、どのように行うのが善いのですか?…」
(師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。
汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家者にふさわしいそのふるまいを習い行え。
修行者は時ならぬのに歩き回るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。
時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。
それ故に諸々の<目ざめた人々>(註)は時ならぬのに出て歩くことはない。
諸々の色かたち・音色・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。
これらのものに対する欲望を慎しんで、…」(スッタニパータ376〜388)
続く…

596 :黒海老:2001/08/14(火) 21:32
>>595の続き
中村元註釈 ここで「諸々の目ざめた人々は…」(buddha,複数)というが、その原語は「ブッダ」である。
それは、過去、現在、未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、
「夜間に外を出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を
考えていたのである。
仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。
思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この個所の前後の関係から見ると、
ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。
また求道者としてのbodhisattvaをブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。
いわゆる<仏教学>なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することはできない。

ここでも釈迦(ブッダ)が特別(絶対的)な存在ではない事を示しています。
これでも長すぎますかね?

597 :BM:2001/08/14(火) 22:08
>黒海老さん

592です。先ほどはHNを入れ忘れました。
黒海老さん、自己スレを立ち上げてはいかがでしょう?
たとえば「中村元と読む『原始仏典』」などというのはいかがでしょうか?

中村先生の著書は「註」も大変勉強になりますね。でも註まで引用というの
は読むほうも大変でしょう。内容を簡潔にまとめて、出典を明記されてはい
かがでしょう(ページ数も含む)? それで充分なような気が致します。

どうしても全文引用が必要だと思われるなら、やはり新スレッドを立ち上げ
て、そこで同好の士と語り合うのが良いような気が致しますが、いかがでし
ょうか? そうして、簡潔に書きこむこのスレと使い分けられてはどうですか?

僭越ながら提案させていただきました。

598 :BM:2001/08/14(火) 22:16
>>594

>釈尊は古代から伝わるクンダリニーヨーガの達人

これは何を根拠に仰っておられるのでしょうか?
私は、いわゆる原始仏典の中でクンダリニーを多少なりとも
思わせるような記述は1箇所しか眼にしたことがありません。
ぜひ出典をお教え願いたいのですが…。

599 :594:2001/08/14(火) 22:32
>BM

申し訳ありません なんだかずいぶんまじめな論議を展開しているようで・・
私は仏典だとかは よく読んだことはありません
人から聞いた話を 軽い気持ちでそのまま書き込んでしまいました
スレ汚しになってしまいましたら どうかお許しください

しかし 涅槃に至るなどという偉業は
潜在意識や深層意識に突き動かされ 自分自身を完全に統御できない人間が
その欠点(構造上のものであるらしい)をそのままに達成されるものでは無いと思います

まこれも自分で書物読んだり研究たわけではないんで・・・
だったら書くなといわれそうですね 申し訳ありません

もういいかげんな書き込みはいたしませんのでご容赦ください

600 :BM:2001/08/14(火) 22:51
>>594さん

>人から聞いた話を 軽い気持ちでそのまま書き込んでしまいました

「人から聞いた」という割には、良くまとまった説得力のある文章ですね。

>しかし 涅槃に至るなどという偉業は
>潜在意識や深層意識に突き動かされ 自分自身を完全に統御できない人間が
>その欠点(構造上のものであるらしい)をそのままに達成されるものでは無いと思います

「構造上の欠点」という以外は、私も本当にそうなのだろうな、と思っております。
ぜひまた、594さんがお考えになっていらっしゃることを書きこんでくださいませ。
私はふだんはROM中心なのです。今日はたまたま書きこんでいたものですから…。
クンダリニーにもちょっと興味があったせいで、突っ込んでしまいました。
お許し下さい。

601 :黒海老:2001/08/15(水) 02:12
>>597
BMさん、ご忠告ありがとうございます。
自己スレを立ち上げては?
と言う件ですが、そこまでやるつもりはありません。
以後は自粛いたしますので、ご容赦お願いします。

602 :594:2001/08/15(水) 02:14
>BM
どうも 遅くなりましたが 594です

構造上の欠陥についてですが これは 人間の脳についてですが
大きく分けて 3つの 皮質に分けられます
大脳新皮質、旧皮質、古皮質 でこれらが
顕在意識、潜在意識、深層意識 にそれぞれ対応していると考えます
これらの脳は互いにそれほど強くは神経回路で結ばれていない
そのために 新皮質の得意な理論で 旧皮質 古皮質 に潜む葛藤を解決することができないでいる

さらに 人間の脳のニューロンはその大部分が 眠ったままであり
人は働いているニューロンが たった1%多いか少ないかで
天才か凡人か分かれてしまうといってしまっても過言ではないほどです

さて クンダリニーヨーガは 尾低骨にあるというクンダリニーを
呼吸法や気をめぐらすことによって? 刺激し目覚めさせ
気管を通じて脳へと上昇させ 上記の三つの脳の神経回路を増強し
ニューロンをたたき起こすのが 目的のようです
成功すれば 想像できると思いますが まさに超人です(成仏の完成はまだまだ先、あるいはここが基礎)

当時 クンダリニーヨーガはポピュラーな修行で
宗教家は必ずといってよいほど これを修していたと聞いてます(気がする)
つまり 改めて記載する必要が無いので クンダリニーヨーガに関する事は
かかれていないのではないでしょうか
ただし クンダリニーヨーガに熟達していないと
理解できない部分も阿含経にはあるようです

すべて 聞いた話で 間違ってるところもあるかもしれませんが・・・

603 :黒海老:2001/08/15(水) 02:36
>>602
現在、スリランカとかの小乗仏教で行われているんでしょうか?
誰か知りませんか?

604 :BM:2001/08/15(水) 02:37
>594さん

594さん(あるいはお友達)は阿含宗の方でいらっしゃいますか?

>当時 クンダリニーヨーガはポピュラーな修行で
>宗教家は必ずといってよいほど これを修していたと聞いてます(気がする)
これは何に書かれているのでしょうか?

>つまり 改めて記載する必要が無いので クンダリニーヨーガに関する事は
>かかれていないのではないでしょうか

単純な疑問なのですが、経典等に記載されていないのに、クンダリニー・ヨーガを修し
ていたというのはなぜ分かるのでしょうか? 誰が594さんに教えてくださったものな
のでしょう?

605 :223:2001/08/15(水) 03:13
なかなか来られない^^;
>>黒海老さん
「小乗」という呼称はどうかと・・・。
 いわば大乗諸派からみた、部派仏教の一部へ「差別用語」ですので
ここでは使わないほうがいいでしょうね。現在のスリランカなどの
仏教は「上座分別説部」とか「テーラヴァーダ」などと呼ばれておりま
す。

606 :黒海老:2001/08/15(水) 04:28
>>605
そうですね。
以後そうします。
個人的には呼び方なんかどうでも良い、と言う考え方でしたので。

607 :223:2001/08/15(水) 05:30
眠れない^^;
>>594
 確かにブッダは瞑想や禅定を行って悟りの境地に達したと思われ
ますが、リゴリスティックにそうした手段に拘ることもなかったよ
うです。弟子それぞれの資質や境遇に適した手段により、速やかに
悟りに達する道を示しました。偈の一つも憶えられず、足駄のよご
れを落すことに専念し、聖者の域に達したチューラパンタカのよう
な弟子もおりました。それぞれの適性に合致した修行の方法を、方
便を用いながら巧みに示したブッダは、優れた教育者であったと思
います。なにしろ説いた法門(教え)は八万四千といわれております
から。

608 :223:2001/08/15(水) 05:43
もうひとつ
 ブッダは悟りや涅槃の境地を、「彼岸」という譬えを用いて説きまし
た。執着や煩悩の激流を渡った向こう岸という意味で。そこに達する
手段として、さまざまな教えを説きました。それらはそれを実行する
弟子の個性や資質に合わせて説かれております。向こう岸に渡るには
この方法しかないといった教条的な主張をブッダはしませんでした。
むしろ「筏の譬え」という教えにあるように、渡ってしまえばその手段
に対する執着を捨てよ、という意味のことを説いていたと記憶してお
ります。

609 :BM:2001/08/15(水) 10:15
>>607
>>608

この融通無碍こそがブッダの対機説法の見事さですね。
一人一人に対するブッダの愛情と共感(慈悲)を感じます。

610 :BM:2001/08/15(水) 10:23
>黒海老さん

>個人的には呼び方なんかどうでも良い、と言う考え方でしたので。

呼ぶ方はともかく、呼ばれた方はたまらない時があるでしょうね。

611 :BM:2001/08/15(水) 10:28
>>609

「一人一人に対するブッダの愛情と共感(慈悲)を感じます。」を
「ブッダの智慧とともに、一人一人に対する愛情と共感(慈悲)を感じます。 」
に訂正させてください。

612 :名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 14:19
「彼岸」に達する手段もいいが、なぜ自身がここにいるのか? ブッダはこの人間
における集合無意識をどう説明したのか? また脳の本質的な科学的解明はまだである
が、恐らく完全には解明されることはないであろうが、数年単位で新たなる一部機能
が解明予測できようが、いずれにせよほとんどが未解明であって、脳機能と呼吸法・気を
もって当該システムを語るのはおかしな話ではあるまいか? 形骸化の原因にもなりかねないぞ。

613 :名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 14:46
彼(神)は力にあらず。そは、その時いまだこれに抵抗するものなければなり。彼は
原因にあらず。そは、いまだ結果なければなり。正義なるあたわず。その時いまだこ
れを施すの霊的実在物の、神を除いて他になければなり。愛なるあたわず。そは、そ
の時いまだ愛すべき者なければなり。吾人は見るべきものなき時の視覚、接触すべき
物体なき時の力、思惟そのもののほか思惟すべき事物のなき時の思惟について思惟せ
んと欲するもあたわざるなり。吾人が彼について言うは、あたかも暗黒または空白の
無極についていうがごとく、単に否定をもってするのみ。すなわち彼に資質なし、限
界なし、感情なしというにすぎざるなり。しかして資質といい、限界といい、感情と
いうも、これみな受造物ありて以来の言なるをいかにせん。
実に公平なる断案であると思います。単独の神の永遠の存在は、思惟せんと欲してあ
たわざるところであります。愛は単独で存在するものではございません。愛は相互的
のものでありますから、単独の神は実は愛なるもの(すなわち完全な教え)はないの
であります。かかる神はまた罪人とはまったく関係のない神であります。単独の神は
地球にまで達しない神であります。三位の神を待ってはじめて救いの神はある・・・
罪の赦し、その贖い等は、三位の神にあらざればわれらのためになしとぐることので
きないことであります。「主はわれらのためにいのちを捨てたまえり。これによりて
愛ということを知りたり」   内村鑑三著作集より

614 :名無しさん@1周年:2001/08/15(水) 19:53
仏教や神道もそれなりに深いと思います。しかし、キリスト教の深さは他に類をみない、と思いました。

615 :1:2001/08/15(水) 20:01
私は今のところ、キリスト教の方が浅い感じがしてます。
仏教とキリスト教、それぞれ詳しい方がいらっしゃいますが、
両方に精通してる方からの見解も聞きたいです。

616 :堕靡泥の星:2001/08/15(水) 20:13
>>614
>>615
何をもって深いとか浅いとか言っているのかさっぱりわからんよ。
ある程度テーマをしぼって比較した方がいいんじゃないのか。
例えば、人が不幸なのはなぜか。どっちの説明のほうが説得力が
ある?とかな。

617 :黒海老:2001/08/15(水) 20:17
たとえば、親類が亡くなって悲観に暮れている人に、
キリスト教ではどのように言って慰めるのでしょうか?
やっぱり、「天国で会えるから…」って言うんでしょうか?

618 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 05:47
>>615
当然の事ながら、釈迦もイエスも仲間だな。
釈迦は、教師を卒業したようだが・・・。

619 :140:2001/08/16(木) 08:42
久々に来ました。
今日は少し時間があるので、いつもより書き込もうと思います。

>>615
普通クリスチャンの場合は、仏教と比較する、というようなことは、
考えないと思いますよ。
ですから、詳しい人はここには来ないのではないでしょうか。
何人かの方が発言しておられますが、
どちらが深いかなどと比較すること自体、意味がないと思いますし。
だから私も、仏教と比較することはせずに、キリスト教のことだけを書いているのです。

620 :叩き台:2001/08/16(木) 09:14
616さんの意見に賛成だね。これまでの議論は、接点がない状態で両岸から罵り
あっている(いくらキリスト教側が紳士的なマナーであったとしても)だけで、
議論になっていない。

そこで叩き台を用意しましょう。

キリスト教で説く原罪には、肉欲に対する罪悪感が色濃いのですが、仏教でもまた
初期の仏典(スッタニパータなど)を読むと、禁欲的な思想が見られます。両者は
同じものを目指しているようで、実は違うと思うのです。叩き台だから、詰めが
甘いのを覚悟して単純に併記してみると、

キリスト教:肉欲に溺れるのは神の意志に反することだから、「律法的」にこれを
悪と決め、それを守ろうとする。実際には守れないが故に、キリストの贖罪に頼る
しかない、という発想。

仏教:快楽を追求すると、新たな快楽を増幅するばかりで、決して満足を得られな
い。そこで、快楽には実体がない(正確には、快楽を追求する自己そのものが元々
実体のないもの)ことを悟って、快楽を無制限に追求する心そのものを滅すること
を目指す。

キリスト教には、「まず罪ありき」が前提になっています。ところが、仏教には
罪という感覚がないように思われる。むしろ「愚行」をやめて賢くなれ、という
感じが強い。

キリスト教徒に「なぜそれが罪か」と根拠を問うても、満足のいく答えは得られ
ないと思うのですが、如何でしょうか?

621 :140:2001/08/16(木) 10:01
>>620
ありがとうございます。
私は、書きかけているものがありますので、
それを一応書いてしまおうと思います。
その時点で、もしどなたもこの問いに答えておられないようなら、
その時に判断することにしましょう。

さて、啓示について、続きを書きます。

啓示には、大きく分けて、一般啓示と特別啓示とがあります。
一般啓示とは、自然界、人間の良心、人間の歴史などを通して、
神がご自分のことを啓示しておられる、というものです。
一般啓示は、およそ全ての人がそれに触れることができるものです。
例えば、夕日が美しいのを見て、そこに神の創造の業を思う、というようなもの。
しかし、一般啓示だけでは、人間を完全な救いへと導くことはできません。
それは、私達の経験則でも明らかなことだと思います。
その理由は、一般啓示そのものに原因があるのではなく、
それを受け取る私達の方に、原因がある、と考えます。
つまり、私達人間は、このままの状態では、
一般啓示を通して、神を知り、救いの道を見出すことはできないからです。

そこで、人間の救いのためには、どうしても特別啓示が必要となります。

(続く…多分今日中に)

622 :620:2001/08/16(木) 12:33
私個人からのキリスト教への疑問は、以下の2点です。

1.旧約聖書は、もともと神とユダヤ民族との契約について述べたもので、少なく
とも、異邦人たちは除外されている。これに日本民族を含め、全世界の民族をこの
神の契約に当てはめるという根拠は何か?

2.パウロがキリストの贖罪という概念を持ち出した当初、彼の脳裏にはユダヤ教
徒が対象にされていたはずである。つまり、ユダヤ民族として守らねばならぬ契約
が不履行になった人の罪を贖うためのものである。では、非ユダヤ民族の場合には、
「神との契約」に相当するものは一体何か?神が非ユダヤ民族に対して、何ら契約
を結んでいないにも関わらず、自らが罪の重責を感じなければならないのは矛盾
ではないのか?

623 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 18:28
>>620
1.全世界の民族をこの 神の契約に当てはめるという根拠は何か?
新約のイエスの予言により世界展開になる。
2・では、非ユダヤ民族の場合には、「神との契約」に相当するものは一体何か?
愛。

釈迦の涅槃は、もっと進んだ者達への教義だな。

624 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 19:12
ども、7です。せっかく話がかみ合ってきたかなという時に
申し訳ないのですが、時期的にちょうどいい話かと思いまして、
少しだけ。お盆に僧侶がお経をあげるというのは、仏教が相当
に歪められたものに思います。

僧侶の役割というのは、人々にどのように生きるか(どのような
修行をするかを含めて)を説き、また、死後の49日間にどれだけ
死者の意識を引き上げられるかということが重要だと思われます。

特に、死ぬ直前の意識は臨終正念(私自身はこの言葉をあまり使
わないので、これでいいのか疑問ですが)といわれ、非常に重要
な問題です。このときに釈迦の時代には在家の人にどのような話
をしたかという経典があります。

まず、父母と妻子に対する執着を切らせ、次第に意識を高い世界
へと向かわせます。以下ソーターパッティ・サンユッタから引用。
(続く)

625 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 19:13
「友よ、人間の欲よりも天の欲は、さらに優れさらに美妙である。尊者よ、
どうか心を人間の欲から遠離して、心を四大王天に向けなさい」
-----略-----
「友よ、四大王天よりも三十三天はさらに優れ、さらに美妙である。
尊者よ、どうか心を四大王天から遠離して、心を三十三天に向けなさい」
-----略-----
「尊者よ、どうか心を三十三天から遠離して、心を夜摩天に向けなさい」
-----略-----
「尊者よ、どうか心を夜摩天から遠離して、心を兜率天に向けなさい」
-----略-----
「尊者よ、どうか心を兜率天から遠離して、心を化楽天に向けなさい」
-----略-----
「尊者よ、どうか心を化楽天から遠離して、心を他化自在天に向けなさい」
-----略-----
「尊者よ、どうか心を他化自在天から遠離して、心を梵天に向けなさい」
-----略-----
「友よ、梵天もまた無常で、永続しない、有身に属する世界です。尊者よ、
どうか心を梵天から遠離して、心を有身の滅尽に集中しなさい」と。

引用終わり。
梵天は色界に属し、有身の滅尽は無色の世界をいっているのでしょう。

626 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 19:34
訂正
>>623の、>>620は、>>622が正解!
余計ややこしくなったな。(笑)

627 :620:2001/08/16(木) 19:46
>>623

サンキューです。
しかし、異邦人に対する契約が「愛」だとして、「愛さないこと」が
罪(しかもそのために地獄へ落ちるような大罪)というのはどうにも
理解しがたいものがある....。

>>625

>せっかく話がかみ合ってきたかなという時に申し訳ないのですが

気にされなくて結構ですよ。私の問題提起は空振りに終わったようだ
から。

私自身は、お盆の「追善供養」そのものが、後世の作り事じゃないか
と考えているんです。確か釈尊は、人間が生きている間のみ修行が有効
で、死ねばその魂の「軽い重い」に応じて行き先が決まるって言って
ませんでしたか?それと「追善供養」は矛盾するような気がするん
です。ついでにお彼岸についても。ある本によると、インドでも中国で
もお彼岸に供養する習慣はないそうです。何でも、日本古来の先祖供養
の風習を取り込んだらしいのです。詳しい方のフォローをキボンヌ。

628 :223:2001/08/16(木) 20:42
>>627
 日本におけるお盆の仏事の習慣は、中国撰の偽教である
「仏説盂蘭盆経」や「地蔵十王経」を基に、日本古来の先祖崇
拝の風習が習合して成立したものだそうです。

629 :7:2001/08/16(木) 21:30
>>627 >>628
基本的にはそう思います。大目連?の母親が地獄?に落ちていて、彼がそれを助
けようとした所、釈迦が現れて「汝、執着なり」といったというのが小乗(悪い
意味でなく)的解釈で、
500?人の修行者を供養し、その徳を母親に還元したというのが、大乗的解釈であり、
お盆の由来の一つだとも聞いていますが、ま、この説をとったとしても、日本の
それは独特の風習と言わざるをえません。

630 :名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 23:23
>>627
>しかし、異邦人に対する契約が「愛」だとして、「愛さないこと」が
>罪(しかもそのために地獄へ落ちるような大罪)というのはどうにも
>理解しがたいものがある....。
極端に考える必要はないな。
仏教で一番重要な法である、七仏通戒偈と同じかな。
悪いことをせず、良いことを行ない、心を浄める。
そうすれば、愛せるようになるでしょう。

631 :223:2001/08/17(金) 00:15
 初期仏教では、「愛」という概念を「渇愛」に結び付けて考え、執着
の一つとして取り去るべきものだとしています。ひるがえって重視
されるのは、「慈・悲・喜・捨」の「四無量心」であったと思います。
 慈=深く相手や生類を慈しむ無量の心
 悲=深く相手や生類に同情する無量の心
 喜=他者の喜びを共有する無量の心
 捨=自他に対しての執着を取り去る無量の心
という四つの要諦が示されています。後に大乗仏教の興起と共に前の
二者即ち慈悲が強調されるようになるようですが、それはこのスレッ
ドの範疇外に及びそうですので、ここではコメントしないことに致し
ます。

632 :黒海老:2001/08/17(金) 01:26
『サンユッタニカーヤ』から『西土の人』(要約)

「世尊よ、西土から来たバラモン達は、祈祷をささげて死者を昇天させると言います。
世尊もそのように死者を昇天させ、善いところへ導くような事をいたしますか?」
「村長よ、たとえばここにどうしようもない悪人がいたとして、その人の死後
大勢の人が祈祷をささげたとして、その悪人が天に生まれるような事があるだろうか?」
「そんな事はありません。」
「ではここに、正しく清らかな人がいたとして、その人の死後大勢の人が
地獄に落ちるようにと祈祷をしたとして、その人が地獄に落ちるような事があるだろうか?」
「そんな事はありません。」
「そのように、人の行き先はその人の行為によって左右されるだろう。」

633 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 01:35
愛といってもさまざまあって、ギリシャ語でアガぺといわれる愛のみが神の愛であり、
たとえば慈悲喜捨もすべて内包したものであると結論できる。 >620&622
原罪とは「背き」であり、あまり肉欲とは関係ない。パウロは元々ユダヤ人で、律法主義
者で、選民意識も強く、キリストの弟子たちを迫害していた者であり、彼にはなんの
概念もなかった。キリスト者ステパノ殺害にさえ関わった。彼はペテロよろしくイエスの
死・復活などの目撃者でもない。彼はただ、突然イエスの声によって回心させられた
人間である。彼の書簡集には、イエスの死によって異邦人はじめ全世界の人間が「罪の
赦し」を受け・・・すなわち彼を信じる者には「誰でもすべてアブラハムの子孫である」
と示されたわけ。律法は、うちひとつでも守られねばならぬ厳格なもの、であり、これに
よってはすべての人間は完全にはなり得ない。イエスは「無償の愛」によって、この律法を
完成させた・・・結果的には神によって。それは全人類に可能な律法。「御子を信ずる者は
救われる」はたして預言通り、恐ろしく難問であった律法は、恐ろしく容易な律法に飲みこまれたのでした。愛の律法。

634 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 05:14
>>631
> 初期仏教では、「愛」という概念を「渇愛」に結び付けて考え、執着
>の一つとして取り去るべきものだとしています。ひるがえって重視
仏教の貪るような欲望である『渇愛・貪欲』と、イエスの新しい掟
『お互いに愛し合おう』などの『愛』とを、同義語にしてはいけない。

635 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 05:18
>>633
>愛といってもさまざまあって、ギリシャ語でアガぺといわれる愛のみが神の愛であり、
>たとえば慈悲喜捨もすべて内包したものであると結論できる。 >620&622
硬すぎる文章だが、概ね同意!

636 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 14:36
世界最大の難問といわれる中東問題。これひとつとっても聖書が単なる宗教書でない
ことがわかると思う。神の啓示・預言でもある。物理的にも地球には寿命があるが、神は意思
においてそれを示される。ならば中東問題も単純に「神は地球をなんとかしろ」といったよう
な結論には達しないはず。ちなみに全世界の叡智を結集しても、このような問題は解決できない、
とは思わないか? 歴史がそれを証明している。あるいは現在がそれを証明している。解決は神
の御旨によってのみ・・・・

637 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 14:43
>636
その神様を信じてるドキュンが問題を解決から引き離しているのだよ。

つまり、宗教信じる人に現実的な問題を解決する能力が乏しいことを
示している。

638 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 15:41




人間は錯覚をおこし云々、元の状態を取り戻すべく云々・・・要するに、人間はみな
不完全である。これは認めざるを得ないであろう。しかしアルファでありオメガである
ところの創造主は不完全ではあり得ない。よって不完全な人間を創った背景が示されね
ばならぬ。つまり、人間はじめ生命には完全なる目的がある、ということだ。神による愛の
完成であるーーー「愛による創造」「愛による自由意思」「悪から善への自らの選択に
よる愛の意義」「神における無償の献身的自己犠牲によるすべてに対する赦し・愛の成就」
「愛により{くだかれ・へりくだり・あけわたす導き}ひとつ心」「愛による喜び・祈り・感謝」
「愛による恵み」「愛によるパラダイム・シフト」「愛の栄光」「神による愛の完成」
これらを咀嚼していただきたい。ところで、眠った者に関しては、人間は勝手な判断を
くだしてはならない。ただ、神は公平な方である。聖書にはそうある。パウロの啓示。
パウロは自身の努力や願い、または行ないによって救われたのではない。むしろ彼はキリ
スト者を徹底的に迫害する者であった。回心、これはじつはまことに不思議な話である。
死なんばかりに努力し、形而上の真理に到達すべく究明せんとしたキリスト者も、マザー
・テレサも、たった今まで重罪人であったイエスとともに磔刑に処せられた隣の十字架上
の犯罪者も、みな同じ罪人であるという現実。意識改革せねばなるまい。人間であるがゆえ
に救いは「完全なる恵み」のみである、というパウロの言葉。彼は、自分には何もない、
あるのは弱さのみだ、と言ったが、彼が弱いなら、ほとんどの人間はどうなるのであろう?
彼は言う。「恵みのみである」と。人間は、誰かのために死してさえ本当の愛を示したこと
にはなりえない。(無意識的に)全人類を愛したつもりが、ひとりさえ愛しきれぬ陥穽、自尊心・
自己を満足させている陥穽、他者を見下す・他者と離れる陥穽、それこそ錯覚の連続・・・人間
には限界がある、と断言する。厳密に、人間と創造主とは別物である。 つづく。

639 :黒海老:2001/08/17(金) 15:44
仏教で言う『渇愛』の語源はtanha(タンハー)と言い
『渇望』と言うニュアンスです。
やはりキリスト教的『愛』とは別でしょう。

640 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 15:55
つづき。
厳密に、人間と創造主とは別物である。ただ、すべての人間は補い合い、分かち合い、
赦し合い、喜び合い、ひとつ心となるべく創られている、が、神の選びは確かである。
すなわち、それも、自由意思によるひとりでも多くの方々の救い、そのための神の導き
であって、御計画なのである。だからこそ「狭き門」ともいえる。しかし、完全な愛は
一切の差別なき無償の贈り物であり、誰もが受けることのできるものであり、何ひとつ
難しいことではない。ゆえに愛である。永遠の法則 「神は愛なり」    サヨナラ

641 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 15:56
>638
>つづく。
すみませんが、続くのであれば、もう少し読みやすく書いていただけませんか。

642 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 15:57
>640
>サヨナラ
あ、終わってしまったのですね。

643 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 16:05
>637 その言い方は、一方では正解だが、他方では不正解となる。むしろ人間
の叡智の限界を知るべきだ。国連もアメリカもイスラエルもパレスチナもアラブ諸国
も欧州も・・・・もちろん我が日本も正しくない。人間が不完全であることの証明。預言。

644 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 16:10
池田大作先生が一番偉いにきまっている。

645 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 16:13
みんなが生きている喜びを! 主はそれを願っておられる。神は地上でもさまざま楽しませてくれるんだよ。だからどんなときも希望をもつこと。

646 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 16:55
>>643
だから仏教は修行して人間を超えようとするわけですが・・・

647 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 16:56
>633
>愛といってもさまざまあって、ギリシャ語でアガぺといわれる愛のみが
>神の愛であり、 たとえば慈悲喜捨もすべて内包したものであると結論できる。

例えば、捨とは悪業の現われだけでなく、善業の現われにも(例えば、財産
があったとして、単にそこから離れるのではなく、財産の中にあっても)
心を動かさないことを含むと解しているのですが、キリスト教ではどうなの
でしょうか。具体的な記述があればお願いします。

>原罪とは「背き」であり、あまり肉欲とは関係ない。
背きとは何に対する背きなのでしょう?戒律?神の意思?

648 :647の続き:2001/08/17(金) 16:57
>633
>パウロは元々ユダヤ人で、律法主義 者で、選民意識も強く、キリストの弟子
>たちを迫害していた者であり、彼にはなんの 概念もなかった。キリスト者
>ステパノ殺害にさえ関わった。彼はペテロよろしくイエスの 死・復活などの目
>撃者でもない。彼はただ、突然イエスの声によって回心させられた人間である。

ということはイエスの言葉のユダヤ的解釈をしている可能性もありますよね。
仏教でも他宗教を実践していた者は何年間か出家させないという決まりがあります。
ま、それは会議で厳密にチェックしているとおっしゃるのでしょうが、それに異議
ありとの声も出せないとすると、それは会議の無びゆう性に対する信仰になって
しまいませんか?

>彼の書簡集には、イエスの死によって異邦人はじめ全世界の人間が「罪の
>赦し」を受け・・・
当時の人々の罪を背負いというのならまだわかるのですが、未来の人類の罪も
背負えるものなのですか?ラーマ・クリシュナ・パラマハンサという人は
「私は弟子のカルマを受けて死んでいく」という言葉を残しています。

>「御子を信ずる者は 救われる」
信じるというのは実践とは切り離せないと思うので、口先で神よといってる
だけではだめですよね。聖書にそういう記述ありませんでしたか?よって
>恐ろしく容易な律法に飲みこまれたのでした。
というのは、単純とはいえても容易というのはどうなんでしょう?

649 :223:2001/08/17(金) 17:30
>>631 に書き込みました「愛」は、あくまで仏教における語彙ある
いは用法について述べたものです。説明不足で誤解を招いてしまい
ました。お詫び致します。
 

650 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 17:38
>647 仏教は、修行によって超然・達観たる仙人よろしくヒトはなり得る、人間の
自然性をも超える、というようにもうかがえるのですが、キリスト教は、どこまで
いっても人間はしょせん人間である、との観点を変えません。子供から老人まで一様
に、人間は罪を内包して存在している、というわけです。簡単にいえば、律法には、
女を見て、心の中でみだらなことを思えばすでに姦淫しているのである、要するに、
人間には不可能なことがあるのです。財があり、心を動かされないでいる、つもりが、
財の存在にあってすでに心をなにがしか動かされている、のです。また、全財産を貧者
に施しても、自尊心・自己がそれを卑しいものにする、聖書は、愛がなければ、山を
動かすほどの信仰があっても、全財産を施しても、命を捧げても、「なんの値打ちもない」
と断言しているのです。完全な愛は人間側からは持ち得ないのです。神の愛により、はじめ
て知り得るのです。原罪に関しては、簡単に説明するのは難しいですが、とある「木の実」
を食すべからず、つまり、神とのたったひとつの約束を聞けなかった、この結果論的なもの、
でしょうが、これはそう単純なものではありません。いずれにせよ、なぜイエス・キリスト
がこれほどまでに人心を引きつけるか、は、彼は神であるにかかわらず、肉のかたちをとられ、
みなのために自己を捧げ、赦し、へりくだられた、ここに救いが・・・すなわち彼は、自身で
は何もできぬ、すべて父の御旨、と言われたほどにへりくだられ、貧しき者、弱者、病にある
人々のために歩かれた・・・そう、ゆえに彼は神、三位の神なのです。右の座につかれた。彼
は、最もへりくだられた、ここに神の力が預言通り示されたのです。我々はみな彼に愛されて
いるのですから、互いに愛し合いましょう、というのが、キリスト教の礎です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 ヨハネ3・16

651 :堕靡泥の星:2001/08/17(金) 17:54
>>646
>だから仏教は修行して人間を超えようとするわけですが・・・

仏教の目的は苦の克服であり、超人になるために修行をするわけでは
ない。

652 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 18:03
>イエスの言葉のユダヤ的解釈ではあり得ません。往時ユダヤ人にとっては、何より
(キリスト者は)憎むべき者であったのです。キリストにあっては過去・現在・未来
などは問題ではありません。時間・空間・次元を超越しています。救いは「イエスを
神の御子であると心から信じる」「罪を心から悔い改め、今後、罪を全く犯さぬことはできないまでも、
罪の誘惑からお守りください、と祈る姿勢」「互いに愛をもって歩む」これで約束されましょう。感謝
の心を持つ者になりなさい、主にあって喜びなさい、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。祈り
なさい。他者のためにも祈りなさい、へりくだりなさい、ひとつ心になりなさい、云々、という感じです。

653 :646:2001/08/17(金) 18:10
>>651
>仏教の目的は苦の克服
そのために智慧の達成があるのでしょ。「むしろ人間の叡智の限界
を知るべきだ」という発言に対する言葉です。超人云々の話はして
いません。

654 :堕靡泥の星:2001/08/17(金) 18:46
>>653
申し訳ないが、何をいわんとしているのかよくわからない。

655 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:02
>>639
同意!
仏教、キリスト教、片寄らずに学んでいるものなら、
すぐ判る事である。

656 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:04
>>649
了解!

657 :223:2001/08/17(金) 19:09
 「四無量心」のなかでも、特筆すべきは「捨無量心」の実践である
と思います。慈・悲・喜を実践しながら、そうした行いやその対象
への執着をも捨ててしまうことを教えています。つまり、これら
の行為は目的ではなく、あくまで涅槃へ到達する方便の一つとさ
れているわけです。

658 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:15
>>654

なにがわかんないの?
仏教の目的は輪廻を絶つことでしょ?
人間を超えるのもその中に含まれているし、
苦の克服も含まれている。
苦の克服は四聖諦のことかな?

659 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:16
>>647
>例えば、捨とは悪業の現われだけでなく、善業の現われにも(例えば、財産
>があったとして、単にそこから離れるのではなく、財産の中にあっても)
>心を動かさないことを含むと解しているのですが、キリスト教ではどうなの
>でしょうか。具体的な記述があればお願いします。
キリスト教でも同じ!
当該箇所は、マタイ6章24
『神と富とに兼ね仕える事は出来ない。』

660 :1:2001/08/17(金) 19:18
223さん、カキコありがとうございます。
このスレを立てたものです。
>>657
とてもわかりやすいです。

661 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:19
>638 650
>しかしアルファでありオメガである ところの創造主は不完全ではあり得ない。
>よって不完全な人間を創った背景が示されね ばならぬ。つまり、人間はじめ
>生命には完全なる目的がある、ということだ。神による愛の完成である

これだと目的が説明されていない気がするのですが。なぜ神の愛による補完計画を
必要とする人間を創ったのでしょう?なぜ最初から完全な人間を創らなかったので
しょう?

>仏教は、修行によって超然・達観たる仙人よろしくヒトはなり得る、人間の
>自然性をも超える、というようにもうかがえるのですが、キリスト教は、どこまで
>いっても人間はしょせん人間である、との観点を変えません。

仙人というのは誤解を招くかもしれませんが、それはいいとして、神の愛によって
人間は完全なものになるのですよね。献身のヨーガというのがありますから、その
系統の修行だと理解できます。というとクレームが付きそうですが、うちの宗教と
他とは違うんだという考え、究極的には自分の宗教のほうが優れているのだと考え
が宗教戦争のもとになると思うので、むしろ共通点を私は探したいと思います

662 :661の続き:2001/08/17(金) 19:21
>650
>子供から老人まで一様に、人間は罪を内包して存在している、というわけです。
>簡単にいえば、律法には、女を見て、心の中でみだらなことを思えばすでに
>姦淫しているのである、要するに、人間には不可能なことがあるのです。

そうですね。性というのは人間という存在における重大な問題です。仏教には
それに対するテクニックがありますが、神に対する集中で対抗できないので
しょうか?

663 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:21
やはり、キリストは仏教信仰だったんですね。
真理は一つなんですね。
キリストは輪廻を説いていた、とか中東の洞窟に
キリストと弟子達が仏教の瞑想修行していた跡があるそうです。

664 :662の続き:2001/08/17(金) 19:22
>650
>財があり、心を動かされないでいる、つもりが、 財の存在にあってすでに心を
>なにがしか動かされている、のです。

これはキリスト教の限界を表していると受け取ってしまいますが。捨というのは
その状態で心を動かさないことを含んでいるのです。もちろん本来は自浄の
修行が終わったあとに行なうほど高度な修行なのですが。

>また、全財産を貧者 に施しても、自尊心・自己がそれを卑しいものにする、

仏教的には、これを含めて自浄の修行で煩悩を落とし、人間・欲の天界を超えるので*

>聖書は、愛がなければ、山を 動かすほどの信仰があっても、全財産を施しても、
>命を捧げても、「なんの値打ちもない」 と断言しているのです。完全な愛は
>人間側からは持ち得ないのです。神の愛により、はじめ て知り得るのです。

*既に人間ではないのです。そのもの達が慈悲喜捨の修行をしていくのです。
ただ、チベットなどでは自浄と四無量心の修行をある程度平行して行ないます。
自浄だけだと、それが終わった時点で涅槃してしまう可能性もあるんですよね。

665 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:25
>簡単にいえば、律法には、女を見て、心の中でみだらなことを思えばすでに
>姦淫しているのである、要するに、人間には不可能なことがあるのです。

これは仏教の初歩の小乗の考え方ですね。
大乗やタントリック、密教など、仏教の中でも
高度な教えになると、菩薩はわざと女性に対する執着を残して、
その執着を因として、人間界に転生したりします。

666 :堕靡泥の星:2001/08/17(金) 19:28
>>648
なぜ輪廻を断たねばならないのか。それは輪廻の世界は迷いの世界で
あり、その本質は苦であるからだ。苦の克服がその中に含まれるので
はなく、苦の克服こそが仏教の最大の関心事なのである。

>なにがわかんないの?

人間を超えるとは、具体的にどういうことを言っているかわからない。

667 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 19:37
>666
うんうん。
無常を越えるということね。

人間を超えるのは、五蘊を浄化して、人間の五蘊から、
神々の五蘊に修行によってつくりかえて、
神々でさえも無常だという事を悟ったら、
お次は五蘊も無常だという事を悟ること。
だから、人間を超えるのは仏教の修行ステージの
わりと低いほうです。

668 :223:2001/08/17(金) 22:08
 ブッダあるいは初期の仏教は「苦」を以下の八種に整理
しました。

 生苦・老苦・病苦・死苦 (四苦と呼ばれます)
 愛別離苦=愛しい者と別れなければならない苦
 怨憎会苦=憎い者と出会わねばならない苦
 求不得苦=求めるものが得られぬ苦
 五蘊盛苦=人間存在の一切から起こる苦

俗にいう「四苦八苦」ですが、この他にも「苦愁憂悩悲」な
どが加わります。「四諦(苦集滅道)」説でこれらの苦の止
滅や、止滅への道が示されますが、別に「人間」を超える
思想が開示されているとも思えません。ブッダは目覚め
た「人」であり、それゆえにその教説は普遍性を主張出来
うるのだと考えます。神格化あるいは神聖化された要素
をブッダから取り除いても、その思想の価値には何ら影
響を及ぼさないと思います。

669 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 22:22
223さん、
仏陀が梵天でヴァカという神に、
無常を説いたのをご存知ですか?
色界や無色界でも、覚者として崇められています。
人間の肉体は持っていますが、精神は、
欲界(勿論人間も)、色界、無色界を越え、
空の状態にあったのではないでしょうか?

670 :223:2001/08/17(金) 23:08
>>669さん
 説く相手が誰であろうと、ブッダは差別なく法を説きまし
た。「諸行無常」は仏教の基本的な教説ですので、誰に説いて
もおかしくはないと思います。
 しかし注目すべきは、初期経典に登場する神々の扱いです
。彼らは呼びも拝みもしないのに勝手に現れてブッダと問答
を交わし、納得して消えてしまいます。そしてそこで説かれ
る内容は、比丘や一般帰依者に対するものとさしたる違いは
見られません。つまり説法相手が超自然的な神々であっても
なくても一向に構わない仕組みになされているのです。これ
はブッダあるいは初期の経典作成者が、周囲の人々の奉じる
民俗的な信仰を、真っ向から否定せずに仏教に導くために編
み出した、巧みな方便であったと考えられるのですが如何で
しょうか? 

671 :223:2001/08/17(金) 23:11
もう一つ。
>人間の肉体は持っていますが、精神は、
>欲界(勿論人間も)、色界、無色界を越え、
>空の状態にあったのではないでしょうか?
に書かれておられる「空の状態」とはいかなるものでしょうか?

672 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 23:29
>>671
梵天は人間の世界よりずっと寿命が長いので、
ヴァカは梵天は常だと、思ってたら、
仏陀に梵天ですら無常だと説かれました。
仏陀は欲界、色界、無色界、の中で最も偉大だったのです。

空とは簡単にいうと、入れ物だけあって、中身は空っぽという事です。
五蘊に全くデータがなくなり、アートマンと合一する事です。
合一というのは変ですね。
表層意識も潜在意識もアートマンになることです。

673 :名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 23:33
>661 「悪から善への自らの選択による愛の意義」これが完璧ロボットのような人間
を創らなかった理由です。私は638ですが、自由意思というものは、陶器師である
神が、陶器である人間に対する愛の恵みのひとつとも解釈できましょう。>663
そういった話は、他の仏教者の質を下げるかもしれないので、やめたほうが良いのでは?
663さん、共通点を探る。確かに前向きであり、紳士的であり、自らの正義ばかりを
ヤケクソのように主張しつづける連中とは異なり、素晴らしいとは思いますが、汎神論
的なものや、生ぬるいラオデキヤの教会のようになってはいけないので、気をつけないと
いけないのです・・・キリスト教は、聖書にあることがらを信仰しつづける、これは永遠
に変わりません。

674 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 01:47
>>624
ソーターパッティ・サンユッタとは漢訳でなんて言う経典ですか?

675 :BM:2001/08/18(土) 02:08
>>670

>つまり説法相手が超自然的な神々であっても
>なくても一向に構わない仕組みになされているのです。

これはブッダの平等性智を示すものでもあるのではないでしょうか?

676 :223:2001/08/18(土) 02:12
>>674
 パーリなら相応部、漢訳阿含なら雑阿含経だと思いますが。両者
を検索対応させるのは、順番の異同もあり大変そうです。手許の中
村元抄訳の「サンユッタ・ニカーヤ(相応部)」には当該箇所が載って
おりません。7さん出典教えて下さい。m(_)m

677 :223:2001/08/18(土) 02:31
>>675
>これはブッダの平等性智を示すものでもあるのではないでしょうか?
そのように認識しております。

678 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 02:47
私はこれまでいろいろ書かせていただきましたが、もう十分だと思い、これにて最後
にしたいと思います。仏教者の方々はじめ多くの人々が、これほど真理を求め、勉強
されている事実に、まず率直に感銘しました。私はキリスト者ですが、多くのことを
学ばせていただきました。ありがとうございました。ヨハネ第3の手紙2 「愛する
者よ。あなたが魂に幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であ
るように祈ります」 汎神論ではありませんが、キリスト者、いえ、自身が傲慢にな
らぬように、この聖句で締め括りたいと思います。同11 「愛する者よ。悪を見な
らわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう
者は神を見たことのない者です」     主の御名を賛美します。  サヨナラ

679 :7:2001/08/18(土) 04:28
>>676
223さん、預流相応です。

680 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 05:51
>>670
> しかし注目すべきは、初期経典に登場する神々の扱いです
>。彼らは呼びも拝みもしないのに勝手に現れてブッダと問答
>を交わし、納得して消えてしまいます。そしてそこで説かれ
>る内容は、比丘や一般帰依者に対するものとさしたる違いは
>見られません。つまり説法相手が超自然的な神々であっても
>なくても一向に構わない仕組みになされているのです。これ
>はブッダあるいは初期の経典作成者が、周囲の人々の奉じる
>民俗的な信仰を、真っ向から否定せずに仏教に導くために編
>み出した、巧みな方便であったと考えられるのですが如何で
>しょうか?
三明を得た者は、生きながらにして天国地獄を知る事が出来ると、
されている。方便とは考えにくい。

681 :ども:2001/08/18(土) 05:59
やっぱ、お釈迦様!!人間界で修業されたしね

682 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 06:06
>>671
>>人間の肉体は持っていますが、精神は、
>>欲界(勿論人間も)、色界、無色界を越え、
>>空の状態にあったのではないでしょうか?
>に書かれておられる「空の状態」とはいかなるものでしょうか?
無余涅槃界!
名称と身体が完全に滅びてしまい、大いなる一人称と呼ばれる永遠の状態。
または、法身とか非顕現の最高のアートマンとか呼ばれる。

683 :12:2001/08/18(土) 06:29
何でキリストはんが、えらいのかわからん

684 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 08:32
>これほど真理を求め、勉強されている事実に、まず率直に感銘しました。

おいおい・・・
人類の有限な思考能力と記憶能力がこんな無駄なことに使われているかと
思うと、涙が出てくるね。

およそありとあらゆる宗教は、それ自体では完結しているかもしれないけど、
基本的に全人類がその宗教を信じて一様に幸せになることは不可能、
せいぜい戦争の発端と弾圧の対象にしかならない、ということを
教祖は気付くべきだったね。

685 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 08:35
>659レスありがとうございます。

>>例えば、捨とは悪業の現われだけでなく、善業の現われにも(例えば、財産
>>があったとして、単にそこから離れるのではなく、財産の中にあっても)
>>心を動かさないことを含むと解しているのですが、キリスト教ではどうなの
>>でしょうか。具体的な記述があればお願いします。

>キリスト教でも同じ!
>当該箇所は、マタイ6章24
>『神と富とに兼ね仕える事は出来ない。』

ただ、これだと富を放棄して神に仕えるのか、富がそこにあったとしても
それにとらわれることなく神に仕えるのかが明確ではありません。確か、
聖書には在家の信者の問いに答える形で、富んでいる者が天へ入るのは
ラクダが針の穴を通るより難しいという一節があったと思うのですが、
だとすると「放棄」の意味に近いのではないでしょうか?

686 :名無しさん@1周年 :2001/08/18(土) 09:38
>685

>「放棄」の意味に近いのではないでしょうか?

これはよく議論になる問題ですね。また、多くのキリスト教徒が触れたがらない
問題でもあります。

金持ちの男が「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を
敬え」という掟を子供の時から守ってきた、永遠の生命を得るにはこの他に何を
すればいいか、と問うたのに対して、イエスはこう答える。

「あなたに欠けたものが一つある。家に帰って持っている物を売り払い、貧しい
人々にあげなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに
ついて来なさい」

その人はたくさんの財産を持っていたので、がっかりして悲しみながら立ち去った。
(マルコ10:17−22)

687 :686(続き):2001/08/18(土) 09:48
この直後に、ラクダ云々のたとえ話が続きます。

この話の流れを見る限り、イエスは財産の放棄を迫った、と解釈するの
が妥当でしょうし、実際にマザーテレサなどはそのいいつけを守った
のです。

マルコの時代、教会は財産共有制を建前としていて、信者には財産の放
棄を奨励していました(ただ、必ずしも守られなかったらしい)。教会
はイエスの言葉を利用するために、福音書にこのエピソードを残したの
でしょう。

この教えに一番戸惑ったのは、後世になって絶大な権力を持つように
なったキリスト教会でした。彼らは富の集中の只中にいたからです。
いつの間にか、彼らは糾弾する側から、糾弾される側に移っていた。
そこで、これは「人間とは所詮、罪深いもので、たとえ全財産をなげ
うっても罪人であることには変わりがない。だからキリストの贖罪に
すがるしかないのである」という論理のすり替えをやったのです。

このような、教会による論理のすり替えが繰り返し行われてきた事実を
考えると、ラクダのたとえ話が本来、どういう意味でイエスの口から
出たのかを正しく判断できる人はこの世にはいないでしょう。

688 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 10:22
無一文の乞食に説教されても
フンッてなもんやね
社会的地位のある人のお言葉には
従わざるを得ないし

689 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 10:30
とりあえず吟味の上で自分に合うと思ったものを選べばいいだけだと思うけど。
あるいは、決めるにしても自分の内面だけにとどめておくのが不毛な争いにならなくていいよ。
自分の主観を他人に押し付けても意味ないしさ。

690 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 12:13
>689
このスレ読めばわかるけど、仏教徒はキリスト教を、キリスト教徒は仏教を
よく理解していないのです。吟味はもちろん必要だけど、一つの宗教について
でさえ、その本質を押さえるっていうのは大変なことです。

ですから、それぞれの専門家が同じ土俵にあがって意見を述べ合い、類似点、
相違点をはっきりさせることはそれなりに意味があると思います。宗教間の
争いが相手の教義を理解しないで、自分の宗教の優位を主張することに始まる
のはよくあることですから。

691 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 12:20
>>690
ただ、キリスト教の専門家(?)は、このスレには時々しか来ないので、難しいと思います。
仏教の独壇場になってしまっています。キリスト教は、かなり誤解を受けているようですが、そのあたりのことはいかがでしょうか。
むしろ、2chでちゃんとした議論を期待することが、おかしいのかもしれません。

692 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 12:27
>691
>キリスト教は、かなり誤解を受けているようですが、
それはあるかもしれませんね。140さんをはじめクリスチャンの方々の
奮闘を期待したいところですが。

>2chでちゃんとした議論を期待することが、おかしいのかもしれません。
それをいっちゃあ、おしまいよっ

693 :黒海老:2001/08/18(土) 14:30
>>682
>無余涅槃界!
>名称と身体が完全に滅びてしまい、大いなる一人称と呼ばれる永遠の状態。
>または、法身とか非顕現の最高のアートマンとか呼ばれる。

修行して悟りを得る事は、苦を乗り越える為だと思いますが、
これでは、まるで全知全能の存在になるように聞こえてしまいます。

694 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 14:56
>687 それは半分正解だが残りの半分は不正解。イエス自身の言葉で救いについて
述べられている。しかも自身磔刑の際、隣の犯罪者が自身を「信じる」決断をしただけ
で、イエスは彼に「パラダイス行き」を断言した。いずれにせよ、愛は実践だと思う。

695 :223:2001/08/18(土) 15:51
>>680
>三明を得た者は、生きながらにして天国地獄を知る事が出来ると、
されている。方便とは考えにくい。
 ブッダは三明すなわち、旧来のヴェーダ祭祀を批判的に超克して
その教説を確立しました。ヴェーダの神々をブッダに帰依させると
いう初期仏典の記述は、バラモン教などの民俗信仰に対する仏教の
態度を表現していると思います。また祭祀階級であるバラモンたち
に「ヴェーダの達人」とクシャトリア(武士貴族)階級出身のブッダを
讃えさせているのも、同様の意味かと考えます。

>>682
>無余涅槃界!
>名称と身体が完全に滅びてしまい、大いなる一人称と呼ばれる永遠の状態。
>または、法身とか非顕現の最高のアートマンとか呼ばれる。
 煩悩や執着などのわずらいから離れ、心身ともに安らぎに帰した
境地をニルヴァーナ(涅槃)と呼びますが、初期仏教の教えには「法
身」とか「非顕現の最高のアートマン」などという概念はありません。
むしろそれはヴェーダ宗教やウパニシャッドなどブッダが批判的に
接した相手の教義(アートマン説などの形而上学)ではないかと思う
のですが。加えて、もともと「消滅」を意味したニルヴァーナに、存
在全体の滅尽という概念が付け加えられたのは、ブッダの入滅後で
あったようです。身体作用から生じる生理的苦痛を伴なう有余涅槃
と、身体の死によりそれらが完全に止滅する無余涅槃(般涅槃)に分
けて説かれるようになります。

696 :686:2001/08/18(土) 16:07
>694

ひとつだけお伺いするが、もしあなたの言うように、全財産を投げださ
ずとも、イエスの救いによってパラダイスに行けるのなら、金持ちの男
に対して、どうしてあんないらぬことを口にしたのか?イエスがいじわ
るをしているとしか思えないではないか。

それに、イエスが処刑される時、ペテロを初めとして弟子達は蜘蛛の子
を散らすように逃げ去ったはず。十字架上のイエスが口にした、瀕死の
ささやきが耳にできる至近距離に居たとはとうてい思えないのだが。

697 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 16:17
>695
>旧来のヴェーダ祭祀を批判的に超克して その教説を確立しました。
どこらへんの記述からそのように判断されるのでしょう?少なくとも
ゴータマが出家した時は、批判とかそういうことを切っ掛けにしたもの
ではないでしょう。

>ヴェーダの神々をブッダに帰依させるという初期仏典の記述は、
>バラモン教などの民俗信仰に対する仏教の態度を表現している
>と思います。

バラモンを、批判的ではなく、消化し内在したと考えてもおかしく
ないと思いますが。

>また祭祀階級であるバラモンたち に「ヴェーダの達人」とクシャト
>リア(武士貴族)階級出身のブッダを 讃えさせているのも、同様の
>意味かと考えます。

同様に批判的とする根拠が薄いと思いますが。

698 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 17:24
>693
>修行して悟りを得る事は、苦を乗り越える為だと思いますが、
>これでは、まるで全知全能の存在になるように聞こえてしまいます。

全知全能でもいいと思いますが。
「如来は応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・
仏陀・世尊であります。そして、如来は、天界・魔界・梵天界を含むこの世界
のこと、沙門・婆羅門・天人衆のことを自ら悟って説き示します。」
あと、ジャータカに「全知を求めて」という一節があります。

全能については「非顕現の最高のアートマン」を認める立場の人は当然だと
思っているでしょうし、そうではない人は神通の記述からそれを予想すること
は不可能ではないでしょう。

699 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 18:06
>696 イエスが処刑された際、実際時の権力者ならびにさまざまな見物人がいた。
百人隊長は処刑後、彼(イエス)はまぎれもなく神の子だった、と俄然変節し、また
妙な自然現象なども多くの人間が目撃している。

700 :名無しさん:2001/08/18(土) 18:11
>>699
そのことが記述されているのは聖書だけ。
ユダヤ側もローマ側も完全無視。

701 :691:2001/08/18(土) 18:33
>>692
結局、仏教の方々がおっしゃりたいことは、
「仏教はすごいんだ、完璧なんだ、仏教の方がキリスト教よりも優れているんだ」
ということを、主張したいのではないですか?
反対に、キリスト教の人、例えば140さんとかは、
別にそんなことどうでもいい、って感じだし。
キリスト教の人の方が、自分達の信仰に確信が有る感じ。

702 :名無しさん:2001/08/18(土) 18:34
>>701
ここに仏教徒なんておらんよ。ためしに宗派聞いてみ。

703 :691:2001/08/18(土) 18:38
皆さんの宗派を教えてください。
よろしくお願いします。

704 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 18:43
>>685
>ただ、これだと富を放棄して神に仕えるのか、富がそこにあったとしても
>それにとらわれることなく神に仕えるのかが明確ではありません。確か、
必要なものは、神が与えてくれる。
正確に言うなら、因果応報!(黄金律)
>聖書には在家の信者の問いに答える形で、富んでいる者が天へ入るのは
>ラクダが針の穴を通るより難しいという一節があったと思うのですが、
神ならできる!
より功徳を求めて神の仕事をしたいなら、放棄しなさい!という意味。

705 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 18:51
>696 金持ち、即ちイエスはヒトの心の奥をみる。彼にあってはいかなる超人も子供
も大差ない。ところで、ゴータマ・ブッダはこれらの質問には沈黙を守ったそうだが、
私は彼の偉大さはここにこそあるように思う。「世界は時間的に有限か? 無限か?」
「世界は空間的に有限か? 無限か?」「身体と魂は同じか? 別物か?」「如来は
死後にも存続するか? 死後には存続しないか?」
ゴータマ・ブッダは自身が神ではないことを知悉しているからこそ、無益な水掛け論
を嫌悪し、善行の実践を奨励したのだろう。
イエスはすべてにおいて深奥をみる。ゆえに彼は、ドストエフスキーが指摘するよう
に、おおよそ人間の叡智が何千年かけても出し得ないような回答を、一瞬にして出す、
サタンの試みを見よ、という結果になるのである。
決定的なことを言おう。人間は、皆、確実に死ぬ。明日、どうなるのかさえ、わから
ない。聖書もそれを指摘している。神と人間は絶対に別である。人間は神について想像
はできても、神・絶対者・創造主のすべてを知悉することはできない。老死という言葉
がすでに都合よくできている、マトハズレ、一瞬先を知り得ぬ人間は、空気を吸い、もの
を考えている現実に心づくべき、これ自体すでに恵みのなかにあるわけ。明日死ぬかも?
この現実に心づく者は、無益な事柄よりも「へりくだり」に心が向かう。具体的に示され
るわけだ。イエスは今も生きておられる。世的なる頭では永遠に到達できないであろうが、
へりくだれば容易に解せよう。この世においては、重要なことは、実はそれほど多くない。
しかし、そうであるからこそ、へりくだり、導かれなければならない。まず、自身から、
悔い改めよう。そう、キリスト者から、である。私自身。 Dixi

706 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 18:57
>>693
>>無余涅槃界!
>>名称と身体が完全に滅びてしまい、大いなる一人称と呼ばれる永遠の状態。
>>または、法身とか非顕現の最高のアートマンとか呼ばれる。
>
>修行して悟りを得る事は、苦を乗り越える為だと思いますが、
>これでは、まるで全知全能の存在になるように聞こえてしまいます。
仏典でそのように書いてある。
原始仏教で苦を乗り越えるとは、正しい行いで悪業を滅する!
と考えられる。(八正道)

707 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 18:57
>700 聖書ならびにキリスト教の史実に関心があるなら、もっといろいろ勉強されたし。

708 :名無しさん:2001/08/18(土) 19:19
>>707
書き逃げくさいレスだね。まぁ、十字架上の記述はかなり詳細なので
福音書間で細かい違いはあれど、それなりに真実を伝えていると思う。
キリスト教にとって都合の悪いと思われる記述(「エロイ、エロイ、
…」)もちゃんと書かれているし。しかし、復活の記述はかなり胡散
臭いよね。

709 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 19:45
>>695
> ブッダは三明すなわち、旧来のヴェーダ祭祀を批判的に超克して
>その教説を確立しました。
原始仏典を読むなら、釈迦はバラモン教の聖者であることが解る。
特にスッタニパータ!

> 煩悩や執着などのわずらいから離れ、心身ともに安らぎに帰した
>境地をニルヴァーナ(涅槃)と呼びますが、初期仏教の教えには「法
>身」とか「非顕現の最高のアートマン」などという概念はありません。
スッタニパータに書かれているように、名称と身体が完全に滅びて、
一人として数えられない最上の状態を、ヒンドゥー教や後世の
仏教では、どのように表現するのか?

710 :PiusX:2001/08/18(土) 20:03
>>696
横からすみません。

十字架の真下には聖母マリア、
そのすぐ近くにはマグダラのマリアと使徒ヨハネ、
そして少し離れて聖婦人と呼ばれる
女弟子たちがいたということになっております。

711 :PiusX:2001/08/18(土) 20:25
>>708
もう一つだけ・・・

よく仏教徒の方は、その言葉をキリストが信仰の
弱さを白状したものと受け止められるようですが、
キリスト教徒は、

「我が神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
                        (マタイ伝、マルコ伝)
「父よ、私の霊を御手にゆだねます」  (ルカ伝)

をあわせて考えて、
キリストは、自分が神から見捨てられたと感じるほど
苦しんでも、決して信仰を捨てなかったと解釈します。

712 :名無しさん:2001/08/18(土) 20:28
>>711
必ずしもそうは取っていない。ただ、キリスト教徒が解釈に
悩んだというのはホントでしょう?詩編からの引用云々は
後付解釈だもの。

713 :691:2001/08/18(土) 20:36
>>702

やはり、あなたがおっしゃることは、正しいようですね。
ここには、仏教徒の方はおられないようです。

いわゆる「仏教マニア」とでも言いましょうか、
今の言い方で言えば、「仏教おたく」の方々のようですね。

正しい仏教、あるいは仏教の真髄は、ここでは分かりそうにないですね。

714 :名無しさん@1周年:2001/08/18(土) 20:56
>>713
2時間でそう決め付けられてもね。あなたの呼びかけに答える義務も無いし。

715 :PiusX:2001/08/18(土) 21:01
>>712
旧約聖書で預言されたメシアがキリストであると考えるのが
キリスト教なのですから、
旧約聖書を引用して、メシアがキリストであることを証明するのは
キリスト教の考え方では正しいこととされます。

716 :691:2001/08/18(土) 21:07
>>714
確かにそうだ。たったの2時間。
これは大変失礼しました。
でも、このスレ、あっという間に進んでしまうから、心配。

>あなたの呼びかけに答える義務も無いし。

仏教を知らない人間からの語りかけを無視するような、
それが仏教者という風に解釈してもいいですか?

717 :223:2001/08/18(土) 21:14
>>697
>どこらへんの記述からそのように判断されるのでしょう?少なくとも
>ゴータマが出家した時は、批判とかそういうことを切っ掛けにしたもの
>ではないでしょう。
 ブッダは生老病死などの苦悩からの脱却をめざして出家しました。そし
て当時行われていた、様々な方式の修行を経験しましたが、それらのもた
らす境地に納得することは出来ませんでした。修行の過程で師事したアー
ラーラ・カーラーマはジャイナ教かアージヴィカ教系、ウッダカ・ラーマプ
ッタはバラモン系の行者だったという説があります。ブッダ−この頃はま
だ悟りを開いていませんが−はさらにそれらを超克することによって解脱
を実現したといえます。
>バラモンを、批判的ではなく、消化し内在したと考えてもおかしく
>ないと思いますが。
 ヴェーダの神々や、バラモンたちとの対論や対話は初期仏典の至るとこ
ろに記述されています。もちろん彼らを真っ向から否定し、批判してはお
りませんが、ブッダは巧みな譬喩説法や対機説法により彼らを信服、納得
させ帰依あるいは改心させています。ただ独自の術語を持たなかった初期
の仏教が、語彙や用語をバラモンやヴェーダから借りているのは事実のよ
うですが。

 余談かもしれませんが、ブッダの出身部族であるサキャ族は、クシャト
リア階級に属していましたがバラモンの権威を軽んじ、近隣のバラモンた
ちからは高慢で野蛮だと非難されていたようです。

718 :223:2001/08/18(土) 21:21
>>679
 7さん
 ありがとうございます。

719 :エロイ:2001/08/18(土) 21:28
イエスの十字架上のその言葉

キリスト教ではイエスは神ですね。
神が神を見失う→最悪の事態→最悪の事態にまで神がいる
神が居るところ→天国∩神がいないところ→地獄
→なんてちんけな宗教観をねこそぎひっくり返して
→神がいないところ→そこに神がいた

ってなのでどうでしょうか?

720 :名無しさん:2001/08/18(土) 21:37
>>715
なるほど。じゃあしゃあない。

721 :714:2001/08/18(土) 21:38
>>716=691さん
703でのあなたの問いはここでの議論に大した影響があるとも思えませんし、
プライバシーに関わることをネットで公表するかどうかは、仏教者がどうの
っていう問題ではないと思いますが。

また、691さんは701で仏教の方々と一括りにしていますが、仏教の話をして
いる中には仏教=唯物論説の人もいるし、ブラフマニズム的アートマンを
認める人、認めない人とかがいて、例えば唯物論説をとっているひとは、
キリスト教には全く触れていません。691さんは読んでないのか意識的に無視
しているのか・・・

キリスト教を説明してくれる人の中にも、140さんみたいにわからない事に
口をだすのは控えようという人もいますが、議論の流れを無視して、いきなり
「イエス・キリストは神の子。お釈迦さんは偉大 な人間。この構図は変わら
ないと思いました。当然かもしれませんが・・・・ 」
と結論づけようとする人もいます。

あなたにも「キリスト教の人の方が、自分達の信仰に確信が有る感じ。」
というカキコにも見られるとおり、キリスト教マンセー的なところが見られます。
こういう一種の情報操作をするぐらいだったら、堂々と議論すればいいのでは?
多勢に無勢であろうとも。

>仏教を知らない人間からの語りかけを無視するような、 それが仏教者という
>風に解釈してもいいですか?

返答を強要するようなこのようなカキコは不愉快です。

722 :697:2001/08/18(土) 22:23
>717
>ブッダ−この頃はま だ悟りを開いていませんが−はさらにそれら
>を超克することによって解脱 を実現したといえます。

これは最終段階に到達できなかったということで、仏教の途中、
正確には覚えていませんが、空無辺とかあたりまでは、いった
と記憶しているのですが。

>もちろん彼らを真っ向から否定し、批判してはおりませんが、

では、「消化し内在」ではないという根拠は経典上には見られない
ということですね。

>サキャ族は、・・・バラモンの権威を軽んじ

これは聞いたことがあります。

723 :PiusX:2001/08/18(土) 23:52
>>719
> →神がいないところ→そこに神がいた

神がいないと思われるような最悪の状態でも、
神は必ずそこにいて、決して人間を見捨てはいないと
解釈していただいているのなら、まさにその通りです。

724 :223:2001/08/18(土) 23:59
>原始仏典を読むなら、釈迦はバラモン教の聖者であることが解る。
>特にスッタニパータ!
 「スッタニパータ」や「ダンマパダ」など初期の経典とされるものに
は、ブッダや理想的な修行者のことを指して「バラモン」と記されて
いる箇所が多く見られます。しかしながらこれを以ってブッダがバ
ラモン教の聖者に位置付けるのは不適当に思えます。初期の仏教に
おける「バラモン」とは「徳行にすぐれた人」あるいは「煩悩を去り罪
悪をなさぬ人」とされ、ヴァルナ制度におけるヴェーダ祭祀者階級
のことを指すのではないと考えます。独自の術語が成立していなか
った最初期の仏教では、旧来の語彙を意味はともかく、そのまま使
用することが多かったようですが。
>スッタニパータに書かれているように、名称と身体が完全に滅びて、
>一人として数えられない最上の状態を、ヒンドゥー教や後世の
>仏教では、どのように表現するのか?
 仏教ではニルヴァーナという表現に変化はみられないと思うのです
が、ブッダが拒否し、思考から排除することを説いた形而上学的議論
に踏み込んでしまっているように思えます。ヒンドゥー教については
無知を告白しなければなりません。ただヒンドゥーではブッダを、反
面教師として現れたヴィシュヌ神の化身として捉えていたと記憶して
います。

725 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 00:41
>>724
>おける「バラモン」とは「徳行にすぐれた人」あるいは「煩悩を去り罪
>悪をなさぬ人」とされ、ヴァルナ制度におけるヴェーダ祭祀者階級
>のことを指すのではないと考えます。
そのとうりである。
だからこそ釈迦はバラモン教の聖者でもあるし、仏教の聖者でもある。

>>スッタニパータに書かれているように、名称と身体が完全に滅びて、
>>一人として数えられない最上の状態を、ヒンドゥー教や後世の
>>仏教では、どのように表現するのか?
> 仏教ではニルヴァーナという表現に変化はみられないと思うのです j
>が、ブッダが拒否し、思考から排除することを説いた形而上学的議論
>に踏み込んでしまっているように思えます。
答えは、前述した通り、ヒンドゥー教では非顕現の最高のアートマン、
後世の仏教では、法身(ダルマカーヤ)。
結論は、宗教は一つである、という事である。

726 :黒海老:2001/08/19(日) 00:59
釈迦を全知全能の存在と思っている人は、釈迦が入滅したのは自分の意思でそうしたのであり、
その気になればいくらでも生きる事ができた、と言う説を支持していますか?
釈迦は『生老病死』によって生ずる『苦』を克服したわけですが、
物理的に『生老病死』を操れるようになった訳では無いとおもいます。
思い通りにならない『生老病死』を思い通りにしたいと思う『執着』を離れる事が目的ですから。
「思い通りにしたい」と言う執着を離れたら「思い通りに出来るようになる」と言うのは変じゃないですか?

727 :223:2001/08/19(日) 02:30
>>722
>これは最終段階に到達できなかったということで、仏教の途中、
>正確には覚えていませんが、空無辺とかあたりまでは、いった
>と記憶しているのですが。
 悟りに達したブッダは、その過程で習得した禅定の方法など修
行に有効であると判断したものは、その教えに取り入れましたが
苦行や伝統的な祭祀などは放擲して顧みませんでした。もっとも
ブッダは習得した以上の禅定のレヴェルにみずから達したようで
す。実際、初期経典にはバラモンたちからの非難が多数記されて
います。彼らにとってブッダは社会的宗教的な秩序を撹乱する異
端者だったのは事実だと思います。
>では、「消化し内在」ではないという根拠は経典上には見られない
>ということですね。
 「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと
星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や
医術を行なったりしてはならぬ。」   (スッタニパータ 927)
 「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世
で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生
存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」
                       (同上 1044)
 「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこ
の安らぎを、そなたに解き明かすであろう。それを知ってよく気
をつけて行ない、世の中の執着を乗り越えよ。」 (同上 1066)

 「スッタニパータ」第5章は、バーヴァリというバラモンの弟子
たちとブッダとの対話によって構成されています。よろしければ
ご一読を。
あ〜疲れた(笑)

728 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 03:45
日蓮正宗のみが最高真実で最高宗教です。
よってお釈迦様の方が偉いのです。

729 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 06:28
>726
>思い通りにならない『生老病死』を思い通りにしたいと思う『執着』
>を離れる事が目的ですから。 「思い通りにしたい」と言う執着を離
>れたら「思い通りに出来るようになる」と言うのは変じゃないですか?

すべてを放棄したところにすべてが存在したということだと思いますが。
思い通りに出来るというのと、思い通りにしたいというのは別でしょう。
執着を離れているから、やらなくても問題ないけれど、必要(衆生済度)
であればやることもあるということで。

釈迦は弟子を求めて法を説いたのではなく、弟子が求めたから存在を留
めていたのです。アーナンダが「お留まりください」といえば、それは
可能だったと思いますが、言わないことを見越していたとは思います。
彼の成長を考えてのことだと思います。

730 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 07:40
>727
>悟りに達したブッダは、その過程で習得した禅定の方法など修行に有効である
>と判断したものは、その教えに取り入れましたが 苦行や伝統的な祭祀などは
>放擲して顧みませんでした。
それはそうだと思います。私は消化という言葉をそういう意味で使っています。

>もっともブッダは習得した以上の禅定のレヴェルにみずから達したようです。
同意です。

>実際、初期経典にはバラモンたちからの非難が多数記されています。彼らに
>とってブッダは社会的宗教的な秩序を撹乱する異端者だったのは事実
これもそうでしょう。殺人者の汚名を着せられたのも他宗の陰謀だったはず。

>「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行な
>ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や 医術を行なったりしてはならぬ。 
これ以降の引用文は、するべきでないことを具体的に挙げているので
あって、ブラフマニズムを全否定するものではないと思います。

>「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに
>解き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行ない、世の中の執着を乗り越えよ
単に経典にかかれていることを話すのではなく、自分で体験した(あるいはできる)
ことを話すのだということだと思います。そうでなくてもブラフマニズムの全否定
ではないと思います。

731 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 10:02
>>704
>>聖書には在家の信者の問いに答える形で、富んでいる者が天へ入るのは
>>ラクダが針の穴を通るより難しいという一節があったと思うのですが、

>より功徳を求めて神の仕事をしたいなら、放棄しなさい!という意味。

質問の経緯を整理しておくと、仏教的四無量心(慈悲喜捨)がキリスト教的愛
に含まれているというクリスチャンと思われる方の発言に対し、本当に捨という
概念が入っているのだろうかと私は疑問思ったのでした。

そこで捨というものを「単にそこから離れるのではなく、例えば財産の中に
あっても 心を動かさないことを含む」という定義をした上で、それがキリスト教
的愛に含まれるかという質問を発したのですが、財産に限っていえば、キリスト教
ではそれは最終的には放棄の対象であると認識でよろしいのでしょうか?

とするならば、キリスト教的愛と「捨」とは違うものと言わざるをえません。
というのは財産を放棄するのとその中にあって心をうごかさないというのは
違うことであり、後者の方が難しいからです。女性を遠ざけて禁欲すること
よりも、女性の中にあって禁欲することのほうが難しいというのと同様です。

732 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 10:03
偉い方が負け。
それが宗教や。

733 :名無しさん@1周年 :2001/08/19(日) 13:14
>>721

>キリスト教マンセー的なところが見られます。

当然といえば当然でしょう。キリスト教とは、もともと「決めつけ」の宗教なん
ですから。それで、異質のものをすべて異端として排除する。一方、仏教は
「決めつけ」を徹底して避ける宗教だから、キリスト教とは対話にならないので
す。ひとことで言えば、仏教は大人、キリスト教は子供。

>>731

キリスト教でも、深い思索を通じて「捨」という概念に到達した人は、ごく少数
ながら居たのです。このスレでも出たエックハルトとか、ベーメといった人たち。

そういう人々は、例外なく「自分の内側に」神を求めるので、教会の権威が脅か
される。それで、異端のレッテルを貼って、何百年間も封印してきたのです。
異端を排除した後に残るのは、教会のいいなりになる「善人善女」だから、仏教的
観点から自分の信仰を見つめ直そう、なんていう殊勝なことを考える人はいない
でしょう。殻に閉じこもったヤドカリですよ。時々、一方的にはさみを振り回す
だけで、議論に応じようとしない。

734 :無宗教者:2001/08/19(日) 13:36
ナザレのイエスと 釈尊とでは どちらがより偉大だったか
凡夫の私にはわからない。
でも、周りを見ると クリスチャンと仏教徒では
明らかに仏教徒の方が 平均して人間性が優れてる
要するに、キリスト教(イエスの価値とは別もの)と
仏教とでは 徳性に格差があるということでしょうか
(私はどっちの味方でもない無宗教ですが)

735 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 13:37
偉い方が負け。
それが宗教や。

736 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/19(日) 14:29
ハンドル名140改め、ヨハナン・ベン・ザッカイと名乗ることにします。
身のほど知らずの名前… (^^;
この名前の意味がわかる方は、どうかどんどん書き込んでください。

前回(といっても、かなり前になるなあ)、一般啓示について、簡単に書きました。
もう少し詳しく言いますと、私達の周りに普通に見られるものを通して、
神を「知る」ことはできない、ということでした。

更に、私達の良心や道徳観、倫理を通しても、神にいたることはできません。
なぜかといいますと、例えば私達は、道徳的な思いをどんなにもっていても、
それを完璧に実行することは、およそ不可能だからです。
これは、私達の経験則でも理解できます。

ではなぜ、神が創られた世界の中で生きている私達人間が、
神の被造物を通して、神を知ることができないのでしょうか。
(続く)

737 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/19(日) 14:30
(続き)
人間は、神によって創造されました。
その時に、神は人間の中に、「命の息を吹き込まれた」。
ここで息という言葉は、ヘブライ語で「ルーアハ」と言います。
これは、神の霊、という意味もあります。
つまり、人間の中には、神の霊が吹き込まれた、というのです。
そして、「神に似るものとして」人間は存在し始めました。
(ラテン語でイマゴ・デイといいます)
しかし、堕罪後(堕罪については、また改めて)人間は、
イマゴ・デイを失ってしまいました。
(ただし、完全に失ったのか、あるいは残っているのか、議論があります)
そこで人間は、自分の知性その他だけで、
神を完全に知ることはできなくなってしまった、と考えます。
(続く)

738 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/19(日) 14:31
(続き)
しかし人間には、宗教心がある。
この宗教心は、一体どこから来たのかというと、
人間の中に、イマゴ・デイの残余がある、
それゆえ人間は、自分を超えた存在に対して、
思いをはせることができるのだ、というのです。

全ての人間には、「宗教の種」がまかれいてると考えます。
それゆえに、「神聖感覚」という、神意識がある。
だから、自分を超えた存在について、意識することはできても、
それがそのまま「創造主なる神」を知る知識へとは向かわない、というものです。
むしろ、神以外のもの(聖書では偶像として語られる)に、
意識が向かってしまう。
なぜかというと、自らの中にある宗教の種が、
人をそのように向かわせてしまうのです。

つまり、私達は、身の回りの自然や心の中にある道徳観を通して、
人間の存在を超えたものの存在に、思いをはせることはできても、
それで神を知ることにはならない。
そこで、人間が神を知るためには、神の方からご自分を示してくださることが、
どうしても必要となります。

それが、一般啓示に対し、特別啓示といわれるものです。
(今日はここまで。続きはまた)

739 :733:2001/08/19(日) 14:34
>>731(ちょっと補足)

>財産を放棄するのとその中にあって心をうごかさないというのは
>違うことであり、後者の方が難しいからです。女性を遠ざけて禁欲すること
>よりも、女性の中にあって禁欲することのほうが難しいというのと同様です。

この問題提起は、キリスト教と仏教の視点の深さの差をよく捉えています。
キリスト教(特にカトリック)でいう禁欲では、欲を避けようとする「自分」が
捨てきれていない。同様に、キリストによって救済される「自分」も捨てきれて
いない。仏教的に批判すると、欲を避けるのも欲への執着、救済を求めることも
救済への執着なのです。エックハルトは、明らかにこの違いを理解していた稀な
キリスト教徒だと言えます。

「さらに私は言いたい、一切の悩みは執着と愛より来たると。その故に、もし私
が消極的な事物のために悩みを持つならば、それは、私と私の心がまだ消極的な
事物に執着と愛をもっているということであり、心を尽くして神を愛していない
ということである。」(『神の慰めの書』)

「真に善き人は、何事であれそれが起こることが神の意志であるというただその
故にのみ、たとえそれが自分にとって禍であり、或いは堕地獄でさえあっても、
正にそのことを神と共に意志するというほどに完全に神の意志と一つであり合一
していなければならない。」(同)

740 :名無しさん@1周年 :2001/08/19(日) 14:43
>736

>私達の周りに普通に見られるものを通して、神を「知る」ことはでき
>ない、ということでした。
>更に、私達の良心や道徳観、倫理を通しても、神にいたることはでき
>ません。

ひとつ質問。では、キリスト教で言われる、悪霊やサタンという存在は
どうでしょう。やはり人間の能力では認識できないのでしょうか?

もし、認識できないとすると、「我が神である」と一方的に名乗られて
も、それが本当の神なのか、あるいは悪霊やサタンが神の名を騙って
いるのかどうやって判断するのでしょうか?

同様に、イエスキリストが神の子であることはどうやって証明されます
か?サタンが派遣した贋者でないという証拠は?いくらイエスキリスト
が立派な行いをなしたとしても、それは良心や道徳観の問題であって、
神を知る手がかりにならないのでしょう?

741 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/19(日) 17:13
>>740
そのことにお答えする前に、
先ず「聖書は悪魔(ないしはサタン)を、どのように考えているか」
について、きちんと説明しておく必要があるように思いますので、
啓示論についての説明はひとまずおいて、
悪魔論についてお話させていただきます。
なお、悪魔論、Demonology という言葉も、ちゃんとあるんですよ。

まず、この言葉についてですが、サタンという言葉は、
ヘブライ語のサーターンに由来します。
その意味は、「別ける、反対する、非難する」などという意味です。
このサーターンという言葉が、ギリシャ語に翻訳されて、ディアポロスとなりました。
その意味は、神と人との分離を狙う敵、ということで、要するに敵という意味です。

旧約聖書においては、悪魔は天使と同じような存在として描かれています。
また、悪魔は決して単独行動はできず、神の許しを得て、
人間を試みるものとして行動していることがわかります(ヨブ記を参照)。
その他、詳細は割愛します。
(続く)

742 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/19(日) 17:15
(続き)
新約聖書においては、罪を犯した御使いが、
神の裁きのもとに置かれたとしています。
以上のことから考えますと、
悪魔は、本来は善なるものとして神によって創造されましたが、
堕落して、悪魔となったと考えることができます。
そして、神と人との間を裂く存在となったといえます。
要するに、悪魔は神ではない、ということが、
ご質問にお答えする上で、大切なこととなります。

さて、前にお話したことで問題となっているのは、
あくまでも「啓示」についてのことです。
啓示とは、これも前に書いたことですが(ずっと前)、
神がご自身を現される、ということです。
ですから、悪魔や天使といった、
神以外の存在については、この啓示論は当てはまりません。
(続く…かもしれないが、もし続いたとしても、明日以降)

743 :223:2001/08/19(日) 18:31
>これもそうでしょう。殺人者の汚名を着せられたのも他宗の陰謀だったはず。
 沙門集団の百家争鳴時代でしたからね。ただこれら直接的な犯罪
行為は、他の非正統派沙門集団の仕業とされていることを記憶して
おくべきです。
>これ以降の引用文は、するべきでないことを具体的に挙げているので
>あって、ブラフマニズムを全否定するものではないと思います。
 伝統的なヴェーダ信仰や祭祀宗教への批判の一例です。ブッダは
それらを批判するのに、いきなり頭ごなしに否定をするという、争
闘を招くような方法を採らず、相手の土俵に立って論理的、合理的
に教えを説き、その誤謬を論証し指摘して信服させるという方法を
常としていました。
>単に経典にかかれていることを話すのではなく、自分で体験した(あるいはできる)
>ことを話すのだということだと思います。そうでなくてもブラフマニズムの全否定
>ではないと思います。
 バラモン的な伝統やドグマによるのではなく、心身でありのまま
に体験できるニルヴァーナ(安らぎ)への道を説いたと考えます。

 ブッダは別にブラフマニズムの「全否定」を前提に、教えを説いた
とは私は考えておりません。「批判的に超克」したと書き込んだのは
それをはっきりさせたかったからです。ブッダ自身は自分が「仏教」
という「新興宗教」を始めたとは思っていなかったと考えます。ブッ
ダは修行と思索による「真理の発見者」と自身を位置付けていたので
はないかと思うのですが。

744 :黒海老:2001/08/19(日) 18:31
>>729
仏教では真実をありのままに見る、と言う事を『智慧』と呼びます。
真実とは『無常』の働きの事であり、無常をありのままに見るならば
どのようなものであれ『常』として留めておく事は出来ない、と言う事を悟るのだと思います。
その中にはお釈迦さん自身も含まれている事でしょう。

>すべてを放棄したところにすべてが存在したということだと思いますが。
これはどのような記述からそう読み取ったのですか?

>思い通りに出来るというのと、思い通りにしたいというのは別でしょう。
たしかに別ですが、思い通りに出来る理由がありません。
釈迦は「思い通りには出来ないと言う事を悟れ」とは何度も説きましたけれども、
「そうすれば思い通りに出来る」とは説いていませんよ。

745 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 18:36
>>731
>質問の経緯を整理しておくと、仏教的四無量心(慈悲喜捨)がキリスト教的愛
>に含まれているというクリスチャンと思われる方の発言に対し、本当に捨という
>概念が入っているのだろうかと私は疑問思ったのでした。
大きく見れば入っている。小さく見たら入っていない。
富に執着せず、正しい人たちに正しく富を分配する事は愛である、とも言える。

>そこで捨というものを「単にそこから離れるのではなく、例えば財産の中に
>あっても 心を動かさないことを含む」という定義をした上で、それがキリスト教
>的愛に含まれるかという質問を発したのですが、財産に限っていえば、キリスト教
>ではそれは最終的には放棄の対象であると認識でよろしいのでしょうか?
神に任せれば良い!

>とするならば、キリスト教的愛と「捨」とは違うものと言わざるをえません。
>というのは財産を放棄するのとその中にあって心をうごかさないというのは
>違うことであり、後者の方が難しいからです。女性を遠ざけて禁欲すること
>よりも、女性の中にあって禁欲することのほうが難しいというのと同様です。
これは、出家か在家かの違いである。キリスト教でも同じである。
神の仕事をするなら財を放棄して、私についてきなさい!、とイエスは
言ったのである。

捨てる事が目的なのではなく、無執着になる事が目的なのである。
仏教もキリスト教も同じであると考えられる。

746 :名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 22:22
>743
>ブッダは別にブラフマニズムの「全否定」を前提に、教えを説いた
>とは私は考えておりません。「批判的に超克」したと書き込んだのは
>それをはっきりさせたかったからです。ブッダ自身は自分が「仏教」
>という「新興宗教」を始めたとは思っていなかったと考えます。ブッ
>ダは修行と思索による「真理の発見者」と自身を位置付けていたので
>はないかと思うのですが。

で、批判したというものに「非顕現の最高のアートマン」というのが含まれ
るというのが223さんの見解なのですね。同意するものではないですが、
理解しました。レスありがとうございました。

747 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 08:38
>>745

>正しい人たちに正しく富を分配する事は愛である

では、「正しくない人」が飢えで死にそうになっている場合は分配しないのです
か?

>神に任せれば良い!

あいまいですね。貧富の差を初めとする社会悪もまた「神の御心」だと解釈すれば、
人間は神に祈っているだけで何もしなくていいことになる。それは、単なる自己愛
を正当化するために「神に任す」という言葉を利用しているだけでは?

748 :747:2001/08/20(月) 08:44
もう一度原点に戻って考えていただきたい。

イエスの時代のユダヤ人達も、「正しい人たちに正しく富を分配する
ことは愛である」と信じて、慈善事業を行い、神殿にも貢物を欠かさ
なかった。麦拾いのあと、落ちている麦をわざと放置して、貧民のた
めに残す習慣があり、むしろ貧者には暖かかった。彼らはまた、「神
にすべてを任せていた」信仰深き者達だった。

それでもイエスの目から見たら「偽善」にすぎなかったのです。彼ら
の発想や行動原理と、現在のキリスト教徒のそれとは、一体どこが違って
いますか?

749 :740:2001/08/20(月) 09:09
>>741-742

わかりました。

では、悪魔は天使のような存在で、神でないとしても、アブラハムの
前に現れて「私は在るものである」と宣言することはできたはず。
アブラハムが、それを神と解釈したにすぎない。

750 :740:2001/08/20(月) 09:18
ついでに問題提起すると、モーゼが授かった十戒が、もし「汝等ユダヤ
の民に敵対する者を滅ぼせ」とか、「異教徒を三人以上殺した者は天国
へ迎えてやる」というような内容であったなら、それでも神の命令とし
て絶対服従するのでしょうか?

神は人間の道徳的、倫理的判断を超えている、としてしまうと、アブラ
ハムは神の名を語るサタンに盲従した危険があるということになります。
自分が自分以外のものを正しいと判断するには、自分の中に「正しい」
と判断する絶対基準がなければならない。それを捨てて、「神」に盲従
することは、神かサタンかわからない存在に自分の身を捧げるかもしれ
ない、ということです。

751 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 09:57
>>744
>仏教では真実をありのままに見る、と言う事を『智慧』と呼びます。

私のイメージとしては、アーカシック・レコードともいうべき根源的な所にアプ
ローチすることが可能になったがゆえの直感みたいなものを含むと思います。

>真実とは『無常』の働きの事であり、無常をありのままに見るならば どのよう
>なものであれ『常』として留めておく事は出来ない、と言う事を悟るのだと思い
>ます。 その中にはお釈迦さん自身も含まれている事でしょう。

どうなのでしょうね。宇宙の根源的な所に干渉できるようになれば可能かなとも
思いますし、また、サマディに入ると時間の流れが変わるという話もありますが、
それはともかく、釈迦自身が1カルパでも生きられるといっているといっている以上、
そうなのだと思います。釈迦が比喩等を使う場面はありますが、嘘をいっている
記述は(多分)見たことがありません。

>>すべてを放棄したところにすべてが存在したということだと思いますが。
>これはどのような記述からそう読み取ったのですか?

沙門果経の中で沙門の現世における果報の最高のものとして六つの神通力が挙げら
れています。修行の深化=執着の放棄、これが進む一方で神通が発現するので
あれば、煩悩からの脱却によって魂の属性としての神通、あるいは、魂が世界に
干渉しうる力が現れてくるのだと思います。(続く)

752 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 09:58
>>744
>>思い通りに出来るというのと、思い通りにしたいというのは別でしょう。
>たしかに別ですが、思い通りに出来る理由がありません。 釈迦は「思い通りには
>出来ないと言う事を悟れ」とは何度も説きましたけれども、 「そうすれば思い通
>りに出来る」とは説いていませんよ。

上記のとおり、アジャータサッツ王に出家の果報を説いていますが、もちろん
思い通りに出来るようになるから修行しろとはいっていません。

「月に苦しみのない世界がありますよといって、月に到着したらドラえもんが
いて、何でもしてくれるって言うんだけど、執着ないから関係ないねっ。でも、
衆生済度のためには、どこでもドアを使って地球に降りることもりますよ」
っていう感じですか。

753 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140) :2001/08/20(月) 11:10
前に書いたことなのですが、
私はこのスレで、仏教の方と論争する気は、
全くありません。
それよりも、キリスト教について、
正しい知識を知っていただきたいと願っているのです。
それを知っていただいた上で、
キリスト教をご批判なさっていただきたいからです。
ですから、ご質問(というよりも、議論)に対しては、
必要最小限度のお答えにとどめます。
そうしないと、先に進みませんので。

>>749
悪魔も、光の天使に偽装すると、新約聖書にも記されています。
しかしながら、アブラハムの時のことは、そうではありません。
といいますのも、悪魔の働きは、神の許しを得なければ、
何もできないというのが、聖書が語っていることです(ヨブ記を参照)。
人間に対する悪魔の働きを、神が許可されるのは、
人間を試みたり、誘惑したりする時です。
特に、天使が「神の全権大使」としての役割を果たすときには、
悪魔の働きはありません。
(続く)

754 :ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140):2001/08/20(月) 11:11
(続き)
さてアブラハムの時の出来事ですが、
そこでは天使は、神の全権大使としての働きを遂行しています。
更にここでは、アブラハムを誘惑するという働きは、全くありません。
ですから、アブラハムの時の出来事は、
悪魔の働きとは言えないのです。

>>750
これらの「問題提起」については、
ここではお答えすることは控えます。
といいますのも、
その前に、「聖書論」(聖典論)について、
きちんと説明をしておかなくてはならないからです。
むしろ、聖書論を扱う段階で、
自ずと明らかになってくることだと思います。
(続…けたいけど、明日になるかも)

755 :黒海老:2001/08/20(月) 11:22
>>751
もし、お釈迦さんが一切の神秘的な神通力(超能力のようなもの)を
使えなかったとしたら、お釈迦さんに対する評価は下がりますか?
客観的な評価ではなく、主観的な評価についてお尋ねいたします。
よろしかったらお答えください。

756 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 12:59
>>750
>ついでに問題提起すると、モーゼが授かった十戒が、もし「汝等ユダヤ
>の民に敵対する者を滅ぼせ」とか、「異教徒を三人以上殺した者は天国
>へ迎えてやる」というような内容であったなら、それでも神の命令とし
>て絶対服従するのでしょうか?

 聖書の中で、モーセやヨシュアは「異教徒を皆殺しにして土地を奪い取れ」
という神の命令に「絶対服従」してしまったんですよね....。彼らは、神と共
にカナンの地を襲い多くの街で住民の無差別殺戮と略奪・侵略を繰り返し
た。この話は、神の言う事に何でも盲従するような「絶対服従」の恐ろしさ
をあらわしているのかもしれません(「史実」ではないでしょうけど、信仰
の絶対化という問題を考える上では非常に象徴的な話ではある)。
 神の命令に従って街の人々を剣にかけて皆殺しにし土地や財産を「自分た
ちのために奪い取った」ヨシュアたち。彼らの眼には、「殺し」と「盗み」を
繰り返す自分たちの行いはどう映っていたのでしょうか....。

>神は人間の道徳的、倫理的判断を超えている、としてしまうと、アブラ
>ハムは神の名を語るサタンに盲従した危険があるということになります。

 むしろ、「神が絶対に正しい」と信じるのではなく「本当に自分はそれ
で良いのだろうか」と問い直す事が大切なのかもしれませんね。たとえ
「神が言う事であっても」間違っていると思うのなら「否」を突きつける。
問題になるのは、神か悪魔かと言うより自分の信仰対象に盲従してしまう
ことでしょう。一番怖いのは、神の言葉に疑問を感じながらも「神は絶対
に正しいのだ」と自分に信じ込ませて盲進する事ですね。

757 :740:2001/08/20(月) 13:23
>756

全く同感です。誰それが言っているから「正しい」というのは、本当の
意味で「正しさ」がわかっていないのです。ブランド名だけを頼りに
する人は、目利きに自信がないことの現れです。発言者がどんなに卑し
い人間でも、その言うことが「正しい」のなら、「正しさ」に変わりは
ありません。

>一番怖いのは、神の言葉に疑問を感じながらも「神は絶対
>に正しいのだ」と自分に信じ込ませて盲進する事ですね。

さらに怖いのは、神の言葉だからという理由で、自分に信じ込ませて
盲信する内に、疑問さえ感じなくなることだと思います。

758 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 14:21
>>751
>>仏教では真実をありのままに見る、と言う事を『智慧』と呼びます。

>私のイメージとしては、アーカシック・レコードともいうべき根源的な所にアプ
>ローチすることが可能になったがゆえの直感みたいなものを含むと思います。

全く同じ見解です。あなたのおっしゃることは、とても勉強になります。
よろしければ、コテハンを考えていただきませんか?

>>751
>もし、お釈迦さんが一切の神秘的な神通力(超能力のようなもの)を
>使えなかったとしたら、お釈迦さんに対する評価は下がりますか?

この質問じたいナンセンスだと思うのです。
解脱・悟りまでも過程で、神通力は必ずつくものだと思います。
逆に言うと、神通力のついていない解脱・悟りは偽者だと思います。

759 :758:2001/08/20(月) 14:22
>>758の下の>>751
>>755に訂正いたします。

760 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 14:53
1996年にもゴッビ神父は来日いたしました。
10月7日の秋田聖体奉仕会から始まり
17日の長崎のカトリックセンターまで全国7箇所で、
私も13日(ファチマ太陽の奇跡の日)に
東京の下井草教会のチェナクルムに行ってきました。
わたしは、ビデオで撮影しました。
ゴッビ神父の説教のところをビデオで再生して見てみますと、
日本についてのメッセージがありました。
それは、「私たち日本人のほとんどが信者ではありませんが、
私たちの生きているうちに大きな奇跡があり、日本人の大部分が回心し、
カトリック信者になり、マリア様を愛するようになります。」
というようなメッセージであります。
近い将来にメッセージのとおりになりますように、
ますます信心業に励み、日本人全員のために神に祈りましょう。

761 :黒海老:2001/08/20(月) 17:48
>>758
実際に使えたか使えないかは置いといて、もし使えなかったとしたら?
と聞いているんですが。

762 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 17:56
>>747
>>正しい人たちに正しく富を分配する事は愛である
>
>では、「正しくない人」が飢えで死にそうになっている場合は分配しないのです
>か?
これは屁理屈である。

>あいまいですね。貧富の差を初めとする社会悪もまた「神の御心」だと解釈すれば、
>人間は神に祈っているだけで何もしなくていいことになる。それは、単なる自己愛
>を正当化するために「神に任す」という言葉を利用しているだけでは?
仏教では、因果応報という!

763 :傍観者:2001/08/20(月) 17:59
>>761

つまりは、

1)釈尊が超能力者だから釈尊を尊敬するのか
2)釈尊の言うことが真理だと感ずるから釈尊を尊敬するのか

どちらなんだ、という問いかけですね?
もし、1)だと答えれば、「あなたは強ければ何でもいいんだな」と
本心を見透かされる(^^)。信仰者にとっての「踏絵」ですな。

764 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:00
>>762
あのねぇ、金銭は神様が作ったんじゃないの。
わたしたち人間が自分たちの必要のために生み出したものじゃないの。
お金にまつわる事柄はすべてこの世に属することなのよ。
神様ご自身が直接的にお金の用い方についてあれこれ指示なさることは
基本的にないものと考えて良いわ。
神様は特に共産主義をお望みなわけでもなければ、また一方で
けっして趣味で資本主義を好んでらっしゃるわけでもないということよ。
人間が望むなら、好むようにすればよいということよ。
極論言えば、全地球上の富をたった一人の人間が掌握して、
それを全世界の人々へ分配するという方法でも良いわけよ。
人々がそういうかたちを望み、また満足するならばね。
金銭の使い方うんぬんに神様を持ち出すのは愚かなことよ。

765 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:11
>>748
>イエスの時代のユダヤ人達も、「正しい人たちに正しく富を分配する
>ことは愛である」と信じて、慈善事業を行い、神殿にも貢物を欠かさ
>なかった。麦拾いのあと、落ちている麦をわざと放置して、貧民のた
>めに残す習慣があり、むしろ貧者には暖かかった。彼らはまた、「神
>にすべてを任せていた」信仰深き者達だった。
>
>それでもイエスの目から見たら「偽善」にすぎなかったのです。
そんな事はない!

>それでもイエスの目から見たら「偽善」にすぎなかったのです。彼ら
>の発想や行動原理と、現在のキリスト教徒のそれとは、一体どこが違って
>いますか?
穢れたキリスト教徒を見れば、悪く見える。
穢れた仏教徒を見れば、悪く見える。
あなたは、誰を見ているのか?

766 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:21
>>764
>金銭の使い方うんぬんに神様を持ち出すのは愚かなことよ。
それでは、なぜ、人々は神に富を願うのか?

767 :傍観者:2001/08/20(月) 18:25
>>766

はい、766さんの一本勝ち。

768 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:36
>>766 >>767
愚か者!
いったいどこのキリスト教徒が神に富を願うのか?
聖書にしっかり目をとおそう。
一日の労苦は一日にして足る。
明日のことを思い煩うな。
主は必要なものはすべて備えてくださる。
わたしたちは富者の道も、貧者の道をも
満ちあたりて歩むすべを教えられている。

769 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:36
>>760
>それは、「私たち日本人のほとんどが信者ではありませんが、
>私たちの生きているうちに大きな奇跡があり、日本人の大部分が回心し、
>カトリック信者になり、マリア様を愛するようになります。」
神を愛し隣人を愛さないと、天国には入れない!
天国から日本人を締め出すおつもりか?

770 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:39
>>769
いいえ、信じなければ救われないってことよ。

771 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:42
神のみ母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます

いつどこでもわたしたちの祈りを聞き入れ、

御助けをもって、すべての危機からお守りください。

み母よ、私に幼子の心を、

神のみ母、聖母マリア、泉のように清らかで、

澄みきった幼子の心を、私に保たせてください。

悲哀に閉ざされてしまうことのない単純素朴な心、

寛大にみずからを与え、優しく、思いやりに富み、

どんな善も見逃さず、どんな悪にもこだわらない、

幼子の心をお与えください。

何ももとめずひたすら愛し、神である御子の前で、

他者の気持ちに快く溶け込んでいけるやさしく、

謙虚な心を、私のなかに作り上げてください。

忘恩に対して閉ざされることなく、

無関心に対して嫌気を起こさない開かれた、

不屈の心をお与えください。

イエズス・キリストの栄光のために、

苦しみ甘んじ受ける心を、み母よ、私にお与えください。

       (レオン・ド・グランメゾン神父)

772 :傍観者:2001/08/20(月) 18:42
>>768

ふっふっふっ。全キリスト者がその言葉を実行していたら、今ごろ
世界から貧困がなくなっているさ。

出来もしないことを大きな顔して言うんじゃない。この偽善者め。

773 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:44
>>768
>いったいどこのキリスト教徒が神に富を願うのか?
>聖書にしっかり目をとおそう。
>一日の労苦は一日にして足る。
>明日のことを思い煩うな。
>主は必要なものはすべて備えてくださる。
>わたしたちは富者の道も、貧者の道をも
>満ちあたりて歩むすべを教えられている。
正しいキリスト教徒は、そうであろう。
正しくないキリスト教徒は、どうであろうか?

774 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 18:55
>>770
>いいえ、信じなければ救われないってことよ。
何を、信じなければならないのか?

775 :傍観者:2001/08/20(月) 18:56
>>773

そういう風に「正しいキリスト教徒」を定義したら、ほとんどがキリス
ト教徒失格になっちゃうよ。

ただ、仮にできなくても「しなくちゃいかん」と思っている人と、うわ
べだけ繕って、内心は実行するつもりが毛頭ない人とは区別すべきだろ
うね。本当に「罪人の自覚」が出てくるのは、前者のみだろうからね。

776 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 19:06
>>772
偽善者なら君も同じだろ。
できもしないことを自覚するからこそ、
信仰をもてるんだろうが。
>>773
正しい?
正しい人間がそうしたらこの世にいるのか。
正しいと信じて生きてる人間はあるいはいるかもしれない。
しかし、神からごらんになられて、
おそらく正しいという人間はこの世に一人としていないであろう。
キリスト教徒もみなできうるだけ正しくありたいと願って生きてはいる。
しかし、一方でそのような望みがかない得るようなことでもないことが、
身にしみてわかっているのも、
またキリスト教徒であるがゆえのこととも言えるだろう。
だから逆説的な言い方になるが信仰がもてるんだよ。

777 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 19:10
>>774
自分の罪深さをまず確信すること。
信じるのは、そこから先のこと。

778 :傍観者:2001/08/20(月) 19:22
>>776

私はあなたのように「きれい事」を並べた覚えはないぞ。私のどこが
偽善者なんだ?

>>774

その通り。「パリサイ人」がイエスから失格の烙印を押されたのは、
そこさ。右手で、貧民を虐げて富を独占しているくせに、死後の浄福
が気になって、左手で慈善活動をする、自分の偽善に気づかない。
そこをイエスに突っつかれたんだよ。「パリサイ人」を「現代のキリ
スト教徒」に変えても同じこと。

779 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 19:34
>>778
「きれい事」を今ここでならべたか否かを問うているのではない。
あなた自身が偽善性を身にまとってはいないか、と聞いてるんだよ。
言っておくが「聖句」はきれい事ではない。
人間の限界、罪深さを知りぬいた主だからこそ語り得た戒めの言葉だよ。
「パリサイ人」は律法を守りぬきさえすれば救われると考えていたユダヤ教徒だ。
「現代のキリスト教徒」は主の贖いを信仰する人々であって、
ユダヤ教徒じゃないんだけどな。
おかしなこという人だ。

780 :傍観者:2001/08/20(月) 19:38
>>779

では聞くが、本当に罪の自覚を持ち、イエスの理想を生活に実践する
のが難しい、と思っている人が、>>768みたいな大ミエきれるか?
眼をよ〜く開けて、自分の書いた文章を読んでみるこった。

こう言ってわかってもらえないのなら、もうしようがないな。

781 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 19:40
どっちがっていうか、どっちよりも私が一番偉いと思う。

782 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 19:57
>>780
いったい>>768でだれがどんな大ミエをきってるんだろ。
よくわかんないけど。
誰だって貧しいよりは当然、富んでいるほうがいいだろ。
そりゃキリスト教徒だって人の子だよ、
あえて貧しくしてくださいと願う人はいないだろうよ。
わたしが、768で言いたかったことは、
少なくとも有り余る富を持ちながらクリスチャンがそのようなことで祈って
神様の手を煩わせるようなことはしないだろう、という意味で言ったの。
まぁ、日本人はなんでも神頼みで神様を奴隷のように考えてるふしがあるから、
クリスチャンもおなじように「銭をくれ」と祈るんじゃないか、
と思ったのかもしれないけれど、それはないね。
すくなくともクリスチャンはそういう願い方・祈り方はしないわ。

783 :747:2001/08/20(月) 20:25
>>765

>穢れたキリスト教徒を見れば、悪く見える。
>穢れた仏教徒を見れば、悪く見える。

実は、これと共にユダヤ教徒も入れるべきなんですよ。
ユダヤ教においても「隣人愛の実践」は説かれていた。もちろん、それを実行でき
る人は稀だったでしょうが、「よき」ユダヤ教徒もいたはずです。

イエスよりも30年ほど前のラビ、ヒレルはこういう言葉を残している。
「自分にとっていやなことは、隣人に対してもなさぬがよい。これが律法のすべて
であり、他はすべてその解釈にすぎぬ。行って、このことを学ぶがよい。」
また、イエスと同時代に書かれた『十二族長の遺言』 には、「主と隣人を愛せ」
「生命をつくして主を愛し、またまことの心をもって互いに愛し合え」という文章
が出てくるという。

だから、イエスとこの問題を語り合った律法学者(マルコ12:28−34)は、
「最も重要な掟」をシナゴーグで学んで、知っていたのです。だから、当時の
ユダヤ教徒もまた、今のキリスト教徒と同じく、この「掟」を教訓としては理解
していた。

イエスは律法学者の答えに満足している。つまり、それを実行すれば彼は天国へ
行く、ということを認めているのです。もし、自分を救世主として信じなければ
天国へいけないとすれば、イエスは律法学者をむざむざ帰さなかったはずです。

つまりは、「よき」キリスト教徒も、「よき」仏教徒も、「よき」ユダヤ教徒も、
すべて天国へはいる、というのが「よきサマリア人」を初めとするイエスの教え
です。

784 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 20:26
釈迦が偉いに決まっとる。

785 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 20:30
>>784
いや、私が偉いに決まっとる。

786 :終了屋:2001/08/20(月) 21:10

>>785

          結論が出たところで、終了。

===============終了===============

787 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 21:13
そうはさせんww
>>755
>もし、お釈迦さんが一切の神秘的な神通力(超能力のようなもの)を
>使えなかったとしたら、お釈迦さんに対する評価は下がりますか?

それにお答えする前に>>758さんのカキコについて

>この質問じたいナンセンスだと思うのです。 解脱・悟りまでも過程で、
>神通力は必ずつくものだと思います。 逆に言うと、神通力のついていな
>い解脱・悟りは偽者だと思います。

如来の呼び方の一つに世間解というのがあって、私は世界を理解していると
解釈しているのですが、通常の人間の感覚では限界があり、超常的な感覚が
必要だと思っています。その意味で「神通力のついていない解脱・悟りは偽
者だと思います」という指摘は一理あると思います。
で、本題ですが、神通力のない釈迦と神通力があるのに使わない釈迦とでは後者を評価します。

ただですね、私も仙道とかやってきましたけど、超能力があっても幸福にはなりません。

悟りっていう部分がないと心の平安は得られないと思うのです。

788 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 21:49
>>775
>そういう風に「正しいキリスト教徒」を定義したら、ほとんどがキリス
>ト教徒失格になっちゃうよ。
話しの成り行き上そうなったに過ぎない。

>ただ、仮にできなくても「しなくちゃいかん」と思っている人と、うわ
>べだけ繕って、内心は実行するつもりが毛頭ない人とは区別すべきだろ
>うね。本当に「罪人の自覚」が出てくるのは、前者のみだろうからね。
その通りである!

789 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 21:59
>>776
>しかし、神からごらんになられて、
>おそらく正しいという人間はこの世に一人としていないであろう。
神を愛し隣人を愛する者は、一人もいないのか?

>キリスト教徒もみなできうるだけ正しくありたいと願って生きてはいる。
>しかし、一方でそのような望みがかない得るようなことでもないことが、
>身にしみてわかっているのも、
努力する者には、神は助け舟を出すだろう。

790 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 22:09
>>777
>>>いいえ、信じなければ救われないってことよ。
>>何を、信じなければならないのか?

>自分の罪深さをまず確信すること。
>信じるのは、そこから先のこと。
なぜ開口一番に、信じるものは父なる神である!と告白できないのか?

791 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 22:29
>>761
>>787
>実際に使えたか使えないかは置いといて、もし使えなかったとしたら?
>と聞いているんですが。
評価は下がります。
釈迦は神通を自分のために使わなかったからです。
例えば漏尽通は弟子のカルマを見極め、修行方法を教えるために使ったと思います。
私が釈迦を評価するのは、釈迦個人が悟りを得た事ももちろんですが、
多くの弟子を高いステージまで引き上げた事です。
指導者としては、神通は不可欠でしょう。

792 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 22:31
>>783
>>穢れたキリスト教徒を見れば、悪く見える。
>>穢れた仏教徒を見れば、悪く見える。
>
>実は、これと共にユダヤ教徒も入れるべきなんですよ。
>ユダヤ教においても「隣人愛の実践」は説かれていた。もちろん、それを実行でき
>る人は稀だったでしょうが、「よき」ユダヤ教徒もいたはずです。
その通りである。
ただ、イエスを信じなければ、贖罪の効果は期待できない。

>つまりは、「よき」キリスト教徒も、「よき」仏教徒も、「よき」ユダヤ教徒も、
>すべて天国へはいる、というのが「よきサマリア人」を初めとするイエスの教え
>です。
その通りである。神の国から遠くない!

793 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 23:02
解脱と悟りは別個の状態です。
修行の成就の一つが解脱であり、もう一つが悟りです。
それぞれが成就でありながら、二つとも手に入れなければ、
完全とはいえません。

六神通を得た瞬間をもって解脱したといいます。
六神通とは、
●天眼通(透視能力)
●天耳通(遠隔地や異次元の音や声を聞くことが出来る)
●他心通(他人の心の中を知る)
●宿名通(自分や他人の前世・未来世を知る能力)
●神足通(空中浮揚が出来る)
●漏尽通(他人の煩悩の状態を見極める力)

「解脱は6つの超能力を得るだけで終わってしまうのか?」
と思われるかもしれませんが、
最後の漏尽通はー他人の煩悩を見極める力ーとなっています。
これが可能となるのは、煩悩(カルマ)を超越した時です。
煩悩の中で苦しみもがいている人には、決して人の煩悩の状態など
知る術がないからです。
それを踏まえれば、漏尽通が煩悩を(カルマ)を消し去った時に得られる超能力なのでだから、解脱と全く同じことだといえます。
しかも、漏尽通は六種の中でも一番最後につく力です。
従って、「漏尽通の修得をもって解脱」と言っても過言ではないのです。

794 :名無しさん@1周年:2001/08/20(月) 23:04
ところで、他の五種の超能力は魔術や神道でも得る事が出来ますが、
漏尽通だけは仏教の修行でしか得ることは出来ません。

悟りは自己を理解した状態です。
多くの人が自己をわかったつもりになっていますが、そうではありません。
悟りを得て初めて、自己を理解した、といえます。
人は普通、煩悩の中で苦しみの多い人生を送っています。
それは、自分自身がその状態に埋没してしまっているからです。
それでは、自己が見えるはずがありません。
ゆえに、自己を理解できるという悟りを得た状態と、それ以前の
悟っていない状態とでは、天と地ほどの差があります。

795 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 08:19
>>771
>神のみ母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます
>いつどこでもわたしたちの祈りを聞き入れ、
>御助けをもって、すべての危機からお守りください。

マリアさんに対する信仰なんでしょう?そんなのイエスさんは言ってないよね。
結局、日本のキリスト教徒は西洋人の解釈を押し付けられて、例えば仏教的見地
からの再検討なんて許されない。それをしようとする気がおきないぐらい洗脳
されている。違うか、教化された元 野蛮人さんたちよ。

796 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 09:54
>795

これは私見で、いろいろ反論はあると思うけど、日本人がキリスト教をやるのは
危険だと思う。もともと、論理的に物を考える訓練ができてないだろう?どうし
ても感情的な判断に頼りがちなんだよね。「真偽」と「好き嫌い」とを混同しや
すい。キリスト教では、教義がしっかりと完成されているから、論理的な思考が
できない人が一度足を突っ込むと、それが頭を占領してしまって抜け出さない。

私が付き合いのある外国人のキリスト教徒は、どうも日本人のキリスト教徒に比べ
て、悪く言えば純粋でない、よく言えば醒めた目でキリスト教を捉えているように
思うんだけど。もちろん、ガチガチの教条主義者もいないことはないけど、地球は
テーブルのように平らだと心から信じるような、無教養な人に限られている。

この前、アメリカの小さい町の本屋に行って、ナグ・ハマディ文書の英訳本を買った
ら、レジのおにいちゃんが目を輝かせて、この本は自分も読んだ、本当にいい本だ
った、と言っていた。聞けばその人もキリスト教徒。教会の推薦図書ばかりで純粋
培養された、というイメージとはほど遠い。

日本人キリスト教徒は、はるかにテンションが高くてドグマどっぷり、という気がする。

797 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 10:21
御釈迦様は自身で悟ってます。絶対自由。
キリストは磔。神様たすけて。

798 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 10:27
スポーツできないウンチがスポーツの解説してるの変です。
説得力ゼロ。

おまえ救われてないだろ。おまえサトってないだろ。
おまえらみんな自己満足だけでしょう。おほほほほ。

799 :223:2001/08/21(火) 11:41
 ブッダが自らの決意で寿命を放棄したという記述は、パーリ本
「大般涅槃経」及び漢訳「遊行経」に共通してみられます。興味深い
のは両者でその解釈が違っていることです。漢訳では「一劫ある
いはそれ以上」とされているブッダの寿命が、パーリ本では「寿命
のある限り」と記され、ブッダゴーサは「寿命よりも少し長く、あ
るいは百歳よりも以上に」と注釈を加えています。漢訳本には後
の仏身論や大乗仏教の超越論的ブッダ観の萌芽がみられ、パーリ
本はより人間的なブッダ観を示すといえましょう。いずれにせよ
「寿命の自発的放棄」という表現に、ブッダの神格化あるいは超人
化の兆しが窺えます。それよりもこの前の章で、「わたしはもう老
い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達し
た。わが齡は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによ
ってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も革紐の助け
によってもっているのだ。」−パーリ・漢訳共通です−と述懐する
ブッダに深い感慨を覚えますが。
 もう一つ注目すべきなのは、この経典における侍者アーナンダ
の役割です。ブッダが自らの寿命を延ばせることを示唆したのに
「悪魔」に魅入られていたアーナンダがこれを察知せず、さらなる
寿命を請わなかったのでブッダは入滅するのだという叱責を、ブ
ッダから受けてしまいます。比丘たちや経典編集者の気持ちを代
弁しているかのような記述です。

800 :ヨハナン・ベン・ザッカイ:2001/08/21(火) 11:58
>>756
前にも書きましたが、
聖書の記事についての問題は、
先ず聖書論(聖典論)を取り扱ってからにいたします。

>>796
こうも言われています。
「日本のクリスチャンは、感情ばかりが先立ってしまっている。
心情主義的なキリスト教が目立つ。
それが、(キリスト教から見た)異教社会において、
キリスト教が受け入れられない原因ともなっている。」

この批判は、確かにヨーロッパあたりの教会と比べれば、
そのようにいえるかもしれませんね。
でも、アメリカの(特に福音派的な)教会かと比べれば、
おっしゃるとおりかもしれません。

さて、今までは啓示論の中の「一般啓示」について書きましたが、
これからは特別啓示について書きます。

一般啓示では、人間は救いにいたることができないということでした。
なぜなら、一般啓示の中には、救いに関することが含まれていないからです。
その理由等については、ここでは割愛いたします。
(あるいは、罪についてきちんとしたことを書いてから、にします。)

特別啓示とは、一言で言うなら、
「神の救いの恵みを人間に知らせるもの」です。
具体的には、イエス・キリストを通して示された、
神の恵みのことです。
(続く)

801 :796:2001/08/21(火) 13:12
>
>800

>こうも言われています。
>「日本のクリスチャンは、感情ばかりが先立ってしまっている。 心情主義的な
>キリスト教が目立つ。 それが、(キリスト教から見た)異教社会において、
>キリスト教が受け入れられない原因ともなっている。」

なるほど。他にも私と同じような意見を持つ人がいるんですね。
確かに、ヒステリックに「あなたも罪人です、悔い改めなさい」と感情的にやられ
ると反感を感じてしまいますね。

キリスト教神学の講義、いつも読ませてもらっています。
私としては、「堕罪」についてまず明確にしてもらえれば、一般者にわかりやすい
と思うのですけど。いくら「救い」を説いたところで、「一体何からの救済なの
か」がわからなければ、ピンとこないでしょう。

私個人も、キリスト教の「堕罪」がユダヤ教典から取られたのにも関わらず、いつ
の間にか、ユダヤ民族の枠組みを超えて、全世界の人間に対象を広げてしまった点
に納得がいかないのです。同様に、もともとはユダヤ民族に対するローカルな救世主
として預言され、登場したはずのキリストが、いつの間にか全人類の救世主に格上
げされてしまった。その過程に興味があるのです。

できれば、そういう論点も含めて語ってもらえれば幸いです。

802 :黒海老:2001/08/21(火) 19:01
>>791 >>793
もう一つ質問させてください。
実際に有るか無いかは別として、もし神通力と言うものが実在せず
仏教以外の修行でも得る事ができず、悟りや解脱に至っても得る事は無いとしたら、
悟りや解脱と言うものに対する魅力は少なくなる、もしくは無くなってしまいますか?
主観でお願いします。

803 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 19:23
どうも黒海老さんの質問がわかりません。
神通のない解脱はないと思うんです。
したがって、それを評価する事は出来ません。
どうしても答えを要求するのなら>>791です。

804 : :2001/08/21(火) 19:29
神通力とかに執着しないのも悟りの一面。

805 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 19:35
水泳できないウンチが泳ぎ方教えてるの変です。
説得力ゼロ。
主観?悟ってない知ったか野郎どものヘ理屈?
おまえ救われてないだろ。おまえサトってないだろ。
おまえらみんな自己満足だけでしょう。哀れ、おほほほほ
現実社会のおちこぼれが逃避してひとり夢想にふけり
精神世界の本読んで、新興宗教にだまされてのパターンだ。

806 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 21:08
>796 ぼくは欧米に行ってむしろ逆の印象をもったよ。幼い頃から自然に入り、個人
がそれなりにみな勉強してんだよね。それに大きな教団の指導者を尊敬しすぎの人も。

807 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 21:43
>800 「キリスト教に文句のある人、おいで」スレに来てなんとかしてください。
ブルトマンを狂信して滅茶苦茶なことを言って惑わせている人がいます。

808 :黒海老:2001/08/21(火) 21:46
>>803
「神通のない解脱はないと思う」と言いますが、その確信はどのようにして得たのでしょうか?
仏教の経典は原始仏典と呼ばれるものでも、釈迦入滅から100〜200年経ってから成立したものです。
仏典に書いてあっても真実とは限りません。
となると、何らかの修行をした結果、何らかの神通力を使えるようになった、
もしくは、使える人を目の当たりにしたと言う事でしょうか?
神通力によって人が宙に浮けるとはとても思えないんですが。

809 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 22:09

おまえらみんな自己満足だけでしょう。哀れ、おほほほほ
現実社会のおちこぼれが逃避してひとり夢想にふけり
宗教の本読んで、新興宗教にだまされてのパターンだ。

810 :名無しさん:2001/08/21(火) 22:17
神通力なんてあるわけないじゃん。例え悟っても人間は人間だよ。物理法則には逆らえない。

811 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 23:12
>810
チベット仏教の修行者を被験者とした米国の実験で、体温を50度だか60度だか
に上げたというデータはあります。

あと、人間が壁抜けをしようとしたとき、量子論的に計算をすると壁を通り
ぬける確率はゼロではなくなります。

812 :黒海老:2001/08/21(火) 23:23
>>811
確かにゼロではないですが、限りなくゼロに近いです。
それに普通の人でも同じ確率です。

813 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 23:37
>812
810に言っているのは物理学というのは、一見超常現象と見えるものを
全否定するものではないということです。

体温を50度に上げられる人は普通じゃないでしょう。普通じゃない
から確率が高くなるのかも知れませんし、全く別の理論で説明する
べきものかもしれません。

814 :黒海老:2001/08/21(火) 23:45
>チベット仏教の修行者を被験者とした米国の実験で、体温を50度だか60度だか
>に上げたというデータはあります。

ソースが分からないのでなんとも言えません。

815 :名無しさん@1周年:2001/08/21(火) 23:49
別スレでやってましたけど。詳しい人の登場を求む。

816 :黒海老:2001/08/21(火) 23:56
>810に言っているのは物理学というのは、一見超常現象と見えるものを
>全否定するものではないということです。

それは分かります。
絶対と言う事は絶対ありませんから。
けれど、極めてゼロに近いことは、ゼロと見なしていいと思います。
そうでないと日常会話も成り立ちませんよ。

817 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:04
というか、物理学はまだ発展途上でしょということです。

818 :名無しさん:2001/08/22(水) 00:09
物理学が発展途上でも、基本原則ってものがある。
例えば、この先物理学がどれだけ発展しようとも、
エネルギー保存則には絶対従わなければならない。

819 :黒海老:2001/08/22(水) 00:10
ちなみに私は神通力と言うものは、まず無いであろうと思っています。
そして、神通力が無くとも悟りや解脱には影響が無い、と思っています。

820 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:12
>>818
閉じた系ではそうかもしれないね。

821 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:16
>819
>ちなみに私は神通力と言うものは、まず無いであろうと思っています。

では、神通の記述はどう解釈するのですか?心理描写?

822 :名無しさん:2001/08/22(水) 00:18
>>821
はったり。インド人、中国人ははったりが大好き。

823 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:22
>>822

論外

824 :名無しさん:2001/08/22(水) 00:25
なぜ?宗教にはったりは付き物じゃない。釈尊誕生の話は知ってるよね?
天上天下唯我独尊って宣言したやつ。あんなのはったりの極地じゃない。
それとも、あの話も本気で信じてるの?

825 :黒海老:2001/08/22(水) 00:28
>>821
はっきり言いますと、後代の付加であろうと思っています。
たとえば、最古の仏教書である『スッタニパータ』では、後代の付加にあたる
記述を除きますと神通の記述はまったくありません。
時代が下がっていき、仏教学が進むにつれて神秘的要素や形式的要素が増していきます。

826 :黒海老:2001/08/22(水) 00:31
このような話はご存知ですか?

『ブッダのことば』中村元 解説より
… ことに韻文の部分の単語は、仏教外のインドの他の諸文献に出てくるものとまず共通であって、
仏教特有の単語は絶無といっても差支えない。もしも訳文に、いわゆる仏教的色彩が見られるなら、
それは後世の見解をもち込んだものであり、原意からそれだけ離れていると言わねばならぬ。

最初期の仏教では、仏教特有の単語というものはほとんど無く、ウパニシャッド等の他文献で使われていた
単語を用いて説法をしていただろうという事です。

827 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:47
>>824 >>825
それはまた、ずいぶんとご都合主義でいらっしゃる。神足相応も沙門果経も
全てですか。例えば言語学で漢字の読みを取り入れる時に一定の音の変化が
見られるように、付け加えに一定の傾向っていうのがあるならまだしも。

超能力といってもいいが、使えばエネルギー減るんだよね、実感として。
でも、それはこの世界の中のエネルギーを使ってるんであって、レベルが低い。

釈迦とかは根本のところに触れられるから、それをいじるっていうのは
エネルギー保存の法則と同等のことなんじゃないかとも思う。

体温50(60?)度っていうのは結構有名な話ですよ。事実だったら
どう説明します?

天上・・・読んだ事ないんですよ。対話形式になってます?まあ、
信じてるっていってもいいです。

828 :黒海老:2001/08/22(水) 00:50
たとえば最初期の仏教では、ブッダとジナ(勝者)とタターガタ(如来)とアラハン(真人)とは、
全て『聖者』とか『賢者』と言う意味であり同義語です。
そして仏教と同時代の宗教であるジャイナ教でも同じ意味で使っていました。
ジャイナ教とはジナ(勝者)の教えと言う意味であり、当時は(現在も?)『ニガンタ』と呼ばれていました。
つまり、ブッダ等の呼称は世間一般において普通名詞だったわけです。
しかし、時代が下がっていくにつれて仏教の聖者を『ブッダ』ジャイナ教の聖者を『ジナ』と呼ぶようになります。

829 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:55
>826
827を読んでみたら、言葉が汚い。失礼しました。826は結局、神通
関連の記述には、仏教独特の色彩が見られ、したがって後世の見解
を持ちこんだものと思われるということですか?

830 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 00:57
元の神・実の神が偉いです。
天理王命様です。

831 :名無しさん:2001/08/22(水) 01:01
>>827
体温が50度だからどうなの?という感じなんですが。体温と神通力の
間になにか関係があるんでしょうか?その人はなにがしかの神通力が
使えたのですか?ちなみに私は体温43度ぐらいまでならいきましたが、
幻覚は見えても神通力は使えませんでした(w

832 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:04
>>831
タンパク質が凝固してしまうでしょ?それでも生命に異常がないのは
物理学的にどう説明できるのでしょうというお話です。

833 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:09
>828
>ブッダとジナ(勝者)とタターガタ(如来)とアラハン(真人)とは、
全て『聖者』とか『賢者』と言う意味であり同義語です。

釈迦はそれらを全て内在していましたから、いろんないわれ方をして
もおかしくないのですが、その逆、例えば、アラハンと呼ばれるべき
人はタターガタとは呼ばれていないでしょう、多分。同義語という
のは疑問です。
仏陀が普通名詞だったというのは同意します。これが、神通につながる
ことですか?

834 :名無しさん:2001/08/22(水) 01:09
>>832
それは物理学とはまた違うでしょう。っていうかソース出してく
れないことには、どの程度信頼性のある話かもわからない。
ネイチャーとかに論文が載ったのですか?まさか、徳間書店じゃ
ないでしょうけど。

835 :黒海老:2001/08/22(水) 01:12
>>829
だいたい、そのような感じです。
後代にいくにしたがって説法も形式的に変わっていきます。
たとえば、『スッタニパータ』の古層では『五戒』や『三宝』すら形式化されていません。
釈迦は極めて簡素な言葉で思いつくままに『これは善くない』とか『これは善い』と説法したようです。
仏教学によって、次第に形式化されていった様です。

836 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:12
>834
どうちがうのか・・・たしか、載りましたよ。正確なことはいえない
から、この話はやめましょう。

837 :名無しさん:2001/08/22(水) 01:17
>>836
医学とか生物学の範囲かと。それにしても、ネイチャーに載った
ことがあるのですか?知り合いでネイチャー毎号買ってる人いる
んで今度聞いてみますね。それにしても、50度というのが1分なのか
1時間なのか1週間なのかによって話はだいぶ違ってくると思いま
すが。

838 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:21
>>835
よく知りませんが、神通の話はヴェーダとかにでてくるのでは?
仏教独特のものですか?

>思いつくままに『これは善くない』とか『これは善い』と説法したようです

対機説法が含まれますから、一見体系的でないように見えることもあるかもしれ
ませんが、上記の表現が当てはまるとは思いません。

839 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:22
>837
いや、ネイチャーかどうかわかりませんが、それなりに権威のある
ものだったかと。

840 :黒海老:2001/08/22(水) 01:28
>>833
釈迦はあまり個人名を挙げて説法する事は無かったので

>例えば、アラハンと呼ばれるべき
>人はタターガタとは呼ばれていないでしょう、多分。

これに関してはよく分かりませんが、たしか
「このような清らかな人はブッダでありアラハンであり…」
といった話があったような気がします。(調べておきます)
ただ、それらの言葉は意味的にも区別がはっきりしない、と聞きましたので、
恐らくたいした違いは無いと思います。
意味的に区別されたのは後代の解釈だと思います。

>これが、神通につながることですか?

と言う事ですが、「後代の解釈によって仏教が変化し釈迦に対する認識も変化していった」
と言いたかったのです。

841 :223:2001/08/22(水) 01:32
一夜過ぎると万国びっくりショーネタに・・・^^;
 アーガマといわれる初期仏典には、ブッダやその弟子たちの神通力につ
いての記述が散見されます。しかし、当時の社会背景や信仰のあり方を勘
案すれば、こうした記述方法も理解できないわけではありません。神通力
なるものがあったかなかったかという検討ではなく、同時代の人々にとっ
てブッダやその弟子の能力がどのように迎えられたかという、社会心理学
的な洞察が必要になってくると思います。近代的な意味での学問や科学も
なく、教養体系ないしは知的水準も細分されたカーストによって全く違う
という、現代の我々とはかけ離れた状況下で書き記された文献に対し、逐
語的な読解をすればかえって足元をすくわれるでしょう。
 この時代の人々の眼には、ブッダやその高弟たちに限らず、その他の沙
門集団の指導者たちの教えや行動は、自分たちの想像を絶した「超能力」に
映ったのではないかと思います。だからこそ幅広い階層に亘っての支持や
帰依を得ることができたのではないかと考えるのですが。経典に記されて
いる様々な奇跡じみた逸話は、その教化を受けた人々の感嘆の声の表現と
も受け取れます。そうした延長線上にブッダの能力を超人化し神秘化する
傾向が生まれ、それが神話的な経典記述や後世の仏身論や讃仏文学に受け
継がれていったのだと考えます。

842 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:35
>840
ブッダ=アラハンは多分いまでも同様に使われているところ
があるはずなので、それはあるかなと思います。

843 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 01:56
「アメリカのハーバード大学で科学的なチェックを受けたロブサン・テンジン氏。
トゥモの修行を行い、なんと体温を平常値より15度も上昇させたという(ちなみにこのとき呼吸は停止していたそうだ)。
つまり、人間の体温が50度を超えたということである。にわかには信じ難い話だが、ダライ・ダマ政庁宗教文化局のカルマ・ゲーリック氏もこの実験に立ち会って事実であると証言している。
聖者達の底知れぬ力にはいまさらながら驚かされる。」

844 :黒海老:2001/08/22(水) 01:57
>>841
『スッタニパータ』の中に(後代の付加にあたり記述ですが)バラモンが聖者には32の<偉人の相>が備わっており、
その相を釈迦に見つけて賞賛すると言う記述があります。
中村元氏は「バラモン教の経典にはそのような記述は見られない。恐らく、当時の一般庶民の間で
聖者の体はそのようなものである、と考えられていたのであろう。」と言います。
それが仏教に取り入れられたと言う事でしょう。

845 :黒海老:2001/08/22(水) 02:01
ソースは何ですか?

846 :223:2001/08/22(水) 02:02
スレ汚しの余談
−神通力雑感−
 数年前にパリへ行った時、とある本屋で美術書を数冊と絵葉書を
何枚か買い求めました。勘定場に行く前に値段の合計と税金の合計
額を暗算してみると、財布の持ち合わせで小銭までぴったり出せた
ので、商品に添えて勘定も渡したら店の親爺が怪訝そうな顔でそれ
を受け取り、電卓で丹念に計算しておりました。しばらくすると電
卓の会計とこちらが出した勘定がぴったり合うのにびっくりした様
子で「オ前ハコレヲ暗算シタノカ?」などと聞いてきます。肯うと彼
はますます驚いて「オ前ハ神カ魔術師カ!?」などと阿呆なことを言
ってしきりに感心していました。彼−算数が苦手なのかもしれませ
ん−にとっては、こちらの計算能力がそれこそ「神通力」に思えたの
かもしれません。しっかり免税の証明書をもらい忘れましたが(笑)

847 :黒海老:2001/08/22(水) 02:31
『ブッダのことば』中村元 解説より
原始仏教は<四つの真理>(四諦)を説いたと言われる。ところで『スッタニパータ』の中では
真理(sacca)に関する論議は盛んになされているけれども(59、78、182、187-9、450、453、
463、479、508、632、756、758、824、832、843、882-6、895、903-4、941、946、1133)
ウパニシャッド的な意味でsaccaという語が用いられている場合が多くて、「四諦」の説とは何の関係もない。

最初期には四諦にあたる思想はあったのでしょうが、
「四諦」という形式が確立したのは後代にあたるという事です。
それから私は、よく『スッタニパータ』を例に出しますが、それはこの書が最も古い仏典であり
資料的価値の高さからです。

848 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:38
釈迦の入滅後、アーナンダを始めとする、高弟達によって
まとめられたのが阿含経です。

849 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:38
ハーバード医科大学での体温上昇実験
http://homepage2.nifty.com/Mr-Rich/Dalai02.htm

意識の低い次元が抑制されるとき、新しい生理学的現象が観察される。ハーバード
医科大学、行動医学部部長ハーバート・ベンソン博士の実験では、華氏18度
(摂氏10度)の体温上昇(直腸の体内温度と皮膚体温)も観察された。この
上昇によって行者僧のシーツが乾き、氷点下のなかで冷水に浸した布を巻きつ
けてもなんともなかった。

850 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:44
>841
四神足というのは7科37道品に組み込まれる仏教体系の確たる

柱であって、神足相応という独立した記述部分もあります。

それを感嘆の声の表現とするのは無理です。というより、

仏教教団では神通にたいして重きをおいていず、釈迦は神通を

否定しているとの噂まであった(はず)。

851 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:45
>844
>32の<偉人の相>が備わっており、その相を釈迦に見つけて賞賛すると言う
>記述があります。 中村元氏は「バラモン教の経典にはそのような記述は
>見られない。恐らく、当時の一般庶民の間で 聖者の体はそのようなもの
>である、と考えられていたのであろう。」と言います。それが仏教に取り
>入れられたと言う事でしょう。

これはいいとこ取りの恐れがありませんか?この理論でいくと、バラモンの
経典に見られないアートマンの否定は当時の一般民衆の間での死後の世界観
を取り入れたっていうこともできますよ。

852 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:48
>850
釈迦が否定したのは、あくまでも真理でないものに使う超能力です。
それは魔境です。行を行えば、超能力は比較的簡単につきます。
釈迦の神通は別格です。

853 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 02:52
>852
いや、そういうことじゃなくて。スレの流れを読んでください。

854 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:01
大昔の人間が、どんな奴かわかるわけないでしょ。

何人もの人間が頭寄せて考えた話が重厚そうにみえるってだけの話
ではないのか?

855 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:01
ところで、真理って何ざんしょ?

856 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:06
商売道具だったりして

857 :223:2001/08/22(水) 03:16
>>850
 七科三十七道品という整然たる教義体系が築かれるのは、もっと
後の部派仏教全盛期ではないでしょうか。これらの体系を「声聞乗」
などと批判して大乗派が勃興してくると思うのですが。

858 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:20
>857
整理されるのは後のことですが、一見雑然とみえる中でも
主要なパートを担っていたという意味です。

859 :黒海老:2001/08/22(水) 03:22
一応、全文を書き出します。

(1022)ここでは、いわゆる仏の三十二相のうちわずか三つを挙げているだけである。
三十二相の内容は決して最初の時期から考えられていたものではなくて、
逐次成立したものであることが解る。
さらに興味深いことには、ここでは釈迦の言として、バラモンの修行者がこういう
身体的特徴をもっているというのである。
現在のヴェーダ文献には出ていないが、恐らく当時の一般民衆のあいだで、
すぐれたバラモン修行者の身体はこのようなものだと考えられていたのであろう。

「ヴェーダ文献に見られないものは当時の一般民衆から取り入れた」
とそこまで単純な考察ではないでしょう。

860 :黒海老:2001/08/22(水) 03:26
>>858
つまり、整理されたのは後の事だが、内容は昔からあったという訳ですか?

861 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:27
そう思います。

862 :黒海老:2001/08/22(水) 03:31
>>848
阿含経が成立したのはアショーカ王時代より後であり、釈迦入滅から150年以上経っています。

863 :黒海老:2001/08/22(水) 03:33
>>861
どの経典にその内容が認められますか?

864 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 03:44
>863
どの経典とは?既にあげた、神足相応、沙門果経ではなくて?
他にはサクルダーイ大経とかありますけど。

ではなくて、858の見解がどれに見られるかということですか?
だとしたらそれは私の判断ですが。

865 :黒海老:2001/08/22(水) 03:57
>>864
内容が昔からあったのならば『神足相応、沙門果経』以前の経典に見られますか?
という質問でした。

866 :223:2001/08/22(水) 04:01
>>858
 最初期の仏教では様々な修行法、つまり修行者各人の資質や志向
性に合致した方法が、必要に応じて雑然と説かれていたと推察され
ます。それが経典としてまとめられる過程で、次第に秩序立てられ
部派仏教の時代に教義体系として確立されたのだと考えます。それ
につれ最初期の修行方法に対する柔軟な姿勢が後退していったとも
いえます。

 「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこ
  の安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく
気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
                  (スッタニパータ 1066)

伝承とドグマに対する執着が発生してきます。

867 :名無しさん:2001/08/22(水) 04:02
>862
では、新約聖書が誕生したのはいつ頃なのでしょうか?

868 :223:2001/08/22(水) 04:11
>>866
 といいつつもアビダルマ仏教の複雑な教理には正直言って
お手上げ状態です。まさに「見惑の森」。(苦笑)

869 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 04:18
>867 横からですが
新約聖書に関しては、ヨハナン・ベン・ザッカイ(旧140さん)が以前カキコしてくれました。
以下コピペ
紀元90年と118年ごろの二回にわたり、ヤムニア会議という、聖典決定のための会議が、
開かれました。 これは、ユダヤ教の会議なのですが、ここで、旧約聖書の内容が確定され
現在の形になりました。 (うんと簡単に言うと、こういうことです。)
この「旧約聖書」を、当時のクリスチャン達はユダヤ教から受け取りました。

当時、イエス・キリストと使徒達のことについて、いろいろな文書が記されていました。
その中で、昨日ごく簡単に触れた、基本信条が成立して行く中で、
イエスの言葉(として伝えられたものも含む)、使徒達の伝承等が集められました。
そして、明らかに異端と思われるものは、取り除かれて行くのです。
そして、最終的に、新約聖書が確定するのが、397年に行われた、カルタゴ教会会議です。
ここで、旧約聖書・新約聖書あわせた66巻が、正式に「教会の聖典(カノン)」として、
決定されました。

870 :1:2001/08/22(水) 04:20
みなさん、いつもどうもありがとうございます!
とても勉強になります。
私としてはpartUを立てたいのですが、いかがでしょうか?
それともタイトル変えた方が良いですか?

871 :黒海老:2001/08/22(水) 04:32
『スッタニパータ』を読むと、後代の難解な説法ではなく、極めて簡素でそれでいて確固たる説を説いています。
「苦は執着によって起こる。」「ゆえに執着をなくせ。」という内容です。
まったく単純にして明快な説法とは思いませんか?

メッタグーさんがたずねた、
「…世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」
師(ブッダ)は答えた、
「…世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。…」

師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、
それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、
生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」
                             (スッタニパータ1049〜1056)

872 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 10:03
>870
仏教関係の話はそろそろ尽きかけているので、キリスト教関係者の入ってきやすい
タイトルのほうがいいかもしれませんね。

873 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 12:21
>864
>内容が昔からあったのならば『神足相応、沙門果経』以前の経典に見られますか?
>という質問でした。

経典の編纂時期の前後というのをよく知らないのですが、神通関係で個別のエピソード
を挙げるなら大般涅槃経ですね、今思いつくのは。223さんが841で「アーガマといわれ
る初期仏典には、ブッダやその弟子たちの神通力についての記述が散見されます。」
と書かれていますね。

874 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 12:54
>866
>最初期の仏教では様々な修行法、つまり修行者各人の資質や志向性に合致した
>方法が、必要に応じて雑然と説かれていたと推察され ます。それが経典として
>まとめられる過程で、次第に秩序立てられ 部派仏教の時代に教義体系として確立
>されたのだと考えます。それにつれ最初期の修行方法に対する柔軟な姿勢が後退
>していったとも いえます。
>「ドータカよ。伝承によるのではない・・・」 (スッタニパータ 1066)

スッタニパータからの引用部はバラモンの伝承ということあろうと思うので、ここ
で引用することが妥当かなという気はします。各人に合わせた修行方法がとられな
くなったというのは、指導する側の力がなくなったということだと思います。

釈迦は神通を駆使して、(駆使という言葉は適当ではないかもしれません。釈迦に
とっての神通は、カレーライスを出されれば、意識しなくても香辛料の香りを感じ
とるのと同じ様なものでしょう)個々の弟子にあった指導をしていたと思います

875 :223:2001/08/22(水) 13:01
>>874
神通の譬えに同意です。

「スッタニパータ」からの引用は、確立したドグマに対する執着の
発生を表現したかったからです。

876 :黒海老:2001/08/22(水) 13:56
>>871
『ウダーナ』(感興の言葉)ではこう言います。

執着の条件に依って苦しみが起こる。苦しみは執着の条件から生ずるものである。
執着の条件がすべて滅びたならば、苦しみの起こることはない。

877 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 16:17
長文ですみませんがカキコします。『ブッダのことば』中村元 解説より

いま聖典成立史上における位置づけを示すと、次のようになる。
一、歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈迦)の逝去(北方の伝説によると、西紀前三八三年頃になる)ののちに、
仏弟子たちはその教えの内容を簡素なかたちでまとめ、あるいは韻文の詩のかたちで表現した。
いずれにしても暗誦の便をはかったものである。ことに教えの内容がひとたび詩の形でまとめられると、そのまま、
大した変更も加えられることなしに、後世に伝えられた。
多数の詩のうちには、あるいはゴータマ・ブッダ自身がつくったものも含まれているのではないか、と考えられる。
最初は古マガダ語あるいはマガダ語の影響の強い俗語(東部インド語)の一種で唱えられていたのであろうが、
ある時期にそれがパーリ語に書きかえられて、現在では、パーリ語聖典のうちに伝えられている。
しかしマガダ語の影響を完全に消し去ることはできないので、その痕跡をとどめている。
こういう詩あるいは短い文句の集成がいくつも伝わっているが、「ダンマパダ(法句経)」もその一つである。
これらの詩あるいは短い文句はだいたいアショーカ王(西紀前約二六八―二三二年)以前に成立したものである。
それらの集成のうちでも『スッタニパータ』は特に古く成立したものであり、それらの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と
第五章(パーラヤナ・ヴァッガ)とは最も古く成立したと考えられる。最初のうちはこれらの各章が
別々に独立の経典として行われていたが、或る時期に一つの『スッタニパータ』にまとめられたのである。

878 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 16:17
二、第二の段階として古くから伝えられた韻文あるいは短い文句に対して種々の説明が付け加えられた。
この努力はすでにアショーカ王以前から行われ、逐次継続された。
一般に原始仏教聖典の散文の部分は韻文の部分よりかなり遅れてつくられたと考えられている。
しかしそのうちにも古い伝承を含んでいることは否定できない。
これらの散文の部分もブッダ(釈迦)にかこつけて「仏説」として伝えられた。
三、第三の段階として「仏説」として伝えられていたものがすべて集成編集されて、ここに原始仏教聖典のうちの
「経蔵」(経典の部分)が成立した。パーリ語の経蔵は五つの部(ニカーヤ)に分かれている。
戒律の集成説明書である「律蔵」も相並んで成立した。
四、第四の段階として、マウリヤ王朝以後になると、仏教教団が細かな部派に分裂した。
これらはみな小乗仏教(大乗仏教の立場から見て)と呼ばれるものである。
小乗仏教の諸部派で経典の内容の説明・整理・注解を行い、諸異説に対して統一的解釈を与えるようになった。
これらが集められて「論蔵」を構成した。
論蔵は現在では、スリランカの上座部のものと説一切有部(主として漢訳)のものとが最も完全なかたちで伝わっている。


第二の段階はアショーカ王時代に相当します。

879 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 16:25
>871
>『スッタニパータ』を読むと、後代の難解な説法ではなく、極めて簡素でそれでいて
>確固たる説を説いています。 「苦は執着によって起こる。」「ゆえに執着をなくせ。」
>という内容です。 まったく単純にして明快な説法とは思いませんか?

根本的な法は変わらないと思います。修行法と世界観は徐々に加えられていったのでしょう。
修行法についていうなら、当初は人数も少なくて、また、優秀な人が多かったと思うので、
それほどヴァリエーションも必要なかったのではないかと思います。(初期に何の保障も
ない所に飛び込むのは、それだけの確信があってのことだと思います。そういう人は必死に
修行したと思います。後になって出家した人はある程度の生活の安定を欲していた人もいる
のではないかと想像します。そのような場合には世界観を説くのも一つの導きの手段では
なかったかと)・・・続く

880 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 16:33
>871(続き)
また、一度に多種の法を説くより、少しづつ説いて確定するという必要もあったかと思い
ます。記録手段がない時代のことですから。

さらに、修行の進んでいる弟子には次の段階の法を説かなければならない。霊鷲山では
対象者を限定して、小乗(悪い意味で使っていません)から大乗への移行に関する説法を
したという話もありますね。ついでに秘密の教えの伝授もあったと想像します。霊鷲山
でということではないですが。

川を渡るときに使った筏をどうするかというのは、教えの移行の時、乗っかってきた法に
頓着してはいけないということをいうのだと思います。小乗を納めた人は彼岸に到達した
人であり、自浄の修行から利他の修行に入っていったのだろうと。小乗なくして大乗なし。
自浄なくして利他なし。

881 :880:2001/08/22(水) 16:34
>877さん
長文ご苦労様です。参考になります。

882 :黒海老:2001/08/22(水) 17:29
>>877は私でした。書き忘れまして、すいません。
補足として『真理の言葉』中村元より

読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、
なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。(ダンマパダ241)

中村元註釈 読誦しなければ… パーリ文註解によると、「聖典(pariyatti)であろうとも、
あるいは技術であろうとも、読誦しない人、すなわちつとめ励まない人にとっては滅びてしまうか、
あるいは不断に現われることが無いから、<読誦しなければ聖典が汚れる>と言うのである。」
当時は聖典は暗誦によって伝えられ、技術は口伝によって伝えられていたから、
人が暗誦をやめてしまったら、聖典は消え失せてしまうのである。
神や樹葉に書かれた聖典の読誦を想像してはならない。書かれた聖典の読誦は西暦元後に一般に行われるようになった。

(釈迦入滅後の)仏教初期においては釈迦の説法は詩(韻文)の形で伝えられました。
ですから、詩として伝えられている説法は特に古いものである可能性が高いのです。

883 :黒海老:2001/08/22(水) 17:31
>神や樹葉に書かれた聖典…
紙や樹葉の間違いでした。

884 :黒海老:2001/08/22(水) 18:52
>>880
>ついでに秘密の教えの伝授もあったと想像します。

これが、密教的な秘密の教えを意味するならば疑問です。何故なら

…アーナンダは、尊師に次のように言った。
「…<尊師が修行僧に対して何ごとか教え(最後の教え)を述べられないあいだは、
ニルヴァーナに入られることは無いであろう>という或る安心感がわたくしに起こりました」と。
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。…」
                     (マハーパリニッバーナスッタンタ2・25)
中村元註釈 『(仏教外の)外の人々には<教師の握拳>なるものがあって、
若い人々には何人にも話さないでおいて、後の時に死の床に就いたときに、
気に入った弟子に語ることがある。それと同様に如来には
「私は、これを年老いてから、後の機会に話すことにしよう」といって、
取り除いて置かれた何ごとも存在しない。』(Sumangala-vilasini.p.548)
バラモンはこっそりと秘密のうちに弟子に伝授する。しかし仏教には秘密は無いというのである。

密教的な秘密の教えは、仏教の本意ではないと思います。

885 :黒海老:2001/08/22(水) 21:11
『ブッダ 神々との対話―サンユッタ・ニカーヤT―』中村元解説より

『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)全体は五つの集(vagga)に分かれ、
その一つ一つの集がまた細かに分かれているが、その中でもこの第一集は、特に古い教えの集成である。
いきなりこの『サンユッタニカーヤ』全体を検討するということは容易ではないが、
最初の第一集、つまり詩を多く含んでいる部分は非常に古いと言われている。


『サンユッタ・ニカーヤ』の中でも、詩(韻文)の部分が特に古いものである、と言います。

886 :880:2001/08/22(水) 21:30
>>884
密教的な部分は、アパダーナなどにそれを垣間見ることができますが、
ネット上でそれについてやり取りをするのは控えたいと思います。

887 :880:2001/08/22(水) 21:38
>>885
アパダーナも詩(句)ですけど、それはどうなんでしょうね。

888 ::2001/08/22(水) 21:45
>>
お釈迦さまが、えらいにきまってるじゃん

889 ::2001/08/22(水) 21:46
スッパニータを読んでみなさい。キリストなんぞはふっとぶよ

890 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 21:48
>>888
比べること自体が、おかしいよ。
宗教、宗派は、本人が心の支えを求めていくものだと思うけどな。

891 :名無しさん@1周年:2001/08/22(水) 21:57
>890
以下コピペ

690 名前:名無しさん@
>689
このスレ読めばわかるけど、仏教徒はキリスト教を、キリスト教徒は仏教を
よく理解していないのです。吟味はもちろん必要だけど、一つの宗教について
でさえ、その本質を押さえるっていうのは大変なことです。

ですから、それぞれの専門家が同じ土俵にあがって意見を述べ合い、類似点、
相違点をはっきりさせることはそれなりに意味があると思います。宗教間の
争いが相手の教義を理解しないで、自分の宗教の優位を主張することに始まる
のはよくあることですから。

892 :黒海老:2001/08/22(水) 23:10
>>877
当り前の事ですけど、古く(初期)から伝わった詩であるかが問題でしょうね。

893 :223:2001/08/22(水) 23:30
>>880
http://geojweb02.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/9918/bukkyo/bukkyo.htm
に「アパダーナ」がアップされていますが、これよりも
「テーリーガーター(長老尼偈)」のほうが古形を留めて
いると思います。岩波文庫で「尼僧の告白」として出て
いますよ。

894 :223:2001/08/22(水) 23:32
それにしても上のサイトの経典、誰の訳なんだろう?

895 :黒海老:2001/08/23(木) 00:37
『ブッダ最後の旅―大パリニバーナ経―』中村元註釈より
修行完成者―tathagata.(タターガタ)
ジャイナ教、仏教そのほか当時の諸宗教を通じて「修行を完成して立派な人」のことを言う。
語義は「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という事である。

漢訳仏典では「如来」と訳すが、そこには「人々を救うためにかくのごとく来りし者」
という大乗的な見解がひそんでいる。「自分は、自分で救え」といって突っぱなしていた
最初期の仏教の考えた「タターガタ」はジャイナ教などと共通のものであったにちがいない。

日本では、漢訳にしたがって大乗的に解釈していると思いますが、もともとは聖者の称号の一つだったようです。

896 :黒海老:2001/08/23(木) 02:14
スリランカでは現在でも、葬式の時お坊さんが

「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びる決まりのものである。
生じては滅びる。それら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」
(漢訳では、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽)
という『マハーパリニッバーナスッタンタ』の中で、釈迦が臨終の際に言ったとされる詩を唱え、
遺族にたいして無常の真理を説くそうです。
つまり、死者にお経を唱えるのではないのです。

897 :黒海老:2001/08/23(木) 18:36
『ニルヴァーナ』について

つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
(道に)思いをこらし、耐え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、
安らぎ(ニルヴァーナ)に達する。これは無上の幸せである。(ダンマパダ21〜23)

これとほぼ同じ詩が「ウダーナヴァルガ」に収められています。また、

荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。
怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。
汝はもはや怒り罵ることがないからである。(ダンマパダ133、134)

中村元註釈 声をあらげないだけで、ニルヴァーナに達し得るのであるから、
ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちのいうようなうるさいものではなくて、
心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。

898 :黒海老:2001/08/23(木) 18:36
また『スッタニパータ』ではこのように言います。

聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。
それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」
(ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、
常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。(スッタニパータ1085〜1087)

>>570-571>>576-577>>586-587
これらから察するに初期の仏教では『ニルヴァーナ』とは、死後に赴く場所ではなく
「執着なく、あれこれ思い煩うことなく、悪い思いを退け、つとめて励む境地」
このように考えていたようです。
修行僧にとって、つとめて励むとは「怠ることなく修養して、心を清める」事です。

899 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 00:16
age

900 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 00:54
>>897-898
>中村元註釈 声をあらげないだけで、ニルヴァーナに達し得るのであるから、
>ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちのいうようなうるさいものではなくて、
>心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。
当時の教義から考えるなら、この状態はブラフマンの世界に生れ出るための
条件であると思われる。

>(ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
>快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
>このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、
>常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。(スッタニパータ1085〜1087)
これも当時の教義で考えるなら、ブラフマンの世界に行くための条件であると、
考えられる。

>これらから察するに初期の仏教では『ニルヴァーナ』とは、死後に赴く場所ではなく
>「執着なく、あれこれ思い煩うことなく、悪い思いを退け、つとめて励む境地」
>このように考えていたようです。
バラモン教や古代ヒンドゥー教を学ぶなら、これらの考え方は当時を反映している
とは考えにくい。

901 :キリスト仏陀:2001/08/24(金) 02:25
もしあなたが死に直面しているとして、

あなたのその苦しみを共に感じて苦しんでそれを伝えてくれるのがキリスト

その死の本当の意味を伝えてくれるのが仏陀。

902 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 02:43
>>901
そして、ブッダはその苦しみを乗り越える方法も教えてくれるんですね?

903 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 02:44
>>902
そうだヨ

904 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 02:49
>903
ということはこのスレタイトルの答えは、
ブッダの方が偉いということですか?

905 :キリスト仏陀:2001/08/24(金) 02:55
>>902
方法を伝え、伝えられた本人に確認させ、
その方法を実行するよう助言してくれるものです。

906 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 02:56
>>905
ということはこのスレタイトルの答えは、
ブッダの方が偉いということですか?

907 :黒海老:2001/08/24(金) 02:59
>>900
すいませんが、なぜそう思うのか理由も書いてもらえませんか

908 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 03:03
い〜た〜み〜も〜
く〜る〜しみ〜をも〜
お〜お〜しく〜
し〜の〜び〜た〜えよ〜
しゅ〜いぇすの〜
と〜も〜に〜ま〜せば〜
た〜え〜え〜ぬ〜
な〜や〜みは〜なし〜
(賛美歌298)

キリスト教って結局「辛抱しろ」ってこと

909 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 03:05
アーガシックレコードを経験した友人は、
WINのつくりにそっくりだったと言ってました。
ひとつのことに集中すると、まるでクリックするように開かれ、
そのことについての、細かいことが表示される、って
感じらしいです。
ちょっと忘れちゃったけど、
確か視覚的に見えるとゆうより、意識だったと言ってたと思います。
WINの発送は、絶対アーガシックからぱくったって言ってました。
ビルもカバラかなんかやってるんですかね。

910 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 04:24
>>907
>すいませんが、なぜそう思うのか理由も書いてもらえませんか
ウパニシャッドやバガヴァッド・ギータなどを学んだ事はありますか?
古代ヒンドゥー教・バラモン教・キリスト教などで言われているように、
魂の完成として、神と合一して死を捨て去り、神の世界に生れ出るとされている。

もちろん釈迦の唱えた無余涅槃は、それより向こうであると考えられるが。

911 :名無しさん@1周年:2001/08/24(金) 18:29
釈迦とキリストの会話発見!

http://www.tendo.net/seikun/H6/94010.htm

912 :名無しさん@1周年:2001/08/25(土) 02:37
>>909
>アーガシックレコードを経験した友人は

それをアーカシックレコードと判断した根拠は?

913 :名無しさん@1周年:2001/08/25(土) 02:42
>912
昔、チベットだかに出家してたんですよ、
10年くらい。1回の瞑想が3年とかいって、
それを何回もやるらしいです。
もちろん禁欲で、
たぶん山みたいなとこにこもるみたいです。
アカシクレコードは宇宙の過去・未来の記憶全ての倉庫みたい感じだそうです。
その後は、チベットの密教系のグルについたようです。
日本では、異常体験と言われますが、
チベットでは、出家した僧は当たり前に体験することなのだそうです。
その後、彼は、密教系のグルについてしまったので、
色んな経験を聞きたいのですが、その系統では、
グル以外に経験を話してはいけないことになってるらしいので、
わかりません。
彼みたいに旅行がてら、チベットやスリランカ(?)あたりに、
行った若者は、彼いわく、日本に帰りたくなくなるそうです。

914 :黒海老:2001/08/25(土) 08:06
>>910
それは知っています。何が言いたいのかと言いますと。
>>(ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
>>快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
>>このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、
>>常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。(スッタニパータ1085〜1087)
>これも当時の教義で考えるなら、ブラフマンの世界に行くための条件であると、
>考えられる。
と言う事は、釈迦はこう言ったという事になりますよね。

(ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、『ブラフマンの世界に行く条件』なのである。
このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、
『ブラフマンの世界に生まれる』。世間の執著を乗り超えているのである」と。(スッタニパータ1085〜1087)

荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。
怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は『ブラフマンの世界に生まれる条件』に達している。
汝はもはや怒り罵ることがないからである。(ダンマパダ133、134)

という事になります。
釈迦は「ニルヴァーナ」を「ブラフマンの世界に生まれる事」という意味で使っていた事になりますが、
なぜあなたは、そう判断したのかを教えて欲しかったのです。

915 :むもん:2001/08/25(土) 10:28
法華経には「ニルヴァーナ」によって「仏国土」に生まれることになっているようですが、
私は「仏国土に生まれる事」と「ブラフマンの世界に生まれる事」とは同じ事のように考え
ているのですが、やはり違うでしょうか。

916 :名無しさん@1周年:2001/08/26 06:19
>>914
>釈迦は「ニルヴァーナ」を「ブラフマンの世界に生まれる事」という意味で使っていた事になりますが、
>なぜあなたは、そう判断したのかを教えて欲しかったのです。
基本的には、宗教は一つであると考えているからである。

原始仏典郡にもたびたび現われているが、具体的にその箇所を書いたほうが
いいですか?煩わしいので逃げている。(笑)
とはいえ、バラモン、梵天だらけの原始仏典郡で、バラモン教を
否定する事のほうが難しいように思われるが。

917 :名無しさん@1周年:2001/08/26 06:45
>>915
>私は「仏国土に生まれる事」と「ブラフマンの世界に生まれる事」とは同じ事のように考え
>ているのですが、やはり違うでしょうか。
バラモン教と大乗仏典を比べるのは難しいが、法華経の仏が有する世界は、
人間の住む物質界も入るので、考え方が同じではないと思われる。

918 :むもん:01/08/26 11:10
>>909
ヨハネ伝の冒頭にある
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった・・・・・・・。』
この「ことば」っていうのが「アーカシックレコード」のことでは?

919 :黒海老:01/08/26 15:05
>>916
前にも書きましたけど、最初期の仏教では仏教特有の単語というものは、ほとんどありません。
それまでの諸宗教の単語を借りてきて使っていました。
ですから、必然的にバラモン、梵天だらけになります。
実際、『スッタニパータ』中でバラモンという単語は、バラモン教徒の事ではなく「立派な修行者」
という意味で使われていますよね。
そして、しばしば「信仰を捨てよ」という言葉がありますが、これはバラモン教を始めとする
諸宗教に対する信仰を捨てろ、と言っているものだと言われています。
では新たに仏教を信仰するのかと言うと、「真理を追究しろ」とは言いますが「信仰しろ」とは言いません。
何者かに頼る事を否定し、自力の成道を説いた初期の仏教では『信仰』と言うものを説かなかったでしょう。

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。(ダンマパダ160、165)

という訳ですから、バラモン教を完全に否定せずとも、積極的に肯定はしなかったと思います。

920 :223:01/08/26 15:54
−ブッダの思想とブラフマニズム(ヴェーダ
              などのバラモン神学)の相違点−
つれづれなるままに・・・

 @生贄や拝火儀礼などのバラモン的祭祀思想を否定。
 Aバラモン神学の社会的基盤である、ヴァルナ(カースト)制
  度の否定。
 Bヴェーダ聖典の権威や読誦の功徳を否認。
 C知覚と経験に基づいた合理的思惟を重んじた。
 D秘伝や奥義伝授などの排他的な教えを説かなかった。
  (師の教えに握拳なし)
 Eバラモン神学の業報説に対して縁起説を説いた。
 F形而上学的議論を拒否し、思考から排除した。

921 :名無しさん@1周年:01/08/27 00:01 ID:UrhM3apY
>>919-920
ここで誤解を解いておこう。

当時のバラモン教は、現在の仏教・キリスト教などと同じように、
長年の経過により、改竄・土着信仰の流入・誤謬・創作などで、
非常に異なるものとなっており、そのバラモン教を支持しているのではない。

ちなみに、スッタニパータの2章7、『バラモンにふさわしいこと』に、
ヴェーダ聖典の改竄が書いてある。

私が支持しているのは真実のバラモン教で、それは真実の仏教と同じであり、
真実のヒンドゥー教・キリスト教・イスラム教とも同じであると考えられる。
またそれは、釈迦の教師たちであった仏達と、同じ教えであるとも考えられる。

922 :名無しさん@1周年:01/08/27 00:16 ID:ByGHSbVc
>>919
>実際、『スッタニパータ』中でバラモンという単語は、バラモン教徒の事ではなく「立派な修行者」
>という意味で使われていますよね。
立派な修行者こそ、真のバラモンであるし、真の仏教徒でもある。

>そして、しばしば「信仰を捨てよ」という言葉がありますが、これはバラモン教を始めとする
>諸宗教に対する信仰を捨てろ、と言っているものだと言われています。
>では新たに仏教を信仰するのかと言うと、「真理を追究しろ」とは言いますが「信仰しろ」とは言いません。
これは、釈迦が成道して、前世を知り、天上・地獄を見て、
物事の成り立ちが、自分自身の行為に起因する事を悟ったゆえに、
信仰するより、直ちに正しい行いをせよ!、と言ったと考えられる。

その他の箇所では、正しい信仰なら否定していない。
私のような凡夫は、釈迦を信仰して行なうしかないだろう。

923 :名無しさん@1周年:01/08/27 01:07 ID:64xTwWxg
>>920
> @生贄や拝火儀礼などのバラモン的祭祀思想を否定。
私が思うに、生贄の最後はイエスであろう。
正しいバラモン的祭祀は、否定していない。
スッタニパータ 3章5『マーガ』、3章7『セーラ』568
サンユッタ・ニカーヤ 第V篇・第1章・第9節

> Aバラモン神学の社会的基盤である、ヴァルナ(カースト)制
  度の否定。
行為によりそれぞれの境涯になるのだが、悪を行なったバラモンは、
来世、何になるのか?良い家に生れるのであろうか?

> Bヴェーダ聖典の権威や読誦の功徳を否認。
3ヴェーダは、否定していない!玉石混交ではあるが。

> C知覚と経験に基づいた合理的思惟を重んじた。
よく解らない。

> D秘伝や奥義伝授などの排他的な教えを説かなかった。
  (師の教えに握拳なし)
その通りであるが、それは、奥義自体の否定にはならない。

> Eバラモン神学の業報説に対して縁起説を説いた。
業報説とは、因果律の事ですか?
そうであるなら基本的に同じ事である。縁起の方が広義であるが。

> F形而上学的議論を拒否し、思考から排除した。
バラモン教がそうなのではなく、人々が議論を好むのである。

924 :黒海老:01/08/27 19:09 ID:Pf8lbwJ6
釈迦がカースト制度を非難していたのは事実ですよ。

925 :223:01/08/27 22:39 ID:Eii.pOXU
>>923
> @私が思うに、生贄の最後はイエスであろう。
 意味不明^^;
>  正しいバラモン的祭祀は、否定していない。
>  スッタニパータ 3章5『マーガ』、3章7『セーラ』568
>  サンユッタ・ニカーヤ 第V篇・第1章・第9節
 いずれも在家者に対して、ブッダやその教説に従うサンガへ
 の供養や布施とその功徳を説き、バラモンたちによる伝統的
 な祭祀に 対する優越を述べています。
 ところで「正しいバラモン祭祀」とは?

> A 行為によりそれぞれの境涯になるのだが、悪を行なったバラモンは、
> 来世、何になるのか?良い家に生れるのであろうか?
 当時バラモン階級は、自らを「梵天の一族」いわば「現人神」と
 して捉え、正しい祭式による生天や父子間での「相続転生」を
 信じていました。つまり行為より「祭祀の功徳」を信じて重ん
 じたわけです。またヴァルナ制度により、そうした祭祀に関
 与できず「善業」を積むことが不可能なシュードラなどは永久
 に救われないと考えられていました。

> B3ヴェーダは、否定していない!玉石混交ではあるが。
 ブッダは「三帰依文」をもって、バラモンのヴェーダ賛歌に代
 え、ブッダの唱える「偈」をヴェーダと呼んで、その意味を思
 想的に換骨奪胎してしまいました。

> Cよく解らない。
 伝承やドグマに拠らぬ、現在の自己の洞察と、現前の事象
 の観察による智慧の獲得をブッダは説きました。

926 :223:01/08/27 23:17 ID:Y6pp5fIw
>>923 続きです

> Dその通りであるが、それは、奥義自体の否定にはならない。
 ブッダは教えを請う者には、惜しみなくその教説を明らかに
 しました。バラモンの権威を前提とした教義や思想を、同じ
 ヴァルナ内の限られた弟子のみに伝授したバラモンたちとは
 教化への態度が根本的に違います。

> E業報説とは、因果律の事ですか? そうであるなら基本的に
 同じ事である。縁起の方が広義であるが。
 業報説に関してはAを参照。ブッダは、あらゆる事物は原因
 と条件に依存して生じては滅する、という縁起の理法を説く
 ことにより、従来の一因一果の単純な因果律に修正を加えま
 した。

> Fバラモン教がそうなのではなく、人々が議論を好むのである。
 バラモン神学や沙門思想家たちによって提唱された、形而上
 学的見解の数々に対し、実証も論証も不可能でありニルヴァ
 ーナに達するためにも無益として、ブッダは無視し放擲して
 顧みない態度を堅持しました。

927 :223:01/08/27 23:26 ID:Y6pp5fIw
>>921
>私が支持しているのは真実のバラモン教で、それは真実の仏教と同じであり、
>真実のヒンドゥー教・キリスト教・イスラム教とも同じであると考えられる。
>またそれは、釈迦の教師たちであった仏達と、同じ教えであるとも考えられる。
 大胆な仮説に思われますが、これらを論証する経典や文献な
どがありましたら、お示し願います。書名のみでも結構ですが。

928 :黒海老:01/08/28 00:56 ID:28QLXhjw
百年のあいだ、林の中で祭祀の火(註1)につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を
一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(いけにえ)をささげ、
あるいは火にささげ物を(註2)しても、その全部をあわせても、(真正なる祭り(註3)の功徳の)
四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々(註4)を尊ぶことのほうがすぐれている。(ダンマパダ107、108)

中村元註 註1 バラモン教では祭祀の火を尊び、その火は神と見なされていた。
註2 ヴェーダ聖典にもとづくバラモン教では祭の火の中に供物を投ずるが、それが煙となって天上にのぼり
神々のもとに達すると考えた。
註3 真正なる祭りというのは、行ないの正しい人を尊ぶことなのである。
註4 ujjugata(まっ直ぐに生きる人々)。仏教の出家修行僧をいうのである。
ブッダゴーサによると「預流向から漏尽の阿羅漢までの人々」のことだというが、これは後世の解釈である。

仏教では行為よりも心を重視しますので、功徳を求めての祭祀よりも無心の布施の方を推奨しているのでしょう。
釈迦が推奨したバラモン的祭祀とは、無心に神を敬い、心を清める事であったと思います。
ですから、別にバラモン教の祭祀でなくても、何でもよかったのだと思います。
心が清らかになれば良いのですから。
これは貴方が提唱している、「真実の宗教」というものに通じるものであると思いますが、
バラモン教の直接的推奨にはなりませんよね。

929 :名無しさん@1周年:01/08/28 01:02 ID:zTMGLo66
>>924
>釈迦がカースト制度を非難していたのは事実ですよ。
カーストを直接非難しているのではなく、バラモンの不法行為のために、
カーストが混乱したと言っているのだ。
 スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』

そして、ご存知の通り、カーストの真実とは行為による、と説いているのである。
 スッタニパータ第三・九『ヴァーセッタ』

であるから、カーストが問題なのではなく、行為が問題なのである。
すべての民が真のバラモンの行為を行なうならば、すべての民がバラモンとなり、
カーストは消滅する。

930 :名無しさん@1周年:01/08/28 01:17 ID:zTMGLo66
>>925
>> @私が思うに、生贄の最後はイエスであろう。
> 意味不明^^;
キリスト教には、興味が無いですか?イエスは、贖罪の子羊と言われている。

> いずれも在家者に対して、ブッダやその教説に従うサンガへ
> の供養や布施とその功徳を説き、バラモンたちによる伝統的
> な祭祀に 対する優越を述べています。
> ところで「正しいバラモン祭祀」とは?
真実の祭祀は否定していない。よく確認されたし!
 スッタニパータ 第三・五『マーガ』
 サンユッタ・ニカーヤ 第V篇・第一章・第九節『生けにえ』

> 当時バラモン階級は、自らを「梵天の一族」いわば「現人神」と
> して捉え、正しい祭式による生天や父子間での「相続転生」を
> 信じていました。つまり行為より「祭祀の功徳」を信じて重ん
> じたわけです。またヴァルナ制度により、そうした祭祀に関
> 与できず「善業」を積むことが不可能なシュードラなどは永久
> に救われないと考えられていました。
愚かなバラモンを指摘しても意味が無い。当然、真実からかけ離れている。

> ブッダは「三帰依文」をもって、バラモンのヴェーダ賛歌に代
> え、ブッダの唱える「偈」をヴェーダと呼んで、その意味を思
> 想的に換骨奪胎してしまいました。
それは、後世の仏教徒達がした事である。

> 伝承やドグマに拠らぬ、現在の自己の洞察と、現前の事象
> の観察による智慧の獲得をブッダは説きました。
同意するが、真のバラモン教の否定にはならないが。

931 :仏舎利:01/08/28 01:20 ID:Q1W3fDXs
>>919
皮肉な事に信仰を持つものは神の御座に近づく事が出来ない。

932 :名無しさん@1周年:01/08/28 01:30 ID:hO1KRQIM
>>926
> ブッダは教えを請う者には、惜しみなくその教説を明らかに
> しました。バラモンの権威を前提とした教義や思想を、同じ
> ヴァルナ内の限られた弟子のみに伝授したバラモンたちとは
> 教化への態度が根本的に違います。
内容については同意するが、奥義自体の否定にはならない。

>> E業報説とは、因果律の事ですか? そうであるなら基本的に
>> 同じ事である。縁起の方が広義であるが。
> 業報説に関してはAを参照。ブッダは、あらゆる事物は原因
> と条件に依存して生じては滅する、という縁起の理法を説く
> ことにより、従来の一因一果の単純な因果律に修正を加えま
> した。
真のバラモン教を説いたと、なぜ考えられないのか?

>> Fバラモン教がそうなのではなく、人々が議論を好むのである。
> バラモン神学や沙門思想家たちによって提唱された、形而上
> 学的見解の数々に対し、実証も論証も不可能でありニルヴァ
> ーナに達するためにも無益として、ブッダは無視し放擲して
> 顧みない態度を堅持しました。
これも同意するが、真のバラモン教の否定にはならない。
そして現在でも、同じ過ちを我々は犯しているのであるが。(爆笑)

933 :名無しさん@1周年:01/08/28 01:41 ID:hO1KRQIM
>>927
>>私が支持しているのは真実のバラモン教で、それは真実の仏教と同じであり、
>>真実のヒンドゥー教・キリスト教・イスラム教とも同じであると考えられる。
>>またそれは、釈迦の教師たちであった仏達と、同じ教えであるとも考えられる。
> 大胆な仮説に思われますが、これらを論証する経典や文献な
>どがありましたら、お示し願います。書名のみでも結構ですが。
これは、求道者たちの間では、当たり前の事である。
そしてそれは、非常に直感的な思考ではあるが、ある重要な事を
表している。

一即多・多即一という言葉があるが、一が神(仏)であり、
多が被造物である。当然、この世は多であり、五蘊も多である。

そこで、人がどちらを向いているかで、見え方が変わる。
この世を見る者は、多くさんに見える!
神(仏)を見る者は、一つに見える!

934 :名無しさん:01/08/28 01:46 ID:jxR3ln26
どっちかつーと俺のが偉い。これマジレス

935 :名無しさん@1周年:01/08/28 04:54 ID:i1rmHYv6
>>928
>釈迦が推奨したバラモン的祭祀とは、無心に神を敬い、心を清める事であったと思います。
>ですから、別にバラモン教の祭祀でなくても、何でもよかったのだと思います。
であるなら、正しいバラモンの祭祀でも良いのではないか?
釈迦は、すべての人々の教師であった。ヴェーダの達人でもある釈迦が、
真実の祭祀をバラモンに教えたのだ、と考える事はできないか?

>これは貴方が提唱している、「真実の宗教」というものに通じるものであると思いますが、
>バラモン教の直接的推奨にはなりませんよね。
バラモンに教えるのなら真実のバラモン教を、クリスチャンに教えるのなら
真実のキリスト教を、仏教徒に教えるのなら真実の仏教を。
これで良いと思うが。
人々は、病の種類によって薬が違うのであるから。

936 :名無しさん@1周年:01/08/28 07:43 ID:3Mam5CZw
みなさん、証拠のないものを信じることはできますか?それに、真実の宗教なんて
わかるのですか?まあ、わからないのでしょうけどね。教科書にたよるのではなくて
自分の言葉で語る自信はありますか?自分の言葉で話せなきゃわかってないのと同じ
ですよ。

937 :黒海老:01/08/28 11:45 ID:JFOrFN1.
大体言われている事は分かるのですが、「真のバラモン教」というものを明確にしてもらえませんか?
普通はバラモン教と言ったら、一般に考えられているバラモン教の事を考えます。
その視点で「バラモン教のここが…」と言ったら「それは真のバラモン教ではない」と返ってきますが、
その真のバラモン教なるものの定義を明確に話されていないので分かりません。
よろしかったら以下の質問にお答えください。
@バラモンの子として生まれなければ、バラモンという職業には就けないのか?
A別階級間では婚姻は許されないのか?
B火の祭祀は必要不可欠か?
C生まれついた階級は、一生変わらないのか?
Dヴェーダ聖典(リグ・サーマ・ヤジュル・アタルヴァ・各ヴェーダ)に書かれている戒律を順守するのか?

938 :黒海老:01/08/28 11:46 ID:JFOrFN1.
>>釈迦が推奨したバラモン的祭祀とは、無心に神を敬い、心を清める事であったと思います。
>>ですから、別にバラモン教の祭祀でなくても、何でもよかったのだと思います。
>であるなら、正しいバラモンの祭祀でも良いのではないか?
>釈迦は、すべての人々の教師であった。ヴェーダの達人でもある釈迦が、
>真実の祭祀をバラモンに教えたのだ、と考える事はできないか?

その通りですが、バラモンとして正しい祭祀のやり方を教えている事と、バラモン教を推奨している事は別です。
花屋に「花を丁重に扱え。花を慈しめ。花に感謝しなさい。」と言っているようなものです。
>>928で言っているように、花屋が自らの職業において清らかな心で行なったならば、それはバラモンの祭祀と
同等であると考えています。

939 :名無しさん@1周年:01/08/28 23:37 ID:57uyppJM
>>937
> @バラモンの子として生まれなければ、バラモンという職業には就けないのか?
前に書いたように、バラモンの不法行為により、カースト自体が混乱していると、
スッタニパータに書いてある。

また、カーストは、過去の行為により現在の状態にされ、そして、現在の行為が
来世の境涯を決めるのである、とされている。
運が悪くて、シュードラやチャンダーラに生れるのではない。行為によるのだ!

> A別階級間では婚姻は許されないのか?
正しい状態では、それは好ましくないとされている。これも書いてある。

> B火の祭祀は必要不可欠か?
祭祀の中では火への供養が最上であると書いてある。
 スッタニパータ第三・七『セーラ』568
また、現在の仏教でも火を祭っているのはご存知か?

> C生まれついた階級は、一生変わらないのか?
であるから、何度も言うように行為によるのである。それが真実のカーストである。
卑しい行いをする者を、バラモンと言うのであろうか?

> Dヴェーダ聖典(リグ・サーマ・ヤジュル・アタルヴァ・各ヴェーダ)に書かれている戒律を順守するのか?
前述した通り、ヴェーダ自体が付け加えられたりして編纂されている、
とスッタニパータに書いてある。

940 :名無しさん@1周年:01/08/28 23:44 ID:57uyppJM
>>938
> その通りですが、バラモンとして正しい祭祀のやり方を教えている事と、バラモン教を推奨している事は別です。
真のバラモン教を推奨しているのである。
そしてそれこそが、真の仏教なのである。

941 :黒海老:01/08/29 00:00 ID:HjOgu9nY
>>940
私が何を言いたいのかと言いますと、真のバラモンとは「立派なバラモン教徒」
のことを言うのかそれとも「立派な修行者」のことを言うのかと聞きたかったのです。
貴方の書きこみを見ていると、後者の事を指すようです。
でしたら「バラモン」と言う単語は使わず、「真の修行者」とか「真の宗教」と言われたらどうですか?
釈迦の時代ならいざ知らず、現代では「バラモン」と言う単語は特定宗教を連想させるのでよろしくないのでは?
そう言う提案でした。

942 :黒海老:01/08/29 00:10 ID:HjOgu9nY
それから@の質問に明確に答えてもらえませんか?
バラモンの子に生まれなければ、バラモンと言う職業に就けないのかどうか?
不正行為によって混乱していた、では就けるのか就けないのか分かりません。

943 :名無しさん@1周年:01/08/29 01:09 ID:.GG5sVlU
>>941
> 私が何を言いたいのかと言いますと、真のバラモンとは「立派なバラモン教徒」
> のことを言うのかそれとも「立派な修行者」のことを言うのかと聞きたかったのです。
> 貴方の書きこみを見ていると、後者の事を指すようです。
その通りである。

> でしたら「バラモン」と言う単語は使わず、「真の修行者」とか「真の宗教」と言われたらどうですか?
> 釈迦の時代ならいざ知らず、現代では「バラモン」と言う単語は特定宗教を連想させるのでよろしくないのでは?
> そう言う提案でした。
原始仏典郡を学び、真実の釈迦を追いかける者は、バラモンに違和感を感じない。
愚か者が、釈迦はバラモン教を非難したなどと言うのである。
バラモン教=釈迦の敵、という図式を壊されよ。

944 :名無しさん@1周年:01/08/29 01:12 ID:.GG5sVlU
>>942
> それから@の質問に明確に答えてもらえませんか?
> バラモンの子に生まれなければ、バラモンと言う職業に就けないのかどうか?
> 不正行為によって混乱していた、では就けるのか就けないのか分かりません。
その当時の正確な風習は、よく判らないし興味もない。
もしかすると事実上は出来なくても、お金で売買されていた
のかもしれない。
なぜそのような事にこだわるのか?

945 :浅田飴クール:01/08/29 01:14 ID:JyxnlYco
キリストの方がたぶんチンポはでかいだろう。
釈迦はたぶん包茎だな。(笑)

でもたぶん釈迦の方が勃起力は強かったんじゃないかな。
ただ、ホモの気があった可能性がある。あ、それはキアヌ・リーブスか。(笑)

946 :黒海老:01/08/29 01:16 ID:sp3OBDyY
以下の歴史的事実はご存知ですか?
紀元前1500年頃にアーリア人がインドに侵入してきました。
アーリヤ人はインダス川からガンジス川方面に移動し定住しました。(紀元前1000年頃)
そして、アーリヤ人はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシュヤ、という階級制を創り出し、
原住民をシュードラ(奴隷)としました。
これがカースト制度に繋がっていくわけです。
たとえば『スッタニパータ』に「色の黒いもの」と言う言葉がでできますが、
これはインドの原住民(シュードラ)の事です。
アーリヤ人は肌の色が白に近く、インドの原住民は南に行く程黒い肌を持っています。
『スッタニパータ』の中で語られている「本来のバラモン」とは「本来バラモンは、この様にあるべきである」
という事であって、「本来この様であった」という歴史的事実ではないでしょう。
釈迦は賢者ではあるが、歴史学者ではない。

947 :名無しさん@1周年:01/08/29 01:34 ID:cmWLr5bg
稲垣メンバーを必ず1位にするスレ
1 名前:森メンバー 2001/08/28(火) 19:06 ID:no/G9UmU
http://www.pumpkinnet.to/ranking/words/
専用スレ立ち上げました!明日には必ず単独1位にしましょう!

お釈迦さまの方が好きかな。

948 :名無しさん@1周年:01/08/29 02:28 ID:WFDUo3V.
>>946
> 紀元前1500年頃にアーリア人がインドに侵入してきました。
> アーリヤ人はインダス川からガンジス川方面に移動し定住しました。(紀元前1000年頃)
> そして、アーリヤ人はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシュヤ、という階級制を創り出し、
> 原住民をシュードラ(奴隷)としました。
> これがカースト制度に繋がっていくわけです。
> たとえば『スッタニパータ』に「色の黒いもの」と言う言葉がでできますが、
> これはインドの原住民(シュードラ)の事です。
霊的な差というものをご存知か?
人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
最近来た者はまだ動物性が強く、大昔に来た者は精神性が強い。
神は、差が大きすぎる場合、両者は交わるべきではないとした。
これが大元であると言われる!

> 『スッタニパータ』の中で語られている「本来のバラモン」とは「本来バラモンは、この様にあるべきである」
> という事であって、「本来この様であった」という歴史的事実ではないでしょう。
> 釈迦は賢者ではあるが、歴史学者ではない。
スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』は、間違いであるか?
釈迦の宿明通は信用できないか?

949 :黒海老:01/08/29 13:17 ID:i/JM2GuI
貴方は「生まれは行為によって左右されたものだ」という意見ですよね。
前世の業によって生まれてくる(カーストにおける)階級が左右されるという事ですね。
>>924 例として『スッタニパータ』の『ヴァーセッタ』の章をあげていますが、
ここ(ヴァーセッタ)で語られている内容は「人間以外の動植物は、
生まれによって(身体的)特徴が異なる。しかし人間は生まれにもとづく区別は存在しない。
人間のうちに区別があるとすれば、それは名称の区別のみである。
人間のうちで、牧牛によって生活してる人は農夫である。
技能で生活している人は職人である。売買によって生活している人は商人である。
盗みで生活している人は盗賊である。…そして、立派な修行者はバラモンである。」とある。
この話は、「人間は生まれによる区別はないのだから、バラモンとしてあるべき行為をしている人は
バラモンとするべきである。しかし、現実にはカースト制度によって人々は生まれに拘束されている。」
と取るべきでしょう。カルマうんぬんの話ではありません。
『バラモンにふさわしいこと』で語られている内容も同じく、「本来こうあるべきである」
という話だと思います。「釈迦の時代には堕落したバラモンが少なからずいた」という話には同意です。
だからこそ釈迦は訴えたのでしょう。

950 :黒海老:01/08/29 13:18 ID:i/JM2GuI
>>939
>> B火の祭祀は必要不可欠か?
>祭祀の中では火への供養が最上であると書いてある。
> スッタニパータ第三・七『セーラ』568
>また、現在の仏教でも火を祭っているのはご存知か?

「祭祀の中では火への供養が最上」と言ったのは結い髪の行者ケーニヤであって釈迦ではありません。
しかもこの言葉は釈迦を褒め称える為に「〜は〜のうちで最上である」と思いつくままに言っただけであり、
バラモン教では「祭祀の中で火への供養が最上」とされている事を受けて言っただけです。
これをもって、釈迦は火の祭祀を説いたとは言えません。
「占いが正しいかどうかは、占いで正しいと出ている」と言っているようなものです。

951 :黒海老:01/08/29 13:21 ID:i/JM2GuI
>>948
>スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』は、間違いであるか?

間違いとは言いません。
歴史的事実として見るべきではないと言っただけです。

952 :黒海老:01/08/29 13:48 ID:5h5AXy.o
>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。

これは一体何の事ですか?
全ての人類の起源は同一ですので、後も先もないと思いますが?
「この民族は霊的に高く、この民族は低い」と言う事がある、と言うのですか?

953 :223:01/08/29 14:33 ID:jrSIV2Cw
今後忙しくなるのであまり書き込めないかもしれませんが、取り急ぎ・・・
>>930
>キリスト教には、興味が無いですか?イエスは、贖罪の子羊と言われている。
 ヴェーダの神々に現世利益と後生安穏を願う供犠祭祀と、イエスの受難の意義を
同列に論じるのは不適切かと思います。クリスチャンの方の見解を待ちます。
>真実の祭祀は否定していない。よく確認されたし!
 お示しの文献の当該箇所はいずれも、在家者のブッダに対する供養の功徳を説い
ており、特に後者ではバラモン神学に基づく祭祀を批判こそすれ賛美してはおりま
せん。
>愚かなバラモンを指摘しても意味が無い。当然、真実からかけ離れている。
 賢愚を問うのではなく、当時(現在も?)の正統的なバラモン神学とその祭祀儀礼
の思想的な基盤を述べたまでです。
>それは、後世の仏教徒達がした事である。
 クシャトリア出身のブッダは、バラモンたちが独占し秘匿していた三ヴェーダ聖
典を系統的に習得する機会を持ちえません。教えを乞う人々はブッダの唱えて説い
た偈の秀逸さに対し「ヴェーダ(詩句)の達人」と讃えました。ブッダ自身は、教えの
内容が正確に相手に伝わればそれでよしという、プラクティカルな態度をとってい
たようですので、バラモンたちに教えを説くときは彼らの語彙を使用することに躊
躇を感じなかったのでしょう。

954 :223:01/08/29 14:35 ID:jrSIV2Cw
続きです。
>同意するが、真のバラモン教の否定にはならないが。
 バラモン神学のドグマとの訣別と考えます。
>内容については同意するが、奥義自体の否定にはならない。
 それではブッダの教説の「奥義」とは?またそれが存在する根拠をお示し願います
か。直感も結構ですが、それを裏付ける明晰な論証をお願いします。仏教ではこう
した要素が非常に重要だと考えます。
>真のバラモン教を説いたと、なぜ考えられないのか?
 一切の事象が例外なく流動しつつ、原因と条件に依存して生じては滅するという
縁起説をその論理展開の根底に置く仏教と、何らかの絶対者の実在を設定し、そこ
から何物かが流れ出てくると主張するバラモン神学とでは、思想的な分岐点が明瞭
に存在します。
>これも同意するが、真のバラモン教の否定にはならない。
 バラモン思想に不可欠な形而上学や神秘主義の思想的基盤に対し、ブッダは一貫
して批判を加えています。実証や論証不可能な命題に対しては思考から排除すると
いうすぐれて科学的な態度をもって・・・。(もっとも中期大乗以降、仏教もバラモン
化してしまいますが。ーー;)
>そして現在でも、同じ過ちを我々は犯しているのであるが。(爆笑)
あなたも形而上学的思想を放擲しておられますか?

955 :名無しさん@1周年:01/08/30 00:48 ID:tQYcC.7w
>黒海老さん
>>949
> この話は、「人間は生まれによる区別はないのだから、バラモンとしてあるべき行為をしている人は
> バラモンとするべきである。しかし、現実にはカースト制度によって人々は生まれに拘束されている。」
> と取るべきでしょう。カルマうんぬんの話ではありません。
何度も言っているように、『行為』によるである!
カーストに拘束されているのではない。行為に拘束されているのである。
全ての人が素晴らしくなったのなら、シュードラやチャンダーラは消滅する。
自分の卑しい階級をカーストのせいにしている限り、救われない。

であるから、『熱心な修行と清らかな行ないと感官の制御と自制と』、
これによりバラモンになる、と言っているではないか。
なぜ、因果応報(縁起)を理解しないのか?

>>950
>>祭祀の中では火への供養が最上であると書いてある。
>> スッタニパータ第三・七『セーラ』568
>>また、現在の仏教でも火を祭っているのはご存知か?
>
> 「祭祀の中では火への供養が最上」と言ったのは結い髪の行者ケーニヤであって釈迦ではありません。
これを言ったのは、釈迦であると書いてある。もう一度確認されよ。

956 :名無しさん@1周年:01/08/30 00:56 ID:tQYcC.7w
>黒海老さん
>>951
>> スッタニパータ第二・七『バラモンにふさわしいこと』は、間違いであるか?
>
> 間違いとは言いません。
> 歴史的事実として見るべきではないと言っただけです。
仮にカーストを侵略者が作ったとしても、因果律に左右されるがゆえ、
卑しい行いをしたなら、自ら作った制度によって自らを貶める事になる。
原住民をシュードラにしたとしても、正しき行為によって来世は、
バラモンにもなるのである。

>>952
>>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
>
> これは一体何の事ですか?
> 全ての人類の起源は同一ですので、後も先もないと思いますが?
> 「この民族は霊的に高く、この民族は低い」と言う事がある、と言うのですか?
その通りである。魂の受肉は、とても同じであるとは思われない。

2500年前、釈迦は生徒ではなく教師を卒業されたのである。
また釈迦の先生であった迦葉仏や、大昔の師匠の燃灯仏は、
我々と同じであると思えるか?

957 :名無しさん@1周年:01/08/30 01:12 ID:tQYcC.7w
>223さん
>>953
>>キリスト教には、興味が無いですか?イエスは、贖罪の子羊と言われている。
>  ヴェーダの神々に現世利益と後生安穏を願う供犠祭祀と、イエスの受難の意義を
> 同列に論じるのは不適切かと思います。クリスチャンの方の見解を待ちます。
贖罪の子羊は、生けにえとは呼ばないのか?
自ら学ばれてはどうか?私も、無知ゆえに多くの誤りを犯した。

>> 真実の祭祀は否定していない。よく確認されたし!
>>  スッタニパータ 第三・五『マーガ』
>>  サンユッタ・ニカーヤ 第V篇・第一章・第九節『生けにえ』
> お示しの文献の当該箇所はいずれも、在家者のブッダに対する供養の功徳を説い
> ており、特に後者ではバラモン神学に基づく祭祀を批判こそすれ賛美してはおりま
> せん
何度も言うように、それこそが真実のバラモンの祭祀であると、
釈迦は言うのである。また、後者(サンユッタニカーヤ)は、
正しい祭祀をかなり賛美しているが、もう一度確認されよ!

>>愚かなバラモンを指摘しても意味が無い。当然、真実からかけ離れている。
> 賢愚を問うのではなく、当時(現在も?)の正統的なバラモン神学とその祭祀儀礼
>の思想的な基盤を述べたまでです。
何度も言うように、現実のバラモン神学と比べているのではない。
真実のバラモン神学の事を述べているのである。
現在の仏教と、真実の仏教を比べたらどのような事になるのか
お分かりか?

> クシャトリア出身のブッダは、バラモンたちが独占し秘匿していた三ヴェーダ聖
>典を系統的に習得する機会を持ちえません。教えを乞う人々はブッダの唱えて説い
>た偈の秀逸さに対し「ヴェーダ(詩句)の達人」と讃えました。ブッダ自身は、教えの
>内容が正確に相手に伝わればそれでよしという、プラクティカルな態度をとってい
>たようですので、バラモンたちに教えを説くときは彼らの語彙を使用することに躊
>躇を感じなかったのでしょう。
そのような想像で語っても意味は無い。原始仏典郡より、引用されよ。

958 :名無しさん@1周年:01/08/30 01:28 ID:QcTeSshY
>223さん
>>954
>>> 伝承やドグマに拠らぬ、現在の自己の洞察と、現前の事象
>>> の観察による智慧の獲得をブッダは説きました。
>> 同意するが、真のバラモン教の否定にはならないが。
> バラモン神学のドグマとの訣別と考えます。
それが真実のバラモン教である。なぜ判らないか?

>>内容については同意するが、奥義自体の否定にはならない。
> それではブッダの教説の「奥義」とは?またそれが存在する根拠をお示し願います
>か。直感も結構ですが、それを裏付ける明晰な論証をお願いします。仏教ではこう
>した要素が非常に重要だと考えます。
これは、釈迦の教えの奥義の事ではない。宗教全般についての事である。

> 一切の事象が例外なく流動しつつ、原因と条件に依存して生じては滅するという
> 縁起説をその論理展開の根底に置く仏教と、何らかの絶対者の実在を設定し、そこ
> から何物かが流れ出てくると主張するバラモン神学とでは、思想的な分岐点が明瞭
> に存在します。
ここは、非常に重要なところである!
その絶対者の想定であるが、何も『無い』と考えるのか???
これは、非常に重要な質問であり、宗教の合一の要である!

> バラモン思想に不可欠な形而上学や神秘主義の思想的基盤に対し、ブッダは一貫
>して批判を加えています。実証や論証不可能な命題に対しては思考から排除すると
>いうすぐれて科学的な態度をもって・・・。(もっとも中期大乗以降、仏教もバラモン
>化してしまいますが。ーー;)
何度も言うように、それは真のバラモン思想の特徴ではない。人々が
それを好むのである。であるから、大乗仏教のバラモン化でもない。

>> そして現在でも、同じ過ちを我々は犯しているのであるが。(爆笑)
> あなたも形而上学的思想を放擲しておられますか?
宗教は、形而上学の王様である!お分かりか?(笑)

959 :黒海老:01/08/30 01:31 ID:qspNqiKw
>>955
>> 「祭祀の中では火への供養が最上」と言ったのは結い髪の行者ケーニヤであって釈迦ではありません。
>これを言ったのは、釈迦であると書いてある。もう一度確認されよ。

そうでした。見間違いでした、すいません。
ただし「釈迦は言った」という散文の部分は、ずっと後になって創られたことに注意してください。
ここで言われている内容は、釈迦の説法と言うよりは詩的表現が強いものです。
いかにも詩の結びとして用いられそうな賛美ですよね。
思いつくままに述べられた言葉であり、「王は人間のうちでは最上の者である。」などと
王を特に優れた人間と考えなかった釈迦の思想と反します。
のみならず、註でも明らかなようにこれらの詩句は、諸文献に散見されるものですので、
恐らく、結びの言葉としてよく用いられていたのでしょう。
ですからやはり、これをもって火への祭祀を説いたとは考え難いのです。

960 :黒海老:01/08/30 02:44 ID:qspNqiKw
>>955
あなたが言う「行為によってバラモンになる」と言うのは「行為によってバラモンに生まれる」という話なのか
それとも「行為によってバラモンと呼ばれる」という話なのかどちらですか?
『ヴァーセッタ』の章を見ると、明らかに後者のことを言っていますよね。
「人間は生まれによる区別は無い」「修行者として立派な『行為』をしている人はバラモンである」という話ですから。
>>949ではその事を確認していたのです。

それから、>>948>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
と言うのはどういう意味ですか?
「来た」とは、どこからどこに来たのですか?

961 :名無しさん@1周年:01/08/31 00:47 ID:SOw4t1ss
ヨハナン・ベン・ザッカイさん(元140さん)
は愛想を尽かしてしまったのでしょうか?

962 :名無しさん@1周年:01/08/31 01:15 ID:AGc7NhOY
>>959 >黒海老さん
> 思いつくままに述べられた言葉であり、「王は人間のうちでは最上の者である。」などと
> 王を特に優れた人間と考えなかった釈迦の思想と反します。
王族が優れていると言う文章は一応ある。
サンユッタ・ニカーヤ 第Y篇・第二章・第一節

> のみならず、註でも明らかなようにこれらの詩句は、諸文献に散見されるものですので、
> 恐らく、結びの言葉としてよく用いられていたのでしょう。
> ですからやはり、これをもって火への祭祀を説いたとは考え難いのです。
最古の経典に書いてある文章を、簡単に否定するべきではないと思う。

釈迦は、賢者・聖者には、祭祀などは無意味であると説くのであるが、
そうでない者達には、血生臭い祭祀や、無意味な祭祀を否定し、
その中では最上の火の祭祀を説くのであろう。所詮、人々は祭祀を捨てない
のであるから、最上の火の祭祀を勧めるのが、得策ではないだろうか?

また、現在の日本でも祭りだらけであるし、たしか高野山や比叡山でも
火を焚いていると思われる。釈迦は全ての人々の教師であり、人々の心情を
よく理解して、各々に説き分けたのであろう。

963 :名無しさん@1周年:01/08/31 01:31 ID:AGc7NhOY
>>960 >黒海老さん
> あなたが言う「行為によってバラモンになる」と言うのは「行為によってバラモンに生まれる」という話なのか
> それとも「行為によってバラモンと呼ばれる」という話なのかどちらですか?
> 『ヴァーセッタ』の章を見ると、明らかに後者のことを言っていますよね。
これは申し訳ない。カーストがまだ正常に機能していた頃の話しと、
錯綜してしまった。正常なら、両方とも正しい事になる。

釈迦の頃は、もはや混乱しているので、正確に反映していないので
あろう。また、カーストが正常であったとしても、聖者・賢者は
当然、行為によりバラモンと呼ぶ、と言うであろう。しかしながら、
良い家に生れるには?という問いに釈迦は、現世の功徳を勧めている。

これは推測であるが、上に書いたように、バラモンより王族が上と
いうのは、もしかするとカーストの混乱が関係しているかもしれない。
バラモンが血塗られたために、おかしくなったのであろうか?
釈迦の教師であった迦葉仏は、バラモンであるのに、釈迦が
クシャトリアであるのは、何か意味があるのかもれない。

> それから、>>948>人は、最近来た者あれば、大昔に来た者もある。
> と言うのはどういう意味ですか?
> 「来た」とは、どこからどこに来たのですか?
これは、人はどこから来て、どこへ行くのであろうか、と言う文章から
引用したにすぎない。

964 :むもん:01/08/31 06:38 ID:EAw2KJZI

婆羅門教に『十不善業』に類する戒律はあったのでしょうか?
聖書にも『十戒』という戒律があるようですが。

965 :名無しさん@1周年:01/08/31 23:55 ID:yrFL49CA
>>964
> 婆羅門教に『十不善業』に類する戒律はあったのでしょうか?
> 聖書にも『十戒』という戒律があるようですが。
たぶんウポーサタ(八斎戒)の八戒ではないだろうか。

966 :223:01/09/01 11:07 ID:A9rCwcAU
>>957
大慌てで整理します^^;
@生贄の問題
 バラモンの供犠に「贖罪」の意味はなく、ヴェーダの神々に捧げ物をすることで
所願成就を祈念するという目的の下に祭祀を行ない、のちには祭式そのものによ
って神々や宇宙を支配できるようになると考えられました。キリスト教とは思想
的な背景が明らかに異質です。
Aブッダの教説とブラフマニズム
 インドの正統的な思想と明らかに異質な主張を、従来の語彙をそのまま用いて
説いています。バラモン(最も勝れた者)という呼称をブッダが用いるときに、ロ
ーカルな土俗信仰の語彙の解釈に拘ると、その思想的意義を見失う恐れがありま
す。原始仏典の随所に示されるバラモン思想とブッダの主張の思想的、論理的差
異を慎重に検討すれば両者の重要な相違点が明らかになるでしょう。
Bブラフマニズムとの思想的分岐点
 ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問題
に繋がる見解をどちらも排除してしまい、知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみ
を対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
開しました。「絶対者の想定」を否定したのではなく、その有無を追及する形而上
学自体を否定し去ったのだと考えます。このような反証不可能命題が無限に製造
されるだけの空理空論からの訣別ないしは解脱を遂げたわけです。形而上的存在
を思考から捨象する宗教(?)の誕生です。

*宗教が「形而上学の王様」ならば、仏教が宗教である必要もなくなりますかね(笑)

967 :放浪者:01/09/01 13:40 ID:4BK0W6Bs
>>966
>ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
>するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問
>題に繋がる見解をどちらも排除してしまい

議論を排除したにすぎない。

>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、
>ニルヴァーナに至るという教説を展開しました。

よい師につき、戒を守って真面目に瞑想していれば、意識が肉体という枠組みを外れ
て広がっていく(膨張ではなく、流れ出す感じ)という経験をするのはそんなに難し
くないだろう。空無辺のごく初歩の初歩の初歩か。

968 :名無しさん@1周年:01/09/01 14:51 ID:OBfkgCN2
>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
開しました

思索・思考で「解脱」できるなら、戒律も禅定も不要ですから、単なる「哲学」でしかない。
一方、「解脱」は宗教的命題だから、仏教は宗教と判断できる。
そうすると、上記言明は、矛盾した判断が含意されていることになる。

「知的作業」の延長上には「解脱」は無い。という結論になる。

969 :むもん:01/09/02 06:46 ID:6V3KGKkY
>>966
>>知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみを対象に洞察と思索を重ねることによって、ニル
>>ヴァーナに至るという教説を展開しました。「

これが「無常・苦・空・非我」の観察ですね。
−−『無常』を観察すると『苦』であることがわかる『苦』を観察すると『空』であること
がわかる『空』を観察すると『非我』であることがわかる。−−
これこそまさに阿含経の真髄ですね。

970 :名無しさん@1周年:01/09/02 07:41 ID:F4cUqZ8Q
>>966 >223さん
> @生贄の問題
>  バラモンの供犠に「贖罪」の意味はなく、ヴェーダの神々に捧げ物をすることで
> 所願成就を祈念するという目的の下に祭祀を行ない、のちには祭式そのものによ
> って神々や宇宙を支配できるようになると考えられました。キリスト教とは思想
> 的な背景が明らかに異質です。
バラモンの生け贄について肯定などしていない。また、それは識者も非難している、
と仏典に書いてあるように、釈迦が言い始めた事ではない。
私は、神によって規定された生け贄があり、その最後がイエスではなかろうか、
と言ったのである。

> Aブッダの教説とブラフマニズム
>  インドの正統的な思想と明らかに異質な主張を、従来の語彙をそのまま用いて
> 説いています。バラモン(最も勝れた者)という呼称をブッダが用いるときに、ロ
> ーカルな土俗信仰の語彙の解釈に拘ると、その思想的意義を見失う恐れがありま
> す。原始仏典の随所に示されるバラモン思想とブッダの主張の思想的、論理的差
> 異を慎重に検討すれば両者の重要な相違点が明らかになるでしょう。
釈迦の説いた教えは、その昔、バラモンであった迦葉仏の教えと同じである。
正しい教えは、太古から存在している。

971 :名無しさん@1周年:01/09/02 07:53 ID:F4cUqZ8Q
>>966 >223さん
> Bブラフマニズムとの思想的分岐点
>  ブラフマニズムの基盤というべき形而上的学説を、ブッダは不必要として放擲
> するのみならず、常見(アートマン説など)や断見(唯物論)という形而上学的問題
> に繋がる見解をどちらも排除してしまい、知覚・認識・経験・観察出来うる事象のみ
> を対象に洞察と思索を重ねることによって、ニルヴァーナに至るという教説を展
> 開しました。
そのような事は、原始仏典郡には出ていない!
貪欲と憎悪を滅ぼし尽くして、ニルヴァーナに至るのである。

> 開しました。「絶対者の想定」を否定したのではなく、その有無を追及する形而上
> 学自体を否定し去ったのだと考えます。このような反証不可能命題が無限に製造
> されるだけの空理空論からの訣別ないしは解脱を遂げたわけです。形而上的存在
> を思考から捨象する宗教(?)の誕生です。
それは悟れば出来るのであり、それ故に仏陀と言うのである。上にも書いたが、
これは古来からの『道』であり、別に新しい宗教が誕生したわけではない。

> *宗教が「形而上学の王様」ならば、仏教が宗教である必要もなくなりますかね(笑)
ニルヴァーナを語ることが、形而上学で無いとでも言うのであろうか?
自らが形而上学的な議論をしている事に、なぜ気がつかない?

972 :黒海老:01/09/02 13:49 ID:GzkoPGc2
>>964-965
八斎戒は仏教の戒律です。
『ブッダのことば』中村元註釈より

…前掲の五戒にさらに三つの戒を加えて、八斎戒とし、ウポーサタ(布薩)の儀礼の際に
まもるべきであるという規定が古くから成立していた(スッタニパータ401)。
ところで最初期の仏教はバラモンの行なうウポーサタは不必要であると考えていた。
それよりも内心を清らかならしめればよい。
古い詩句では「きよらかな人には常にウポーサタがある」(マッジマ・ニカーヤ)といい、
漢訳では「何ぞ布薩を以てせむ」とある(『雑阿含経』第四十四巻、大正蔵、二巻、三二一貢中、
異訳では「もし人の心が真に浄らかならば、戒を具え、常に布薩するなり」とある。)
だからバラモン教を批判していた段階における仏教はウポーサタを排斥していたわけであるが、
この習俗が一般民衆のあいだに根強く残っているのを見ると、むしろこの習俗を換骨奪胎して
利用するほうが好都合だと考えるようになった。
ところで最初期の仏典においては次のように言う、―「(1)生き物を害してはならぬ。
(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。
(5)淫事である不浄の行ないを離れよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。(7)花かざりを着けてはならぬ。
芳香を用いてはならぬ。(8)地上に敷いた床にのみ臥すべし。これこそ実に八つの部分より成るウポーサタ(斎戒)
であるといって、苦しみを終滅した仏が宣言したもうたのである」(スッタニパータ、アングッタラ・ニカーヤ)。
この八つに、さらに「演劇・歌舞・舞楽・観覧物を見ることを禁止すること」と「金銀を受けるのを禁止すること」
とを加えると、紗弥の十種の学処となる(宇井伯寿『印度哲学研究』)

続く…

973 :黒海老:01/09/02 13:49 ID:GzkoPGc2
…続き

八つの戒の内容は必ずしも一定していなかったらしい。他方では、「殺さず」「盗まず」「嘘を言わず」の三つに、
主として人間関係に即する五つの徳目を付加して八つにまとめることもなされた。或る資産家に対して
ゴータマブッダは「すぐれた人の身の処しかた」(ariyassa vinaya)における「八つの定め」を説いている。
この八つを表に示すと次のごとくである。(1)生命を傷つけない(2)真実のことば
(3)与えられたもののみを取る(=盗まない)(4)かげ口を言わぬ(5)貪らぬ(6)非難・暴言をしない
(7)怒り悩まさない(8)高ぶらない。ここに挙げられた八つの徳目は、面倒な人間のつき合いに関するものばかりで、
高度に社会的である。
よって世俗人に対する戒めのまとめかたは必ずしも一定していないが、非常に厳粛な道徳的実践をめざしていることが、
それらの戒めの立てかたから、容易に看取することができる。
そうしてウポーサタに八斎戒をまもるという定型は、最初期の仏教においては必ずしもまだ行なわれていなかったらしい。
十五日のウポーサタにおいて、まもるべき戒めとして本書第153−163詩に説かれていることは、雑然としている。
そこで説かれている諸徳のうち若干をとり上げ、それにさらに若干の戒めを付加して、八斎戒の体系が成立したのであろう。

974 :黒海老:01/09/02 15:10 ID:QaZXsqSE
>>971
形而上学的問題とは以下の[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]の事でしょう。
これらの問いに対して「有る」と言っても「無い」と言ってもどちらの見解も
「独断に陥っているものであり」「涅槃に役立たない」のであるから、
それよりも「修行によって現実の苦を滅することが大切である」と言うのでしょう。
これを指して「形而上学的問題を排した」と言うのなら間違いではないと思います。

>>512‐513 223さんのカキコから拝借
「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があ
ってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また
人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活
が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は
死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないと
いう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。」
                       (中部経典:毒箭経)
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるか
どうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]
に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩み
をともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、
涅槃に役立たない。」
                         (中部経典72)

975 :基主義。:01/09/02 15:12 ID:glinjlKY
まぁ結局の所、基教はパリサイなどの立法主義者を本質的には嫌っているし、
仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。

976 :名無しさん@1周年:01/09/02 15:52 ID:TRQCQRa.
>>975
>仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。

仏教は、釈迦が実現した、正覚/涅槃と呼ばれる状況を、
自分自身の上に、自力で実現する為に生まれたものです。
くしくも、上のカキコであるように、
「それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」
ので、そういう役立たない事はするべきではない、として釈迦が事有るごとに皆に諭していった。
それを集めたものが、「戒律」としてまとまったのです。

ですから、「戒律で縛るのを基本とする宗教」と見えますが、
「涅槃、という目標に到達する為に障害となる、様々な心の動きを、うまく制御する為の助言集」
と考えていただくと良いかと思います。

977 :名無しさん@1周年:01/09/02 17:29 ID:DYxAz6iY
死んだら終わりのはずがない、そんな事があってはならない。輪廻は有る。なぜなら自己が永遠である為には死んだら終わりでは困るから。
神通は有る。なぜなら前世を思い出したりできないと前世の俺が困るから。不滅のアートマンは有る。なぜなら自己が永遠であるためには何か永遠不滅のものがないといけないから。
解脱することで自己とアートマンは一体となる。なぜなら自己が永遠でないと困るから。

978 :むもん:01/09/02 19:13 ID:ui5q3Hw6
>>976
その通りだと思いますね。
鼻の頭に心を置いて鼻の頭のことしか考えないでおこうとする時、それは3分と
持ちませんね。次々と色々な想念が起きる。これが欲望。
だから、離欲して、欲望から厭離して、欲望を滅尽して、心が寂静にならなけれ
ばならない。そうすることによって神通力が現れる。そして、正覚を得、涅槃に
至るというわけ。

979 :名無しさん@1周年:01/09/02 23:49 ID:4Yb363Yo
どなたか、新しいスレッドを作っていただけないか?

980 :名無しさん@1周年 :01/09/03 01:03 ID:OZ5tgI5I
新スレッド立てたよ〜

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=999446418

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