5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

親鸞仏教を問う(L)

1 :渡海 難( p1242-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/11 08:50
 「親鸞仏教の正当性を問う」から始めた教行信証論の続きです。
 「総序」と「教の巻」が終わっていますので、以後、「行の巻」を論議していきたいと思います。とりあえず、「経巻部」の完結を目標とします。
 議論が立ち往生する可能性もありますが(苦笑)、活発に議論参加してくださる方が出現してくださると嬉しいです。

2 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

3 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

4 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

5 :来賓挨拶:01/09/11 18:03
と と と・う・み とうみの なんは〜

ね ね ね〜んぶつ な〜む と〜うみ な・ん

とうみの ね〜んぶつ な〜む と・う・み・な・ん

      渡海難氏の本スレでの活躍を心よりお祈り申し上げます

6 :来賓挨拶:01/09/11 18:08
渡海難先生のすぐれた検証に期待しております。

私たちも、是非、渡海難先生のもとで、次のような念仏に関わる
多様なテーマを検証していきたいと思います。

   娑婆世界 即 浄土 の立場をとるのか?
   娑婆即浄土の立場か? あくまで現実以外に存在する想像上の浄土をとる立場か?
   法蔵菩薩の18願における例外(五逆者、正法誹謗者)をどうとらえるか?
   八熱地獄を信じるのか?
   空也が民衆に布教した意義をどうとらえるか?
   良忍の念仏行はすべての行に通ずるというのは本当か?
   仏法と王法が互いに依存し助け合う新国家仏教を求めた伝教大師最澄
  の立場をどうとらえるか?
   貧しい者、愚かな者に往生の望みをとげさせるための弥陀の本願を
  どうとらえるか?
   法然は流罪後、異端・破戒を非難しているが、念仏に破戒という概念は自己矛盾では
  ないか?
   法主の破門権は、免罪符と同じではないか? 真宗は生き神信仰か?
  飢饉・戦乱の時代でないと念仏ははやらないのではないか?念仏の宗派が
  教団拡大しようとすることは、社会の混乱を暗に願っているのではないか?

渡海難先生の本スレでの活躍を期待し、挨拶にかえさせていただきます。

7 :ペペ2号:01/09/11 18:26
>>6
 まともな議論を期待しちゃダメだよ。
 渡海教の経典には「天上天下 唯我独裁」(2chは俺の独裁で動いている掲示板であり、これに歯向かう者はすべてお坊さんという意味だそうな)と書いてあるからね。
 奴のカキコパターンを例によってまたコピペするからそれを読んでから議論してくれ。

8 :名無しさん@1周年:01/09/11 18:33
>>5-6
場の空気が読めない人がいるようですね。
渡海難と言う人物がどういうものかわかってますか?
少しはこのスレを読んでからカキコしてくださいよ。→http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=997002274

また、皮肉であろうがなかろうが、>>5-6のようなレスをすると渡海難が調子に乗ります。
そうすると、宗教板全体に迷惑をかけることにが考えられます。
以後、渡海難をおだてるようなカキコは、厳に慎んでもらいたいです。

9 :ペペ2号:01/09/11 18:39
 改訂版・渡海難のカキコパターンだ。
 これを渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げる。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエーションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

10 :ペペ2号:01/09/11 18:42
>>9
スマソ。<(_ _)>

>これを渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。(誤)
渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。(正)

11 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

12 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

13 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

14 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

15 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

16 :渡海 難( p0115-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/11 20:19
顕浄土真実行文類二 諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行
顕浄土真実行文類二 謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

 親鸞は、教行信証の「行の巻」を「顕浄土真実行文類」と命名している。「顕浄土真実」とは、「顕浄土方便」という概念と対になる。
「顕浄土方便」という言葉は化身土巻の標題にある言葉だ。教行信証で親鸞は、浄土というものを明らかにしようとしているようだ。浄土は、真実と方便という二つの概念で明らかにすべきものだ。親鸞の姿勢が見えてくる。
 教行信証は、「教・行・信・証・真仏土・化身土」という六巻部で構成されている。その内、親鸞は「教・行・信・証・真仏土」の五巻について「真実」という言葉を配し、「化身土」について「方便」という概念を適用する。
 真実・方便のこの配し方は妥当か?。私よれば、「教・行・信・証・真仏土」の五巻では観念の世界が語られ、「化身土」の議論に、私には実体的具体性を感じてならない。
親鸞においては、我々が観念と思うものを真実と捉え、我々が実体と捉えるものを観念と捉えるのか。そんな感じがしてきてならない。私は、自分の感触と親鸞の感触に対照的なものを感じているということに注目しておきたい。

 仏教とは教育学習論である。これが私の仮説だ。生徒は先生に学び、先生は生徒を教える。学ぶ行為と教しえる行為とは方向が正反対である。
学ぶ行為とは、知識経験の無い生徒が真理に向かって行こうとする行為だ。教えるとは、真理を得た者が、真理を背にして知識経験の無い者の中に分け入ろうとする行為だ。
真理に向かう方向を親鸞は往相とよぶ。知識経験の無い者の中に分け入ろうとする方向を還相という。
親鸞は、学習論の中に教・行・信・証を立て、その内の行すなわち行為論を行の巻きで議論する。

17 :渡海 難( p3125-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/11 20:43
>>6 名前:来賓挨拶
>渡海難先生

 ま、冗談とは分かっていますが、「先生」という言葉は止めませんか。僕は自分が名指しされている感じがしないんですよ(苦笑)。

>娑婆世界 即 浄土 の立場をとるのか? …

 こういう議論は、いずれ触れることになると思いますが、直接言及するという議論形体になるかどうかは分かりません。
 18願は信の巻きで議論することになると思います。地獄論は、もし触れることになると化身土巻だと思います。行の巻きではあくまで十七願と「大行」を巡る議論になると思います。
 親鸞仏教では、親鸞以後の先人が十分に答えてない問題が多数あります。そのうちの幾つかは、できるだけ議論していきたいと思っています。

18 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

19 :×君:01/09/12 09:50
渡海難さん 初めまして。
浄土真宗の門徒です(熱心な門徒ではないですが)
単純?といいますか勉強してる方は笑うような質問をしたいのですが
いいのですか?難しい回答は困るのでが・・。

20 :2ch宗教板自治会:01/09/12 10:06
>>19 X君へ。
渡海の相手になってはいけません。荒れる原因になります。
そもそも彼とまともに議論は出来ません。
放置することをおすすめします。
詳しくはhttp://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=997002274をお読みください。

<参考資料>
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/one.htm参照)
・HP http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。

21 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

22 :祝電披露:01/09/12 14:05
会員X、会員Yも登場するようですので、祝電披露です。

渡海大師へ

 親鸞仏教パートVの立宗、おめでとうございます。
 他のスレッドを害さず、反渡海大師の法難・テロに屈さず、
渡海大師の解釈をご披露していただければさいわいです。

会員Y 

23 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

24 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

25 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

26 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

27 :余興:01/09/12 17:13
渡海上人 様

  と〜うみ と〜うみ す〜れの な〜かの と〜うみは〜

  い〜つ い〜つ 荒〜れ〜る

  よあ〜けの〜 ば〜んに

  真宗坊さん かきこんだ〜

  渡海の 相手は だ〜れだ

荒らされないようご注意もうしあげます。

28 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

29 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

30 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

31 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

32 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

33 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

34 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

35 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

36 :渡海 難( p0691-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/12 21:37
>往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

 教行信証の本論に深く入る前に、親鸞特有の因果論を理解しておく必要がある。
 因果論というのは、善因善果、悪因悪果という考えだ。善果は善因からのみもたらされる。悪因は悪果しかもたらさない。親鸞はこの考えをかなり厳密に扱っている。
 因果には、縁の介在する因果と、縁の介在しない因果がある。例えば、誕生期があったものは必ず減衰期があり、消滅期がある。誕生期があったものだけど、縁が幸いして減衰期も消滅期もない。こういうものはない。
 減衰期、消滅期のあるものは、必ず誕生期があった。誕生期の無いものが、縁が介在して減衰、消滅したということはありえない。
 しかし、同じように誕生し、同じように育てられた双子だけど、一方は金持ちになり、他方は窮乏すると言うこともある。これは縁による。
 水は上から下に流れる。しかし、川の水は嵐に出会うと河口から川上に向かうことがある。どんな川にも誕生期がある。誕生期のあった川は、変貌期があり、消滅期もあるだろう。そして川の水は川下から川上に向かうこともある。
それなら、水は下から上に流れると言っていいのか。たとえ、川の水が遡上することはあっても、水は下から上に流れると言うことは誤りだろう。なぜなら、水は上から下に流れるというこのあり方には、誕生期はない。だから変貌期もない、消滅期もない。
 川の水は嵐という縁によって、流れを変える。しかし、水は上から下に流れるというのは、水の本質に着眼した考えだ。ものの本質論は縁に左右されない。

37 :渡海 難( p0691-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/12 21:39
 縁の介在しない因果論はものの本質に着眼した考えであり、縁の介在する因果論は現象に着眼した因果論と言っていいだろう。一方は金持ちになり、他方は窮乏する。豊になるか貧しくなるか、これは人生における一時現象的問題だ。
人間の本質は、生・老病・死していく存在である。生・老病・死していく存在であるというありかたには縁の介在する余地はない。縁が介在したために不死身になるということはありえない。どんな薬が発明されても、不老不死になることはないだろう。
 縁の介在する因果は迷いの因果。縁の介在しない因果は真実の因果。僕はそう呼びたい。
 親鸞仏教は、ものごとの本質に着眼する。救われるのか救われないのかという問題は、我々の本質に着眼した議論である。縁が介在する議論ではない。本質には、始めもなければ終わりもない。変貌もない。
 悟りは真実である。真実とは本質に着眼した議論だ。真実には始めもなければ終わりもない。変貌はない。我々が真実の悟りを得るということつまり仏果を得るとすれば、それは仏因つまり真実の因によらないといけない。
 つまり、仏が仏になっていくという因果の流れに乗託しなければならない。この問題は、もっと説明しないと分かりにくい。じっくり議論しないと本論に入れない。

38 :渡海 難( p0691-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/12 21:54
>>19
>笑うような質問をしたいのですがいいのですか?

 どうぞ。どうぞ。僕でよかったら分かる範囲で答えますよ。僕に分からないことでも、2CHにはたくさん専門家がいる。みなさんが答えてくれるでしょう。

>難しい回答は困るのでが・・。
    <難しいことは僕にも分からない(笑)。>

39 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

40 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

41 :名無しさん@1周年:01/09/12 22:22
ほんとにヒマだねー上の人
お前犯罪者じゃねーのか?

42 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

43 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

44 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

45 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

46 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

47 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

48 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

49 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

50 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

51 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

52 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

53 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

54 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

55 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

56 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

57 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

58 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

59 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

60 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

61 :名無しさん@1周年:01/09/13 21:04
渡海難聖人 様

>仏が仏になっていくという因果の流れに乗託しなければならない。

浄土に生まれて、そこで修行して仏になるんですか?

62 :渡海 難( p2192-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/13 21:18
 真実の果は真実の因から生じる。迷いの因は迷いの果をもたらす。真実の因は必ず真実の果をもたらす。縁が介在する余地はない。親鸞の因果論にはそのような考えがあるようだ。
 仏果は仏因から生じる。我々に救いがあるとするなら、仏が仏になっていく流れに乗託して始めて具体化する。アウトラインで親鸞の考えを言うなら、そんな言い方になるのだろう。
 もう少し具体的に説明しよう。私が仮説的に言えば、親鸞は、真理そのものに人格を認め、人格としての真理の救済活動に乗託して始めて救われていくという考えを採るようだ。
 真理は人格である。バスにナイフをもって乗り込み、乗客を殺して運転手を脅迫する少年の言葉に、心理学者・精神医学者はひたすら耳を傾ける。
 科学者は花に生命の起源を学び、画家は美の神髄を学ぶ。実にあらゆるものが様々に教えてくれている。
 真理は、自らを求める者に喜びを付与し、多くの苦難の克服を可能にし、多くの苦難の克服したものに自らの姿を顕わにし、そのものに先駆者としての栄誉を与える。
 我々にとっての最大の教育者は真理そのものである。
 真理には、傑出した教育者としての意思と行動力がある。親鸞は、真理のそのもののあり方に、二千年、三千年昔の釈尊と同体の人格すなわち、釈尊と同一の意思と行動を認めるのだろう。

63 :渡海 難( p2192-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/13 21:19
 釈尊先生は、王家に生まれ、王位を捨てて出家され、三十五の時に十二因縁の法理を見いだされた。祇園精舎を建設し、学則を定めて人類で最初の全寮制の学校事業を開始されて多くの賢者を育てた。
 大無量寿経は、小乗仏教(基礎教育)を終えた若者が釈尊のような教育者を目指すにあたって、その道順を示す。王位を捨てた一人の修行者法蔵菩薩が教育者阿弥陀仏になっていく課程を示している。
 阿弥陀仏は、釈迦がモデルだ。阿弥陀仏は、極楽浄土という学校を創る。極楽浄土のモデルは、無論、祇園精舎である。真理の意思と行動が釈迦に重なるなら。真理の教育活動の根は、釈迦の教育活動の根と本質は同一のはずである。
 釈迦の教育活動は、修行者としての釈迦(因)が大乗の仏釈迦(果)に成っていくその因果の課程の中で実現されてきた。そう考えれば、釈迦をモデルに描かれた大無量寿経の阿弥陀と極楽物語は、人格としての真理が実践する教育活動と重なってくる。
 我々が真理に目覚めていく課程は、真理を目覚ましてくる人格としての真理そのものの教育活動の因果に符合する。真理の因果は人格上でどのように流れ、我々を目覚まし来るのか。真理の人格で流れる因果のあり方を親鸞は大無量寿経に求めていく。

64 :渡海 難( p0196-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/13 22:50
 どうも分かりにくいようですので付加します。

訂正前  修行者としての釈迦(因)が大乗の仏釈迦(果)に成っていくその因果の課程

訂正後  修行者としての釈迦(真実因 仏因)が大乗の仏釈迦(真実果 仏果)に成っていくその因果の課程


 <これで分かってもらえますか(苦笑)。分からないと言う意見がでてくればもう少し工夫します。そうでなければ、次ぎに議論を進めます>  

65 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

66 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

67 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

68 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

69 :69:01/09/14 00:34
このスレッドは68を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

70 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

71 :名無しさん@1周年:01/09/14 07:48
渡海難大権現 様

あのさ〜、浄土に生まれてそこで仏になるっていうんでしょー
現代は、戦乱や飢饉で野垂れ死にする人がうじゃうじゃいた
鎌倉期とは違って、浄土みたいなものだよねー

だったら、家が浄土経系だったら、現代こそ仏になる修行
するべきなんじゃないの? 現代日本で、死後の極楽浄土求める
奴は、念仏教徒じゃないよね。破門だね。

現代で、念仏すれば浄土に生まれて救われるなんて言ってる
坊さんは、いらないよ。あまいよ。飢えに苦しむアフリカとか
行って布教してこいよ、そういう奴は。そこで、現代の
日本人が極楽往生願う甘さを知ってこいよ。

まー、座禅念仏すすめている渡海難も同罪かな?
現代の念仏者が、自力で仏になる行をせずして、18願なんか
実現するわけないよ。

現代日本で念仏して浄土に生まれようとしている念仏者は
嘘つきだよ。いんちきだよ。カルトだよ。渡海だよ。

72 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

73 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

74 :名無しさん@1周年:01/09/14 12:27
渡海難 大明神 様

75 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

76 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

77 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

78 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

79 :渡海 難( p3038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/15 11:46
 どうもうまく説明できていない。親鸞の考えをもう一度仮説的に述べてみたい。
 真理は拡散する。拡散する前も拡散した後も真理は普遍的に真理である(久遠実成性)。拡散した前も拡散した後も善である。真理は、一人によって認識され、二人、三人に認識されていく。真理の本質的拡散により、認識した人が一人、二人、三人と救われていく。
 救われていくとは、真理を知っていくつまり迷わなくなるということだ。真理の本質的一方向的動きに拡散性がある。逆行はない。ここに因果がある。
 一人によって認識され、二人、三人に認識されていく。一人に認識させ、二人、三人に次々と認識させていく。
 仏教の善因善果は、自分の悪因を磨いて善果を得るというものではない。真理の善因善果(拡散性)を拡散性に求め、そこに意思と行動性を観念する。
 ニュートンを例にとる。彼はどのようにして救われたか。この場合の救いとは、真理を認識するということである。物理法則すなわち、「万有引力の法則を認識する」ということに譬える。
 ものが落ちるという現象は、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、アルキメデスも、孔子様も見ていた。

80 :渡海 難( p3038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/15 11:48
 しかし、ニュートン以前には、誰一人万有引力の法則に気づいていない。ニュートンが始めて気付いた。万有引力の法則は、ニュートンを奮い立たせ、夢中にさせ、様々な苦難を克服させ、偉大な物理学者に育てていった。
 ここに万有引力の法則の人格的な作用を観念できる。ニュートンの発見以後、多くの人々に認識されていく。
 偉大な物理学者に育てようとする万有引力の法則それ自体の働きは、過去の全ての賢人にも平等に働いていたはずであると考える。それに呼応したのはニュートンがはじめてだろう。
 ニュートンが呼応した契機や動機(縁)にはいくつか原因があるだろう。なんらかの契機や動機があってニュートンが呼応した。しかし、ニュートンの契機や動機づけ自体にも、万有引力の法則それ自体の人格的な働きが様々に作用(縁)していたと観念できる。
 真理は、人格性を具してニュートンの前に現れ(因)、教育者として作用することで、やがてニュートンを偉大な物理学者に育て、その姿をニュートンの意識に届け(法則発見)、その姿を明確なものにした(果)。
 釈尊先生は王宮に生まれた。先生は王宮では何ら不自由ない生活をしておられたが、王宮内に留まる限り何ら人々に対して働きはなかっただろう。
 先生は、いったん仮に教育者(善因)として作用することで人々を教え育て、やがて人々に幸福を実現し、大乗の仏(善果)に戻っていかれた。人々は、先生の善因善果に乗じて育てられていった(善果)。
 親鸞は、真理の人格的教育性、拡散性に釈尊先生と同質の人格性を認め、釈尊先生をモデルに描いた阿弥陀物語から、真理の姿を認識していく。これが親鸞仏教だ。

81 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

82 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

83 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

84 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

85 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

86 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

87 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

88 :名無しさん@1周年:01/09/15 15:30
>87

クソスレをむやみにあげないように!板全体が荒れる恐れがあります。
以後、sageでカキコしてください。

89 :2ch宗教板 渡海難駆除委員会:01/09/15 15:37
>>87は渡海信者です。
渡海を支持する者も、渡海と同様のカキコをします。
つまり、渡海を馬鹿にする者=坊主と言っています。
あるいは、渡海をヨイショする(応援する)カキコをします。

今後、このようなカキコをした者は全員「渡海信者」とみなし、ブラックリストに掲載します!
ひどい場合は武力行使をするかもしれませんので、そのつもりで。

90 :名無しさん@1周年:01/09/15 15:43
>ひどい場合は武力行使をするかもしれませんので、そのつもりで。

武力行使はやめたほうがいいと思われ。
板全体に迷惑をかけるだけ。
それよりも渡海難と渡海信者は完全放置したほうがいい。

91 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

92 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

93 :名無しさん@1周年:01/09/15 23:21
カンパのお願い
みなさまへ
渡海 難
平成12年2月

(1) 浄土通信維持のため、経済的な支援をしてくださる方を捜しています。
(2) 最近、浄土通信宛に掲示板、電子メールなどで多くの質問、問い合わせが送られてきます。当方はそれらにできるだけ迅速にお応えしようとしています。
(3) 質問の内容は親鸞仏教の本質に関わる問題が多く、回答に時間をとられています。
(4) 親鸞仏教を将来に向けて正しく語り伝えて行くことは、多少なりともそれを聞きかじってきた者の喜びであり、また責任と考えています。
(5) こちらは自由業とは言え、家族を抱えた生活があります

94 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

95 :名無しさん@1周年:01/09/15 23:27
名前:渡海 難( p3038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 投稿日:01/09/15 11:55
>>351 名前:渡海 難さん、頑張れ

 折角ですが、2CHでカンパのお願いをするつもりはありません。
 私のホームページからのカンパのお願いのコピペは、どうかご遠慮下さい。

96 :名無しさん@1周年:01/09/16 09:16
渡海難教授 様

 わたしは、あみだ幼稚園浄土組の園児です。かたし教授にお手紙します。
お手紙は、幼稚園の かんのん先生に代わりに書いてもらってます。

 質問があります。

 科学的探求精神が人格化するというのはわかるのですが、
個々の法則が人格をもつとはどういうことですか?
 よくわかりません。

 苦をなくしたいという精神が、人格化して阿弥陀如来となって
現れるのではないですか?

 かたし教授の投稿は、いつも幼稚園で話題になっています。

 精神の健康に気をつけてがんばってください。法華組や華厳組や
あごん組みのみんなも注目しています。

 かたし先生はあみだ幼稚園のヒーローです。 さようなら。

97 :名無しさん@1周年:01/09/16 09:41
>96

お前は皮肉か?それとも本当に渡海ビリーバーか?
糞スレ上げるなって言ってるだろ、ボケ!

98 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:17
>>96
>教授       <?? 苦笑>

>個々の法則が人格をもつとはどういうことですか?よくわかりません。

 個々の法則が人格をもつということじゃないんです。万有引力の法則とか、オームの法則とかいうものがまずあるんだとか、それが人格を持つんだということじゃないんですよ。

 真理は本質的に拡散性があるということ。拡散させようという意思と拡散させる行動力を観念できる。意思と行動力が観念できれば、これは人格として観念できるではないかということです。
 真理は拡散性を持つ。真理の拡散性向は誰にも止めることができない。権力者は、知識人弾圧でそのスピードを減速させることはできても、いったん拡散した真理を前の縮小段階に戻すことはできない。
 「太陽が回っていると思え」と裁判官に命令された人が、判決後、「やっぱり地球は回っている」とつぶやいたという話は有名です。(史実かどうかは知りません。)

99 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:18
 岩波文庫の末尾に、創立者岩波茂雄の言葉が載っています。
 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつて民を愚民ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されることがあった。
 いまや知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取なる民衆の切実なる要求である。…」
 真理の拡散性向に不撓不屈の精神と行動力を認識し、これを人格として観念してみよう。その不撓不屈の精神と行動力は、釈尊先生の精神と行動力に重なるじゃないか。これが親鸞の仮説だろうと僕は思うんです。
 真理は、拡散後も拡散前も真理なんです。物と物は引き合うという原理は、ニュートンが発見しても発見しなくても真理なんです。
 ところが、その法則にニュートンが気付くと、その内容は王立委員会で発表され、スピードの速い遅いはあるでしょうが、世界中に拡散していきます。
 王立委員会で発表した人物はニュートンですが、ニュートンにそういう行動を採らせたのは、ニュートンに発表させないではおかなかった真理自体が具有する拡散性向そのものじゃないか。そう観念できるでしょう。
 真理認識の拡散は、誰も止めることができない。押しとどめることはできない。ここに、拡散性行のある真理自体の意思と行動力を観念できる。人格を認めることができるということです。

100 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:21
>苦をなくしたいという精神が、人格化して阿弥陀如来となって現れるのではないですか?

 苦とは何かということ。まずここを考えてみましょう。
 自分は苦しいとか苦しくないとか、苦には、主観的な意識の対象感覚としてのものがあると思います。借金に追われて苦しいとか、病気の痛さに耐えられなくて苦しいとか、全てこれは苦です。
 でも、借金苦は返済できれば解決されます。痛さの苦は病気が治癒すれば解決されます。一時的な苦です。
 一時的な主観的な苦の解決も非常に大切ですが、仏教が視野に入れている苦とは、一時的な苦の背後にある本質的な苦だと思います。
 一億円の宝くじが当たって有頂天になっていれば、それを苦と思う人は少ないでしょう。でも、仏教は、有頂天自体にも苦という概念を適用してきます。
 鬼の心で鬼の行動を採る者を鬼と言います。ケダモノの心でケダモノの行動を採る者をケダモノと言います。
 昨日まで有頂天でいた者が、今日は鬼畜となり、やがて地獄に堕ちていく。地獄の底で慚愧して真人間に戻ったのもつかの間、再びケダモノになっていく。意思と行動が変われば人格が変わります。人格が変われば、変化の一つ一つの節目に挫折と再起があります。
 再起(生)・衰退(老病)・挫折(死)の繰り返し、これを本質的な苦と考えているんだと思います。
 苦をなくすとはどういうことか。苦をなくすとは、再起(生)・衰退(老病)・挫折(死)の繰り返しを断つということです。繰り返しを断つとはその原因を無くすということです。
 苦の原因は何か。釈尊先生は、原因に無明という概念を立ててきます。釈尊先生が立てられた無明という概念は、恐らく現代語で言う無知という言葉に一番近いんでしょう。
 しかし、無知という言葉が、知的という範囲に概念が限定されるとするとすると、それよりはもう少し深い感じがします。

101 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:25
 本当の事が分かっていない。本質が分かっていない。だから、一時の感情で有頂天になり、鬼にもなり、ケダモノにもなる。ものごとの本質が分かってくれば、有頂天にもならない。
 鬼にもならない。ケダモノにもならない。冷静に物事を見極めることがことができるようになる。釈尊先生はそう考えられたのでしょう。
 本質的なものを知っていこう、見極めていこう。釈尊先生はそう提案された。
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」

 自分自身の無知に気付くということは、「互いに教え合おう、学び合おう」という提案に賛同するということでもあるんでしょう。親鸞は、教行信証の末尾に安楽集を引用しています。仏教の本質を明確にしている言葉だと思っています。
 実にあらゆるものが我々に向かって様々に真実を語ってくれています(真理の拡散性向)。我々に向かって真実を語ってくれているということは、我々の無知を目ざまそうとしてくれているということでしょう。
 ニュートンに万有引力の法則を気づかせた働きも、万有引力の法則を知らないニュートンの無知を破り、万有引力の法則を知らない万民の無知を打破していこう、苦を打破していこうという真理の自体の働きではなかったか。
 親鸞はそんな仮説を立てているんでしょうね。

102 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:35
 渡海 難のカキコだけ読めればいいという方のために(リンク案内)。

>>16, >>36-37, >>62-63, >>79-80, >>98-101 

103 :渡海 難( p2168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 13:43
>>102
 忘れていました。リンク追加。
 >>17,>>64

104 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

105 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

106 :名無しさん@1周年:01/09/16 18:37
ほとんどあぼーんされてる。
これは渡海信者によるテロ行為だ!

107 :名無しさん@1周年:01/09/16 19:49
>>125-133

紛らわしい。。。

108 :名無しさん@1周年:01/09/16 21:29
>>136-144

きゃ〜、いやらしい。。。

109 :名無しさん@1周年:01/09/16 21:58
>>146-154

うわぁ〜、すてき。。。

110 :名無しさん@1周年:01/09/16 22:26
何かの記録を樹立しようとしているのか?

111 : :01/09/16 22:44
南無阿弥陀仏    

112 :名無しさん@1周年:01/09/16 23:03
念仏大学 渡海難 名誉教授 様へ

 こんにちは。阿弥陀幼稚園浄土組の園児です。またお手紙します。 かんのん先生に代わりに
書いてもらってます。

 かたし先生は、真理が拡散すると考えるのですか? 真理は誰にでも受け入れられるということ
ですか? 真理が主体となって広がっていくと考えるのでしょうか?

 真理自体に意思と行動力があるのでしょうか? 真理を得た人は真理を伝えざるをえないという
ように真理の客体としての性質でしょうか?

 というより真理自体に意思と行動力があるとすると、どのような苦を救済できるのでしょうか?
法華組のひとが批判していました。

 かたし先生の話は、話題を提供してくれるので、みんな楽しく読んでます。

 荒らしにきをつけて、がんばってください。さようなら。

113 :名無しさん@一周年:01/09/16 23:10
いま、疹乱会の活動家連中は、アメリカ逝ってるようだから、やはり、荒らしは
叛癌寺の坊主どもか?

114 :名無しさん@一周年:01/09/16 23:13
>>186

どちらのカルト宗教の方ですか?

115 :名無しさん@1周年:01/09/16 23:29
>>186

荒らすのは、疹乱会か叛癌寺の坊主どもだという発想しかないのですね。

あなたもカルトでしょ!

116 :渡海 難( p0641-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 23:38
 少し議論を進めます。
 往相の回向について大行あり。大信あり。親鸞はそう言う。
 「往相の回向」とは教育・学習論の中の学習論の部と言っていいだろう。学習とは、知識経験が未熟な者が、真理を求めていく行為を言う。学習論について大行あり、大信あり。これはどういうことか?。
 こういう問題は、阿弥陀仏のモデルとなった釈尊先生のあり方に戻って考えるのが親鸞仏教の原則である。
 かつて釈尊先生は、王宮に生まれ、何不自由ない生活をすごされていた。やがてそうした幸せと王位とを捨てられると、苦しみの溢れた人々の中に分け入られる。
 人民の苦しみの中で出家され、修行という形で人々に代わって苦しみを引き受けられ(代受苦)、人々に代わって十二因縁の法理を悟られた。
 やがて祇園精舎を建設され、自らが認識された内容を人々が容易に認識できるよう、認識に至る手段を説かれた。認識できるような手段を行という。人々は、先生の修行論を通じて釈尊先生の不屈の心を知り(信)、修行の中から先生の認識内容を体得していく(証)。
 釈尊先生の教育・学習論論は、そのまま、阿弥陀仏にシフトして考える。阿弥陀仏とは、人格的に捉えた真理そのものである。
 人格で捉えた真理は、釈尊先生と同質の意思と行動を持ている。そう考えるのが親鸞仏教の原則である。
 真理に向かうに当たり、釈尊先生はお弟子さん達に、方法論を説いた。そうであれば、人格で捉えた真理すなわち阿弥陀仏も、人々に真理に向かう方法論を説いているはずである。
 その方法論は何か。阿弥陀仏が説いている修行論を親鸞は大行と名付ける。
 釈尊先生のお弟子さん達は、先生から示された方法論を実践する中で、先生の心を感じていく。阿弥陀仏の方法論を実践すれば阿弥陀仏の心が感じられてくる。見えてくる。見えてくる阿弥陀仏の心を、親鸞は大信と名付ける。

117 :名無しさん@1周年:01/09/16 23:40
少し議論を進めます。

118 :名無し:01/09/16 23:41
>>186

おまえ 渡海難 だろ!!

119 :渡海 難( p0641-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/16 23:43
渡海 難のカキコだけ読めればいいという方のために(リンク案内)。

>>16-17, >>36-37, >>62-64, >>79-80, >>98-101, >>189

120 :名無しさん@1周年:01/09/16 23:54
それでは、少し議論を進めます。

121 :名無しさん@1周年:01/09/17 08:35
極楽浄土もこの世と変わらないんだね。仏を目指す努力をしないと同じだよね。

122 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

123 :名無しさん@1周年:01/09/17 13:39
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=237&to=237&nofirst=true

テロ犯人のカキコ

237 名前:名無しさん :01/09/16 13:49 ID:rZ/2XUrk
レス削除をお願いします。

親鸞仏教を問う(V)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825
 2‐4,11‐13,15,18,21,23‐26,28‐35,39‐40,42,45‐60,65‐70,72‐73,75‐78
 81,83‐87,91‐92,

4. 投稿目的による削除対象 レス・発言
  議論を妨げる煽り
  不必要に差別の意図をもった発言
  第三者を不快にする暴言や排他的馴れ合い
  同一の内容を複数行書いたもの
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 レス・発言
  スレッドの趣旨から外れすぎ、議論または会話が成立しないほどの状態になった場合
  故意にスレッドの運営・成長を妨害していると判断した場合
6. 連続投稿・重複
  ■連続投稿・コピー&ペースト
   連続投稿で利用者の会話を害しているもの
   個々の内容に違いがあっても、荒らしを目的としていると判断したもの
   コピー&ペーストやテンプレートの存在するもの
   ・全く変更されていない
   ・一部のみの変更で内容の変わらないもの
   ・スレッドの趣旨と違うもの
   ・不快感を与えるのが目的なもの
   ・荒らしの意図がある
  ■アスキーアート
   必然性がない

# ガイドラインに掠る程度のレスも含めています。ご吟味の上、削除をお願いします。

124 :渡海 難( p5074-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/17 19:38
>>112
>真理が拡散すると考えるのですか? 真理は誰にでも受け入れられるということですか? 真理が主体となって広がっていくと考えるのでしょうか?

 真理が拡散すると考えてもいい。拡散しないと考えてもいい。真理は誰にでも受け入れられると考えてもいい。真理は誰にも受け入れられないと考えてもいい。真理が主体となって広がっていくと考えてもいい。真理が主体となっては広がっていかないと考えてもいい。
 難しい事じゃないんですよ。ものごとを多面的に考えよう。これが要点です。複眼的にフレキシブルに考えてみようじゃないか。視点の置き所を増やしていこう。そういうことなんです。
 視点の置き所を増やせば、見ている対象は同じでもいろいろと見え方が変わってくる。拡散するとも見えるし、拡散しないとも見える。誰にでも受け入れられるとも見えるし、誰にも受け入れられないとも見える。
視点視点の違いで見え方が違う。一つにこだわることは止めよう。ある視点での見え方に沿って活動してきて、困ったら視点を変えようじゃないか。別の方向から見たら形が違うんだから、そこから改めて考えよう。そう言うことです。
 真理は拡散しないという議論の立場もあるでしょう。もともと真理などは無いという主張も可能でしょう。みんな視点が違うんですよ。その中で、真理は自ずから拡散していくと見えていくそういう立場を親鸞は、数ある中の視点の一つとして提案している。
親鸞の提案に賛成するか反対するか、それはそれぞれの人の自由です。従来の視点を廃止しなさいなどと言っているわけじゃない。ある一つの視点を持っている人には、視点の数を二つにしませんかと勧める。二つ持っている人には三つにしませんか、と勧める。そういうことです。

125 :渡海 難( p2205-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/17 19:39
>真理自体に意思と行動力があるのでしょうか?

 そうですね。「意思と行動力がある」そのようにだって観念できるでしょう。そういうことです。
 意思なんか無い。行動なんかあるわけない。そういう考えはとても大事な考えです。「意思もある。行動力もある」。そういう考えより、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない。」という考えの方が本当は大事なんです。
人生の恐らく99.9%の場面では、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えでいかないと不便です。ところが、「意思もある。行動力もある」という考えで考えた方が便利な場合がある。
「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えだけでは行き詰まることがある。そういうことがある。だったら、0.01%の場面で通用する考え方も忘れずに持っておこう。親鸞はフレキシブルに提案しているんですよ。
 「意思もある。行動力もある」という考えで、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えを置き換え、「意思もある。行動力もある」という考えで一本化するなんてことは愚かなことです。
そう言う人は人生のあらゆるところでつまずくでしょう。狂信的カルト信者が人生を誤るのはそういう場合だと思います。

126 :渡海 難( p2205-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/17 19:40
>真理を得た人は真理を伝えざるをえないというように真理の客体としての性質でしょうか?

 真理を人格で捉え、救済の主体と考えれば、我々は真理の客体となるでしょう。
 例えば親鸞は機の深心という概念を立ててきます。機は器(うつわ)という意味でしょうね。自分の器量を正確に知るということでしょう。器(うつわ)とは、法というボールが飛び込んでくるグローブのようなものでしょう。
 真理を伝えざるをえなくなるかどうか、これはグローブの質によりますね。直球が飛び込んできて、それをソフトに受けられるグローブもあれば、突き指を招くようなグローブもある。突き指を招くようなグローブではすぐに投げ返せない。
急いで治療しなければなりませんから、投げ返すどころじゃない。真理を伝えざるをえなくなるかどうかは器の質が大きく影響します。
 伝えざるをえなくなる衝動に駆られる人がいても、一概には言えない。屈折した心理でそういう衝動に駆られる人もいるかも知れない。
しかし、本質的に真理は、人をそういう衝動に駆りたてるものだろうと思います。本質はそうでも、本質はなかなか外見に現れにくい。外見で一概に判断することはできないでしょう。

127 :渡海 難( p2205-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/17 19:42
>どのような苦を救済できるのでしょうか?

 結論を急がないでください。これからじっくり進めていきます。化身土巻末が重要です。

>法華組のひとが批判していました。
   なるほど(微笑)

>かたし先生の話は、話題を提供してくれるので、みんな楽しく読んでます。
    <うれしいです。>

>荒らしにきをつけて、がんばってください。さようなら。
    <微笑>

128 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

129 : :01/09/17 19:45
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

130 :名無しさん@1周年:01/09/17 19:52

                   「(聞新日朝) 日八月五年八和昭)しよてつ逝海渡」
  (場合會想假)板示掲トツネアタンヰるな「(都亰東)るぬんやち弐」 ,壱者疑難海渡
                     。りて建(場し話)ドツレスそくの有曾未今古に
,けヾつをみ込き書ぬらだくに板示掲上/\(ちにひま)日毎ずかつもに職定は海渡
   。りて建分自にひつ、ずらたきあもふ買を(ふよしふよち)笑嘲の間人の圍週
        ずれさらすみ込き書の笑嘲(くよきつけ)局結、足不駒はで海渡しかし
       。りせま勵を分自で分自もくなけ情に前直のそ、がるるさ「き逝トツダ」
     。るゐ用を法邪るば呼「げあ」にうやるるさらさに目の人とざわ時のこたま

       ,府内宮れらけ掛も(ぎうや)疑容の反違法持維安治、罪敬不はに海渡
                         。み込見るるさも及追のらか察警高特
     。りせ話と「しべぬ死く潔は難もふ思くし悲を末始不の子息」は親母の海渡

                                             :説社
                     は人をふらやかばなうや海渡の(ひかんこ)囘今
                         。りせにかばてつ云と「ンチリド」「厨夏」
                       。しなは値價くいてき生ばれ陥にとこなうやのこ
                      。ずらなもに較比のと人鮮朝・人州滿やはも

                                     衛平十田山:者記

131 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

132 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

133 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

134 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:06
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=240&to=240&nofirst=true

渡海信者のテロふたたび

240 名前:名無しさん :01/09/16 23:06 ID:z7n0n5JU
【透明あぼーん】をお願いします。
宗教板名物、サゲ荒らしのスレ潰しです。(爆)
レス削除はテロで、テロに対する正義の報復とでも思ってるのでしょうか?
わけがわからん。
忘れた頃に相手したってください。


親鸞仏教を問う(V)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825
 105,135 (これは通常あぼーんで)
107-   (これは透明あぼーんで)
 107以降で削除対象外レス 106,134,145,155,165

4. 投稿目的による削除対象 レス・発言
  同一の内容を複数行書いたもの
6. 連続投稿・重複
  ■連続投稿・コピー&ペースト
   連続投稿で利用者の会話を害しているもの
  ■アスキーアート

# 後、シバキいれといたってください。


>>238 たもん君
ありがとねー。
お馬鹿ちゃんが暴れだした模様です。(稟   ( ̄ー ̄)ニヤリ
これも宗教板の文化水準だったりして、、(哀

135 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

136 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:30
 『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした希有の書である。それはその根底に深く抒情を湛えた芸術作品でさへある。
実に親鸞のどの著述に接してもわれわれを先ず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
 しかしながら、親鸞の宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤である。宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。
 親鸞の文章には到る処懺悔がある。同時にそこには到る処讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じてゐる。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。
しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。内面性とは何であるか。内面性とは空虚な主観性ではく、却って最も客観的な肉体的ともいひ得る充実である。
超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。

137 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:31
こちらの寺院に聞法歴ウン十年のおばあちゃんたちが、お参りに、お話を聞きにおいでます。
その時、口々におっしゃいますことは「(我が身を)しらせてもらう」「(仏の恩を)よろこばせてもらう」の二つに集約されるようです。
私は、「二種深信」とはこの二つの言葉に込められている事柄だと思っています。

138 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
 ちなみに、私は基本的に「人はだれもがほとけさま」だと思っています。
特別の修行も経験もいらない。ならば、宗教になにか役割がありうるのかといえば、それは、それぞれの心に言葉を与えてくれることだと思います。
心の内を言葉を使って様々に話し合う。他者との違いを認め、己を再び見つめる。それを真宗では「談合」ともうしてまいりました。
今は、あまりいい意味で使われませんがね(笑) ですから宗教用語の使い方の間違いを指摘されることがよくありますが、それはホントは本末転倒だと思うことが、度々あります。
その方がなにを課題として発言していらっしゃるのかを、考えなくてはいけないんでしょうね。私も、人のことは全く言えませんがネ(笑)

139 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
 私も、「二種深信(機の深信と法の深信)」がなんなのか、まだ見えていません。
三木清さんの「懺悔と讃歎」なのか。あるいは「絶望と歓喜」とおっしゃっている方もいらしゃいます。
ひよっとして不安定に分裂させられた自己なのか。
 ただ、おばあちゃんたちには追いつきたいなあと、常々思っています。
 親鸞には無常の思想がない。その限りにおいても彼の思想を厭世主義と考へることはできない。

140 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:34
 親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている。
自己は単に無常であるのではない。煩悩の具はざることのない凡夫、あらゆる罪を作りつつある悪人である。
親鸞は自己を愚禿と号した。「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」といつてゐる。承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあつた。
親鸞もその一人として僧侶の資格を奪はれて越後の国府に流された。
かくして、すでに僧にあらず、しかしまた世の生業につかぬゆゑ俗にあらず、かくして禿の字をもつて姓とする親鸞である。
しかも彼はこれに愚の字を加えて自己の号としたのである。愚は愚痴である。すでに禿の字はもと破戒を意味してゐる。
かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであつて、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。
外には悟りすましたやうに見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。
すべては無常と感じつつも、これに執着して尽きることがない。
それが人間なのである。弥陀の本願はかかる罪深き人間の救済であることを聞信してゐる。

141 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
 罪悪の意識は如何なる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。
機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。
自覚とは単に我れが我れを知るということではない。我れはいかにして我れを知ることができるか。
我が我れを知るという場合、知る我れと知られる我れとの分裂がなければならず、かやうに分裂した我れは、その知られる我れとして全体的でなく却って部分的でなければならぬ。
従ってその場合、自覚的な我れよりもむしろ主客未分の、従って無意識的な、無自覚的な我れが、従って知的な、人間的な我れよりも、実践的な、動物的な我れが却って全体的な我れでもあるとも云い得るであらう。

142 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
 『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとつてまことにふさはしい教えである。
時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。

143 :名無しさん@一周年:01/09/17 20:36
それでは、少し議論を進めます。

144 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:38
ちょっと、待ってください。
ここで、いったんコマーシャル逝きます。

145 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

146 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

147 :名無しさん@一周年:01/09/17 20:41
それでは、再開します。

148 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:42
 人間性の自覚は親鸞において歴史の自覚と密接に結び附いている。
彼の歴史的自覚はいわゆる末法思想を基礎としている。
末法思想にはいうまでもなく仏教の歴史観である正像末三時の思想に属している。
 この正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観にほかならない。
 時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救いがたい悪世であることを意識させた。
しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史観である。
正像末三時の教説は歴史の現在の現実においてその真理性の証明を与えられている。
 もとより親鸞は末法の教説において時代に対する単に客観的な批判を見出したのではない。

149 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:43
 親鸞にとって正像末の教説は、単に時代に対する批判であるのみではなく、むしろなによりも自己自身に対する厳しい批判を意味した。
批判されているのは自己の外部、自己の周囲ではなく、却って自己自身である。
「浄土真宗に帰すれども、、真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と彼はかなしみなげくのである。
自己を「底下の凡愚」と自覚した彼は十六首からなる『愚禿悲歎述懐』を作ったが、我々はこれが『正像末和讃』の一部分であることに注意しなければならぬ。
すなわち彼は時代において自己を自覚し、自己において時代を自覚したのである。
 いかにしても罪の離れがたいことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものではなく、何か超越的な根拠を有することを思はずにはいられない。
この超越的根拠を示すものが末法の思想である。

150 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:45
 末代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、却って「無戒」である。
『末法燈明記』には次の如くいはれている。

「しかればすなわち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。
もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。
かるがゆえに大集にいはく、仏涅槃ののち無戒くににみたんと」

 無戒者は無自覚者である。「非僧非俗」と称した親鸞は自己の身において無戒名字の比丘を見た。
そして非僧非俗の親鸞は自ら「愚禿」と名乗ったのである。彼は「愚が中の極愚、狂が中の極狂、尽禿の有情、底下の最澄」といった伝教大師の言葉に深い共鳴を感じた。
 無戒はいかにして自覚的になるのであるか。無戒の根拠を自覚することによってである。
しかるにこの根拠は正像末の歴史観にほかならない。無戒という状態の成立の根拠は末法時であるといふことである。
しかるに末法の自覚は必然的に正法時の自覚を喚び起す。これによって正像末の歴史観が成立する。そして正法時の回想は自己が末法に属する悲しさをいよいよ深く自覚させるのである。

151 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:46
 しかも正法時を回想するにしてもそしてかにもこれに合致しようとするにしても、自己が末法に属することはいかにもなし難い。
「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん」といふ和讃は、この意を詠じたものであるであろう。
無戒が破戒以下であることが自覚されねばならぬ。
 聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞において末法の歴史的自覚に基づいて行われ、これによつてこの転換は徹底され純化されたのである。
『教行信証』化身土巻における三願転入の自督に続いて正像末の歴史観か叙述されているといふことは、この歴史観に基づく自覚が三願転入の根拠であることを示すものと考えなければならぬ。
三願転入といふ三願において、第十九願すなはち修諸功徳の願は自力の諸善万行によって往生せんとするものとして持戒の時である正法時に、
第二十願は念仏といふ他力で、しかし自力の念仏によって往生せんとするものとして正法と末法との中間にある像法時に、また第十八願は絶対他力として末法時に相応するといふことができるであらう。

152 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:47
 親鸞は他力教の絶対性を先ず、それが釈尊の本懐教「出世の本懐」であることを示すことによって明らかにしようとした。
釈迦出世の本意と知れとは親鸞における内面の叫びであった。
 釈迦一代の説法はその種類極めて多く、八万四千の法門があるといはれるが、これら多種多様の説法をもつひに大無量寿経を説くためであり、弥陀の本願の教えにとって他のすべては仮のもの、方便のものに過ぎないのである。
釈迦の「出世の大事」は限りない慈愛をもって衆生を救わんがために弥陀の慈悲の教えを説くためであったのである。
この教のみが真実の教である。「如来興世の正説」である。しかもこの絶対的真理の開示は我々において歴史的なものとして受け取られなければならぬ。

153 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:48
 第二に、この教の絶対性はその永遠性によって知られる。
「信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。」
と親鸞はいっている。
すなわち自力の教はただ釈迦在世及び滅後五百年間の衆生の機根のすぐれた時代にのみ相応する教であって、像法、末法という機根の劣った時代には相応しない教であるのに反して、
他力の教は在世正法、像法末法及び法滅の時代にわたって煩悩に汚され悪業に繋がれる人々を一様に大慈悲をもって誘引し給う教である。

154 :名無しさん@1周年:01/09/17 20:48
 しかるに第三に、この教にかかる絶対性、すなはち歴史を離れるのではなく却って歴史の中において歴史を貫く絶対性は、その伝統性において認められる。
親鸞はこの伝統をインドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空の7人の祖師において見た。彼は「高僧和讃」を作ってこれら七祖を讃詠したのである。
釈迦の出世の本懐の教である弥陀の本願の教は処と時を隔てたこれらの高僧によって次第に開顕されてきたのである。この伝統はこの法の絶対性を示すものである。
 正像末の歴史観は浄土教史観とまさに表裏をなしていることが知られる。

155 :名無しさん@一周年:01/09/17 20:50
ではここで、いったんコマーシャル逝きます。

156 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

157 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

158 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

159 :名無しさん@一周年:01/09/17 20:58
それでは、再開します。

160 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:01
ここからは、私に書かせてください。

 三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。
しかしながらその故をもって、これを純粋に法理的に解釈しようとすることは誤りである。
この文は率直に受け取る者にとっては疑ひもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白である。
弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。
この証しは、この真理が我々の生の現実に深く相応するといふこと、この現実を最もよく解き明かすといふことによって知られる。
法と機、真理と現実、永遠なものと歴史的なものとの一致、この不思議な一致こそ我々をして弥陀の本願をいよいよ仰信せしめるものである。

161 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:03
 宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であったりしてはならぬ。
宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。
もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ。客観性はあらゆる真理の基本的な微表である。親鸞の宗教はしばしば体験の宗教と称せられている。
かく見ることは或る意味においては正しい。宗教的体験の本質は内面性であり、親鸞の宗教は仏教のうち恐らく最も内面的であることを特徴としている。
しかし体験はそれ自身としては主観的なもの、心理的なものを意味している。
したがって体験の宗教といふことは主観主義、心理主義に陥ることになり、宗教は真理であるといふ根本的な認識を失わせることになり易いのである。
真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。もとより宗教的真理の客観性は物理的客観性ではない。
その客観性は経において与えられている。経とは仏説の言葉である。信仰といふものは単に主観的なもの、心理的なものではなく、経の言葉といふ超越的なものに関係している。

162 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:03
「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」と親鸞はいっている。経は釈尊の説いた言葉であり、その真実性は釈尊の自証に基づくのである。
しかし釈尊は歴史的人物であるとすれば、その言葉はいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。仏教における聖道門は釈尊を理想とする。
それは釈尊によって自証された法を自己自身において自証しようと努力する。経の言葉はそれ自身として絶対性を有しない。かくしてそれは宗教であるよりも道徳乃哲学であることに傾くのである。
聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈尊を超越した教である。
親鸞は真実の教である「大無量寿経」について、「如来の本願をとくを経の宗致とす、すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」といっている。
弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いはば言葉の言葉である。
この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものであることを証し、その超越性を顕すのである。
本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗致とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくの如き経として「大無量寿経」は真実の教あるのである。

163 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:05
しかしこの超越的真理は単に超越的なものとして止まる限り真実の教ではあり得ない。
真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。
宗教的真理は、哲学者のいふが如き、あらゆる現実を超越してそれ自身のうちに安らふ普遍的妥当性の如きものであることができぬ。
それはそれ自身のうちに現実への関係を含まなければならぬ。
弥陀の本願はかくの如き現実への関係において普遍性を含んでいる。
それは、「十方衆生」の普遍性である。すなはち第十八,十九,二十の三つの重要な願はいづれも「十方衆生」という語を含んでいる。
十方衆生といふ現実の普遍性への関係は、本願において、後天的に附けくはつてくるのではなく、却ってもともと本願のうちに内在するのである。
したがって本願の普遍性は単に経験的普遍性ではなく、先天的な超越的な普遍性である。
普遍性は真理の基本的な微表であるが、単に経験的な普遍性は真の普遍性であることができぬ。
しかしまた単に超越的な普遍性は現実との関係を欠いて真の普遍性の意義を有しない。
本願の普遍性はかくの如き抽象的な普遍性ではなく、十方衆生の普遍性をそれ自身のうちに含んで、現実的普遍性への傾動をそれ自身のうちに含んでいる。

164 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:06
 しかしながら、十方衆生の普遍性もなほ抽象的である。
宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題である。
理論の有限も論理の透徹も、その教法が自己を救うものであるか否かという切実な問いの前には、何らの権威も有しない。
自己は十方衆生のうちに含まれると考えられる。
しかし単にかく考えられる自己は類概念の一つの例としての自己に過ぎず、生きた真に現実的な自己ではない。
十方衆生はそれ自身としては類概念である。
宗教的真理は実存的真理、言い換えると、生ける、この現実の自己を救ふ真理でなければならぬ。
親鸞が求めた教法はまさにかくの如き実存的真理であったのである。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と「歎異抄」にいはれている。
彼は教えを単にその普遍性において見たのではないーそれは単に理論的な態度に過ぎないー彼はこれを絶えず自己の身にあてて考えたのである。

165 :名無しさん@2周年:01/09/17 21:07
「教行信証」において種々の経論を引いて諄々として教法を説き去り説き来る親鸞は、諸所において突如として転換していはゆる自督の文を記している。
この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃の如く我々の心を打つ。
今や彼は自己のかへって客観的普遍的な教法を自己のみにあてて考えたのである。
自督とは自己の了解するところをいふ。教法の真理性は自己において身証されるのでなければならぬ。
教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。
普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。
今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみづから信じた自己は人を教えて信じさせる。
いはゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。
このとき十方衆生はもはや類概念の如き抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。
それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。

166 :名無しさん@一周年:01/09/17 21:08
ではここで、いったんコマーシャル逝きます。

167 :渡海 難( p6168-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/17 21:10
 新手の荒らしだろうが、市販本からの勝手なコピーは著作権法に抵触するぞー。
 

168 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

169 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

170 :名無し:01/09/17 21:15
>>167

渡海念仏宗のテロ・コマーシャルが入ってしまいました。

171 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

172 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

173 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

174 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

175 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

176 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

177 :名無しさん@1周年:01/09/17 21:28
今から、およそ800年ほど昔のことです。
幼くして出家された親鸞聖人は、比叡山で20年間、仏道修業をされました。
29歳の時、比叡山を出て、京都の六角堂に100日間籠もり、
95日目に、聖徳太子の化身である救世(くぜ)観音の夢のお告げを受けて、
法然上人の他力の念仏の教えに入れられました。
越後から常陸へとわたられた聖人は、
夢告のとおりに多くの人々に念仏による教えを広め、
浄土真宗の開祖として慕われました。

178 :名無しさん@1周年:01/09/17 21:30
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします

179 :名無しさん@1周年:01/09/17 21:30
【このスレをご覧の皆様へ】

ご存知の通り、この駄スレは荒らされております。
しかしながら、荒らしの部分はあぼーんされます。
なぜならば、削除人によってこのスレがマークされているからです。
というよりはむしろ、一人の渡海難支持者が毎日のようにマークして削除依頼を出しているのです。
これがその1例です↓
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=237&to=237&nofirst=true
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=240&to=240&nofirst=true
したがって、いくら荒らしてもすぐに削除されるので無駄だということでしょう。
そこで、このスレは完全に放置する事をおすすめします。
毎日のように削除依頼を出す熱心な渡海信者がいる以上、やむをえないと思います。

なお、それでも荒らし続けたい方はどうぞご自由に。

180 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

181 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

182 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

183 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

184 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

185 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

186 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

187 :名無しさん@1周年:01/09/17 21:38
渡海さんへ。

なぜこのスレは荒らされるのでしょうか?
それは、あなたが嫌われているからです。

あなたは、過去にもいろいろなスレで自分独自の仏教説をカキコしていましたね。しかし、誰にも相手にされませんでしたね。
しかも、あなたは自分に対して反論する人間を勝手に「親鸞会」だの「お坊さん」だのと決めつけていましたね。さらに、人の揚げ足を取るような発言も繰り返していました。
つまり、あなた自身の行動によって2chの住民から嫌われているのです。
これは、「因果の道理」でも明らかなことです。
スレを荒らされているから相手にされている、すなわち自分は好かれていると決して勘違いしないで下さい。

はっきり言ってあなたは2chには向いていません。
あなたは2chに来る資格はありません。
というよりも、人とのコミュニケーション能力が著しく欠けています。
今のあなたの性格では、誰もついていけません。
ですから、もう一度自分を見つめなおして猛省してください。
そして、二度と2chには来ないでください。

さようなら渡海 難

188 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

189 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

190 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

191 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

192 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

193 :名無しさん@1周年:01/09/17 21:59
167 名前:渡海 難( p6168-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 投稿日:01/09/17 21:10
 新手の荒らしだろうが、市販本からの勝手なコピーは著作権法に抵触するぞー。

194 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

195 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

196 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

197 :名無しさん@1周年:01/09/17 22:03
>>193

荒らすな!
渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp)

198 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

199 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

200 :名無しさん@1周年:01/09/17 23:22
渡海難さまへ

提案ですが、メールマガジンを作ってはいかがでしょうか?
持論を大多数に発信するのには掲示板よりもメールマガジンが有利だと思います。
荒らしもありません。
なにせ読みたい人だけが読むのですから・・・。

他スレにて宣伝するほど御自分の発言を読んで頂きたいのでしたら是非お勧めします。
このように荒らしが発生するのも理由があってのことです。
あなたの発言を見たくもない人がいるのは確かでしょう。
ですから浄土通信メールマガジンのほうがすべてにおいていいと思うのですが。
どうでしょうか?

201 :名無しさん@1周年:01/09/18 01:50
351 名前:渡海 難さん、頑張れ 投稿日:01/09/15 10:43
 先生の一層のご活躍と親鸞仏教の興隆を願い、カンパをしましょう。

カンパのお願い
みなさまへ
渡海 難
平成12年2月

(1) 浄土通信維持のため、経済的な支援をしてくださる方を捜しています。
(2) 最近、浄土通信宛に掲示板、電子メールなどで多くの質問、問い合わせが送られてきます。当方はそれらにできるだけ迅速にお応えしようとしています。
(3) 質問の内容は親鸞仏教の本質に関わる問題が多く、回答に時間をとられています。
(4) 親鸞仏教を将来に向けて正しく語り伝えて行くことは、多少なりともそれを聞きかじってきた者の喜びであり、また責任と考えています。
(5) こちらは自由業とは言え、家族を抱えた生活があります

202 :名無しさん@1周年:01/09/18 01:51
352 名前:渡海 難さん、頑張れ 投稿日:01/09/15 10:46
(6) 浄土通信を今後も円滑に運営していくには、それなりの経済的
なバックボーンが必要になってきました。通信費だけでも相当の額にな
ります。
(7) 目安として、月一回、一口4000円を1口以上あるいは半口、
定期的あるいは不定期に、1ヶ月でも2ヶ月でもお送りくださる方がい
らしてくださるとまことに幸いです。
(8) もし、今後、ある程度のカンパをいただけるようになると、横
浜だけでなく、その他の地方でも浄土通信の「こんにちは会」が開ける
ようになります。
(9) カンパ金をお送りくださっても、何か特別に特典を差し上げる
ということはほとんど不可能です。それでも、渡海 難という人物は、
インターネットで多少なりとも親鸞仏教を正しく伝えている一人である
とご評価くださる方がいらっしゃると幸いです。渡海 難に今後も発言
させてみようとお思いくださって、お心ばかりでも応援くださると誠に
幸いです。
(10) 誠に恐縮ですが、浄土通信ライブラリーで平成九年以降の分は、
金額の多少に関わらず、カンパ金にご協力いただける旨のご連絡をくだ
さった方にのみパスワードをお知らせします。どなたにも広くお読みい
ただきたいのですが、経済問題はいかんともしがたく、御了解ください。
(11) 平成九年以前の浄土通信ライブラリー、及び親鸞の思想と教行
信証は、一応印刷不能になっております。カンパ金にご協力いただける
旨のご連絡をくださった方で御希望の方には、印刷可能のpdfファイ
ルをお送りします。
ご支援をくださった場合、必ず振り込み者名と電子メールアドレスをお
知らせください。
どちらかをご利用ください
送金先 さくら銀行 鶴見支店 普通預金口座
口座番号 572−6571166
名義 トウミ カタシ

送金先 郵便貯金
記号 10200 番号 86266201
名義 トウミ カタシ

203 :名無しさん@1周年:01/09/18 01:55
渡海 難さん
先日カンパ振り込みました。
確認してくださいね。

204 :名無しさん@1周年:01/09/18 02:06
>>200
メルマガ賛成。
このスレだってまともな議論ないもんね。
トウミも読みたい奴にだけ読んでもらえばいいんでないの?

トウミに質問。
1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。
2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。

あなたはどちらですか?
1ですか? 2ですか?

205 :名無しさん@1周年:01/09/18 06:24
荒らしが消え去ってから、考えるべきことだろうね。
少なくとも2chはある。
それを利用するのも、メルマガを使うのも、併用するのもよし。

荒らしが荒らすから、メルマガを使うべきってのは、
道理が通らないよ。

206 :名無しさん@1周年:01/09/18 08:42
渡海 難は自分のHPを持ってるんです。http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
しかし、2chにハマり過ぎて、彼はHPの管理を怠ってるんです。
メルマガもいいけど、そこのHPをちゃんと管理する事が先じゃないのかな?

あと、なぜこのスレが荒らされるのか?
それは渡海 難の日頃の言動に問題があるからじゃないのかな?
要するに人の意見に聞く耳を持たず、無理矢理自分の主張を押し付けているだけなんだよね。
挙句の果てには自分を攻撃する人を坊さん呼ばわりしたり、人の揚げ足を取ったりするし。
だからみんなから嫌われるんだよ!

207 :名無しさん@1周年:01/09/18 12:03
age

208 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

209 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

210 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

211 :名無しさん@1周年:01/09/18 16:19
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/one.htm参照)
・HP http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。

212 :名無しさん@1周年:01/09/18 17:55
>>205 ←渡海 難

213 :渡海 難( p4117-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/18 22:14
 大行あり、大信あり。

 親鸞仏教の特徴というのは、行が信に先行しているということだろう。信があり、信を前提にして行があるという思想ではない。行があり、行を前提にして信がある。
 行を前提にして信があるのか、信を前提にして行があるのか。歎異抄と教行信証とで考え方は正反対だ。歎異抄は、本願を信じ念仏を申す。信が先行して行がある。
 信を先行させて行があると考える場合と、行は信に先行していると考える場合とでは、思想の構造が違う。親鸞のお弟子さんが書いたと言われている歎異抄と、親鸞自身が書いた教行信証は、思想の骨格構造が違う。両者で思想の構造が違うということをまず認識しないといけない。
 教行信証が正しいか、歎異抄が正しいか。それは大きな問題ではない。特に我々のような在家の場合は、宗教として自分にとってはどちらの方が使い勝手がいいかということで考えればいい。宗教は使い勝手がいい方を選べばいい。
 我々在家にとって、宗教とは、所詮、人生を快適に過ごしていくための道具に過ぎない。人生を快適にしない宗教は悪い宗教、人生を快適にしてくれる宗教がいい宗教なのだ。宗教の奴隷になることほど愚かなことはない。
 世界選手権大会に向け、必死になって柔道の稽古に励む選手がいる。大会まで残りの期間はわずか。ひたすら稽古に励む。世界選手権に勝ち残れるかどうかは、大会が近づいてきたときの、その時点での練習あるのみ。そう信じて稽古に励む。
 大会が近づいてきたときには、練習あるのみという信が、激しい練習を支える。

214 :渡海 難( p4117-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/18 22:16
 七十歳、八十歳になっても、喜々として竹刀を握る剣士がいる。竹刀を握って相手と対面することが楽しくてたまらない。竹刀を握ると必ず何かを発見する。七十,八十にもなり、何十年間も竹刀を握ってきていたのに、ああそうだったのかとやはり発見がある。
 発見があると子供のように喜々とする。だからこそ、初心者にも深く頭を下げる。初心者以上に頭を下げる。こういう人は、行動から発見があり、発見から確信を貰う。
 どっちが大事か。人生の中では信を固めて行動することも大事だ。でも、これは長続きしない。
 期限を切った目標がハッキリしているときは、長続きしなくてもいい。期限まで続けばいい。そう言うときは信を固めて行動するのもいい。でも、喜々としながら竹刀を握る人にこそ、僕らは学ぶものが多そうだ。

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし

 予め疑い迷いの心があることは恐れるに足りない。確信が得られるかどうかは、やってみて発見があるかどうかに関わる。発見があるかどうかは、やってみないと分からない。でも、やってみれば必ず何かの発見があるだろう。発見はやってみないと分からない。
 信心は仏さんからの貰い物。下さる仏さんの胸三寸。いまはちょっと分かんないままにしておいてやろうと向こうさんが思えば、信心は貰えない。行者の方でやきもきしても始まらない。疑心自力の行者であれば、疑心自力の心そのままで称えたらいい。
 焦ることはない。称えていれば早晩信心などは届けられてくる。届けられてこなければ、それは向こうさんの都合と思えばいい。心配する必要はない。

215 :渡海 難( p4117-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/18 22:54
 渡海 難のカキコリンク
>>16-17, >>36-37, >>62-64, >>79-80, >>98-101, >>116, >>124-127
>>213-214

216 :名無しさん@1周年:01/09/18 23:13
渡海の例え話はわかりにくい。

217 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

218 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

219 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

220 :204:01/09/19 01:07
渡海 難さん

質問に答えて頂けませんでした。
もう一度質問です。

1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。
2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。

あなたはどちらですか?
1ですか?
2ですか?

221 :名無しさん@1周年:01/09/19 01:11
メルマガ作ったって購読するやつなんていないよ。

222 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

223 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

224 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

225 :名無しさん@1周年:01/09/19 16:10
【このスレをご覧の皆様へ】

ご存知の通り、この駄スレは荒らされております。
しかしながら、荒らしの部分はあぼーんされます。
なぜならば、削除人によってこのスレがマークされているからです。
というよりはむしろ、一人の渡海難支持者が毎日のようにマークして削除依頼を出しているのです。
これがその1例です↓
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=237&to=237&nofirst=true
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=240&to=240&nofirst=true
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=246&to=246&nofirst=true
したがって、いくら荒らしてもすぐに削除されるので無駄だということでしょう。
そこで、このスレは完全に放置する事をおすすめします。
毎日のように削除依頼を出す熱心な渡海信者がいる以上、やむをえないと思います。

なお、それでも荒らし続けたい方はどうぞご自由に。

226 :名無しさん@1周年:01/09/19 16:38
>>224
>荒らしの量が、会話の成立を妨げるぐらいに達したとき

会話なんて、はじめから成立していない!

227 :名無しさん@1周年:01/09/19 16:42

このスレには議論も会話もない。

渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) が、自説を書き連ねているだけだ。

228 :名無しさん@1周年:01/09/19 16:45

渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 以外の人に

このスレは、全く意味・意義はない。

229 :名無しさん@1周年:01/09/19 19:33
みなさんご存知のように9月11日アメリカで同時多発テロ
が発生し、多くの人命が無残にも奪われてしまいました。

そこでクリックするだけで募金できるサイトが存在すること
を知り、ここに紹介させていただきます。この運動に賛同し、
善意の輪を広げたいと思う方はこの文章をコピーし、2chの
あらゆるスレに貼ってください。一人の力では限度がありま
すので。2chのスレがこのコピーで埋まれば2chの存在価値
も見直されることでしょう。

http://www.donate-for-free.com/index_ja.asp?

230 :渡海 難( p2016-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/19 19:58
 2,3日、カキコできないと思います。

231 :名無しさん@1周年:01/09/19 20:36
どうも渡海信者がいるようでびっくりしました。
渡海の自作自演じゃないよね?

232 :名無しさん@1周年:01/09/19 20:37
他にも渡海の奇行を発見したら報告してください。

233 :名無しさん@1周年:01/09/19 20:39
>>231
>どうも渡海信者がいるようでびっくりしました。

渡海難を味方する人がちょっと増えましたね。
彼らは2ch宗教板の初心者で何も知らないようです。

234 :名無しさん@1周年:01/09/19 20:40
渡海難にイライラしているのは坊さんと親鸞会さんだけではないですよ。
渡海難はこのスレ以外には書き込まないでもらいたいです。

235 :名無し:01/09/19 20:41
早い話、「渡海難を相手にしちゃいけないよ」ってことでしょ?
渡海難は放置すればいいんだよ!

236 :名無しさん@一周年:01/09/19 20:50
渡海難はまともなコミュニケーションができない人物なんだろうな

237 :名無しさん@一周年:01/09/19 20:51
スレが荒れるのは渡海が元凶なんだよ。
それに気付よアホ渡海。

238 :204:01/09/20 01:47
>>230

なぜこんな簡単な質問に答えていただけないのでしょうか?
1か2かそれだけではないですか。
それとも2、3日も考えなければならんようなことですか?

239 :名無しさん@1周年:01/09/20 13:06
>>238=204さん、代わりにお答えしましょうか。
答えは「2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。」です。

今までの渡海のカキコを見てわかるとおり、渡海は自分にしか理解できないことばかり書いています。
意味不明な理論で、しかも例え話を交えて他人にも理解してもらえると思ってるようですがそれがなおさらわかりにくいんです。
従って「1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。」に該当するはずがありません。

240 :名無しさん@1周年:01/09/20 17:59
>>230
渡海難の頭はもちろん逝かれているけど、パソコンも逝かれたんだろ。

241 :名無しさん@1周年:01/09/22 12:32
>>214
渡海難 菩薩 さま

阿弥陀幼稚園の浄土組の園児です。かんのん先生に代わりに書いてもらっています。

心配する、しない、の話がありましたが、浄土に行けるか行けないかに
とらわれるな、という意味でしょうか?

浄土に行って、それから修行すればいいのだから、現世で修行できなくても
思いわずらうことはないのですよ、という意味でしょうか。

華厳組や法華組の人は、このあたりの浄土経の議論を聞いて、鼻で笑って
いるようです。

渡海難菩薩様の論法でひとあわ吹かせてやってください。

季節の変わり目ですが、頑張ってください。園児のみな応援しています。

さようなら。

242 :名無しさん@1周年:01/09/22 12:44
宗教板を荒らす渡海難をシめてやるッ!

麻原彰晃が見守る中、制裁は行われた。
既に渡海難の口には高森顕徹のサオがねじ込まれている。
「大作、ポアしたれ」
麻原がいうと、池田大作はブリーフから一物を取り出した。
ゆうに一尺はあろうかという巨大な業物に、渡海はぶるっと震えた。
しかし、その恐怖とは裏腹に〜いや、渡海にとってはその恐怖こそが
色欲を沸き立たせるものだったのかもしれないが〜渡海の花らっきょうの
ような小振りの一物は痛い程にそそり立っていた。
その「花らっきょう」の皮を一の会の中根繁が唇でちゅるんと器用に剥く。
中根の口中にアンモニア臭が広がる。
そして、池田の一尺竿が渡海の菊門にねじり込まれていく・…

カルト教団の馬鹿教祖によるド迫力の4Pファック。
まだ、幕が開いたにすぎない。
悦楽は、ここから始まる。夜はまだ終わらない…。

243 :渡海 難( p7016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/22 18:49
>>241
>心配する、しない、の話がありましたが、浄土に行けるか行けないかにとらわれるな、という意味でしょうか?

 >>214の末尾のことでしょうか?214の末尾はそういうつもりで書いたのではありません。
 極楽浄土に行くには信心が大事だ。先人はそう説いている。ところが自分はなかなか信じられない。信心が持てない。これでは大変だ。大変だ。もしこんな風に心配する心があるなら、そんな心配はいらないよということです。
 疑心自力の行者も大船に乗ったつもりで安心して念仏を称えていなさいよ。焦りなさんな。行を先行させれば、信心は仏さんの方で気が向いたときに後から下さる。心配はいらない。そういう意味です。

>浄土に行って、それから修行すればいいのだから、現世で修行できなくても思いわずらうことはないのですよ、という意味でしょうか。

 こういう風な意味で説かれている考えも古典には確かにあります。「今生に本願を信じて(かの土に渡り)、かの土にしてさとりをば開くと習い候ぞ」。これは歎異抄の言葉です。
 法というボールは、先方のグローブという器に合わせて投げられています。器を意識して語られているボールは、表面の形状より、内在する原理に着目して欲しい。器が違えば、表面の形状を議論してもほとんど意味がありません。
 親鸞仏教の原理は、曇鸞仏教と善導仏教のいわば折衷案です。折衷案と言っても、善導仏教自体が、曇鸞仏教批判から出てきている向きがある。曇鸞仏教と善導仏教は、水と油の関係がある。水と油を切って貼りあわせれば何が出来るか。
常識で考えれば無茶苦茶な議論です。無茶苦茶な議論の背後で、親鸞は、曇鸞仏教でもない善導仏教でもない、前人未踏の独創的な思想を展開している。親鸞独自の原理に着目しないと話はちんぷんかんぷんになる。

244 :渡海 難( p7016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/22 18:49
>華厳組や法華組の人は、このあたりの浄土経の議論を聞いて、鼻で笑っているようです。

 鼻で笑って貰えると光栄です。鼻も掛けられないよりは幸せです(笑)。

>ひとあわ吹かせてやってください。

 これは無理でしょう(苦笑)。
 僕は、事実上、華厳や法華を学ぶ機会がなかった。浄土論註は華厳の影響下にある。華厳や法華も、非常に尊敬すべき思想でしょう。そういう思想を学んでいる方を一泡ふかすなどと言うことは考えたこともない。関心を持っていただけると、それだけでこちらは光栄です。
 僕は華厳や法華を知らないけど、親鸞仏教は間違いなく面白い。そう信じています(微笑)。

245 :渡海 難( p1245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/23 09:35
大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。

 無碍光如来の名を称えること。親鸞はこれを大行とよぶ。歎異抄は言う。念仏は非行非善である、と。歎異抄と教行信証とは主張概念に相違があるのか。無いのか。これは一つの論点となる。
 名を称するとはどういうことか。阿弥陀仏の名は阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏ではない。名を称するとは、「阿弥陀仏」と称することか、「南無阿弥陀仏」と称することか。
 名を称することを親鸞は「行」という。そもそも行とは何なのか。名を称することが何故、「行」といえるのか。おそらくこの辺が問題になるだろう。
 非行であると歎異抄が言う根拠を考えよう。
 歎異抄は言う。わがはからいにて行ずるに非ざれば、非行という、と。つまり、計らって行う行為を「行」と言うなら、念仏行はそういう種類の行ではないと言うのだ。念仏は、自分が色々計らって行うそういう種類の行ではないということを歎異抄は言いたいのだろう。
 計らいとは何か。広辞苑は言う。「はからうこと、処置」。はからうとは何か。広辞苑は言う。「相談する。協議する。見当をつける。見はからう。うかがい見る。適当に処置する。さばく。手加減する。あんばいする」、と。
 自分勝手にあれこれ考えを巡らして行うような行為ではないと言うことだろう。何かを練習する。学習する。我々にはそういう場合がある。その場合、普通は予め目標や計画を立てる。あるいは期限を区切る。スケジュールに沿って行っていく。
 一週間でこの参考書を読破し、三日でレポートを書こうなどというスケジュールを立てる。念仏行は、そういう種類の行ではないと言う意味だろう。
 勉強の場合には、一日2時間やろうとか、日曜日には集中してやろうと決める。念仏はこういう行為概念のものではないと言う意味だ。

246 :渡海 難( p1245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/23 09:37
 十回称えたからこれでいいと言うものではない。百回称えたから目的を達成したと言うものではない。一回称えたことがあるから極楽浄土往生の条件は満たされているなどと、計画立てできるものではない。
 座禅は自力だから、座禅して称えれば自力念仏となっていかんなんて、そんなものでもない。座禅して称えると、念仏が座禅に影響されて座禅に染まるからいかんなどという言うもんじゃない。
 念仏には他力と自力があるから、他力の念仏を称えないといかんとか、自力の念仏じゃだめだとか、そういう種類の行ではないということだ。
 計画立てて行うものじゃないということは、「『計画立てしない』という内容の計画」を立てて行うものでもないということだろう。
 「『計画立てしない』という内容の計画」を立てて行うものでもないということは、「計画立てて行ってもいい」ということだろう。ただ、計画と念仏とは直接結びつかない。
 仮に計画を立てて行うのもいい。計画通り実行されたからどうこうとか、計画通り実行されなかったからどうこうというものではない。

247 :渡海 難( p1245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/23 09:38
 一日12時間ぶっ通しで念仏を称える念仏キャンプを山中で行おうという計画を立てたとしよう。計画立てて行ってもいい。
 50人参加の予定を立てたら、2人しか来なかった。主催者は48人分の赤字を負ってしまった。結局、計画は失敗だった。その場合、キャンプ計画が失敗だったのであって、念仏が失敗だったわけではない。
 起業計画は赤字になれば失敗だが、念仏に失敗はない。計画と念仏は直結しない。念仏は非行なりとはそういう意味だろう。
 普通、実行行為には失敗と成功がつきまとう。念仏に失敗はない。成功もない。失敗と成功がつきまとうような種類の行為でないということだろう。
 親鸞は言う。念仏は大行である。この場合の大とは仏という意味で考えていいだろう。計画という意味にこだわれば、仏さんの側にこそ計画がある。大行とは、仏さんという指導者の計画に基づいて行う行為であると考えればいい。
 念仏は、われわれにやらせてくる仏さんの側にこそ成功と失敗がある。仏さんに失敗はないから、念仏には成功しかない。そう考えていいだろう。
 更に議論は続く。

248 :名無しさん@1周年:01/09/23 18:21
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

249 :名無しさん@1周年:01/09/23 18:37
>>248
 お坊さんのカキコ発見アゲ

250 :名無しさん@1周年:01/09/23 19:44
>>249
 渡海難の名無しさんカキコ発見サゲ

251 :名無しさん@1周年:01/09/23 20:12

                     ■■■■■■■■
                  ■■■■■■■■■■■■
                 ■■■■■■■■■■■■■■
                ■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■
              ■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■
             ■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■
             ■■■■■   ■■〜〜■■   ■■■■■
           ■■■■■  ■■■■〜〜■■■■  ■■■■■
           ■■■■         ||          ■■■■
          ■■■■■   〓〓〓〓||〓〓〓〓   ■■■■■
          ■■■■   〓〓     ||    〓〓   ■■■■
          ■■■■        //  \\       ■■■■
          ■■■■      //( ●● )\\     ■■■■
          ■■■■    // ■■■■■■ \\   ■■■■
          ■■■■■  / ■■■■■■■■ \  ■■■■■
          ■■■■■   ■/〓〓〓〓〓〓\■   ■■■■■
          ■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■
          ■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■   ■■   ■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
            ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
              ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
              ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

252 :渡海 難( p0821-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/24 14:54
 阿弥陀仏の名は阿弥陀仏である。梵語のAmita Buddhaの音を漢字で書くと「阿弥陀仏」となる。Amitaは、Amitayus<永遠の命>とAmitabha<限りない光>とを表す(浄土教教理史 石田充之 著 平楽寺書店)。
 釈尊先生は、祇園精舎でどのように呼ばれたか。釈尊先生は祇園精舎で「先生」と呼ばれていたはずだ。
 祇園精舎での先生の役割は何だったのか。お弟子さん達はしばしば何度目かのやり直しを始める(再起<生>)。やり直しを始めても、未熟なお弟子さん達はやはりなかなかうまくいかない(疲弊<病>・衰退<老>)。このままでは、またやり直さないといけない(挫折<死>)。
 暗澹たる中で絶望に耽る生徒に、先生はしばしば独自の提案を向けられただろう。生徒は、先生の提案<知恵>で光を灯され、意思と行動に元気<命>を吹き込まれて再び前進を始める。
 息の長い計画を遂行して行くに当たり、生徒にとって先生は初期の目的を遂行して行く命の源泉であり、知恵(光)の源泉ではなかったか。
 生徒が釈尊先生を先生と呼ぶその根拠は、永遠の命をくださる方、限りない光をくださる方、そういう意味があったに違いない。‘Amitayus’、‘Amitabha’とは、祇園精舎では先生という意味だったろう。
 生徒は釈尊先生を「先生」と尊称した。しかし、先生に心の底から出会えた人々は先生をどう呼んだか。
 先生の提案<知恵>で足下を明るく灯され、意思と行動に元気<命>を吹き込まれて再び前進を始めた生徒は、思わず感嘆詞を付け、心の底から「ああ先生」と呼んでいたに違いない。

253 :渡海 難( p0821-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/24 14:56
 釈尊先生は、王宮に生まれ、当時の王侯貴族の最高位の学問を身につけてから出家された。「自分は本当のことが何一つ分かっていなかった。何一つ分かっていなかったことが様々に迷い苦しむ根元であった。これは大変なことだ。
 互いに教え合おう。学び合おう」先生は三五のときそう悟られた(十二因縁)。先生は自らの豊富な認識の壁を大きく突き破ると、地獄を含むあらゆる六道界に向けて自らの姿勢をかしずかれる方となられた。天界を含むあらゆる人々からかしずきを受けられる方となられた。
 先生はあらゆる人々から悟った方と尊敬され、Buddhaと尊称された。
 梵語のnamasの音を漢字で書くと南無になる。namasは、帰依・敬礼・帰命と訳される。原義は感嘆詞だろうというのが渡海 難の見解だ。
 人々は感嘆詞を付け、釈尊先生をnamas Amita Buddha <ああ先生>と尊称したに違いない。親鸞は、釈尊先生に対するこの尊称を祇園精舎のお弟子さん達のように念じることを大行と名付けた。

254 :名無しさん@1周年:01/09/24 16:07
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/one.htm参照)
・HP http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
     ↑
この「ああ先生」の謎が>>253において判明!?

255 :渡海 難( p5201-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/24 16:20
 謎が判明という方に敬意を表して アゲ

256 :名無しさん@1周年:01/09/24 16:29
>>255 糞スレあげるな、ボケ!カス!

            o
            /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
           /   このスレは無事に  /
           /  終了いたしました    /
          / ありがとうございました  /
          /                /
         /    モナーより      /
         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
  ∧_∧  /                /∧_∧
 ( ^∀^) /                /(^∀^ )
 (    )つ               ⊂(    )
 | | |                   | | |
 (__)_)                  (_(__)

257 :渡海 難( p7009-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/24 18:12
 謎が判明してしまって悔しい思いをしている方に敬意を表し、アゲ

258 :七七四三於一周年:01/09/24 18:34
謎が判明してしまって悔しい思いをしている方がいらっしゃると思い込むシ度シ毎に弔意を表し、氏ネ。

259 :名無しさん@1周年:01/09/24 18:48
>>257
荒らしは徹底放置するように。
荒らしに反応すれば、スレが荒れるの当然だよ。
ROMしてる人間のことも考えるように。

260 :名無しさん@1周年:01/09/24 19:20
>>259
おまえ過去のいきさつもしらないで反都会を荒らしなんて思ってんの。
ためしにロムしてないで2,3回ほどレスつけてみなよ。
あるいは過去ログの検索してみな。被害者の会ができたっておかしくないぜ。

261 :渡海 難( p0536-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/24 19:38
>>259

 m(_ _)m 申し訳ない。以後、気を付けますル。

262 :名無しさん@1周年:01/09/24 20:37
 |    \ |    \  ―┼‐┐| ̄ ̄| \ |― |   |   ̄ ̄
 |     | |     |   |  ||  .|    | 口..|/ |
 \/    \/      |  」 |__| / /  /レ  レ \_
        __
 |        /     ..|_
 |       /       |
 |       ̄ ̄\    |
 \_/      |   _|
         _/  (_ノ ̄
                 ヽヽ
 ―┼―   _/ ―┼―┐    /
 ―┼―‐ ―┼―  |  |   /|
   |     |    |  |    |
   |     ノ    ノ  ..」    |

263 : :01/09/24 20:43
渡海の友人です。
私たちの村では神童などと呼ばれていたのですが街の高校に入ってから変わっていったと思います。
渡海は村の中では一番の成績を誇りました。そして街の高校に進学します。
ある日私の姉を介して渡海からの手紙が届きました。姉と渡海は当時付き合っていたようで文通の形で交際が続いていました。
私宛の手紙の中にはただ二行だけ書かれていました。
「街の連中は凄いぞ!俺なんかじゃ及びもつかない頭をしてやがる。村一番の俺でさえ下から数えたほうが早いぐらいだ。」
この文章からは競争相手が見つかって渡海は嬉しいのかと思っていました。
姉に送ってくる手紙には「コラァ」「オマエラモナー」「逝ってヨイ」。
意味の判らない文章が増えていきます。その中に「2ちゃんねる」の文字が何度も何度も躍っていました。
姉はただ一言、「もう送ってこなくていいから」とだけ書いてその交際を終えたと言います。
気になった私がいくら辞書で調べても「2ちゃんねる」だけが判りませんでした。
そのため休暇で遊びに来ている東京の人にノートパソコンで2ちゃんねるというものを調べてもらう事となりました。
その時です。「名無し」と書かれた投稿者の中でただ一人名前で書かれた物がありました。
「渡海 難」でした。色々な所で下宿の住所や高校を中退した事、渡海のしてきたスパマーと言われる行為。
挙句、インターネットオークションで詐欺まがいをしている事もそこには書かれていました。
「警察に通報しました」と書かれている文章に対し渡海は「お、お、オマエラモナー、逝ってヨイ!!」
とても痛々しい文章が並んでいる事にも気がつきました。私は心痛のあまり目頭が熱くなりました。
警察に追われるやも知れない中、相当な精神衰弱に陥っているのが脳裏に浮かびました。
多分、村の重圧に負けて帰って来れないのだろう、仕送りも果て親にも勘当されお金にも困っていると思います。
しかし悪い事をしたら報いを受けなければなりません。渡海にも相応の罰が与えられてしかるべきだと考えます。
しかし渡海を追い込む事だけはしないでやってください。死んでしまっては元も子もありませんから。
ご迷惑でしょうが今しばらく見守ってやってください。本当に申し訳ありませんでした。渡海に変わってお詫びいたします。

264 :名無しさん@1周年:01/09/24 20:45
>>261
ありがとう。

265 :渡海 難( p0844-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/25 21:32
 1,2日休みます。<筆が止まりました。時間が必要。思索の練り直しです(^。^;)>

266 :名無しさん@1周年:01/09/25 21:42
>>265
また、パソコンが逝かれました。

267 :名無しさん@1周年:01/09/26 10:42
ウイルスくらったのでは? 

268 :名無しさん@1周年:01/09/26 10:46
>>267
アゲルナ!

269 :名無しさん@1周年:01/09/26 10:51
>妄想の練り直しです(^。^;)

270 :名無しさん@1周年:01/09/26 14:49
渡海 難さんの理論は、ちょっと独善的です。
もう少し勉強されたほうがよいのでは・・・。

271 : :01/09/26 14:56
>>217

糞スレをあげないように!
以後、マジレスはやめてsageましょう!

272 :名無し:01/09/26 16:12
 AGEYO

273 :名無しさん@1周年:01/09/26 16:30

                          ┗0=============0┛
               \===========[_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_]===========/
            /三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三\
                  0 │ |∞∞∞ |::|∞∞田田∞∞|::|∞∞∞ | ::|  0
            [二] | ::|       |::|┏━━━━┓|::|       | ::l [二]
◎○@※◎○@※. |□|.│ |┌┬┐ |::|┃/ >1 \┃|::| ┌┬┐| ::|. |□| ◎○@※◎○@※
ii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii| `)三(´| ::|├┼┤ |::|┃ ∧_∧ ┃|::| ├┼┤| ::|`)三(´il|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|
@※◎○@※◎○ | ::| | ::|└┴┘ |::|┃(´∀` ) ┃|::| └┴┘| ::| | ::|  @※◎○@※◎○
ii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|li┏━━━━━┓|::|┃(.    つ┃|::|┏━━━━━┓ li|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|l
◎○@iiii※◎○@ ┣┳┳┳┳┳┫|::|┗━━━━┛|::|┣┳┳┳┳┳┫ ◎○@iiii※◎○@
ii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|l ○    ●        ∫∬∫∬        ●    ○ ii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|iiii|li
               ○○  ●●      iiiii iii ii iiii       ●●  ○○
           [ ̄ ̄] [ ̄ ̄]   ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)    [ ̄ ̄] [ ̄ ̄]
                |_○_|  .|_○_|     |_____|     |_○_|  .|_○_|

274 :渡海 難( p5068-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/26 21:46
 この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
 南無阿弥陀仏と称える行為は、もろもろの善法を包含する。親鸞はそういう。南無阿弥陀仏と称える行為が包含するもろもろの善法とは何か。
 仮説的には広狭あると思う。広義には、我々に悟りをもたらす原因となるものだろう。狭義には我々に極楽往生をもたらす原因となるものを指すと考えていいと思う。
 親鸞は悲華経を引用する。「無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲わん。願わくはそれ捨命の後、必定して生を得しめん」。
 善本の形式的根拠はここに見いだされてくる。ここからは、狭義が真意であることが見えてくる。
 念仏が包含する善法はなにか。もろもろという限り、その具体的な中身があるはずだ。大乗の悟りを得るには、原則として、大きくは二つの修行が必要である。大乗の菩薩に至る修行と大乗の菩薩としての修行だ。包含されている善法とはこの二つを睨んだものだろう。
 行の巻きで親鸞は、念仏を称える行為がこの二つを包含していることを立証していく。
 もろもろの徳本を具す。親鸞はそうも言う。包含されている徳本とはなにか。親鸞にとって徳とは、仏の属性を指す言葉らしい。「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう」。親鸞このような言葉を教行信証に引用している。
 「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん」。念仏は、人々に施される功徳の宝である。そうであれば、施される功徳の宝は何か。親鸞に言わせれば、念仏は、仏の属性の分与を受ける行為だろう。
 かつて祇園精舎で釈尊先生のお弟子さん達は、先生から限りない命と限りない光を受けた。無量寿、無量光とは、釈尊先生の本質的属性ではなかったか。
 生徒は先生を「ああ先生」と念じることで、先生の無量寿、無量光と出会い、先生の本質を気付かされそのような属性を受領した。
 先生を「ああ先生」と念じる行為は、先生の本質的属性である無量寿と無量光とを包含する。親鸞の立場で考えれば、おそらくそのような仮説が成立可能だろう。私はそのように考えていいと思う。

275 :渡海 難( p5068-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/26 21:51
>>270
>渡海 難さんの理論は、ちょっと独善的です。もう少し勉強されたほうがよいのでは・・・。

 2チャンネルは多くの方が見てくださっています。
 貴方がお勉強なさったような独善的でない理論をご紹介くださると社会にとって有益となるでしょう。

276 :名無しさん@1周年:01/09/28 11:50
age

277 :渡海 難( p4071-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/28 23:37
 数日間、多忙です。

278 :名無しさん@1周年:01/09/29 00:22
>>277
パソコンが逝かれました。

279 :名無しさん@1周年:01/09/30 09:18
多忙といいつつ、浄土真宗スレッドにカキコんでいる人、だーれだ?

280 :だーれかさん:01/09/30 09:42
毎日、多妄です。

281 :渡海 難( p2060-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/30 09:53
>>279-280

>多忙といいつつ、浄土真宗スレッドにカキコんでいる人、だーれだ?    <苦笑>

> 毎日、多妄です。   
          (*o*)

282 :渡海 難( p1097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/30 23:21
 極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。

 親鸞は称名念仏を大行と名づけている。一方で非行と言いながら大行と名づける。なぜ大行と名づけるのか。親鸞は、極速円満ということと、真如一実の功徳宝海ということを名称の根拠とする。「極速円満」とは何か。「真如一実の功徳宝海」とは何か。ここを考えていこう。
 何が極速なのか。どのくらい極速なのか。早さの極みは瞬時だ。瞬時の極みとは同時ということだ。何が同時か。因果同時と言うことだろう。
 水は上から下に流れる。上から下に流れるという性質を水が持つようになったのはいつからか。水は本質的に上から下に流れる。そうであれば、上から下に流れるという性質は、水は即有している。即有しているということは、縁に左右されないということだ。
 縁に左右されないということは、水の本質に着眼している議論だ。本質に着眼するということが真実に触れると言うことだろう。真実を見抜けば現象は縁に左右されない。因あれば直ちに果が成就される。これが因果同時だ。
 祇園精舎のお弟子さん達は、賢人になるということがいつ定まったか。祇園精舎のお弟子さん達は、祇園精舎のお弟子さんになったときに定まった。なぜなら、祇園精舎ではお釈迦様が教育指導に当たっておられたからだ。お釈迦様の教育指導は揺るぎないものだった。
 理にかなった真実の正しい教育がなされていた。真実の教育がなされていたからこそ、祇園精舎のお弟子さんになったとき、人々は賢人になることが定まった。

283 :渡海 難( p1097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/09/30 23:23
 祇園精舎のお弟子さんはいつ賢人になったか。祇園精舎のお弟子さんになったとき賢人になった。祇園精舎を学習の場として選ぶと言うことは、必ず賢人になると言うことだった。
 祇園精舎を学習の場として選ぶと言うこと自体が、極めて賢明な選択だった。そうであれば、祇園精舎を学習の場として選んだという事自体が、既に賢人としての選択だったと言えるだろう。賢人の選択ができたということは、直前にお釈迦様のお誘いがあったはずだ。
 お釈迦様のお誘いのとき、人々は祇園精舎を学習の場として選び、そのとき彼らは既に賢人の仲間となった。人々を真実の人に育てようというお釈迦様の導きは、瞬時に成就されていく。それは、お釈迦様の教育指導が理にかなった正しい教育指導だったからだと言っていいだろう。
 瞬時とは因果同時ということであり、真実と言うことだと言っていいだろう。
 お釈迦様の前には賢人も凡人もなかっただろう。あらゆる人が一様に賢人だったろう。釈尊先生の世界は、真理そのものが一様に満たされている世界だったと言っていいだろう。そういう世界に立って先生は、人々に自らの心を開き、真理に目覚めていく道筋を説かれた。
 念仏とは、真理そのものが人格を具し、我らの釈尊先生となって人々に真理の心を開き、真理に目覚めていく道筋として提示してきたものだ。
 だからこそ、念仏は因果同時の真実であり、真如一実の功徳宝海である。親鸞はそのようにして念仏を偉大なる行、すなわち大行と名づけた。

284 :名無しさん@1周年:01/10/01 15:32
 age

285 :渡海 難( p6124-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/03 17:58
 しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。

 「しかるに」とはどういう意味か。しかるにとは逆説の接続詞だ。「しかあるに」の訛だろう。「そうであるのに」、ということだろう。僕は、この接続詞が非常に面白いと思ってきた。なぜ「しかるに」なんだろう。考えてみよう。
 「しかるに」は、前後の議論が逆説関係にあるということを示している。「この行は大悲の願より出でたり」という議論は、「称名念仏は大行である」という議論と逆説関係にあるということだ。
 願とは仏に属する。ここは疑いない。まずここを抑えよう。そう抑えると、「称名念仏は大行であるという議論は」、衆生に属する議論だという主張が見えてくる。
 親鸞の主張をまとめよう。「称名念仏は、衆生に属する行であって、大行と名付けるべきものだ。しかし出所は仏にあるんだ」親鸞はそう言っている。
 「念仏は非行非善なり」。歎異抄八章はそうは言う。歎異抄と教行信証とを整合性あるように解釈するなら、「非行」の意味は拡大解釈してはいけない。念仏は行である。人々が行うべき行である。但し、計画を立てて行うような種類の行ではない。「非行」とはそういう意味だ。
 「自力の称名念仏であってはいけない」とか、「他力の称名念仏でないといけない」とか、「座禅して称えてはいけない」とか、「回数を気にしてはいけない」とか、そういう種類の行ではないというのが「非行」の意味だ。
 非行の意味をこれ以上拡大してはいけない。念仏は、我々が行うべき我々の行である。これは親鸞も歎異抄も共に認めている。そう考えるべきだろう。

286 :渡海 難( p0701-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/05 22:36
 すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

 「諸仏称揚の願」「諸仏称名の願」「諸仏咨嗟の願」は、浄影大師という人の文献に出てくる名称のようだ。「往相回向の願」は、憬興師という人の文献に出てくる名称のようだ。選択称名の願とは、親鸞の命名だ。
 称名念仏という行が仏の願から出て来るというのはどういうことか。ここを考えてみよう。大無量寿経は阿弥陀仏に次のような決意を述べさせている。
 「設(たと)い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずは、正覚を取らじ、と」。
 小乗段階の学習を了えて基礎的なことは自分なりに理解でき、人の上に立って先生と呼ばれるようになっても、大乗仏教はそれで満足しない。
 自分の認識を多くの人々と共感的に共有するところに至ったと言えるような正覚を求めよう。それには、社会の多くの指導者達、無量の諸仏達にも理解され、尊敬を受けられるような普遍性がなければならない。
 大乗仏教は、自分一人が何かを知っただけでは満足しない。何か大事なことを知ったなら、それを多くの人と共感的に共有するような共通の財産にしようとする事を誓う。
 多くの人と共感的に共有するということは、既に多くの人と自己の認識を共通の財産化している多くの指導者相互の称讃の世界に入ることと裏腹でもあるだろう。自己の認識を多くの人との共通の財産化している指導者達の世界は、常に互いに相手を尊敬し合う世界だ。
 賢人哲人達は互いに互いを尊敬し合う。何かを自分が認識したとしても、賢人哲人達に受け入れられないものであれば、どこかに欠陥がある。認識内容に欠陥があるのか、認識共通化の努力に欠陥がある。
 多くの人々に向けての認識の共通化は、多くの賢人哲人達に受け入れられることを通じてなされていく。認識内容に欠陥がなければ、着実な努力を重ねていけば必ずや多くの賢人哲人達にも必ずや受け入れられていくものであるに違いない。
 釈尊先生は、そんな確信を持っていたようだ。

287 :名無しさん@1周年:01/10/06 21:57
読んでるよ。

288 :渡海 難( p7184-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/07 11:08
>>287   ありがとぅー。


 釈尊先生の心は、人格化した真理そのものの心にシフトする。これが親鸞仏教の原則だ。
 僕らは、真理の重要性、大切さはどこから学ぶのか。哲人や賢人を代表する学校の先生から最初は教わる。やがて、史上の多くの哲人や賢人達に出会いその言葉から教わっていく。
 人格真理は、直ちに直接我々に声を掛けてくることはしない。多くの賢人哲人が口を合わせて称讃してくださり、賢人哲人の称讃を伴って我々の闇の無知の世界に光となって入ってきてくれる。
 闇の無知の世界に入ってきてくれるには、それに先だって真理は賢人哲人の称讃を受けている。賢人哲人の称讃のないところで、闇の無知の世界に入ってきてくださることはない。
 釈尊先生の心は、まさに真理そのものの心でもあったろう。そして、真理そのものの心は、釈尊先生の心でもある。親鸞はそんな仮説を立てる。
 賢人哲人達の相互の称讃の中身はなにか。称讃は、相手に対する尊敬という形で表現されてくる。具体的には「先生」という言葉で表現されてくるものだろう。
 尊敬もなくむしろ侮蔑と皮肉を込めた「先生」という言葉もあるだろうが、尊敬という心があるときは必ずや「先生」という言葉を伴うだろう。
 「限りなき継続の命をもたらしてきてくださる先生」、「限りなき知恵の光をもたらしてきてくださる先生」。釈尊先生は当時の多くの賢人哲人達からもそう呼ばれたことだろう。
 無量寿仏、無量光仏とは、人格化した真理そのものの称呼であり、賢人哲人達が相互に徳を称え、尊敬し合うときの称讃の言葉である。阿弥陀仏と呼び合うという行為は、賢人哲人達が、自らの認識を人々の共通の財産としよう目指すときの誓いに含まれている。
 そうであれば、我々を真理そのものに目覚ましていこうとする真理の誓いに含まれている。親鸞はそのように考えているのだろう。僕はそのように考える。

289 :渡海 難( p2033-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/08 15:05
 大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

 諸仏称揚の願・諸仏称名の願・諸仏咨嗟の願。この三つは経典の願文を読めばそのまま導ける。咨嗟(ししゃ)とは、褒め称えるという意味だ。大悲の願・往相回向の願・選択称名の願について考えてみよう。
 大悲の願という言葉に対し、親鸞は「大悲の願船」という言葉を使っている。「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」などという表現がある。
 大乗仏教は、自分だけが真理を認識するだけでは満足しない。真理の独占を許さない。真理は、より多くの人々との共通の財産として共感的に享受し合おう。そう提案する。大乗仏教の本質は教育学だと考えるべきだろう。
 そうならば、大悲の願船とは、多くの人々を一気に真理の認識に到達させようとする働きだと考えていい。大悲の願とは、人々を正しく教え導こうという教師の教育指導的意思に他なるまい。
 自分の考えを多くの賢人哲人達にも認めて貰おうという思いは、真実が分からないことが原因で苦しんでいる人々に向けて真実を公開していこうという思いの一つの表れである。親鸞はそんなことを考えているんだろう。
 真実を公開していこうという思いの表れが、称揚・称名・咨嗟という決意の形で現れてくる。

290 :渡海 難( p2033-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/08 15:06
 真理(人格)はどのようにして真理(理法)を公開してくるのか?。
 万有引力に宿る真理は、ニュートンにものごとを科学的合理的に観察して数学的に処理することを求めた。だからこそニュートンは、ライプニッツとは別に独立して微分積分学を創設し、数学的処理法で事物現象の説明を試みた。
 真理(人格)は、ニュートンに、数学的処理法でアプローチすることで万有引力を発見させ、次いで王立学会での公表という舞台を与えてくる。
 真理(人格)は、真理(理法)への向かい方を示して真理(理法)を獲得させ、真理(理法)を携えさせて大衆に公表させる。
 真理へ向かわせる真理(人格)のあり方を親鸞は往相と言う。真理(理法)を携えさせて公表させる真理(人格)のあり方を親鸞は還相と言う。往相と還相と言う形で開いてくる真理(人格)の働きを親鸞は回向と呼ぶ。
 真実(人格)は、真実(人格)を師(先生)と仰ぐ者に真理(理法)を開いてくる。先生を「先生」と称呼する行為は往相の回向である。親鸞はそのような仮説を提唱している。
 真理を認識していくにあたりやるべき事は数々ある。数々あれば、その中で順番を決めるべきだ。何が最初か。真実(人格)を師(先生)と仰ぐこと(大行)が全ての原点である。
 「先生」と称呼する行為(大行)を最も先にせよ。真理(人格)は他の行為に先がけて称名行為を選んで提示してくる。称名行為は真理が最初に選択した行為である。親鸞は、そのような仮説を立てていると言うべきだろう。

291 :名無しさん@1周年:01/10/08 15:12
高森氏関係の本が大変売れているようですが、
渡海氏はいかが思いますか?

292 :渡海 難( p2033-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/08 15:29
 高森さんの本には、ほとんど興味がありません。
 「白道燃ゆ」だけは、親鸞会の方と論争する必要があって流し読みしました。
 高森さんの本だけじゃなく、僕は、明治以降の坊さんの書いた本には、ほとんど興味がありません。高森さんの著述で、貴方が興味深いと思ったことがあってその点だけでもお教え下さると嬉しいです。

293 :渡海 難( p1085-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/09 17:27
age

294 :渡海 難( p2032-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/11 21:22
また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要

 親鸞は、「重誓偈」と呼ばれてきた部分から一部を引用してくる。抄要とは、重誓偈の一部を抜き出すという意味だ。
 親鸞が引用した内容は大悲の願とほとんど同じだ。ほとんど同じ文をなぜ引用するのか。違いがあるからだろう。「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」。新たな引用はそういう部分を含めている。
 「名声十方に超えん」というのは、それ自体が真の目的ではない。親鸞はこの背後にある真の目的をつ読んでいる。衆のために宝蔵を開くということ。功徳の宝を施すということ。大衆の中で説法師子吼するということ。これが最終の目的であるということだろう。
 「衆のために宝蔵を開く」。人々に自分が知った認識を開放するということだ。「功徳の宝を施せん」正しい認識を得させるということだろう。
 「常に大衆の中にして説法師子吼せん」とはどういうことか。百獣の王である獅子が声を挙げると、他の獣たちは息を潜める。大衆を継続的に指導し続けることで、間違った考えが発生してくることを防ぐということである。
釈尊先生は、自分を多くの賢人達に受け入れられるようにしようと努力された。その目的は、自分が名誉を得ることにあったのではない。自分が知り得た真実を人々に公開していこうと願っていたからに他ならない。
親鸞は、大無量寿経から釈尊先生の意思をそのように読み、その心を真理(人格)にシフトしていく。

295 :名無しさん@1周年:01/10/13 16:01
age

296 :渡海 難( p6069-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/15 18:31
 願成就の文、『経』に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上
 また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし、と。已上

 親鸞は、大無量寿経の下巻を引用し、讃歎の客体と讃歎の主体を明示している。何を讃歎しているのか。威神功徳不可思議なるを讃歎している。誰が讃歎しているのか。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来が讃歎している。
 威神の威とは「表面に現れた品格」という意味だ。神(じん)は心(しん)だろう。これは内面の品格だ。功徳とは、献身的な行動という意味だろう。不可思議とは、常人の想像を超えるという意味だろう。称讃の客体は、常人の想像を超える気高く献身的な行動そのものである。
 十方世界とは、あらゆる世界という意味だろう。東・西・南・北・北東・北西・南西・南東・上・下で十方となる。これは地理的方向性を示していると解することも出来る。
 しかし、地理的方向性なら、上・下とはどういうことか。山に住んでいる者、地中に住んでいる者という意味か?これではどうも話が見えない。
 東・西・南・北とは、過去・未来・生産・休息という意味の象徴だろう。太陽は東から上って西に向かう。古代の人は太陽の運行と位置で時間を知った。
 東の諸仏とは、過去を重視する賢人達という意味だろう。西の諸仏とは、未来を重視する賢人達という意味だろう。南の諸仏とは、生産を重視する賢人達という意味だろう。北の諸仏とは、休息を重視する賢人達という意味ではないだろうか?
 北東の諸仏とは、過去のいきさつと休息を重んじる論者達だろう。北西の諸仏とは、未来への方向と休息を重んじる論者達だろう。南西・南東も同様に考えるべきだ。
 そうすると、上方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者、下方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者と考えればいい。
 釈尊先生の気高く献身的な行動は、価値観の違うあらゆる立場の賢人・論者達から絶大な尊敬を受けた。だからこそ「先生」と仰がれた。親鸞はそんな釈尊観を真理(人格)にシフトする。
 真理は、現に、あらゆる立場の賢人・論者から尊重される。さあ、真理を師と仰ぎ、師と呼ぼう。親鸞はそんな意味のことを述べている。

297 :名無しさん@1周年:01/10/16 23:23
keep

298 :渡海 難( p4087-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/17 00:05
あげ

299 :渡海 難( p1093-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/18 22:22
 また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致る、と。

 経典の言葉は二つの面から読んでいく必要がある。一つは経典著者の本来の主張。もう一つは、親鸞の視点だ。教行信証に引用されている経典の言葉は、親鸞のフィルターを通して見ていく必要がある。親鸞はどのように読んでいるのか。
 多くの人に本当のことを知って貰おう。自分が知りえたことを知って貰おう。釈尊先生のこの思いは、先生の名に徳として象徴され、先生の名に化体した。
 釈尊先生から真理を求めることの素晴らしさを教わった僕らの先輩達は、真理を求めることの素晴らしさを釈尊先生の徳に凝集させ、「釈尊先生。ああ先生」という言葉で自分の中で反芻する。
 人々は、「釈尊先生。ああ先生」という言葉によって、真理を学び合おうという先生の心と向き合う。真理を学び合おうという先生の心と共通の世界に入る。親鸞はそんな意味で読んでいるんだろう。
 「不退転」。これが、経典上のここのキーワードだろう。不退転とはなにか。不退転にはいろいろな意味がある。不退転とは、本来は八地以上の菩薩を指すのだろう。
 それが、親鸞の解釈では初地の菩薩すなわち歓喜地の菩薩を意味する言葉に変わり、念仏者を意味する言葉にまで下がってくる。ここでは親鸞の思索の順序を、経典の原意から追っていかないと理屈が分からなくなる。

300 :渡海 難( p1093-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/18 22:23
 釈尊先生という人は、教育活動に死に物狂いでぶつかっていった人なんだろう。僕はそう思うのだ。祇園精舎に入りたいと思っている若者がいると、先生は自分の方から出かけていって入学を誘ったようだ(十九願)。
 祇園精舎に入りたいと思っていても、いろいろな状況が入学を許さない場合には、本人の環境に働きかけて入学できるようにしたようだ(二十願)。
 入学してきた若者には、真剣に関わって指導を重ね、次の時代を十分に担える人に育て上げて卒業させた。だからこそ、先生の名声を聞いて祇園精舎に入りたいと思った若者は、多くが入学してきた。
 祇園精舎に行きたいと思う若者がいれば、多少無理してでも送り出すという雰囲気が、かなり広い地域で早い時期に完成されていったのではないだろうか。
 祇園精舎で学んだ若者達は、未来を切り開く素晴らしい可能性を確実にして世界中に散っていく。そこには、教育に賭けた先生の並はずれた情熱(本願)があったに違いない。経典の言葉の裏には、そんな実体があったのではないかと想像する。

301 :名無しさん@1周年:01/10/19 08:12
>>300
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/psy/988650860/539

>1、浄土真宗に関心があります。浄土真宗に関する良い本がありましたら、教えてください。
>2、色々な宗派がありますが、どの宗派がお勧めでしょうか?本願寺派と大谷派、どちらが良いのでしょうか?

渡海教授の解答をお待ちしています。

302 :名無しさん@1周年:01/10/19 09:59
>>301
渡海のアホに回答を求めないように!ろくなことがありませんので。
それからこのスレはクソスレなので上げない事!以上

303 :名無しさん@1周年:01/10/19 13:16
>>302

渡海難に対し、難解な質問をふきかけるのも一興

304 :渡海 難( p2252-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/19 18:55
>>301
>渡海教授の解答をお待ちしています。

 僕は、教授なんかじゃない。
 必要があれば、この種の質問はメールでください。メールでお答えします。

>>303
>難解な質問をふきかけるのも一興

 難解な質問なんか僕に答えられるはずないだろう。僕は素人だ。2CHに専門家はたくさんいる。難解な質問は専門家に聞いて欲しい。僕には、自分が答えられる範囲しか分かんない。分かんないことは、分からんと言うだけだ。
 難解な質問は坊さんに聞いてくれ。よろこんで検索エンジンになりかわり、翌日には有益なURLを教えてくれる。「こっちを見ろ」ってね。僕にそんな真似はできないよ。

305 :名無しさん@1周年:01/10/20 19:06
KEEP

306 :渡海 難( p3094-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/21 22:42
 大無量寿経がインドで書かれたのは、西暦前後のことらしい。釈尊入滅後、数百年経ている。大無量寿経成立期と釈迦との間では、我々の感覚で徳川家康か豊臣秀吉ぐらいの年代的ズレがある。しかし、釈迦が撒いた教育運動は、飛躍的な成長期にあったようだ。
 大無量寿経は、インドの大乗運動の中から誕生してくる。自分一人が何か分かればいいというものではない。人々に幅広く真実を教えよう。釈迦の後継者は、釈尊先生を理想として優れた教育者になることを目指せ。大乗の先人達は、次の時代の若者にそう説いたのだろう。
 人々に身と心を尽くせ。人々に身と心を尽くして人々に認められ、認められて名を挙げ、名声によって更に多くの人々を導け。より多くの人々を更に有為な教育者に育てよ。大乗の先人達は、釈尊先生をモデルに阿弥陀仏という架空の教育者を創作し、若者に目標を示した。
 教育にかける阿弥陀仏の使命感(本願)は常人のスケールを越えている。阿弥陀仏は極楽浄土という名の祇園精舎を建設し、その名声で多くの人々を惹きつけ、育てていく。
 大乗の求道者よ、すべからく自分自身も阿弥陀仏を目指せ。阿弥陀仏の意思を自分の意思とし、阿弥陀仏の行動を我が行動とし、阿弥陀仏の化仏となれ。大無量寿経はそのような主張をしているのだろう。
 教壇に立った大乗の求道者の教育者としての具体的な目標は、教育学を専攻する教え子を八地というレベルまで教え育てることだったようだ。小乗の基礎学習を終え、教員を目指す若者は大乗の教育学校で教育学を専攻する。
 大乗教育学校の入学生は初地という段階で入学する。大乗段階は、小乗段階を終えてところから始まる。初地は歓喜地ともいう。大乗の教育学校では、校長は十地という段階にあったようだ。その他の教師は九地という段階にある。生徒は八地に至れば卒業する。

307 :渡海 難( p3094-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/21 22:43
 極楽浄土で観音菩薩、勢至菩薩などは九地の菩薩である。八地の菩薩は平等性を認識する。平等心こそ、人を指導するにあたってもっとも重要な精神だろう。
 平等心の認識は空の認識が基本になる。頭の悪い子でも、無限の可能性がある。優秀な子であっても油断すれば遅れをとる。バカな子はかならずしもバカな子ではない。優れた子が必ずしも優れた子ではない。思いこみには何ら根拠がない。
 何ら根拠がないと空が分かったとき、優れた子と劣った子との間で人は平等性を認識する。ものごとに執着しなくなる。迷わなくなる。これが教育者の条件だ。
 空に迷う七地以下の菩薩はしばしば空に執らわれて空に沈む。七地を越えて八地に至れば、他人を指導できる。八地に至れば、教壇に立てる教育者なれる。
 教育者なれる一群の人々(衆)、これを正定衆(=聚)という。大乗の菩薩は、教育課程の学生を正定聚にまで育てる。大乗の菩薩には、そういう要請があったものと私は考える。

308 :渡海 難( p7160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/21 23:43
>>306
誤 生徒は八地に至れば卒業する。
正 生徒は八地をマスターして卒業する。卒業して九地に至る。

309 :渡海 難( p0850-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:01/10/25 07:53
 あげ

130 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)