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科学哲学・分析哲学を基礎から教えて

1 :2222チャンねる:2001/04/19(木) 06:15
求む。

2 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 07:26
この板は分析系少ないぞ。期待できんと思う。
かくいう俺も実存系。

3 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 10:24
>>1
今、世界で一番有名なポパー主義者といえばこの人でしょう。
下の本ではポパー的世界観による現代社会解釈が余すところ無く述べられています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532147190/249-6814271-6192322

分析哲学=対話分析=エスノ=インチキ
という図式が私の中にはあるのですが、まあ流行りものというのは
その世代の関係者を養っていくことに意味があるので、無意味であることに意味があるのでしょう。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590782/qid=987643218/sr=1-5/249-6814271-6192322



4 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 16:17
>>3
はっきり言って、君の書いてることが無意味。
分析哲学ってどういうことやってるのか
わかってる?

5 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 16:36
>>1
私は哲学専攻でもない学生ですが。
最初は「暗黙知の次元」「歴史主義の貧困」を読めばいいのではないかと思います。
それからもっと難解な本に移行すれば理解が進むと思います。
後、ポパーの解説書だと「現代思想の冒険者たち 14」(講談社)がお勧めです。

6 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 16:41
>>4
とっさに「分析哲学」のテーゼが出てこないことからも、
内容がないのは明白。騙された時間は帰ってこないから、
諦めて正統派にいらっしゃい。

7 :4:2001/04/19(木) 21:49
「正統派」ということで何が言いたいのでしょう?
「分析哲学ではない、哲学の正統派へ来い」ということでしょうか。
それとも、クワインとかストローソンとか、分析哲学の正統派へ
来いということでしょうか?
ちなみに私は1さんじゃないです。
しがない分析哲学屋でござんす。

8 :考える名無しさん:2001/04/19(木) 23:33
>>4
分析哲学ってどういうことやってるのか知りたい

9 :RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/19(木) 23:44
>>8
 論理的に矛盾してなければ世の中全てうまくいくと盲信しているダニのような人種です。

10 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 00:03
>>8
単なる潔癖性の方々のやる駄哲学です。
レゴでも組み立てていた方が、まだマシです。

11 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 00:51
フレーゲ以前の哲学者は
論理的思考をしていなかったと思いこんでいます。

12 :4:2001/04/20(金) 01:03
「言葉の意味を理解している、とはどういうことか」とか、
「単なる物理的なレベルでの身体状態の変化と、
意志的に行為しているといえる場合との違いとは何か」とか
「正しく知識と呼べる信念と、単なる思い込みとの違いは何か」など
が代表的な問題だろう。

「これをやるのが分析哲学」といえるような、
すべての分析哲学者に共通する問題や性格があるわけではない。

お勧めできる入門書としては、大庭健「はじめての分析哲学」(産業図書)
とか、野矢茂樹の本とか。科学哲学なら、小林道夫「科学哲学」(産業図書)
が読みやすい。内井惣七の「科学哲学入門」は結構難しい。
大庭の本にはブックガイドもついているので、それも見てみるとよいでしょう。

>>9,10 そういうきみたちは、おフランス現代思想かぶれの人ですか?

13 :RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/20(金) 01:34
>>世の中、言葉の意味を理解しないで行為する場合のほうが
 はるかに事例がおおいし、人間関係の実情に即している
 物理的なレベルと意思的行為を区別する必然性などあるのか?
 思い込みの何が悪い?すべて人間の歴史など
 思い込みがなせる結果ではないか。

せっかく与えられたスバラシイ一生をつまらん擬似問題に費やすダニめ。
白く何もない部屋でせいぜい動き回るがいい。


14 :4:2001/04/20(金) 01:46
意味がわかっているときとわかっていないとき、
意思的に行為しているときとそうでないときの区別は
現になされているし、我々は皆、その区別が適切にできている。
しかし、どういう根拠でそれができているのか、
それをはっきりさせることは難しい。
これって、結構面白い問題だとおもうけどな。
さぞかし高尚な問題を抱えてらっしゃるんでしょうな。
でも、敵をたたくには、敵についてちゃんと知らないと
致命傷は与えられないよ。ののしるだけでは自分のアホさがばれるだけ。

15 :RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/20(金) 01:52
ハァ?
そんな区別してどうすんだよ全然面白くねーよ。
オナニーは意思的ですか?それとも本能ですか?プププ
それに敵を知るってアホか。どうして重箱の隅つつくような煩瑣な議論に
くびつっこまなきゃいけねーんだよ。
必然性が全然感じられねーんだよ、その問題設定に。
どーでもいいような問題にわざわざ俺様の貴重な時間を裂けるかよ。

16 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 01:55
形式論理学みたいなのとは違うの?

17 :4:2001/04/20(金) 02:06
だったら咲いていただかなくて結構だが、
「思い込みの何が悪い」うんぬんと、分析哲学自体とは
何の関係もないでしょ。
そういう個人的な恨みつらみを根拠なくぶつけてくるから言い返してるだけでしょ。
あなたが必然性を感じないなら、他人のやってることをののしる必要すらないじゃん。

>出発点では確かに形式論理学威力が重要な働きをしていましたが、
現在はよくも悪くも、もっと大雑把な言葉で論じられてますし、
哲学史への関心も、最近は結構もりあがってます。

18 :RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/20(金) 02:10
ハァそうですか。
別に個人的な恨みはないけど、ああそうなの。
他人に必然性を感じさせる類のことはやってないわけね。
そこまで割り切ってやってるんだったら文句はいわないよ。
ま、が ん ば れ よ

19 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 02:13
煽りは放置しましょう。
レスするだけ時間の無駄。

20 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 02:13
>>19
 オナニーもほどほどにしろよ。

21 :4:2001/04/20(金) 02:17
万人に必然性を感じさせられるものって、生死ぐらいだろう。
それも哲学のテーマだけど、それだけがテーマなわけじゃないんですよ。
同じ問題に引っかかる人がいるだけで上等だと思う。
ま、がんばらさせてもらいます。

22 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 02:33
分析哲学は、皆が何らかの問題意識を共有している学派のようなものではないと思います。
むしろ、流派のようなもの。
言語の論理形式の分析だとか形式的論理学の道具立てなどが哲学的問題の解決に何らかの形で
役立つと認めている者たちが、それらを武器に伝統的な哲学の諸問題にそれぞれの仕方でアプ
ローチしているのだと思います。

私見では、現代において哲学的問題に対してあくまでも「理詰め」の解答を与えようとするな
らば、多かれ少なかれ分析哲学の知見にコミットせざるを得ないと思っています。

また以上のような事情から、分析哲学が(問題意識やそれへのアプローチの仕方を含めて)自然
科学色を帯びてしまうのも仕方のないことだと思います。
しかし分析哲学のそのような自然科学性を否定することは、古代ギリシア以来の哲学の伝統
(問題に対してとことん理詰めの思考を重ねていく精神的伝統)の全否定になってしまうと思う
のですが・・・


23 :ドキュソロジストP:2001/04/20(金) 13:02
>>22私も分析哲学やってるんで>>3のイタさや煽りの連中のあほさ加減には
うんざり。でも西洋哲学を>>22のように捉えるのも痛い。「全否定」に近い
路線を知ろうと思ったら、木田元氏の最近の一連の著作を読むとよいだろう。
原美術館で氏の講演がある(もう終った?)ので参加するもよし。この手の問題
には分析的手法は(今のところ)無力だよ。でも問題自体は優れて哲学的だと
思う。

24 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 13:19
いいねー分析対実存
まるで科学対文学のようだ

フランス現代思想を文学だと揶揄する者と論理実証主義を詭弁と批判する者

どっちも俺の同窓にいるけど、こいつらの議論て結局決着がつかないんだよな


25 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 19:11
>24
あほだね。

26 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 19:19
とりあえず「あほ」と言いきるところから何かが始まるんだろ???

なにも始まらないって。発言に責任を持て。

27 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 20:10
現代のスコラ哲学
一応ホメ言葉。

28 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 21:29
最後にはエピキュリアンとストイシズムだけが残るでしょう。激しくガイシュツ

29 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 22:07
ここの、野矢茂樹スレッドと、「ヴィトゲンシュタインを読むぞ、
ゴルア」も参考になるのでは。やっぱ、ヴィトゲンシュタインは「哲
学上の問題は全て、言葉の誤用である」と言った人だから。

個人的には、ラッセル・ホワイトヘッドの「プリンティカ・マクマテ
ィカ」とクワインの話題が出てきてほしいところ。科学哲学なら、
やっぱ、トーマス・クーンははずせないでしょ。ポパーの反証主義
に対して、最大の批判者だからね。

30 ::2001/04/20(金) 22:17
「科学者は最悪の哲学を選択する」といったのはクーンツだったっけ?
どんな文脈で言ったんだろ。

31 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 22:22
クーンは、「パラダイムシフトを人工的に起こせる」という誤解を広めたとい点で
害の多かった人でもあると思うけどね。

32 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 22:25
>>29は自分から何か言えよ、と思った。


33 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 23:25
フランスの人は知らないけど
僕が接したドイツの研究者はおしなべて
戦後ドイツの哲学は文献学になりさがったという自覚が、
多かれ少なかれ、ありますよ
哲学の本場はアメリカになってしまったようなことを
まあ、議論していては絶対に認めませんが、自覚はあるようです
つまり、そういうことです

34 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 23:25
>>30
アルチュセール

35 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 23:46
>>31
クーンは誤解が多い人だね。もともとあの人は佐々木力と同様に
科学史家だからというのもあるかも。しかし、「パラダイム」の
概念自体、誤解している人が多いのは辟易しますね。

36 :考える名無しさん:2001/04/20(金) 23:50
>>35 「パラダイム」の概念のただしい解釈とは?

37 :35じゃないけど、35にも答えキボーン:2001/04/20(金) 23:52
時代精神が科学者集団の共通認識により変えられる場合がある…
という文脈での時代精神を指すのでは?

38 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 00:12
ポパーのほうが誤解されまくりだよ多分。

39 :35:2001/04/21(土) 00:13
クーンが最初に意図してた、パラダイムの概念は、「一定の期間
研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を提供する一般的に認め
られた科学的業績」という意味だった。つまり、近代の科学はユー
クリッド幾何学や、ニュートン力学といった枠組を使って、成果を
あげてきたわけだけど、パラダイムというのは、この枠組のこと。

ちなみに、そのパラダイム自体に問題が発生し、新しいパラダイム
、たとえば、非ユークリッド幾何学やアインシュタイン物理学が生ま
れる時がパラダイムシフト。

ただし、パラダイムは最初はこのような意味で使われていたのだけれ
ど、現代では、意味が拡大解釈されて、とりとめもなくなってきてる。
後期のクーンは、この言葉を使わなくなっちゃったみたいだし。

40 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 00:15
>後期のクーンは、この言葉を使わなくなっちゃったみたいだし。
なんで?



41 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 00:17
でもまあ、科学哲学はマッハやポランニー、ポパーやクーンといった風に、
アイデアのあらましは(誤解されているにしても)紹介済みなので、
ここは是非分析哲学について教えて欲しい所だけど。

42 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 00:19
分析哲学って何を分析するんですか?

43 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 01:45
分析対大陸ってもローティーやドレイファスみたいなのもいるからねえ、、。

44 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 05:02
『ポパーの科学論と社会論』を読んで最中ですが、
皆さんの評価を聞きたいです。

45 :匿名希望さん:2001/04/21(土) 07:37
>>39
クーンのいうパラダイム(パラディグム)は、
もちろんユークリッド幾何学やニュートン力学も含むが、
もう少し規模の小さいモデル、寿命の短いモデルも
含むんではなかろうか?
記憶だけでいえば、昔、「科学革命の構造」を読んだときに
そう理解した覚えがある。

さりとて、より規模の小さい、寿命の短いモデルの
具体例を挙げろといわれても、挙げられないわけだが。

46 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 11:17
>>40
あまりにもパラダイム(paradigm)の概念が当初の意図とは、ずれて使われ
たから。後期は専門母型とかいう言葉を使ってたはず。広まらなかったけど。


47 :考える名無しさん:2001/04/21(土) 11:27
>>42
このスレの前半を読めばわかると思うけど、基本的には言語の分析。
哲学の問題を、言語論的転回で探ろうとしている人達のこと。
既出だけど、抱いてる問題関心は様々。

イアン・ハッキング「言語はなぜ哲学の問題になるのか」あたりにこの
あたりの説明は書いてあるような気がする。

ところで、最近知ったんですが、クワインが今年の1月に亡くなられたそうですね。
ポパーの時もそうだけど、京都賞は死神なのであろうか。
とりあえず、20世紀英米哲学に一番影響を与えた人物といっても過言では
ないので合掌。

48 :名無し:2001/04/21(土) 14:53
オートポイエシスて何ですか?

49 :名無しさん:2001/04/21(土) 19:25
>>47
死んだの去年じゃなかったっけ?

50 :47:2001/04/21(土) 21:09
>>49
知り合いから聞いたので事実確認してないです。


51 :猫電波@完全な素人:2001/04/21(土) 21:42
大庭健「はじめての分析哲学」(産業図書) なんて実存系でもあるんじゃない?
ハッキングの入門書でフーコーの「ことばともの」を「言葉と対象」に匹敵する名著と褒め称えてたし
素人ドキュソとしては大陸対分析の対立がどれほどのものなのか解りにくい



52 :考える名無しさん:2001/04/22(日) 01:52
とりあえず、分析哲学の古典かと思われる、クワインの「経験主義の
2つのドグマ」の論文がそのまんま、ネットにあったのでアドレス載せ
とく。ただし、英文なり。

http://www.ditext.com/quine/quine.html

53 :わかりません:2001/04/22(日) 03:00
ちょっと基本的な質問ですが。
分析哲学と科学哲学とはどういう関係にあるんでしょうか。
古典的なところは多少わかってるんですけど、論理実証主義運動とかまでは…。
科学哲学というと、科学上の研究のルールであったり、知識社会学のようであったりと、
ちょっとわかんないところがあるんですね。
例えば、クーンは哲学というより科学者集団における知のはやりすたりとでもいうようなもの
を示す知識社会学的色彩がありますし、ポパーは、科学と日科学の境界を反証可能性
で線引きするということに結構こだわって、科学研究における一種のルールを作ったという
感じですし、ポランニーは、行き過ぎた客観主義は非常に危険だと警告していた科学者ですしね。
今の科学哲学の最大のテーマはなんですか、そして、そのテーマは分析哲学のテーマとどのように
かかわっているのですか。ちょっと知りたいです。

54 :名無しさんの主張:2001/04/22(日) 10:41
>>53
>今の科学哲学の最大のテーマはなんですか、
「ニュートン力学は理性の勝利である」に替わる語の発見だよ
誰もが第二のカントを目指してるのさ

おっと!戯言だ。本気にするなよ。

55 :考える名無しさん:2001/04/22(日) 10:42
>>53
某掲示板でちょうど、いい文章があったので、それをコピペ。

科学哲学の目的とは?

科学の方法論は如何であるか。
科学の方法論は如何であるべきか。
科学の対象は何であるか。
科学理論はいかなるものであるか。
科学理論と、それが扱う対象との関係は如何であるか。
科学は何を扱い得るか(いかなる問いに答え得るか)

など。

私自身の考えでは、科学哲学というのは、哲学というよりもメタ科学
としての色彩が濃いような気がするなあ。あと、結構新しい学問だから、
みんないろいろなことやってて、傍目には何をやっているかわからないかも。

分析哲学とのリンク部分では、ようするに、近代科学の方法論や基礎づけ部分
であった、論理実証主義が、20世紀になってこっぴどく分析哲学によって攻撃
されたからじゃない?還元主義とか、帰納演繹法とかね。

56 :にしかわとおる:2001/04/22(日) 15:14
分析哲学を学ぶなら論理学をかじってからが文献にあたりやすいですよ。

 クワイン「現代論理入門」大修館書店  今はあまり使われないかな。

 クワイン「ことばと対象」 はじめて読んだときは言語学の本かと思いました。

 デビッドソン「真理と解釈」 これは初心者でもなんとか読めます。科学哲学の
 解釈に踏み込んだ内容もあります。
 ダメット「真理という謎」デビッドソンの論敵です。反実在論、数学の哲学が得意
 野本和幸「現代の論理的意味論」岩波書店 ガイドブックとしておすすめ。


57 :考える名無しさん:2001/04/22(日) 21:50
>初心者でも何とか読めます
うそーん。めちゃくちゃきついんすけど。

58 :考える名無しさん:2001/04/22(日) 21:58
そうですね

59 :いちご姫:2001/04/22(日) 22:01
>>56
TIは初心者にはほとんど無理でしょう。とくに、前半位の論文はタル
スキを理解していないと。
デヴィドスンなら、
サイモン・エブニン著『デヴィドソン』勁草書房 宮島昭二訳
という入門書の好著の翻訳書がでました。
(ダメットの概説書はまだ翻訳はない)

60 :RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/22(日) 22:20
その通りだと思います。

61 :考える名無しさん:2001/04/22(日) 22:27
>>60
君でもめずらしく他の奴に同意することあるんだね(藁

62 :にしかわとおる:2001/04/22(日) 22:43
すいません。TI(「真理と解釈」のこと)と書くと初心者のひとはなんだか
わからなくなります。
タルスキについては「現代の論理的意味論」に簡単な解説があるのでそばにおいて
読むといいでしょう。分析哲学は論理学(様相論理を含む)の予備知識があれば、
ある程度原著(邦訳ですが)に取り組んでもいいのでは?
デヴィドスンはエヴニンの解説するような体系的な哲学者なのでしょうか。
あと分析哲学の論敵チョムスキーの「言語論」も参考になります。(クワインとかを
メタメタに斬っていて哲学論争としてスリルがある)


63 :いちご姫:2001/04/22(日) 22:47
>>53
科学哲学は
(1)科学的な哲学の意(論理実証主義などをさす廃れた語)
(2)科学についての哲学・科学のメタ理論――哲学を対象から分類する


分析哲学は
フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタインをその淵源とし、
言語分析を哲学の唯一の手法と観るか
言語が哲学の対象であると考えるか
もしくはより漠然と言語や論理に哲学における特別な重要性を見出す
哲学、
及び、その哲学者(ラッセル・オースティン・ウィトゲンシュタイン・
カルナップ・クワインなど)の系譜をひく・影響を強く哲学流派・哲学者
の哲学
――哲学の方法論からの分類法

なお、ポパーは、分析哲学者の一部と密接な関係にあったものの分析哲
学とは概してみなされていないと思います。

64 :わかりません:2001/04/23(月) 00:33
なるほど、概略はわかりました。
今本棚をあさっていたんですけど、1960年にかかれた「科学論」という
本をめくって科学哲学についての部分を読んでみたら、科学は歴史的社会
的側面があり、これはマルクス主義哲学においてのみ捕らえられるのであって、
いわゆる科学哲学は観念論の落とし子であるなくて記述があったものですから、
今皆さんがこの本を読んだら腹抱えて笑っちゃったりすることでしょうね。

>55
科学の方法論は如何であるか。
科学の方法論は如何であるべきか。
科学の対象は何であるか。
科学理論はいかなるものであるか。
科学理論と、それが扱う対象との関係は如何であるか。
科学は何を扱い得るか(いかなる問いに答え得るか)

科学を科学たらしめているのが方法であり、それについて論ずるという
設問と科学の対象はなにであるかという設問とは次元を異にすると思う
のですが、どうしてこの2つの問いが両立するのですか。また、これらの
設問に対して論理実証主義が立てた科学と非科学との境界問題は
今依然として有効な設問なのでしょうか。
>63
では、分析哲学と科学哲学との関係はどのようなものなのでしょうか、また、
具体的な接点としてはどのようなものがあるのでしょうか。




65 :考える名無しさん:2001/04/23(月) 00:35
>>63
ポパーって、分類が難しい哲学者なんだよね。とりあえず、ウィトゲンシュタイ
ンを敵に回すは、クーンと論争を繰り広げるは、個人的には、「群れない
哲学者」のイメージがある。あとやってることも、科学だけでなく、いろん
なことに手を出してるし。




66 :考える名無しさん:2001/04/23(月) 09:29
>>64

>科学を科学たらしめているのが方法であり、それについて論ずるという
>設問と科学の対象はなにであるかという設問とは次元を異にすると思う
>のですが、どうしてこの2つの問いが両立するのですか。

そもそも、科学を科学たらしめているものが方法なのかどうかも議論がわかれてい
ると思う。例えば、ポパーは反証可能性のある命題が科学だとしたが、クーンは
パラダイムができているものを科学とした(そのため科学かどうかは、歴史的考察
を必要とする)この問いは両立するというよりも、そういう方向で研究者が研究
していたりする例として捉えて欲しいところです。

>論理実証主義が立てた科学と非科学との境界問題は
>今依然として有効な設問なのでしょうか。

あまり、今は流行らない議論なんじゃないかなと思います。

67 :いちご姫:2001/04/23(月) 11:42
>>62
(1)「TI」うっかり習慣で書いてしまいました。陳謝。
(2)個人的には、ディヴィドスンは、エヴニィンが展開して見せたような
構想を最初から持っていた訳ではなく、幾つかの基本構想を展開している
うちに出されてきた批判を摂りこむ為の再反論をひねり出している内に
現在のようになった、というのが実情だ、と思っています。

68 :いちご姫:2001/04/23(月) 20:35
>科学を科学たらしめているのが方法であり、それについて論ずるという
>設問と科学の対象はなにであるかという設問とは次元を異にすると思う
>のですが、どうしてこの2つの問いが両立するのですか。

「次元が異なる」ことは矛盾することを意味しません。
次元が異なっても矛盾することがあり得る、だけです。
従って、問題の二つの問いが両立不可能だ、と考えるなら、「次元が異なる」事以
外に、両立不可能な理由があらねばなりません。

さて、方法への問いと対象への問いは、むしろ、密接な関係にあるのではないでし
ょうか。何故なら、ある探究方法がさだまれば、それに従ってその探究方法により
探究され得る対象が措定され/取り出され、また特定の対象領域が定められれば、
それを探究し得る方法が限定されるからです。

69 :考える名無しさん:2001/04/24(火) 00:50
>エヴニィンが展開して見せたような構想
これは何のことですか?

70 :考える名無しさん:2001/04/24(火) 01:52
科学哲学
って
科学をやれるほど頭が良くない
落ちこぼれがやるんでしょ?(ワラワラ

71 :わかりません:2001/04/24(火) 08:24
>66.68
ちょっと話がややこしいのですが、
学として何をもっぱら対象とするかということと、個別の学を超えて
科学そのものについての設問とは異なるんではないでしょうか。
例えば、物理学は物理現象を対象とするでしょうし、気象学は気象
現象を対象とするでしょうが、これらが科学として成立するためには、
共通に認められる科学としての何かがなければならないと思います。
私は作業仮説的に科学を世界の数量化する態度の体系とでも一旦定義
しておきますが、個別科学を問題とする場合と、科学全般を問題とす
る場合とでは、設問の立て方が違うように思うのですがいかがでしょう。
仮に対象の問題を細かくやると、歴史の問題になっていってしまうのでは
ないかという懸念があるので、ちょっとこだわってしまいました。

あとどうなんでしょう、科学哲学はどのような形であれ、
境界問題にかかわらないといけないんじゃないかって気がするんですけど、
はやんないとは思いますが…。


72 :代理いぬ:2001/04/24(火) 12:17
君達、まさか本当に科学の境界線が引けるとは思っていまいね。
我々にできるのは、「どのようなものを科学と呼ぶべきか」
ということについて考えることまでだぞ。
それ以上のことは、定義の合意に対する民主主義的採決があるだけさ。
我々にし得るのは、せいぜい枠組の枠の材質選びか、
歴史の解釈に関する共通の認識を進めることぐらいだね。

73 :考える名無しさん:2001/04/24(火) 12:57
>>71
>>72
境界線の問題についてはポパーの「推測と反駁」に所収されています

74 :いちご姫:2001/04/24(火) 13:27
>>73
『推測と反駁』は古典です。
そこで述べられている境界線問題への見解については、既出のハンソン
、クーンらの史的研究やファイアーアーベント等の科学哲学的批判をう
け、ここ20年ほどはそのままでは維持不可能でしょう。ラカトシュに
よるポパーの見解の修正も、結局ファイァアーベントの批判をかわしき
れたとはいえない(と私は評価する)まま、ラカトシュがなくなってし
まったし。
※しかも、境界線問題に対するラカトシュの回答では、ポパーが(おそ
らく)排除したかった、人文・社会を含むアカデミック・ノンアカデミ
ックな広範知的営為の諸領域が科学に摂りこまれてしまう、と私は考え
ています。(詳細な検討を加えた訳ではないので、誤読だったら陳謝)

75 :いちご姫:2001/04/24(火) 13:49
>>71
(1) 科学として何をもっぱら対象とするかということと、個別の学を超
  えて科学そのものについての設問とは異なるんではないでしょうか。
(2) これらが科学として成立するためには、共通に認められる科学とし
  ての何かがなければならないと思います。

 一つの概念Aに含まれる下位概念もしくは個体α,β,γ,・・・・につ
いて、それら下位概念もしくは個体は相互に[1]その全てが特定の特
徴を共通に持つ必要はない(ウィトゲンシュタインのFamilienaenlich-
keitの議論参照)し、その何れもが何らの共通性も持つ必要もない。
何故なら、任意の下位概念や個物を夫々に指定しそれらをかつそれらを
のみ含む、という指定によっても概念Aは構成されるから。(但し、実
際には二つの概念・個物が何らの共通性も持たない、ということは論理
的にあり得ないかもしれない。何故なら、概念Aによって同一の概念に
含まれる、という共通性は少なくともあろうから。しかし、これについ
ても、概念Aが実際に構築され使用されるに先だって、可能性として存
在する、という考え方が、構成主義的見地から批判される可能性もあろ
うが。)
其々の下位概念若しくは個物が相互にその全てに共有される何らかの特
徴を持たなくともよいのであれば、それら個別諸科学の全てが「共通に
認められる科学としての何か」をそれらが科学である為に共有されねば
ならぬ必要性もない。

(1)従って、科学一般の本質研究は、必ずしも、個別諸科学の本質研究
から分かたれて存在し得る、とは限らない。個別諸科学α,β,γ,・・・・
の全てが共通ななにものかを共有する時にのみ、科学一般の本質研究な
るものは可能なのである。しかも、その際にも、その共有される特徴が
科学一般を規定する特徴である、とは限らないのである。
実情はαとβ、γとδ、δとηは其々に共通点を持つが、α・βとγ・
δ・ηは相互に共通点を持たない、しかも、γとηも相互に共通点を持
たないといったものに近いのではないか。

76 :73:2001/04/24(火) 14:16
>>74
レスありがとうございます。
蛇足ですが、ポパーの境界設定の問題についてはいちご姫さんの
おっしゃる通り、ポパーが「(おそらく)排除したかった、人文・社会を含む
アカデミック・ノンアカデミックな広範知的営為の諸領域が科学に摂りこまれてしまう」
危険性を考慮していたことに加えて、当時隆盛していた社会主義・全体主義への批判が
根底にある(マルクス経済学は呪術と代わらない)と言われています。

 

77 :73:2001/04/24(火) 14:18
×代わらない
○変わらない です。すみません。

78 :考える名無しさん:2001/04/24(火) 19:43
>>70
恐らく皮肉なのでしょうが、マジレスします。科学哲学やっている人は、結構
元理系がちらほら。とりあえず、野家啓一氏は元物理学だし、佐々木力氏は常
々、科学哲学をやるには理系の素養が必要だとして、学生に自分の学校の成績
を自慢してたとか(そこらへんがかわいい)

>>75
プリンセスストロベリー、詳細な解説は嬉しいんですが(考えにも大体賛成で
す)、Familienaenlichkeitって、家族的類似性のことですよね?せめて、英語
じゃないと、初心者には何かよくわからなくなってしまいます。

79 :ご冗談でしょう?名無しさん :2001/04/24(火) 20:03
入門書レベルのレスばっかやね
科学の知識がないから、踏み込みようがないわけか(藁

80 :考える名無しさん:2001/04/24(火) 20:10
どうぞ、踏み込んでみてください。ご遠慮なく。

81 :いちご姫:2001/04/24(火) 21:10
>>79
他の方々はともかく私は自然科学の知識を僅かしか持ち合わせていませ
んから。分析哲学のくくりならともかく、科学哲学なんて入門書レヴェ
ルの引き写ししかできなないのゴメンナサイ。
ぜひ、高度な説明をおねがいします、ご冗談でしょう?名無しさん、さま。

>>78
あ、ごめんなさい。気をつけます。

82 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 00:21
引き写しスレ。

83 :わかりません:2001/04/25(水) 01:39
>75
あの、わかんないんですけど…。プリンセスストロベリー、普通に解説して。
例えば、にんじんとごぼうと白菜ときゅうりは野菜だけど、わかんない!
どうしよう、ごめんなさい、マジでわかんなくなっちゃった。こまった。たすけてー。

84 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 12:29
>>79
>>81
まあ、実際に研究されている方はともかく、この板に来ている人間に自然科
学の素養を持つ人は少ないかも。ぜひここは、素養のある方の意見を聞きたい
ところです。

>>83
僕が理解する限りでは、概念である「科学」に含まれる、物理学、天文学、生物学
などは必ずしも、共通の特徴をもつ必要はない。なぜなら、科学の中に物理学、天文
学、生物学などが含まれるとされているだけだからである。だから、個別諸科学の全
てが「共通に 認められる科学としての何か」をそれらが科学であるからといって、
共有される必要はないのだ。従って「科学」一般の本質研究は、必ずしも、物理学、生
物学などの個別諸科学の本質研究から離れて存在するとは限らない。物理学、生物学など
の個別諸科学に全て共通する何かが存在する時のみ、「科学」一般の本質研究
は可能である。しかもその際にも、その個別諸科学が共有されるものが、「科学」
一般を規定するとは限らない。現実には、物理学と化学に共通するものと生物学と植物
学に共通するものがあったとして、両者の共通しているものが違うことが多いのではな
いかということを、姫はおっしゃたのでは?かなり要約したので、姫様、間違ってたら
訂正してください。

85 :ドキュソロジストP:2001/04/25(水) 13:13
最近何かの雑誌で見たけど、今は「化学」(科学ぢゃないよ)哲学というのが
あるんだってね。化学は物理が九の応用に過ぎないという一種の還元主義
に抗して化学の持つ独自性を探求しようとするものだとか何とか書いてあった
ように記憶している。元々この手の話はあったけど化学ってのは初めて見た。
普通の理系じゃこの手の話は「何じゃそれ?」だろうなあ。

86 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 14:05
吉田民人さんのプログラム科学は面白いよ。

87 :Name_Not_Found:2001/04/25(水) 14:12
何でみんな、科学=自然科学で考えるのさ?
Wissenschaft に含まれるのは自然科学だけじゃないでしょうに

88 :いちご姫:2001/04/25(水) 14:50
>>84
はいそうです。
>>83
84さんのご説明で明らかとは思いますが。
ウィトゲンシュタインが好んだ例でいえば、「遊び(Spiel ゲーム)
に、フットボールやバレーボールやコントラクト・ブリッジやポーカー
やペイシェンス(一人トランプ遊び)がある。ペイシェンスを除いた
ものは勝負を争うという共通点があり、フットボールからコントラク
ト・ブリッジまでは複数人がチームをくむ、という共通点があり、
フットボールとバレーボールにはボールを扱うという、残りにはトラ
ンプを扱うという共通点がある。だが、それら全てを貫く共通点は存
在しない(かもしれない)が、にも拘わらず、一つの語、Spielで表
される。このように、一つの語、一つの概念に帰属する構成要素すべ
てが、一つ(もしくはそれ以上)の共通する「本質」をもつとは限らな
い、ということです。
これが、我々の当該問題に適用された時には、84氏が敷衍なされた通
りです。

>>85
あって不思議はないけれど、初耳です。もし、出典がわかったらお教え
下さいませ。

>>86
(1)普通、「科学哲学」といわれる分野の関心は自然科学に集中している
から
(2)この原語はWissenschaftstheorieであるよりはPhilosophy of
Scienceであり、限定辞無しのscienceは通常自然科学を指すから
(3)人文・社会科学に対してはphilosophy of psycology, of economics,
of sociology, of law, of political science, of social
sciences(と限定辞つき)というような表現で用いられるから
(4)論理実証主義という科学哲学上の一規範的成果が採用した自然科学
至上主義、物理学帝国主義に支配されているから
(5)人文・社会科学まで含めたら、議論が拡散して、纏まるものも
纏まらなくなるから

などが理由では


89 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 14:51
分析哲学の入門教科書おしえて

90 :いちご姫:2001/04/25(水) 15:13
>>89
<入門者向け哲学書>スレッド264をご参照下さいませ。
あとホスパースの『分析哲学入門』全三巻もある。(翻訳
の出版社は忘れました。ご容赦を。)

91 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 16:57
thanks a lot

92 :いちご姫:2001/04/25(水) 17:17
>>91
マーケットを広げる営業努力をしているつもりで
ライヴァルを増やしているだけだったりして(笑)

93 :考える名無しさん:2001/04/25(水) 17:25
>>92
分析のライバルというと、やっぱり大陸の方々になるんでしょうか?
「言語」というキーワードは魅力的なんでしょうね。

94 :いちご姫:2001/04/25(水) 18:47
「言語」は、今世紀、いや前世紀(笑)の哲学界にとってのキー・ワード
だったですね。ポパーみたいに言語への関心が全くない人もいましたが。

大雑把な「分析」という括りだと、ウィーンの人々(ウィトゲンシュタ
インと論理実証主義者)をのぞけば英米が中心できましたから。大陸系
の中で、マルクス主義がこけ、ハーバーマス達も大勢力ではない、とな
れば、独仏現象学系とフランス現代思想の人々との対立なのでしょうね。
(あくまで、チョー大雑把な話ですよ・・・・)


95 :a:2001/04/25(水) 19:26
a

96 :名無しさん:2001/04/26(木) 00:38
Yahooの掲示板で進化論を検証すると称して科学哲学を用いていますが
どうなんでしょ?科学で事実とまで確証が持たれている理論を科学哲学が
科学でないと指摘した場合、その理論は科学でないと言えるのか?科学と
そうでないものの線引きは専門家集団と科学哲学者のどちらがすることに
なりますか?
私のような素人から見ると将来揉めそうな気がします。

97 :考える名無しさん:2001/04/26(木) 01:33
>>96
だから、線を引くかどうかが問題なんだってば。

98 :わかりません:2001/04/26(木) 03:43
なーんとなくわかりました。
と、いうことは、個別科学A.B.Cにおいて共通に見出し得る特長なんかなくて、
便宜的にひとくくりに科学といわれているだけですよってことですか。
だったら、科学哲学はなにを扱うのですか。
確かに科学なんて言葉は、空虚に便宜的に使われているような言葉なのかもしれないですか。
ということは、大文字の科学哲学という言葉かあるんじゃなくて、
個別科学哲学というものがあるだけということになりますが、どうでしょう。
模しそうだというのなら、哲学という学が科学哲学の世界では破綻している
ということになるのでしょうか。

99 :猫電波:2001/04/26(木) 21:11
>>90(いちご姫さん
邦訳だと五巻です(私は3巻までしか読んでないけど)
法政大学出版局から出ています

それと科学哲学は非学問的なものも射程に入ってるんですよね?
科学だけを扱うってことは難しいような気がする


100 :考える名無しさん:2001/04/26(木) 23:14
>>98
基本的に、現在「科学」と言われてるものが生まれたのはガリレオ・ニュー
トンの時代ですから(この前提にはいろいろ異論はあるでしょうが)、ほん
の300年ぐらい前です。それで、それらを研究する「科学者」たちが自己のア
イデンティティを正当化するために、必死に科学・非科学の境界線や科学共
通の方法論を模索していったというのが正直なところなのではないでしょう
か?その極みがウィーンな方々を初めとする論理実証主義だったのでは?
まあ既に述べられてますが、この論理実証主義が、20世紀にこてんぱんに
されたので、今や「科学」をめぐる視座は混沌としてるわけです。

余談ですが、後期のクーンは、科学を「唯一の方法によって縛り付けられた
単一の一枚岩としての活動としてみるのではなく、異なった専門分野や方法
論からなる、多元的な活動である」とか述べてたんじゃないかと思います。


101 :わかりません:2001/04/27(金) 01:55
その、ありがとうございます。>100
まったく新しい知識体系ですからね、科学というのは。
神学が登場したとき以来というような衝撃はあるわけですよ、それは。
キリスト教神学だって、出てきた当初というより、終始一貫自分とこが
正しい、これが唯一の神学のありかただということを一生懸命やって
くわけじゃないですか。

102 :わかりません:2001/04/27(金) 02:58
しつこく議論を蒸し返します。

>科学の対象は何であるか。
この設問は、やはりわからないなって気がするんですね。
科学の対象はなんであるかという設問を立てた場合、科学的対象というものが
存在することになりませんか。
だとするとね、星が科学的対象だということにすると、星について語ることが科学
になっちゃうわけですよ。しかし、私たちの日常的感覚では、星に願いをかけちゃ
ったりするわけでしょ。
もっとも、願掛けと科学は明らかに違うわけですよね。だとすると、この両者にある
違いというのは、アプローチの違いではないでしょうか。このアプローチの違いから
科学的アプローチについて論ずることは可能でしょ。
確かに天文学と医学と植物学等の個別科学には共通に見出せるものは少ないかもしれませんが、
おのおのが対象を捉える捕らえ方、アプローチの仕方というものがあるのではないか。
とすると、科学の対象とは何かという問題は、大きく捕らえると科学史の問題、
小さく考えると医学では天体観測はしないというように個別科学内部の問題になる
のではないでしょうか。
このように考えるのには、
> 一つの概念Aに含まれる下位概念もしくは個体α,β,γ,・・・・につ
  いて、それら下位概念もしくは個体は相互に[1]その全てが特定の特
  徴を共通に持つ必要はない
に対する疑問があるからです。下位概念を規定する上位概念Aは、概念非Aによって
規定されると思うのですが、この場合において初めて概念Aの内容である下位概念
a1.a2.a3が明確になっていくように思うんですね。
先の議論では、上位概念を下位概念に還元していっても上概念の意味内容は明らかに
されないという印象をもちますが、可能態と現実態の区別を持ち出せば、下位概念は
上位概念の可能態であり上位概念は現実態であって、上位概念の対立概念との対立によって
ひとつの方向に統合・集約されると考えます。
と、いうわけで、科学哲学が問うべきものは、
1.科学の方法とは何か
2.科学的方法ははたして存在するのか
この2つでいいんではないでしょうか。あとは、
個別の問題として個別に論じていけばいいんではないかと思いますけど、どうでしょ。




103 :いちご姫:2001/04/27(金) 14:25

「科学の対象はなんであるかという設問を立てた場合、科学的対象というものが
存在することになりませんか。」
ラフにいえば、科学的対象が(少なくとも概念上)存在することになるでしょう。
そして、星について語ることの<ある語り>は科学であり得ます。
誤解がありそうなのは(上記の言いまわし自体不正確なのですが)、科学が天体について語るとして、それが日常我々が星と呼ぶものと同一であるとは限らず(いやむしろ異なるものである、と私は考える)、従って科学的対象としてのホシもしくは天体と我々が日常(がんを掛けたりする)星は別個のものでありえる(そしてその通りだ、と私は考える)、という点です。あなたは、科学的対象たるホシと日常的対象たる星は同一であり、それ故、科学的対象が存在するのであれば、日常的な我々の語りもまた科学的対象についてのものであり得ざるを得ない、とお考えではないですか?
 人体を例に考えてみましょう。我々は日常的に自分や他人の体を見、触り、語ります。(このような日常的な語りの対象たる物体を、素朴物理学(folklore physics)的対象と呼びます。)この人体について我々は様々な信念、様々な記述を現に持ち、また持つことができます。この素朴物理学的な体と同じである、と我々が信じる場所に顕微鏡をあてがえばなにかが(おそらく身体構造が)見えるでしょう。更に生理学的な諸探究が行われれば様々な記述が得られるでしょう。これは生理学的対象としての人体に対する記述です。更に、化学的、物理学的等の探究が行われれば、それに応じて、化学的対象、物理学的対象についての記述が得られるでしょう。ここで、重要なのは、だからといって、素朴物理学的、生理学的、化学的、物理的対象についての記述が、同一対象についての記述であるとは限らず、むしろ、第一義的にはそれぞれの固有の対象についての記述である(と考えられる)事です。つまり、物理的言説に対応して物理的人体が、化学的言説に対応して化学的人体が、生理学的言説に対応して生理学的人体が(以上三者は人体、というより、単に対象のほうが好ましいかもしれません)、そして素朴物理学的言説に対応して素朴物理学的人体が存在もしくは措定されているのです。
それらの諸人体、諸対象が、ある一つの言説で措定された対象と共通であるか、あるいは唯一の別の真実在の仮象であるのか、あるいはそれらはサンドウィッチ的に併在しているのか、等の問題は置くとしましょう。少なくとも、(素朴物理学や化学といった)複数の探究営為、言説枠組み直ちが一見一つに思われる(人体という)対象について存在することからは、直ちには、一対象に複数の言説枠組みに於ける諸記述がそれを記述している、とか、ある一つの言説枠組みにおける対象をのみ他の諸言説枠組みの諸記述は記述しているのだ、という結論は出てこないのです。




104 :いちご姫:2001/04/27(金) 14:34
結論
 それだから、星について天文学が記述を持つ一方で、日常的に我々も記述を持ちまた(願掛け)等の諸行為をなすからといった、それ等全てが天文学的・科学的記述・営為だとかその対象は天文学的・科学的対象だ、という事にはならない。何故なら、前者は天文学的対象の星について、後者は素朴物理学的対象の星について、語っているのであり、両者が同一だとは限らない、(そしておそらくそうではない)からです。
〉とすると、科学の対象とは何かという問題は、大きく捕らえると科学
史の問題、

化学の諸時期によっても方法が異なりますから、その限り、科学的諸対
象は科学史的に規定されます。
しかし、それぞれの時代、それぞれの分野でいかなる対象が扱われるか、
は、哲学的探究の対象です。(したがって、分野の数×時代の数だけ、
科学的対象の種類はある、ともいえる。これは大雑把過ぎる言い方、つ
っこまないで下さいね。)



105 :考える名無しさん:2001/04/27(金) 14:38
星占いと天文学の区別は、科学と非科学の議論の代表的な題材ですね。
今は進化論などが主流ですが。

科学は対象により決まるのではなく、独自の方法論を持っているという考え方で
もうちょっとまとまりませんでしょうか。

106 :いちご姫:2001/04/27(金) 16:21
>>105
 私、「科学は対象により定まる」なんていいましたっけ?(タブンこのスレで対象
について肯定的に述べているのは私だけなので、私についてのコメントと思うので
すが。)もし無限定的に述べていたら、それを撤回します。主張したいのは以下です。
 「特定の科学は特定の対象をもつ。」(その限りで「特定の対象を拾い上げれば、そ
れは特定の科学を定め」はしますが、特定の対象とは「特定の科学により定められてい
る対象」の謂いですから、実質的な主張になっている訳ではない、と思います。

 独自の方法論――望ましい方向性ですが、具体的になんでしょうか?
二重盲検法や再起性では狭過ぎるし、「検証可能性」概念の破綻は周知の事実ですし・・・・



107 :考える名無しさん:2001/04/27(金) 16:42
>>106
『「検証可能性」概念の破綻は周知の事実ですし・・・・』
そうなんですか?すいません、できれば具体的に教えてください。
お願いします。

108 :いちご姫:2001/04/27(金) 17:19
破綻しています。
Church, Alsonzo, ゛Review of second edition of Language, Truth,
and Logic", Journalof Symbolic Logic vol.14,参照。
日本語で知りたいかたは、イアン・ハッキング著,『言語はなぜ哲学の問題に
なるのか』,伊藤邦武訳,勁草書房,1989を。「エイヤー」の章だったかの註で
紹介されていたはずです。


109 :いちご姫:2001/04/27(金) 17:30
>>108
ゴメンナサイね。手元に文献がないし、記憶で書くには少しテクニカル
だし。眠たいし。で省略。

110 :107:2001/04/27(金) 18:40
>>108 >>109
ありがとうございます。確認してみます。

111 :考える名無しさん:2001/04/28(土) 00:13
55=78=84=93=100です。

プリンセスストロベリーと、わかりませんさんのおかげで、このスレも活気づいてき
ましたね(笑)

>私、「科学は対象により定まる」なんていいましたっけ?
これは多分、僕が最初にコピペした科学哲学の目的の例の中の「科学の対象は何であ
るか」という問いに、わかりませんさんが突っ込んで、姫が反論しているうちに
何となく、そういう風なことを言っちゃってるんじゃないかと思っちゃったんじ
ゃないですかね。ちなみに、僕は「科学の対象は何であるか」は考察の対称になる派
です、どちらかといえば。わかりませんさんは、なんか問題を一般化、単純化の方向
に無理に向けてるような気がして。。


112 :55:2001/04/28(土) 00:17
>>106

あ、すいません。かなり馬鹿丸出し質問なんですが、「二重盲検法や再起性」
って何でしょう?

113 :考える名無しさん:2001/04/29(日) 18:19
建設的な議論が行なわれたと思うので、あげます。

114 :いちご姫:2001/04/29(日) 18:42
二重盲検法――医学・薬学でしばしばもちいられる、実験者・被験者双方
にその被験者に行われる試験が実質的な試験であるか対照実験であるのか
を知らせることなく行う検査法。(例えば、ある抗がん剤の実験の際、
投薬する医師も患者も投薬される薬剤が本物か偽者かしらないようにさせ
る方法です。勿論、その実験全体をコントロールするものは別にいる。)
 これは厳し過ぎる例でした。私は対照実験と書くべきでした。

対照実験――その有無が齎す結果を知りたい当該要素以外の全てが同一な
実験コントロール群を設定し、それと試験群との相違から、結論を導き出
す方法。

再起性――同種の状況は同種の結果を齎す、という性格。
     経済学などでは実験困難だし、歴史学だとはなからむりですね。

※かなり記述にはいいかげんなところがあるはずです。専門の方ご修正下
さい。

115 :考える名無しさん:2001/04/30(月) 01:45
44と同様に『ポパーの科学論と社会論』関雅美・勁草書房 と他に
『無根拠からの出発』『科学の解釈学』野家啓一 を読んでるのですが、
これらの本についての評価が聞きたいのですが皆さんどうですか?

116 :考える名無しさん:2001/04/30(月) 06:35
>115
まず自分の感想を書きましょうね。

117 :わかりません:2001/04/30(月) 16:28
議論が活性化していた間に、自転車で走り回って、今は身体のほうが活性化
しています。たまらんMTB。

え、111さんのおっしゃることはごもっともなんですよ。
私の考えているのは、科学哲学というからには、個別科学論ではなくて、
一般科学論=科学哲学なんですか、果たしてこの一般科学論としての科学哲学が
成立するかどうかを問うているのであって、この命題を解消する作業的設問として
科学は特定の対象を持ちうるかという命題を立てているというのがあらすじです。

ところで
>科学的対象が存在するのであれば、日常的な我々の語りもまた科学的対象についてのものであり得ざるを得ない
ここまでのプリンセスストロベリー氏の文脈を拝見すると、要は科学が対象を生み出すという風に理解してもいい
のですか。
これなら私は賛成します。
だとすると、ここはきちんとしたいのですか、科学的対象が、素朴実在論的に実体として存在するのではなく、
ある個別の科学の文脈において設定されるということですか。
今までの文脈だと、科学的対象があるという場合、科学内部的にあるというニュアンスだったと思います。
しかし私たちは、科学的に設定された対象のすべての可能的なものを生活世界内的に獲得しているからこそ、
科学的対象として切り出すことも可能なのではないですか。
表現が甘いのであまり突っ込まれるとややこしいのですが、フッサールの「危機論」の
議論と同じと考えていただいて結構です。
先にヴィトゲンシュタインの議論がありましたが、対象として設定される個物に対する上位概念
として、科学というものがあり得るということだって言えるような気がします。
私たちが日常的に出会っているもののある側面を切り出して、どんどんまとめていく、
さらに、それらを一定のルールで比較対照化していくということ。
そうすると、無理は承知の表現ですが、世界を対象化し、概念化することのある特殊な場合として
科学を見出すことができるように思われます。
ですから、しつこいようですが、科学哲学が問うべきものは、
1.科学の方法とは何か
2.科学的方法ははたして存在するのか
この2つでいいんではないでしょうか。


118 :わかりません:2001/04/30(月) 16:46
>72の代理いぬ氏
のお話は、当方も十分承知なのですが、本当にそうなんですかね、って頭もあるんですよ。
ファイヤーアーベントの議論を読んでると、学生のころなんか読んでそうなんだと思ってましたが、
夢も希望もない話だなって、今は思ってます。大体彼は顔が汚すぎる。
逆にケプラーが私の科学者としての理想です。
どうでもいい話でした。

119 :考える名無しさん:2001/04/30(月) 22:18
>>118
ケプラーはオカルトのように見えますが・・・
ケプラーの法則から万有引力に至ったニュートンは確かに理想的。

120 :考える名無しさん:2001/05/01(火) 00:51
>116
感想を十全に書ける程の知識と批評力があれば、
はじめからあのよう訊ねたりはしません。

ココは「〜基礎から教えて」となっていますので
あのような質問でも構わないと思ったのです。

121 :考える名無しさん:2001/05/01(火) 00:52
120=115

122 :代理いぬ:2001/05/01(火) 17:03
>117
>先にヴィトゲンシュタインの議論がありましたが、対象として設定される個物に対する上位概念
>として、科学というものがあり得るということだって言えるような気がします。
いや、先のウィトゲンシュタインの議論を借りるなら、
科学の下位概念として結び付けられるものの集合が、
徹底して無秩序・無作為であってもかまわないということが結論できる。

>ですから、しつこいようですが、科学哲学が問うべきものは、
>1.科学の方法とは何か
>2.科学的方法ははたして存在するのか
>この2つでいいんではないでしょうか。
その前者には同意してもかまわないが、我々にできるのはあくまで、
「そうあるべき」
というレベルでの合意をもたらすことだけだ。
その立場をわきまえた後でなら、我々は建設的な議論を可能にできる。

けれど、まあ、私はとりあえず傍観するよ。

123 :わかりません:2001/05/01(火) 21:15
>代理いぬ氏
かなり鋭い方ですよね。
>科学の下位概念として結び付けられるものの集合が、
徹底して無秩序・無作為であってもかまわないということが結論できる。

そのとおりだと思います。むしろ、私がほかのスレでも終始言っているのは、
その無秩序なカオスから、アポロン的な秩序が生まれてある有意味な体系が
形成されることの不思議についてです。この点に関して私と代理いぬ氏やほかの方との議論は
ベクトルの方向が違うだけで、絶対値は同じようなものではないでしょうか。

学生のころ、「市民的公共性の理念」(横田栄一)を読んでハアーと
思ったことを思い出しました。
>その前者には同意してもかまわないが、我々にできるのはあくまで、
>「そうあるべき」
>というレベルでの合意をもたらすことだけだ。
もう一度読み返してみます。



124 :55:2001/05/03(木) 11:19
このスレに書くのが適当と思うんですけど、プリンキピア・マテマティカの内容
を初心者が知るにはどうすればいいですか。なんか、完全日本語訳はでてないん
ですよね。一応、「プリンキピア・マテマティカ序論」という本がありますが、
これしか解説書はないんでしょうか?(ちなみに、知り合いの話だと、これの改
訂版を岡本先生が準備中だとか)

あと、英語版のプリンキピア・マテマティカは、アマゾンで調べたところ、
「principia mathematica to 56」という廉価版のペーパーバッグがあるん
ですけど、原書とどう違うんですか?また「to 56」の意味はなんでしょう?

125 :いちご姫:2001/05/03(木) 12:07
>>124
邦訳:記号の定義の部分だけの翻訳です。
ペーパーバックは、完全本の第56節まで、ということです。

126 :咲也:2001/05/04(金) 04:55
Principia Mathematicaの何を知りたいかによるけど、
初心者でも一応は記号論理学の素養がないと原典はつらいんじゃないかな。
あれで一から勉強するわけにも行かないし。
そういえばMonk(Wittgensteinの伝記書いたヒトね)の
Russelの伝記を見かけたけど表紙の写真がなかなか。

127 :咲也:2001/05/04(金) 05:06
あ、ごめん。別に原典でなくても解説書でもいいのか。
そっちはプロパーな人におまかせ。
でも記号を扱うのにはやっぱり慣れといた方がいいと思うよ。

128 :考える名無しさん:2001/05/04(金) 22:49
今までにラッセルが3回、クリプキが0回、って感じですね。
とりあえずはゲンツェンの推論規則でも目をとおして、証明論入門でも
読むのがいいのかも?
 いずれにせよ、数学的なアプローチの無い分析は意味が無いのでは?


129 :吾輩は名無しである:2001/05/05(土) 20:46
age

130 :わかりません:2001/05/06(日) 06:14
その、科学哲学と分析哲学の基礎というタイトルでしたよね、
どうもこの2つは密接な関係にあって、両者に共通する了解事項のようなものがあると
いうことでこのスレにこういうタイトルがついていると思うのですが、
ほんとに関係あるのですか。なんかわかんないなって、やっぱり思っちゃいます。

代理いぬ氏にインスパされて考えていたんですが、
科学哲学の解体というテーマでファイヤーアーベントが提出した文化相対主義
にせよ、ハーバーマスのいう市民的公共性にせよ、科学哲学が科学論として
社会哲学やコミュニケーション論としての社会学の方向に解消されているという
印象があります。
また、いわゆる科学哲学上重要な発見問題も社会学の分野に解消されつつあるようですが、
(Aブラニガン「科学的発見の現象学」参照)
個別科学論ならいくらでもいそうなものですが、科学哲学の現在として、どっかでふんば
っているやつはいないんでしょうか。



131 :いちご姫:2001/05/06(日) 16:03
>>130
嘗て「科学哲学」が<科学的な手法による哲学>(=論理実証主義)と言う意味でつ
かわれた事、及び、科学哲学の代表が論理実証主義の科学論だった時期があること、
そして、一時「分析哲学」が論理実証主義の別名状態だった事、それらから、二つの
語には歴史的には(誤用の感なきにしもあらずとはいえ)密接な関係があります。
とはいえ、今となってみればはっきり区別した方が混乱が無いのですが・・・・


132 :いちご姫:2001/05/06(日) 16:07
>>130
 大に段落の質問についてですが,確かに古典的な科学<哲学>から、
科学社会学とエスノメソドロジー・オブ・サイエンス(科学の民俗手
法誌とでも訳せばいいのだろうか?)へと、売れ筋はシフトしていますね。
 でもがんばっている人は(科学的実在論者をはじめ)沢山いるようで
すよ。(でも、自分の研究に使えそうに無いからよく知らないけど)

133 :55:2001/05/06(日) 16:18
>(でも、自分の研究に使えそうに無いからよく知らないけど)

ちなみに、プリンセスストロベリーは、言語の分析という方法論
を使って、どのような哲学的問題に関心を抱いてるのですか?

134 :いちご姫:2001/05/06(日) 16:59
>>133
それを書くと完全に同定されるので黙秘

135 :わかりません:2001/05/07(月) 01:01
クリプキあたりからでしょうね、
>一時「分析哲学」が論理実証主義の別名状態だった事

ちょっとここが基礎論的なこともやるスレということで、教育的質問を。

1.論理実証主義とは、思想的にはどのような背景を持っていたのでしょうか。
 ヴィトゲンシュタインとの関係において簡潔に述べてください。
2.論理実証主義から検証主義の破綻をへて、反証主義(反証可能性を非科学との境界線とする)
 が登場するまでの科学哲学の変遷について、ポパーを中心に簡潔に述べてください。
3.反証主義の哲学に対しての代表的な批判者を二人上げて、主な批判点を簡潔に述べてください。
4.アーペルの超越論的語用論について、その概略を簡潔に述べてください。

これをうまくまとめられると、修士論文くらいにはなりそうな気がするんですが、
いかがでしょう。一応こんな感じで、現在までの科学論の概略がまとめられそうですが、
ひまだったら、私も勉強しながらやりますので、興味があってひまな人はどうぞ。


136 :わかりません:2001/05/07(月) 01:11
訂正。
カルナップなどウィーン学団を指すのでしょうか。

137 :55:2001/05/07(月) 01:11
>>134
あ、すいません(笑)じゃあ、質問をやや変えて、現代の分析哲学全体
では、どのような問題に関心が向けられているのですか?

>>135
わかりませんさんの質問は、僕もわかる範囲で考えてみますね。

138 :考える名無しさん:2001/05/07(月) 12:37
あげます

139 :わかりません:2001/05/08(火) 00:49
1.論理実証主義とは、思想的にはどのような背景を持っていたのでしょうか

哲学のテーマとして、学問の統一というものがありますが、〜学というものを改めて付け加えるのではなく、
知というものをもう一度改めて問い直すことに哲学のテーマがあると思うんですね。
ヴィトゲンシュタインのやったこともこれに尽きると思いますし、ハイデガーも
これをやろうとして、実際にやったわけです。

ところで、ウィーン学団に始まる科学哲学は、明晰に語り得るものだけを語るという立場を堅持し、
これによってすべての学は統一されるという理念に立ち、これを実践する理念の運動であったと捉えられています。
これを要約するとすれば、ノイラートらの提唱した「統一科学運動」について語ることが適切でしょう。
これについてはまた後日。

140 :こんばんわ:2001/05/08(火) 03:35
専門家って程じゃないですが、、、

>>125
あれは序文の翻訳ではないですか?

>>124
56 節までと言っても、そこから先は完全に数学になるので、
論理や分析哲学について研究するためと言うのならば必要十分な
内容のはずです。

ただ、あの本の記号法は、dot 記法なんで、なれてないと読みにくい
ですよ。あ、あと PM の公理系って、「または」がプリミティブシンボル
になってるから、初心者には扱いづらいんだよなあ、、、

前原先生の「数学基礎論入門」の前半部は、PM の公理系を整理して
分かりしやすくしたものなので、これで練習してから読んでみたら
どうでしょう?

しかし、PM なんぞ読んでどうするんですか? Logic and Knokedge を
読んだ方が使えると思うけどなあ、、、

141 :え?:2001/05/08(火) 03:36
どうして?

142 :竜樹:2001/05/08(火) 03:49
やっぱ、分析哲学は面白いヨ!

143 :考える名無しさん:2001/05/09(水) 01:52


144 :考える名無しさん:2001/05/09(水) 02:42
あげます。

145 :考える名無しさん:2001/05/09(水) 22:41
かゆうま回避あげ。

146 :考える名無しさん:2001/05/10(木) 00:34
>142
「竜樹」ってナーガルジュナのこと?

147 :にしかわとおる:2001/05/10(木) 04:31
コーヒータイム
○分析哲学の意外な落とし穴?

 ウィトゲンシュタインの業績により現代の哲学は300年後退してしまいました。
論考は意味論的貢献をあまり果たしませんでした。哲学探究は意味論そのものを
放棄しました。彼の能力のなさゆえに。

 ウィトゲンシュタインを神学に援用する作業ははっきりいってスコラ哲学に
たいして失礼です。彼はなにも定義できないひとなのですから。

 ウィトゲンシュタインが再び学問の世界で話題を呼ぼうとも哲学史上は
20世紀前半は哲学にとって恐るべき停滞いや後退の時代であったとされるかも。

 所詮、かれは技術者であって哲学にはむいていなかったのです。



148 :考える名無しさん :2001/05/10(木) 07:16
>147
つーか、ウィトくんがいなければもっと後退していたと思われ。

149 :146はどっち?:2001/05/10(木) 07:40
ウィトゲンシュタインの名前出す人って、ただのミーハーと本当の実力者の2分傾向が激しいね。

150 :考える名無しさん:2001/05/10(木) 08:17
>>147
ウィトゲンシュタインって確かに、分析哲学の元祖の人ではあるけれど
も、分析哲学そのものでは語られない人のような気がするんだが。20世紀
後半の英米の分析哲学では、彼の名前は結構無視されてたことが多いらし
いからね。

ところで、意味論を追求すれば、哲学の前進になるのですか?その根拠
は?

151 :考える名無しさん:2001/05/10(木) 09:22
ヴィトゲンシュタインの言明は、根本から
ナンセンス。

152 :146はどっち?:2001/05/10(木) 22:02
ウィトゲンシュタインは、現在の分析哲学からは完全にマイナー扱いされているのは衆目の一致するところかもしれない。が、それゆえに彼の哲学にカチがないと考えるのは短絡というもの。
なぜかというと、彼の目的は、そもそも哲学産業に貢献したり、哲学研究者として食い扶持を稼ぐことにはなかった(ていうか正反対)のだから、そのような尺度によってのみ評価しようとするのは一面的すぎると思うからです。
もっとも、彼の治療としての哲学は、極論すれば、彼の病気にしか通用しないのかも、と最近思う。哲学者が死ぬと同時に彼の哲学も消滅してしまう、消滅してよいものかもしれません。

>ヴィトゲンシュタインの言明は、根本から ナンセンス。

 詳しい説明が聞きたい。特に「根本」と「ナンセンス」の意味。ナンセンス=
   1.全然わからんかった
   2.虚偽の命題
   3.面白くない
 どれかな?




153 :考える名無しさん:2001/05/10(木) 22:55
ここに、うまく分析哲学の展開がうまくまとめられているページがある
ね。
「よいこの分析哲学」
http://www.geocities.com/kurubushi/kuru/analysisPHILO.html
今までの議論と重なっている部分もあるが。。

154 :わかりません:2001/05/11(金) 01:18
これいいですね。>153

さて、つづき。
統一科学運動を指導したカルナップによると、もっぱら有意味な命題は
経験科学において見出されるのであって、すべての命題の有意味性は、
経験科学のそれに照らして判明するのだから、すべては科学の命題や
言明によって語られねばならないと考えます。しかも、経験科学の言明は、
プロトコール文や観察文に還元されなければならないと考えるわけです。
ところで、このような理念はヴィトゲンシュタインの語り得るものについては
明晰に語り得るのであり、語りうないものについては、沈黙しなければならない
という有名なテーゼをうけて、且つこれを敷衍したものと考えられますが、
このテーゼは2つに解釈可能なのではないかと考えられます。
1つは、彼自身が考えたとおり「真なる命題の全体が自然科学に他ならない」
というもの、カルナップもこれを支持するでしょう。
もうひとつは、ポランニーがいうように「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」
というテーゼにみられるように言語によって語ることが不可能であるにもかかわらず、
例えば人の顔についての知識や自転車に乗る技能のように確かに知られ修得されている知識というものがあるがゆえに、
ヴィトゲンシュタインはあえて沈黙という言葉を使ったという解釈も出来ます。
ポランニーのテーゼを受けてあえて言えば、言明できるものとは人間の知識における氷山の一角
表層の言説という表現も可能であるかもしれません。

続きはまた。

155 :考える名無しさん:2001/05/11(金) 03:43
多くの分析哲学者は何らかの「哲学説(理論)」の構築を目論むが、
そのような「哲学の学説化」を拒絶しようとしたのが(後期の)ウィ
トゲンシュタイン(哲学を治療行為とみなす)。
だから、(少なくとも後期の)ウィトゲンシュタインの考察が現在の
分析哲学のメインストリームに対して直接貢献しずらいのは自明。

156 :にしかわとおる:2001/05/11(金) 23:33
またちょっとだけコーヒータイム
○ウィトゲンシュタインは分析哲学に貢献していないのか?

 そんなことはないです。20世紀初頭の哲学黄金時代の立役者ですから。

ただ哲学そのものとしてはデカルト神の論証以前の問題設定になってしまった
ということです。

 コーヒータイムおわり



157 :ぷちとまと:2001/05/12(土) 00:05
>>156
>デカルト神の論証以前の問題設定

にしかわさん、ではウィトゲンシュタインの問題設定は何であり、それ
はいかなる意味でデカルト以前なのでしょうか?
御説明下さい。

158 :考える名無しさん:2001/05/12(土) 00:08
>>156
だからなに?哲学は進歩してると?

159 :考える名無しさん:2001/05/12(土) 01:40
どうも西川は説明不足でわかりにくいんだよな。
長くなってもいいから、もっと具体的に書いてくれや

160 :考える名無しさん:2001/05/12(土) 23:54
本人にも自分の言っていることがよくわかってないから、詳しい説明ができんのだろう。

161 :わかりません:2001/05/13(日) 23:04
分析哲学の論点は形而上学批判ということでしょうか。
現代哲学のメインテーマですね。

162 :考える名無しさん:2001/05/14(月) 09:45
「理性」や「数理モデル」といった感覚を越えた対象を基盤にコミュニケーションを取れる人間や、彼ら同士の会話を批判している様ですね。
小さい頃栄養が足りないと、前頭葉といった生体の存続に必要ではない脳への栄養供給が止まりその部分が萎縮するそうなので、
そういう、感覚と直接結びつかない脳内の表現を得る可能性を持たなくなるという事だと思うのですが。

163 :考える名無しさん:2001/05/16(水) 02:22
分析好きなのであげとく。

164 :考える名無しさん:2001/05/16(水) 02:24
もういいです。

165 :考える名無しさん:2001/05/16(水) 03:29
>162
トンデモ澤口も栄養不足なり(w

166 :考える名無しさん:2001/05/16(水) 09:41
精神病患者の脳が本当に萎縮しているのが観察できるようになって、
ずいぶんロマンがなくなってしまいました。

167 :考える名無しさん:2001/05/16(水) 09:57
昔、「科学哲学」ってスレあったぞ。探してみ>1

168 :1じゃないけど:2001/05/16(水) 10:09
科学哲学は哲学ぢゃないんだよ
http://mentai.2ch.net/philo/kako/948/948867872.html

169 :わかりません:2001/05/17(木) 01:55
科学哲学は哲学ですね。
統一科学運動に見られるように、学問の統一は哲学の大きな課題だし、
科学を手ががりとしつつ認識の問題や知識体系批判や論理学や理性の問題を
論ずることは極めて哲学の大きな課題でしょう。

さて、つづき。
手っ取り早くいうと、氷山の一角としての科学を規範として知識の全体
を統合することができると考えたのが論理実証主義の人たちであったと
いえるかもしれません。表層の言説としての科学こそがすべてだ、
ということでしょう。
この考え方にたつと、科学と非科学の境界線を引くことが最重要課題として、
提出されることには必然性がありますが、彼らが規範として捕らえていたものは、
ひょっとすると、出来上がった科学・結果としての科学であったのではないかと
思われます。
というのは、結果として出来上がったものは合理性を持ち、理論的整合性
を兼ね備えた構築物であり、いわゆる完成された結果であるわけですが、
しかしその生み出されるプロセスは魑魅魍魎の逡巡するわけのわからないもの
の連続であるかもしれないわけです。
そうすると、結果からさかのぼって、すべてのプロセスを結果によって統合しよう
とする試みは、親の都合で子供を教育するようなもので、大体失敗することになっている。
次にくるのはポパーあたりですか…。
それではまた。

170 :>161:2001/05/17(木) 03:19
分析哲学で一番ホットなのは,メタフィジックスだぞ
慶應の飯田さんのリンクみてみい

171 :2222チャンねる:2001/05/20(日) 00:35
皆様、様々な情報、活発なご議論ありがとう御座います。
これからも宜しくお願いします。

172 :わかりません:2001/05/20(日) 04:20
存在論との関係ですね、了解しました。>170

ふと思ったのですが、マルクス主義の科学論というのは、
最近どうなんでしょうね。
いわゆる新科学哲学のひとたちが、批判の対象にしていたのは論理実証主義でしたが、
本当はマルクス主義を批判の対象にしたかったのではないだろうかというのが、
なんか最近考えたことです。
続きはまた。

173 :考える名無しさん:2001/05/20(日) 04:37
>>172
ポパーはマルクス主義を形而上学として批判してなかったっけ?

174 :考える名無しさん:2001/05/20(日) 04:45
そうです。>>172
あとプラトニズムもです。

175 :わかりません:2001/05/20(日) 16:56
ポパーが科学的社会主義という言葉をつかったかどうか知りませんが、
マルクス主義は反証可能性をもってないということで、科学じゃない
んだみたいなことはいってたと思います。
プラトニズムについては、端から科学ではないのですが、近親憎悪なんじゃないかしら。

問題は進歩史観にあったんではないでしょうか。
確かに、科学は進歩しているんだということはどっかで言わなくちゃいけないんだと思うんですね。
ひどく乱暴な言い方をすると、ポパーまでの科学哲学は、大きな真理というものがあって、
それに向かっていく手続きを問題にしていたと思うんです。この手続きの範囲内にあるものが、
厳密で正しい知識であり、いずれ大きな真理にいたるプロセスであるというようなものでしょうか。
これに対して、クーンやファイヤーアーベントらのいわゆる新科学哲学の人たちは、
真理の多元性というものを出してしまった。
ポパー哲学を要約して、沢田允茂先生はサイバネティックスじゃないかと直接ポパーに
いったら、ごちゃごちゃいわれたらしいのですが、要は、ポパーには目的論みたいなものがある。
その後、ネオダーウィニズムやらなにやら出してきたけど、適者生存の法則ということ自体、
ある科学理論が、大きな真理を部分的にせよ体現しているかどうかということですから
目的論以外の何者でもない。
これに対して、進化論に引っ掛けて言うと、恐竜絶滅の隕石衝突説やウイルス進化論
みたいに、突然ぼこっと今までとは違う学説が出て、それが一般化するということだってあり得るし、
今までのパラダイムがまったく機能しなくなるということだってあり得るという
科学現場のリアリティみたいのを突きつけてきたわけじゃないですか。
所詮パラダイムが問題を設定するのだし、問題設定はある一定のパラダイム内において可能
であるというふうにね。
こうなってくると、言語哲学の問題になってしまうか、知識社会学の問題になってしまう。
しかし、科学には科学固有の性質があるんだ、という議論も捨てがたい。
人が歩くことから始まって、車や飛行機を発明し、ロケットで宇宙に飛び出し、
果ては宇宙を飛びまわれるようになることは、進歩なのではないか。
インターネットは通信・コミュニケーション手段として格段に進歩しているじゃないかとか。
なんのこっちゃ、って気分です。
続きはまた。

176 :わかりません:2001/05/26(土) 04:47
自然科学にせよ社会科学にせよ、科学を根底から支えているのは何かという
問題は重要な哲学的問いであると思いますが、ほぼ2つのことが言えるのではないかと思います。
1.自然科学におけるように科学的発見の重要性は、その興味深さ、新しさ、世界観や価値観を変える
 ような衝撃において見出され、それゆえに我々に科学を意義あるものにする。
2.科学の諸成果は、その成果を生み出した過程における合理的思惟の重要性を我々に教えるがゆえに、
 我々の生活上の知の規範となるのであって、科学はそれゆえに社会制度として機能している。

ごくあたりまえのことですが、科学から発見を抜きにしてしまったら、なにが残るかという
素朴な疑問がありますが、新しいデバイスの原理の発見や発明は、直接生活が便利になるという効能が
あるゆえに衝撃的に受け入れられることは理解できます。しかし、宇宙の構造や誕生の秘密が解き明かされる
こと等の発見が衝撃的に報じられることは、ちょっと立ち止まって考えるととても不思議
なことに思えます。
もっとも、私たちは、我々の意識のたどり着く地点を常に求めているというティヤール・ド・シャルダン
的なオメガ点を探しているんだ、といってしまえば、解決するものかもしれません。
これはもう神秘主義です。しかし科学がこの神秘主義を排除できるかといえば、たぶん不可能でしょう。
考えてみると、科学は極めて合理的な知の体系ですし、しかも形式化された知の体系であって、
神秘主義の対極にある知であるともいえます。これゆえに、科学は私たちの知性のよりどころであり、
正しさの基準になりえるのですが、これは科学が常に成果をあげつづけているからという理由でしょう。
これゆえに科学が我々によって支持されているという理由になる。
科学はその受け取られ方としては、極めて合理主義の権化のように受け取られるが、
その向かう方向は、どうしたって、神秘主義的なものにならざるを得ないのではないか。
中途半端ですが、続きはまた。

177 :わかりません:2001/05/26(土) 04:51
ミスタースポックとバルカン星をイメージすると、わかりやすいと思います。


178 :考える名無しさん:2001/05/27(日) 00:36
「科学者 → 理系の高校・大学生」は多いだろうけど(ファインマンの本とか)、
「科学哲学プロパー → 高校・大学生」って少なそう。

科学哲学者は現実の科学に方法論的な影響を与えてるんでしょうか?

179 :吾輩は名無しである:2001/05/27(日) 01:21
科学哲学の理論(と呼ぶべきかどうか)は、後付け作業のイメージは強いなあ。
だから駒場でも「科学史・科学哲学」と括られてるのは、漏れ的にはわかるのだよね。科学史家と科学哲学者は、摩擦が多いみたいだけど。

180 :わかりません:2001/05/27(日) 02:46
>178、>179
科学史と科学哲学との関係は微妙なものがあるようですが。
ファイヤーアーベントの主張に見られるのですが、ポパーまでの
科学哲学というのは、科学に対する思い込みが激しすぎて、実際の科学史の内容と大きくかけ離れてしまっている、
実際の科学の現場では科学哲学が示すような合理的方法論など通用していないというのが、
最近の科学哲学が主張していることです。これはファイヤーアーベントの親友にして論的であったラカトシュも
科学史のない科学哲学は盲目であるといっていますし、クーンも、科学哲学と科学史とがあまりにも遊離してい
ることに愕然としたといっています。
それではなぜこのようなことがおこるのか。176の2のテーゼが当てはまると思います。
実際、初期の論理実証主義の運動は、このような啓蒙主義をポリシーとしていましたし、
ポパーもこの点では、まったく強烈な啓蒙主義者です。
もっとも、科学哲学は科学者にむかって発言するのではなく、あくまでも哲学として
科学の諸成果に注意を向けつつ理性の問題や存在の問題を論ずるものらしいので、
科学者に影響を与えても与えなくてもどっちでもいい、というのが私の考えです。
ポランニーは晩年まで(現在も!)科学者としての名声を保っていましたので、
彼の考え方は直接科学者に届いているみたいです。実際ものすごい数の門人が
ノーベル賞を受けているのは、科学史上、きちんと検討される必要もあるんじゃ
ないかと思います。べつにだから正しいというわけではないですが。

181 :考える名無しさん:2001/06/02(土) 22:37
たまにはあげときます。

182 :考える名無しさん :2001/06/02(土) 23:52
>わかりません
知識ないのに無理して書くな。

183 :考える名無しさん:2001/06/03(日) 00:43
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=991392470&ls=50
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=990827029&ls=50
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=990915895&ls=50

こういう日常の疑問系哲学のスレも分析できるんですか?
解決させて終わらせたほうが、スッキリすると思うんですが。

184 :考える名無しさん:2001/06/03(日) 00:45
あ、さげちった。あげあげ。

185 :考える名無しさん:2001/06/03(日) 02:50
もちろんです。分析哲学はなんでも分析できます。
どんなことでも分析できます。
いつでもどこでも分析です。
分析せきせき分析マン。


186 :わかりません:2001/06/03(日) 04:24
>182
激しく反省します。
当分断筆。

187 :吾輩は名無しである:2001/06/10(日) 18:36
age

188 :考える名無しさん:2001/06/21(木) 05:08
age

189 :考える名無しさん:2001/06/21(木) 12:10
科哲≠分析?

190 :わかりません:2001/06/22(金) 02:50
断筆一時中断。
今ファイヤアーベントの自伝を読んでいます。
哲学、唄、女、そして とかいうものですが、ファイヤアーベントって
ポパーの弟子だし、クーンと仲良く写真に写ってるし、
科学哲学の裏の歴史を読んでいるような気になります。

バーンスタインの科学・解釈学・実践は、ちょっと後回しにします。
歯が立たないです。

では、また激しく反省します。

191 :子曰:2001/06/23(土) 00:52
一流の科学者にも哲学は必要だと思う。
ただしそれは、科学とはなんぞやという問題ではなく、
どのように研究していくべきかという方針の問題だ。
具他的には、カール・ポパーの反証可能性の議論以上は必要がない。
科学とは何かなんて知る必要がなく、どうすれば効率が高まるかだけに注目して
いるからだと思う。

ただ、(理系なのですまんが)ポパーの反証可能性の議論への反論があると
いうのはどういうことなのか、だれか、さわりだけでも教えてもらえないかしら。
難しい話きっとわからんから、ほんとにさわりだけでもいいの。

192 :わかりません:2001/06/23(土) 04:46
ちょっと確認したいんですが、ポパーは科学と非科学の境界を反証可能性
が有るかないかで線引きしようとしたんじゃないですか。
だとすると、彼の反証可能性の議論は科学とは何かということを問うて
いると思うのですが、ではなぜあなたは科学とは何かなんて知る必要が
ないというのでしょう。
しかも、科学上の研究の効率化は科学内部の問題であって、哲学の問題
ではないと思うんですよ。ひょっとするとポパーが効率化について何か
いったのかしら。

193 :子曰:2001/06/23(土) 12:46
哲学者と議論する気はないのですが、
ポパーについて興味があったので、聞いてみただけです。

>科学とは何かなんて知る必要が
ないというのでしょう。

理学の世界ではそのような意見を聞いたことがありません。
(私が知らないだけだろうけど。)

必要でないとは、君にとって必要でないということではなく、
そのような話には、(一般的な研究者は)興味がないであろうといっただけです。
(私の観察ですが、たぶんあってると思います。保証はしないけど。)

ポパーは効率化について、なにか言ったかは知りません。
ただし、(あくまでも私の観察で、確信はないのですが、)
一般的な科学者は哲学がありませんが、というより、くだらない
観念論(哲学的意味ではなく、通常の意味で)しか口にしません。
しかし、優れた科学者は研究にたいする明確な思想を持っていると(その論文から)
判断しています。

194 :子曰:2001/06/23(土) 12:50
訂正

誤:(その論文から) 判断しています。
正:(論文、議論、本人たちとの個人的対話から)推測しています。

195 :考える名無しさん:2001/06/25(月) 02:39
>>191
『ポパーの科学論と社会論』関雅美 勁草書房
でもどうでしょうか?

196 :わかりません:2001/06/25(月) 02:40
私買って読みます。

197 :1:2001/06/25(月) 02:41
>>190
そんなこと言わずに、スレのためにも、
書き込みお願いします。

198 :OFW:2001/06/25(月) 06:11
なかなか面白いスレで、ちょと参加します。
>>172(わかりませんさん)
>マルクス主義の科学論というのは、最近どうなんでしょうね。
 構造主義派のマルクス主義(アルチュセール、ゴドリエ)以降は特に目立つ
 ものはないのではないかな?
 アルチュセールは科学と哲学(イデオロギー)を明確に区別して、哲学は
 ドグマを含むと言ったわけですが、それは哲学は、科学批判である点およ
 び社会的実践の指針を含む点の両面を指したもの、と言えるでしょう。
 日本では、戦前の日本の唯物論研究会での高水準の議論も、戦後武谷三男
 の3段階論、星野芳夫の技術論と後退して行き、現在は特に無い様。
 かの山本義隆氏(マルクス主義とも言えないが)の熱統計学成立史研究の
 ように、科学史研究の方が面白そう。
 (レーニンの「唯物論と経験批判論」批判がある様だから唯物論は劣勢?)
>>175(わかりませんさん)
>マルクス主義は反証可能性をもってないということで、科学じゃない
 たとえば日本共産党は未だに「俺達は科学的社会主義を奉じているから、
 真理である」といったアホなことを言うわけですが、無論それはドグマに
 過ぎない。と言っても、ポパーの科学主義とてドグマに変わりないから、
 同じ穴のむじな。
 「俺はマルクス主義者ではない」(マルクス)という点を理解すべき。

199 :考える名無しさん:2001/06/25(月) 15:59
>>199
>と言っても、ポパーの科学主義とてドグマに変わりないから、 同じ穴のむじな。

それは違うよ。マルクス主義は「理論」だが、反証主義は「メタ理論」だから。
そして、ドクマティックなマルクス主義は「理論」の反証可能性を認めてないが、
反証主義はそれを認めるからわけだからね。

200 :名無し:2001/06/25(月) 19:40
>>199
それは、反証主義自体にたいする反証可能性も認めるってこと?
それは「無理」というものでは。
「理論」と「メタ理論」との峻別は、実際には、それほど明確に
分けられるものではなく、どうしても曖昧にならざる得ない。

201 :考える名無しさん:2001/06/25(月) 21:08
>反証主義自体にたいする反証可能性
単なるトートロジーになるだけでは。

202 :191:2001/06/25(月) 21:22
>>195
人に聞こうなどというのは甘い発想かしら(藁
本の題名ありがとう。
暇なときに、読んでみます。

203 :199:2001/06/25(月) 21:23
>>200
反証主義はドグマティズムの否定から導き出されます。
もし反証可能性がないなら、それは「信仰」の対象にしかならないからです。
だから、反証主義は「反ドグマティズム」という「ドグマ」であるともいえるでしょう。
しかし、このドグマは「自己に厳しい」ものであり、「生産的」なものなのです。

204 :無駄口:2001/06/26(火) 03:16
ドグマ的でないものなんて、思考が形而上学的性質を帯びている以上は人間には得られないので、
結局はそれを自覚して批判的に制御するしかないのだから、>>200に賛成。

205 :考える名無しさん:2001/06/26(火) 07:30
>>204
数学苦手そうだな(藁

206 :ななし:2001/06/26(火) 18:42
>>203
そこで言う「自己に厳しい」「生産的」なんてことはただの主観であり、
ドグマティストはみんなそう思ってるよ。

207 :OFW:2001/06/26(火) 22:09
>>199
早速のレスありがとう。さて質問。
>マルクス主義は「理論」だが、反証主義は「メタ理論」だから。
>ドクマティックなマルクス主義は「理論」の反証可能性を認めてない
 「メタ理論」とは何のことか良く分からないが、理論の妥当性の一般的基準
 を示した理論、と言ったものかな?たとえば、
 「マルクス主義はドグマティックな理論である」(言明D)
 という理論的な言明が正しいかどうかは、
 1「マルクス主義」の概念(概念M)および「理論」の概念(概念R)が
  提示されること
 2概念Mは概念Rを内包として含むことを論証すること
 3概念Mには<ドグマ性>という表徴があることを論証すること
 だけでは足りないのであり、さらに
 4概念Mに妥当する何らかの実在的対象mが存在することを例示する
  こと
 が無くてはならないでしょう。
 (ここまでは言明Dを主張した人に説明責任あるいは挙証責任がある。)

 それが確かに存在した場合でも、その反証として別の対象m’(ドグマテ
 ィックでないマルクス主義)の存在が提示された(2chでの私の主張の
 ような)場合、それは
 A.概念Mが誤っていた(つまりマルクス主義を誤解していた)
 なのか、はたまた
 B.実在m’が例外的な存在である(つまりm’は”本来の”マルクス主
   義ではなく、やはり<マルクス主義>はドグマである)
 なのかをどうやって決めるのかな?自己に厳しい反証主義者にして同時に
 大の「マルクス主義」嫌いのポパーならどうするかな?

208 :わかりません:2001/06/27(水) 01:29
断筆解除。復帰。
いわゆるマルクス主義というのは、もう終わったものと考えてしまって、それ以降のものでは、
フランクフルト学派のハーバーマスなんかの議論は面白いですね。
いろいろ断筆中に考えていたんですが、科学がこうも問題になるのは、科学こそが
近代理性のもっとも栄光ある成果を体現しているからだと思うんです。ところが、
この科学というのは、成果として現れる理性的側面と、内実として行われている
営みとの間が極めて激しいものだということをポパー以後の人たちは言い出してい
るんですね(ここでも散々いってますが)。
ところで、科学哲学の世界というのは、どうも狭いものらしく、「科学の最悪の敵」
といわれたファイヤアーベントさえ、科学の守護者(?)ポパーの直弟子という
具合に、どうも、科学哲学は相互反転をおこしているとさえみうる状況ですが、
これは、近代理性に対しての反省から現れている現象(近代理性の相互反転)と
同じではないかと、考えています。
ちょっと論旨が怪しくなってきましたが、つまり、科学の発展や科学上の発見は、
アドホック(いきあたりばったり)な仮説を抜きにしては成立しないという説を
科学史的検討の末にポパー以後の人は言い出しますが、ポパーはこれをはっきり
と無視していたことに対しての反論として、反証主義の根拠である近代理性に対
して、ファイヤアーベントなどは、ポパーのちょうど裏返しでアドホック仮説を
もって近代理性の無根拠性を示したと思います。彼は、ポパーが故意に封印して
いたものをときはなってしまったように私には見えます。
この議論は、即、フランクフルト学派の議論とシンクロすると思われますが、
つまりは、理性の擁護に回るか、理性の無根拠性を主張するかで、科学哲学に対
するスタンスが大きく変わってくるように思うんです。
ここからがよくわからないところですが、乱暴なことを言えば、とりあえずポパー
もマルクス主義も近代理性を超え得ないという点では、おんなじですよ。

209 :OFW:2001/06/27(水) 21:40
>>208(わかりませんさん)
>フランクフルト学派のハーバーマスなんかの議論
 は必ずしも、マルクス主義はもう終った、という立場ではないでしょう。
 むしろ「西欧マルクス主義」と言えば、まずフランクフルト学派が引き合い
 に出されると思うが。
>科学こそが近代理性のもっとも栄光ある成果を体現している
 それはそうでしょうね。ただそれは自然科学の、特に科学技術の成功が圧倒
 的なためで、<近代理性>とはより広い精神の様態を指すでしょう。
>理性の擁護に回るか、理性の無根拠性を主張するかで、科学哲学に対
>するスタンスが大きく変わってくる
 当然そうでしょうが、およそ理性を擁護しない立場は、結局の所非合理主義
 に行き着くことになり、科学でも哲学でも無くなるのでは?
 また、理性とは単に主観的ではなく客観的なものあるとは、ナチズムを経験
 したホルクハイマーが『道具的理性批判』において、何よりも強調した点で
 すね。
>マルクス主義も近代理性を超え得ない
 上にも書いたが、「マルクス主義」「近代理性」という言葉で、如何なる内
 容を考えているのか曖昧であり、賛成も反対もできない、です。
 超えるべき?近代理性の限界を超え得ない、という消極的な主張なのか?
 素晴らしい?近代理性の圏内にある、という肯定的な主張なのか?
 「マルクス主義」に共感的な広松渉氏も「近代的主観ー客観認識図式の超克」
 などと曖昧に言っていたが、結局の所・・・。

210 :わかりません:2001/06/28(木) 00:54
細かい突っ込みですねぇ、ありがとうございます。眠気も吹っ飛ぶ
鋭い突っ込みに、どうしましょ。

まず、フランクフルト学派ですが、私の卒論の指導教官がフランクフルト学派
の大御所だったんですが、自らの立場を明確にするために「マルクス主義者の馬鹿ども」
とよく言っていたのを思い出しました(「ほんとに馬鹿よ!」とよく授業中に言っていました)。
ごく簡単に総括すると、20世紀の哲学で特筆すべきは社会哲学の登場ですが、
社会哲学のうちにすべての哲学を統合しようとしたのがフランクフルト学派という
程度のことです。
くだらない昔話はさておき、近代理性という言葉でなにがいいたいかというと、
むずかしい話ですね、誰か引用してお話しましょうか、それとも、
私流にお話しましょうか。
まあ、とりあえず。
近代科学によって支えられる近代理性とは、不変にして非歴史的な準拠枠のことであり、
合理性・知識・真理・実在・善・正義などの本性を決定する究極的なよりどころであって、
その様態は形式合理性・計算合理性としてくくることができると思います。
したがって、それらはすべて根拠付け・基礎付けが可能なのであり、また可能でなければ
ならず、哲学の使命、いや学問の使命は自らの根拠付けとであり、この信念を貫徹すべき
であるという信念のことです。
つまりは、モダンなイデア論的信念とでもいうんでしょうか。つまるところ、近代理性と
は極めて頑固なプラトン主義であり、近代科学の恩寵の光の中にある安易な形而上学とでも
いうようなものと、考えています。

211 :わかりません:2001/06/28(木) 01:37
ちょっと論旨が怪しいので補足。
近代理性とは、自らの根拠付けが可能と考え、且つ可能と考える以上、
貫徹しなければならないと考えている信念の事です。
してみると近代科学との関係は可逆的にならざるをえず、近代理性の
もっとも栄光ある成果を体現している科学(的精神)を自らの信念の
よりどころとしつつ、科学に対してより理想的な姿を見出そうとする
のが近代理性の姿と思っています。
もっとも、この科学の理想化は、啓蒙的理想化でもあり、普遍的なる
者への欲求として一人歩きしていくもののように思えますし、この考
え方というか、信念が、私には危険で不自由なもののように思えて
しょうがないんですね。

OFW氏の学識に対して以上の回答が的確なものでありますように…。

212 :OFW:2001/06/28(木) 23:49
>>210,211(わかりませんさん)
 わかりました。概略は賛成。スレのテーマに引き寄せて敷衍して見ると、
>不変にして非歴史的な準拠枠
 たとえばニュートン力学の体系は非歴史的(可逆的)で閉じた系であり、
 運動量および力学的エネルギー保存則に基づく方程式を与える。
 「自己保存する体系」の主題化とは本質的な領域への高まりでしょうね。
 しかし、具体的実在に適用するには、常に初期条件を与える必要があり、
 また発見された「万有引力」を説明できない。「この宇宙が単にそうなって
 いるから」と言う、無根拠な言明(歴史的事実の確認)に止まるわけです。
>形式合理性・計算合理性
 まさに現代に至っても、形式主義、計算主義が理性と同義語のように思わ
 れているようです。「論理を形式化して思考を計算に変えよう」とは、カル
 ナップ流の論理実証主義の<見果てぬ夢>だった。それは悪しき数学主義
 と呼べるが、成功は覚束ないでしょう。金勘定すら狂っている時代です。
 形式合理性ではなく実質的・質料的合理性すなわち唯物論が必要。
>すべて根拠付け・基礎付けが可能
 私は<根拠付け>とは反省的哲学の使命であり、説明科学の使命はむしろ
 <予測と制御>にあると思う。また、予測者自身を説明し制御しようとする
 科学は社会科学ということになり、「社会科学は如何にして可能か?」と
 なるが、それは歴史的社会の根拠を問うことになるでしょう。
>学問の使命は自らの根拠付けとであり、この信念を貫徹すべきである
 それに対して、学問(学知)が自己を根拠付けることなどできない、という
 対抗主張が出てくるが、何もそれは「すべては無根拠だ」というポストモダ
 ニズム流の相対主義のことではない。むしろ、認識は実践に基づくという
 単純な事実を言うのでしょう
>科学に対してより理想的な姿を見出そうとする
 科学の根拠を哲学的に与えよう、などと考える科学哲学とは変な哲学です
 ね。(自然)科学の根拠は技術にあり、根本的には生産実践にあるのは
 自明の理でしょう。古臭い「真理の殿堂」じゃあるまいし・・・。

213 :わかりません:2001/06/29(金) 01:24
おっしゃるとおりです。何もいうことはないくらいです。

ただ、私の感想を言わせていただければ、近代理性の精神とは、すなわち客観主義を貫徹する
信念ということも出来ますが、これは少し射程を限定した見方ですが、大方の議論を要約する
とすなわち還元主義なのではないだろうかと思えてしまうんですね。
科学でなんでもかんでも解明できるという信念や、脳を調べていくと精神とは何かが解明され
ると言う信念などは、すなわちすべてが物質に還元可能であり、物質的還元の果てにあるもの
が実体だという信念であり、すべて客観主義の様態である還元主義であると思われます。
これはとても危険なものであり、何の解決にもならない議論だと思うんですね。
もう少し範囲を広げると、現代を神亡き時代というけれども、神を見失ってやたらめったらこ
こに神がいる、あそこに神がいるというそういう末法的(適当な言葉が見当たらない!)状況
というのが、現代であって、中世に神学が担っていた役割を科学が担わされているという弊害
がさまざまなゆがみをもたらしているのではないかと思っています。
これはポランニーの議論にも通じるのですが、科学は科学として論じられるべき
であり、これに過度の期待も何かしらの役割も期待すべきではないというのが、
私の生理(信念ではない)ですし、その限りにおいて改めて、科学を捉えなおすことが如何に
可能かという問いと、哲学の問題とは何かを中世哲学ならびに近代哲学の再検討を
通してすべきであろうと思っています。
その意味で現代哲学とは和解の学であり、無垢な学であるべきと考えています。

論旨をお汲み取りいただいたので、言いたいことが言えてすっきりしました。
私の駄文が的を得たものであるかはおいといて、そのOFW氏の学識に感謝
すべきですね。
ただ、気になるのは、「実質的・質料的合理性すなわち唯物論が必要」とは
どういう意味ですか。議論の方向をお示しください。

214 :OFW:2001/06/30(土) 09:56
おはようございます。夏風邪のようで、気分いと不快にして。
>>213(わかりませんさん)
>すべてが物質に還元可能
 還元主義と唯物論とは区別すべきでしょう。
 たとえば「すべてを物理学で説明できる」と言うのは、物理学的な事象と
 すぐ近接した分野である化学的な事象の区別すら無視することになる暴
 論ですね。
 このスレの前の方で「科学の対象は何か」が議論されていましたが、
 専門諸科学の区分には存在論的な必然性があり、対象の存在様式(運動
 様式、カテゴリー)に従ってその知(科学)も分類されるべきでしょう。
 物理学者が漠然と<自然の階層性(ヒエラルキー)>と呼ぶのはその事を
 指しており、対象のサイズに応じて宇宙論から素粒子論的な対象があり、
 それぞれが固有の法則性を示すわけです。
 しかし実在する人体は一つ(唯物論的な客観主義)ですから、>>103のよう
 に「化学的人体」「生理学的人体」などと言うのは誤まりです。
 「認識に応じてその対象も変化する」(ヘーゲル)、そしてより客観的・
 総体的な存在を対象とすることが、認識の進展と呼ばれるのです。
>物質的還元の果てにあるものが実体だ
 「実体」概念(これは難解な概念です)について不正確な表現です。
 自然的実体を物質と呼ぶ、これが正しい。
>哲学の問題とは何か
 このスレのテーマの一つである分析哲学に関連させて言えば、それは必ず
 しも言語の問題(重要な問題ですが)に収斂はしないでしょうね。
 いわゆる分析哲学とは、分析という手法固有の限界をもち、また言語が記号
(対象の代わりとして立てられたもの)という基本性格をもつ存在者である
 ことを忘れなければ、オリジナル(客観的対象)をそのコピー(対象に関す
 る言説)で置き換える訳にはいかない。

215 :OFW:2001/06/30(土) 09:57
>>213(わかりませんさん)(つづき)
>「実質的・質料的合理性すなわち唯物論が必要」とはどういう意味ですか。
 <形式>とは重要な概念であり、人間が質料(Materie)から自由になるた
 めには欠かせない。それは万物を普遍的で永遠の存在として立てるから、
 生成転変極まりない実在の不完全性、過渡性、差別性を救済し、その本質
 形相を捉える観念論のためにも欠かせない。

 しかし、形式主義の弊害が今や覆い難く世界に蔓延している。

 たとえば、「1足す1は2である」というためには、実在を数量化して数と
 いう形式に置く必要がありますが、行き過ぎた形式的合理主義は1にも色々
 あることを見ない。その結果、1グラムと1cmという<単位の違い>を無
 視して足し算するといった、小学生の計算違いにも比すべき誤まり(例:爬
 虫類かつ人間)を平然と行う。
 形式は内容に対して外的なものではなく、内容に適した形式が必要であると
 いう点、そして<形式内容>として形式自体も規定的な内容を含んでいると
 いう点を正しくみる立場が実質的合理性でしょう。
 唯物論(Materialism)は観念論の真理として、悪しき形式主義の一面性を
 突く。それは万物の基底に質料的・物質的存在があり、万物は可能的・過程
 的な運動の中に置かれている点を具体的・内容的に把握する立場です。

216 :OFW:2001/06/30(土) 10:04
>>215
 誤:万物は可能的・過程的な運動の中に置かれている
 正:万物は現実的・過程的な運動の中に置かれている

217 :考える名無しさん:2001/06/30(土) 13:32
分析哲学は何度読んでも、記憶に残らない(笑)。
ところで、科学哲学は、科学者集団の共通知識の形成というマクロな水準の話が
多くて、湿気ている。つまらない。もう少しミクロな話をしてほしい。
たとえばデリダは『グラマトロジー』で自然科学における記号使用が
言語学の範疇では扱えないことを指摘していた。
例えば微分積分学において
ニュートンの記号法ではなく、ライプニッツの記号法が残ったということ、
こういうことをマクロではなく、ミクロスコピックにグラマトロジックに
論じる必要が絶対的にある。しかし、突っ込んで論じた論文なんて見たことがない。
デリダの『グラマトロジー』は重要な一歩であり、科学哲学と記号論を結ぶ
新しい学の可能性を示唆している。
マクロ科学哲学に対抗するミクロ科学哲学を創始すべし。

218 :考える名無しさん :2001/06/30(土) 14:26
>>217
ネタですよね?

219 :考える名無しさん:2001/06/30(土) 19:30
>>218 マジです。 草稿書いてます(笑)
『ミクロ科学哲学1:プロレゴメナ』

220 :哲板ROMらー:2001/07/01(日) 03:58
>>219
いや〜、マジ面白そうです。
頑張って下さい。

221 :わかりません:2001/07/01(日) 06:05
>OFW氏(どうぞ、ご自愛ください)
たぶんにいちご姫氏への批判を通して分析哲学の問題圏に対する
批判がおありなのだと解釈しました。多分そうでしょうね。
OFW氏のご指摘において重要と思ったのは、認識は実践に基づくというご指摘
ですね。科学史を無視した科学哲学があって、これに対して科学史的なアプローチが
出されたことは、至極当然のことであって、だからといって、客観主義か相対主義か
という議論にはならないんじゃないか、というご指摘は、極めて正しい。
ただし、哲学的側面から言うと、これはやっぱり客観主義と相対主義の対立という図式
においてのみ語り得るものです(後期のヴィトゲンシュタインに希望があります)。
哲学の問題とは何かとは、そういう意味で、とても古臭いテーマを再び持ち出して、
これがやっぱり問題だと確認することか、または、若干の回答を与えるだけにとどまる
かのいずれかのことではないかと思っています。
ややご指摘の内容に即してコメントすれば、氏の唯物論に対しては、身体論的リアリティ
をもう一度確認しておく必要があるんだというのが私の反論ではあります。
または、身体論的ホーリズムを拡大した形でのホーリズムへの方途もあるのではないかと
考えています。

>217
私もマジ面白そうと思うのですが、ご指摘のミクロ科学哲学は、いかにして哲学であるか
という点で、科学内部的問題圏に収まってしまうのではないか、という懸念があります。
たしかに量子論(量子力学?)についての科学哲学などもありますし、科学哲学の
方向性としてありそうなのですが、ご主張の意図としては、ちゃんとした科学史の
構想として、記号論の導入をお考えでいらっしゃるということでしょうか。
学の方法論的改善が問題ではなく、学の前提として科学哲学には問題があった
という指摘を今までしてきたつもりなのですが…。

222 :考える名無しさん:2001/07/01(日) 13:45
>>217
面白そうなので、ついでに
次の2つの問題を具体的に取り組むことを提案します:

@ 19世紀初頭の楕円関数論において、アーベルの論文を読んだ
  ガウスが未発表の研究で自分が使っていた記号と酷似していた
  ということ。

A 量子力学におけるファインマン経路積分が数学的に実体がないまま、
  記号として整合的な結果を生み出していること

223 :OFW:2001/07/01(日) 23:08
>>221(わかりませんさん)
>分析哲学の問題圏に対する批判がおありなのだと解釈しました。
 いや、それほど大げさなものではありません。大体、分析哲学には余り詳し
 くないので・・・(それにしては偉そー?)
 ただ、総じて英米系哲学は保守的というか、規範を人為的に設定して、それ
 に対する哲学的反省に欠ける傾向が強いように思う。
 言葉を正しく使うことは、無論重要なことですが、生きた言葉とは必ずしも
 文法に適ったものでもなく、状況的な意味とは文法を超えた所にあるもので
 しょう。また、アルチュセールも言うように、分析によって得られるものは、
 総合によって得られるものとは異なる訳です(経験的合理主義の誤謬)。
>客観主義と相対主義の対立という図式
 20世紀思想は主観主義、相対主義、形式主義の時代だったと言えるでしょ
 うね。前半での結果として、ファシズム非合理主義が登場したことは銘記す
 べき。
>後期のヴィトゲンシュタインに希望があります
 この板でもいくつかスレがありましたが、結局何が言いたいのか良く分から
 ない、というのが正直な感想です。
 <言語ゲーム><家族的類似>など、反実体論の主張という事は何となく
 分かるが、かと言って積極的行動主義(あるいは実践主義)でもないし。
 言語行為について言えば、その社会的本質(根拠)を正しく把握しなくては
 ならない、と思う。それは決して全くの無根拠ではなく、対象的行為です。
>身体論的リアリティをもう一度確認しておく必要がある
 ちょと意味不明。心身相関の話?他我認識の話?

224 :Rage Against The Philosophy@至高の存在:2001/07/02(月) 00:12
ヴィトゲンシュタインの紋切型の文体、
つまりいかにも意味が確固としているように見えるテーゼを
いくつも並べる手法がダメなんだ。
研究者にすればこんなもの、引用と解釈の誘惑をいやがうえにもそそられるに決まってる。
で、その解釈の相違がまた解釈を生産してゆく、等々。
こういう見かけの科学性にたいしてOFW氏は「ハァ?」といいたいのだろう。

225 :考える名無しさん:2001/07/02(月) 00:39
科学で使う記号なんて偶然広まったのが残るだけじゃん。

226 :考える名無しさん:2001/07/02(月) 01:00
>>225 お前はバカすぎ

227 :わかりません:2001/07/02(月) 02:51
>224
お待ちしていました。
と、いうのは、>213で私が念頭に置いていたのは、哲学版でのあなたの存在であった
というのが正直なところです。どういう議論を前提にすれば内的にあなたと対話でき
るのかをしばらく考えていました。なぜなら、あなたの学識をいただければ、実りある
議論が展開できるはずだからです。もっとも、私などの駄文は満足の行くものではないかもしれ
ませんが…(ご迷惑ならお許しください)。

さて、OFW氏のご指摘の内容は直ちに了解しました。そうですね、イギリスの哲学
といっても多岐にわたっているのですが、たしかに紳士的過ぎるとかいうそういう印象
がありますね。
言語哲学の新たな展開として注目しているのは、コミュニケーション理論や言語行為論
ですが、言葉の本質として、意味の担い手であり、思考のエレメントとしての言語と、
人々の間を行き交うものとしての言語との2つがあると思います。しかし、今まで考え
られてきた言語とは、とても孤独な言語というのか、動物園で飼育されているような
言語であったと思います。それはちょうど自然に生きている動物がほかの固体や種と
ともに生き生きと共に暮らしている姿が捨象されていたかのようです。そういう意味で、
言語についての解剖学的アプローチに対して生態学的アプローチとして、言語行為論
やコミュニケーション理論を取り上げると、改めて私たちの認識についての見地が広が
るのではないかと思います。
もう少しこのスレの主題に引き寄せると、形式的合理性・計算合理性に対して
ハーバーマスがいうように合意合理性・コミュニケーション的合理性を対置させる
ことも近代理性の限界を拡張する上で有効な議論ではないか、または相対化して、
改めて議論を膨らませることができるのではないか(結局同じこと?)と考えています。
この問題圏の中でなら、>217さんが構想されているミクロ科学哲学・科学史の構想も
生きてくるのではないかとも愚考いたします。ちょっとこの点については、今後、
>222でのご指摘もあわせて展開の余地ありです。

228 :わかりません:2001/07/02(月) 03:11
上の書き込みは、代理いぬ氏の過去のコメントへの一応の回答です。
これもずっと念頭にあったことです。
身体論的リアリティというのは、メルローポンティの議論を念頭に置いています。
後期ヴィトゲンシュタインの生活形式の議論と後期フッサールの生活世界の議論とを
橋渡ししているのが彼の身体論ではないかとめちゃくちゃなことを考えている
のですが、まず私たちの世界とは、抽象されたものでも理念化されたものでもなく、
生きられている世界だからです。そして、理念化や抽象化が可能なのも、この生きら
れている世界を前提としているからこそであるというのが、彼の身体論のベースにな
っている議論ですし、世界を肉とし、そこに血管を張り巡らせ、躍動感のあるものと
して住み込む担い手が身体であるという彼の議論を念頭に置いています。
基本的にはそういう現象学的アプローチの必要性を主張しているに過ぎません。

229 :OFW:2001/07/03(火) 00:10
>>228(わかりませんさん)
>メルローポンティの議論
 メルロ・ポンティ流の現象学およびピアジェの発達心理学を弁証法的・唯物
 論的に発展させたものにチャン(トラン)・デュク・タオ『言語と意識の起
 源』があります。(最近は余り読まれていないようだが)
 動物の生活(行動)様式とその(即自的な)世界表象とが如何に関連してい
 るか、についての洞察は大雑把な見取り図ながら卓見です。
 人間は道具を使用することで自然を自己の非有機的身体とする(マルクス)。
>後期ヴィトゲンシュタインの生活形式の議論
 確か別スレで、「生活形式」よりむしろ「生活様式」の方が適切な訳だと、
 書かれていたと記憶していますが。そうなると、唯物論者としては「いや、
 人間の場合、より根本的には<生産様式>(マルクス)だ」となる訳。
 生産様式は自然の中に置かれた人間の生の再生産様式(つまり本質的な
 実存様式)を規定する基盤であり、社会的コミュニケーション手段としての
 言語も、根本的にはそこから種々の分化と発展を示すのでしょう。
>後期フッサールの生活世界の議論
 相対的・実践的な生活世界vs客観的・理論的な科学的世界の対立はミクロ
 ーマクロの対立でもある。その点で、最近の複雑系での郡司・ぺギオ・幸夫
 らの『内部観測』は優れて弁証法的な認識論だと言える。
>理念化や抽象化が可能なのも、この生きられている世界を前提としている
>からこそである
 まさにその通りで、近世の科学的・実証的知の誕生も、商工業の発展に基
 づく量的世界観の成果でしょう。

230 :わかりません:2001/07/03(火) 01:13
なんでしょう、私の知らない世界のお話になっていくので、
これはわからないです。ビブリオテカ・フィロソフィアエですか。

ちょっと知らないことがいっぱい出てきたので、ショックだったのですが、
なるほど、マルクスというと私にはアレルギーになっている部分がほとんど
なのでよくわからないのですけれども、科学というものを改めて捕らえなおすのに
社会・コミュニケーション・様式などのタームは、重要なもののように思います。
先のミクロ科学哲学の構想についてちょこっと考えていたのですが、科学の革命史観
をマクロ科学史的次元とすると、パラダイムを構築するまでの姿は、パラダイムを形成
するまでにある一定のポテンシャルの高まりというものがあって、その渦の中に
いろんな人が巻き込まれていくというミクロの現象が起きていると思います。
ただし、ポテンシャルが高まってきたところで、そこで爆発的に何かが生まれるわけ
でもなく、収束していくということもあり得る。もっとも、ある見通しがつけられ、
一種の合意が形成されていく過程と結果の中に、科学的発見というものが
成立する基盤があるのではないか。
科学的発見とした場合、科学者の生態がすでに前提されており、彼らの社会や
生産の様式がすでに前提されている以上、決して無垢な発見、それこそ
「私は見つけた」式の発見など何の意義も見出しえないのですから、
科学に対する社会的視座としての生産様式というタームには惹かれる
ものがあります。
無防備にいろいろ書いてしまいましたが、生産様式というターム
で、もう少し科学に対しての突っ込んだ議論をお示しください。

231 :考える名無しさん:2001/07/03(火) 02:46
>>230
科学技術と道具的存在者の関係についてはヘーゲルあたりが
言い始めて、マルクスは、それを敷衍したと言うのが適当でしょう。
そのテーマは、ハイデッガーの『存在と時間』で大幅に再考されて、
『現象学の根本問題』でプラトンまで遡行してしまいました。
ヘーゲルに関してはスレが立っているコジェーヴで充分かと思います。

232 :考える名無しさん:2001/07/03(火) 02:54
それと「内部観測」ですが、ハイデッガーの
「世界内存在」「二重襞」の焼き直し、簡約ヴァージョンでしょう。

233 :OFW:2001/07/04(水) 00:17
>>230(わかりませんさん)
>ビブリオテカ・フィロソフィアエですか。
 身体論という言葉が出たために、思い付いた事を説明なしに並べて、煙に
 巻く形になったようでスマソ。私なりの参考文献程度ということで・・・。
>生産の様式がすでに前提されている以上、決して無垢な発見、それこそ
>「私は見つけた」式の発見など何の意義も見出しえない
 そう思います。ポテンシャル(時代状況の潜在力?)は確かにある。ただ、
 具体的な議論は後知恵になりがちであり、発見が既に(即自的、潜在的に)
 発見していたことを後から意識化しただけのものなのかどうか、はケース
 バイケースではなかろうかと。
 「規則を作る行動も規則に従う」(伍長氏)だそうですから行動分析かな。
>生産様式というタームで、もう少し科学に対しての突っ込んだ議論
 いやぁ、余り突っ込んだ議論はネタ不足でできませんが、科学論というより
 科学技術論として考えた方が実践的でしょうか。
 最近は人間が超高エネルギーを「制御」することが可能になり、素粒子反応
 による原子力発電が実用化されていますが、ミクロの世界での量子力学的
 な不確定性は<観測問題>として、観測すらままならないのに、利用する
 とは何だ、と思う。アフォーダンス的な(地球に優しい?)「生産様式」
 とは、人間が自然と一体化(非有機的身体化)して、<共に働く>という視
 点の自覚化かな。それには現在のように、功利的人間の恣意的な目的に合わ
 せて自然を制御(正確には領有)しようとするのではなく、質料的自然の実
 現(形相化)という、技術(アート)の客観性に基づくことが必要でしょう。
>>>232
>ハイデッガーの「世界内存在」「二重襞」の焼き直し、簡約ヴァージョン
 なるほど。ただ、より実践的な面があるのは、行動と自己認知という契機が
 科学的分析の対象になり得るという、そのターミノロジーでしょうね。ハイ
 デッガーの場合はすぐ<存在の意味>とか言って、形而上学に持込もうとす
 るから。<現実性>(働くもの)の観点が欠けていると思う。

234 :わかりません:2001/07/04(水) 06:08
なるほど、ハイデガーの道具的存在者の議論は、ヘーゲルにさかのぼるのですね。
配慮というタームで道具的存在者とのかかわりが敷衍されていたことは、知っていましたが、
元ねたはヘーゲルでしたか。
これがマルクス系では技術論の方向へ流れていき、現象学系では身体論へという
流れを生んでいるということは、ひょっとしたらいえるんじゃないかなって、
思いました。もっとも、ハイデガーには身体論は必要ないですが。

すいません、時間があまりないので、続きは今夜やります。プロジェクトXも
みないで寝てしまったので、ちょっとお疲れ気味なので。

235 :・e・:2001/07/04(水) 06:41
読む考える書く寝る×365日の・e・です。
道具的存在についてはルカーチがマルクスとハイデガーの関連で
書いてましたが信憑性は薄いそうです。
道具的存在の元ネタはアリストテレスのいう技術知(テクネー)だと思いますよ。
詳しいことが分かればお知らせしまっす。

236 :わかりません:2001/07/05(木) 01:00
いいなあ、有意義なご指摘をいっぱいもらえるようになってうれしい限りです。そうですね、アリストテレス学者の
ハイデガーがテクネ−を知らないわけもないのですが、哲学史をはじめたヘーゲルもそれを知らないわけもなし、
ここのところのつながりなんかを教えていただくと、ありがたいですね。
それと、テクネーについて本格的に論じられているのは、それこそ技術論がありますから、今度機会があったら、
直接ハイデガー先生に聞いてみましょう。来てくれないかなあ、ここに、どっこいしょとかいって・・・。
それと、身体が道具を通して延長される議論とは逆に、メルロー=ポンティなんかは幻肢(切断された四肢があた
かもあるかのような感覚)を使って説明していましたが、直接、技術とか科学とかへ議論が膨らんでいくかと
いうとそうでもないですしね(議論の流れとしてはありそうですが)。

ところで、
>発見が既に(即自的、潜在的に)発見していたことを後から意識化しただ
>けのものなのかどうか、はケースバイケースではなかろうかと。
ここは、重要な点なので、ちょっとこだわりますが、ポパー流の科学哲学を当てはめてみると、発見というのは
累積的知識の増大と、それによって得られたさまざまな見地からの総合的判断からなる意図的なもの
であるといえるのではないか。これは、新しい物質なり化合物なりが偶然に発見されるということも含めて
それはあり得ると思います。何者かに要請されて、開発にあたるということ。
例えば、抗生物質の開発の歴史をたどってみると、化膿症に対して有効な薬を開発すべしとの要請があり、ふと
カビの生えた培養地を見ると可能菌が死んでいる個所があった、などというのがありましたが、これは偶然によ
る発見であり、特定の方法論を実践したことによるものではないのではないか、とい
えるかもしれませんが、逆に何を目的として行動するかという指針はすでにあったわけですし、さまざまな試行
錯誤を繰り返しながらも、軌道修正という形で、知識の累積もあったわけですし、総合的な判断もあったと思う
んです。ある意味、偶然も必然的要素として織り込まれていたとでも言うのでしょうか。
こういう意味での科学的発見というものには、ある程度意図的な発見が可能なのですし、
そういう意味ではポパー的な科学論というのは、リアリティがあるのではないか。ところが、
ポランニーがアインシュタインに手紙を書いて、あなたが相対性理論を思いついたのは、
あなたの話を聞くとずっと子供のころ星を見上げて空想にふけっていたときだったんではな
いかと問いただしたところ、「たしかにそうだ」という返事がきたというのですが、それこそ、
これ以後、突然物理学のパラダイムが代わってしまうわけですよね。
この2つの発見は、明らかに違うもののように思えるんですよ。
明らかに後者としての発見は、ポパー流の科学哲学では解釈不能なのではないか、だとしたら、
それはどうやって捕らえられるのか。ちょっとこだわりたいと思っています。
つまり、第一に問題の設定が何者かによって要請されるのではなく、自らのうちにすでにある
という点。第二に、既存のタームを使いながらも、自らの問題意識の中に引き込んで消化され、
まったく別のものに生まれ変わっていることなどは、ちょっとポパー流には解釈しにくいとこ
ろがあるだろうと思っています。

237 :考える名無しさん:2001/07/05(木) 23:31
長いよ。
咀嚼できたものを書き込んで下さい。

238 :わかりません:2001/07/06(金) 01:57
反省します。

239 :考える名無しさん:2001/07/06(金) 03:02
いや、でも長くてもテクニカルタームだらけで
短くなるよりはマシだと思うけど。

240 :わかりません:2001/07/08(日) 01:46
では、咀嚼して。
ある要請を受けて科学上のあるものが発見される(化膿症に対する抗生物質など)
過程は、その中に偶然の要素(ペニシリュウム菌の発見とペニシリンの発見)があ
るにしても、目的にそったものを見出せそうな可能性のあるものを手当たり次第に
取捨選択し、徐々に対象を絞り込んでいくという意味では、機械的であり、ちょう
ど刑事ドラマのローラー作戦に似ている。
これによって医療が劇的に改善され、薬理学のパラダイムがカビとカビの分泌物の
それにシフトしたとしても、化膿症の特効薬が発見される過程で例えばハエはなぜ
化膿症をもたらす菌にまみれていても化膿しないのかという仮説のもとで、この
ローラー作戦の容疑者となっていたとしたら、今ごろ製薬会社はハエをタンクの中
で培養していたかもしれないということがいえるのではないか。
これに対して、相対性理論は光の速度が不変であり、どのような観測者からも一定に
観測されることを述べていますが、これはほぼローラー作戦によって得られたもので
はなく、発見者にはすでに直感によって知られていた事実であり、逆にどう表現するか
その方法を模索していたといいます。
たしかに、これはまったく異なる分野での話ですし、比較の対象として並べるのは
おかしいともいえるのですが、だとしたら、すでにこれを並列して論じようとする
試みは破綻すべきですし、だとしたら、改めて科学を捕らえる捕らえ方を検討すべきと
いう主張です。

241 :考える名無しさん:2001/07/08(日) 02:42
最近聞いたカエルの胚からの器官形成の制御の話が、科学史の一場面
として面白かった。学会では、その方向性は皆が駄目だと思って
呆れていたのだが、最後には器官形成が制御されてしまったのだそうだ。
何とかというタンパク質の濃度と温度で条件を変えて成長させると、
ひとつの胚から筋肉とか心臓とかいろいろな器官の形成させることが
できるようになった。今はカエルの胚だが、近い将来
人間でもできるようになりそうな雰囲気だった。

242 :すかすか:2001/07/08(日) 04:51
この板はじめて見たけど、「科学哲学・分析哲学」のところになんで
ヘーゲルやハイデガー、おまけにマルクスの名前がいきなり出てくる
んだ? 洗脳してるのか??(笑)

243 :わかりません:2001/07/09(月) 01:03
>241
万能細胞のようなものですか。
遺伝子の問題については、1960年代から盛んな議論がありましたが、
ポランニーがいうには、DNAが問題なのでなくRNAが問題であるということを
盛んに言っていました。
ごくあたりまえの議論なのですが、遺伝情報という概念は、情報として受け継がれて
いるものと、受け継がれつつ常に発現するものとの2つがどうもあるようです。
遺伝子の中に書き込まれている情報のすべてが実際に発現するのではなく、
その中のごく一部が読み取られ、発現し、実際の個体を形成するというもので、
遺伝子に書き込まれた遺伝情報を選択し読み取って実際に発現させる仕組みが、
重要なのだということをポランニーは晩年近くで言うんですね。
実際、ハエと人間の遺伝情報というのは、情報量としてはほとんど大差ないそうです。
ところで、私も、NHKで魚かなんかの頭だけや心臓だけというように各パーツごとに培養され
ている映像を見ましたが、各部分を発現させる一定量のホルモン(?)の量と温度
で、どの部分を発現させるかを決定することができるそうですね。近い将来、
それは確実に自家移植として臓器移植の分野に応用されるそうですが、
ここでいいたいのは、蓄えられた情報を選択的に読み取り、発現させる場の力と
いうものが存在し、それが個体を個体たらしめているものを引き上げている
ということがいえるのではないか。また、器官形成が遺伝子にすべて還元される
のではなく、一定の関係から生まれる場の力によって制御され得るという
遺伝子還元論的視座から関係論的視座への移行という生物学上の哲学の転換が
ここには見られるのですし、関係論的に場の力に注目したポランニーがいう
「周辺制御の理論」や「from―to理論」が、ひょっとしたら科学を理解する上で
有効なアイディアを提供してくれるのではないかということです。
家族的類似性とはまったく逆の議論になるのでしょうが詳細はいずれ…。

244 :わかりません:2001/07/09(月) 01:14
ついでに補足。
「一定の関係から生まれる場の力によって制御され得るという遺伝子還元論
的視座から関係論的視座への移行という生物学上の哲学の転換がここには
見られる」と書きましたが、遺伝子一元論としての還元主義からすれば、
器官ごとに個別に発現させるということはナンセンスだと考えたからこそ、
学会では呆れられたんでしょうね。そのようなことは、遺伝子が許さない
とでも考えたのでしょう、還元論の立場からすれば、まず遺伝子ありきですから。

245 :考える名無しさん:2001/07/09(月) 01:24
最近の温暖化の問題は、科学哲学のよい研究材料になるとおもう。
温暖化の原因が炭酸ガスであるとする仮説の根拠は
きわめて不明確なのに、これほどまでに世界を巻き込んだ
大問題に発展した。これは、「天動説の再来」と後世の研究者は
言うだろう(実際は天動説のほうが遙かに土台はしっかりしているが)。
どうも放っておくと科学者はながいものに巻かれてしまう習性がある。
科学者集団の営みに、anything goes! を意図的に取り入れる
必要があると思う。


温暖化の原因についてわかりやすく説明したサイト
http://www32.tok2.com/home/noyatetuwo/

246 :考える名無しさん:2001/07/09(月) 01:58
>>243
>各部分を発現させる一定量のホルモン(?)の量と温度
>で、どの部分を発現させるかを決定することができるそうですね。

そうですね。これは実は日本人が日本で発見して、最近
紫綬褒章だか何だかもらってたんです。

247 :わかりません:2001/07/09(月) 03:04
>245
原因と結果の反転ですね。
産業・工業化社会に対する後ろめたさに対して科学的にそれを解消しよう
という動きが生じるというのは理解できることですが、これはどうも
私やOFW氏が批判する近代理性と客観主義とが奇妙に結びついた
社会現象として理解できるかもしれません。ですから、
炭酸ガスの増加が結果として地球温暖化を引き起こしたのではなく、
結果として増加したという説を出したとしても、これを受容する下地
が社会の中になければ、いわゆる定説とはならないでしょうし、首相も
ヨーロッパとアメリカとを共通のテーブルにつかせて議定書にサインさ
せることも出来ないでしょう。問題は、地球温暖化が抱える共通の問題
は何かを経済の問題と切り離して改めて提起できるかということでしょうし、
自然科学の問題としてもう一度議論しなおす共通の土俵を設定できるか
という問題でもあると思います。

>246
勲章をもらうだけの価値はあると思いますよ、マジで。
もっとも、このレベルでは、どこまで遺伝情報が制御され得るのかと
いう問題があると思います。
人間の遺伝子の中には、いろんな過去の生物進化の情報が詰まっている
ので、個体発生の段階でその進化の歴史をたどるということがあります。
例えば、人間の胎児は、成長の段階で尻尾があったり、エラがあったりしますが、
じゃあ、一定量のホルモンと温度管理で人間の遺伝子からシーマンのような
人間魚がつくれる可能性だってあると思うんですが、どうもそうじゃなさそう
ですね。もうちょっと、簡単なもののようです。
擬似的にRNAが読み取る内容を人為的に操作することができるようになると
人間の遺伝情報から、魚や爬虫類だって作れるかもしれません。

248 :OFW:2001/07/09(月) 04:58
>>242(すかすかさん)
>洗脳してるのか??
 理性は洗脳できないでしょうね。マルクスの話は>>172の質問に対する回答
 から始まったのです。スレのテーマに関する分析哲学系のレスが途絶えた
 ようなので、話題展開という位です。本当はそちらとの議論が面白いのです
 ので、ご意見があればどうぞ。
>>243(わかりませんさん)
>家族的類似性とはまったく逆の議論になるのでしょうが
 ヴィト派の人の意見が欲しい所ですね。
>>247(わかりませんさん)
>人間の遺伝情報から、魚や爬虫類だって作れるかもしれません。
 何とも恐るべき結論。ちょうどマルクススレで類(属)と種の話をしました
 ので、アレルギーが無ければ参照下さい。
 「爬虫類である人間」が可能になったと言えば、形式主義論理学の人は喜ぶ
 だろうが、さてそれは人間なのか、と問えば如何に?
 また昔、岡田節人氏は、発生学には表千家と裏千家があり、表は理詰めで攻
 め、裏はローラー作戦的に片っ端から実験をする流派だと言っていた。
 岡田氏自身は裏千家だそうで、どちらが勝利するかは不明です。

249 :JOKER:2001/07/09(月) 23:23
>問題は、地球温暖化が抱える共通の問題
は何かを経済の問題と切り離して改めて提起できるかということでしょうし、
自然科学の問題としてもう一度議論しなおす共通の土俵を設定できるか
という問題でもあると思います。

わかりませんさん、コメントありがとうございます。
共通の土俵について。
通常科学のパズル解きゲームを行っている科学者は、自分の土俵から
出ることはなかなかできず、とくに現在のように圧倒的に炭酸ガス犯人説が
主流となっている状況では、自分の仮説と対立仮説を鳥瞰する位置に
視点を移動させるということは難しいですね。2割3割が転向するように
なれば、加速度的に転向が進むのでしょうが…
クーンのいうように、この問題でも、まったく異なる仮説を持ち出して
研究をはじめたのは、気象学者ではない門外漢のPiers Corbynでした。
彼の気象予報は非常に正確なので、彼のつくった気象予報会社は大当たり
しています。
http://www.weatheraction.com/

科学の社会では、しがらみがつよくて、かなりしっかりした証拠が
出てきてもなかなか身動きがとれない状況が、何度も繰り返されていますが、
それを改善するためにも、科学はどうあるべきか、というテーマは、
重要だとおもいます。

250 :考える名無しさん:2001/07/10(火) 00:01
>>249
Piers Corbynは何をやっていた人ですか?
どういう方法で予測してるんですか?

251 :考える名無しさん:2001/07/10(火) 01:20
>>249
>科学の社会では、しがらみがつよくて、かなりしっかりした証拠が
>出てきてもなかなか身動きがとれない状況が、何度も繰り返されていますが、
>それを改善するためにも、科学はどうあるべきか、というテーマは、
>重要だとおもいます。

科学者は若くして老成する人が多いし、自分のクローンを製造して権力構造を
作る輩が沢山いるからね。その上日本のような中央集権国家の場合、
金の出所が一つになって、権力構造の弊害は尚更大きい。
科学哲学で科学者の倫理を研究して、同時代の科学者倫理を
適時に矯正する機能が働くようにならないですかね。
公正取引委員会じゃなくて公正科学者倫理委員会みたいなの作ってよ(笑)

252 :わかりません:2001/07/10(火) 02:22
ポランニーを例に出すのはどうも何ですが、「科学の自由のための協会」
というのを作って、ソビエト社会主義における科学観や科学の扱われ方
に反対したりして、その成果として哲学的主著「人格的知識」を書いたり
しています。科学の自治というのは極めて大きな問題でもあり、科学的
知識も人間の知の一側面を表しているということへの認識は重要でしょう。
また、この問題は、それこそハイデガーが言うように存在の運命とでもい
うようなものがあって、ここで散々論じられてきたように、近代知の宿命
のようなものもあるのでしょう。この点に関してはペシミスティックにな
ってしまいます。
JOKER氏、ご指摘ありがとうございました。

>242さんへ
ファイヤアーベントの自伝では、彼は大学の授業でプラトンや
ギリシャ哲学の著作をテキストにして科学哲学を論じていたというのですから、
ヘーゲルやハイデガーが科学哲学を論じる際に出て来ても何も驚くことはないでしょう。
私は、できれば自分の言葉で語りたいのですが、一応押さえとしてそういう知識も必要
だと思っています。

ところで、ティヤールドシャルダンは意識の進化はオメガ点へ向かっているという
ことを言っていたと思うのですが、人間の脳の構造は両生類や魚類や爬虫類の脳を
もっていて、重層的な構造をもっているそうですね。また、人間の免疫システムな
どを見ると、原生動物のアメーバを体内にもっていることによって、成立している
としか思えないのですが、人体には生物進化のすべてがつまっているように思えて
しかたがありません。なぜ、このようなすべての生物の集合体のような生物が生まれ
たのか、いわゆる進化論だけで説明しきれるものではないんじゃないでしょうか。
何か人間の生命力の強引さというのか、しぶとさみたいなものを感じます。
ちょっと話がずれましたが、続きはいずれ…。

253 :ι:2001/07/10(火) 08:29
>>252
>ファイヤアーベントの自伝では、彼は大学の授業でプラトンや
>ギリシャ哲学の著作をテキストにして科学哲学を論じていたというのですから、
>ヘーゲルやハイデガーが科学哲学を論じる際に出て来ても何も驚くことはないでしょう。

ヘーゲル、マルクス、ハイデガーが出てきましたが、カントは今だ重要では。
カントの「純粋理性批判」はミクロ科学哲学(笑)

>なぜ、このようなすべての生物の集合体のような生物が生まれ
>たのか、いわゆる進化論だけで説明しきれるものではないんじゃないでしょうか。

ここんところ、興味あります。ティヤール・ド・シャルダンを引用しているという
ことは、ある種の神秘的生気論のようなものを考えてるのですか?
ベルグソンの「創造的進化」もありますよね。

254 :JOKER:2001/07/10(火) 15:20
>>250

Piers Corbyn の専門は天文学です。
詳しい予測の方法は“企業秘密”です。
太陽活動の観測データを使っているのでしょうが…
この分野の研究の第一人者であるスベンスマーク
http://www.dsri.dk/~hsv/
よりも、精密なモデルを完成させているのかも
しれないです。

木の年輪中の放射性炭素量の変化から、
太陽活動の変化がわかるのですが、
その変動の大きな周期はだいたい2世紀で、
そろそろ太陽の活動が低下に転じるであろう
時期にきています。

それでコルビンは、
“温室効果予言は益々足を速めて劇的な破綻に向かって
突っ込みつつある”
と発言しています。

今世紀には、温暖化ではなく、寒冷化に向かうことを
データは示しているのですよ。

上の話だとわかりにくいと思うので、太陽活動と地球の
気温の関係について説明しておきます。

a.宇宙線が地球大気に突入するときに雲ができる。
(ウイルソンの霧箱の実験でおなじみ)
b.雲には太陽のエネルギーを遮る日傘効果がある。

上の二つを前提とすると…

1.太陽活動が活発になると、太陽風が宇宙線をおさえて
  地球大気に突入する宇宙線量が減る。
2.宇宙線量が減ると雲が減る。
3.地球の日傘となる雲が減ると、気温、海水温が上昇する。
4.海水温があがると溶けていた炭酸ガスが大気に放出される。
5.炭酸ガスは温室効果があるので、温暖化の犯人にされる。

5は余計でしたが、太陽活動がそろそろ低下しはじめそうな
時期にきているので、コルビンは、“温暖化予言は破綻する”
だろうと発言しているのです。

255 :JOKER:2001/07/10(火) 15:42
>>251
>公正取引委員会じゃなくて公正科学者倫理委員会みたいなの作ってよ

その委員会が科学者で構成されていたら…
いや、もしそういうのができて、文部科学省が人選したら、
大学の大御所研究者の意見をきいて、結局大御所ばかり
になりそうですね。

有名なところでは、地球外文明探査支持者でその分野では
大御所のカール・セーガンが、地球外文明の非存在証明を
やったフランク・ティプラーの論文を審査してかたっぱし
からボツにしていた、という話があります。

256 :わかりません:2001/07/11(水) 02:18
エランビタール!
忘れてました。ベルグソンも、そういえばカトリックの神父様だったと思いますが、ティヤール・ド・シャルダンも
神父様だったですね。
私は直接的に神秘的生気論を考えているわけではないのですが、具体的にはウイルス進化論のようなものを考えてい
るんですね。つまり、病気が生物の進化を促すという考え方ですが、生物の進化の過程には、2つあると思っています。
それは、直接的な細胞融合と、RNA型のウイルス(レトロウイルス)による遺伝情報の直接的書き換えがあって、
細胞融合型進化とは、ゾウリムシやミドリムシには、本来異なる生物の遺伝情報をもった核が1つの細胞に複数存在し
たり、動物的側面と植物的側面とが1つの細胞内に同居していたりするものを指し、ウイルス進化は、ウイルス性疾患
によって機能不全を起こしたり、機能過多になった際に自発的にこれを補う機能を獲得することによって生じると考え
ています。どちらにしても、個体にとっては大変なストレスですが、これをどうにか克服すると、劇的な進化が起こる
と考えていますが、では、どうしてこのようなことが可能なのか。ここからは、神秘主義に行くか、もっと生物学的な
何かに回答を求めるか大きく分かれると思うのですが、私は率直に言って「根性があったから」(!?!?)と考えてい
ます。こういうこと書くと電波飛ばしまくりだとは思うのですが、では、この根性の存在論的機構はどのようなものか、
もしかすると神秘主義に行くのかもしれませんが…。電波野郎とかいわれるんでしょうか…。

広義の科学哲学上、論理実証主義運動以前に科学の認識論的基礎を築こうという動きとしては、新カント派などが挙げ
られると思います。代表としてはリッケルトなどがそうでしょうか。しかしいまどきリッケルトを読む人っているんで
しょうか、入手困難だし。
カント自身は初期にかなり本格的な宇宙論を展開していて、宇宙論の歴史にも登場してくると思います。そういう意味
では科学に対しての当時の最新知識は持ち合わせていたのでしょうから、考えていたと思いますよ、科学については。

地球温暖化における太陽活動原因説は、有力なんではないでしょうか、勉強になります。

257 :ROM:2001/07/11(水) 02:27
>わかりません氏
もう少し、短い位置で改行して頂ければありがたいです。

258 :ロリ@ヲタ:2001/07/11(水) 02:30
http://www.interq.or.jp/yellow/shinya/okuti.htm

259 :考える名無しさん:2001/07/11(水) 04:09
>>254
詳細な予言方法を公開しないような科学者が信用されるわけありませんね。
自業自得というものです。そもそも予言方法を隠してどうやって
他人がその予言を評価できるというのでしょうか。

260 :考える名無しさん:2001/07/11(水) 14:32
>>259
あんた、予言方法って、、、^^;

それに貴方が思うよりずっと科学は政治的でドロドロしたもんよ。
哲板でそんな馬鹿っぽい事言わんでよ。

261 :考える名無しさん:2001/07/12(木) 00:52
>>259
>他人がその予言を評価できるというのでしょうか。
予言があたるかどうかだけじゃないの(笑)
他の人より的中確率が高いから信用された、こんなこともわからんかな。

262 :ι:2001/07/12(木) 01:47
>忘れてました。ベルグソンも、そういえばカトリックの神父様だったと思いますが

いやベルグソンは神父だったことはないですよ。なにしろベルグソンはユダヤ系だしね。
「根性があったら」というのは、よくわかりませんが(笑)、
神秘的生気論と、最新の分子生物学を結びつける上で、ひとつネタがあるんですが(笑)・・・
数年前に公開されたジョージ・ルーカスの「スターウォーズ・ファントムメナス」で、
ルーカスは、それまでのフォースという神秘的生気の教説に新しい要素を加えたんですね。
それは「ミディクロリアン」という生命体内でForceと生命体を結ぶウィルスみたいな
やつです。たぶんルーカスは彼のForce論が現代の生物学の知見と
折り合わないことに気づいたんでしょう。それでRNA的な体内ウィルスで
Forceを媒介するものを付加せざる得なくなった、というわけです。
これは現代において神秘的生気論が避けられない争点を表している一エピソードだと思われますが、どうですかね。

263 :わかりません:2001/07/13(金) 03:38
>257気をつけます。

この手の議論を今のところ電波という人がいないというのは、私の議論が
すでに電波であるとの認定を受けているのか、そもそも少なくともここで
は何をいってもいいという前提があるのか、ちょっと不思議です。

とはいえ、エランビタールがより高次の生の飛翔を遂げさせる必然的な力
としたら、もっとも、ベルグソンは終始一貫してエランビタールをテーマ
として論じているようですが、創造するという行為すべては、このエラン
ビタールに基づくというのですから、科学上の発見という行為の結果も、
改めて考え直すべきテーマですね。
ところで、私の「根性」とは、ひょっとしたらエランビタールのことかいな
っていう気もしてきました。
まずは、ベルグソン関係のものをちょっと読んでからコメントすることにします。
「創造的進化」買ってきます。

264 :一日一禅。:2001/07/13(金) 07:31
 全体論、一般システム論、相対性理論、サイバネティクス、
構造主義、ホーリズムって、似たような概念だと思うんですが、
共通の背景があるのでしょうか?

 宜しくお願いします。

265 :ι:2001/07/13(金) 20:11
>>264
>全体論、一般システム論、相対性理論、サイバネティクス、 構造主義、ホーリズム

似てると言われても、もう少したたき台にできるような立論が必要では??
「一義性」という概念が共通の背景にあるような気は若干するんですけどね。。。

266 :わかりません:2001/07/14(土) 03:56
創造的進化絶版らしいです。と、いうよりも、ベルクソン全集が絶版という
ことらしいので、入手が難しいようです。

>264
これって、似てるんですか。それでは、簡単に見取り図を描くこととします。
一般システム論というと、ルーマンとかをさすんでしょうか。一般システム理論といえば
ベルタランフィをさします。それで、ベルタランフィ自身は、サイバネティックスは、一
般システム理論において、システムの制御理論として特殊なケースとして包括されるとい
うことを言います。サイバネティックスは生物学的にはホメオスタシスと同じように扱わ
れますが、ホメオスタシスだけで、生物学が語りえないのと同様の理由によります。
それで、ベルタランフィ自身は、いわゆる論理実証主義運動とは別に、生物学的なアプロ
ーチから、システムという概念を用いて自然哲学の構築を目指そうとしたといってもいい
と思います。
「一般システム理論」(1968)によると、カルナップらに代表される科学の統一というテー
マは、最終的にすべてを物理学の用語で記述することを目指しており、同時にすべての学
の物理学への還元を目指していたということができるが、生物学の物理学への還元は果た
して可能かという問題が、未解決のまま残されていたわけですね。
これに対して、一般システム理論では、たしかに物理学の生物学への還元は未解決のまま
残るにせよ、あらゆるレベルの実在を物理学のレベルに還元することに反対し、システム
という概念を導入します。システムとは、物質へは還元不可能な秩序であり、あらゆるレ
ベルに等しく見出されるものとすることができると思います。これはこのままホーリズム
という概念と直結するのではないでしょうか。
上位の層は下位の層に依存しながらも自立性を保ち、下位の層に対して意味として立ち現
れるが、またさらに上位の層に対してはその基盤として位置するという関係にあり、各々
は、全体として一定の秩序を保っているというものだと思いますが、この「層」という言葉
をシステムという一定の秩序系という言葉に置き換えると、ぴったりすると思います。
この際、層またはシステムをどこまで拡張できるかというのがベルタランフィの一般シス
テム理論において問題となると思います。と、いうのは、最下層を素粒子や何かしらの物
質に定めるとしたら、その時点で還元主義になってしまう恐れがありますし、同様に最上
層を定めることも同様です。
ポランニーはこの点慎重で、この最上下層については無限に拡大し得ると考えています。
もっとも、ケストラーなどは、ちょっと間違うと還元主義になるんですね。微妙なところです。

ただ、ベルタランフィは、「開かれたシステム」ということを盛んに言うわけですが、生物が外
界との関わりを保ちつつ、一定の系を保っていることを念頭においているこの概念に対して、
ルーマンは「閉じたシステム」ということを言い出してベルタランフィのシステム論を未完成の
システム論として批判するというのは、なんかで以前きいた話です。動的システムに対して静
的システムというものが成立するらしいのですが、詳細は不明です。
以上いえるのは、いわゆる科学における還元主義、厳密性に対するデカルト的要素還元主義
に対しての批判として、それぞれのレベルの秩序そのものを大切にする立場ということ、が
いえると思います。

267 :ι:2001/07/14(土) 04:04
>>266
>創造的進化絶版らしいです。
岩波文庫のやつなら新宿南口の高島屋横の紀伊国屋には
平積みになってましたよ:
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/
のBookWebで注文してみれば?

268 :わかりません:2001/07/14(土) 04:05
ながくなってしまいましたね。ながくなったついでに。
それでは、一般システム理論における上位のシステムの創造は如何に?
というテーマが浮かんできますが、ベルクソンのいう創造的進化
と、ポランニーがいう創発という概念との比較を通して科学の運動における
発見という現象の本質や、私の言っていたいわゆる「根性」という言葉の
意味もひょっとしたら明らかになっていくのかしらと、大風呂敷を広げたところで、
またいずれ…。

269 :わかりません:2001/07/14(土) 04:07
>267
ありがとうございます。感謝。

270 :ι:2001/07/15(日) 01:19
>ポランニーはこの点慎重で、この最上下層については無限に拡大し得ると考えています。
>もっとも、ケストラーなどは、ちょっと間違うと還元主義になるんですね。微妙なところです。

システムの最上下層の問題は微妙な争点ですので、もう一つの例をあげておきます。
それはヘーゲルです(笑?)。ヘーゲルの弁証法システムでは
最上層=最下層
という円環によってシステムが完全化されています。
巨大生命論=宇宙論=極小生命論=素粒子論
ということです。何なんだ、この図式は(笑)。

271 :わかりません:2001/07/15(日) 03:43
それって、クザーヌスの最大なるものと最小なるものとの一致というテーゼを受けてるんだ
と思いますよ。
【反対の一致 coincidentia opposito~rum】
「有限なもののあらゆる対立を自己の内に統一している絶対である神の属性。
したがって、神は、可能であるとともに存在であり、最大であるとともに
最小である。また、神は万物の包含であり、逆に、万物は神の展開である。
それは、無限大の円周が直線となり、無限大の三角形の底辺と他の2辺が一致し、
無限小の円が中心と一致するようなものである。神のように無限なるものは
悟性的な矛盾律を越えており、そこでは矛盾するものも一致するのである。
この発想は新プラトン主義的であり、排除しあう対立性質を近代的極限概念
で解決したものである。」だそうです。
ヘーゲルは読んだこともないので、まったく知らないのですが、それは汎神論
ですね。クザーヌスとヘーゲルはなんか関係があるらしいです。
ちなみに一般システム論は、クザーヌスに献じられており、自らの哲学を
クザーヌスによって擁護しています。

272 :ι:2001/07/16(月) 23:19
>>271 クザーヌスは読んだことありません(^^;)。新プラトン主義?それか
グノーシス派?でしたっけ???
久しぶりにティヤール・ド・シャルダンの名前を聞いたんで
「現象としての人間」を借りてきました。
なんだか懐かしい風を感じるなあ(笑)。

273 :わかりません:2001/07/17(火) 04:15
そうですね。案外盲点なのですが、近代哲学の形成に中世哲学がどれだけ関与して
いるかというテーマは比較的最近のもので、これは20世紀初頭において中世哲学
の復権がカトリック教会から打ち出されたのを受けていると思うのですが、それは
それで専門の方がいるので、ここでは省略します。クザーヌスは私も大学で少し
読まされた程度なので、ほとんど聞きかじりです。枢機卿だったわけですから、
正統派なんでしょう。

私はここで何か書く際に講談社現代新書の現代哲学辞典と現代科学思想辞典をよく
使いますが、これ、昭和45年と46年に書かれたものなんですね。
ここでは、伊東俊太郎がいろいろ書いていて、シャルダンやらバシュラールやらに
ついてもコメントがあって、今現在の科学哲学の見取り図と比較しながら読むと
面白いのですが、科学哲学の分野では常にアトミズムとホーリズムの対立があって、
個別的には物理学か生物学かという対立などが含まれています。これは、還元主義
批判につながりますし、面白いんですけどね。
ファイヤアーベントにつながる議論では、論理実証主義批判ばかりで問題が矮小化
されている傾向があって、それはそれでいいんですが、あくまでもそれは近代理性
批判であって、科学の問題としては、やはりアトミズムとホーリズムの対立を如何
にどうにかするかという統一的視点、科学における世界観にかかわる問題をキチン
と論ずることが必要だと思います。

274 :すかすか:2001/07/17(火) 04:44
※哲学板来訪二度目の感想

扱っている対象の性質上ある程度は仕方のないことと認めるにしても、
それでもなお学説・人名引用がやたら多い(哲学板全体を通して)と
感じるのは、僕だけなのだろうか?(笑)

275 :考える名無しさん:2001/07/17(火) 05:15
>>274
そうでないスレもあるから、探してみよう。

276 :一日一禅。:2001/07/17(火) 17:06
ιさん(何て読むんですか?)、わかりませんさん、
レスどうもありがとうございます。
大変、身のあるレスでとってもうれしいですが、
俺の今の力量じゃ、難しいッス。
勉強ッス。
ただ、還元主義に対する概念として生まれてきた
のかも知りませんね。
なんかホロンの概念って、「火の鳥 宇宙編」に似てませんか?

俺、講談社現代新書の「現代思想を読む事典」を手元に置いてます。

お二人は頭が良さそうですね。
学生ですか?
俺は法学部のムチな4年です。

277 :考える名無しさん:2001/07/18(水) 00:19
私もはやくペラペラ哲学しゃべれるようになりたい。

278 :わかりません:2001/07/18(水) 00:38
>274
私以外の人名や学説を扱わないようにしたところで、私という人名における私
の学説というものを開陳することになりますし、もしこれを是としたとしても、
学説や思想が個人の実存に根ざしている以上、ひとつのよりどころとして人名
をあげることに私はさして抵抗はありません。
ただ、単に、あなたが発言とはそれに付随するすべてのものを発言者それ自身が
引き受けるべきだという主旨に立脚しているだけだというのであれば、対話とは
何であるか、コミュニケーションとは何か、ということについてぜひ、ご意見を
伺いたいと思います。もし、発言に付随するすべてを発言者が引き受けるとした
ならば、沈黙こそ最大にして唯一の発話行為というものになりはしないでしょうか。
だからこそ、私たちがここで語っている内容について、あなたは沈黙するのでしょうか?

>276
火の鳥宇宙編における生命観においては、2つのポイントがあると思います。
1.輪廻転生
2.汎神論
1.は生まれ変わりということですし、火の鳥全体を貫くテーマと思いますが、
永遠の命というものがあるのではなく、命の属性として永遠があり、個物としての
生命ではなく、生命という運動に永遠性があるのだというものだと思います。
ここはちょっと微妙なところですが、火の鳥は地球の化身としても描かれており、
地球上の生物と比較して永続的であるのか、そもそも火の鳥自身が永遠の生命なのか
というところがはっきりしないように思いますが、どうでしょう。
2.は、極小と極大においてもそれぞれに生命のかたちがあるという主張と共に、
世界は生命であふれているという主張ですよね。こういう神学を展開する人もいるには
いるんですが、異端ですよね。ただし、極大と極小の生命が比較的並列に描かれている
というのが、わかんないですよね。
ただし、一日一禅氏の言わんとするところは正しいと思います。
ところで、「現代思想を読む事典」、私ももってて「現代哲学事典」と比較しながら
読んでます。ちなみに私は大学を出て十うん年目の会社員で、ネット関係の仕事を
しています。趣味でここに書き込みしている程度です。

279 :考える名無しさん:2001/07/18(水) 01:48
高校生に「科学・分析哲学」を教える場合、または自習させる場合、
どのような本を使ったら良いのでしょうか? お勧めの本があった
ら教えてください。

280 :考える名無しさん:2001/07/18(水) 01:54
>>279
あるわけねえだろ?
そんなものよ!

281 :考える名無しさん:2001/07/18(水) 21:21
>>279
科学の哲学 放送大学テキスト

282 :一日一禅。:2001/07/19(木) 00:44
 わかりませんサン、レスどうもっす。
 火の鳥宇宙編って、あれも汎神論なんすか?
 わかりませんサンが持っている「現代哲学事典」、
今日買いました。
用語を調べる時、適度にまとめられていて、使いやすいですね。
 ただ、「現代思想を読む事典」も「現代哲学事典」も
近代以前の人名索引が少ないのがちょっとつらいです。

 >>279さん、山川の倫理用語集が良いのでは。

 

283 :ぷちとまと:2001/07/19(木) 00:57
>>279
科学哲学・分析哲学、分析哲学の中の科学哲学のどれをトピにするかで
まったくアドヴァイス内容が変わります

284 :わかりません:2001/07/19(木) 06:36
>279.283
以前から考えていたんですが、いわゆる科学について教えるという際に、
理科や数学の教科書を使って、法則や定理などの内容を理解させるという
ものと平行して、それらを誰がいつどうやって見つけ出したか、ということを
高校の授業でやったら面白いと思うんですね。
高校でやる微分積分とかも、デカルトやライプニッツやガリレオというような
特定の個人と時代背景がわかると、今時分がやっていることは、17世紀のこ
となんだ、宇宙や自然を理解するために生まれたんだって、ちょっとワクワク
しません? 私は「栄光亡き天才たち」って漫画大好きなんですけど、これをや
ると、いいんですよ。または科学史上の「プロジェクトX」。もちろん捏造はい
けませんが。
私は科学上の発見という出来事に関心があるんですが、これは、発見をした
科学者個人に焦点を当てることが出来ますし、時代に焦点を当てることも出来
ますし、科学や哲学に焦点を当てることもできるんですね。そういう物語や
思想が好きでやってるというのが正直なところですし、そういう夢のような話
が好きだというのがあるんですが、私なら、そういう視点で自分でテキスト作ります。
もちろん、参考にするのは"Personal Knowledge"

285 :考える名無しさん:2001/07/19(木) 14:34
>>284
科学教育とは基本的に“従順な羊”の飼育プログラムであるので、
積極的に既知理論、常識を覆すことを試みる習性を身につけさせる、
という意味で、賛成。

286 :スーパー名無しくん:2001/07/19(木) 14:35
賛成

287 :スーパー名無しくん:2001/07/19(木) 14:36
反対の反対に賛成なのだ

288 :WIZARD’S筆頭WIZ:2001/07/19(木) 14:37
あげだあげあげ

289 :考える名無しさん:2001/07/19(木) 17:50
海王星の発見が、ニュートン力学、ひいては科学の輝かしい勝利であるかの
ように教えるのは、「科学」が「宗教」と同じく、その根底に信仰があり、
崇拝の対象を必要とするからですが、あれはただの偶然だと、本当のことを
高校生に教え、なぜそのような嘘を教えるのか、その動機を分析させる
べきである。

290 :ι:2001/07/19(木) 21:21
>>276 私の現在の主たる関心は現代におけるvitarismの可能性
   について見極めることです。

>>289 ルヴェリエ(?)が天王星の運動のずれから
    海王星の存在を予言したという話のことですかね??
    それって『ただの偶然』だったんですか??

291 :考える名無しさん:2001/07/19(木) 21:41
計算から求めた位置と実際の位置が、ほとんどドンピシャ
いっしょだった、というのが宝くじに当たるほどの偶然。

292 :名無しさん:2001/07/19(木) 21:43
>>290
ルヴェリエの海王星軌道の予測値は、実際とかなりずれていた。
発見時前後がたまたま両者が接近していたので発見できた、という面は
否定できない。もし、観測が50年前後にずれていたらルヴェリエの
計算からは発見できなかったろう、といわれている。

293 :ι:2001/07/19(木) 22:04
>>292

なるほど。摂動計算だから、惑星が離れた位置では駄目だと
いうことですね。しかし、そういう言う状況じゃないと軌道の
ずれも小さいから、ルヴェリエにとって摂動計算する動機がなかったはず(?)で、
あまり”偶然”と言えない気もしますが。
そういった意味ではケプラーが火星の軌道を選んだのも
幸運だったらしいですね。火星以外の惑星の軌道は円に近いから。

294 :名無しさん:2001/07/20(金) 00:04
いえいえ、そうではなく、現になされた計算上の軌道と実際の軌道がかなりちがって
いたんです。たまたま、その二つが接近する位置に当時の海王星がいた、ということで。
なおルヴェリエはボーデの法則に引きずられて、計算をかなりゆがめたらしいです。

295 :考える名無しさん:2001/07/20(金) 00:11
またここにいたのね。

296 :ι:2001/07/20(金) 01:10
>>294
計算がずれてた、というのは海王星のほうのこと?
天王星の軌道の別の惑星の重力による摂動を考える必然性があったのか
どうかのほうが気になるんですが、それはどうなんでしょうか?

297 :わかりません:2001/07/20(金) 03:47
>291
宝くじも買わなきゃあたりませんね(笑
天文学の発展期において、偶然の要素はあったでしょうが、ある一定の計算が、
隠された実在の存在を予見させるという、そういう方向性を示しているのであ
れば、そのかなり曖昧な計算であっても、それはそれとして意義があると認める
ことができるんじゃないでしょうか。あとは執念とか、観測の鬼となって、ひた
すら望遠鏡をのぞく日々であったとか何とか(プロジェクトX風)。
あんまり茶化すと怒られちゃいますが、289さんの主張に対しては、私は結構反対
したい心境なんですね。
と、いうのは、科学史見てると偶然発見したなんて山のように出てくるんですが、
この前の白川博士の電気を通すプラスチックだって、偶然韓国からの留学生が配合
を間違えて高濃度の溶液を作っちゃって、皮膜化できたというので飛躍的に研究が
進展したとか、抗生物質の発見だって、たまたま細菌を培養していたシャーレの
中にカビが生えてて、その周りだけ細菌が繁殖してなかったという偶然があって、
初めて発見されたなんていっぱいあるわけですよ。たしかにこういう事実を教え
ることによって、科学の輝かしい勝利とかなんとかいうことにかどわされないよ
うにねって諭すことはいいことだとは思うんですよ。基本的に啓蒙的な科学史
というのは、啓蒙的歴史観がそうであるように、都合のいい解釈がまかり通る
世界ではあると思うんですね。
しかし、生み出された結果に対して何かを創造するというプロセスとしての行
為について関わり合う事には、人生訓以外にもとても多くのものを私たちに教
えるのですし、立って半畳寝て一畳のちっぽけな人間の並外れた能力と可能性
を教えると共に、これ以上に、人間の存在の自由と意義、意識やイマジネーシ
ョンや知力はいったいどこまで拡大し得るのか、宇宙の果てはどこまであるのか、
私は誰?など、原初的な問いに何がしかの答えをここに見出すことができるかも
しれないという余地があると思います。
科学者は妄想家? 一攫千金を狙う山師? 地位と名声を求める現世利益の人?
人が何かにかかわるということについて、もう少し考えたいと思っています。

298 :わかりません:2001/07/20(金) 04:46
なんか、話の腰を折るような書き込みして、ちょっと反省してます。
細かい議論が苦手なもので…。

299 :ここを見るといい。:2001/07/20(金) 05:30
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/3398/index.html

300 :考える名無しさん:2001/07/20(金) 09:44
わかりませんさんのいうことに異論なし。
高度な科学教育を受けた人たちが、歴史上の業績、現在進行中の
研究の評価において2重基準を用いている点に問題あり、
という意味で、海王星の話を出しました。

301 :わかりません:2001/07/20(金) 15:12
>300.
ありがとう。けっこうぐっときました。
プロジェクトXみてるとぼろぼろ泣けてくるんですが、考えてみると、科学史って、
ポパーが考える以上に壮大なプロジェクトXだと思うんですね。単純な考え方で、
笑われるかもしれないですが…。捏造はいけませんけど。
いろいろこういうことを考えていると、突然ウルウルすることがあるんですが、
今もけっこうウルウルしてます。

302 :考える名無しさん:2001/07/22(日) 02:36
age

303 :通りがかりの実験屋:2001/07/22(日) 03:20
実験を基にした研究論文だと、目的を結果にあわせることも多いよ。
論文や発表はあくまで建前、その裏はかなり泥臭い。
論理的に導くというより、意外と経験や直感だったりね。

がいしゅつかな、横レススマソ。

304 :わかりません:2001/07/22(日) 05:46
>303
絶対そうだと思いますよ。
私は最近科学論文をほとんど読まないんですが、ビジネスレポートを
作成する際にだって、レポートの形式や表現として如何に完結させるか
相手のわかる範囲でどうやって主旨を伝えるかということになったら、
そりゃむちゃくちゃなこといいますよ、結果として事業が立ち上がれば
いいんですから。
科学上の実験とかデータの分析とかいうのも、実験の仕方というのは一定
の決まり事があるにせよ、やっぱり職人芸みたいなところがあるんではな
いでしょうか。その研究室だけで叩き込まれて、受け継がれていくような
ものとか…。
いちばん有名なところだと野口英雄なんかそうですが、もう実験の精度と
スピードで圧倒的なものがあって、追試をしようにも実験そのものを再現
できなかったというじゃないですか。
がんの発生実験だって、ひたすらコールタールをウサギの耳になすりつけ
続けるという途方もなく根気の要る実験を続けなくちゃいけなかったり。
有機EL素材を見つけ出すのだって、片っ端から出来そうな素材を見つけ
てきて、乳鉢で混ぜ合わしたり、通電させるとか。発生やってる人だと、
受精卵を赤ん坊の髪の毛で2つに軽く縛る練習をひたすらやるとか。
案外科学と関係ない職人の世界かもしれないんじゃないか、または、
職人の世界って、科学を考える上で、もうちょっとヒントになりそうな
ものがあるんじゃないかって思います。

305 :考える名無しさん:2001/07/22(日) 07:35
>>303
>目的を結果にあわせることも多いよ。

いや、それはむしろ健全だと思います。
目的に結果をあわせる方が遥かにコワい。
しかし、冗談じゃなくたまに実際にそういうことが垣間見られる。

かりに科学法則を覆すような天変地異的な事態がおこったとしたら、
いちばん最後まで気づかない、あるいは認めないのが、科学者だと
思う。
元来、科学は現実を理解するための手段としてうまれたはずなのに、
それがいつのまにか転倒して、科学的なフィルターをとおしてしか
現実をみなくなってしまいがちなようだ(TVに頻繁に出る大槻教授
などは顕著な例)。
そういうのは、哲学者的な視点からみると危ういものに見える。

306 :Rage Against The Philosophy:2001/07/22(日) 07:46
野口英世は生物板と日本史板で
ずいぶん叩かれていたな〜。
世間的な評判とは真反対の人間。

307 :考える名無しさん:2001/07/22(日) 18:15
>冗談じゃなくたまに実際にそういうことが垣間見られる。

生データをどうどうと提出できる研究者はほとんどいない。
ほとんどというのは、おそらく95%以上だろう。

308 :考える名無しさん:2001/07/22(日) 21:31
科学哲学と分析哲学ってどういう関係なの?

309 :名無しさん@1周年:2001/07/23(月) 01:22
科学哲学は問題ジャンルからみた分類
分析哲学は方法カテゴリからみた分類

310 :考える名無しさん:2001/07/23(月) 03:19
>>308 >>309 関係ないです。

311 :考える名無しさん:2001/07/23(月) 03:37
http://www2s.biglobe.ne.jp/~TETSU/99410026.htm

312 :わかりません:2001/07/23(月) 04:04
なるほど、実際に現場の方からすると、いろんな問題があるようで、むずかしい
場面に遭遇することもあるんでしょうね。

ところで、私は科学とは世界に対する態度のうちのあり得べきもののひとつと考えて
いますが、「科学的にはあり得ない」という言葉が、すべての有り得べき態度を代表し
ているかのように使われるのは、極めておこがましいと思うんですね。
普通に考えて、超能力なんて普通にある現象であって、超というのだって発生の頻度
からいって言葉の使い方がおかしいと思うくらいです。
明恵という僧侶の伝記を読むと、超能力のオンパレードで、森で座禅してると動物が
集まってきたり、テレパシーで見えないものが見えたりするんですが、当の明恵はま
ったく意に介さない。聖フランチェスコなんかいっぱい小鳥を集めて説教してたとい
いますし、仏陀も森で修行してた時に動物に説教してますし、だからといって正しい
ということはまったくいってないんですね。私だって正夢の10や100はあります
し、いわゆる超能力じみたものだってごく普通にありますし、これは事実あるんですね。
ところが、こういうものは科学的世界観に対してはなじまない事実であるということ
もいえると思うんですね。あるとしかいえないものをどうして分析の対象にできるか
という問題があります。
思うのですが、ある出来事が科学的事実として認められるためには、ちょうど裁判とか
法廷闘争のような手続きがなされて、検察と被告弁護人がやりあって、被告側の弁明が
うまくいかないと、事実認定で負けちゃうことだってあると思うんですね。
そうすると、論文も含めて手続きが事実をもみ消してしまう危険も常にあって、
こういう側面でポパー流の反証主義がリアリティを持つとしたら、それはこの現実が
間違っているのであって、最後には科学者の良心に任せる以外にないなって思います。

313 :考える名無しさん:2001/07/23(月) 17:38
>ある出来事が科学的事実として認められるためには、ちょうど裁判とか
>法廷闘争のような手続きがなされて、

科学者は一枚岩ではなく、大陸移動説のときように、その分野の専門家、
地球物理学者、以外は支持してくれるケースは多い。
しかし裁判官は、その分野の専門家なので、証拠が十二分にあっても
長期間(裁判官たちが死ぬまで)彼らの下した死刑判決が
覆らないことは多い。
大陸移動説についていうと海岸線の類似を確率的に計算するだけで
証明終わりだと思います。
現在のプレートテクトニクスについても、別の仮説が提示
されていますが、大陸移動説と同じ状況に置かれています。

314 :わかりません:2001/07/24(火) 02:03
専門家か現場の方(おなじ?)のご意見として、これは重要だと思うのですが、
反証の機会が充分にないということは、憂慮すべきことですね。
ビジネスの世界なら、利益を上げたものが勝ち、発言力も利益に比例すると思い
ますし、営業力で決まるっていうところがありますが、科学者の評価って、
具体的にはどのように決まっていくのか、とても関心があります。

大陸移動説のような大きな学説になると、まず、一定のパラダイムとして確立して
いますから、これを維持し、継承していくと力が働くと思います。広い意味で、
学会とか学会のボスとかいうものもこのパラダイムを維持する装置として機能する
と思います。そうすると、それら装置が新しい学説に対して検閲を行ったり、場合
によっては裁判を行うわけですね。
これには健全な意義もあって、一定の分野の中での学の発展や深化に貢献すると
いう目的があるわけですし、いわゆる俗説を排除するという機能もある。または
学説の後継者を育成するという目的もある。
しかし、人体の広い意味でのホメオスタシスや免疫力がそうであるように、如何
にそれが健全な機能であるとしても、急激な変化や異質なものに対しては対応し
きれず、それが意義あるものであったとしても、臓器移植の際に見られるように
劇症的な拒絶反応を起こしてしまうわけです。
考えて見ると皮肉なもので、パラダイムチェンジは学説的なものの次元と取られ
がちですが、ひょっとすると比ゆではなく、それはそのままの意味で世代交代
なのだという場合もあるのではないでしょうか。こうなると、学説のライフサイ
クルというものを考えなければならないでしょうし、その程度はまだしあわせで、
もっと長いスパンの生態学的時間を考えなければならない場合もあるのでしょう。
もっとも、学説のホメオスタシス装置というのには、不健全なものばかりではな
く、少なくとも動機としては健全なものもあるので、だからこそますます厄介だ
ということなんじゃないでしょうか。だからといって革命が不可能であるという
わけではなさそうですので、そういう場合、実際はどうなのだろうと思います。
どうしたら存命中に革命を起こせるか、課題ですね。

315 :わかりません:2001/07/26(木) 01:47
ところで。
私は「科学の対象はなんであるかという設問を立てた場合、科学的対象というものが
存在することになりませんか。」という問いを以前立てました。改めて考えてみます。

>103 ラフにいえば、科学的対象が(少なくとも概念上)存在することになるでしょう。
科学が対象と接する接し方と私たちが日常接する際の接し方と違うということは、
例えば身体の化学的側面・物理学的側面という際に、全体を諸科学が前提している一定
の範囲で諸部分に還元していくわけですよね。そうすると、ここでは身体を例にとって
論じていたのですが、我々の身体の捕らえ方と科学において対象とする身体に対する捕
らえ方の違いがあり、この違いが、一見同一の物と捕らえることができる実在を分け
ている、つまり、実在を捕らえる捕らえ方が違えば、それは異なる実在であるというこ
とになるのでしょうか。
例えば身体を構成する細胞なり化学物質なりは、身体とは関わりなく存在しているとい
うことだって言えるのですし、一定の法則に従って実在するということはいえると思い
ます。
しかし、だからといって、こういう論法は科学的対象というものが有るかないかとい
う問いには何の回答も与えてないんだと思うんですね。
つまり、ある対象を設定し、これに対して分析を加える際の一定の手続きをすると、
そのように見える、または別のものが見えてくるということを言っているだけだと思
います。また、このような議論においては、科学がもっぱら対象とする、もしくはし
てきた固有のものについて明らかにすることは出来ても、科学が扱い得るものを限界
付けているとすることはできないと思うんですね。
さらに、この議論では、すでにアプリオリに科学的対象というものが存在しているかの
ように思えますが、それは、別の側面では、科学が日常的見方に対して、より広範囲
のものを対象とすることができるということをすでに含んでいるのであって、たしか
に部分的に科学が独占的に扱い得る対象があるにせよ、そのような科学的対象が存在す
るのは、科学が万物すべてを扱い得るからこそ、そういうものを扱い得るのだといわな
ければならないと思います。それは科学に対して対象がすでに固有に設定されていると
いうわけではなく、すでに固有に扱っている対象があるというべきであって、それが
可能なのは万物すべてを扱い得る方法を固有にもっているというべきではないでしょうか。
この私の考えに対して、予想される反論としては、すべてのものを科学的対象として捕ら
えることができるというものですが、これも怪しい。
さて、続きはまた。

316 :考える名無しさん:2001/07/26(木) 15:12


317 :考える名無しさん:2001/07/27(金) 05:28


318 :考える名無しさん:2001/08/02(木) 00:35
なぜwholismではなく、holismなのですか?
これでは全体論ではなく穴主義だと思うんですが。

319 :わかりません:2001/08/03(金) 01:34
HOLOS(ホロス)はギリシア語で「全体」を意味する言葉です。
Holism(=「全体論」)、Whole(=「全体」)、Heal(=「癒す」)、
Health(=「健康」)、Holy(=「聖なる」)これらの言葉は、すべて
HOLOSが語源となる言葉です。
Holistic(ホリスティック=「全体論」の形容詞)の語源もHOLOS
につながっています。
http://www.nagaoka-id.ac.jp/~sugahara/shiso1999/shiso00.html
ここに面白い内容があるのでご覧ください。

320 :わかりません:2001/08/03(金) 02:17
説明になってませんね。
どうも、最初に作ったのはアーサーケストラーらしくて、機械の中の幽霊という
本の中で使ったのが最初らしいです。
ギリシャ語で全体を意味するholosプロトンやフォトンなどの語の接尾語で粒子
や部分を意味する―onと結びつけてholonという言葉を造語したらしいです。
ですから、以前の訳では全体子なんてのもあったと思うのですが、これはライプ
ニッツの単子論(モナドロジー)からきてる訳だったんではないかと想像してます。
そういうわけでWholismではなくholismなのかといえば、ギリシャ語からもってきた
ということのようです。
思想的背景でいえば、還元主義に対して全体論の対立は常にあって、要素還元主義に
対してあくまでも全体をそのまま捉えようとする運動とでもいうものがあって、ある
システムは上位のシステムから見れば部分であり、下位のシステムから見れば全体で
あるという入れ子構造(ヤヌス的構造またはホラーキー、階層構造とも訳される)
をもっており、この意味では単純に下位のシステムに還元していく(分解していく)
要素還元主義をも包括するのではないか。したがって、holismは、還元主義と全体論
との対立を超える概念として彼によって提出されたとみることが出来ます。

321 :318:2001/08/03(金) 02:56
丁寧なレス有り難うございます。
しかし、言語がwholisticではなく、holisticだ
というのは嫌な感じがします。
holisticというと、whole(全体)という意味以外に
holy(神聖な)等の様々な人情的に肯定的な意味を
含んでしまい、それが安易に人々を賛同させることに
なりそうだからです。
還元主義を叩きたいのもわかるが、できるだけ主観を
排除するならば、holismではなくwholismにするべきだ
と思いました。

322 :わかりません:2001/08/03(金) 03:26
>holisticというと、whole(全体)という意味以外にholy(神聖な)等の様々な
>人情的に肯定的な意味を含んでしまい、それが安易に人々を賛同させることに
>なりそうだからです。
なるほど、そういう捕らえ方もありますか。
holyという場合、神の属性として欠けるところのない=完全なという
ものがあって、ここから神聖なという言葉の意味が出てくると思うのですね。
これに対して人情的に肯定的な意味を含むのか含まないのかということに
関しては、どうなんでしょう、キリスト教的なセンスからいっても、ちょっと
わかりません。
私としてはwholismだと、丸ごと主義という感じになって、意味内容がちょっと
ぶれるかなって思います。要素論と全体論におけるギリシャ以来の歴史的な
背景を出すという点でも、ギリシャ語にまでさかのぼることにはなにか意義を
感じたりもしています。

323 :考える名無しさん:2001/08/07(火) 23:01
分析哲学とは?

324 :考える名無しさん:2001/08/07(火) 23:11
>>323
言語分析を主とする哲学

そうすると、ハイデガーも分析哲学ということになってしまうなぁ。
う〜む。

325 :名無しさん1周年:2001/08/09(木) 13:42
哲学的問題の考察において、言語分析を手段として哲学が本来問題としている言
語外的な形而上的実在へ接近すると考えるのではなく、言語外的で一次的な実在
を存在を否定し言語分析によって哲学の問題への十全な解決が与えられる、と考
える哲学(――初期の分析哲学――)
に強い影響を受けたり、その種の諸著述を参考文献に挙げまくっている論文に主張
されている哲学(w

そうするとハイデッガーは分析哲学じゃない(w

326 :考える名無しさん:2001/08/11(土) 16:12
後期ハイデガーは言語外にあるもの(存在)が、言語に表出されているという
言語神秘主義に近い主張。
分析哲学では言語はあくまでゲーム。

それにしても日本で科学哲学は発展しないのは、学科の編成の問題だろう。
哲学科にはカント、ヘーゲルのドイツ観念論が配置されているだけで、
科学哲学がないというのは、いい加減犯罪的にひどい状態だ。

327 :考える名無しさん:2001/08/11(土) 22:00
科学哲学と分析哲学って関係ないのに

328 :わかりません:2001/08/12(日) 03:24
ハイデガーについては専門外ですが、学生のころひどく付き合わされました。
分析と存在論は仲が悪いというか、水と油のようにいわれていますが、ハイデガー
自身は、フレーゲをかなり読んでいたという事をチョビッと聞いたことがあります。
論理学の中で存在がどのように語り得るのかということは、彼の関心であったでし
ょうし、論理学的に対象を追い詰めたところに存在が暴露されるという希望もあった
わけですから、これは当然といえば当然ですね。
ところで言語外にあるものというのの意味がわからないんですよ。
ハイデガー流に言えば、存在が言葉によって分節化されて意味がたち現れるのであり、
存在を運ぶものでもあるわけですから、言葉の根源とでもいうものではないのでしょうか。
>325での言語外というのは、有意味な命題とと無意味な命題とを記号論理学的に
区別することが課題だったわけですから、言語の外と内とを分けるということが
課題ではなかったはずです。
しかも言語外ということをいうと、言語の外と内とを分けることが可能であると
いうことになってしまうのですが、これじゃ安直な経験論になってしまうような
気がします。
ポランニーは暗黙知という概念を出しましたが、これはけして非言語的知があるんだ
といっているんではなくて、言語行為とはこういうものだといっているんであって、
言葉というものを離れてはなにも思惟なんてありえないんだということをいっている
んですね。
言語外という言葉の意味がわかりません。

329 :・e・:2001/08/12(日) 03:43
ハイデガーは学生時代には数学もやってましたらしいですからね
肝心の思想にはその片鱗も見えませんが。。

330 :わかりません:2001/08/12(日) 04:29
ひょっとして、高名ならげ氏ですか。
だって、現象学って、特に初期のころって論理学じゃないですか。
フッサールには数学者の片鱗が見えますけど。

331 :考える名無しさん:2001/08/12(日) 04:55
>>328
言語で閉じたシステムで、タルスキの規約Tのようなシステム的な
真理概念にあたるものが、存在概念にもあればいいんでしょうが、
そういうのはあるんですかね?いや皮肉ではなく、真面目に知らないんで。

332 :・e・:2001/08/12(日) 04:59
>>330
 違うってば(笑
 フッサールはもともと数学者ですからね。
 科学哲学というジャンルも、もとはフッサールの弟子連中が創始者だそうですよ。

333 :らげ判定委:2001/08/12(日) 05:06
>>329
らげのお馬鹿まるだしと混乱した議論とを、
その人物と同一視していいかどうか疑義があります。
現在のところ・e・ であろうが誰であろうが、
しゃんとした意見を述べている限りでは、
当委員会は静観の方針です。

334 :わかりません:2001/08/12(日) 15:09
ちなみに私は常に同一性を保っていますので、判定委員会を作らないでくださいね。
すごいな、こんなものが出来ていたとはビックリです。
案外らげ氏の言っていることは、その苛立ちも含めて私はわかるような気がす
るんですね。どっかのスレで、私の提案にかなり同意してくれたのがらげ氏だ
ったりしたので、悪い印象がないんですよ。ここでもたまに発言してくれたり
したので、私はウエルカムなんですけど。
めちゃくちゃな議論されたり、発言を罵倒するようなレスされると困りますが、
彼って、知的近代の胡散臭さを嫌っているという点で私とおんなじですし、
その生理の方向性がなんとなく似てるんですよね。多分直接会って話しなんか
したら、むかむかするような嫌悪感を催すかもしれないですが、ニーチェやってる
人も、直接ニーチェに会ったらむかむかするに決まってるっていってますし、
インターネットのすごさというか、利点の一つですね。マルクス知らないところ
なんかもまったくいっしょ。議論がうまくかみ合ったら、きっとここで二人で
爆発することになるでしょうね、近代の胡散臭さについてとかいって…。

>331
タルスキについて現在リサーチ中です。結果が出次第ご報告します。

335 :わかりません:2001/08/12(日) 15:50
>331
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_040.htm
こんなものを見つけました。こういうことですか。
ごめんなさい、これに対応するものとしては存在と時間の真理論がそうだ
と思うのですが、ハイデガーの真理論については私はわかりません。
たしかに存在論の主題は存在についてですが、存在が明らかにされると
いうことは存在の真理が開示されることですし、存在がそれとして語られ
る次元ですので、存在論の目指すところはつまるところ真理論なんですよね。
しかも彼は、論理学についての講義をしていますし、いくつかの講演もして
いますから、資料的にもこれはうらずけられるのですが、いかんせん
専門ではないのでわかりません。
ハイデガー先生のご光臨を賜りたいところですね…。

336 :考える名無しさん:2001/08/12(日) 20:10
>わかりません氏
ハイデガー先生を降霊出来る方が、直ぐ上に御見えではないですか。

337 :OFW:2001/08/12(日) 22:17
どもお久しぶり。短い乍ら夏休みモードに入りました。
>>315(わかりませんさん)
>実在を捕らえる捕らえ方が違えば、それは異なる実在であるということにな
>るのでしょうか。
 違います。以前>>214で述べたように、実在は一つであり、そこへの接近方
 法が色々あるということです。くどいようですが、>>103において
>物理的言説に対応して物理的人体が・・・(以上三者は人体、というより、
>単に対象のほうが好ましいかもしれません)、・・・存在もしくは措定され
>ているのです。
 という動揺が良い例です。<人体>は具体的な実在であり、その対象的本質
 が諸科学によって探究され、全体的な存在として再構成され、客観的に定立
 される、が正しい。ウィトゲンシュタインは「言葉の意味とは用法である」
 と言ったそうですが、<実在><対象><存在><意味>そして<概念>
 といった言葉の用法については彼自身もあまり注意深くなかったのかな?
 (用法とは正確に言えば概念のことでしょう。) 少なくとも、
 1.実在vs観念(表象あるいは概念)
 2.対象(客観)vs主体(主観)
 3.存在vs生成あるいは本質存在・・・存在論的側面
 という用語上の対照関係(反照性)は基本として外せない。
 科学的対象とは何か、よりむしろ<対象>という言葉の用法は何か、をまず
 問うべきでしょう。それは優れて弁証法的な言葉(概念)です。
>>328(わかりませんさん)
>存在が言葉によって分節化されて意味がたち現れる
 およそ無意味な言明ですね。ここでも言葉の正しい用法が重要。
 言葉とは記号の一種であり、記号とは<対象の代わりに立てられたもの>
 ですから、意味は立ち現れるものではなく言葉の解釈により理解されるもの。
 具体的存在の諸側面に対応した言葉の分節化によって概念が構成され、全体
 的な存在として再構成された結果として客観的対象が立ち現れる、が正しい。
 言葉の意味とは<指示の象徴>(I.A.リチャーズ『意味の意味』)です。

338 :考える名無しさん:2001/08/12(日) 23:41
OFWさんて結構古いんだね

339 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 00:03
>>338

哲学は時系列で発展しているわけではないので
”古い”という言葉を使う人は珍しいな。
僕なんか最近プラトンばかり読んでんだけど。

340 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 00:10
>用法とは正確に言えば概念のことでしょう。)
用法とはコンテキストのことでしょう。
OFWさんの言うような多義性を生んだ源意義のようなものじゃないよね。
だから古い。
と言うより文脈から切り離して定義定義って騒ぐのは幼い。

341 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 00:19
×源
○原

×幼い
○書生くさい

342 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 01:19
概念+コンテキスト+意義の関係を、もうちょっと展開してよ

343 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 01:33
>>337
言葉とは記号の一種であり、記号とは<対象の代わりに立てられたもの>
これは素朴すぎ。
「または」とか「あるいは」という言葉は何らかの対象の代わりに立てられたものか?

344 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:03
>>343
だから〜、もう少しちゃんと論を展開してよぉ
人の立論に脱構築かけるだけなんて古いんだからさぁ。

345 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:06
>>344お前までらげのマネか

346 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:09
つか、似てるな。

347 :343:2001/08/13(月) 02:46
>>344
脱構築? なんのこと?
私は20世紀初頭にラッセルがとったウルトラ実在論(すべての言葉には対応
する実在がある、というある意味わかりやすい考え)と、そこからの脱却を
念頭に置いて発言したんだけどね。

348 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:50
>>344そもそもあなた立論なんかしてませんよ

349 :考える名無しさん:2001/08/13(月) 03:08
>>347
あーあ、よくそんな古いことを、わざわざ指摘してくれましたねぇ。

350 :わかりません:2001/08/13(月) 03:34
>337
お久しぶりです。
そのとおりですね。言葉の用法に曖昧さがあるようで、相手の議論を再構成
していなかったようで、誤解が生まれているようです。これは私の考えでは
ないので、あしからず。

さて、>存在が言葉によって分節化されて意味がたち現れる
において氏が展開されている論は、意に反しておよそ無意味な反論です。
まず、言語が記号であり、記号が対象の代わりに立てられるということの
存在論的構成をまったく理解していない論であり、およそ反論の態をなし
ていません。
ハイデガーにおいては、主客の関係において対象を捉えるという近代認識論
の枠組みを超えて、そもそもどうして主客というものが了解されるのかの存在構成
を問題としているのですから、ハイデガーを単純二元論で批判することは無意味
です。すなわち、対象である存在者と、それを了解する存在者の存在を問題として
いるのであって、近代の意味での認識とは両者の存在の明け開けにおいて可能に
なるからです。もちろん、氏がハイデガーの問題構成そのものを問題としている
というのであれば話は別ですが、だとしても、この存在了解の議論を前提としな
ければ、反論者として土俵に上がったことにはならないんじゃないですか。
それにしても、この歳になってまでハイデガーに悩まされるとは、学生時代の鬱屈した
日々が思い出されるので、ここはハイデガー先生のご降臨を…。
何とか降臨させる方法はないものでしょうか。大学の先生でしょう、何とか来て下さいよ。
リンク張ろうかしら。

351 :わかりません:2001/08/13(月) 04:02
リンクはってきました。お盆で帰省中かしら(どこに行くのでしょう)。
ところで、OFW氏へ
><人体>は具体的な実在であり、その対象的本質が諸科学によって探究され、
>全体的な存在として再構成され、客観的に定立される、が正しい。
ちょっと意味がわからないのですが、人体を例にとってみると、たしかに人体は具体的な
実在ですが、人体から採取された血液だって、具体的実在ではないですか。
そうした場合、血液を対象的本質として捕らえるのか、独立した具体的実在としても捕らえ
得るのかという問題が未解決なのではないでしょうか。つまり、血液の実在性の前提として
人体をおくこともできるし、おかないこともできるということがありえて、そのいずれかは
任意に設定され得るのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
また、科学においてはそれらが再構成されるか否かは任意なわけだし、客観的実在として定位
されるかどうかも任意なわけですよね。例えば、医学であれば、検査結果からある人体は病気
であるか否かが問題になるわけですから再構成するとしても、生物細胞基礎論ではそんなこと
は考えないわけですから。
氏は自らの問題構成を単に開陳されたが、うまく議論がかみ合ってない印象があるんですが。

352 :OFW:2001/08/13(月) 10:47
>>338
>OFWさんて結構古いんだね
 何せ、Old-Fashioned-Well(古き井戸)ですので・・・。
 「古い知恵が廃れ、浅薄な思想が流行る」とは、I.A.リチャーズの言葉
 でもあり、『意味の意味』ではソシュール、ラッセル等が批判されています。
>>340
>用法とはコンテキストのことでしょう。
 詳しい説明が必要ですが、オグデンーリチャーズ流「指示の脈絡論」の定義
 論が脈絡(Context)と文脈(Literal Context)を区別しているのは、卓見
 だと思う。文脈(明示的文における脈絡)と、その外界(言語外)における
 事象への接続性(記号とは客観世界の隠れた脈絡を補うものである)は実在
 的対象とそれを超える世界への認知ー実践の補完関係をうまく表現している。
>>342
>概念+コンテキスト+意義の関係を、もうちょっと展開してよ
 まず(ヘーゲル的文脈での)<概念>とは、実在とその否定との統一として、
 実在的契機と観念的(非実在的)契機から構成された統一体です。それは、
 言語としては単一名詞的に表現されるが、世界の中における対象の構造的
 位置を示すために、その<形式内容>を論理的カテゴリーとして含んでいる。
 一方、対象世界は実在的な時空のうちに変転するものであり、その中に置か
 れた(認識ー実践)主体は常に具体的対象を状況的かつ相対的にのみ捉える
 しかない。<対象>が何であるかは主体と世界総体との関係性においてのみ
 規定され得るでしょう(コンテキスト性)。
 「黒人は黒人である。彼は一定の社会関係の中で奴隷となる。」(マルクス)
 (かって<黒人>の社会的・経済的意義(用法)は「奴隷」であった。)
 科学的な客観認識とは超状況性&汎観点性として、無限のコンテキストを内
 在させた条件付理論と言えますが、そこで使用される基礎概念自体は具体的
 な対象を一定のカテゴリー相面に抽象したものでしょう。たとえば、
 「人間の肌の色(民族学)は類的本質(人類学)にとっては非本質的なもの」

353 :OFW:2001/08/13(月) 10:48
>>343
>「または」とか「あるいは」という言葉
 実在的対象のみならず観念的対象もあり、観念とは直接的実在を超えて
 世界(関係の総体)の中におけるその客観性を目指すための媒介です。
 認識は概念ー判断ー推理と展開されて、実在世界は客観的な対象として仮言
 的(もし・・・ならば)、選言的な言明(あるいは)により現実的なもの
 (自己の必然性=他であることの不可能性)として定立される訳です。
>>350(わかりませんさん)
>意に反しておよそ無意味な反論です。
 意としたことは、存在は存在の意味に還元できない、ということです。
>記号が対象の代わりに立てられるということの存在論的構成
 それは現前していない対象について他者に伝達するためでしょう。
>そもそもどうして主客というものが了解されるのかの存在構成
 それは対象としての他の自我の認知からでしょう。
>すなわち、対象である存在者と、それを了解する存在者の存在
 <存在>という言葉の多義的な用法であり、存在者の本質と言うべきでは?
>>351(わかりませんさん)
>そうした場合、血液を対象的本質として捕らえるのか
 そこで、本質存在間の関係(諸実体間の相互作用)が問われるでしょう。
 たとえば「ギリシャ民族の精神とその政治制度との関係は因果性ではなく
 相互作用する総体として捉えるべきである」(ヘーゲル)。
 自然科学では物質の階層性(ヒエラルキー)と呼ばれ、血液の示す生理学的
 現象(例:血液循環による酸素補給)は、血液の化学的反応性だけからは導
 き得ない生物学的本質をもつと言えるでしょう。前者は後者を実在的基礎と
 して個体を現存在させているが、有機性とは全体の部分に対する優位を言い、
 個体が死ねば血液も腐敗し消滅する。生物は細胞が単位ですね。
>再構成されるか否かは任意
 それは任意ではなく、相対的であるということでしょう。科学とは専門分化
 した諸科学のことであり諸部門間には客観的・必然的な関係があるわけです。

354 :わかりません:2001/08/14(火) 01:56
なるほど、OFWのいわんとするところは理解しますが、どうもわからないところ
があります。人体における血液の階層論的位置づけというのはわかるのですが、
だとすると、1つの層は自立性を持っているということだって言えると思います。
そうでなければ、いわゆる階層を構成し得ないからです。
これに対して、なぜ氏が無前提に上位の階層を唯一の実在と定位するのかがわかりません。
なぜなら、ひとつの人体が死を迎えたとしても、細胞1つ1つは生きているということだ
ってありえるし、取り出して培養すれば、生きつづけるわけです。
たしかにこれは人間個体しての生ではないのですが、その細胞としては生物学的に生きて
いるということがいえます。
機械を例に取れば、機械がその目的である一定の役割を果たせなくなってしまっても、
その下位原理である金属は、上位原理の破綻に関わりなく金属としてありつづけます。
それはそれぞれの実在としての独立性を保持していることを意味していると思うので
すが、いかがでしょう。
その反論の主旨としては、氏は日常的に了解されている実在を前提としているからでは
ないかと思うのですが、これを階層の最上位として弁証法的運動を成立させるために
下位の意味としておいて、下位をマテリアルに位置付けていると思いますが、それは
あくまでもそうした場合に於いて成り立つ議論であって一般的な議論、少なくとも
科学において当てはまる議論ではないのではないかと思います。
科学はあくまでも、良い悪いは別としてそのような日常性を前提としませんし、
理念的な目的をもつと私は考えていません。氏はそのような理念的なものをどこかで
前提としていると思うのですが、いかがでしょう。

355 :わかりません:2001/08/14(火) 02:33
補足
>>再構成されるか否かは任意
> それは任意ではなく、相対的であるということでしょう。科学とは専門分化
> した諸科学のことであり諸部門間には客観的・必然的な関係があるわけです。
私がこれに加筆するならば、「と、信ずる場合においてこの言明は真である」。
したがって、再構成されるかどうかはやはり任意である。
ある一定の理論を共有しているならばそういうことも言えるでしょうし、
パラダイムというのはそういうものでしょう?
>それは現前していない対象について他者に伝達するためでしょう。
伝達がそもそも可能になるためには、共通の存在了解が前提となります。
>それは対象としての他の自我の認知からでしょう。
では、その認知というものがどうして可能なのかという存在論的な次元に
ついてはどうでしょう。
><存在>という言葉の多義的な用法であり、存在者の本質と言うべきでは?
繰り返しますが、認識とは両者の存在の明け開けにおいて可能になるのであって、
本質と置き換えることは、あくまでも認識論上の議論に逆戻りすることになります。

356 :ザ・神様こと吟遊詩人WIZ!!:2001/08/14(火) 03:10
あああああああ 読みづらい!!!

357 :OFW:2001/08/14(火) 14:14
>>354(わかりませんさん)
>なぜ上位の階層を唯一の実在と定位するのかがわかりません。
 いや実在するのはむしろ下位の階層(部分)です。「全体は実在しない」と
 は論理的な言明であり、特に唯物論(質料主義)は物質的存在こそが実在し、
 全体(形相的上層)は観念的存在であると主張します。具体的人体が実在
 すると言えるのは、「この人体」として限定され個別対象化された場合でし
 ょう。人体の分析を始めた途端、それは再構成すべき観念的なものになる。
>ひとつの人体が死を迎えたとしても、細胞1つ1つは生きていること
 は通常(自然状態)ではないでしょうね。ガン細胞すら死ぬ。無論、進化の
 過程は単細胞生物→多細胞生物という統合化・複雑化の方向に進んできて、
 個体の発生・分化は胚種としての母細胞の中に種子(起源)として内在して
 いるから、特殊な環境を人工的に形成すれば、原始細胞的生が”脱構築的”
 (笑)に蘇り、また個体をクローンとして発生させることも可能でしょうが。
>機械
 機械的関係が有機的関係と異なる点は全体に対する部分の独立性ですね。
 そのため、それはより抽象的な関係(相互外在的)と呼ばれます。
 有機体は機械的(物理的)相互作用および化学的反応を体内において止揚
 して、合目的的・内面的な関係性を達成しており、即自的主観性を示す。
>日常的に了解されている実在を前提としているからではないか
 日常的でない実在とは不明ですが、客観的な実在はすべての科学の前提(客
 観性の公準)でしょう。でなければ形而上学になる。
>下位をマテリアルに位置付けている
 唯物論(マテリアリズム)ではそうなりますが、でなければ観念論と呼ぶし
 かないでしょうね。多分<実在>と<本質存在>の概念上の混同と思われ。
>科学はあくまでも、良い悪いは別としてそのような日常性を前提としません
 日常性と客観性は異なるという点ではそうですが、客観的実在は必要です。
>理念的な目的をもつと私は考えていません。
 科学の理念は客観的真理の解明にあると思っていますが、そうではない?

358 :OFW:2001/08/14(火) 14:14
>>355(わかりませんさん)
>パラダイム
 パラダイムという言葉も曖昧ですが、私が言ったのは、諸科学の分化は客観
 世界の構造に対応したカテゴリー(存在形式)的な分節に基づくだろう、と
 いうことです。自然科学、社会科学および人文科学は自然、社会および精神
 という対象をもち、更に自然は無機、有機(生命)に区分される等。
 何故「任意性」と呼ばれるような恣意的・主観的なものと考えるのかな?
>共通の存在了解
 身振り、表情、行動等の前言語的なコミュニケーションは人間以外の動物で
 も日常的に行っているでしょう。同種の個体が同じ刺激に対して同形の受容
 ・反応をしない方がむしろ不可解でしょう。
 また、「存在了解」とはハイデガー一流の魔術的用語ですが、存在を了解す
 ることはあり得ず、常に事柄を了解するのです。存在を存在の意味または存
 在という事柄に観念化するのは、20世紀観念論の解釈学的な特徴です。
 それは語る主体として神を予想している。「誰が語るのか?」(ニーチェ)
>認知というものがどうして可能なのかという存在論的な次元
 弁証法では認識論と存在論は不可分であり、認識ー実践の相互媒介運動とし
 て、対象認知ー自己認知が可能になると言えます。
>存在の明け開け
 夜が明けても存在が明けることはないでしょう。(失礼)
 存在論という哲学学科は実質的には諸科学に解消されるか、論理学的なカテ
 ゴリー論か、あるいは形而上学になるしかないと思いますね。
>本質と置き換えることは、あくまでも認識論上の議論に逆戻りする
 本質論は現存在の根拠を問うことであり、単なる認識論ではなく、むしろ本
 来の存在論。それは、諸科学の対象について、その自己同一性の限界を明ら
 かにすることですから、科学批判としての歴史認識でもある
 19世紀末以降、諸学から本質論が消え去り現象論のみになったのは、近代
 社会の隠蔽性に深く関連していると思われ。

359 :わかりません:2001/08/14(火) 22:06
>OFW氏へ
>前者は後者を実在的基礎として個体を現存在させているが、
>有機性とは全体の部分に対する優位を言い、
>個体が死ねば血液も腐敗し消滅する。生物は細胞が単位ですね。 氏がこのように言われる
際の実在とは人体のことでしたが、同様に
>実在は一つであり、そこへの接近方法が色々あるということです。
と、述べていらっしゃいますね。しかし、
>いや実在するのはむしろ下位の階層(部分)です。
という場合、何かが実在するという際に、どのくらい下位の層を考えればいいのでしょう。
ここで例にとっていたのは、「<人体>は具体的な実在であり」、人体を実在とした
場合を考えていたと思いますし、この下位の層は細胞なり、特殊な例として血液
が出てきましたが、むしろ下位の層が実在するという場合、人体と細胞・血液どちらが実在
として捕らえ得るのか、混乱が生じるのではないでしょうか。
氏がおっしゃる弁証法と階層論は、つまるところ唯物論であるというのであれば、
物質にすべて還元されるのだ、弁証法的運動によってある一定の観念に再構成さ
れるのだというのはわかるのですが、これはつまるところ還元主義の一種とい
うことでしょう。私はこれがわからない。
やはり、氏はハイデガー流の存在論の問題構成をご理解されないのですが、
これは致し方ない。夜が明けても存在が明けることはないでしょうから(爆、受けました!)
だとしたら、唯物論的階層論とは何かということのように思うのですが。
よろしかったら、ご教示ください。

360 :わかりません:2001/08/14(火) 22:26
ついでに。
>客観的な実在はすべての科学の前提(客観性の公準)でしょう。
私はこのことを終始言っているのですが、生物細胞基礎論では、
人間の細胞は客観的実在ですが、人体を対象とする科学では人体が
客観的実在になると思います。したがって、実在は「客観世界の構造に
対応したカテゴリー(存在形式)的な分節」、私流に言うといろいろ
な物の見方によってさまざまに現れるということではないでしょうか。
しかし、科学にそのようなものがあるのか、「客観世界の構造に対応し
たカテゴリー(存在形式)的な分節に基ずく」といっても、
「科学は本質的にアナーキスト的な営為であ」って、その「唯一の原理は
anything gose(なんでもかまわない)」(ファイヤアーベント)と思
うからです。

361 :考える名無しさん:2001/08/15(水) 00:33
>>353
>実在的対象のみならず観念的対象もあり、観念とは直接的実在を超えて
>世界(関係の総体)の中におけるその客観性を目指すための媒介です。
おいおい、唯物論者がそんな事言っていいのか?
<観念的対象>なるものを認めてしまったら、存在者を物理的なものに限定しようとする
試みが崩れてしまうぞぃ。
 

362 :考える名無しさん:2001/08/15(水) 02:58
分析哲学厨房なんですけど、丹治信春さんってどうですか?
やっぱり講義は受ける価値ありますか?

363 :考える名無しさん:2001/08/15(水) 13:41
>>359
書士がAnything goesなどと唱えると気味悪いかも。
ファイヤーベントの場合、そういう主張が似合ってるからいいけど。
それにしてもカントやドゥルーズがいた後でANYTHING GOESが科学の原理とは
笑止千ばんですね

364 :考える名無しさん:2001/08/15(水) 16:42
>>362
丹治先生は友達の話によると、なんか間違えて学科主任だかなんだかになった
らしく、実務に忙しくて、あまり講義に集中できていないとかいう話を聞き
ました。とりあえず、授業を聞いてると大変疲れてて痛々しいらしいです。

でもまあ有名人だから、一度は受けてみても面白いんじゃない?

365 :OFW:2001/08/15(水) 22:03
>>359(わかりませんさん)
>混乱が生じるのではないでしょうか。
 確かに端折った言い方で、錯綜が生じているようですが、<実在><本質存
 在><概念><対象>という用語に関するややこしい(弁証法的な)事情も
 あります。
 「実在は一つ」とは(個体の向自性と根拠存在の同一性を共に指すため)
 ミスリーディングな表現で、正確には「客観は統一的存在」と言った方が良
 かったようです。
 また、「客観的実在」という言葉も厳密には正しくないのは、客観とは実在
 以上の存在だからです。
 実在(Real being)とは、通常非実在つまり観念的存在の反対であり、時間
 性においてある存在者を指しますが、直接的に措定された場合<それ>とし
 て指示される在るもの(定有するもの、Dasein)です。それは何らかの場所
 を占めるめるものとして、反照的には区別された特定の対象を指します。
 何が実在か、は認識の段階に応じて相対的であり、知覚においては物=感性
 的実在、判断においては事実(事象)=悟性的実在、必然的推論においては
 実体(Substance)=理性的実在が真に実在するものと見なされ、また本質
 領域に応じてその現存在(Existense)は実在的です(例:物理学的実在)。
>物質にすべて還元される
 機械論的な唯物論とは異なり、弁証法的唯物論は還元主義ではありません。
>唯物論的階層論とは何か
 実在の階層とは、要は歴史的自然の発展の結果として、諸客観の階層性が
 現存在している、という認識でしょう。それは物質の運動形式の発展段階が
 実在の階層的区分となっており、連続的な不連続を形成しているということ
 です。自然、社会、精神と特種化され、主観においてその反照を得る、と。

366 :OFW:2001/08/15(水) 22:04
>>360(わかりませんさん)
>生物細胞基礎論では、人間の細胞は客観的実在ですが、人体を対象と
>する科学では人体が客観的実在になると思います。
 細胞科学の研究対象は細胞の本質存在であり、その具体的実在としてのあれ
 やこれやの区別された細胞存在は、細胞本質の現存在(Existenz)つまり
 個別サンプルです。細胞科学者は具対物を解剖・分析し、その存立性の根拠
 を細胞内器官や細胞内物質(細胞質料)の働きにおいて見出すことで、総体
 としての細胞固有の客観的本質を定立しようとする。
 細胞の本質とは種々の細胞の現存在が示す現象(Phenomenon)を説明する
 ための原理として、実在(細胞)と非実在(非細胞)との統一としての、細
 胞の自己性をなすもの(根拠)です。
 一方、人体を対象にする場合、細胞は人体の質料的構成要素として、それ自
 体は止揚されたもの(独自の存立をもたないもの)と見られるわけです。
 そして人体が客観的な実在であるとは、すべての個人が固有の身体をもつと
 いうことです。人体学?はそれらの共通性さらに本質的同一性を探究する。
 「全体は実在せず、実在するのは常に部分である」とは唯名論そして唯物論
 の主張です。
>anything gose(なんでもかまわない)
 とは言えないでしょう。知性のアナーキズムは非合理主義に通じる。
 たとえば「心を重んじれば、私人だろうと公人だろうとかまわない」とは
 政治学(責任論)と心理学(感情論)の区分を無視する恣意です。
>>361
><観念的対象>なるもの
 <本質存在>とは観念的存在ですが、決して単に主観的ではなく、客観的な
 ものとして諸科学本来の対象です。それは客観的実在に到達するための、
 可能的全体という媒介物です。

367 :考える名無しさん:2001/08/15(水) 23:25
>>366
>><観念的対象>なるもの
> <本質存在>とは観念的存在ですが、決して単に主観的ではなく、客観的な
> ものとして諸科学本来の対象です。
<観念的対象>というタームが出てきた>>353をみると、「または」「あるいは」
という言葉の指示対象として措定していたはずだが、いつの間にか科学の用語の
対象の話に話がすり替わっているように見受けられる。
そこで再度問いたい。
「または」「あるいは」などという接続的表現は何らかの対象を指示するものか
否か?
もし「否」と答えるなら、>>337
>言葉とは記号の一種であり、記号とは<対象の代わりに立てられたもの>
という見解を放棄または部分的に修正することになるが、これを是とするか?
上の対して、あくまでも「または」の類の表現にも指示対象があると主張
するならば、さらに問う。
「従って」「言い換えるならば」「そこで」などの表現も指示対象を有するか?
さらに「こんにちは」「ごきげんよう」などの言葉も指示対象を有するか?
これらの表現がすべて指示対象を有するとみなすならば、その存在論的身分は如何?
<観念的対象>として一括し、いわゆる<本質存在>と同様に取り扱うことができる
か?
他方、ここで挙げた表現のいくつか(またはすべて)について指示対象を有しない
とみなすならば、やはり上で引用した>>337の見解と食い違いが生じると思われる
が、この見解を撤回または修正する用意があるか?

一見些末な事を訊いているように感じられるかもしれないが、20世紀の哲学的意味
論のある局面に関わる問題とも繋がりがあるので、熟慮のうえ回答されたし。

368 :わかりません:2001/08/16(木) 00:44
>そして人体が客観的な実在であるとは、すべての個人が固有の身体をもつということ
>です。人体学?はそれらの共通性さらに本質的同一性を探究する。「全体は実在せず、
>実在するのは常に部分である」とは唯名論そして唯物論の主張です。
何かはっきりしないんですが、私の理解で間違いないんですね。
ポランニーなんかは整理の仕方にもよりますがけっこうあっさりしていて、from―to
関係ということをいうのでわかりやすいのですが、氏のタームをいちいちチェックするのは
大変骨が折れる仕事です。弁証法についてはアレルギーもあることですし…。
とりあえず。

369 :わかりません:2001/08/16(木) 02:13
そうですか、ヘーゲル弁証法の論理学を前提としているのですね。私にはわからない世界です。

書士という言葉をネット検索したのですが、出てこないんですね。辞書検索もしましたが
該当0です。どういう意味でしょう。
「客観世界の構造に対応したカテゴリー(存在形式)的な分節に基ずく」というが、
科学が客観世界の構造に対して真に対応するということはありえないでしょう。
客観世界の構造を分節していくにしても、これを分節化していくのはイデオロギーですし、
超時間的な視座というものがあれば別ですが、それを人間が有することはないというのが、
多くの哲学の教えるところであります。

ところで、私にしてみれば、「心を重んじれば、私人だろうと公人だろうとかまわない」と
いう主張とはこういうものだ、と相手を説得できればよいのですし、結果として説得できて
しまえば、責任論も感情論も吹っ飛んでしまいます。
合理主義の問題は、このような(論理的飛躍に反して)論理的枠組みを超える跳躍、すなわち
主体の自由をどのように考えるかということにあると思いますし、科学における新しい体系が
出てくるという際に、合理主義の諸規則にのっとって出てくるというわけではないじゃないで
すか。新しい体系が規則を作るのですし、この規則はまたさらに新しい知によって破壊される
ことだってありうる。このダイナミズムが科学を近代において意義あるものにしているのだし、
いわゆる合理主義(者)が科学を宣伝材料に使うことができるというものです。
合理主義の内側には非合理主義が内包されている、いや前提しているというのが、
私、書士たる者の主張であります。anything gose!

370 :考える名無しさん:2001/08/16(木) 21:17
>>369
書士というのは国語辞典に出ている言葉で、ニュアンスとしては
真面目に先生の本を紙に筆写していた学徒のように真面目な人
という意味でしょう。そういう真面目な学徒が偉いとされている人が
言っていることを間に受けてanything gose(エニシング、ゴセ?)
などと意味不明な言葉を口走るのは、ちょっと変ですよ。だいたい
新しい理論が出てくる時は、古い理論が破綻しているところを補いつつ
包括する形で出てくるのであって、エニシング・ゴセなる珍妙な
呪文とはかけ離れてますよ(笑)。

371 :考える名無しさん:2001/08/16(木) 21:19
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

372 :考える名無しさん:2001/08/16(木) 21:19
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

373 :考える名無しさん:2001/08/16(木) 21:19
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

374 :考える名無しさん:2001/08/16(木) 23:28
>>369
それにしても、この”エニシング・ゴセ”
という謎の呪文の意味を知りたいなあ(笑)

375 :OFW:2001/08/17(金) 00:47
>>367
>科学の用語の対象の話がすり替わっている
 そうではなく>>343での記号とは単に物的名詞に限定されず、対象とは一般
 的・関係的・事象的本質存在も含むということを述べたのです。
>接続的表現は何らかの対象を指示するものか
 >>353での答の中に含まれていますが、展開してみると・・・
 お尋ねの「あるいは」とはカント流の判断表では<関係の判断>のうちの
 <選言判断>の表現形式(文形式)において登場します。関係の判断とは、
 その判断内容が何らかの<関係>である判断のことですがその対象は何か?
 客観世界においてすべての現象は相関的であり、世界のうちに生起する事象
 を客観的な対象にするためには、その関係性自体を表現しなくてはならない
 でしょう。特に選言判断とは、たとえば「すべての人間は男あるいは女であ
 る」という人間の分類(類の分割)のように<人間そのもの>(本質自体)
 を指示対象にしており、その現存在(Existense)全体の<総体性>を明示
 的に表現した判断(概念の分割)形式と言えるでしょう。
 <あるいは>単独では何ものも指示しない、とは実在的対象のみを対象と考
 えればそうも言えるが、<関係>(これ自体は観念的存在)を対象化するた
 めには「関係」という名詞が必要になり、その展開を展開的に表現するには
 接続詞が必要です。しかし関係的(相互に結ばれている)世界は客観的統一
 をなす一つのもの(単一性)であり、名詞「世界」によって表現されるで
 しょう。我々は直接的な感性的・個別的実在を超えて世界総体を対象にでき
 る。その時空的(歴史的)な実在に到達するために、そのすべての可能的・
 条件的脈絡を内包する単純な概念<世界>を媒介にその場所を象徴的に指示
 するわけです。「私は何者であり、今どこにいるのか?」

376 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

377 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

378 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

379 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

380 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

381 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

382 :OFW:2001/08/17(金) 00:49
>>367(つづき)
>「従って」
 推論は客観世界における事象間の関係から必然的実体を対象にする。
>「言い換えるならば」
 言葉の定義はすべて言い換えでしょう。それは表現と概念の関係を対象にし
 ており、未知の(良く分からない)表現を良く知られた概念に関係づける
 (あるいはその逆の)ものでしょう。
>「こんにちは」「ごきげんよう」
 これは言語の<喚情的(喚起的)用法>(オグデンーリチャーズ)として、
 <象徴的用法>からは区別されるでしょうね。それは認知的対象ではなく、
 実践的対象(目的)をもつ共感的コミュニケーションの表現でしょう。
>20世紀の哲学的意味論
 私の理解では、述語論理でのフレーゲ・ラッセル流の集合論的なもののこと
 を指しているのでしょうが、思想(概念)を外延的集合論に還元することは
 無思想(無意味)です。何故なら、量とは実在間の無関係性(無差別性)を
 表現する概念形式であり、本質(根拠)とは量を無限に超えている自己関係
 ですから。「量とは無概念的な概念である。」(ヘーゲル)
 カテゴリーのもつ<形式内容>を捉えること、つまりカントが始めた図式論
 やヘーゲルが発展させた弁証法論理の方向性(但し唯物論的に)が必要。
>>369(わかりませんさん)
>科学が客観世界の構造に対して真に対応するということはありえない
 科学的真理とはその対象と共に常に条件的な真理ですが、それは客観が
 無限に生成するものだから。真理とは結局の所、(主観的ではなく)実践的
 な課題です。
>分節化していくのはイデオロギー
 最近は政治的保守主義と平行して、哲学的主観主義が大はやりのよう。
 (近代合理主義を含め)イデオロギーにも客観的・社会的な根拠がある。

383 :考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:03
>>382
うまい説明だな。
しかし問題は、SとOを超える諸越論的パースペクティヴが、
Sに内包される可能性があり、結局Sに戻ってしまうことだ。
超越論的は、sとoを外からの視点で見るものではなく、
あくまでS内部でOに近い視点をとるだけのものっていう批判は、
それなりに意味があると思うが。
主客問題は永遠に解決されることはないだろう。
主客=1世界としてもその世界をみるには
どこからかの視点が必要だからな。

384 :わかりません:2001/08/17(金) 02:09
すいません、anything goesでしたね。すいません、おばか丸出し。

ちょっとローカルルールでもなんでもいいけど、発言者はAでもBでもなんでもいい
から特定できるHNつけてほしいです。わかんないんですよ。以前えらいことになった
こともあるし、どうにかしてください。

OFW氏は学識を上げられたようで、きちんと心してかからないといけませんね。
>最近は政治的保守主義と平行して、哲学的主観主義が大はやりのよう。
>(近代合理主義を含め)イデオロギーにも客観的・社会的な根拠がある。
そのとおりです。私はこの点には異論もないですし、事実そのとおりだと思います。
ポピインディアンの宇宙観と現代の我々の宇宙観とは異なりますが、これはイデオロギー
の違いだということが言えると思いますが、どちらがすぐれていて、どちらが正しいとい
うことは、近代的科学観(イデオロギー)を前提としなければいえないのではないか。
また、だとしても、日常のすべてにおいてどちらが調和的であり、より人間的であるかと
いうことになったら、これはかなりむずかしい問題になっていくのではないかと思います。
OFW氏は、科学の境界線問題をやりたいのだろうか、という疑問があるのですが、
どうですか。氏の問題構成をお聞かせください。

>370
そうかしら。書士じみてますか、私の言ってること。そんなんかなあ、ちょっと疑問。
>363さんとか、370さんとかそういうけど、ほんとにそう思ってる?
私がここまで書いてきたことというのは、火星にロケットが飛んでパソコンでこういう
事ができる時代であっても、それとは別に営まれる生というものがあって、そこから
科学を眺めると、科学はどのように見えるんだという反省をしているというのが、
大方のあらすじです。ですから、科学とは近代科学のことであり、錬金術や古代ギリシャ
科学まで含めるつもりは毛頭無いのですが、近代的な枠組みで何か言われても、私には無
意味なんですよ。
たしかに、そんなことをいったら非合理主義になるじゃないかという反論はあると思うのですね、
もっとも、じゃあ、そういう合理主義というのは科学のことではないのですか、という
反論について、まず答えていただかなくちゃいけないんですよ。近代的前提に立った議論につい
ては、なんか空虚だと思うんですね。
この歳になってくると、幸せってなんだろうとか、生きていることってのはどういうことだとか
考え出すんですが、これを形而上学とか言われて排除されても、私には空虚だな。
ちょっと逆ギレ気味ですが、これも残暑厳しき折のこと、お許しを…。

385 :わかりません:2001/08/17(金) 03:11
>だいたい 新しい理論が出てくる時は、古い理論が破綻しているところを補いつつ包括する形で
>出てくるのであって、エニシング・ゴセなる珍妙な呪文とはかけ離れてますよ(笑)。
そうでしょうか。もう、「古い理論が破綻しているところを補いつつ包括する形で」といったとたんに
ポパー流の進歩史観にはまってるじゃないですか。そこでは古い理論とか新しい理論とかいえないじ
ゃないですか。いわゆるパラダイム論についてファイヤアーベントはいろいろ反論があるにしても、
パラダイム間の共訳不可能性という議論は、どちらかといえば、ファイヤアーベントに自覚的に
見られる議論ですしね。なにぶんこういうことについてはどうせ書士ですからこだわります。
しかも、このことについてはすでに以前例をあげてくどくどやってますから、そちらでもご覧ください。

386 :OFW:2001/08/17(金) 05:52
>>384
>氏の問題構成をお聞かせください。
 階級とは生産手段の所有に関する社会成員の区分であり、社会の生産関係を
 反映しています。資本主義社会では資本家階級と労働者階級が本質的な階級
 として対立しており、生産手段の所有者である資本家階級と生産手段から
 切り離された裸の労働力である労働者階級の存在は、資本の価値増殖に
 とって本質的な要件です。その他の自営農民、自営業者、インテリ等は
 中産階級と呼ばれ、安定した経済基盤を持たない動揺する階級です。
 しかし、以前「一億総中流意識」とか盛んに喧伝され、あたかも「意識が
 存在を決定する」かのような宣伝がなされたので、労働者は自己が何者であ
 るかを正しく理解できなくなっているようです。
 最近でも、「マルクス主義社会理論に基づく」と称して、中間管理職や
 ホワイトカラーを「新中間層」と呼んで、労働者階級から区別する論者
 も出てきているので、ますます、客観的な現実認識から
 遠ざかり、労働者の階級的な自覚を阻害しようとする傾向があるようですね。
>科学とは近代科学のことであり、錬金術や古代ギリシャ
>科学まで含めるつもりは毛頭無いのですが、近代的な枠組みで何か言われても、私には無
>意味なんですよ。
 何にせよ個人の業績を評価する場合、その主観的意図が何であるかではな
 く、それが歴史的・客観的に果たした役割を見なくてはならない。
 資本主義がその勃興期における自らの解釈者としてアダム・スミスを生み、
 成熟期においてミルを生み、そして一般的危機すなわち帝国主義段階に
 入ってマーシャル、ピグーやケインズを生んだとしても、そこには学説の
 進歩というよりは、資本主義の歴史的な変容があることを見る必要がある。
 20世紀に入り、資本主義体制は古典派の説くような市場の自由放任では
 もはや維持できず、貧困・失業は経済学が解くべき第一の課題になった。
 それは、資本家階級と労働者階級の対立が、もはや和解しがたい程深刻に
 なったことを意味している。しかし「何故個人の自由に基づく市場のメカ
 ニズムでは社会の福祉・厚生が結果しないのか?」について、新旧の厚生
 経済学およびケインズ学派は解答を出せず、結局改良主義、すなわち、政
 治的国家の市場への介入による所得の再分配を説くだけである。そのこと
 は、真の原因、すなわち、階級対立の存在を覆い隠し、国家という共同体
 幻想を持ち出すことでしかない。
 結局、(公共セクターと呼ばれる)政治的国家を必要とする経済学とは、
 科学というよりは政治的なプロパガンダに見える。最近の例で言えば、
 「公的資金の投入による金融システムの安定化」とは、かっての「国体
 護持」と同じ程度の、階級社会を隠蔽しつつ維持するための「政治的・
 経済的政策」と言える。
 ま、「こんなことは、自明の理ではないか!」でしょう。

387 :考える名無しさん:2001/08/17(金) 08:17
濃い場所にいると疲れるよ
「ハリネズミのナントカ」って言葉なかったっけ?
濃い精神病理者は強く引合うけど深く傷つけあうトカ
そういう意味っぽいヤツ(無知

濃い精神活動のぶつけ合いは凄くエネルギー消費するよ
どっかで自分を整理しないと振り回されるよ

388 :考える名無しさん:2001/08/17(金) 17:52
>>385
キャッチフレーズだけ唱えられても意味がわからんな。
具体的に科学上のどういう展開を想定してANYTHING GOESなる主張が
出てくるのかな? 数億回の実験に耐えている物理学の標準理論を
前にしてANYTHING GOESなどと言えるのかなあ?
科学自体ではなく科学についての議論だけ見て科学の発展を論じてるのでは?? 

389 :考える名無しさん:2001/08/17(金) 21:46
ofwとわかりませんのネタスレ?

390 :AでもBでもいい:2001/08/18(土) 00:11
>>384
ご要望に応えて、このスレだけのHNをつけた……が、科学論について論じるつもり
はないので、言語論についてのOFW氏との議論に終始することになるだろう。

さて、>>375 >>382を読んだが、カントやヘーゲルについての素養がないので、正直
言って何を言っているのかよくわからなかった。
特に、関係を「観念的存在」と呼び、目的を「実践的対象」と呼ぶ語法には驚き、非
常にとまどった。
ただ、
><あるいは>単独では何ものも指示しない……その展開を展開的に表現するには
>接続詞が必要です。
の一節を読むと、接続詞の機能は何らかの対象を指示することではなくて、一定の
構造をもった文に位置することで文全体の意味に寄与することが接続詞の意味だと
考えればいい話ではないかと思う。
名詞「関係」が<関係>を指示する、という考え自体に抵抗があるが、一歩譲って
それを認めたとしても、「その展開を展開的に表現する」語たる接続詞までもが、
何か(「展開的に表現された展開としての<関係>」?)を指示すると無理に考え
る必要はないだろう。
なお、関係の判断、選言判断などはどちらかといえば語用論の領域に属する(ただ
し、上述のとおり私はカントに通じていないので、カントの「判断」が必ず記号を
必要とするものとして想定されているかどうかは知らない)ので、意味論の領域で
の「指示」を巡る議論とはレベルが違うと思う。

391 :OFW:2001/08/18(土) 01:00
>>383
>主客問題
 は近代哲学最大の問題でしょうが、世界認識と世界の中にいる認識主体との
 関係は結局実践的なテーマです。超越論的だろうと何であろうと、問題を純
 哲学的・理論的に立てることは、現実世界に対する超越的(評論家的)な態
 度と呼べるでしょう。世界のうちで働くもの(現実的な主体)こそが主客の
 対立を超える。
>>384(わかりませんさん)
>科学の境界線問題
 に興味はありませんが、科学技術の成功に乗じた近代合理主義の無反省的
 (悟性的)態度と、本来の科学的精神(客観世界の理性をわがものにしよ
 うとする態度)の区別には関心があります。(ポパーなどは前者。)
>>386
 別スレ(板)での私のカキコがコピペされたが、テーマが違う話。
 (発言者は「転載君」とでも名乗るべき。)

392 :OFW:2001/08/18(土) 02:44
さて、つづき。
統一科学運動を指導したカルナップによると、もっぱら有意味な命題は
経験科学において見出されるのであって、すべての命題の有意味性は、
経験科学のそれに照らして判明するのだから、すべては科学の命題や
言明によって語られねばならないと考えます。しかも、経験科学の言明は、
プロトコール文や観察文に還元されなければならないと考えるわけです。
ところで、このような理念はヴィトゲンシュタインの語り得るものについては
明晰に語り得るのであり、語りうないものについては、沈黙しなければならない
という有名なテーゼをうけて、且つこれを敷衍したものと考えられますが、
このテーゼは2つに解釈可能なのではないかと考えられます。
1つは、彼自身が考えたとおり「真なる命題の全体が自然科学に他ならない」
というもの、カルナップもこれを支持するでしょう。
もうひとつは、ポランニーがいうように「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」
というテーゼにみられるように言語によって語ることが不可能であるにもかかわらず、
例えば人の顔についての知識や自転車に乗る技能のように確かに知られ修得されている知識というものがあるがゆえに、
ヴィトゲンシュタインはあえて沈黙という言葉を使ったという解釈も出来ます。
ポランニーのテーゼを受けてあえて言えば、言明できるものとは人間の知識における氷山の一角
表層の言説という表現も可能であるかもしれません。

続きはまた。

393 :OFW:2001/08/18(土) 02:56
390の人はもしかして、野矢と野家を混同してるっぽい(僕もはじめそう
だった)

飯田氏と野矢氏をつなぐ線は、今は亡き大森氏でしょう。

野家氏は「クーン〜パラダイム」(講談社)に、指導教官だったローティ
の研究室にクーンが入ってきたとかいう記述があるので、ローティに学ん
だのは間違いない。
ちなみに、クーンの弟子は、佐々木力氏。

394 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:47
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395 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:47
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396 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:47
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399 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:47
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実際今世紀における衝動哲学というのは、伝統的な加法減法式予定調和的モデル
(+1−1=0)ではなく乗法除法式的な反比例モデルになるだろうな。
この場合衝動という概念はいわば強度的速度的な推進装置ともいえるだろうが
これを数学的に言うなら、要するに衝動とは傾きだ。
伝統的な負債概念であれば、1借りると1返す、このバランスが所謂「健康的」といわれるものだ。
が、反対に衝動が示すのは、むしろ「過剰な」負債概念なのだ。
1借りるところを2借りてしまった、だから2返す必要がある!これを極端に言えば
1借りるところを1000借りてしまった、だから1000返すひつようがある、とこうなる。
1から1000への乗法は、例えば1借りているようにみえたが
実は1000借りていたという除法としても機能する。これがルサンチマンの数学である。
というわけで衝動哲学には歴史概念、というより時間概念がつき物であることも付しておく。
だからこの場合、強度(傾き)を可能にしているものは速度であるともいえる。
ところで速度は一見すると平等に割り振られているように見えるかもしれない、それはすなわち
男性であれば75歳前後、女性であれば80歳あまり、これは速度の絶対的資本である。
ただしこれが相対的に可変可能であるーーそして我々にとって重要なのはこの相対性である――
のは、上記の乗法除法モデルにより明らかである。    
(民明書房刊『速度――この偉大なるもの』)               
     

405 :わかりません:2001/08/18(土) 04:30
>387
ここはとっても濃いです。私はOFW氏には失礼なこといっぱい言ってますけど、
あなたも氏の濃さに対してはもう少し敬意を表さなくっちゃ(マジで)。
>388
>数億回の実験に耐えている物理学の標準理論を前にしてANYTHING GOESなどと言えるのかなあ?
>科学自体ではなく科学についての議論だけ見て科学の発展を論じてるのでは??
この問いはいい問いですね。こういう問いは大学のゼミなんかではいえない類の問いです。
ニュートン力学にしても、今でも正しいわけじゃないですか。万有引力の法則にしたがってロケット
は宇宙を飛ぶわけですし、運行計画も立案されるわけですよね。
ところで、
Q:科学がこれだけ問題になるのはどうしてですか。
A:科学こそは、人間の知性と理性をもっとも代表しているからです。
Q:では、なぜ科学が人間の理性をもっとも代表としていると思うのですか。
A:それは、科学によって今までなぞとされていたものが次々と解明され、私たちの世界に対する見地が
  広げられるからです。
Q:ではさらに、なぞが解明され、世界についての見地が広がるということは、
  どういうことをいうのですが。
A:発見です。科学は私たちに新たな発見をもたらし、今までの常識や迷信を正して正しい認識へと導いて
  くれます。
この発見の本質を考えることが、科学哲学では重要なテーマになるのではないかと考えています。
では、科学上の新しい発見とはどういうことか、この議論が今までここにかかれているので
多くは繰り返しませんが、私は科学史は無視しません。これに対して科学史をまったく無視してしまったのは、
ポパー自身でした。科学に対して、科学の基準や論証や正しい指針を示すという意図がポパーにはあったわけ
ですし、そういう意味では科学史は彼の問題構成の中では必要なかったわけですが、それはあまりにも
人間の営みとしての科学というものを無視した議論でした。もっと人間くさいのですし、もっと好き勝手に
科学者は世界を捉えているのですし、そういう意味では科学はポパーより自由な世界であったということかも
しれません。したがって、私に対する反論としてこれは成り立たないように思いますし、
そういう意味では私は非合理主義といわれることに抵抗はありません。もっとも、合理主義はこと科学上の
発見については、何もいえないのではないか、むしろなんでもかまわないといってしまうべきなのではないか
と考えています。なぜなら、人間の精神活動は予測不可能なのですから。

406 :わかりません:2001/08/18(土) 04:54
続き
そういう意味では私は歴史の必然性とか連続性というものの一切を丸ごと認める気は無いんですよ。
>392でOFW氏が書かれていることですが、これはまったく私の議論と同じです。これに対して、
どう氏が議論を展開されるかとても楽しみですが(これほんとにOFW氏が書いたの!)、氏がここ
でいってる表層の言説においては必然性のようなものはありうると思うのですが、いわゆる深層の言説
とでもいうようなものは予測不能ですし、極めて個人の人格的な必然性によってもたらされるものです
から、なんともいえないんですね。しかし、科学が常に新たな発見によって自己を刷新しつづけるとい
う際に、この深層の言説とでもいうものが大きくかかわっているということ、これにとても注意している
というのが私の考え方です。

407 :388:2001/08/18(土) 05:05
>>405
>なぜなら、人間の精神活動は予測不可能なのですから。

ふーん。そういう意味でANYTHING GOESですか。
まあいいんじゃないですかね。より正確な記述は大問題ですが。
私としてはたぶん科学における理論の創造の問題は、カントの「判断力批判」
の美的判断力批判の理論における産出的構想力の問題系、
図式論の問題系と深い繋がりがあると踏んでいます。

408 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:06
死ね

409 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:06
死ね死ね

410 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね

411 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね

412 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね

413 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね死ね

414 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

415 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

416 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

417 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 05:07
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

418 :388=407:2001/08/18(土) 07:55
>>406
>いわゆる深層の言説 とでもいうようなものは予測不能ですし、極めて個人の人格的な必然性によってもたらされるものです
>から、なんともいえないんですね。

しかしこう書いているところを見ると、やはり眉唾。
わかりませんおじさんの灰汁が出てて付いてけないや。
実験というものについての視座が抜けまくってますか?
科学論だけで遊んでるんじゃしょうもないなあ、わかりませんのオ・ジ・サ・マ♪

419 :388=407:2001/08/18(土) 08:07
だいたい、表層との深層とか具体的に科学上のどういう言説に当てはまるんですかぁ?
必然を信じないというなら、そういう事象をひとつでも指摘してくれませんかねえ?
オヤジの独白で自分は信じるとか信じないとか言い始めるというのは、キモいんだよなあ。

420 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 09:57
                      
              

421 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 09:57
               
   
   
                

422 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 09:58
                 

423 :考える名無しさん:2001/08/18(土) 11:45
OFWってなんて読むの?如何言う意味っすか?

424 :考える名無しさん:2001/08/19(日) 02:33
>388=407さんをよんで思い出したこと
曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」
ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。
現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます
つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。
ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう
悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう
たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。
そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。
それが悟りの例えでしょう。
悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。
疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。

他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。
そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。
えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。
あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^:
でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています

425 :388=407:2001/08/19(日) 03:52
>>424
貴重な話をありがとうございます。
2ch的ノリで書いてて、気分を害されたら、申し訳ないっす。
ちなみに私は科学の現場にいるんですけどね。

426 :わかりません:2001/08/19(日) 04:39
いいなあ、なんか風呂から出て、いい気持ちになってここ読んでたら、
388=407さんと424さんのこういういい話が書いてあって、極めて、いい。
あっ、わかるんですよ、そういう現場の方のそういう苛立ちみたいのって。
簡単にわかるっていってしまいましたが、私ことおじさまも高校生のころま
で理科系で、バリバリの科学少年だったこともあったんです。科学以外のこ
とをまったく信じないって感じでしたし。動機はともあれ哲学科にいっちゃ
いましたが。
まあ、しかしおっしゃるとおり科学をやったことの無い哲学者がやってる
科学論ってのはまともなものが無いですね。そういうのは私も信じないです。
原理としてはわかるけど。そういう科学哲学にはいろいろいいたいことがあ
りますが、何といっても現場主義ですよ。そういう意味で私が信じられる
科学論はポランニーですね。あとメルロー=ポンティもいい。
anything goesなんてのは、所詮科学論に対してのアンチという程度だとい
うご主張にはそのとおりですが、時には毒も薬になる。424産ではないですが、
なにが見えてくるんでしょうね…。
私は学識ではOFW氏の足元にも及びませんが、現場での科学についてお教えください。
ご専門はなにですか、物理関係ですか。私が比較的まだわかるのは生物学関係ですが、
ポランニーは化学でしたし、彼の科学上の業績についての論文もいくつか読んでますから、
化学反応速度論関係の話とかは少しはついていけるかもしれませんけど、あまり専門的な
お話は勘弁してくださいね。何せ、もう「おじさま」ですから。

427 :388=407:2001/08/19(日) 09:37
科学の発展をみている限りは、AnythingGoesというのは
個人の想像力のところでは、そうだと思われますが、ただ実験で検証するとか
整合性をチェックするとか言う話のほうが、実は科学の営みとしては
ウェイトが高いですよ。一定の集団のなかで共通了解の部分は
パラダイムみたいのはあるわけで、それはそういうプロセスで形成されるんで。
想像力だけ働くのであれば「ドラえもん」でも科学になるわけです。

428 :OFW:2001/08/19(日) 11:20
>>390(AでもBでもいいさん)
>意味論の領域での「指示」を巡る議論
 とはどのようなものを指しているのでしょうか?
 (たとえば、「固有名をめぐる難問」とか言われているもの?)
 上にも述べたように、私は意味とは記号による媒介的・象徴的な指示である
 と考えており、それは意味なるものを無意味化したり(集合論)、逆に神秘
 化したり(存在論的形而上学)しない立場です。
>>392,393
 なりすましとコピペ荒らしは議論を混乱させるだけです。真摯な議論を!
>>406(わかりませんさん)
>これほんとにOFW氏が書いたの!
 私ではありません。別スレで見かけたな。
 内容にはそれ程違和感なく、「プロトコール文」(手続き文?)「観察文」
 という実践的な着眼はとても良い点だと思う。
 クワインなどは「論理的に表現できないもの以外は存在しない」とか過激に
 言ったそうですが、論理も客観的実在に辿り着くための迂回的・操作的な
 手続きであり、客観は主観より“広くかつ深い”ことを忘れないことです。
 また「語り得ないもの」「言語ゲーム」というウィト用語が大はやりですが、
 遊びと言った<無根拠性>を強調し過ぎるように思われ。
 人間は自然の中に投げ込まれた有限な存在ですが、考え合い(西研)、語り
 合い、協力して世界の現実に立ち向かう存在です。
>>423
>OFWってなんて読むの?如何言う意味っすか?
 >>352を参照下さい。

429 :考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:06
盆供養の住職が帰った後で1年生の息子が難しい漢字沢山の般若心経って何と聞くので
パパが教えた。
昔人助けの大好きなボランテアおじさんがいてね。テレビの画面みたいにパッパッと頭ん中の考
えが変えられるんだって。おじさんがゴロッと寝ころんでじーと考えていたら、うん、そう
か!って気が付いたんだって。そしたらね、お金がただの紙で、オレンジでもコーラでもカルピス
でもどれでもジュースでおんなじかぁて、分かったんだって。
先生に叱られても泣かないし、ママに怒られてもビビらないって、強い気持ちになったんだ
って。アニマックスでみたろ、悟空がサイア人からスーパーサイア人に成ったろ、あれみたいにスーパーノーテ
ンキおじさん、違う、スーパーボランテアおじさんに成ったんだって。
分かった?ンッ! スプレンダー変身! ウルトラキック!
キャハハハハと笑って逃げる坊主あたまのクソガキ。
お尻プリプリーーだってよ。

ある高僧をお招きしての説法会で、さわりの部分。
仏法に空観という言葉がある。空観では空ならず。空であって初めて観自在となる。それは
観にしがみつく心があるからだ。その心が自在心を鈍らせる。いいですか、ヤカンでも
なければドカンでもなく、チカンでもない。ましてやイラカンでもなければイカンザキでもない。
ドっと湧く一同。しばらくお話が続いて、
先達の言葉に「禅者は座るに執着し、経読みは経の色に執着し、哲学者は言説の味に
執着する。執着してることを知らずに執着する」とあります。その意味をよくお考え
ください。今晩はこれにて終わります。
先生のお帰りのあとで一同「イヤーなんか今日の話はちょっと難しかったなぁ」と頷き
あう。このあと般若湯、もちろん宝のカンチューハイを飲りながら、観観学学と熱く夜中ま
で議論したのであった。

新宿の街で風変わりな青年が「これ読んでください」って紙を配っていた。そのなかに

   心
優しい心をもつ青年がある日深い瞑想をして深奥にあるものに触れた
友よ話そう 自由な心をえて気づいたことを
心に写る木々の梢が風にそよいで 葉が光に輝いてそよいでいる
心に写るものが今までは幾重にも染められ縛られていた
いまは怖れも怯えも迷いもなく
ただ死はそこに石のように落ちている
おらゆるものは心に写っているにすぎない
なぜただ写っているものにしがみつく必要があるだろうか
友よ 君の笑顔が心の鏡に映えている
木々の梢が風に揺れ 緑の葉は日差しを浴び輝き舞う

430 :AでもBでもいい:2001/08/19(日) 23:53
>>428
>意味論の領域での「指示」を巡る議論
たとえば、指示とは端的に言葉と対象の間の二項関係だと考える立場と、言葉とそれ
が指示しているとされる対象の間には媒介項があると考える立場との議論など。
あるいは、「そもそも言葉が言葉以外のものと結びつくというのはどういうことか?」
という議論もある。
>私は意味とは記号による媒介的・象徴的な指示である
>と考えており、それは意味なるものを無意味化したり(集合論)、逆に神秘
>化したり(存在論的形而上学)しない立場です。
私には、「意味とは記号による媒介的・象徴的な指示である」という考え方自体が
意味の無意味化であるように思える。
すなわち、「意味」概念を「指示」概念と同化して解消しきってしまうからだ。

横レスだが、
>クワインなどは「論理的に表現できないもの以外は存在しない」とか過激に
>言ったそうですが
こんな事は言っていないと思う。というのは、上の対偶をとると、「存在するもの
は論理的に表現できないものである」となってしまい、明らかに不合理だから。
もしかしたら「論理的に表現できないものは存在しない」または「論理的に表現で
きるもの以外は存在しない」と言うつもりで間違えたのかもしれないが、これもお
かしい。ウィトゲンシュタインならいざしらず、クワインがこんな事を言うとは考
えにくい。
とはいえ、私はクワインについて詳しく知っているわけではないので、もし出典が
明らかなのであれば、ぜひ教えてほしい。

431 :わかりません:2001/08/20(月) 01:38
>実験で検証するとか整合性をチェックするとか言う話のほうが、実は科学の営みとしては
>ウェイトが高いですよ。
そうでしょうね。何々理論なんて、後になってでてくるのであって、最初に対象との長い付
き合い(こういうと理系の人は引いたりする)や観察や実験というものがあって、データの
整理や実験計画の変更やサンプルの再検討などがあってという、気の遠くなるような煩雑な
手続きや作業があると思います。
こういう科学の現場というものがあって、いろいろな理論が出てくるにせよ、ある理論が出
てくる過程の中では、ここの以前の書き込みにもありましたが、厄介な問題とか課題という
ものがでてくるというのは理解できます。
安易にプロジェクトXうんぬんとか言うのはなんですが、いろいろあるんだろうなと…。
ポランニーの評伝を読むとそういうのいっぱい出てきますし。
ある科学者が、自然を切り出してきて、試験管の中に監禁し、拷問の末、白状させるのが
実験だといっていましたが、ありうべき可能性をすべて検討し、些細な出来事から全体像
を把握する作業は刑事のそれのようです。そうした場合、異なるパラダイムであっても、
ある特定の状況として、それをうまく説明できるのであれば、ある程度つながったものと
して並存するということもありえると思います。そういう意味では哲学的には問題が多い
としても検証主義やポパー流の累積史観は科学の現場ではリアリティをもつと思います。
余談ですが、理論経済学ではなんといってもポパーなんです。科学論は社会科学について
ほとんど発言していませんが、サミュエルソンにしてもフリードマンにしてもポパーに対
しては、哲学におけるアリストテレスやフッサールと同等の位置付けをしているといいます。
彼らに対してなんでもかまわないといったら、それはもう口きいてくれませんよ。しかし、
哲学上の問題と、上記のそれぞれとについてはまた別の見解も成り立ちそうです。
それについてはまたいずれ。

432 :OFW:2001/08/20(月) 03:05
「科学の対象はなんであるかという設問を立てた場合、科学的対象とい
うものが
存在することになりませんか。」
ラフにいえば、科学的対象が(少なくとも概念上)存在することになるで
しょう。
そして、星について語ることの<ある語り>は科学であり得ます。
誤解がありそうなのは(上記の言いまわし自体不正確なのですが)、科
学が天体について語るとして、それが日常我々が星と呼ぶものと同一
であるとは限らず(いやむしろ異なるものである、と私は考える)
従って科学的対象としてのホシもしくは天体と我々が日常(がんを掛け
たりする)星は別個のものでありえる(そしてその通りだ、と私は考える)、
という点です。あなたは、科学的対象たるホシと日常的対象たる星は同
一であり、それ故、科学的対象が存在するのであれば、日常的な我々
の語りもまた科学的対象についてのものであり得ざるを得ない、とお考
えではないですか?
 人体を例に考えてみましょう。我々は日常的に自分や他人の体を見、
触り、語ります。(このような日常的な語りの対象たる物体を、素朴物理
学(folklore physics)的対象と呼びます。)この人体について我々は様々
な信念、様々な記述を現に持ち、また持つことができます。この素朴物
理学的な体と同じである、と我々が信じる場所に顕微鏡をあてがえばな
にかが(おそらく身体構造が)見えるでしょう。更に生理学的な諸探究が
行われれば様々な記述が得られるでしょう。
これは生理学的対象としての人体に対する記述です。
更に、化学的、物理学的等の探究が行われれば、それに応じて、化学
的対象、物理学的対象についての記述が得られるでしょう。ここで、重
要なのは、だからといって、素朴物理学的、生理学的、化学的、物理的
対象についての記述が、同一対象についての記述であるとは限らず、
むしろ、第一義的にはそれぞれの固有の対象についての記述である
(と考えられる)事です。
つまり、物理的言説に対応して物理的人体が、化学的言説に対応して
化学的人体が、生理学的言説に対応して生理学的人体が(以上三者
は人体、というより、単に対象のほうが好ましいかもしれません)、そし
て素朴物理学的言説に対応して素朴物理学的人体が存在もしくは措
定されているのです。
それらの諸人体、諸対象が、ある一つの言説で措定された対象と共通
であるか、あるいは唯一の別の真実在の仮象であるのか、あるいはそ
れらはサンドウィッチ的に併在しているのか、等の問題は置くとしましょ
う。少なくとも、(素朴物理学や化学といった)複数の探究営為、言説枠
組み直ちが一見一つに思われる(人体という)対象について存在するこ
とからは、直ちには一対象に複数の言説枠組みに於ける諸記述がそれ
を記述している、とか、ある一つの言説枠組みにおける対象をのみ他の
諸言説枠組みの諸記述は記述しているのだ、という結論は出てこないの
です。

433 :OFW:2001/08/21(火) 00:36
>>430(AでもBでもいいさん)
>「意味」概念を「指示」概念と同化して解消しきってしまうからだ。
 何故そうなると考えるのか不明です。媒介的指示は直接的指示と対立的
 でもあり、否定あるいは非実在の契機を内包している。
 それでは、「意味」とは如何なるものとお考えでしょう?
>こんな事は言っていないと思う。
 上記の部分は撤回します。ミスタイプかつまったく不正確ですので。
 (荒らしに苛立った妄言にてご容赦。)
>>432
 前レスの全文コピペは無用(主張が見えない)。
 かつ発言者の同一性を維持しないと、コミュニケーションが成立しない。
 「OFW」とは何あるいは誰を指示しているのか?
 匿名掲示板では、言説の戯れのみが存在し、意味ある何ものも指示しない
 とでも言いたいのかな?
・・・ということで、夏休みモードも終了とて、少しマターリ逝きます。

434 :考える名無しさん:2001/08/22(水) 16:08
http://www.ddanzi.com/ddanziilbo/bbs/cwb-data/data/FtvBBS/vavy.jpg
こんにちは。親愛なるあなたが全面的にこの有害なものを根絶する事に協力することを望みます。
あなたが行く国−日本に関する情報で、まぎれもなく事実です。
脅えないでください!
「これは日本の最もホットな食べ物です...」
「日本では、病院から高い頻度でバーベキュー用の死んだ赤ん坊あるいは胎児を10000円から12000円で買うことができます。」
赤ん坊...何とひどい国なのでしょう!!
世界の人々がこの惨状を見て、この惨状に対してアクションをする人を集める為に、できるだけ多くの人々へこのメッセージを転送してください。
これは人類の為のものです、そして私たち、世界の人々は、この悪習を根絶するために手に手をとりあいましょう。
このアクションは終了しません。
私だけでは言葉さえ言うことが不可能です。
したがって、親愛なるあなたが可能な限りこのメッセージを広げるを望みます。

435 :AでもBでもいい:2001/08/24(金) 01:30
>>433
>媒介的指示は直接的指示と対立的でもあり、否定あるいは非実在の契機を内包している。
まず「媒介的指示」というもののメカニズムを教えてもらいたい。
言葉が何かを媒介にして対象を指示するということなのか、それとも言葉が(直接の)
指示対象を媒介にして別のものと関わるということなのか、言葉以外の何かが言葉を
媒介にして対象を指示するということなのか、あるいはこれらのどれでもないのか?

>それでは、「意味」とは如何なるものとお考えでしょう?
完全にまとまった、整合的な考えをもっているわけではないが、私見の概略は次の
とおり。
まず、文の意味は、思想だと考える。「思想」といっても「宗教思想」とか「政治
思想」とかの大層な意味ではない。「これはペンである」も「富士山は浅間山より
高い」もそれぞれ固有の思想を表明している。
思想は内包量であり、記号論理学または集合論のテクニックを使って外延量に還元
することはできない。いや、できるかもしれないが、少なくとも今のところ我々は
そのような方法を見出してはいない。可能世界意味論も信念文に対しては無力だ。
従って私は外延主義はとらない。
次に語の意味だが、これは語の種類によって異なる。固有名の意味はその指示対象
だと言ってよい。また指標詞(「今」「私」「ここ」など)も固有名と同様に端的
に対象を指示するが、指示対象は文脈または発話状況に応じて変化するので、それ
らから指標詞を切り出して単独で意味を持つと考えるのは馬鹿げている。もちろん
「『私』とは、誰であれ、この語を用いて発言を行うものを指す」という大ざっぱ
な言い方はできるが。
普通名詞の意味は一般には言えない。「赤」は赤概念を指示すると考えることがで
きるので、それ(赤という概念)が意味だと考えられる。「この世に存在する赤い
ものすべてを含み、かつ、それ以外の何ものをも含まない集合」を指示すると考え
れば外延的に処理できるが、どちらを選ぶかは存在論の問題だ。私は素直に概念の
実在を認めたい。
その他の品詞、たとえば副詞や動詞、接続詞などの意味は、指示対象と考えること
はできない。動詞「歩く」はいかなる対象をも指示しない(従って、この動詞の名
詞形である「歩き」「歩み」「歩行」等も指示対象を持たない)。これらの意味は
文全体の意味(=思想)への寄与である。
なお、もちろん「文全体の意味への寄与」という対象が存在するわけではない。

436 :考える名無しさん:2001/08/25(土) 16:43
永井均は1冊でよいと思います。あとは同じ繰り返しだと思っています。その一冊は新鮮な
知の感性的起源と論理の徹底さを表出していると思います。そうした永井均の魅力や意義はよくわかります。
しかし、どうしても文章から溢れてくる、ヤヒな匂いが生理的にダメです。
<何をいっているかより、どういっているか>の点で読むに絶えなくなってきます。
「半径1mぐらいの自身に対するおののき」はあっても、いつまでも自分が、自分が、自分が、自分が、自分が・・・・
宇宙の中の唯我独尊の生涯には本格的な幼稚さを感じざるをえないです。
自分は?はたまにはいいでしょう。
しかし、もう40をこえているでしょう。自分は?というマスターベーションから脱出して、
あるいは、他人に心の中のヒミツを表明せず、こっそり自問していればよいのです。
りっぱな大人になってください。
強烈な<こども>であり、しかも、大きなこどもであることに異様さを感じます。
池田晶子との対話も池田の掌に乗っかっていて、「ああー、全然だめだね、わかっちゃない」という
池田晶子の本音が感じられる対談でした。どう読んだら永井の方が勝っていたと
読めるのか不思議でならない。永井は<唯我独尊>、池田は<気を遣い>のすれ違いを。
彼女も生活のために、どうしてもかみ合わない、気を遣った
あんなくだらない対談をせざるをえなくなってしまったことの方に悲劇を感じてしまいました。
こどもの永井は池田を本格的に恐れているのであろう。世人に対する鈍感さや自己に対する拘泥は
世事に疎く、生活感が欠如してて、アカデミックからも飛び出している池田の強度の方が
強い。        

437 :考える名無しさん:01/09/05 00:01 ID:jfATQK.k
なんとなく、あげておきたい気分。
どうせ誰も書き込まないと思うが。

438 :にいなな(本物):01/09/05 01:08 ID:N3yUSlFY
>ヘタに「正義とは」なんて哲学的に考えはじめるからサリンまいちゃ
>ったりするんでない?
「哲学」という言葉の捉え方にもよると思うけど、ちゃんと哲学的に考え
ていれば、たぶんサリンをまくような危険思想には陥らないと思う。
倫理は必要。
アルチュセールの言葉に「科学者は最悪の哲学を選択する」
というものがある。この言葉には二つの意味がある。
ひとつは、文字通りの意味。
そして、二つめは、ひとは誰でも、それが科学者であろうと、
何らかの哲学を持たずには生きられない、ということである。
文字通りの意味っていうけど、その理由をアルチュセールはどう説明しているの?
科学者は好奇心のために倫理的判断を無視するということ?
そうだとしたら、いいたいのは、科学者全体に一般化してはいけないんじゃないか?
アインシュタインやグロタンディークのように「社会的責任」を論じた
優れた科学者もいるし、むしろ科学を応用する「実際家」のほうが
数段倫理的に劣っていると思うよ。
それはともかく、科学哲学は副作用が少ないという意見には同意。
科学哲学は比較的副作用の少ない学問ではあるでしょ?
ヘタに「正義とは」なんて哲学的に考えはじめるからサリンまいちゃったりするんでない?哲学に深入りしすぎると社会不適応起こしやすくなるんだよ。でも科学哲学だけはその逆。


439 :考える名無しさん:01/09/07 02:01
教えて君です。スマソ

科学哲学というと、日本では2つの意味が混在して使われている、と良く言われますが、
『科学哲学』というと、どういう2つの意味があるのですか?
英語でいうPhilosophy of Scienceっていうのは、2つのうちのどっちなんですか?

440 :考える名無しさん:01/09/07 17:24
技術者として有益age

441 :考える名無しさん:01/09/07 18:52
>>439

>『科学哲学』というと、どういう2つの意味があるのですか?
(1)科学的な(自然科学の影響を強く受けたり、その手法に準じたり、形式的・
論理的な表現方法を採用した)哲学
(2)科学とは如何なるものか、如何なる対象を如何に扱うか、及び如何なる対
象を如何に扱うべきであるか、という科学の本質についてのザイン(実存在)及
びゾレン(当為)についての哲学的探求

>英語でいうっていうのは、2つのうちのどっちなんで
>すか?
概ね‘Philosophy of Science’は(2)を指し、(1)については‘Scientific
Philosophy’と大抵呼ばれます。

 なお、日本で科学哲学が(1)をも意味していたのはかなり以前で、少なくとも
ここ20年位は、ほとんどの哲学者は(除く年寄り)科学哲学という語を(2)で
しか使わないと思います。

442 :考える名無しさん:01/09/07 23:45
>>441
レス有り難うございます。

つまり、統一科学運動のようなものが
(1)「Scientific Philosophy」に分類されるんでしょうか?

観測問題などは(1)みたいな気がしますが、そうすると観測問題のような問題は
日本では、科学哲学の範疇ではなくなったということですか?

443 :考える名無しさん:01/09/08 00:01
>442

 統一科学運動とまではいかなくとも、それに近いニュアンスの哲学的
態度scientific philosophyですね。

 観測問題についていえば、波束の収縮に関係する物理量の函数的関係
の数理的記述自体は純粋に物理学の課題ですが、その記述が何を意味して
いるのかという、法則が表す事柄の解釈(法則の意味)はメタ・レヴェル
の問題ですので、科学哲学もしくは存在論の領域の問題という事になり
ます。(従って、現代においても,一部の物理学者は同時に哲学者業も
やっている、という事になります。)

 但し、物理学関係については筆者は疎いので、上記解説はなまかじり
な聞き書きにすぎません。誤りがあったらご容赦を。

444 :モシャリ:01/09/17 02:55
>>430 もしかしたら「論理的に表現できないものは存在しない」または「論理的に表現で
きるもの以外は存在しない」と言うつもりで間違えたのかもしれないが、これもお
かしい。ウィトゲンシュタインならいざしらず、クワインがこんな事を言うとは考
えにくい。
とはいえ、私はクワインについて詳しく知っているわけではないので、もし出典が
明らかなのであれば、ぜひ教えてほしい。

古典的論文「何があるのか」1940年でしょう。存在するとは変更の値であるで有名なテーゼです。
論理的というと語弊があるでしょう。記述の値を満たすということが存在するということであります。

445 :モシャリ:01/09/17 02:58
↑変更は変項の誤りです。

446 :考える名無しさん:01/09/17 15:58
>>444
「論理的に表現できるもの以外は存在しない」
モシャリ氏がいうとおり、引用文は「存在するとは論理変項の値となることである」
と同義だから。
(対偶をとれば「論理変項の値とならないものは、存在しない」そして「論理変項の
値となる」は(個体レヴェルにおいては「論理的に表現できる」と同義であろうから)

 ウィトゲンシュタインとクワインのこの点での相違は、ウィトゲンシュタインが、
日常言語で「ある」「存在する」と言えないものは存在しない、と考える傾向がある
のにたいし、クワインは‘On What There Is’は、如何なる(自然
であれ人工であれ)言語においてであれ、その言語に相対的に存在が言えると考え、
後には寧ろ物理学的言語において存在が言われえるものこそ、真に存在するもので
ある、という考えによってきた点。

後期ウィトゲンシュタイン――自然言語
初期クワイン      ――中立
後期クワイン      ――物理言語より

447 :考える名無しさん:01/09/18 23:45
そもそも「論理的に表現できる」ってどういうこと?
論理というのは、表現と表現の関係について成り立ったり成り立たなかったりするもの
だと思うんだが……。

448 :考える名無しさん:01/09/19 07:22
それは前提の問題であって論理の問題じゃないだろ。
与えられた前提(リンゴはリンゴである)
をうまく組み合わせるのは論理的に表現できるということだろ?

449 :考える名無しさん:01/09/21 23:25
>論理というのは、表現と表現の関係について成り立ったり成り立たなかったりするもの
>だと思うんだが……。
 そのとおりです。

>そもそも「論理的に表現できる」ってどういうこと?
 例えば「林檎は赤い」(∀xRx:で、論理変項xには個体の林檎が入り,函数Rは
「は赤い」)において,林檎は「林檎」と表現され(語),かつ表現「赤い」(語)と
の関係にありますね。従って,この言語においては林檎は存在する,と言われえるわけです。

450 :京都人:01/09/22 16:19
読売の文化面に科学論の連載がのっているが、一般紙では、なかなかのレベルと思う。

451 :考える名無しさん:01/09/29 14:39
なはなは

452 :考える名無しさん:01/09/30 00:01
昨日の夕方、紀伊国屋で分析哲学の本を手にとって読んでた
女の子、このスレ読んでないかなー。
オレはバカだから「批評空間」買いに逝ったんだけど。

453 :わかりません:01/10/01 03:29
ちょっと、前の書き込みに関連して書きます。
経済学のサミュエルソンには学問落差論という考え方をもっており、学問の落差に注目し、先進的学問
の方法を後進的学問に発展的に応用していくというものです。古くはプラトンが幾何学を哲学に応
用したように、デカルトが近代数学を哲学に応用したように、この考え方は、まあ、ごく普通のも
のではあります。そもそも自然科学が世界を捉える捕らえ方とは、世界を数的存在として仮定すること
から出発する以上、数学を自らの学問的エンジンとして利用しているのですから、自然科学には必然的
に学問落差論が内包されているとさえいえますし、計量経済学という学問がでてきたのは、それなりの
必然性があったということです。
この必然性というのは、社会哲学的に飛躍してしまえば、いわゆる形式合理性、もっとも抽象的な思弁
をもってこの規則の内にすべてを規定していくこと、すなわち啓蒙的理性の必然性であったのではない
でしょうか。この精神はポパーにも見られ、ネオダーウィニズムの進化論を根底にもってきて、科学理
論の進化論を展開したことは、啓蒙的な必然性があったとおもいます。
この学問落差論というのを社会科学上展開した・実践した人として私は小室直樹氏を知っていますが、
社会科学のうちでもっとも後進的学問である政治学に先進的学問である経済学や心理学の方法を発展的
に導入するという仕事に一生をかけた人でありました。
考えてみると、この考え方、すなわち学問落差論とは、統一科学運動そのものではないか、とおもわ
れるのですが、哲学の世界ではその有効性を失ってしまったとおもわれるこの考え方が、社会科学の
世界ではひょっとするとまだ依然として生きているのではないか、また、この考え方を放棄したならば、
計量経済学などの社会科学は、自らの存立基盤を失ってしまうのではないかとさえおもうのです。
たしかに、サミュエルソンや小室直樹がそのことを知らないはずもないのですし、同様に社会科学者が
クーンやファイヤアーベントを読んでいないはずもないのですが、もし、全面的に社会科学の内部で
ポスト近代論・近代の再構築論としての科学論が展開された場合、どういうことになるのか、とても
関心があります。西部氏は、道徳や伝統について語る際に、このことを前提としておられるようにお
もいますし、知識人の欺瞞を暴露する際に、啓蒙の本質に立脚して論を展開しているようにおもいます。
科学とは何かという問いは、学問はいかにして可能かという問いに還元されるのではないか、そういう
ことなのかなあと、論理にかなり飛躍を持たせてしまえば、そんなこともいえるのかともおもいます。

454 :考える名無しさん:01/10/07 21:58
科学者は研究内容を著書から論文で記すようになったと見聞しましたが、
その変遷にまつわる話などを著述した本はあるでしょうか?

455 :考える名無しさん:01/10/08 01:42
論理実証主義ってどこが間違っているの?

456 :公示:01/10/09 15:53
分析哲学
現代英米哲学の主流の一つ。この名称は第二次大戦後、英米両国で
かなり漠然としてはいるが頻繁に使用されるようになった。
大きくは日常言語学派(オクスフォード学派ともいう)と人工言語学派に
分けられる。前者はムーアと後期のヴィトゲンシュタインの影響の下に
主としてイギリスで発展し、後者はラッセルと前期のヴィトゲンシュタイン
およびマッハの影響の下に成立した論理実証主義の成長した姿で、主として
アメリカでおこなわれている。代表的哲学者を一人ずつあげれば、
前者はライル、後者はカルナップということになろう。
このように分析哲学は単一の哲学ではなく、さらにまた日常言語学派、
人工言語学派それぞれの内部においても、種々さまざまな哲学があり、
そのうえどちらの学派に属するともいえない哲学もある。
しかし、このような多様性は哲学一般の特性であり、その点では
分析哲学も例外ではない。したがって以下に述べることは、ごく基本的な
特徴にすぎない。従来の総合的、体系的哲学に対し、分析哲学は
「哲学の仕事は、諸科学や日常的知識のさらには哲学の、概念、命題、
構造、受容の根拠、使用法、身分などの分析をし、解明をする事である」
という哲学観にもとづく知的活動である。したがってその成果は、
ある命題を主張し、あるいはある体系を構築するというよりは、問題の所在が
明確になり、それによってある意味では問題そのものが消えうせるという
たぐいのものである。それは、ある新しい思想をうち立てるというよりは、
問題のほんとうの姿を自覚することによって、問題そのものが問題でなくなる
というたぐいのものである。

457 :公示:01/10/09 15:53
そして、そのことを日常言語学派は日常言語の意味の分析を通じておこない、
人工言語学派は人工言語を新たに構成し、問題を人工言語によって解明する
事によっておこなうのである。この場合、この二つの学派の行き方は
互いに排除しあうものではなく、問題によって使い分け、そして多くの場合
助け合う性質のものである。
分析哲学においては、「物はほんとにある」とか「物はほんとにはないのだ」
とかいう議論はしない。「物はほんとにある」ということで実は何を意味している
のか、ということを分析するのである(意味の分析)。
そしてこの分析が成功すれば、物の実在についての議論は消滅し、
あとに残るのはこれこれの意味でならば「物はある」ということができ、
またこれこれの意味でならば「物はない」ということができる、ということである。
そこで問題は、どちらのいい方をとるか、ということである。
そしてどちらのいい方を取るかは自由である(寛容の原理)。

458 :公示:01/10/09 15:53
しかし一般には、できるだけ余計な存在を仮定しなくてすむようないい分をとる
(オッカムの剃刀)。また、さいころをふって「1の目がでる確率は1/6である」
というとき、一般には多数回ふると1の目のでる割合は1/6に近づくと
いう意味に取る(統計的確率)。しかしある一回限りの場面においても
やはり「1の目の出る確率は1/6である」という。それはいかなる意味か。
そこでその意味を明確に人工言語で定式化すると、「論理的確率」という概念が生まれる。
すなわち、一般に用いられている確率という概念には二つのちがった種類のものが
あり、一つは統計的確率であり、他は論理的確率(機能的確率とも確証度ともいう)
である。そしてそれぞれの定義を人工言語において与えるのである(人工言語による解明)。
しばしば、分析哲学は方法であって哲学ではない、といわれる。
たしかに分析哲学は独自の方法を有している。しかし分析哲学は単に方法ではなく、
何よりも既に述べたごとき哲学観を背負っている。その意味では立派に一個の哲学である。
そのうえ分析哲学には、通常は「オッカムの剃刀」という原理がついている。
そしてこの原理は、いわば選択の原理であり、分析や解明の原理ではない。
したがって「オッカムの剃刀」を用いた分析哲学は実は決して分析や解明に尽きるものではない。
それは分析や解明の領域を出た一つの哲学である。
しからば分析哲学で「哲学」は尽きるか。この点には大いに問題がある。分析哲学が
目指す事が、哲学の一大分野である事には疑う余地がない。
そして今日、科学哲学といわれる分野はほぼその内に含まれてしまう。
しかしそのほかにも哲学のなすべき問題はあるであろう。価値や意識にかかわる問題が
それであろう。これらの問題は、分析哲学の方法ではつくせない面を有している。

459 :考える名無しさん:01/10/10 21:57
有益スレあげ

460 :考える名無しさん:01/10/10 23:56
.

461 :OFW:01/10/14 03:53
どもお久しぶりです。公私共に忙しく、ROMもままならなかったので、
超亀レスですが・・・。
>>435(AでもBでもいいさん)
>まず「媒介的指示」というもののメカニズムを教えてもらいたい。
 「媒介とは『他になること』である」(ヘーゲル)とは「媒介」という言葉
 の単純な定義であり、媒介性の反対語は「直接性」ですが、「指示」と言う
 とまずは「直接的に指し示すこと」を言いますね。
 「他人に向って、目の前にある(実在する)ものを指差しながら『○○』と
 言う。」という単純な行為が言語的コミュニケーションの原形でしょう。
 目の前にあるものは変化しますから、媒介的(否定的・間接的)にしか指示
 できなくなる。そこで記号(不在の実在の代わり)が登場するわけです。
>まず、文の意味は、思想だと考える。
 主語ー述語のセットである文は何らかの<事態(事柄)>を表現します。
 (主語は対象への指示を、述語は対象の規定をそれぞれ表現する。)
 事態とは実在ではないが、より客観的な対象性をもつ存在であり、それ
 への指示(言及)は日常的に行われているものです。
>思想は内包量であり
 思想は<量>ですらないでしょうね。
>固有名の意味はその指示対象だと言ってよい。
 まず名一般の機能は同定(識別)にあり、何らかの対象的存在は名を持つ
 ことでそれとして措定される。
 固有名は一般に個体的実在者の識別ラベルと考えられるから、それは
 指示対象のみを持ち、意味(内容)を持たないと言えます。しかし、何が個
 体かは存在領域に応じて異なり、固有名vs一般名の区別も相対的でしょう。

462 :OFW:01/10/14 03:56
>>435(AでもBでもいいさん)(つづき)
>また指標詞(「今」「私」「ここ」など)も固有名と同様に端的に対象を指
>示する
 指示代名詞は身体的直示に結びついた実在対象の相対的場所指定、
 人称代名詞はコミュニケーション主体間の相対的座の指定と言えるかな。
 例えば、「これ」と言う代わりに端的に矢印↓で示す事も可能です。
 指示の方法としては、身体的直示、名指し、そして脈絡依存的な象徴的
 指示がありますね。
>「赤」は赤概念を指示すると考えることができる
 正確には、対象ー概念ー象徴(記号)という3項関係において
 表現主体が対象<赤>(これは一つの本質存在)への指示を記号「赤」によ
 り象徴する(記号「赤」を<赤なるもの>の表現とする)、と言うべきでし
 ょう。たとえば、子供が「このリンゴは赤い」という言明だけを聞いて赤の
 概念(色の一種としての赤)を形成し得えない(意味が分からない)のは、
 <赤なるもの>という本質存在が対象として措定されていないから。
>私は素直に概念の実在を認めたい。
 概念自体は実在しません。概念(観念的存在)の対象は本質存在するのです。
>動詞「歩く」はいかなる対象をも指示しない
 動詞は何らかの<動作>を表現した記号ですが、たとえば「犬が歩く」とい
 う平叙文表現において、指示対象となっているのは個体的存在者<歩く犬>
 であり、述語「歩く」は<犬>の性状、様態、属性としての運動性を非対象
 的(独立の存在を持たないもの)に表現している。述語は記述的文の中で対
 象への指示の仕方(実在、関係、様相等)を規定するわけです。

463 :考える名無しさん:01/10/20 00:15
age

464 :不一:01/11/05 00:52
あげ

465 :考える名無しさん:01/11/25 05:14
からあげ

466 :考える名無しさん:01/11/28 23:36
バカアゲ

467 :考える名無しさん:01/12/09 22:16
age

468 :考える名無しさん:01/12/12 15:06
このばか、科学哲学なんてわかってないよ(呆)
http://www.katch.ne.jp/~funahasi/katetu/
yahooから見つけてがっかり

469 :考える名無しさん:01/12/12 15:54
a

470 :考える名無しさん:01/12/12 16:34
>>468
どこがわかってないの?「科学論」の話をしないから?
それとも量子力学の哲学の解説で間違いがあるの?

471 :470:01/12/14 17:00
>>468
なんだ、言いっぱなし?
そこで勉強させてもらったクチなのでマジでレス希望age

472 :考える名無しさん:01/12/18 12:15
小難しい専門用語並べて、インテリぶってるだけ。
科学も哲学も理解がなってない。
出来そこないって感じだね。

473 :考える名無しさん:01/12/18 12:50
>インテリぶってる
プ

474 :考える名無しさん:01/12/19 19:48
>>472
ふーん

475 :考える名無しさん:01/12/21 23:39
age

476 :考える名無しさん:01/12/22 00:33
驚いたね
2ちゃんねらーが分析哲学を語り合っているなんてさ
俺の卒論はヘンペルだったけど、ほとんど忘れちゃったな
ラッセルも読まされたが、彼の英文は本当に難しいと思った
ニーチェやカントの英訳の方がまだ分かり易いと思ったぐらい
まあ、みんながんばってよ

477 :Iridium:01/12/22 00:48
忘れ去るものと忘れ去られないものの違いは何だろうか。

478 :わからない・・・:01/12/25 21:32
「実践的知識に対して理論的知識、あるいは感性に基づく意見に対し、真なる知識を
さして読んだ哲学上の英文字8文字からなる用語は?」

これって哲学上どのジャンルでしょうか?
というよりこの用語はズバリなんでしょう?

479 :考える名無しさん:01/12/28 13:03
勁草書房からでてるクワイン『ことばと対象』ってどうすか?
読むに値する翻訳すか?
聞く所によれば、教授が院生に訳させて自分で通読して終わりって翻訳
らしいすけど。
飯田先生訳の『論理的観点から』の方がいいすかね?
「経験主義〜」も載ってるし。

480 :猫電波:01/12/28 17:36
>>478
エピステーメーだと思う。

481 :478:01/12/29 01:59
>480
ありがとうございますっっ!!
ずっと検索してたんですが、探し方が悪いらしく全然わからなくて…。
本当に助かりました!

482 :はと麦茶  :01/12/30 03:48
< ̄ ̄ ̄ ̄ ̄フ   │ヽ  / ̄/     │ ̄─_         │ ̄─_   
  ̄ ̄ ̄フ ノ   .││__/  /_      ̄─_│          ̄─_│        _____
    / /   /        \   ______      .│\          /__    \
   <  <    /   ∇ / ̄ \  ヽ ヽ___   フ     . │ │        / /  / / ̄ヽ  \
   .ヽ  \  │凵@  \    |  │      フ /       │ └─丶    │ │ / /   ヽ  ヽ
    .\_ノ  ヽ_人__> 丿_/     /∧ ヽ       レ──ヽ ヽ   │ .ヽ_/ /    │ │
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                          /_/   \ \          丿丿    \ノ     / /
                                   ̄         ∠/              ̄
        /\                        へ
        / /              |\      _| |_
        / /               ││    <     >
       //______        ││      ̄| | ̄
      |  _  _ _  ヽ      │ │       | |
      | ││││││ │      │ │       | |
      | ││││││ │      │ │    __| |__
      | ││││││ │      │ │   / __     \
  ── ┘  ̄   ̄  ̄  └─へ   │ レゝ │|_/ / ̄\ \
  \______________\ │_/  ヽ___/     ̄

                 |  │      \               \
                 | ー十 ̄  |    ー┼-         | 
                 |  |    |     | _ |   |  |          
                 | _|      ̄ヽ  |    |   |   ̄ヽ
                 | \/\  __ノ  | ー  V     __ノ
                 |

483 :考える名無しさん:02/01/15 21:24
age

484 :考える名無しさん:02/01/18 03:28
あなたとピカソとピタゴラス
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1011291342/l50

485 :考える名無しさん:02/01/21 19:13
>>479
宮館さんでしょ、院生って。当時の彼はそこいらが専門だったから、それなりに読める。
クワインを判るには、『論理的観点から』『ことばと対象』と‘Ontological Relativity‘
を読んでおけばなんとかなるのでは?

486 :考える名無しさん:02/02/06 04:55
AGE

487 :考える名無しさん:02/02/06 14:18
邪魔すんなよ、良スレじゃん、な。

488 :考える名無しさん:02/02/12 19:05
最近出た高橋昌一郎の『科学哲学のすすめ』丸善、これでなんとかなる。

489 :純丘:02/02/12 19:10
>>479
>『論理的観点から』の方がいいすかね?

当然、こっちが先だろう。

『ことばと対象』は、むしろみなに評価を聞きたい。





490 :考える名無しさん:02/03/01 16:20
言語哲学と分析哲学ってどう違うんですか?

491 :いちご姫:02/03/01 17:03
>>490
言語哲学は対象による分類,分析哲学は手法もしくは系統による分類です.

どんな手法によるのであれ,どこの哲学者による研究であれ,言語について
の哲学的考察であれば,言語哲学です※.

対して,分析哲学は,フレーゲとラッセルをきっかけに成立した,アングロ=
サクソンを主流にした哲学の一潮流です.その特徴として,

492 :491より続く:02/03/01 17:10
哲学の課題の中心に科学・日常知・哲学などの諸命題の解明を置く,言語か
ら独立な存在者を認めない,等々が初期にはありました(但し傾向に過ぎま
せんので,今ではそれから外れるにも拘らず分析哲学と称される研究も多々
あります.).

※philsophy of languageでなく,linguistic philosophyの訳語とし
ての言語哲学だと,分析哲学の異名という場合が多いかもしれません.

493 :490:02/03/02 14:40
>>492
両者の定義については大体わかりました。
しかし、両者の関係はどうなっているのでしょう?
分析哲学は言語哲学を含むのでしょうか?
あるいは、言語哲学の手法は分析哲学の手法と同じではないですか?


494 :考える名無しさん:02/03/02 15:29
>>493
何で書いてあること聞き直す?

495 :いちご姫じゃないけど:02/03/02 16:03
>>493

いちご姫の話とかなりだぶりますが、、

重なる部分もあれば重ならない部分もあるというのが答です。

言語哲学というと、別に分析哲学の中での言語の考察に限らず、哲学の
中での全ての言語の考察が含まれるでしょう。ウィト氏の「哲学探究」で
もアウグスチヌスの言語観(言語哲学?)を批判することからはじまって
いますし、ロラン・バルトやクリステヴァのテクスト論なども含んでも
いいでしょう。

対して分析哲学は、哲学では言語が使われなければいけないが、その道具その
ものが疑われるべきではないかという関心から「言語分析」に重点が置かれてま
したが、別に言語だけを考察しているわけではないし、現在は「心の哲学」
(phylosppy of mind)など、その考察の裾野は広がっています(というか
現代英米哲学=分析哲学で括れちゃうんじゃないかと思います)

もしかして、飯田隆「言語哲学大全」1-3巻をお読みになった最初のファーストイン
プレッションからそんな疑問が生まれたのかもしれませんね。あれは、分析哲学の
中の言語の考察をクローズアップした本です(それにしては長いけど)


496 :考えぬ名無しさん:02/03/02 20:46
>分析哲学の中の言語の考察をクローズアップした本です

しかも第一巻まるまる「分析哲学以前」だし。

497 :考える名無しさん:02/03/02 21:52
>>495

 稲と見た。

498 :ねこ:02/03/02 21:53
初めまして 「マルクス可能性」スレッドでOFWさんに
絡んでいる ねこ と申します

いやー OFWさんも人が悪い こちらのスレで私がやろうと
していることは ほとんどやってしまってるではないですか
ちっとも、知らなかった(^^;

それはともかく、まだ「納得」してないので、先のマルクスすれで
もう少しOFWさんに絡むつもりです(今考え中>長すぎってか)
マルキシズムの「真理性」について絡みたい人は 先のスレで
OFWさんに絡みましょう(^^

宣伝?と、こちらにも顔を出すことがあるかもしれませんので
一言ご挨拶でした

499 :考える名無しさん:02/03/03 05:39
>>497
稲さんが↓こんなこと言うかね?
>ロラン・バルトやクリステヴァのテクスト論

500 :500:02/03/08 11:14
500get
と一度書いてみたかったので書いてみるテスト。
age兼用。

501 ::02/03/08 14:10
>>497,499
うん,僕じゃない^^

502 :495:02/03/08 19:37
>>497
>>499
ええ、本人も顔を出していますが、僕は稲氏ではないです。
というかそもそも彼よりも物言いがいくらか丁寧だと思うのですけど(苦笑)

2ちゃんねるではたまに書き込みしますが、コテハンを使った事は今までに
ないです。なんか哲学板は他の板に比べていささかコテハンアレルギーが強い
みたいなので。

>>496

なるほど、フレーゲ、ラッセルの影響を受けて始まったのが分析哲学なので、
その始祖たるフレーゲ・ラッセル自身は、分析哲学じゃない、とおっしゃりたいのですね?

しかし、フレーゲ・ラッセルを語らなければ、分析哲学は語れないので、そこらへんの
細かいツッコミは御愛嬌ということでお許し下さい。

余談ですが、あの本は前書きなどでも察せられるように、初めは分析哲学の入門書を
書こうとしたら、やっぱり長くなり、分析哲学のキーワードたる「言語」に的を絞って
書いたものの、やっぱり長くなってしまった。という過程でできた書物なのではないで
しょうか?飽くまでも推測ですが。


503 :考える名無しさん:02/03/09 07:09
>>502
> なるほど、フレーゲ、ラッセルの影響を受けて始まったのが分析哲学なので、
> その始祖たるフレーゲ・ラッセル自身は、分析哲学じゃない、とおっしゃりたいのですね?

始祖だから含まれない、というより、
「分析哲学はフレーゲとラッセルの影響を受けた哲学者たちが始めたが、
その哲学者たちのある重要な特徴を、フレーゲ・ラッセルは持っていない
ので、含まれない」
というように書いたほうがより正確かもしれませんね。

私個人は、現在の分析哲学も随分と多様なので、フレーゲとラッセルを
含めてしまっていいと思っているんですが。もっと遡ってもいいかもとか。

504 :考える名無しさん:02/03/09 10:35
フレーゲとフッサ−ルの決別について書いてある本は

505 ::02/03/09 17:58
>504
決別も何も初めから共通点なんかないんだから,決別という表現は適切ではないと思うけど.

506 :495:02/03/09 19:51
>>504

いや、フレーゲとフッサールは密接なつながりがあったとは聞いた事
あります。ただ、不勉強なので、具体的にどのようなつながりがあった
のかは説明できないのですけど。

とりあえず手元にある奴で、一番お手軽な本から援用すると、
富田恭彦「哲学の最前線〜ハーバードより愛をこめて」(講談社現代新書)
のp152あたりにちょろっとそこらへんが書かれてある。

普通、指示論というと、分析哲学の枠組みの中でしか普通の専門家はその
流れをまとめてしまいがちだが、フッサール「論理学研究」第2巻の指示論
も無視できない重要性を持っている、だそうな。


507 ::02/03/09 21:06
>>506
たしかにフレーゲはフッサールの本の書評も書いてるけど,
専門家の間ではフレーゲはフッサールのことなんか相手にしてなかった
というのが一般的な理解だと思うけどね.
まあフレーゲとフッサールが密接に関係してるなんて考えるのはフレーゲを知らない証拠だな.

508 :考える名無しさん:02/03/09 21:17
>>506
冨田先生はローティー派だからねえ。
そのへん割り引いて読んだほうがいいかもですよ。
面白いとは思うんだけどさ。

509 :考える名無しさん:02/03/09 21:50
あいかわらず、稲は高圧的な物言いをするね。稲の物言いこそ
フッサールを知らない証拠だと言いたいな。
フッサールとフレーゲは往復書簡が残っているほど思想的にに交流があった。
そもそも、フッサールに初期の心理主義との決別を促したのも、フレーゲだ。
また、意味と指示対象の区別も、フッサール当ての書簡で初めて述べられたと言われていた。
(前世紀後半に、ある書評に先に発表されていたことが分かった)
しかし、フッサールもこの区別に独立的に到達していたので、両者はある時期案外近いとこに
いたと言われている。
稲の言うようにフッサールからのフレーゲへの影響関係は少ない。しかし、例えば、幾何学の
形式化を巡る、ヒルベルト−フレーゲの論争には、フレーゲの誤解点を指摘したりしている。
また、506が言っているように、指示の問題はフッサール一貫したのテーマの一つ。
最近ドイツで出た哲学書では、フッサールは直接指示説の先駆者として扱ったりと、この分野に
非常におもしろい業績を持っていることが知られてきた。
というかよー、稲の言う専門家って誰よ。俺の知る限り最大のフレーゲ学者(もっとも同時に独自
の思想家でもあるが)は、ダメットだが、彼だって、両者の親近性を認めて「分析哲学の起原」
って本かいてるじゃん。
稲はなんちゅうか、大陸系と英米系を分ける(あるいは分けたい)、案外古い傾向の持ち主なのかな。



510 ::02/03/09 22:11
まあダメットは何でも書くからな.ダメットの『分析哲学の起源』って読んでないけど,『フレーゲ:数学の哲学』でも確かに
フッサールの章があるしね.だけどそこでの扱いって,現象学とフレーゲの哲学の関連を論じるなんてものではないでしょ.
それにフッサールが意義と意味の区別(フッサールの用語法だと意味と対象かな)に独自に到達してたなんてフッサール贔屓がかって
に主張してるだけでしょ.モハンティとかね.だけどそもそも独立にそのアイデアに到達してたどうかなんてことはどうでもいいことなんだけどな.
仮にそうだったとしてもそれが一体どういう哲学的問題と関係があるかわからない.
まずなにより,フッサールとフレーゲの関連を論じて何が出てくるのかわからないんだけど.

なんか


511 :考える名無しさん:02/03/09 22:25
>>510
実はちょっと動揺してるな(W

512 :考える名無しさん:02/03/09 22:31
稲には分析の純丘を目指してもらいたい。

513 :考える名無しさん:02/03/09 22:45
たしかに稲氏の分析マンセーぶりはどうかと思う
だけど分析の奴はそういう傾向があるよね

514 :考える名無しさん:02/03/09 22:51
>>513
ここは分析スレだし、まあいいんじゃないの?
つうか、どの分野の人間も多かれ少なかれ自分の分野マンセーだと思うけど。

515 :エラー:02/03/09 23:06
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516 ::02/03/09 23:20
>>511
別に動揺はしてないよ.

517 :エラー:02/03/09 23:20
システム エラーが発生しました。

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518 :eroo:02/03/09 23:20
世の中すごいねえ。
↓デブ&バカが嫌いな自称東大卒エロ好きアマ。
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/xc4/tamaki-s/

虐めて下さい♪

519 :エラー:02/03/09 23:22
システム エラーが発生しました。
                                                         
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520 :509:02/03/09 23:32
実は、分析系と大陸系の区別って、最新のバージョンの分析哲学では
曖昧になってるんだな。
ローティが、マンセーぶりをいつも言っているセラーズって、知っているだろうか?
クワインとほぼ同時期に活躍したアメリカの体系的哲学者なんだけど、伝統的哲学
に深い知識をもっていたことで知られている。
最近目茶話題になってる哲学者で、ロバート・ブランダムって人がいるんだけど、
彼なんかセラーズとヘーゲルを総合して、ローティいうところの「分析哲学をカント
の段階からヘーゲルの段階に引き上げた」という偉業をなした。
ちなみに、経験論からカントの段階に進めたのが、上のセラーズ。この人はあんま名前
聞かないけど、現代の分析系への影響力は計り知れないぐらいでかい。
同じようにセラーズの影響を受けた、マクダウェルって哲学者も、自らの主著の目的を
「今でもカントが哲学の中心に座していることを示すこと」だって言ってる。
なんというか、いま分析哲学の中から伝統的大陸哲学の再評価というムーブメント
が起こっているんだよなあ。
この流れに日本でもいち早く乗ったのが、東大の門脇先生。「理由の空間の現象学」
何か読むと、分析−大陸の区別が、ほんとに無意味なもんだったって分かるよ。
上の方にヘーゲルに関する話があるけど、興味を持たれた人はブランダムを読むことを
おすすめするよ。
ヘーゲルの概念についての考えが、現代の意味の理論の中でどのように再生したかを
知ることができる。



521 :考える名無しさん:02/03/10 00:07
やっぱり渡辺二郎は偉かったってことか(誤)

522 :考える名無しさん:02/03/10 00:15
>>520
マクダウェルとブランダムの評価はまだ定まってないと思うよ。
彼らが分析哲学の中の1つの「ムーブメント」といえるくらい大きな
勢力かどうかも疑問(この2人、同じ大学だし。セラーズもかな)。
勢力を
でも、分析哲学がカントらの伝統的大陸哲学を軽んじているわけ
ではないのはその通りだと思う。でも、それは別に、最近に限った
ことじゃないと思うけど。ローティー派以外の分析哲学者が嫌って
いる大陸哲学があるとすれば、それは伝統的な大陸哲学ではなく
その後の大陸哲学だと思う。

523 :522:02/03/10 00:18
ごめん、途中で送っちゃった。

> 勢力かどうかも疑問(この2人、同じ大学だし。セラーズもかな)。
> 勢力を
勢力を伸ばしつつあるのは確かみたいだけど。

と書こうとしました。あと、ヘーゲルを評価するかどうかは確かに
分析哲学者の間でも分かれるだろうね。

524 :考える名無しさん:02/03/14 22:45
ラカトシュとかこのスレ的にはどうよ

525 :考える名無しさん:02/03/14 23:00
>>524
「言葉の意味を理解している、とはどういうことか」とか、
「単なる物理的なレベルでの身体状態の変化と、
意志的に行為しているといえる場合との違いとは何か」とか
「正しく知識と呼べる信念と、単なる思い込みとの違いは何か」など
が代表的な問題だろう。
クーンが最初に意図してた、パラダイムの概念は、「一定の期間
研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を提供する一般的に認め
られた科学的業績」という意味だった。つまり、近代の科学はユー
クリッド幾何学や、ニュートン力学といった枠組を使って、成果を
あげてきたわけだけど、パラダイムというのは、この枠組のこと。

「これをやるのが分析哲学」といえるような、
すべての分析哲学者に共通する問題や性格があるわけではない。

お勧めできる入門書としては、大庭健「はじめての分析哲学」(産業図書)
とか、野矢茂樹の本とか。科学哲学なら、小林道夫「科学哲学」(産業図書)
が読みやすい。内井惣七の「科学哲学入門」は結構難しい。
大庭の本にはブックガイドもついているので、それも見てみるとよいでしょう。

526 :考える名無しさん:02/03/15 13:57
池田清彦の本はどうなの?

527 :考える名無しさん:02/03/15 14:31
>>525
で、ラカトシュは?

>>526
(゜Д゜)ハァ?
ってとこ。

528 :考える名無しさん:02/03/15 16:44
藤本隆志の分析哲学の現在は? 



529 :考える名無しさん:02/03/15 20:20
現状ではこのスレが有効に機能しているとはとても思えません。
よって以下の事を提案したいんですがどうでしょう?
A.論点を細かく絞り1つずつ処理して行く
B.以前出た、過去スレを読んでくれ、理解力が無い等の反論は基本的に禁止する。
C.哲学板の皆さんの邪魔にならないようにsage進行

Aを主張するのは議論が紛糾するのを防ぐためです。”死刑”という
複雑で大きい問題を一度に扱うと、混乱を招きます。

また、そもそも以前の書きこみでは納得できていないからこそ反論しているわけで
それを「以前出た」ことのみで反論するのは、非効率です。
”以前出た、過去スレを読んでくれ、理解力が無い等の反論”は
相手の能力が足りない事を主張するものであって
この反論をされて納得する人はおそらく皆無でしょう。よってBを主張しました。

どんな場所であれ議論に参加しようと考えているのであればその意図は
1.人をからかうため
2.議論する事そのものを目的としているため
3.参加者に自分の主張を理解してもらい、なおかつ自分の主張を支持してもらうため
4.その他
のいずれかに属しています。とりあえず3以外を意図している人には
このスレから出て行ってもらう事にしませんか?
そのことさえ認めれば、このスレには
他人に理解してもらう事を目的にしている人のみが残ります。
他人に理解してもらう事が目的なのだから上記ABに賛同頂けると思います。
如何でしょうか?

530 :考える名無しさん:02/03/15 21:26
> 現状ではこのスレが有効に機能しているとはとても思えません。
そう思っているのはあんただけ.

531 :考える名無しさん:02/03/15 21:54
>>530
死刑スレノ誤爆と見た

532 :532:02/03/15 22:34
5−3=2

533 :考える名無しさん:02/04/06 11:01
保守してみる。

534 :考える名無しさん:02/04/06 12:21
論理実証主義はどこがダメだったんでしょうか?

535 :考える名無しさん:02/04/06 12:26
どこかで素朴経験主義の破綻を繰り返しただけ
という批判があった
なるほどな−と唸ってしまった


536 :考える名無しさん:02/04/06 15:51
>>535
それ誰の意見?

つーか、論理実証主義が破綻してすっかり過去のもの、
なんて見方もずいぶん素朴だと思うがなあ

537 :考える名無しさん:02/04/06 17:32
俺の行ってる大学では
経済学の必然性を
分析哲学を使って考察すると言う講義が開かれる
シラバスには
講義が始まる前に矢野の論理学を必読書とし
飯田の本も出来れば3冊読むべし
とかいてあった
経済学徒でこんな講義とる人なんているんだろうか?
しかも使うのは英語の論文です

538 :考える名無しさん:02/04/06 17:42
>>537
矢野やのうて野矢
教官の名前教えれ

539 :考える名無しさん:02/04/06 17:55
>>537
興味あるんですか?
ちなみに俺は
まだ二年なので
その講義取れません
それは3年からだそうです
1昨年はアンチオディプスを読んだそうです



540 :訂正:02/04/06 17:56
537→538

541 :考える名無しさん:02/04/06 18:02
>>537
> 経済学の必然性を
> 分析哲学を使って考察すると言う講義が開かれる
>>539
> 1昨年はアンチオディプスを読んだそうです

それってなんか節操なさげ

542 :考える名無しさん:02/04/24 04:05
上げ


543 :考える名無しさん:02/04/24 20:08
>論理実証主義はどこがダメだったんでしょうか?
え、ダメなの?(´д`;)
今ライヘンバッハの「科学哲学の形成」読んでるんだけど…

544 :考える名無しさん:02/04/24 23:55
内井惣七の『科学哲学入門』はどうですか?

545 :考える名無しさん:02/04/25 00:02
>>544
黒木先生お薦めの本ですよね。

546 :考える名無しさん:02/05/09 14:21
http://science.2ch.net/test/read.cgi/life/994222337/l50
脳について朝まで語ろう。

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